−会議室 7 ★アリオン世紀末書き込み寺----------<01> 発言数 :615 未読 :5− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード >611/615 GBG02043 維/YUI RE:ありがとうARION ( 7) 92/12/05 02:21 607へのコメント なえさ〜ん!!! がんばろうねっ!!!                       *^^* 維/YUI。 613/615 GBE02650 ユ−リ ARIONさん、はじめまして ( 7) 92/12/05 23:17 コメント数:1  ARIONさん、はじめまして。私はユ−リと申します。  ハンドルの由来は、ロシア人が私につけたニックネ−ムによるものです。  正確には、既にお会いしているのかもしれません。夏にRTにおいて 北川さんを通 じて送られたメッセ−ジは、私にも夢と希望がまだ残されている、という意味に解釈し ております。それも含め、本当にありがとうございました。  正直に申しますと、今でもあなたが何者であるかについて、私は疑問を持っています。でも、それについては問いません。  少なくとも、私はあなたの媒介者が手の込んだ詐欺を働き、人を惑わせて喜ぶような 人ではない事をよく解っているつもりだからです。今の私には、それで十分です。  話したい事は山ほどありますが、今日は御挨拶にとどめます。私は、自分にとって北 川さんが良き友人である事と同じように、あなたとも良き友人同士となりたいと願って います。  思いもかけず、堅い文章になりました。それでは、これからもよろしくお願いします。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 614/615 GBA01276 しまうま ユーリさんめっけ(^^;) ( 7) 92/12/06 02:16 613へのコメント  こんにちはっ!  話したいこと、山ほど書いてくださいませね。みれさん・ARIONさんをはじ め、ここには素敵な方がたくさんいらっしゃいますよ(^_^)。           たくさんの良き友人と出会われるといいですね! しまうま > −会議室 9 ★猫が好き♪の宗教円卓会議----------<01> 発言数 :47 未読 :14− 044/047 NBA02045 岡 グノーシス的キリスト教と初期キリスト教会 ( 9) 92/12/06 00:52 033へのコメント コメント数:1   岡 です。   グノーシス的キリスト教に関して、言及させていただきます。      「グノーシス」(gnosis)という言葉は、ギリシア語の用例に  基づいた場合、「洞察」という訳に極めて近い内容を備えている  と言われております。   つまりグノーシスという言葉は、自己を認識する直観的過程を  指して使われるものであり、観察や経験を通して何事かを「把握」  する意識的現象の呼称だと捉えられているわけです。   そして、この自己を認識する直観的過程を通じて、自己を最も  深いレベルで認識した時、同時に内なる神を認識することになる  と、グノーシス主義者は考えていると言われております。   さて、いわゆるユダヤ教やキリスト教では、神と人間の関係を、  創造主と被創造物の関係として捉えており、両者の間には、いか  なる人的努力によっても越えることのできない深淵が横たわって  いると考えられております。   不完全な者には、完全な者を<知ること>ができない、という  わけです。   しかしながら、グノーシス主義者は、「自己と神は同一であり、  自己認識は神認識にいたるものだ」という主張を行っているため、  人的努力によって深淵を越えることが可能であるとしております。   次に、イエス存在について、ユダヤ教とキリスト教は、別々の  解釈を取っておりますが、これは、ユダヤ教では、イエス存在を  黙殺しており、キリスト教では、イエス存在によって、神と人間  の間に架け橋が渡されたという受け止め方をしている、というよ  うに大きな違いがあります。   で、さらにキリスト教におけるイエス存在を考えてみますと、  救済の約束、死の克服をあらわした肉体の甦り、新たなる神と人  間との関係の構築、という3点を保証する存在として位置づけら  れており、加えて、天主を構成する三位一体の一位である超自然  的存在とされております。   ところが、グノーシス的キリスト教では、上記のようなイエス  存在の解釈はされていなかったようです。     グノーシス的キリスト教におけるイエス存在は・・・   キリストは、原罪から救済するために来臨したのではなくて、  人間に霊的和解への接近を教えるために訪れた導師として受け取  られております。   また、イエスの復活は、肉体の甦りではなくて、むしろ霊とし  ての出現だと受け取られております。   さらに、イエスは超自然的存在ではなくて、いわゆる霊的覚醒  への道を指し示してくれる導師的存在であり、ひとたび弟子が覚  醒した場合には、イエスと弟子は同等な存在になると考えていた  ようです。   で、このように、いわゆるキリスト教とグノーシス的キリスト  教とでは、イエス存在の受け取り方に著しい違いがあるわけです  が、違いはこれだけにとどまりませんでした。   たとえば、キリスト教会の崇める「神」と、グノーシス主義者  の求める「神」は、かなり性質的に異なった者でした。   キリスト教会は、「神」=「創造主」として受け止め、ユダヤ  の神(妬む神・律法を定めた神・裁く神)とイエスの神(愛の神  許す神)を同一視しておりました。   しかしながら、グノーシス主義者は、この世の悪の存在と世界  との関係を考察していく過程で、「神」と「造物主」とは別々の  存在であると言う認識に達していたのです。   「神」はいる。しかし、ユダヤの神は、「造物主」であり、妬  む者であり、律法を定めた者であり、また裁く者ではあるが、そ  れよりも上位の「神」がいるのであり、「造物主」=ユダヤの神  は、上位の諸権力に仕える一段下の神的存在であると考えていた  のです。   しかも、この「造物主」=ユダヤの神 は、自らの無知によっ  て、「我は神なり、ほかに神なし」という誤った主張を唱えてお  り、この主張が誤っていると言うことを根拠として、いわば「狂っ  た造物主によって世界は作られたたために、この世には悪が存在  することになった」という結論を引きだしたのです。   上記のような「造物主」観に立っているために、グノーシス的  キリスト教の信者は、キリスト教会の「神」を至上の存在として  認めるような事はせず、逆に、「グノーシス」を獲得することに  よってキリスト教会の「神」(デーミウルゴス)の力から解放さ  れ、キリスト教会の「神」(デーミウルゴス)の支配する権威と  裁きの領域から脱して、より上位の存在の君臨する領域に属する  ことが可能になると考えていたのです。(イエスの唱えた「愛の  神」「許す神」は、デーミウルゴスの上位的神として捉えられて  いたと推定されます)   こうしたグノーシス的キリスト教の宗教観は、当然ながら、キ  リスト教会の権威を崩壊に導くものでした。   神の彼岸にいる神←(グノーシス)→信徒 という宗教観は、   神→イエス→ペテロ→ペテロの後継者→司教→司祭→信徒 と  いうようなキリスト教会の段階的な権威の委譲システムを根底か  ら覆してしまうものだったのです。   グノーシス的キリスト教の発想に従えば、神と個人とは直接的  に結びつくことができるわけですし、また、ひとたび「グノーシ  ス」を獲得し得た場合には、(司祭と信徒の違いのような)権威  的区別は成立しなくなるのですから、これは、キリスト教会の方  針である、神聖なる位階制度による権威構造の構築努力に対立し  た思想であることになります。   「誰もが(グノーシスを得さえすれば)神と交わることができ  る」というグノーシス的キリスト教の思想は、「教会の介在無く  して神との交わりはありえない」とするキリスト教会の思想とは  相入れないものだったのです。   ・・・このような権威的区別を拒否するグノーシス的キリスト  教の信徒集団は、厳格な平等の原則に従って、集会を催していた  と言われております。   すべての入会者は、男女を問わず、平等にクジ引きをして、集  会の都度、司教、司祭、助祭、の役を割り振っていたと伝えられ  ております。   ・・・また、キリスト教会は、その権威の礎として、キャノン  (正典)の制定作業を行い、新約聖書の固定化を計りましたが、  これに対して、グノーシス的キリスト教は、幻視や霊との交感に  よる知恵の獲得を重視しておりましたので、「聖霊が霊感を与え  た者は、男女を問わず誰でも話すように神に定められている」と  いう方針を選び、聖書を補完する幾つもの文書(いわゆるグノー  シス文書)が新たに記述されていったとされております。   キリスト教会の見解によりますと、使徒的文書の「柱と基盤」  の上に建つ、教会組織体によって、「非常に完全なる教理体系」  が維持されるのであり、その維持によって「同一の教会組織体 (教会の位階制度)が保持される」ことの証となり、同時に神の教  会の証がされるということになります。   しかしながら、グノーシス的キリスト教の見解によりますと、  偽りの教会と真の教会を区別するものは、位階制度ではなくて、  教会の教会員の理解の水準であり、教会員の相互関係の質(親交)  であるとされております。   このグノーシス主義者の宗教観は、よーするに、信者の全共同  体がその質を問うことなく、たんに制度的に「教会」を構成し、  それを保持するという、そうした形式的・権威主義的な「教会」  の在り方を否定するものであったのです。   そして、キリスト教会の「洗礼」儀式を、「救済の願望」を満  たし、保証するための、いわば形式的な入会儀礼であると評価し、  それよりもむしろ、「人が自己を知り、真理の上なる神を知ると  き、彼は救われるであろう」(「グノーシス」を得ることによっ  て、自らが自らのキリストになりうる)と主張するわけです。   この「人が自己を知り、真理の上なる神を知るとき、彼は救わ  れるであろう」という主張、そして制度的権威の否定は、ルター  の以下の思想と酷似していると考えます。 | カトリック的な「悔悛」の秘蹟の手続きを経ることがなくても、 |「真に悔い改めたキリスト者は、贖宥の文書がなくても、彼の負 |わされた罰と罪過とからの完全な赦免を持っている」という主張。 | 福音主義、すなわち、*「神の掟」は、制度的=教会的に強制 |されるものではなくて、霊的=内面的にのみ語りかけ、働きかけ |てくる*ということ。      とはいえ、ルターとグノーシス的キリスト教は、その方針にお  いては、大きな違いがあると考えます。   ルターは、キリスト降臨後の時代において、幻視その他の超自  然的存在との直接的交感現象を懐疑し、かつまたカトリック教会  の定めた正典(キャノン)の権威性を肯定していたのですから  (聖書によって神と人間が結び付けられる)、これは、「グノー  シス」の獲得による神との交わりの可能性を見いだしていたグノ  ーシス的キリスト教とは、ある点では、両極にある立場だと受け  取る事ができると考えております。   で、グノーシス的キリスト教に関して若干付け加えるとします  と、その信徒集団には、聖職者と信徒という役割分担はなく、単  に、A信徒(グノーシスを得た者)とB信徒(まだグノーシスを  得ていない者)によって構成されていたということです。   で、このA信徒が、はたして生活の糧を、宗教儀式の執行や宗  教的知識の教授によって得ていたかどうかと言う点につきまして  は、そうではないと思います。   *グノーシスは、2世紀頃に成立した、キリスト教の神秘思想。    代表者としては、バシリデスとヴァレンティヌス。   * カバラは、前2世紀頃に端をなす、ユダヤ教の神秘思想。    1300年頃に現れたゾハル(光輝の書)に、ユダヤ神秘主義    の思弁的面と実践的面の概要が記されている。この書は、グラ    ナダのモーゼス・デ・レオンが諸々の資料から編纂して作った    ものだと言われているが、モーゼス自身は、タルムードの教師    シメオン・ベン・ヨカイ(2世紀)の著したものだとしている。      電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 045/047 GHA01632 かんがえちゅう 「教団」と経済的諸関係 ( 9) 92/12/06 06:06 038へのコメント フェイさん、コメントありがとうございました。  ルターにしても、親鸞にしても、「聖職についていない、世俗的な職業の者であっ ても、自ら救済される資格を持ちうる」というようなことを言ってはいても、「宗教 活動もまた世俗的職業の一つである」とは言っていません。他方、信者の側にも「導 師さまの話を聞くことには、経済的対価を支払う価値がある」という意識が主要なも のであるとも思えません。  宗教と信仰にまつわる「経済的関係」には、それぞれの宗教により、貧者への「施 し」とか、「お布施」などのように実質的に「教団」への「寄付」と位置付けられる ものがあるでしょう。前者に関してはイスラム教にその典型が見られますが、「救済 は生前の善行によっては左右されない」とする要素を持つプロテスタンティズムや浄 土真宗には、この考え方は本質的に馴染みません。  他方の「お布施」的な位置付けの方ですが、これはもうピンからキリまででしょう。 「うっちゃっときなさい教」のように信者に課せられる経済的負担は電話代のみなど というものから、高価な壷を買わせたり、お布施に比例して御利益が得られるかのよ うに思わせたりというものまで、さまざまにあると思います。(日本の場合、「宗教 法人」を名乗れば税制面で有利になるという点は重視されざるをえませんが)  ところが、プロテスタンティズムや仏教に関しては、その基本理念に注目する限り 決してそこから「教団への寄付」は演繹され得ません。先の発言において、私が「矛 盾」と言ったのは、まさにその点を含めてのことです。  ルターにせよ親鸞にせよ、その問題意識そのものはとても純粋で真摯なものであっ て、余人をして「この教えを世に広めたい」と思わせるに十分なものでした。しかし 教えを広めるのに必要なのは何か、というと…。  まず思想内容の面からして、他教団との差異化=自教団の同一性の確保が必要です。 同時に教義の中心化、そしてこれと表裏一体のものとして「異端の排除」というプロ セスも要求されます。親鸞も『歎異抄』を書いています。  もう一つには物質的側面、はっきり言えば「カネ」の問題があります。グーテンベ ルグがいようがいまいが、「口コミ」以上の宣伝効果を期待する限りは多少のカネは かかります。したがって、広範に「広めよう」と志向する限り「教義そのものからは 演繹されない集金活動の正当性」を確保せざるをえません。  進化論めいた原則から言って、そのへんの「ゴマカシ」に成功した宗教のみが生き 残ります。言い換えれば、その「ゴマカシ」をしなかった宗教は、えてして「歴史的 に見れば瞬間的と言っていい宗教現象」に終わります。私はそのように思うのです。 思想内容上の説得力だけで命脈を保ちえた宗教は未だ嘗て「ない」、と。  ある人が「本当の見識者はROMの中にいる」と言いましたが、私はその言葉に一 種のこだわりを持っています。それと同じような構造でもって、「本当の宗教は、宗 教と名指されなかったもののなかにある」ということが言えるような気がしてなりま せん。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード −会議室11 ★KAZEの神秘学遊戯団----------------<02> 発言数 :327 未読 :6− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 322/327 MHD02672 TAO 巨視的な視点での“神道” (11) 92/12/05 01:47  >KAZEさん  すっかり寒くなりましたねぇ。部屋でストーブをガンガンかけ、こたつに  入り込んでノートパソコンのキーを叩いております(^^;)。 さてさて、KAZEさんの発言#215では、  : 教祖を通じて「間接的」にというのではなく、  : 「直接的」なあり方というのが神道の独特のスタイルだと思います。  : 要するに、かなりシャーマニスティックなあり方なんです。  とおっしゃっていられましたが、はて、シャーマニズムというのは、  具体的にはいかに定義づけられるのだろうか?と思い立って、  平凡社「イメージの博物誌 −シャーマン−」を引っ張り出しました。  あいにく本文には、うまく引用できるような箇所は見あたりませんでしたが、  訳者のあとがきでは、エリアーデの、シャーマニズムに関する言及が  引用されていましたので、孫引きしてみます。  >もちろんシャーマンは呪術師でもあり呪医でもある。シャーマンは  >原始的であると近代的であるとを問わず、すべての医者と同様に病気を  >なおすものと信じられ、すべての呪術師と同様に、行者風の奇跡を行なう  >ものと信じられている。しかし、シャーマンはそれ以上に霊魂の導き手  >(psychopomp)であり、また祈祷師であり、神秘家であり、詩人である。            「シャーマニズム」(堀一郎訳、冬樹社、1974年)より  もちろん、これだけでは概略さえも充分に掴めないのでしょうが、  ごく大ざっぱに言えば、シャーマン的な能力とは、自らの意識を  憑依的状態にシフトし、霊の力および言葉と直結することで、  霊による働きかけを物質界へ顕現させて行くか、またはメッセージを  受けとる…というように考えても、構わないように思えます。  要するにシャーマンは“現界と霊界を繋ぐ媒体者”と考えてもいいと  思いますが、シャーマンの存在価値というのは、共同社会への癒し、予言、  警告…といったところにありますよね。  で、神道というのは、日本において古代共同社会のシャーマニズムが  高度に発達し、ついには民族的精神の真髄を顕すまでに至った…なんて、  勝手に考えた訳ですが、そこには以前KAZEさんがおっしゃっていた  「民族魂」の働きかけが働いているのかもしれませんね(^^)。  シュタイナーによれば、日本は「アトランティス文化から遅れてやってきた者」 だそうですが、「…日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに侵入  していきます。それがヨーロッパ−アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパ  の唯物論が霊化されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは  確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持って  いないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産と  して有しているのです」とも述べているようです。  (『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか/民族と民族神をめぐって』  イザラ書房、松澤正博/西川隆範 共著より)  日本が有している「太古の霊性の遺産」というのは、恐らくシャーマニズムの  系譜につらなるものだと思うのですが、その「太古の霊性の遺産」に対して  どう考えるか、それも「神道」を解明する一つのアプローチのように思えます。  エドガー・ケイシー研究で知られる林陽氏は、神道をこう定義しています。  >…神社境内に置かれた左右の狛犬の口はこれ(あうん)を表しており、  >五十音もアで始まりンで終わる。神道の方法とはこれに代表される言霊との  >合体であり、余計な教理、教典、人と神との間を阻む人為の体系の何一つ  >ない、神そのものの宣り下す言(ことば)との合体なのである。  また、こうも言っています。  >ケイシー・リーディングによれば、神道さえもアヴィターラとしての  >キリストが古代に影響を与えたものであった。  アヴィターラというのは、インドの宗教用語で、「神の神聖下降」であり、  神の神聖なる下降、人体における神の顕現をいうそうです。  上記の言及はケイシー・リーディングの何番目を基にしているのか、  詳しくは分からないのですが、紀元前後にイエスという人間に受肉した  キリスト意識が、神道の起源にも関わっているという内容のリーディングが  あるらしいですね。可能なら、林陽氏に直接お伺いしたいところです。  (関係ないけど、林氏は西川隆範氏と同じ1953年生まれとか…ケイシーと  シュタイナー、それぞれの気鋭の研究者が同年齢というのは面白いです。)  神道というのは、やはりまだよく分からないところがあるのですが、  その根源には、日本人特有の霊性の顕現があるのみでなく、人類という種に  共通した、根源的で普遍的な霊性が宿っているようにも思えます。  先ほど触れた、シュタイナーが言う「民族魂」が日本人の意識に働きかけて  いるとしたら、神道にもそれは深く関わってくるはずだし、また、その  「民族魂」がこの時代において、日本にどういう役割を負わせようとして  いるのか、国々の利害を超えた巨視的な視点で見なければならないように  感じられます。 と、取り留めもなく考えを巡らしましたが、どんなものですかねぇ。  それでは。  TAO −会議室14 ・壁(2)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 発言数 :563 未読 :3− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 561/563 PBC02112 宇宙猫 ゆーじん. (14) 92/12/05 14:07 コメント数:1 長く心がすさんでいて,誰にも会いたくない,会えなかった時があった.  親友だと思っていた人とも疎遠になった.  以前の私を想定して会おうと言ってきてるのかと思うとたまらなかったから.  でもたった1人だけ会える友人が居た.  正直言って,それまでは特別な思い入れの無い友人だった.  彼女には,悩みを相談するとかいうことは無かったけど,会えばいつも楽しかった.  バカ話ばかりして,ゲラゲラ笑って過ごすだけだったけど,  一緒に居るとほっとして,そしてまた世界へ羽ばたいて行く力を与えてもらって  いるような,そんな関係だったし,いまもそうだ.  昔のことを思うと悲しくなるときもあるけど,  そういうときでないと判らない大事なこと・人(自分にとっての)もあるし,  そういうものを心の糧に出来たらと思う.                     年の瀬は妙にシリアスだ...(^_^;) 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 562/563 GBA01276 しまうま RE:ゆーじん. (14) 92/12/06 02:15 561へのコメント コメント数:1  宇宙猫さん、お久しぶりです(^_^)。  お子さんは元気に育ってますか? そろそろ片言なんてしゃべったりしてるんで しょうか。赤ちゃんのことはなんも知らないのであてずっぽですが(^^;)。  >>昔のことを思うと悲しくなるときもあるけど,  >>そういうときでないと判らない大事なこと・人(自分にとっての)もあるし,  >>そういうものを心の糧に出来たらと思う.  本当にそうですね・・・・。  たまに、原因らしいものが思い当たらないのに悲しくなることがあります。そん な時悲しみの源をそっと手繰りよせてみると、とっても大切な気持ちが底から出て きて、悲しみそのものが愛しく感じられたりします。  悲しいときは、悲しみと仲良くなってみるのもいいかもしれませんね。仲良くな りすぎて居座られるとまた困りものですが(^^;)。  こんなこと僕が言うまでもなく、宇宙猫さんは悲しみとうまくつき合ってる気が するな(^_^)。                           しまうま 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 563/563 PBC02112 宇宙猫 RE:ゆーじん. (14) 92/12/06 10:12 562へのコメント どうもお久ぶりです,しまうまさん.(^_^)  子供はおっしゃるようにアー,ウーと少しづつしゃべるようになってきましたよ.  パパ,ママとか言うようになるのは1年くらいかかるそうですが,  個人差もあるでしょうし,私も初めてのおっかさんなので(^_^;)  よく判らなかったりします...面白いですけどね. | たまに、原因らしいものが思い当たらないのに悲しくなることがあります。そんな | 時悲しみの源をそっと手繰りよせてみると、とっても大切な気持ちが底から出て | きて、悲しみそのものが愛しく感じられたりします。 | 悲しいときは、悲しみと仲良くなってみるのもいいかもしれませんね。仲良くな | りすぎて居座られるとまた困りものですが(^^;)。 ”悲しみそのものが愛しく感じられたりします”っていいですね〜.  なんとなく思うのは,笑いや怒りのそばにも悲しみがあって,  悲しみのそばにも,(笑いとまではいかなくても(^_^;))微笑みや怒りがあったり  するような気がします.  また,ひとつの感情に捕らわれてしまうと,例え笑いでも苦しいものがあるので,  居座られないようにしたいと思ったりします...  うーん,年の瀬はやっぱりシリアス・モードかな?(^_^;)ナンノコッチャ  ではでは...コメントどうもありがとうございました. >−会議室11 ★KAZEの神秘学遊戯団----------------<02> 発言数 :329 未読 :2− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 328/329 MHD02672 TAO ゴミコメント(^。^;) (11) 92/12/06 21:41 326へのコメント  >#326 BREATHさん  BREATHさんも、FBATLをROMしていられましたか(^^;)。  私も別ハンドルで会員登録していまして、つい最近も自己紹介などしたところ  です。もしかすると、BREATHさんも「格闘技通信」を愛読していられませんか  ?(^^;) もっとも、プロレス関係で観戦する団体といえば、リングスぐらいなもので、  他の団体はあまり見ないですね。さて、もうご存知かもしれませんが、  リングスの前田日明選手はシュタイナーを愛読していて、高橋巌氏とも  交友があり、「ムー」誌上で対談をしたこともあります。  PHP研究所から出ている「誰のために生きるか −自分が強くなる人生論−」  という著書では、前田選手はシュタイナーについてこう触れています。  ====================================================================== …ルドルフ・シュタイナーは七十年近く前に亡くなった人で、ドイツの思想家  で神秘主義の巨人といわれた人だ。   が、シュタイナーは神秘学だけでなく、教育、医学、数学、天文学、農学、  建築学、芸術、音楽、宗教……と様々な分野を独特の視点でつないでみせた  偉大な学者だった。 神秘学者というと、現実の社会とは掛け離れた超感覚世界にばかりこだわる  学問のように思われるかもしれないけど、シュタイナーは決してオカルティズ  ムと現実との接点を見失わなかった。   読めば読むほど気持ちのモヤモヤがスッキリして、気分が軽くなっていく  ……、こういう快感を与えてくれたのがシュタイナーだった。   オカルティズムは、人間と、人間を含む全てのものとの関係性を追求して  いく学問、方法論と定義される。現代の科学でとらえられるもの、現象に  ついても、その意味と関係性を問い続けていくものなんだ。辞書をひくと、  オカルティズムは「神秘学」「神秘主義」なんていうふうな解釈が出ている  けど、これじゃあ、どんなものなのか、よくわかんないよね。 ======================================================================  前田選手は私と同じ水瓶座の33歳で、しかも誕生日も一週間しか違わないのに、  この果てしない差はいったい何なのだぁと思ってしまいます(^^;)。 前田選手はシュタイナーだけでなく、色々な思想書や哲学書にも触れている  もの凄い読書家だそうで、いつも何やら難しそうなことを言っています(^^;)。  こないだ、NHKのミッドナイト・ジャーナルにもコメンテーターとして  出演していたし、異色の格闘技者ですね。  長くなりそうなので(^^;)、これぐらいにしておきます。ではでは。  TAO 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 329/329 GGA02514 KAZE 故郷喪失者 (11) 92/12/06 23:05 322へのコメント TAOさん、どうも。 >日本が有している「太古の霊性の遺産」というのは、恐らくシャーマニズムの >系譜につらなるものだと思うのですが、その「太古の霊性の遺産」に対して >どう考えるか、それも「神道」を解明する一つのアプローチのように思えます。 「太古の霊性」というのは、おっしゃるような「神の神聖降下」的なあり方で、 それは、シュタイナーが現代のテーマとして掲げているような 意識魂に働きかけてを霊我を形成するといったあり方とは違っているようです。 シュタイナーが日本を「アトランティス文化から遅れてやってきた者」というのは いわゆる西洋的な自我の形成、発達を通らないで現代に至っている者、なんでしょう。 >紀元前後にイエスという人間に受肉したキリスト意識が、神道の起源にも >関わっているという内容のリーディングがあるらしいですね。 その「キリスト」というのは、太陽霊とでもいえる「天照大御神」と 同義で使われているんだと思います。 その「天照大御神」というのは、高次の宇宙神霊としてのそれと、 歴史上に現れた一連の実在のシャーマニシティックな女王としての役割のそれは 区別して考えなければならないと思います。 後者のうち初代のそれは、霊界のとしての高天原においても ある役割を担った人物として存在しているようです。 あの卑弥呼にしても、実際は「日向子」または「日の子」とよばれていたようで、 初代の天照大御神から数えて3代目の天照大御神でもあったようです。 最近はなぜかまた日本の古代史などの資料もいろいろ見てまして、 その中でわりと納得のいく歴史研究書と霊的な働きかけとを併せて考えていくと、 この「日本」という霊域の特質と役割というのがはっきり見えてきそうでもあります。 >神道というのは、やはりまだよく分からないところがあるのですが、 >その根源には、日本人特有の霊性の顕現があるのみでなく、人類という種に >共通した、根源的で普遍的な霊性が宿っているようにも思えます。 神道というのはもともとは宇宙神霊との交信のためのもので、 それに民族霊的な働きかけやその他の要素が加わっているんだと思います。 それが、ある「形」の中に埋没してしまって、その本来の意味というのが 次第に忘れられてきたのではないでしょうか。 >先ほど触れた、シュタイナーが言う「民族魂」が日本人の意識に働きかけて >いるとしたら、神道にもそれは深く関わってくるはずだし、また、その >「民族魂」がこの時代において、日本にどういう役割を負わせようとして >いるのか、国々の利害を超えた巨視的な視点で見なければならないように >感じられます。 そうですね、そうした視点に立つためのとても大切な態度が、 「いま、シュタイナーの『民族論』をどう読むか」にも紹介されてましたよね。 ・・・シュタイナーは『民族魂の使命』で、「故郷喪失者というのは、故郷 から発する特定の感情や感覚のニュアンスを交えることなく、人類全体の偉 大な使命を受け入れる人のことです。このことから、神秘的−神秘学的な進 化のある段階において、自由な視点を持つ必要があることがおわかりいただ けると思います。個々の民族精神の使命として、民族の土壌から、民族の精 神から人類全体の使命に寄与するという偉大な行為に対しても、自由な観点 を持つ必要があるのです。」と語っている。だが、故郷喪失者は必要な段階 ではあるが、最終段階なのではない。シュタイナーは、つづいて、「故郷喪 失というのは、ひとつの回り道なのです」、「故郷喪失という聖地にいたっ たあとで、民族の本質に帰る道を見出し、人類進化において土着のものとの 調和を見いだすためのまわり道なのです」としている。  日本人なのだから日本を愛するということではなく、偏狭な民族意識から 脱して、自分という個体が冷静に世界の霊性に向かい合ったあとで、主体的 に民族にかかわっていこうとするのである。強大な日本の民であるというこ とにめいていする主観的な愛をもって民族エゴイズムに陥るのではなく、人 類的な観点から日本を見て、日本に客観的な愛を注ぐことが大切なのである。 この「故郷喪失」ということを通った上で、 冷静に主体的に民族にかかわっていこうという態度というのは非常に大切で、 「民族エゴイズム」なんていうのは論外だし、 民族という視点に対して最初から目をふさいでいるのも逃避でしかないと思います。 多くの方というのは、その両極端というのが多くて、 冷静で主体的に見るということができないようで、 どうしてこんなに当たり前のことがわからないのだろうかと、 以前から疑問でなりません。 日本精神とシュタイナーに注目しながら、 新しい「精神」の誕生を夢みている生来の故郷喪失者のKAZEでした。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室13 ★HVHYの預言解読部屋------------<02> 発言数 :214 未読 :2− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 213/214 GBG02043 維/YUI RE:「霜」のことで (13) 92/12/06 18:57 209へのコメント ただの思い付きだけどもさぁ、 夜明けってのが、来年の年明けだったりしてね・・・。 元旦は、晴れるのだろうか・・・。                           維/YUI。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 214/214 GBG02043 維/YUI 気になるシリーズVOL.3 (13) 92/12/06 19:00 208へのコメント ときおり、ふっと思い出すことのあるフレーズ・・・。 ARION詩編 24 より。 >>U  数を合わせようとするから歪みが起こる >>   あるがままの数を生かすようにせよ >>Z  矢尻の形に気を取られて 肝心の弓に >>   亀裂がある事を見過ごすのか >>\  者皆 酔い痴れて この華を愛でる時 >>   独り 目を覚まし唇を噛む者在り >>   ただ 独り  ただ 独り  一人の為の独り                            維/YUI。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室14 ・壁(2)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 発言数 :566 未読 :3− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 564/566 GBA01276 しまうま ひとつの感情に (14) 92/12/06 18:26 563へのコメント  赤ん坊って、アーとかウーとかダーとか言ってるだけで可愛らしいですよね。な んか、神秘だよなー。僕が言ったら気色わるいだけだもん(^^;)。 :| 悲しみの源をそっと手繰りよせてみると・・・・  なーに気取ってんだか>おれ  実際はね、やけくそ気味に「ふんっ」とか言って力まかせにひっぱって、ぶっち り切れちゃうことばかりなんです。どんな辛い気持ちも根っこには絶対になくせな い大切なものがあるのは本当だと思っています。 :また,ひとつの感情に捕らわれてしまうと,例え笑いでも苦しいものがあるので, :居座られないようにしたいと思ったりします...  うむむむ、これって軽いショック。なんとなく「歓談している=楽しい」「押し 黙っている=つまらない」と思いこんでました。でも考えてみれば、いつもニコニ コわいわい楽しいなーっていうのは、泣き暮らすことと同じくらい不自然なことで すね。感情が不安定なのは、逆にバランスをとろうとして小刻みに揺れているから かもしれない。  それでは、しまうまがよろしく言っていたとお子さんにお伝えください(^_^)。                                  しまうま 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 565/566 HFD01514 なえ 夢の記憶 (14) 92/12/06 22:02 >>瞳の奥に揺れ動く、静かな優しい夢の記憶・・ デジャヴ・・今も夢の途中。覚醒は、虚無の世界で。 心は遠く陽炎は揺れる。あたしは喉の乾きにもがき、 手を伸ばして、夢を掴む。夢は儚く、遥かな彼方。 デジャヴ・・いつになれば、夢は、醒めるの。