715/741 MHF01607 える RE:昔、戦争があった… ( 2) 92/12/09 00:02 714へのコメント  人と人とが傷つけあう・・・もう何度も使われてきた言葉で、 自分からこの言葉を出すのは、その事柄を薄っぺらくしてして しまう様な気さえしてしまう。。。  ずっと前、RTで機動隊の話を聞いた時も思ったのだけど、 そういう時、個々の人間の心の中は一体どういうものなんだろ うか。。。 今だに想像出来ないけれど、歴史が語っている様 に、私もきっと例外ではなく心のどこかにそういう精神状態に なる部分を持っているのだろう。。。  戦争に行った父親に、聞いてみたいと思いつつ、触れてはい けない部分のような気がしてもう数年が経っている。                       MHF01607 えるっ CCS(N)> 716/741 HGG01312 たまご RE:「開戦の日」によせて ( 2) 92/12/09 00:28 713へのコメント   戦争を賛美する人がいなくならない限り,戦争はなくならないだろう.   彼らは言う,大義のためには必要なのだ,個人の命など惜しむべきではない.   ちょっと前では日本でもそんな議論があった.   国際貢献のためには,日本も汗と血を流そう.   いったい誰が,血を流すのだ???   血を流させるもの,流すもの,流れた血を飲んで太るもの.   戦争を賛美する人たちは,決して戦地へ行かない.   戦地で倒れるのは,戦争をはじめた人ではないし,戦争を指揮する人でもない.   いまも,世界の,どこかで,戦争は行われている.    反戦平和を歌ったジョン・レノンが凶弾に倒れたのがまた,12月8日で    あるのが,かえって印象深い気がする  たまご CCS(N)> 717/741 SDI00635 みれ RE:「開戦の日」によせて ( 2) 92/12/09 03:02 713へのコメント  昔、戦争があったという表現しか見当たらないこの頃であっても、あたしの 人生には、父親の右足の銃創という形の戦争の遺恨が記憶として居座りつづけ るわけで、これに伴って母親と父親の結婚への過程という知らなくても良いよ うな部分までオマケとしてくっついてくるのだったりするのね(^_^;)。  父親の兄は上海で亡くなり、その兄に嫁いでは?と尋ねられていた母に弟で ある父がプロポーズした、という話を母から聞いたのは随分前の話だが。その 上海で死んだ兄が出征前に恋人と別れるに際して、自分は多分生きて帰らない だろうからと、すがる恋人に手を付けずに(^_^;)、日本を立ったという話を聞 いたのは、つい最近のこと。それも40年も後に連れ合いが亡くなったからと いう理由で、上海で亡くなった兄の恋人が墓参りさせてくれと頼んできたこと から知った話。  泣きながら兄(あたしには叔父だが)の墓を抱く、初老のその恋人だった人 にとって戦争とは何だったのだろうか?  国家の争いである戦争が、あたしたち一人一人の人生にどのような影響を与 え、そして子孫にどのような影響を与えてゆくのか?ということに、思わず心 を留めて考えて欲しいと願ってしまう、そんな開戦の日。 CCS(N)> 718/741 GEH01447 ぼー RE:「開戦の日」によせて ( 2) 92/12/09 05:47 713へのコメント コメント数:2  わたしの父は1944年生まれで、完全に戦争を知らずに育っている。それは 1941年生まれの母についても、ほとんど同じだろう。(彼女の戦争の時の 記憶らしきものというのは、疎開する時の移動中に覚えていること位の ものなのだそうだ)  学校で平和教育は受けたけれど(わたしの出身は広島県なので、原爆祈念日 などのおりにふれて、そういう機会を持っていた)、身近な人の苦しみや 悲しみとしての戦争の話は聞くこともなく、追体験としての戦争体験すらない。  ただ、子供のころ感じた、漠然とした疑問。  殺人というものは、厳然とした悪であるはずなのに、それが戦争という段に なると、なぜ完全なる善へと価値の逆転がなされるのだろうか。どんな大義名分 があったとしても、それを正当化しうるだけの理由となりうるものが存在する とはとても思えなかった。戦争をやむなきものとするには、どこか無理がある のではなかろうか。                                ぼー CCS(N)> 719/741 PFA03563 YAHATA この心の動揺は何? ( 2) 92/12/09 06:38  おねえさん、あたしに生酒をください。肴?塩でいい。 今年の風邪はのどにくる YAHATA CCS(N)> 720/741 HGG01312 たまご 冬に考える反戦平和 ( 2) 92/12/09 06:54 718へのコメント コメント数:2   8月6日,9日,15日と,夏に反戦平和を考える日本だが,12月8日には,  なぜかあまりやらない.去年は真珠湾から50年ということで,マスコミも大きく  取り扱ったが,今年はあまり取り上げない.思うに,被害者としての戦争は考える  が,加害者としての戦争は忘れようとしているのではないか.それだけではいけな  いのに.   歴史をひもとけば,戦争をはじめるとき,それは善であり,美化される.   なぜなら,自衛のため,平和のためと宣伝されるからだ.   この間の太平洋戦争だってそうだったろう.アメリカから,自国を守るために,  開戦する,と主戦論者は言っただろう.そして開戦したなら,平和のために戦うと  言い張るだろう.   語られるのは大義名分というほどの大それたものではない.   やられる前にやれ,あいつらを倒さなければ平和はない,そんな言葉と作り上げ  られた偽の愛国心が,人々を狂気へと駆り立てる.     人の命よりも大切なものがある,といって人は戦争をはじめ,     人の命は何にも代え難い,といって人は戦争を終わらせる.   だまされてはいけない.   いま,戦争をしている世界の人たちは,平和を勝ち取るためと信じて闘い続けて  いることだろう.なぜ,それが愚かなことだと気づかないのか.     やられる前にやれ,やられたらやり返せ.   この呪文から,人類は解放される日がくるのだろうか.              たまご CCS(N)> 723/741 PBC02112 宇宙猫 RE:「開戦の日」によせて ( 2) 92/12/09 12:08 713へのコメント  前にアメリカ人と日本人だったか,アメリカ人とベトナム人だったか,  又どこの土地での話だったのか忘れてしまったけど,  戦時中に敵国同士の兵隊がある土地でばったり出会ってしまった話を聞いたことが  ある.  どちらも銃を持っていて,出会ったとき一瞬はっと立ち止まってしまったそうだ.  でもどちらも死にたくなかった.そして相手の気持ちも察することができた.  それで2人は何も言わず,洞窟の中に入って外の戦禍が治まるのを待った.  アメリカ人が自分の家族の写真をもう一人の方に見せた.  しばらくして外の戦禍が治まると,戦争が終わったら連絡を取ろうと約束して  別れて行った.そして戦後連絡を取り合い,お互いが生きていることを喜んだそうだ  ダライ・ラマ14世はチベットを中国から取り返すために決して武力行使はしない.  国内からはなぜ武力で奪回しないのか,と声が上がっているらしい.  でもダライ・ラマ14世は,”あくまでも話合いで解決しましょう.例えいまの  中国政府と折り合えなくても,政治家は入れ替わって行くから,きっといつか  解ってもらえるときがくる”と話している.  また,こうも言っている.  ”人類はイデオロギーではなく,思いやりや優しさで一つになっていける”  というようなことを.  これを読んだとき,ほんとそうだなと思った.  本当に思いやるって難しいし,いろんな道のりがあるような気がするけど,  そういう人間になりたいなと思う. CCS(N)> 724/741 GGB01540 TOSHI RE:冬に考える反戦平和 ( 2) 92/12/09 13:15 720へのコメント コメント数:1  平和を勝ち取るための戦争もあるのだ。それを愚かなことだと笑えようか? CCS(N)> 725/741 GBG02043 維/YUI 今日(12/09)のメッセージに ( 2) 92/12/09 13:54 コメント数:1 >>>時を超え距離を超えて、ずっと維/YUIさんを愛し続ける心を受け取って! ”キャ〜ッチ!!!”(わぁ、あたたかいんだ (*^^*)) まえも、書き込んだことだけれど・・・。 空想好きな子供だったころ、愛してくれる人が空想の世界にいました。 それは、時を経るごとに頭では"空想の"ことと判断し、なおかつ心ではリアルな存在 として、私を支えてくれていました。 大人と呼ばれるくらいになって、”現実”と”空想”がごちゃまぜになったりは もちろんしなかったけれど(^^;アブナイナァ・・)、相変らずそれは"支え"でした。 と、同時に日常の生活の中でも、それに匹敵する人が現われるようになりました。 とはいえ、悲恋なことばかりでさ・・・(そのわりにげんきだった > 私)。 あるとき、空想の存在に向けてグチっていたら、"いつか、逢えるよ。"などと 言うのでした。(^^;) 一般的には、私が考えあげて一人芝居をしているわけだから、 戯れ言でしかないのだけれど、なぜだか(自己暗示の一種かな?)”逢える”と 心のどこかで信じきっているようです。 20代も半ばになったころかな・・・、地球のこととか宇宙のこととか、人間のこと とか・・取り留めもなく考えていたときに、”愛している”って気持ちでいっぱいで おもいっきり泣いてしまったことがあって、そのころからなんとなく、愛されている と感じることがあって、それはもうすっごい思い込みでしかなかったかもしれないけど 私にはリアルで効果のある”支え”でした。  なぜだか・・・未だに、私はその架空の存在にときおり悪態を付くのです。 逢えるって言ったじゃないかぁ!!!!って。 いつになったら逢えるのだろう・・・ 誰だか、名前も顔も声も知らないのに・・・ どうしたら、わかるんだろう・・・ *^^* ロマンチックではあるでしょ?? こういう"赤い糸"的な内容は、劇の定番なんですよね・・・。 ほんとに逢えたらいいなって、思いません? *^^* 維/YUI。 PS: ”すべてを越えて、すべてをかけて、愛してるよぉ〜っ☆” CCS(N)> 726/741 GBG02043 維/YUI 戦争と平和 ( 2) 92/12/09 14:04 コメント数:1 なにをもって、平和とするか・・。 心のどこかにしこりを残したまま、上辺だけの平静を保つ世の中ではなければいいと 思います。 今まで行われていた、そして行われている戦争は、根本的に究極的に肯定しうる戦い なのかしら? どこかで、ゆがんでしまったもの、ひずんだものがあるような気がします。 "平和"のために死んだり傷ついた人々の"戦い"をそまつには扱えない。 でも・・・その犠牲さえも本当に活かされた世の中なのでしょうか????? もし、そうでないとしたら・・・                         維/YUI。 CCS(N)> 727/741 GBD03557 シゲ RE:冬に考える反戦平和 ( 2) 92/12/09 16:22 720へのコメント コメント数:1 やっぱり”たまご”は、甘ちゃんだよ。 もちろん、太平洋戦争が正しいかっていったら、間違ってるって答えるよ。 でも、戦争が愚かなことだろうか・・・争うことが愚かなことだろうか・・・ 高度な知恵を、文明を持ってるっていったって、人間は動物だろ? いい子ぶってるのが人間本来の姿なのか? 誤解を招かないためにいうけど、何の罪もない人を・・・とか、洗脳とか・・・ っていったら戦争は間違ってると思うよ。 だけど、争うことは必要なんだと思うな。 「お客さん、居酒屋で争いはやめて下さい」<さはし、みれ おっと、失礼 CCS(N)> 728/741 GBD03557 シゲ 最近の ( 2) 92/12/09 16:23 725へのコメント 維/YUIさんって、ちょっと変化したような気がする。 CCS(N)> 729/741 HGG01312 たまご RE:冬に考える反戦平和 ( 2) 92/12/09 18:14 724へのコメント コメント数:1   TOSHIさん,こんにちは.   笑ったりはしません.被害者も,戦死者もいるのですから.でも,平和を勝ち取  るための戦争など愚かなことです.それは,平和を勝ち取るための戦争などという  ものが幻想だからです.   たとえば,平和を勝ち取る期間は,平和じゃないでしょう.短期間でなら,そう  だったと言い張ることができますが,10年,100年の戦争ならどうなるんです.  それも,平和を勝ち取るためなどと言い張れますか.   期間だけの問題じゃない,戦争は,勝者にも敗者にも,たくさんの犠牲がでます.  残された遺族は,相手を決して許さないでしょう.大黒柱を失った家族は?恋人を  失った者は?それこそ,末代まで憎むでしょう.   見かけ上は(国家間に)平和が訪れても,多くの人たちの心には傷が残ります.   その傷が次の戦争を引き起こした例は,歴史上少なくないでしょう.   侵略を受けた場合は,どうするのだ?   それでも,無抵抗でいるのか?   そういう人もいるでしょう.   しかし,侵略なんて,突然起こるものではありません.   何のための外交なんです?   戦争は,外交の失敗によって起こります.   喧嘩するのに,いきなり殴るなんて奴はいません.にらみ合いがあって,耐えき  れなくなった方が,手を出すのです.   そうならないために,外交に力を注ぐんです.粘り強く交渉するんです.   口で言ってもわからんのか,なんてのは,人間のすることじゃありません.        たまご CCS(N)> 730/741 HGG01312 たまご RE:冬に考える反戦平和 ( 2) 92/12/09 18:14 727へのコメント   争いを否定したりしませんよ.   個人の争いで,人の生き死にが問題になる場合は,めったにありませんから.   ささいな喧嘩などはご自由に.   ただ,個人の争いが拡大されたものが戦争である,なんてことは言わないで下さ  いね.   戦争は大量殺戮を生み出します.   それだけ取ってみても,十分思いとどまる要素でしょう?   どうして,平気で,死人が出てもいいなんてことを言い張れるのですか?   死人だけじゃない,たくさんの遺族もです?   この人達は,犠牲になれって,平気で言うのですか?   争いが必ずしも愚かであるとはいいませんが,戦争は愚か者のすることです.     いかんな,居酒屋でまじめに議論するなど,滑稽だぞ.     それに,こういう話は,柄じゃないしな.          自嘲モード          たまご CCS(N)> 731/741 GBD03557 ダダッコシゲ ハンドル変更のお知らせ ( 2) 92/12/09 18:29 コメント数:1 某北海道民の命名により、ハンドルをシゲより”ダダッコシゲ”に変更致します。 今後、名付け親の某北海道民さんの許しがでるまで、ダダをこねますが宜しく。 おらおら、おめえだよ>たまご CCS(N)> 732/741 HFC01344 URD RE:園長さんからお手紙ついた。 ( 2) 92/12/09 19:13 711へのコメント コメント数:1   こんにちは  (^^)   >なえさん       私にも「なえ園」の招待券を下さいね。       なんか夢と浪漫がいっぱいありそうですね。       宜しく御願いしまーす。                 ちょっと怖いもの見たさの(^^;) URD(ウルド) CCS(N)> 733/741 HBA00401 PHOQUE Re:RE:「開戦の日」によせて ( 2) 92/12/09 21:01 718へのコメント  「戦争が悪い」という言葉は,ある意味でとても便利なものだと思う。  ただ「戦争」という,だれのものでもないモノが悪いのだということにして おけば,誰も責任を取らずに済むからだ。  戦争には必ず侵略者と被侵略者がいる。それぞれの局面で,その立場がいれ かわったりすることはあるけれど,大きな目で見れば,必ずどちらか片方が, 「より大きな責任」を負うべき侵略者として存在する。  「戦争が悪い」という言葉は,そのコトをとりあえず棚上げにさせる効果が ある。  だからなのだろうけれど,「戦争が悪い」とか「戦争だから仕方がない」と かいう言葉は,侵略者が好んで使うようだ。  侵略された側にとって,抵抗の為に侵略者と闘うことはやむを得ない事であ ると言えないだろうか?  しかし,もし「戦争が悪い」のだとしたら,侵略された側の抵抗も,侵略者 の行為と同じ「戦争」であり,同じ様に悪いのだということになってしまう。  戦争がいいことだなんて,もちろんこれっぽっちも思っちゃいないけれど, 「戦争が悪い」という言い方には抵抗を感じずにはいられない。 ** HBA00401/PHOQUE ** CCS(N)> 734/741 HBA00401 PHOQUE Re:戦争と平和 ( 2) 92/12/09 21:01 726へのコメント コメント数:1  #726 維/YUI さん  ウケウリで申し訳ない。  WW2において,日本は平和の為に闘ったのではない。日本が目指していた のは,天皇が神であり,軍人が国の宝であり,日本がアジアを,ひいては世界 を支配する,そういう社会だった。  その目的が果たされなくて,本当によかったと思う。死んだ人には悪いけれ ど,彼等を「平和の為に犠牲になって死んだ」と思うのは,正しくない。  彼等の死は「犬死」である。もちろん,彼等の死が犬死であることは,彼等 自身が悪いわけではないけれど。 ** HBA00401/PHOQUE ** CCS(N)> 735/741 GGB01540 TOSHI RE:冬に考える反戦平和 ( 2) 92/12/09 21:33 729へのコメント コメント数:1  侵略戦争に対して、座して死を待つのでなく、勇気を鼓舞して、抵抗の戦争を 行う人々を無視しては、いけない。ましてや、愚かななどと愚かな私には言えな い。経済的侵略に対してもそうですが、権力は軍隊とか警察とか、最終的に頼る ものは、現時点では、残念ながら、こうした暴力装置です。これにたいして、ガ ンジーの例を出すのはどうかと思うが、彼にしても暴力的な抵抗の方が有効なケ ースには武力闘争を仕掛けると述べているという記事を読んだことがあります。  口で言ってもわからないから、交渉してるうちに侵略されていく。そうした現 実に背をむけてはいけない。絶対平和主義者の偽慢は許されない。生死がかかっ ている状況が多々あります、現実的には。現在は理想的な社会でもなければ、口 で言えば、全部、わかりあえる理想的理性人間の集まりでもない。みだりに、戦 いを、否定しないでもらいたい。 CCS(N)> 736/741 GGB01540 TOSHI RE:冬に考える反戦平和 ( 2) 92/12/09 22:07 735へのコメント コメント数:1  PS:ぎまんのまんを間違えました。慢ではなく瞞でしたね。(^^)>ALL CCS(N)> 737/741 HFD01514 なえ ちわ!!!URD さんっ *^^* ( 2) 92/12/09 22:12 732へのコメント >>私にも「なえ園」の招待券を下さいね。 をを!何という。お若い方、殊勝だねぇ。ささ、これが(ドレダ?)招待券だよー。 なーに、簡単かんたん。かーんたん。 >←←←このマークが出てたら、すかさず!!!。 PROF HFD01514 でリターンキー  なーんて打っちみんさい。(^^) そこには「バラ色の世界」がねー、広がっておりますです。はい。 「だ!誰だい?。馬*んの山が広がってるぞー・・と叫んでるのは!!!。」 ををををを!!そういえば、わたしは全治1週間のケガで、瀕死状態だったに・・ つい、呼ばれて、出てきてしまったのだ。しまった。←←( シャレ ニモ ナラン ナー (^^;) ) CCS(N)> 738/741 PBA02422 さはし 個から全体へ ( 2) 92/12/09 22:28 736へのコメント 人が人を傷つけようとすることは、いかなる場合でも肯定してはいけないと思う。 侵略であっても、報復であっても、その流された血の記憶は久しく消えない。心 の奥底に深く流れる底流として、いつまでも残っている。いつかその輪を断ち切 られば、その血の輪廻は永遠に続くような気がする。 今までは為政者の意志が半ば一般民衆のレベルまで浸透することが出来た。例を 引くまでも無く、戦前の日本にしてもヒトラーのドイツにしても、情報を操作す ることによって戦争を民衆レベルから引き起こすことができた。それは全体主義 と云われたこれらの国ばかりではなく、イギリス、アメリカのような国でも開戦 の大義名分として大いに利用されている。 戦争は政治の延長である。戦争を肯定するような為政者は否定せねばならない。 どの国の民衆も為政者を選ぶことができる。流血を肯定する為政者を認めぬ良識 が必要であると思う。そのように考えても今までは、絵空事のような考えに過ぎ ないような気がしていた。しかし、身近に東欧の革命を見た今、こうした為政者 の否定も出来るような気がする。 戦争が「愚」であることを知ることが、全ての始まりであると信じる。そして、 必要なのは血の怨念を断ち切ることである。 CCS(N)> 739/741 HGG01312 たまご ダダッコさんからお手紙着いた ( 2) 92/12/09 23:21 731へのコメント >>今後、名付け親の某北海道民さんの許しがでるまで、ダダをこねますが宜しく。   なんで?   ただのシゲより,ずっとかあいいよ,そのハンドル.   しばらくそうしていれば?   ああ〜っ!!   うそうそ,もう言いませんだあ,お代官様.(^_^;)    お陰様でRTでの予告通り不幸のメールを送り付けられた>たまご P.S.実名入りの不幸のメールって,まぬけだぞい.(^^) CCS(N)> 740/741 GED03377 えのさん はじめまして、”えのさん”です。(^^) ( 2) 92/12/09 23:32 FARIONの皆さん、はじめまして・・・ ”えのさん”ともうします。 FMISTYで「アーリオーン」の会議室を尋ねたら、ここだと教えられて やってきました。 ”チャネリング”の存在を知ってから1年半くらいの 横浜市に住んでいる28才の男です。(^^) チャネリングと出会ったのは・・・ 本屋で、何気なく開いた「チャネリング・フォーユー」が最初です。 正確には「アーリオーン」を、それ以前に読んだことがあったんですけど、 ”なかなかいいことがかいてあるなぁ”くらいにしか思わなくって、それっきり・・・ (ごめんなさいね!) でも,そのあとで 「チャネリング・フォーユー」を読んで、”チャネリングってこういうものなのかぁ” って思って、”エクトン”とか”バシャール”なんかの本を読みはじめました。 最近、読んでいるのは、    「リグィング・ウィズ・ジョイ」(サネヤ・ロウマン著 高木悠鼓 訳) で、”オリン”という存在によって伝えられた情報が書いてあります。 最近、出会えてよかったなって思います!! 多くの人が本なんかで言っているように、 自分が少しづつ変わってきた感じがします・・・。 自分に素直になれるような、そのままの自分を表現できるような感じで、 胸の中がスッキリしているような、”爽やかな気分だなぁ”って 感じられるようになりました・・。 ・・・ってことで、なんだか自己紹介と言うよりも作文になってしまった感じですが、 皆さん、どうぞよろしくお願いします!! (^_^) GED03377 えのさん CCS(N)> 741/741 GBG02043 維/YUI RE:Re:戦争と平和 ( 2) 92/12/09 23:34 734へのコメント こんばんわ!!PQOQUEさん。 えっと、自分のUPを読み返していないのだけれど、私”平和”の犠牲になった とは、いってなかったとおもうのです。  ”戦争”の犠牲になった・・・という ことでさ・・・。 あえていうなら、最近の湾岸戦争あたりのときは=h平和” のためってのが、ちらちらしていたから、そのために・・・って思って戦いに 望んだ人はいるだろうけれど。 つまり、PHOQUEさんの言う、「平和の為に犠牲になって死んだ」と思うのは、 正しくない・・・っていうことには、さほどの異議はありません。 んで、そういうふうに読める文章だったかもしれないので(なんせON LINE だったので、今原稿が読めないの。 ちなみに今もONなんだけどね。)、 PHOQUEさんみたくに、私の書き込みを読まれたりしたかた皆さんに、ごめんねです。 上記のようなことですので、よろしく。 ・・・んで、じゃ”戦争”っていうのは一体何だって、疑問が湧いてきたけどさ。 今は、答えがないわ。                          維/YUI。 742/743 GBG02043 維/YUI RE:戦争と平和 ( 2) 92/12/09 23:44 726へのコメント なるほど、”平和”のために死んだり・・・って書いてるワ なるほど、”平和”のために死んだり・・・ってかいてるね・・・。 ごめんなさぁい!!>PHOQUEさん。 前のコメントに書いたとおりの意見ですので、それは了承ください。 死んだ兵士のなかには、早く終わらせて平和を・・・と思っていたひともいた・・ ってのが私の中にあって、そういう発言になったのだと思います。 ついでに、なにをもって平和とするか・・・って文も誤解されるかな??と いうことで、どういう状態を”平和”ってするか・・・ということですので、 そういうふうに読んで下さい。 PHOQUEさん、コメントありがとう!!!でした。(言われなきゃ、全然気がつかない かもしれない・・・>私)                          維/YUI。 CCS(N)> 743/743 GBG02043 維/YUI RE:ちわ!!!URD さんっ *^^* ( 2) 92/12/09 23:47 737へのコメント 看護婦さんが親切に、ラップトップのパソコンを持って来てくれたのでしょう・・。 (^_^;;) おだいじにぃ・・・・。(笑)                             維/YUI。 −会議室 6 ・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 発言数 :153 未読 :2− CCS(N)> 152/153 HHF01127 低位大勝軍 「僕って可愛い?」(640K編) ( 6) 92/12/09 19:52 「僕って可愛い?](640K編) 僕って可愛い?ほらこんなに飛び跳ねられるよ。 入って行くよ。君の世界へ。 ・僕って可愛い?何時までも? ・道が開けたような気がしたよ。 でも、魂の関わり合いはこんなにももろいんだ。 この変わりばえのしない世界の中で。 ・何かがある。 君を見ると世界が変わる。 ・一緒にいこうよ。 空の彼方へ。 ちっぽけな森と、街を抜け出して。 君には何かがある。 特別な何か。 新しくて古いもの。 (誰れでも思い出せばそれと分かるだろう) ・君に出会うのは、僕の中の大切なものに出会うことのようだ。 ・リスが飛び跳ねているね。 ・飛び跳ねるリズムのなかで、自分の澄み切った姿と出会う。 ・閉じこめられていた小さな龍が、箱から飛び出して自由になる。 CCS(N)> 153/153 HHF01127 低位大勝軍 「なぜ涙を流さないの?」(手締め式編) ( 6) 92/12/09 19:54 「なぜ涙を流さないの?」(手締め式編) ・故郷を一旦捨てて、故郷がつかめる。 ・僕はこの中にいるから分らないけど、ここって外から見たらどんなだろう。 ・この源を失ったとしても、それは束の間の幻。 ・花。 ・「ほんとにしょうがないな」と言うのは、「ずっと頑張ってね」というのに 似ている。 ・常に、最善が目の前にある。 ・既に起きてしまったことは、ただ、すべて起きてしまっただけだ。 ・団地。夢の織りなす、朝の気配と、昼のたおやかさと、 何かをはらんでいるような夜。 ・あの道路の起伏を下から見て、あの豪邸を通りを歩きながら、眺めて、 規則正しい、喜びと満足に息づく街の気配を身に受けて、歩き、走り、 バイクを飛ばしたんだ。 ・あの時の予感、希望、羨望、外に現れ、内に潜む喜びの賛歌。 道から、外から君が妹とバドミントンをやっている声が聞こえる。 楽しさの権化のようなはしゃいだ声が弾けてる。 デラックスに出来るよね。デラックスにしなくちゃね。 芝生に座って二人でお弁当を食べる。 なんともないと思っていたのに、でもいまは、弱い。 デラックスに弱いんだ。 CCS(N)> −会議室 7 ★アリオン世紀末書き込み寺----------<01> 発言数 :619 未読 :1− CCS(N)> 619/619 QFG02515 SHANA ステップ・アップ! ( 7) 92/12/09 23:41 615へのコメント たまごさん、こんにちは。 : 確認しておきますが,「個人からの変革」とは,個々人にまかされるべきであっ :て,誰かが音頭をとって,せーので変わるものではないですよね. はい。 革命のようなものとは違うと思います。 それぞれが自力で変わるということです、基本的には。 でも、それが、周りにも影響を与えるほどのものなら、 少しずつ広がっていくかもしれないし、 「こういうものもある」って、周りの人に見せたりすることはできると思います。 「周り」というのは、その人の活動範囲内のことですから、規模はそれぞれですけど。 もちろん、これは布教活動的なことを言っているのではありません。 え〜と、たとえば、 誰か笑ってる人がいると、周りの人もつられて笑っちゃうとか、 そういうようなことってあるから、自分だけの力で独りだけで…… ってことも、ないと思います。 : しかし,これらを実現するのには,いったいどういう手法をとればいいのか,私 :がどの様に自己変革していけばいいのかは,具体的には何も分かりませんし,どう :いう手段をとればいいのか,全く見当もつきません.SHANAさんには,見えて :いますか? え〜と、私としては、アリオンの言うところの「自分を見る」というのが、 良いと思ってます。 「冷静に客観的に『自分』を見る行為は、あなたの心に黄金をもたらす。」                       (「カミ・コメ・ツチ・ヒト」より) というやつです。 「想念観察」という言い方もあります。たぶん同じような意味です。 そういうことを言っているのは、アリオンだけではないです。 いろんな人が言っているから本当だろう、ということではなくて、 いろんなところで、「もう、始まっている」ということだと、私は思ってます。 ちなみに、「想念観察」というのは、 自分の想念を「客観的に、ただ」観察するということです。 「客観的に、ただ」観察する、というのは、 それを我慢したり、コントロールしたり、作ったりしない、ということです。 つまり、自分のいやな部分もただ観察するだけだし、 立派な人格者であろうとするわけでもない、ということです。 んで、 そういうことをして、どのように変わるのか? というところですけど、 まあ、私に解説できることでもありませんが、 とりあえず、ちょっと「カミ・コメ・ツチ・ヒト」を引用してみます。 ============================================================================== 【第一の注意力と第二の注意力】 第一の注意力の世界は、人間の一般的な生活の世界で欲界とも言う。 第二の注意力の世界は、人間の一般的な世界以外の世界で色界とも言う。 第三の世界は、第一と第二の世界の平衡価値化に見る世界で無色界とも言う。 時間で言えば、欲界は「過去」、色界は「未来」、無色界は「今」。 欲界は「絶えず過ぎ行く世界」、色界は「絶えず来たりくる世界」。 無色界は「行き過ぎず、来たりくることの無い」世界だ。 あなたがたは「絶えず過ぎ行く」世界(欲界=一般的な生活世界)にのみ 気を取られていては、何も見つけることは無いだろう。 絶えず来たりくる世界(色界=一般的な生活世界以外の世界)と、 絶えず過ぎ行く世界の価値の平衡化がある時に、 第三の世界、つまり本当の「今」が見えてくる。 時間軸で話せば、過去に気を取られていては何も見つけることは出来ないし、 未来に気を取られていても同じことだ。 過去と未来の価値の平衡化がある時に、初めて「今」が見えてくる。 つまり既に手にしたものの価値と、これから手にするであろうものの価値との 平衡化がある時に、全てを手に入れることと、全てを手に入れないこと、 そして既に手に入れたことと既に手に入れなかったこととが、 同じ意味を持つものと理解できる。 これを、あなたがたは「悟り」と呼んだりしている。 しかし、これは未だ悟りではなく、 悟りへ至る未知の道標を見つけたに過ぎないのだ。 此処に至ったものの半数以上は、これが「悟り」だと誤解していたことを識る。 それを知った者の内、僅かな者だけが此処から始まる悟りへの道を 歩もうとするだろう。 残り大半の者は、先の長い旅路を忌避し「悟った」という誤解を甘んじて 受入れ、それを「悟り」として他の者に教えようとするだろう。 知った者は「悟り」への道は、教えることが出来ないことを識るので、 教えの道に入らないが、誤解を甘受した者は教えようとするだろう。 悟りの道標から先は、言葉で話すことの出来ない世界になる。 悟りを教えようとする者に、気を付けなさい。 ============================================================================== これに当てはめると、 「想念」というのは、つねに流れ去っていくものだから、「第一の注意力の世界」。 そうすると、「想念」というものは、 「一般的な生活の世界」であり、「欲界」であり、「過去」であり、 「絶えず過ぎ行く世界」である、ということになります。 んで、それを客観視するわけですが、 客観視するということは、外から眺めるということで、 つまり想念を観察するとき、 それを観察している「私」は、「第一の注意力の世界」ではない、 ということです。 私の思っている「変わる」というのは、そういうようなことです、たぶん。 「社会からの変革」というのは、 「第一の注意力の世界」の中のことでしかないと思うのです。 言い方を変えると、表面的な変更でしかない、ということです。 私達が「社会」と読んでいるもの自体が、 「第一の注意力の世界」でしかないのではないでしょうか? もっと、本質的な変化が必要だと思います。(社会はいらない、という意味ではない) その変化は、「もう始まっている」流れだと、私は思います。 問題は、どれだけの人が、その流れにのるか? ですね。 あまり具体的なことは分かりませんが。 : つまり,個人からの変革だけではダメだと言うのはこの点です. : 個人からの変革は,個々人によって行われながら,全体として,ひとつの方向を :向かないと改革となり得ません.しかし,個々人によって行われること自体が,ひ :とつの方向を向かせることを困難にするのです. : 確かに,おっしゃるとおりですが,前述の点を考えても,個人からの変革が失敗 :なしに結果が出るとは,とうてい思えません. 選択肢の可能性はいろいろあるでしょう。 しかし、最良の選択肢はひとつしかないと思います。 うまく言えませんが、私の心のどこかに、 なにか信頼のようなものが、あるのかもしれません。 私は、なぜだか大丈夫なような気がしてます。 私に未来が見えるわけじゃないですけどね。 私としては、とりあえず自分で出来ることをやるだけです。                               By SHANA PS.あ、でも、正確に言うと、予知夢みたいなのは見たことありますけど。 −会議室11 ★KAZEの神秘学遊戯団----------------<02> 発言数 :344 未読 :6− CCS(N)> 339/344 GGA02514 KAZE 形について (11) 92/12/09 16:20 335へのコメント 隆ちゃん、どうもです。 目と胃に限らず身体のことというのは、日頃から気をつけたいものですね。 ヨガや導引術、気功といったものも、そうした日常からのケアのために きわめて自然にとりいれていくのがいいのでしょうね。 とはいうものの、僕も決して身体にやさしくはしてないようで、 それを補うために、丹田に落とし込む深い呼吸と「手当」を用いることが多いです。 深く呼吸して疲れたところに手を当ててみると、そこがじーんとあったかくなり 疲れの部分が癒されていくのがわかって、ああ自分は身体に酷いことをしてたんだなあ とか思いながら、懲りずに同じことを繰り返して身体をいじめてしまっています(^^;)。 >自然物の形は本当に不思議です。 この「形」というテーマは、非常に奥の深いもので、 前会議室でも中村雄二郎さんの「かたちのオデッセイ」(岩波書店)をめぐって いくつかとりあげてみたことがあります。 この著書で論じられているテーマは、僕の最も関心のあることと 密接に関わっているものですので、その序文の「エイドス・モルフェー・リズム」から この本で論じられている内容の概略を紹介しておくことにします。 ちなみに、「エイドス」というのは、「形相」つまりイデアとしてのかたちのことで、 「モルフェー」というのは、形態のことで、ゲーテの「形態学」というのは 「モルフォロギー」といいます。 この本の基本的な視点というのは(ちょっとわかりにくいかもしれませんが) まず第一に、既成の特に高度化された概念や理論を、 もっと具体的で感覚的な次元へ引き戻して考え直すために、 「言語」とともにイメージやかたちを理論的にとらえること。 第二には、五感を貫き統合するものとしての「共通感覚」の立場に立つときにも、 その対象として浮かび上がってくるのは「言語」とともに「かたち」であって、 それを「かたち論」へとシフトし、 視覚的な形態のみならず、運動感覚などの体性感覚のとらえる「もの」の姿、 聴覚的及び体性感覚的なリズム、そして「色」というテーマをとらえること。 そして第三には、美的・感性的な判断力の世界としての「かたち」を 形式と内容の問題をいろいろな角度から照らし出し、統合する力を持ち、 さらには自己革新力をもそなえたものとしてとらえること、ということで こうした視点に基づいて、さまざまなテーマがとりあげられているわけです。 まず、リズムの問題を展開する糸口として「ホログラフィと共振」というテーマで、 ホログラフィの創始者の一人カール・プリブラムの 「自分の理論はすべてを振動の観点から見るものだ」から触発され、 「リズム」と「共振」という観点から、R.シェルドレイクの 「形態は形態に対してエネルギーなしの因果作用を及ぼす働きをもっている」 という仮設についての考察に及びます。 「六大に響きあり」では、リズムの問題を生命のリズムとの関わりで、 「宇宙リズムと形態形成」を中心に論じています。 この問題に関連して、三木成夫氏が「胎児の世界」で論じている 宇宙的な生命記憶についての仮設とJ・E・ベーレントが「世界は音」の中で 提出している「宇宙電波音楽論」が結び付けて論じられ、 空海の関係で密教のマンダラのコスモロジーの問題も検討されます。 「形象の誘惑」では、かたちの問題を、 あるものが他のものに似ていることの不思議さを糸口にして、 ゲーテにもつながるフォジオノミア(相貌学)やモフォフォロギア(形態学)の系譜や フラクタル図形にあらわれる「怪物曲線」や「悪魔の階段」が論じられます。 「色の領界」では、「かたちの分身」としての「色」を扱い、 ゲーテの自然研究としての「形態学」と「色彩論」の問題が検討されます。 「眼は色彩を見ているのではない。もっぱら明暗あるいは色彩が浮かび上がらせる ものを見るのである」というゲーテの言葉に色彩と形態の接点がみられるといいます。 「迷宮と原型」では、自然の至るところになぜ渦巻や螺旋形が見いだされるのか、 また人間がなぜそのような形態に惹かれるのかということが、 今日の自己組織化の理論にも通じる、大気現象を中心に渦巻の性質を説いた 藤原咲平氏の「向対称の原理」などをひきあいにだして検討されています。 「幾何学と混沌」では、明確なかたちの典型である幾何学的対象を、 その反対の極に位置する混沌との対比で、多角的に論じています。 さらに、「美と力と崇高のはざま」では、「形式」と「反形式」という問題が 美と崇高、かたちと力、構造と歴史などの角度から検討されています。 また、「場所とリズム振動」では、西田幾多郎の「場所の論理」から、 西田のいう「無の場所」を無限の可能性をもった動的システムとしてとらえなおし、 同時にそれを濃密な意味をもった有機的宇宙(コスモス)と表裏をなすものとみなし、 意味や生命の根源がリズム振動にあるという仮設をたてて、 コスモスが一面物質的な諸元素から構成されているのに、 なぜ生命的なものでありうるのかという問いが考察されています。 「色のある世界・色のない世界」では、「色の領界」に引き続いて色彩の問題を論じ、 ゲーテの色彩論を形象したヴィトゲンシュタインとシュタイナーの論が紹介されます。 ヴィトゲンシュタインは、色彩よりも明暗、透明度、輝きなどを問題とし、 さらに色という現象を言語ゲーム的にとらえようとしていますし、 シュタイナーは、色の像(影)と輝きを区別して、輝きをもった黄、青、赤の各色を それぞれ霊、魂、生命に対応させ、緑は生命の影なので、強烈な生命の輝きである 赤の残像になるといっています。 そして、最後の「振動のひらく世界」では、イェンニの「波動学」を扱い イェンニに実験を発展させたスーザン・ダージェスの水銀滴を使った実験で、 ヤントラ(マンダラの原型)の中心などに描かれているオーム音の形象として、 △と▽が重なりあった幾何学図形が振動する水銀滴にあらわれることが紹介されます。 以上が、「かたちのオデッセイ」の内容の概略ですが、 すごく盛りだくさんでして、いろいろ目移りがしてしまうでしょうが、 どれもこれも非常に興味津々のテーマなので、あえて全部紹介してみました。 このなかで、特に興味のあるものがあれば、 あらためて詳しく扱ってみたいと思います。 えっと、最後に、フォルメン線描ということに関係した この「形」ということの意味について考えてみたいと思います。 なぜフォルメン線描は、子供たちに調和的な感覚を育成できるのか、 つまり、ひいては教育において「形」というのは、人間の魂の成長にとって どんな意味を持っているのかということです。 これについて考えていくときの一番基本的な考え方というのは、 ユングやフロイトの考えにもありますが、私たちの心の働きを遡っていくと 無意識の中にある「形」と出会うところまでいくということです。 これについては高橋巌さんのシュタイナー学校のフォルメン線描」に 説明がありますので、引用しておくことにします。 ・・・海上の氷山をかりに意識だとしますと、意識の先端のところに感覚の 世界があって、この感覚の世界が外界からの印象を受け取ると、それが意識 の至るところに拡がってゆき、そして私たちのありとあらゆる表象生活、イ メージ、観念、あるいは判断力などからなる現実意識や自己意識がつくられ ていくわけです。・・・ ・・・頂点に位置する感覚から下の方へ働きかけてくる流れと、それに対し て下の方、つまり無意識の底の方から上に向かって働きかけてくる別の流れ とが、意識の海面の真下あたりでぶつかりあい、ここで渦を巻いています。 上からの意識の働きと、下からの意識の働きが、ここで出会うのです。そし て、無意識の奥底からでてくる方の働きは、形であると考えられるのです。 感覚の方からくる意識の働きも形として働いているのですが、無意識から、 つまり心の奥底から衝きあげてくるものも形なのです。この下からくる形の ことをヴィジョンといっています。あるいは最近よく使われる言葉でいえば、 アーキタイプ、元型といっています。そのヴィジョンなりアーキタイプなり が心の奥底から衝動的に心の表面に浮かび上がってこようとするのです。し かし、上からの別の働きが、このヴィジョンを意識の方にのぼらせまいとし ます。そこに闘いの渦ができるのです。  闘いの結果、ここで一種の整理がなされ、それが意識にのぼってきます。 ・・・  小さい子供は大人よりももっと根源的なヴィジョンなりアーキタイプと親 しい存在です。半ば無意識的に、自分の暗い心の奥底から、衝きあげ、浮か びあがってくるものを、日々体験しています。それがだんだんと大人になる にしたがって、薄れ、消えていきます。 ということで、フォルメン線描は、この心の奥底から浮かび上がってくる形態を それに対応する「均衡感覚」「運動感覚」「生命感覚」といわれる内部感覚と 結びつけようとするものなのです。 この「形」というテーマは、ほんとうに広がりと深さをもったテーマなので、 これからも折りにふれてお話ししていきたいなあ、と思っているKAZEでした。 CCS(N)> 340/344 GGA02514 KAZE 神秘学的行動指針としての呻吟語(シンギンゴ) (11) 92/12/09 17:53 中国への関心からか、最近になって、特に儒教関係のものに 興味をひかれることが多くなっています。 孔子はもちろん、朱子や王陽明などのものを読むにつけ、 これまでの否定的なイメージが変わってきているのを感じます。 どんな思想もそれが伝えられる過程でどんどん形骸化していって、 その本来の意味がなくなってその形だけにとらわれていくように、 儒教というのも、そのプラスの意味が忘れ去られていっているように思えます。 そういえば、先日の新刊に酒見賢一さんの「陋巷(ロウコウ)に入る」という小説を読んで、 あらためて孔子やそれをとりまく弟子たちの個性的なあり方に いろいろなファンタジーが広がっていくのを感じていました。 そもそも「儒教」の「儒」というのは、古代のシャーマニズムと深い関係があり、 孔子はそれを刷新して、新しい「礼」に基づく「儒教」を創始しようとしたのだ ということがやっと理解できてきたような気がしてます。 ということで、先日来、中国の儒教思想関係のものを漁っていましたら、 これはすごい!という本に巡り会いました。 呂坤(リョコン)(1536ー1618)という儒教思想家の「呻吟語」という書で、 荒木見悟訳注(講談社学術文庫)によれば、 「呻吟」とは、重病人のうめき声をいう。しかし、本書の呻吟とは、個人の 苦しみよりも、むしろ末世的現象の反乱する明代社会の絶望的な病弊を憂慮 して吐き出した警世の語である。本書を一貫する儒教思想の源流は『論語』 であり、孔子一門の発言が二千年の歳月を経て蘇ったといえる。そこには悩 める現代人の魂をゆする真実のことばが随所にちりばめられていることに気 づくであろう。 とありますが、この書を読むに従って、 この思想を貫く精神の部分は神秘学に非常に近いものを感じ、 むしろ神秘学よりも、非常に現実的な行動指針にあふれていて、 感心することしきりでした。 この書は、218篇から成っていて、それぞれが非常に短いものですので、 今後、この講談社学術文庫版にある「訳文」の部分を 少しずつ紹介していきたいと思います。 もちろん、途中で止まってしまう可能性もありますが(^^;)、 続けられるだけ続けていこうかな、と思っていますので、よろしく。 ご紹介した篇について何か感じるところでもあれば、コメントくだされば幸いです。 これを機会に、これまで苦手意識のあった儒教関連のテーマも、 いろいろととりあげていきたいと思います。 この儒教というのは、シュタイナーなどの「自我」をベースとした 西洋神秘学的な伝統とはまた違った角度からのアプローチであって、 ある意味では、日本のいわゆる高天原的な神道とどこか通じるところが あるのではないかという気がしていますので、 その儒教と、中国でそれと双璧をなす道教とを併せてみていけば、 日本という霊域についての理解も進むのではないでしょうか。 一説によりますと、日本神道の天御中主神や天照大御神のヘッドにある霊存在が 孔子をふくむエネルギー体であるとも言われていますので、 そこらへんをつついてみると、シュタイナー的なアプローチではとらえにくい部分が クリアーになるかもしれない、と少しだけ期待しているKAZEでした。 CCS(N)> 341/344 GGA02514 KAZE 『呻吟語』1●仁は完全純粋な本体 (11) 92/12/09 17:53 心のすみずみまで、徳性を渾然(コンゼン)と成就し、つゆほども私欲がまじらな ければ、それが一心の仁である。全身に渾然と調和を成就し、つゆほども病痛 がなければ、、それが一身の仁である。広い宇宙に則して、自己の身体を渾然 と成就し、つゆほどもわけへだてがなければ、それが天下をまとめて仁を完成 するというものである。仁は完全な本体であって、いささかの欠点もない。仁 は純粋な本体であって、いささかのきずもない。仁は天然にできあがったもの であって、何ら人為が加えられてはいない。凡人はその仁のこり固まりである 一心を敵対国のように引き裂くが、聖人は天下をまとめてその身を成就してい る。私はいつも思うのだが、天地の間に自己と他人との対立がなくなれば、空 間が一体化するとともに、時間も一体化し、千万年の歳月を一呼吸に収めるこ とができるのだ。 CCS(N)> 342/344 GGA02514 KAZE 『呻吟語』2●放心とは何か (11) 92/12/09 17:53 一般に放心とは、心を外界に放つことと理解されているが、心を放つかどうか ということは、心のもち方が正しいかどうかを規準にすべきであって、心が外 界に出ているかどうかを規準とすべきではない。たとえば、俗世を離れた山林 の中で生活しながら、天下国家の事に関心をよせ、堕落した世に生きながら、 尭舜の聖代にあこがれ、旅行く人がふるさとの両親を思い、貞節な婦人が遠く にある夫を思うのなどは、まさに心の正常なあり方であって、放心というべき ではあるまい。このように心のもち方が正しいかどうかを問わないで、それが 外界に出ているかどうかだけを問題とするなら、道理が無視されて、全くの座 禅入定の学になってしまう。 CCS(N)> 343/344 GGA02514 KAZE 『呻吟語』3●精神を心目におけ (11) 92/12/09 17:54 いつも精神を心の眼目にすえておけば、主体性が確立して、外界と応対する際 に惑わされない。ただ一旦目がくらんでくると、いい加減に応対するようにな る。時として偶然道に合致することがないわけではないが、結局、心中に体験 するのでなければ、長足の進歩はあり得ない。たとえば夢の中で食事するよう なもので、腹の足しにはならないのである。 CCS(N)> 344/344 GGB03531 COOL RE:格闘技ネタもいいかもしれない(^^) (11) 92/12/09 22:39 338へのコメント      「プロレス」  プロレスは不思議なスポーツである。  いや、スポーツというよりは演劇というべきか。  プロと名が付くからにはアマチュアではない。  レスラーにとってプロレスは職業である。  プロレスあるいはそれに関わる事柄をよく観察してみると  ひょんなことから色々なことが見えてくる。  どうやらプロレスにはカミからの流れがあるらしい。  そしてそれは正と邪の両方の流れがあると…。 CCS(N)> −会議室13 ★HVHYの預言解読部屋------------<02> 発言数 :234 未読 :14− CCS(N)> 221/234 PFD01254 Lisa RE:火水伝文情報 (13) 92/12/09 02:06 217へのコメント うーん 「火水伝文」下巻の発刊を前に神様は我々をお見捨てになったのだろうか? 仮称「火水伝文(下巻)」が世に出ることを切望して止まない(;_;) 名古屋に我空氏が来てくれたら私は絶対聞きに行くのになぁ。 CCS(N)> 222/234 SGR02435 こばん 行く年、来る年(^^;) (13) 92/12/09 03:55  うーんと、今年1年、自分ができる限りのことをしたとは、お世辞にも思えない。  ただ、ひとつだけ「とりあえず、これだけは・・・」と思えるのが、FARIONに出会った  こと。アタマで理解してる以上にARION、みれさん、ここに集う人達とは深い縁が  あったんだろうな。と感じたりして(^^;) (特にみれさんとは、まだ逢って半年  とは信じられんような近しさ、を覚えてる ホンニンハ、イヤガルカモシレンケド(__;)ペコリ)  来年いろいろなことが起こるんだろーね。不穏な、とゆーか得体の知れない気を  強く感じるもん、この頃。でも、なんか、とりあえず、FARIONと出会えたとゆー  幸運だか何だかがある人達は、キチンとできると思う。それぞれに成すべき何かを。  とにかく、勝負は来年でありますね・・・(ね?みれさん(^_-)-☆) CCS(N)> 223/234 HGB02764 EARTH WORK 始めまして earth wark です (13) 92/12/09 05:30 subj:「逆転」について雑感 ジョン・レノンの射殺された12月8日,いつの間にかお祭りのようにラジオではビ ートルズやジョンレノンの歌がかかり,テレビでは特集番組が組まれて,にこやかには しゃいだアシスタントの女の子が今日はジョンレノンの命日にちなんで……,なんて 話しているのを見ると,何か違ってきているという気がしてならない。 射殺されたあの日,世界中の良識ある人々はジョンレノンの魂に触れ,世界平和を心 の何処かで願ったはずだと思う。 それが今,色々な事情があるにせよPKOという名の下で,再び血が流されようとして いる。 それが,一般市民レベルから生まれてきた声によって世界が動いているかのように見 せられているような気がするのだ。 巧妙にメディアや情報を操作する意識があるように思える。 「逆転」したかのように見える というのは,こういった動きの下がどこであるかという目を曇らせる意味も含まれて いるのではないかという気がする。 だってそれは,あなた達が選択したことでしょうと,責任転化をされる前に,目の曇 りを磨いて,もう一度世界を見てみる必要があると思う。自分達が本当に選択したこ とかどうか,そう思わされているだけかもしれない。 watch out!!の,今日このごろです。 p.s 始めましてearth warkです。この会議室に書き込むのは始めてです。解読と言っても どこまでできるのか,少しづつ参加していこうと思います。 earth wark CCS(N)> 224/234 GCC01413 HVHY 預言の必要性・不要性 (13) 92/12/09 16:44              〜 預 言 〜     預言解読部屋の“本論”とは何か?     それは「預言解読」に決まっている。     では、「預言解読」とは、何なのか?     これは、古くて新しい問題である。     私は最近思う…。     『預言』とは、一種の“魔法の鏡”ではないか、と。     ある時は、反射して、こちらの世界を写し出す。     ある時は、透過して、あちらの世界を写し出す。     即ち、『預言』は、それ自体が“異次元への扉”なのである。     問題は、この“扉”を自由自在に使いこなすこと。     そのためには、まず、     “こちら”でも“あちら”でもない地点に立つ必要がある。     それは、自分自身が“扉”になることに等しい。     若しも、それぞれの人が“扉”になれば、もはや『預言』は要らない。                                HVHY CCS(N)> 225/234 GCC01413 HVHY 2人目の副議長。 (13) 92/12/09 16:48               〜 ぼーなす 〜      いよいよ、サラリーマン待望のボーナスの季節です!      …というわけで、いささか唐突ではありますが、      預言解読OFFで意気投合(?)した“ぼー”さんに、      当会議室の第二副議長をお願いすることになりました。      某フォーラムでもボードオペをなさっているので、      アクティブに参加して頂けるかどうか推し量れませんが、      何人たりとも直視するべきヴィヴィドな話題を、      タイムリーに提供して頂けるのではないかと思っています。      第一副議長の維/YUIさん共々、宜しくお願い申し上げます。                         議長   HVHY CCS(N)> 226/234 GCC01413 HVHY 雑感(1) (13) 92/12/09 18:14              〜 悲しみ 〜          自然と戯れる…。          これほど気持ちの良いことはない。          しかし、楽しき日々は過ぎ去った。          もう一度、楽園へ戻りたい…。                       HVHY CCS(N)> 227/234 GCC01413 HVHY 雑感(2) (13) 92/12/09 18:15                〜 様々な愛 〜          最も崇高にして、最も悍ましいもの…。          愛は人をも殺す。そして、生き返らせる。          愛に善悪はない。在るか無いか。          人殺しの愛も愛であり、牧師の愛も愛である。                           HVHY CCS(N)> 228/234 GCC01413 HVHY 雑感(3) (13) 92/12/09 18:16               〜 微かな記憶 〜          「幸せ」とは何か?          それは、「幸せ」を忘れること。          「不幸」とは何か?          それは、「幸せ」を思い出すこと。          しかし、今、私たちは、          微かな記憶の糸を辿らねばならない。          喜びと悲しみの長い長い歴史を思い出せ!          なぜ、私たちは、今、ここに居るのか?                            HVHY CCS(N)> 229/234 GCC01413 HVHY 雑感(4) (13) 92/12/09 18:17               〜 免役 〜             悲しみも怒りも届かない。             歓びも願いも届かない。             人が人で無くなる時、             人はその使命を終える…。                      HVHY CCS(N)> 230/234 GCC01413 HVHY 雑感(5) (13) 92/12/09 18:18               〜 動物保護? 〜      イスラエルでは、その地を、      聖書記述時代の“元の状態”に戻すため、      世界中から動物を(買い)集めて飼育している。      このようなエゴイズムが、      何がしかの大義名分によって“堂々と”罷り通っている。      それを、日本のマスコミも、肯定的に取り扱っている。      このような実状を“狂っている”と表現せずして、      一体、どのように表現すれば良いのか?      とんでもないことを考え、実行している人達が、確実に居る。      しかも、既に“その輪”の中に、大半の人々が入ってしまっている。      まず、この恐ろしい実状に気付くべきだ。      (※別のスタート地点もあるにはあるが…)                             HVHY CCS(N)> 231/234 GCC01413 HVHY 雑感(6) (13) 92/12/09 18:19            〜 起死回生のアプローチ 〜       鈍っている感受性を取り戻す“手っ取り早い”方法。       それは、「狂おしいまでの恋」と、「死の恐怖」。       恋は、盲目なるエネルギーをもたらす。       それは、多くの人々にとって、最後の可能性となる。       恋する者が知ること…。それは、『捧げる』ということ。       命を捧げる者のみ、命を得ることが出来る。       そして…、次には“『死神』との対面”が待っている…。                               HVHY CCS(N)> 232/234 GCC01413 HVHY 特攻隊の光と影。 (13) 92/12/09 19:33                〜 特攻隊 〜   居酒屋では、戦争の話題が盛り上がっている。   例えば、日本の特攻隊について語る時、   そのネガティブな側面しか取り上げられないことが多いが、   これは巧妙な思想統制が働いているからに他ならない。   つまり、特攻隊に象徴されるような「献身の美徳」を封じるため、   GHQは、天皇制を破壊する代わりに、天皇制を利用したのだ。   この“二重の封印”は、未だに、戦後の日本を呪縛し続けている。   「恋人のために身代わりになって死ぬ…」。   このことを美しいとも何とも思わない人が、今の日本には居るかも知れない。   だとすれば、思想統制が極めて効を奏しているということになる。   私は、戦争を肯定しているわけでも、戦前の日本を肯定しているわけでもない。  >>>   「犠牲の精神」を理解出来ない者は、  >>>   今既に起こっている戦争の事実上の加害者である。   そういう話をしようとしているだけだ。   戦争は“けしからん”と言う前に、   現在、自分が戦争に荷担している可能性について、問うべきであろう…。       注) 本文章には、補足するべき点が多々ありますが、          敢えて、ここでは、それを行いません。                                  HVHY CCS(N)> 233/234 HGG01312 たまご 再び偽預言を考える(予告) (13) 92/12/09 21:27   えっと,突然ですが,預言部屋が11番だったときに,わたしがやっていた  偽預言の話,またやります.難しいので,また考えるということにしておいて,  そのまま放置してあったのですが,そうし続けることに,良心の呵責が耐えられ  なくなって.(^_^;   私の心の中では,一応の決着みたいなものは着いたのですが,文書化してみると,  ひょっとして何か分かるかも知れないなあという気になりまして,ゆく年も,残  り少なくなったことだし,年を越える前に片付けなきゃならないなという気になっ  たものですから予告をします.予告しないと,私がさぼってしまうので.オイオイ   実は,避けられない理由もあったりして. >(1,たまご)おやすみなさい>ALL >(1,HVHY)ほにゃほにゃ>たまご  偽予言の話をまた宜しくね〜 >(1,たまご)どろん >/E                   −−某日某時のRTより−−   あはは,許可なし無断転載,ごめんなさい.   ということで,RTを落ちようとするその瞬間に,ぼそっと放たれた議長の言霊  が,見事,私の心に突き刺さったのでした.(それまで,そんな話一言もしていな  かったのに)   最近書き込みが神憑り的になってる議長の事ですから,何かお考えがあるのでしょ  う.議長が忙しいのであれば,維/YUIさんと,この度,第2福議長に就任され  たぼーさんに遊んでもらおう.   あ,副議長だった.   ということで,ぼーさん,どうぞ宜しくお願いします.     こりゃ,長文のゴミだな  (^_^)ヾ  たまご CCS(N)> −会議室14 ・壁(2)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 発言数 :583 未読 :10− CCS(N)> 574/583 SDI00635 みれ そして、見出したもの (14) 92/12/09 03:14  胸のあたりで焦がれていた思いが、常態となり・・・そして、徐々にお腹の方へ と静かに沈殿してゆくのを感じた時、あたしは悲しみとも寂しさともつかない思 いを感じて、何度も何度も涙したけれど。  夕焼けに恋するカラスのように、或は宵の明星に背くカラスのように、大きく 一声「カァーッ」と鳴いて、羽ばたいて巣に戻るような。  透明な静かな、そして優しい止めど無い思いが溢れていることを拒否すること も適わず、ただただ涙の流れるままに任せていた。  尽きせぬ思い、語り得ぬ心、汲めども尽きない溢れる恋しさ・・・それらのどれを 取り出してみても嘘はなく、そしてそれらのどれも見返りを求めるでもない。  そして満月。  静かに「始まり」を思い返してみて、何も変化していないことを見出して、そし て何も失ってはいないことを見つける。  そう、愛は時空を超えてずっと、「そこ」にあった。紛れもない「あなた」の、 その瞳の中にね。  そして紛れもない、あたしのこの胸の中にね。 CCS(N)> 576/583 GBG02755 ダダッコ 珠 ほい!COOLさん! (14) 92/12/09 08:49 573へのコメント どうもどうも。(^_^) 虹のシンボルを探したの。夢の本で。 3冊の本があったんだよ。 一つは、吉夢で、いいことがあるだろうって。 一つは、完了していないことを示し、希望をみるだろうって。 一つは、恋の終りを告げているから、覚悟しなさいって。 どれが、本物かなあ? 虹を見た後に、もう1度激しい雨が降った。     *希望を見てもまだ、涙は激しくこぼれるだろう。 私にはそう思えるんだよね。まだこれから何度も涙はこぼれるって。 虹の麓に、宝物があるって話きいたことあるよ。 虹の宝物ってなんだろう。七色ってなんだろう。 私の体には7色の光が流れているけれど? 宝物って、涙の雫=真珠=魂 かもしれない。 大地の力を浴びて、ゆらゆらと揺れているんじゃないだろうか。 光と、水と、大地の力、その集まるところだものなあ。                        珠 CCS(N)> 577/583 HFD01514 なえ 時空の果、愛の距離 (14) 92/12/09 09:45 コメント数:2 >>>時を超え距離を超えて、ずっとなえさんを愛し続ける心を受け取って! 心ってなあに?愛ってなあに?変わらない心? 心は虚ろい、あたしの愛は確かなものでいるかしら? あなたが好き。でも変わる時も来るかも知れない。それでも? ”愛”のエネルギーだけが「私たちの拠り所」としての存在。 でも時に人は自己満足という「覆い」に、見えなくなる時もある。 色の付いた眼鏡には”愛”は映らない。見えるのは”自己(ナルシス)”だけ。 CCS(N)> 578/583 PBC02112 宇宙猫 RE:自然に寄せて. (14) 92/12/09 11:26 572へのコメント コメント数:1 みれさん,こんにちは!  昨日の明け方は凄い風雨でしたね.なんだかドキドキするような...  こちらではそのあとお昼頃晴れて,カーッと暑いほどになって,  また夕方にザーッと雨が降ってきたと思ったら,  直径5mmほどの”ひょう”が降ってきて,しばらくベランダに転がっていました.  そのあと東の空に虹が見えて(皆昨日は見てたみたいですね)  最後はきれいな赤い夕焼けで締めくくられました.  いやー,変転万化とは昨日の天気のようなことを言うのだと思ってしまいました.  みれさんは素敵なおばあさんに出会われて良かったですね. ありがとうっていい言葉だなあ,と思います.            ★                      (^_^)/ アッタカイココロウケトリマシタヨー! CCS(N)> 579/583 SDI00635 みれ RE:時空の果、愛の距離 (14) 92/12/09 13:01 577へのコメント コメント数:1  確かなものって、ほんとうは何もないのかも知れないって思いません?  あたしたちの心だって、身体だって・・・何一つ「確か」って言えるものって 無いのかも知れない・・・だからこそ人間は「確か」であることを求める、それ は、「有限」であるからこそ「無限」「永遠」に焦がれ続けるのと同じことな のかも知れませんね。  愛は、でもこの宇宙の中に遍在する創造と破壊を併せ持った、確かなエナジ ーであると感じます。それは、いつも「そこ」にあるもの。あたしたちが気付 いて見出すまでは、感じることも難しいものだと。あたしたちの生死流転に関 係なく「在るもの」だからこそ、確かなものなのかも・・・。  自己満足や一人よがりってのは、よく堕ちる罠ですね。  この罠は至るところに口を開けていますから、注意しなくちゃね(^_^)。  ここに陥らない為には、自分と周囲を両目でよく観察することと、人間関係 の中で、出来るだけお互いに切磋琢磨して理解を深める方向を模索してゆく以 外に、方法がないような気がします。  あなたが好き(変るかも知れない・・・だから)今、あなたが好き・・・なんです。  ね、なえさん(*^^*) CCS(N)> 580/583 SDI00635 みれ RE:自然に寄せて. (14) 92/12/09 13:09 578へのコメント  アッタカイココロ、ウケトッテクレテ、アリガトォ!>宇宙猫さん  あったかい心も、幸せな気持ちも、独り占めしていたらすぐになくなるけれど 出来るだけ多くの人に分けることが出来れば、分けた人の数だけ殖えるのよね。 日本中の至るところに、あったかい心や幸せ気分が増殖していったら(笑)、と っても素敵なのにねぇ、と思います。  愛も独り占めしないで、多くの人と分け合えたら殖える性質のものだと、この 頃、つと考えることが多くなっています(*^^*)。  恋は分かちあう相手が「限定一名様」だけど、愛は相手が「無限」なのね(笑)。 CCS(N)> 581/583 GBD03557 シゲ RE:時空の果、愛の距離 (14) 92/12/09 16:23 577へのコメント #579もふせて さては二人とも”二十歳の約束”観ただろう?(笑) というのは、どうでもいいことなんですが。 ”確かなこと”っていうと、小田和正の唄を思い出します。 「確かなことなんて どこにもないよね」 「心の中なんて 誰にもみえないよね」 時にとても不安な衝動に駆られるときがある。 今まで意地を張り通して、つっぱって生きてきた。 何があっても弱音をはかず、人前では涙を見せずに生きてきた。 「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」 と、唄っていた”尾崎豊”は、悲痛な叫びを胸にこの世を去った。 最近、そんな意地を張って、つっぱって生きることに疲れてきた。 しかし、僕が弱気になった時。それを考えると怖い。 そんな時、”確かなこと”が欲しい。 確かじゃなくてもいいから、一時の安らぎが欲しい。 MES( 7)へ行こうかなあ。 CCS(N)> 582/583 HFD01514 なえ RE:時空の果、愛の距離 (14) 92/12/09 16:40 579へのコメント >>確かなものって、ほんとうは何もないのかも知れないって思いません? ですね。わたしを含めた全ての物、者、手に触れる全てが、そうでしょう。 では、何を頼りに生きるかと言えば、「心」で「明かり」を探す旅とでも言うか、 真っ暗な中の「一筋の光明」を求めているのだと思います。 その光明は、「確か」な事柄として「受け入れられていく」のでしょう。 それが人により「善師」や「導師」であったり、「神」であったり、と言う事で しょうか。手段ですね。 「愛」は一見「どこにでも有りそう」で「良くみると掴めない」とても厄介な 存在です。それは「心」が何かというのと良く似てる。 でも「心」は我が身の中に存在している。あたしは、「心」は「愛」を見極める 為の、ドアだと思うの。 だから「心」は綺麗に磨いて、「愛」が、ストレートにキャッチ出来る様に「努 力」して行く道が=「心で光明」を探す本当の旅ではと感じます。 それを根底に置かないと、・・・ 「愛」は時に、想像や幻想と共に「自分勝手に一人歩き」してしまう。 そして、自分では気づかない内に、「愛」のパワーに翻奔されてしまう。 そして「勘違いした愛」を「真実の愛」と区別出来なくなってしまう。 「真の愛」は、時に残酷で、否応なく与えられる。だから「体中傷だらけ」になっ て、それでもなを生きつつ受け入れるものなのでしょう。 でも、私たちを支えてくれる事は、たくさんあるよね。生き物達の温もり、絵、音 楽、そして、仲間達の、他愛ないおしゃべり。(^^) CCS(N)> 583/583 NAG02033 EX おれはいいせんいってるぜ。 (14) 92/12/09 21:44 いやー 参ったな。確かに、こりゃ旗色わるいや。 相手は、どこまで芯の通った抗議をして来るんだろうか? をを、こういう時って、白を黒と言いくるめる巧言がどんどん、 涌いてくるぞ。大声でいってみよう。叱り諭すような口調が旨いなぁ。 自分に惚れるぜ。 相手の疎い分野をおもいっきり強調して、と<(``)> 「それはともかく、わたしが考える故にわたしは正しいのである。」 「以後、気を付けたほうがいいからね。」 「その奥に君の気づいていない重要な点があるんだ。」 よしよしおれはいいせんいってるぞ。 表で強調しといてやろう・・・