681/693 PFA03317 Eddie RE:プログレな人間になりたい ( 2) 92/12/07 05:55 635へのコメント >いつまでもプログレでいてやるぞ,という決意を表明して今日はここまで。  読みました。  同感です。  ちなみにジョンレノンもESTをやってようです。  (イマジンは"ESTに捧ぐ"とクレジットされている)  ESTに関してはまたどこかで書きます。 [カテゴライズの機能について。]  思うに、人間はいったん新しいものを作ってしまうと、それをなんらかの形で カテゴライズをし、それを「方法」に変換してしまうのではないかと。 「方法」にしてしまうと、すでに新しいものではないよね。 また逆に、いままでのことを「方法」にして、合理化できるからこそ、「今」を新しい ものとして創作できるのではないか。 「方法」を昔は新しかったものとして区別ができるなら、つねに「プログレッシブ」 であることが可能ではないか。 さらに考えると、たとえずーと同じことをやっていたとしても、全く新しいものとして 行動が可能ではないだろうか。(極端だが) つまり、「プログレッシブ」であると言うことと、何をやるかと言うことは直接的には 関係はないんではないかということ。 ものごとの評価としての「新しいこと」と自分の姿勢としての「新しいこと」は同じも のではないのではないかと。 例えば、ロングランの演劇なんかがそうだよね、役者は毎日同じことをやっているにも かかわらず、いつも新しいことととして感動を呼び起こす。 「方法」は存在する、そして「方法」でやってたら、たぶんできないと思う。  愛も創作かもしれんな。    そんなことを、ふと考えました。                                    By Eddie d子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 682/693 PFA03317 Eddie RE:RE:RE:MIDIですか ( 2) 92/12/07 05:56 670へのコメント コメント数:1  ども、はじめまして。  入れ忘れましたピンクフロイド。  いっすよねジャンリュックポンティー。  エニグマティックオーシャンでしたっけ、あれすきです。  国内ではあまりCDが出ていないのは残念です。  以前仕事でNEW YORKいったときレコード屋には、山のようにおいてありました。  アメリカでは、わりとポピュラーなのかな?  それとも、売れなくて残ってたりして。    《 隆 》さんの文章はいつも読まさせていただいています。  こんごともよろしく。                                   by Eddie 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 683/693 PFA03317 Eddie RE:RE:クリスマスの過ごし方 ( 2) 92/12/07 06:20 650へのコメント 特にこの時期さびしさを感じるのよ、俺。 たいがい恋もはじまるのこの時期だし、今年ははじまらんなぁ(笑)。 維/YUIさんのオフでの印象、とっても元気で素敵なかたでした。 以外と背が高かった。                                   By Eddie 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 684/693 PFA03317 Eddie RE:誕生日 ( 2) 92/12/07 06:20 667へのコメント おっめでたう。 遅れましたが、ご婚約もおめでとう。(ヤバイナ、オレ)                                 By Eddie 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 685/693 HFD01514 なえ RE:太郎です。よろしく。 ( 2) 92/12/07 11:26 664へのコメント >(野生王国 ”なえ”園においでになります)。 わはは、わたしが園長のなえでし。 おいでになるなんて、てれっぱずかしーじゃん。(*^_^*) あ、あたしじゃないんだ。(^^;;)(太郎ね。きょうは雨なので厩舎で寝てる) きょうも”お客の入り”に目を光らせて”肉体ろーどー”に励むなえでした。 「おーい隆ちゃん。フォークが雨に濡れてるよー。早くかたずけておいてね。」 「こらこらシゲさん。油売ってないで、馬*ンをサイロに入れてね。」 カサカサ・・イソイソ・・バシバシ・・(^^;;)?? ア、チガッタ・・(゚o゚;) ザクザク・・ポイポイ・・ダッタ(^^) 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 686/693 HFD01514 なえ RE:RE:RE:MIDIですか ( 2) 92/12/07 11:27 682へのコメント こんにちは Eddieさん 少しだけ(^。。^)になったなえでし。 それはそーと、TOTOは知らない?。(サニタリーメーカーでは、決してないぞ) わたしはけっこう好きですが・・・。特に”ROSANNA”とか、”ANNA” とか・・。 だから!!何度も言うけど、洗面場やトイレのトートーではなくTOTOだって。 えーん(ToT)誰も信じてくれないよー。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 687/693 GBD03557 シゲ 園長さんからお手紙ついた。 ( 2) 92/12/07 18:45 コメント数:1 ”なえ”さん、こんにちは。 え〜い、秘技メール送り、それも、公開メールだあ。 さて皆さん、なえさんから、僕のところにこのようなメールが届きました。 : 1 ** *苗    HFD01514 12/07 14:06 : 題名:Oo。(^。^)y-~ んーモクが旨い!! Ver.2 : :必殺メール返し!!→→ なえ Ver.2 だ。 : :最近シゲさんの書き込みが少ない。理由→→その1、課金が恐い :                    その2、もうnifは卒業した :                    その3、未毒の山に対処出来ない : :ささ、どれでしょうか・・当選者には”なえ園”無料招待券進呈でっすぅ(^_^) : :受信後 (1:削除 2:保存 3:返信 4:返信+削除 5:転送 6:転送+削除 E:終了) ::1 さてさて皆さ〜ん。この問題に答えて”なえ園”へ行こう! えっ?「”なえ園”なんて行きたくない」ですって。 なになに?「馬糞の掃除をさせられるから・・・」 (意味不明な場合、なえさんのPROF読んでね>最近入会した人) そうですか・・・ そうですよね。 じゃあ、答えをいってしまいましょう。 正解は3番ですっ。 毎日、FARION,FKEN,FDESIGN,FREKISHI,FARCHI,FCIVIL,FHAND.....と、読み書きして いると、一日が終ってしまうのです・・・ で、今月は日本と中国は年賀状。そのほか海外にはクリスマスカードと、 300通以上の郵便物を書かなければいけないのです。 だから、今月はアクティブできないので〜す。 わかった?>なえさん #685 「こらこらシゲさん。油売ってないで、馬*ンをサイロに入れてね。」 あの〜、僕の担当は火木土曜なんですが・・・今日は月曜でしょ。 693/693 HFD01514 なえ RE:園長さんからお手紙ついた。 ( 2) 92/12/07 20:30 687へのコメント やっほーシゲさん(^^) >>FARION,FKEN,FDESIGN,FREKISHI,FARCHI,FCIVIL,FHAND..... >>300通以上の郵便物を書かなければいけないのです。 すげい!!(^^;;)・・・言葉が出ない・・。m(_ _)m ヘヘー おみそれしました。 あちしは、せいぜい飼ってるお魚用のFAQUAと点字本の翻訳してるFEYEだけもんね。 (しかも最近は出入りが無くて、知らぬ間に退会されられそー(^^;)) >>僕の担当は火木土曜なんですが・・・今日は月曜でしょ。 をを!!そだっけ。すまぬ、すまぬ。では、今日はお土産を貰ってお帰りくだされ。 →→→「白竜湖まんじゅう」と「もなか」だよーーん (^_^) 違う!!。だからぁ、馬*ンまんじゅうでは無いってば!。 ・・そういえば最近しゃお君(小白竜)も見ないなー。ブツブツ・・・ (どーも、「白竜湖***」と書くと、彼を思い出すのであった。) では!!!当選の本人様!!(当たり前か(^^;;))”なえ”園切符贈呈だよーん ちゃんちゃん。(^_^) 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室 3 【縁 会】オフ:プラン・レポート----<01> 発言数 :572 未読 :4− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室 6 ・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 発言数 :151 未読 :1− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 151/151 HGG01312 天野 智明 しょおとすとおりい2 ( 6) 92/12/07 21:34   TIAKI AMANO PRESENTS.   故郷[ふるさと]へ   生まれたときは小さな存在だった.   それが<僕>だった.   気がついたときには,僕はこの地に降り立っていて,とても小さな自分に気がつ  いた.   とるに足らない小さな存在の僕.   踏みつけられれば消えてしまう,そんな僕.   生まれたときのことはよく覚えていない.ただ,ふわふわと浮かんでいるような  素晴らしい感覚が僕の体を包んでいたことを微かに覚えているような気がするだけ.   そうだ.   あの浮かぶ感覚こそが,僕の故郷,僕の生まれた場所なのだ.   故郷へ,あの生まれた場所へ帰らなければいけない.   僕はそう思った.   なぜだか分からないけれど,強くそう感じた.   僕は歩き始めた.   よろよろと,危ない足取りで,<下>を目指した.   ともかく,<下>を目指すんだ.   そこを目指せばたどり着ける,故郷へ,生まれた場所へ.   確信だけはあった.   どことも知れない場所で,僕はただ歩き続けた.   見えないものたちにおびえながら,何も分からない道に不安がりながら,僕はひ  たすら歩き続けた.   懐かしい場所に戻れるという希望だけが僕を勇気づけた.   いつ終わるとも知れない道を,僕はただ歩いた.   長いこと歩き続けて,僕は君に出会った.   「やあ」   僕は声を掛けた.   「やあ」   君はそう挨拶を返してきた.   僕も君も小さな存在で,僕も君も仲間だとすぐ分かった.   「一緒に行かないかい」   僕は言った.   「下へ行くの」   君は笑った.   「そうだよ」   僕も笑った.   二人になってからの道は楽しかった.   おびえることは何もなかった.   道はときどき入り組んで,歩くのが困難な場所も多かったが,それらは苦になら  なかった.むしろ,楽しいとさえ感じられた.   道を進むに連れて,僕と君は,次々と仲間達に出会った.   最初は一人二人の仲間と出会ったが,そのうちに出会う仲間達の数も多くなった.   数は次第にふくれあがり,僕たちは大きな集団になっていた.   僕はいつも仲間達の先頭に立ち,君は僕のすぐ後をついてきた.   僕が君にほほえむと,君はいつもほほえみ返した.   仲間達はいつも陽気で,笑いと歓声が絶えなかった.   いつしか仲間達の数はふくれあがり,行進しながら歌が生まれた.   <下>へ行こう.   故郷へ帰るために.   <下>へ行こう.   幸せの待つところへ.   目的地はもうすぐのはずだった.   僕たちは帰りつける.   あのやさしい故郷へ.   幸せの待つところへ.   今,僕たちの目の前には,海原が広がっている.   大きな海.そして,優しい海で休んだら,再び故郷へ帰ろう.   僕たちの空へ.   僕は一粒の雨だった.   君も一粒の雨だった.   僕と君とが肩を寄せ会えば,   おおきな流れが生まれる.   みんなが声を合わせれば,   おおきな歌が生まれる.   歌の最後のフレーズを叫びながら,僕たちは大海原へ飛び込んだ.                      おわり 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室 9 ★猫が好き♪の宗教円卓会議----------<01> 発言数 :49 未読 :2− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > ゚048/049 HGA01050 ブラッディクロス RE:★誰だこんなややこしい会議を企画した ( 9) 92/12/07 07:27 001へのコメント 新会議室の開設、ご愁傷様のおめでとうございます。 前に参加していた宗教会議室が、議論の途中でボヤッとしていたら いつのまにかなくなってしまい、 どうしたものかとオロオロしておりましたところ、 新会議室の設置を知り、まずひと安心している状態です。 前の続きをやりたい気持ちもありますが、 「円卓会議」という会議室名を見れば 「あまり物事を断定するなよ」という無言の願いが そこに込められているようでもあり、 とりあえずは、立場の違う人も共感できるような 発言を模索してみようかと、 当てにならぬことをうそぶく次第です。 もっとも、いつまで続くかわかりません。 なにはともあれ、ひとつ宜しくお願い申し上げます。 ブラッディクロス 049/049 PEH01124 GO FBT! 猫♪ 「孤立した人々の時代」の宗教 ( 9) 92/12/07 15:00 043へのコメント  宗教の機能面に着目した発言であると理解してレスをつけます。これは「機 能面」での話ですので、そこに本当に神がいるかどうかというような話とは、 関係がありませんことを先に確認しておきたい。 *  基本的に「心の平穏」なんていうのは、個人の心の持ちようで決まるのであ りまして、それ以外のなにものも決定的なファクターとはなりません。ですか ら宗教は、誰か個人の心の持ちように対してアドヴァイスする立場であり、強 制できるわけではありません。たとえばの話が、しばしば言われる「洗脳テク ニック」ですけども、それは強制ができないものだから相手に自発的に従わせ る(=アドヴァイスを受け入れさせる)ようにするためのテクニックに他なら ないのです。  さて、と。  つまるところが、宗教の機能的な側面の、ひとつの重要な目的であると理解 されている「個人の心の平穏」更には「個の倫理的なレベルアップ」などです が、しかしそういった要求水準を満たせる人は、現在の段階ではまだ数が少な いということは、言えるように思います。  また、宗教団体が、権力団体となる場合・集金構造を構築する場合などは、 そういった「個人」の確立は逆に目的に対する阻害要因となりかねません。  つまりある意味で、現実の社会的存在としての「宗教」と、理想的存在とし ての「宗教」は、対立する側面があるということです。おそらくまだ人類は、 万民にとって被害をもたらさず利益だけをもたらす理想的な「宗教」を維持で きるには、まだまだ幼な過ぎるのです。  「孤立した個人の孤独感を癒すための宗教」というものは、まあ確かに個人 の心の平穏にはつながるかもしれませんが、一方で「個の確立」というような しんどい作業を怠るための口実ともなりかねないように思います。  現実問題としてそういった方針に走っている宗教、いわば「サークル型」と でも言えばいいんでしょうか、そういった新宗教には、なんらかの別の目的が 見え隠れするものが多いように思います。たとえば原理研・統一教会ですが、 あれは「金儲け(その目的はおそらく復讐心)」が目的であるように思われま すし(しかしその復讐心は必ずしも理不尽なものではないから困ったものなの である)、たとえば幸福の科学ですが、あれも「金儲け+価値観の押し付け」 ないし「教祖の権力欲」に基づくものであるように思われました。  親密な人間関係による幸福というものは確かにありますが、それはそれ、こ れはこれ、宗教がそういった余りに手軽なものを手段とするののは、個人的に は余りに安易で尊敬できねーと思うのでした。  宗教は、確かに「弱い人々」のためのものかもしれません。ですが、宗教側 の主観はとにかく、その結果が「弱い人々を救っている」のか、それとも「弱 い人々を食い物にしているのか」ということが、ハッキリしない宗教が多すぎ るように思います。  ぼくとしては、「食い物にしようとする宗教」を阻止できない以上(そして どっちかというと「救おう」という善意よりも「食い物にしよう」という欲望 の方が、パワーにおいて勝るものである以上)、宗教にそのあたりの役割を担 当させることには躊躇せざるを得ないんですが。 *  なお、「孤立した個人の受け皿」になり得る集団のサイズについても、わた しはけっこう疑問を持っています。そこで別種の「幻想の集団」を持ち出すの ではないというのなら、そのサイズの限界は、それこそ「イエスの方舟」あた りの規模くらいなんじゃないかと思っています。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室11 ★KAZEの神秘学遊戯団----------------<02> 発言数 :333 未読 :4− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード >330/333 GGA02514 KAZE フォルメン線描とオイリュトミー (11) 92/12/07 01:53 325へのコメント 隆ちゃん、どうも。 目の疲れをとる気功ですが、その通り、あれは「導引術」で、 それをちょっとだけアレンジしたものです。 ずっと以前ですが、早島正雄さんの導引術ものを片っ端から読んでたときがあって、 そのときに覚えたのがあれなのでした。 後半の疲労快復法というのは、半分は僕の自己流ですが、 実際に繰り返してやってみると、なかなか効果があるようですので、ご紹介しました。 僕は会社での深夜の会議中などにときどきこっそりやってまして(^^)、 すっとパワーが広がる感じがしてちょっと元気になります。 「気そのものが弱いかもしれない」ということですが、 繰り返しやっていってイメージトレーニングしていけば次第に強くなると思います。 さて、教育関連の話。 >リズムという概念はけっこう奥深いものなのかもしれません。物質の有りよ >うというのもリズムと言えなくもないですし、生き物はみんななにかしらの >リズムを持っています。 このリズムということを考えていく場合には、 「形」ということを併せて考えていくと、理解がぐんと進みます。 自然や生物などが作り出す形というのは、 それぞれのリズムの結晶であるともいえるのではないかと思います。 雪の結晶の模様、蜜蜂の巣の六角形、カタツムリや貝の殻の螺旋形、 植物の葉脈の規則的な配列、天空を見ても地球や惑星たちの動きなどなど、 すべてがそれぞれのリズムをある形として表現しているようです。 シュタイナー教育においては、魂と身体を健全に育て、感覚を発達させるために 「形の教育」ということを重視しているようですが、それには 「フォルメン線描」というさまざまな図形を線画で描かせるものと 運動感覚と均衡感覚という基本的な内部感覚を育成するのにも役立つ 運動芸術としての「オイリュトミー」という2つの教科があって、 フォルメン線描は小学校から、オイリュトミーは3歳ころから始めることができます。 フォルメン線描については、 ●高橋巌&H・R・ニーダーホイザー:シュタイナー学校のフォルメン線描(イザラ書房) オイリュトミーについては、 ●高橋巌編:オイリュトミー芸術(イザラ書房) ●高橋巌監修:オイリュトミー(泰流社) という邦訳等がありますが、今回はそれぞれについての紹介ということで、 高橋巌さんの「シュタイナー教育の方法」の中の第四章「形の教育」から。 まず、オイリュトミーについて。  幼児期のオイリュトミーは身体で線を作るフォルメン線描であるともいえ ます。幼稚園では、部屋の中で、あるいは運動場に出て行って、身体で基本 的な図形を描きます。いちばん簡単なのは、でたらめに歩き回ることですが、 自由に移動できる、という体験が基本なのです。そのときに大事なのは、今 自分が身体を自由に動かすことで何か特別のことをしているのだ、と感じる ことです。その感じを先生や仲間と共有しない、互いにそれを祝福しあうと いう体験が教育になるのです。ですから、何となしに歩き回るのではなく、 歩き回ろうとして歩き回ります。そしてそれをみんなが認め、その行為を肯 定するのです。  そのためには、まず一列に並んで、先頭の誰かが好き勝手に歩き回ります。 そしてその後ろについた者たちもその通り歩いて行くと、蛇の動きのような 運動ができます。そしてそれが、だんだん速くなったり、ゆっくりしたり、 渦巻になったりするたびに、ぶつかりあったり、混乱が起こったり、どのあ とについていったらいいか解らなくなったり、ということでお遊戯みたいに なるのですが、それを繰り返すことで子どもの一番基本的な運動感覚がそこ で体験され、意識化されます。そしてそれによって子どもの心の中に、動く ことからくる喜びが生まれてくるのです。これが幼児期における最初の形態 教育です。  そしてもう少し進むと、まっすぐに歩くこととか、丸く歩くこととか、三 角形を作ることとか、さらにもっと複雑になってくると、いわゆる五芒星形 または五線星形を作ることもします。昔から日本では「気の流れ」を問題に しますが、五芒星形は、身体の中のその気の流れに一番相応した動きだ、と シュタイナーは言っています。・・・シュタイナーは五芒星形という形を・ ・・エーテル体の基本形と考えていました。ですから子どもが五芒星形の動 きをやると、身体の中の見えない生命の流れに刺激を与える、というのです。  いずれにしても、身体で運動を行うことが幼稚園における形の教育です。 けれども小学校に入ってからは、実際に線描を練習することを通して形の体 験を深めようとします。 続いて、フォルメン線描について。  線描を通して形の意味を体験させる教育は、実はパウル・クレーやカンデ ィンスキーのような二十世紀初頭のドイツの表現主義絵画の創始者たちも、 バウハウスという造形学校の中で、いろいろと試みていました。パウル・ク レーはシュタイナーのフォルメン線描と非常に共通した仕方でバウハウスで の造形教育を行っています。彼によれば、面と線とはまったく異なる造形要 素なのです。面の体験は、基本的に色の体験なのです。面は線とは異なり、 情感や気分を表現するのに適しているのです。それに対して、線は、心の方 向づけ、人生の目標、理想、あこがれ、予感、そういう種類の心の働きと結 びついて、いつも状態の変化を表現します。 ・・・  (いろいろな線描を描かせそれとどここか関係のある内的な体験をさせる という/KAZE)体験は中学校、高校、大学に行くに従って、子どもの知性と 結びつき、それに活力を与える源になります。渦巻もその一例ですが、フォ ルメン線描の最初は複雑なものから始めないで、何度でも垂直線だけを子ど もに描かせます。しかしいい加減に描かせるのではなく、この線の持ってい るいろいろな意味が体験できるように、線を引かせるのです。・・・ ということですが、このフォルメン線描には、 「図形表出」と「図形形成」という2つのプロセスがあります。 「図形表出」というのは、子どもたちに自分で描きたい形を勝手に描かせることで、 「図形形成」というのは、与えられた課題にこたえる形で線描を行うものです。 このフォルメン線描というのは、きれいな線を引く能力を育てるためにではなく 子どもたちの感覚を調和的に発達させる、特に運動感覚と均衡感覚を 自我の働きに結びつけるということが目的です。 6歳頃から12歳までの間に、本来の図形線描を行い、 12歳位からから18歳位になると、自由な線描の他に、幾何学へと移っていきます。 さて、ついでにオイリュトミーの成立と発展について、 エルゼ・クリンク「オイリュトミー」(上記、泰流社の「オイリュトミー」所収)から 紹介しておくことにします。  1912年に、ルドルフ・シュタイナーはオイリュトミーを発展させ始め ました。一人の娘を持つ母親がルドルフ・シュタイナーに、たとえば体操、 表現舞踏、バレー等の既によく知られたものの他にも運動芸術のための出発 点が存在するか、という質問をしました。シュタイナーはこの問いに肯定的 に答えるとともに、マリー・シュタイナーと共に言語法則を集中的に研究し 始めました。言語は人間の中に霊が生きている証拠であり、言語のイマジネ ーション的形成力から流れ出る動きを思い出させます。言語と音楽の本質的 同一性はギリシャ精神の中にはまだ生きていました。自律的な音楽と言語へ の分離は、人間の意識の変化を示しています。ルドルフ・シュタイナーとマ リー・シュタイナーは、音楽と言語が人間に及ぼす有機的、霊的な働きかけ を研究しました。  この研究の中から1925年までの間に、オイリュトミーの基本的諸要素 が生まれ、芸術的形成がなされました。それはオイリュトミーの芸術性を明 らかにすると共に、オイリュトミーの発展のための基礎となり、現在に至っ ています。ひとつは目に見える言葉としての言語オイリュトミーであり、も うひとつは目に見える歌としての音楽オイリュトミーなのです。 このフォルメン線描とオイリュトミーというテーマも、 シュタイナーの中では非常に大きなテーマのひとつですので、 今後も折りにふれてとりあげていきたいと思っています。 長くなりましたので、カルマについてはまたということにしますが、 「カルマ論」の講義は、シュタイナーが歳晩年に行ったもので、 ある意味ではシュタイナーの神秘学の総決算でもあります。 それは6巻本という大著でもありますし、そのほんの一部分しか訳されてません。 いずれ紹介したいと思っているのは、その訳された部分についてです。 >感情をコントロールするのは難しいですが、 >少しでも良い方向に自分を持って行きたいものだと思います。 僕もまだまだ修行が足りませんが(^^;)、 隆ちゃんと同じく、少しでも良い方向にもっていきたいと思っています。 こうした感情のコントロールをはじめとしたことは、 別に自分をがんじがらめにするためでは決してなくて、 むしろ自分を限りなく自由にするものですので、 そうしたことが自然にできるようになれればと願っているKAZEでした。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 331/333 GGA02514 KAZE 新しい意識と拡大された芸術の概念 (11) 92/12/07 11:12 327へのコメント BREATHさん、どうも。 クリステヴァって、確か作家のソレルスの奥さんだったように記憶してます。 ソレルスといえば中沢新一氏と結構相通じるところもあるようですね。 それから、ソレルスというので、なぜかすぐ思い出すのがル・クレジオで、 15年ほど前、集英社の現代文学全集で、ソレルスの「公園」と ル・クレジオの「愛する大地」(名作です!)がカップリングで収録されていました。 僕はそのころ、ヌーヴォー・ロマンをはじめとしたフランスものを いろいろと物色していたのを思い出します。 そういえば、ボルヘスやドノソ、カルペンティエールなどといった ラテンアメリカものというのもそのころは流行りはじめてまして、よく読みました。 僕はボルヘスはもちろんですが、ドノソの「夜のみだらな鳥」には大感動してました。 >それにしても、病院に不成仏霊がうようよ、というのは恐すぎますね。 >そんなところで、本当に病気を治していただけるのでしょうか考えてしまいま >す。お医者さんというのはことごとく、そういう存在を感じる能力に欠けてい >るのでしょうか。 医者というのは大変な仕事で、 僕なんかも、やっぱりならなくてよかたなあ、とか思ってますが、 それにしても、多くの医者の生死観のお粗末さには参ってしまいます。 医者というのは、本当は生死のオーソリティでなくてはいけないと思います。 ある意味ではお坊さん以上に、ちゃんとわかってないといけないと思います。 なのに、「死」にあたって、やたらの延命処置で気休めをしたり、 もうだめだとわかったら、急に「好きにしなさい」といったり、いいかげんです。 そもそも人間を肉体レベルだけで把握していますから、 それ以外のレベルでの治療ということは不可能です。 もちろん、患者やその家族の途方もない無知というのもありますが、 その無知を、さらなる無知へと導くのではなく、 もっと包括的な「理解」へと導くのも医者の一番大事な務めなんだと思うのです。 これは、医者がどうのこうのというより、現代のわれわれすべてに言える問題で、 完全な唯物信仰かといえば、そうでもなくて、いよいよ駄目だとなったら、 今度は急にわけのわからぬ神頼みに走ったり、妙な宗教に陥ったりします。 要するに、無知を無知で上塗りしているとしか言いようがありません。 そもそも、死んだらお葬式をしたり、一周忌をしたりするんだったら、 死後のことを想定してしてないと大嘘だから、 やっぱり日頃から、ちゃんと生死について考えておくというのが、 人間としてどうしても必要なことなのではないかと思うのですが、どうでしょうか。 善と悪については、輪読会の進行に合わせてということにして、 ヨーゼフ・ボイスについてですが、「著作」というのはよく知りませんが、 特集ものはいくつかあって、まず、今年の4月号の美術手帳の特集が 「ヨーゼフ・ボイス/カオスと創造」というものでした。 まだバックナンバーはあるのではないでしょうか。 一度前々会議室(FMISTY#499)でもご紹介してありるくらいですから、 興味がおありでしたら、またとりあげてみてもいいですよ。 ちなみに、そのときに紹介したボイスの言葉を再録しておきましょう。 「私の<拡張された芸術概念>は、自分自身を精神の中でひとつの彫刻作品にして、目 に見えない本質を、具体的な姿へと育てることです。そして、私たちのものの見方、知 覚の形式をさらに新しく発展、展開させていくのです。」(ヨーゼフ・ボイス) 1984年に来日したときにPARCO出版から出されたボイスの来日全記録も、 収録されている中沢新一氏のインタビューなども含めかなり参考になると思います。 それから、以前の文献目録(#61)にも載せたことのある人智学出版社刊の 「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」というのもあったりします。 えっと、今回は、「芸術と政治をめぐる対話」から、 エンデとボイスの興味深い発言部分をご紹介しておくことにします。 両者の芸術に対する考え方の相違がイメージしやすい部分を選びました。 エンデ/ 私たちの議論の違いは、ただ、そういう絵の存在によってもたらされる変革 の作用をちがったふうに評価している、というだけなんですよね。私は、そ ういう絵とか、詩とか、音楽とかが存在しているだけで、もうすっかり世界 が本質的に変革された、とみなすわけです。それらの作品が、いわば間接的 に、まず変革をうながすというのではなく、ともかくそれらが存在している だけで、私に言わせれば、ちがった世界なわけです。それによって世界が違 ったものになる。シェイクスピアより以前の世界は、シェイクスピアの戯曲 が存在している世界とは、ちがう。私の場合は極端で、シェイクスピアの戯 曲がまだ存在していなかった世界があったなんて、どうしてもまともに想像 できないほどです。もちろんそういう世界があったことはわかってはいるの ですが、私には、アルプスがまだ存在していなかった世界を想像するのと同 じくらい、むずかしい。モーツアルトの音楽によっても世界は、私にとって、 ちがった世界になったのです。どこかでなにか作品がうまくできれば、音楽 でも、絵でも、いや、小さな詩でもいいのですが、いい作品が生まれれば、 その作品が存在するというだけで、世界は変革されるのです。というわけで このことは、私にとって、とてつもなく重要なことなのです。たんに美的な 意味においてだけではなく、それによって人類の精神の状況が別のものにな る、という理由においても。これはきわめて重要なことだと、考えています。 私にとっては、とてつもなく重要なことなんです。木を植えて森をつくるの とおなじくらいに。 ・・・ 私は、社会的な意味においても、そう言ってるんですよ。ヴァン・ゴッホの おかげで可能になった、新しい知覚は、新しい意識を導き、そして、その新 しい意識が、新しい社会のかたちや、生活のかたちを生み出すんです。 ・・・ ボイス/ そう、意図をもたないのはダメで、目標をもった意志が必要なんだ。つまり 全体には方向ってものがあるんだ、僕の場合は。投機的なものでもなければ、 戦術的なものでも、戦略的なものでもない。配列の指示なんだ。それによっ て証明されるのは、芸術の概念を通じてしか、人間の問題には接近できない、 ということだ。もっともその場合、言ってることを理解してもらう必要があ るので、みんなに理解されないあいだは、芸術の概念にしがみつく必要はな い。かわりに、社会芸術って言葉を使ってさ、「これは、過去の芸術の概念 ではなく、拡大された芸術の概念です。人類学的な芸術なんです」って言う のさ。そのさいには大いに助力が必要なんだよ。いずれにしてもさしあたり は、助力が必要なんだ。人びとはあいかわらず知性で考えるからね。経験で きるようにする必要がある。つまりさ、「これが出発点だ。いちばん最初に やることだ。ともかくも自己変革だ」と肌で感じてもらえるように、人びと に働きかけることが必要なんだ。・・・で、自己変革をすると、ぼくは自分 がクリエイティヴな存在である、創造する存在である、と肌でわかる。する とぼくは、創造する存在である自分を使ってさ、自己決定という概念を、正 しい意味で、正しい立場から使うわけだ。すると、その決定する力によって 社会全体にかかわる当然のフィールドが決定される。法を定めるってことさ。 つまりさ、主権者が決定する。自由を経験した者だけが、自分で主権者と名 乗れるわけだからね。そしてそのフィールドで、決定がくだされる。つまり、 経済の領域での「どのように」に影響を及ぼす形式が定められる。政治家の ためにそれを散文でいうなら、こんなふうに翻訳する必要があるだろうね。 そう、法社会学者なら、「法における形式がくだす決定が、経済の掟だ」と 言うだろうね。また彼は、ボイスの意見をこう翻訳するだろうね。「経済の 行為が問題になる領域に対しては、経済の新しい掟をつくる必要がある」と。 >神秘学的ビジョンと政治・経済のビジョンとのクロスについても期待します。 >しかし、唯物論によって凝り固まってしまっているかのような政治・経済会 >全体を神秘学で解体・再構成することを考えると、多大な困難があるようにも >思えます。 そのビジョンを包括的に提示したのがまさにシュタイナーで、 「社会の未来」や「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」というのが その基本的な著作なのですが、あの時代、ナチスの国家社会主義という運動に 飲み込まれていってしまいました。 おそらくこれからもこうした神秘学的なビジョンというのは 多くの受け入れるところにはならないかもしれませんが、 まずは、ビジョンを持てる者は持つよう試みるというのが 何よりも大切なのだと思っているKAZEでした。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 332/333 GGA02514 KAZE 私という創造 (11) 92/12/07 13:32 301へのコメント 今回はすっかり遅くなりましたが、 シュタイナーの魂のこよみからのイマジネーション、いってみます。 > 私は存在が認識できるのか。 > それによって魂の創造行為の中で > その存在がおのれを > また見出だせるようにできるのか。 > 私は感じる。私に力が授けられたのを。 > だから今、私の自我は > 宇宙の自我の一分肢となって生きる。 冬の白い空の下で 出会った謎の人物はこう言った   おまえが見出すすべてのものはおまえである   おまえはおまえという存在を限りなく創造し続けるのだ   そうしておまえは宇宙というおまえとなる その謎の人物にはそれ以来会ってはいないが もしまた会えることができたらこう言おう   私の意志が私を創造し   私の感情がその私を感じ   私の思考が私を宇宙にする   ああ、あなたはいったいどの私だったのでしょうか   ああ、私はいまやあなたになったのかもしれません   ああ、私のなかで大いなる意志が生まれているのを感じる いま、またこの白い空の下で 私は宇宙からのインスピレーションを受け 私の魂は私というファンタジーを宇宙に届ける 私が私になり、それ以上の私になる その時が、ようやく来たようだ 私というのはいったい誰なのかという永遠の謎の前で 私というファンタジーを紡ぎだしてみるKAZEでした。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 333/333 GGA02514 KAZE シュタイナー「カルマ論」レジュメ●その1 (11) 92/12/07 16:45 シュタイナーがその晩年の1924年に取り組んだ 「カルマ論/カルマ的関連の秘教的考察」の講義のうち、 邦訳のある、第一巻の第一講〜第三講、第二巻の第六講から第九講までのなかから、 そのいくつかのポイントをピックアップしながら紹介させていただきます。 邦訳は、日本人智学協会から1991年の11月及び1992年の5月に 発行されていますが、一般の書店では扱ってはいないようです。 監修は高橋巌氏、訳は志賀邦瑞氏となっています。 ============================================================================     シュタイナー●カルマ的関連の秘教的考察●第一巻/第一講 ============================================================================ ■鉱物界においては、原因と結果は物質的に同時に存在する。または、物質において は原因は同時に存在する。 ・無生物の領域内で取り沙汰されうる原因は、無生物自身の領域内のいたるところで 探すことができる。結果が無生物の場合、原因もまたその同じ無生物の領域内に探す ことができる。すなわち、無生物の経過に対して、無生物の領域内に、原因も探せる 場合にのみ、本当に認識にかなったものとなる。 ■植物界においては、原因は物質的世界と超物質的世界において同時に存在する。 ・植物における働きの諸力は広大な宇宙全体にある。植物に起こるものはすべて広大 な宇宙の働きである。何らかの働きが植物界に生じるには、まず太陽がある特定の位 置に来なければならない。その他にも、植物が自らの形、内的な衝動などを得るには 別の諸力が広大な宇宙から働かなければならない。 ・植物界の原因の力は宇宙空間から地球へやってくる。エーテル界から植物に作用し ている力は、人間の中にも作用している(エーテル体)。人間は死の門を通ったとき エーテル体は宇宙空間へ、植物界のためのエーテル的諸力がやってきたもとへとでて いく。 ■動物界においては、現在の結果に対する原因は、過去の超物質界に存在する。 ・もし感情や運動を備えた存在になるための素質として発芽するものの原因を見いだ そうと思えば、その動物が生まれる以前にまで遡らなければならない。植物を観察す る場合、(広大な宇宙の中に)原因を見つけることができるが、感情や運動能力とし て動物の中に作用しているものの原因を探そうと思えば、同時的なものに目をむける ことはできない。その動物と同時にある宇宙の星座が、その動物的本性に影響を与え るのではなく、その生命以前の星辰が影響を与える。 ・人間は、死の門を通って自分のエーテル体を脱ぎ捨てると(エーテル体は植物成長 力、エーテル体がやってきた宇宙空間へ向かう)、アストラル体とともに、同時にな るものに向かっていくのではなく、誕生以前のものに戻らなければならない。動物の 感情能力や運動能力を与える諸力の源へと行かなくてはならない。その諸力は空間領 域から来るのではなく、同時間に存在する星座から来るのでもなく、先行する星座か ら来る。 ■人間界においては、物質的世界の現在の結果に対する原因は過去の物質的世界に存 在する。 ・光が無限へ進むと考えるのはナンセンスである。ゴムボールを内部へ押すと、ある 程度まで押すことができるが、その後ははねかえる。つまり、弾力に対する圧力が終 わりになり、戻るように、光についてもその通りのことがいえて、光は無限に進むの ではなくて、ある境界に達するともとに戻ってくる。 ・空間世界では、はるか遠くへと思考をめぐらすとともに、もとの場所に戻らなくて はならない。無限の空間を単純に仮定してはならない。無限の空間はひとつの空想物 に過ぎず、それも理解不能な空想物である。 ・植物界や人間のエーテル部分について問題とする場合、エーテル界の境界へいたる。 しかし動物界や人間のアストラル部分を解明しようと思えば、すべての空間世界から 外へ出て行かなくてはならない。時間の中を散策しなければならない。そこで同時性 を越え、時間の中を進まなくてはならないのである。 ・私たちはます空間の中に立っている。地球空間が内側にある。私たちは外部の宇宙 空間へ進み、さらに時間へと進む。そのとき、私たちはもとに戻っていく。空間を進 んで行ったとき、私たちは境界にたどりついて戻っていったが、ちょうど同じように もとに戻っていく。すなわち、時間空間の中で過去の超物質的原因を探すと、物質的 世界へ戻って来なければならない。 つまり、私たちは時間を下って、また地球へ行かなければならないのである。人間に おける原因を探そうと思えば、また地上で探さなければならない。時間を遡って、ふ たたび地球に戻ると、当然ながら以前の人間の生にいたる。動物の場合はさらに進む と、エーテル体が境界へととけていくように、時間に関してとけていくが、人間は以 前の生へと戻っていく。 ■純粋に論理的になり、原因のつながりを探すと、純思考過程においても、過去の地 球に戻る。霊的なものを理解しようとしたら、思考自身も違ったものにならなければ ならない。霊界より開示されたものは理解できないと人はいうが、それに関する論理 を展開すれば理解できる。霊界から伝えられるものに、霊界にふさわしい思考を対応 させねばならない。それは、純粋な論理的思考において解明される。原因の多様性を 探求するにつれ、過去の地球の生を実際、論理的に理解できるようになるのである。 −会議室13 ★HVHYの預言解読部屋------------<02> 発言数 :215 未読 :1− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 215/215 GCC01413 HVHY タペストリー (13) 92/12/07 21:10               〜 裏の裏? 〜  例えば、現在の世界が、瀕死寸前の危機的状況にあることを、誰かに話す。  しかし、その誰かが、エリートと呼ばれる人達の場合、一般的に言って、  相槌を打ちながらも、“対岸の火事”として、聞き流す傾向がある。  一方、社会の中で、見たところ、大した影響力も持っていない人の中に、  現在の世界の本当の姿を、かなり的確に、捉えている者が居る。  もしも事態を直視し、自分の行為の結果を冷静に評価した時、  ほとんどの日本の人々は、一度着飾ったものを脱ぎ捨てねばならないのだが、  エリートと言われる人間に限って、外套一枚でも、捨てるのを惜しがるのである。  それどころか、今の時点でも、まだまだ“着飾ろう”としている輩が少なくない。  これは一体、どうしたことか? (天使族の計画の成果に対する客観的評価)  「大きな破壊を招かないための小さな破壊」という戦略が採られているのだろう。  しかしながら、“小さな破壊”で打撃を受けるのは、まず“持たざる者”である。  そして、打撃を受けた者は、打撃を受けなかった者に従属を余儀無くされる。  それが、現在の社会の大体の構図なのではないか? (現社会システムの機能)  ところが、人間という立場から、一定規模の影響力を行使しようするのであれば、  現社会システムの枠内に於いて、それを実行出来るだけの背景が必要となる。  また、その背景は、“小さな破壊”によって壊されるようなものであっては困る。  このように考えてみると、実は、  天使族の計画が“かなり巧妙”に進められていることが解る。  何ヶ月か前のRTで、北川さんは、  「これから(しばらく)は白黒が逆転したように見える…」と述べられた。  この『逆転』という言葉は、それを理解するに当たって、細心の注意を要する。  アナロジーで言えば、“裏の裏”は単なる表ではない…ということだろうか。                                 HVHY 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室14 ・壁(2)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 発言数 :568 未読 :2− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 567/568 GBG02755 ダダッコ 珠 無題  :珠 (14) 92/12/07 09:34 ただ、今日1日を生きること。 1日を生き延びること。 明日のことは考えたくない。 昨日は過ぎた思い出。 この命を止めないように、ただ生きる。 どんなに辛くても、虚しくても、哀しくても、 生かされている限り、生きるより他なく、 今日1日を抱くより、することもない。 心に流れ来る感情を流し続け、 この瞬間が過ぎて行くのを見守るより他に何もできない。 未来は見えない。 明日が見えない。 ここに一人立ち尽くす。 ただ、天使の守護のみ心の支えとして。                       珠 568/568 HFD01514 なえ RE:巡る季節の中で思うこと(^^;) (14) 92/12/07 12:54 548へのコメント 蜉蝣の一期 思いは届かず 行き場も無く 心だけが残る 出会いよりも別れは増え 取り残されて 一人 それでもわたしの手の中にある”希望”は  唯一 色あせてはいない  そして光の瞬きの中に あなたを 想う