982/990 GBG02755 スマル(珠) ハローメッセージから ( 2) 92/12/23 08:53 蒔いた種を刈り取るときは、スマル(珠)さん心から正直でなければね・・・ うん、そうだよね。 だけど、どこまで正直なのか自分でもわからないんだよ。 いつでも心は二つあってね、どちらも私の心なの。 拘りをすて、裸の心でありたい。 自分にだけは正直でいたい。 だけど、 だけど、 私は誰なのだろう。 私は何を望んでいるんだろう。 そして、何を見たのだろうか? 私の命は何を求めているんだろう。                    スマル > −会議室 6 ・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 発言数 :164 未読 :2− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 163/164 GGD02212 *ねぎひさお* 『天遊記』その2 (70行弱) ( 6) 92/12/23 15:13 154へのコメント  四   パク先生の当惑  星占い喫茶『ミステリア』のトイレでパク先生が上気した顔を水で洗い、 鏡に映った自分の顔を見る。(俺としたことが、言葉に詰まってしまった。 それにしても、エリナさんの神秘的な美しさはどうだ。妄想や幻覚を訴える 患者の中には美人もいるが、彼女ほど印象が鮮烈なのは初めてだ・・・)  気を取り直し、沈着冷静で自信に溢れた顔に戻った若手医師がドアを開け てトイレを出ると、そこに思いがけずエリナが立っていて、待ち受けていた かのように新しいおしぼりを彼に手渡す。 「どうぞ。」 「あ、これはどうも。」 一瞬、驚きと戸惑いが顔に出そうになるのを抑え、いつも彼が患者に信頼感 と安心感を与えるために見せるのと同じ穏やかな顔つきで彼女に語りかける。 「ここのお客は女性が多いようですね。」 「ええ、妹が通ってる女子大の学生さんやら、近くのOLの皆さんとか。」 「僕のような厳つい男が来るのは似合わないかも知れないなあ。」 「いいえ、そんなことは。何時でもいらして下さいな。」  トイレのドアの前で談笑する二人を、エリナの妹マミと、先生の元同級生 竜三が見守っている。 「お姉ちゃんたら、先生には人見知りしないわ。要チェックよ、あの二人。」 「奴のことだから、まず彼女を『治療』しにかかるだろうな。」 「やっぱり先生から見ればお姉ちゃんは、『患者』になっちゃうの?」 「まあな。やつにとっちゃ『見えない誰かの声』は脳の中の出来事だろうが、 彼女には肉体を持った人間以上のリアリティーだ。どっちが先に相手を洗脳 するか見モノだな。」 「ふうん。ああ見えてお姉ちゃん頑固なとこあるしね。先生だってプライド 高いでしょうし。」  エリナは店を出る客の応対にレジへ向かい、先生がテーブルに戻って来る。 マミが声をかける。 「先生、お姉ちゃんのことよろしくね。昔からあんなふうだから、今日まで ボーイフレンドできなくって。」 「あんなふうって、どんなふうなんだい?」 「猫や花とおしゃべりしたり・・・。」 「そいつは凄いや。」 マミは屈託無い笑みを浮かべ、先生は苦笑する。 「まあ、良い友達になってやってくれよ。俺のことなら気にせんでいいぞ。 俺と彼女とは店のオーナーと雇われママ以上の関係は無い。」 と言う竜三に先生が返す。 「お前は妹さんとの方が仲が良さそうだしな。」  照れ笑いしながら竜三が、 「ところで、あの『ドラッグ・ソフト』だけど、こっちで勝手に改造して使 わしてもらうぞ。プログラミング代をタダにするのと引き換えだ。」 「構わんが、あんまり危ないことするなよな。」 「方々にばらまいたり商売にしたりしないよ。CGとBGMを付けてもっと 凄いのが出来ると思うんだ。」 「なるほど。出来たら見せてくれ。お陰でこっちも良い仕事が出来そうだ。 マミちゃんも被験者になってくれてありがとう。」 「どういたしまして。あれ精神安定剤代わりにするの?」 「そう、患者を選ぶ必要があるが、将来性のある不眠症の治療法だと思う。 内服薬のように胃腸障害の心配が無いし、そのほかの副作用も少ないと思う。 おっと、そろそろ医大へ戻らんといかん。」 「あたしもバイト始めさしてもらう時間だわ。」 「目も醒めて来たようだしな。ここは当然オーナーである俺の奢りだ。」 「ご馳走様。」 「マミの分はバイト代から引いとく。」 「またあ。意地悪う。」  三人が席を立つ。先生がエリナと二言三言交わしてから店を出る。 (つづく) <作者より>これはフィクションであり、実在する人物や団体とは無関係です。 前回「つづく」とした手前、続きをUPしました。まだあまり「心霊小説」 らしくなりませんが、オカルト物とは違ったタッチで、真面目に(?)心霊的 問題を考えながらも気軽に読める作品にしたいと思っていますのでよろしく。 GGD02212 ねぎひさお(Dr.Ray) 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室 7 ★アリオン世紀末書き込み寺----------<01> 発言数 :639 未読 :1− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 639/639 QFG02515 SHANA 生命について-7「車輪とその軸」(長文) ( 7) 92/12/23 15:02  みなさんこんにちは。  大変遅れてしまいました。  誰も待ってないかもしれないけど、「生命について」の続きです。  さて、  人間には意識がある。  だいたいの感覚でいうと、それは頭のあたりにある。頭部に脳ミソがあるなどの知 識を引き合いに出すまでもなく、たぶん、大抵の人はそうだろうと思う。  実際、脳ミソだけでなく、五感のうち四つまでが頭部にある。特に視覚は、ふつう 最も意識されている感覚だ。だいたい目のあたりか、その奥あたりに意識の中心があ るような気が、なんとなくする。  なんとなく、というだけの感覚だけど、意識の中心の位置を動かそうと思っても、 そう簡単には動かせないようだ。意識の位置が、何によって決定づけられているのか は分からない。でも、それでもやっぱり意識は頭のあたりに在り、在り続けているよ うな気がする。  しかし、それは一見、動かないようでいて、実は時々、意識の中心が目のあたりに 無いことがある。たとえば、何かに集中したり熱中したりしているとき。  テレビ・映画・マンガ・文章などに集中・熱中しているときには、周りのことを忘 れてのめり込んでいることがある。そういう、自分がいま実際に何処にいるのかを意 識せず、その世界のみを意識しているときには、意識の中心が目のあたりにあるとは 感じていないものだ。では、何処にあるかというと、これがよく分からない。意識し ていないのだから当然だ。しかし、意識しようとすると、現実の世界に戻ってきてし まう。う〜ん、こまった。現実的な五感の世界に意識はなく、別の次元、意味の世界 のみに意識が向いているということか。  (余談だけども、映画館でターミネーター2を観てたとき、あの「感動的な」ラス ト・シーンのところで、いきなりT2の世界から映画館に戻ってしまった。たぶん、 作り物っぽくて、入り込めなかったのだ。ちょっと残念だった、私)  そういえば、夢を見ているときや、ぼ〜っと考え事をしているときなども、同じよ うな感じかもしれない。しかし、夢の中では、夢の中の自分の頭のあたりに、「自分」 の中心があるように感じていると思う。意識していない時には気付かないだけで、意 識がある時にはやっぱり、意識は目のあたりにあるのだろうか。  が、逆に考えれば、ただ意識しているからそう感じているだけだ、とも言えるかも しれない。つまり、目のあたりに意識があると感じるのは、視覚を最も意識している から、ということ。意識の中心などというものは幻想で、本当に存在しているわけで はない、ということなのか。  いや、そんなはずはない、と思う。中心がなければ鮮明な意識は有り得ない。言い 替えれば、中心がなければ自意識はなく、したがって自身を存在するものとして意識 し、機能することはできず、したがって無意識に自動的に働くただの器官(機関)と 同じになってしまう、ということ。では、なぜ、中心がなければ自意識はなく、鮮明 な意識は有り得ないのか? それは、はっきり言って今の私にはうまく説明できない。 しかし、とにかくそう思う。  とは言ったものの、別に私はいつでも鮮明な意識を保っているわけではない。とい うことは、完全に意識の中心というものが確立しているわけではない、ということで はないか。しかし、中心がないわけはない。ということは、それは半ば無意識の中に あるということだろうか。もしそうなら、その真の中心を無意識の領域から掘り起こ すことが、当面の課題ということになる。自分の内面の、今まで意識されていなかっ た部分が意識されることにより、意志はより鮮明になるのだ、きっと。  まあ、とにかく意識に中心はある!(笑)。しかし、一つしかない。少なくとも、 普通の場合には。複数の位置から同時に世界を見、同時にそれぞれ別のことを考える、 などという器用な真似が出来るだろうか? 意識が複数の中心を同時に持つとは、つ まりそういうことなのだ。そんなことが有り得るだろうか? (いや、ない)  物事を一つの視点からのみ見ずに、色々な視点から検討する、というのはある。し かし、それは意識が複数の中心を持つことではない。意識の中心は、あくまで一つだ。 ただ、視点を動かすか動かさないかの違い。それは、言い替えれば、多くの側面を見 ることであって、真実そのままを把握するということに、より近くなる。そしてそれ はまた、真の意識の中心の目覚めにも、近づくことかもしれない。  まてよ。真の意識の中心が半ば無意識の中にあるものなら、それは目のあたりにあ る意識の中心(と感じているもの)とは別のものではないのか? 二つも中心があっ たら意識は分裂してしまうのではないだろうか?   そう、分裂しているのだ。表層意識と無意識に。ただし、無意識の中にあるのが真 の中心であり、表層にある中心は真の中心ではない。中心が無意識状態にあるために、 表層の部分に、仮の機能的中心が生まれてしまうのだ、たぶん。  その仮の中心は、意識の中心というより、想念の渦とか集点と呼んだほうが良いか もしれない。無意識状態の中心が表で活動しようとして、まず想念を渦巻かせて仮の 中心を作り出し、それを通して間接的に活動している、のかもしれない。それは、た ぶん、インターフェイスのようなもので、意識に二つの中心があるというわけではな いのだ。したがって、無意識と表層意識も完全に分裂しているわけではない、という ことになる。  ちなみに、無意識というものは、背後から自分を支配するもう一つの人格、などで はない。自分の内面の、意識していない部分、あるいは意識できない部分である。  しかし、一応つながって機能している以上は、全く意識することが不可能だ、とい うことはないはずだ。たぶん、何かに熱中している時に周りのことを意識しなくなる のとちょうど同じような感じで、単に意識していないだけなのだ。ただ、今までにろ くに意識を向けたことがないために、それをするのが難しいというだけなのだ。だか ら、努力と根性でなんとかなるはずである。  つまり、無意識の領域は、一生懸命に意識しようとすれば、たとえ少しずつではあ っても、いつか必ず意識できるであろう、ということだ。そして意識の真の中心が、 今よりもっと意識的なものになれば、私の意識は今より遥かに鮮明なものとなってゆ くだろう。と思う。  ちなみに、「意識」とは「認識の主体」である。そして「鮮明な意識」とは「認識 することのできる意識」を意味する。「鮮明な意識」を“SILVER”に例えるな ら、「認識した意識」は“GOLD”ということになるだろう。  ところで、私は予知夢のようなものを見たことがある。予知夢というとなんだか凄 そうではあるが、ようするに未来の体験を夢の中で先に体験したことがあるというこ とだ。といっても、今でもはっきりと覚えているものは、そう多くはない。ただ、日 常の場面で、ふと、「あ、この場面は夢で見たことがある」と、思い出すことは時々 ある。  今でもはっきり覚えているものに、給食のオレンジ・ジュースの夢がある。小学校 低学年のころの夢だ。ある晩、私は給食を食べている夢を見た。日常的ななんの変哲 もない夢だったが、いつもの牛乳の変わりに、オレンジ・ジュースが出ていた。そし て、夢の中で私は、そのパックのオレンジ・ジュースを飲むために、四角い黄色のビ ニールをめくろうとした。それをめくると丸い穴があって、そこにストローをさすよ うになっているのである。んで、それをめくろうとしたのだが、ビニールだったので、 つるっと手がすべって、めくれなかった。そこで夢は終わった。  そして、次の日。なんと給食にオレンジ・ジュースが出た。そして私は、ストロー をさすために黄色い部分をめくった。ところが! 手がすべって、めくるのに失敗し たのである!   私は今朝がたの夢を思い出した。夢の通りになったことに驚いた。まるで、すでに 体験したことを正確に思い出していたかのような、そんな夢だったのである。しかし、 先に夢を見た以上、私にとっては夢のほうが最初のオリジナルの体験である。まさに、 夢はうつつか、うつつは夢か、という感じだった。私は不思議な感覚におそわれた。  もう一つ話してしまおう。  それは、横浜博覧会の高島屋不思議館の話である。そこは実に不思議というか、不 気味な変な空間だった。たしかにタカシマヤフシギカンであった。私は、修学旅行か 何かで、横浜博に行き、その高島屋不思議館にも入ってみることにしたのだった。  そして、入ってみると、すぐに、「あ、ここ、ずっと前に一度来たことがある!」 と思った。中に進むにつれて、少しずつ記憶はよみがえり、私は「以前ここに来たこ とがある」という思いをますます強くしていった。  ところが、よく考えてみると、ここは横浜博覧会という一時的な場所なのだ。ずっ と前にこんな高島屋不思議館があったはずはないし、以前、横浜博に来たこともない はずだ。「何かがおかしい」、私は思った。私の意識は、その奇妙な空間に翻弄され、 冷静さを失っていたのか。  来たことがあるはずはない、という考えとは裏腹に、記憶はどんどんよみがえる。 そう、確かに覚えている。しかし、なぜ覚えているのか。  そして、やっと思い出した。そうだ、実は夢で見たことがあったのだ、と。う〜ん、 不思議だ。まさに、夢かうつつか分からない状態でだった。  しかし、不思議で片付けたくはない。ちょっと考えてみよう。  例にあげたような夢は、まるで過去に体験したことの記憶を再現したかのように、 現実とそっくりであった。  ただ、ひとつちがうことは、夢の中の体験が最初の体験であり、現実での体験は二 度目の体験となることである。つまり、起きる事実は同じなのだが、出来事に対する 感じ方が変わってしまうのだ。  夢が現実となった場合、「あ、夢で見たことある」と思うわけだが、その夢の中で は、「あ、夢で見たことある」とは思っていたわけではないのだ。その夢さえ見なけ れば、その夢の中で感じたように、現実で感じていたことだろう。ところが、先に夢 で体験してしまったために、現実では本当は初めての体験であるにもかかわらず、初 めてのこととは感じず、再体験と感じてしまうのである。  これはどうしたことだろう。なんだか時間の流れが目茶苦茶になっているような気 がする。やっぱり、不思議だぁ〜〜〜。  不思議といえば、未来の夢を見てしまうことだろう。少なくとも、脳ミソなどの肉 体組織には、そんなことは出来ないはずだ。これは、ただの予測ではなく、偶然でも なく、体験(あるいは記憶)の先取りなのだ。意識の部分の何処かに、時空を超越し て働く部分があるのだろうか。そして、それは意識的に出来ることではなさそうだか ら、無意識の領域にある部分であろう。そして、その部分は、肉体ではないというこ とになる。  普通の原子物質は時間の束縛を受けているから、普通の原子物質ではない何かが構 成要素となっている部分があり、それは時間を(少なくともある程度は)超越するこ とができる、ということだ。  虚時間というのがある。普通の時間を実数で計るとすると、その時間は虚数で計ら れる、ということであって、普通の時間を虚数で計ると、その時間は実数で計られる のである。で、その虚時間がどういう時間かというと、普通の時間のように流れない、 空間の3次元と同じようなものなのである。過去、現在、未来、と呼ばれている時間 の流れの歴史が、スーパーマーケットの売り物みたいに、ずらっと並んで存在してい るのだ。たぶん、ARIONの視点のような世界だ。  で、その「無意識の中にあり、未来をも見通せる何か」が、虚時間のレベルで働く ものだったらどうだろう。それならば説明が付くのでは?  ところが、そうはいかないのである。流れないからといって、見えるとは限らない のである。普通の三次元空間の世界だって、何処でも自由に見通すわけにはいかない だろう。虚時間の世界だって、三次元空間と同じように、広大な距離があるに違いな い。  ということは、それは空間をも超越している、ということになる。では、5次元? 7次元? 10次元? 26次元? 333次元? いやいや、そうではないだろう。 何故なら、それは、ただでかいだけで、超越していることにはならないからだ。どん なに次元が高かろうと、次元の中にいる以上、法則にしたがってその中を移動しなけ ればならないはずなのだ。ならば次元を超越した存在でなくては説明がつきにくい。  では、次元を超越しているとは、どういうことなのだろう。それは、つまり次元と は無関係の存在ということである。次元とは無関係に働き、意識のある部分をつかさ どる何か、が存在しているのだ。  次元と無関係ということは、大きさが全く無いということである。つまり、0次元、 あるいは無次元の存在ということになる。無限に小さい点といえば分かりやすいだろ うが、次元内における大きさとは無関係の存在であるから、それは正確な表現ではな い。また、もちろんのことながら、次元で構成された世界においては、0次元の存在 ということであって、全く何もないというわけではない。  そして、無ということは無限ということである。とにかくそうなのだ。ということ は、それは無限の次元を内に秘めた存在である、ということになる。  それを私は、「霊」と呼んでいる。私は、霊というものを、そうしたものではない かと思う。いわゆる幽霊のようなものとは違う。それは人間と同じ形をしたものでは ない。見えないくらい小さい、といえば感覚的に分かりやすいかもしれない。イメー ジとしては無の点、あるいは虚の点といってもいいかもしれない。そして、それは無 限を秘めた存在なのである。  それこそ、無意識の領域でまどろんでいる、真の意識の中心なのではないだろうか。 その領域の意識にもう少し目覚めたら、一体どれほど凄いことになるだろう? 肉体 は有限の存在だが、その中心である霊は、無限なのだ。有限の中に無限が宿っている のである。  渦巻く想念は生の車輪であり、霊的自己はその無限の中心である。それが存在の有 り様である。                            −−− By SHANA PS.やや断定的な文調だったかもしれませんが、ただの文調です。    「これが真実である」と宣言するつもりはありませんし、押し付けるつもりも    ありません。    私としましては、冷静に読んで頂くことを願っております。    (う〜ん、ちょっとトゲあるかな? でも、悪意はないよ) 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室 8 ★香貫花mam の愛と自由で一晩中!----<01> 発言数 :522 未読 :9− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード >514/522 HBA00401 PHOQUE Re:RE:「パーソナリティの融合」と「利己」 ( 8) 92/12/22 23:43 504へのコメント コメント数:1  #504 Beijing M/C さん  うーん,わかるような,わからないような…‥(^^;)。  つまり,「自分は○○である」という意識があると,その局面で行われる 「自分を見る」の「自分」とは,「○○であるところの自分」を自分自身の 中に投影したものである,ということでしょうか?  となると,「自分」というものの本質は,自分自身を含む誰かの中に投影 されたものとしてのみ存在する,ということになるわけなんだろうか?  なんか今日は頭がはたらかない(^^;)。 只今のBGM:"Peace Sells... But Who's Buying?" By MEGADETH ** HBA00401/PHOQUE ** 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 515/522 NAG02033 EX 調和について愚考(RE:460 みれさん) ( 8) 92/12/22 23:51 460へのコメント    +   +   +                     「欲望」ってのは「身体」側の信号で それを「心」にオーヴァー・ロードしている状態の人が、とっても多いというよう な気がします。「魂」側の信号を凌ぐくらいにね(^_^;)。それで「心」の本来の機 能である「魂側信号」と「身体側信号」のインタフェイスがうまく行ってない場合 に、「心のまま」=「ワガママ」という公式が成り立ってしまうんだと、思うのね。    +   +   + 此の発言で私は、エロスとタナトスの拮抗関係といったものに、想いを抱いた。 そして、更に、ひつく神示において、 「和すには5と5でなくてはならんが、陽が中、陰が外であるぞ、天が主で地が従 ぞ、男が上、女が下、これが正しき和ぞ、さかさまならん、これが公平と申すもの じゃ、陰と陰と、陽と陽と和しても陰じゃ、陽と陰と和して始めて新しき陽が生れ る、陽が本質的なもの、この和し方がはらひきよめ。」と言われている事を想起し たのである。 そして、何故、ひつくの神が「四ツ足を喰ってはならん。」とくどい位示している のか、その重要性に思いを馳せるのであった。         +       +        + キチンと相手と真正面から対峙して、相手の姿 を自分の中に映すと同時に、相手の中に自分を映すことで、自分と相手の違いを知 り、その違いを差と受け取り、その差を埋めるには何をどうすれば良いのか?と考 えるという、途方もない作業が待っているからです。この一連の作業を苦と感じず 悦びに変えてゆく力、それがきっと愛なんだろうとあたしは思います。        +        +         + この考えは初出ではなかろうが、注目すべきものである、ととらえる。 異なったもの同士が和する所に、累乗的な成果と満足が開花するものと考えます。 しかしながら、そこで、差を埋めて調和し合った場というものが、どのレベルであ るのか?端的に言えばあまりにこの世的なまつろい合わせでは魅力がないのですね。 身○のみの調和でもいけないし、精神・のみの調和でもいけない、天と地が揃った 調和とは一体如何なる物かという事にまたもや想いを馳せちゃう私なのさ。(^^;)v そろそろ正しく隠遁する時機が来た様な心地する:EX 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 516/522 GCC01413 HVHY 今更ではありますが…。 ( 8) 92/12/23 01:19 コメント数:1                〜 反 省 〜   話が混線しているので、もう1回整理してみようと思った。   そのために、私は、PHOQUEさんの思っていること・正直な気持ちが、   最もストレートに表現されている部分をもう一度捜してみた。   結論として…、   シゲさんに対するRES(#464)の中に“それ”はあった。   | 私は私が誰かを愛していられれば幸せだし,そしてその人が幸せで (*)   |いてくれたならもっと幸せ。大事なのはそれだけなんだよね。    (*)   |   | シゲさんの文を読んで,それを思い出しました。   そして、この部分で#464の書き込みが終わっていれば、   恐らく私は、#467のような展開をすることはなかった、と思う。   逆に言えば、それ程、「やっぱり悲しいものがあるけれどね」   というフレーズに“引っ掛かった”わけだ。   つまり、不覚にも、私は、   もし実のある会話へ出来るだけ早く辿り着こうとするならば、   決して“見落としてはならない”肝心な部分、を無意識に回避して、   別の道筋から会話を進めてしまったのである。   その意味で、#512と#513に書いたことの大半は、   “かなり無理がある”或いは“単に間違いである”ことを認めざるを得ない。   即ち、私の今回採った方向は、   「“心遣い”しない」という形での“心遣い”ではなかった…。   私は、#507の文章を作成している時、言い知れぬ空虚感に襲われていた。   と言うよりも、PHOQUEさんの最近の2つの書き込み(#495・#501)を、   何度も何度も読み返しているうちに、「**の***」を垣間見たのである。   そして、私は“愕然”とせざるを得なかった…。   私は、PHOQUEさんに、心から謝りたい。   シゲさんとEddie さんには、お礼を言いたい。   そして、誠意あるメールを下さったアキラさんにも、お礼を言いたい。              PHOQUEさん、ごめんなさい。              シゲさん、ありがとう。              Eddie さん、ありがとう。              アキラさん、ありがとう。   私は、何よりもまず、   (*)の部分に表れているPHOQUEさんの気持ちを、   自分なりに理解したいと思っています。(※出来るかどうか解りませんが…)   もし、理解出来た(と思った)ら、又、発言したいと思います…。                                  HVHY 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 518/522 PFA03317 Eddie RE:RE:RE:同意のない会話について。 ( 8) 92/12/23 01:30 513へのコメント  こんにちは。  明確なコミュニケーションをありがとうございます。  私の今までのコメントはHVHYさんがなんらかの意図をもって会話をしていると  言う想像から、それを前提としたものでした。  (私は自動的にそのような解釈をするようです。)  特に深い意図がないなら、いままで私が言ったことは意味がなくなります。  働く/働かない、不毛/不毛でない、の会話は、なんらかの意図された結果があると言  う前提のものです。  効率的であるという判断基準は、意図された結果があってはじめて存在するもので  す。  会話の前提として明確にした方がいいと言った理由は、相手にコミュニケーションを  受け取る同意をとったほうがいいのではないか、というところからです。  HVHYさんがおっしゃるように、「会話」自体の方に意図があるなら、同意は必要  条件ではありません。  この会話の最初では、HVHYさんは非常に冷たい方であると言う印象でしたが、今  はむしろ、あったかいおせっかいやであるというふうに写っています。  (ただ頭は悪いようだが。←じょうだんです。(^^;))  これまでの会話で私が気づいたことは、  私自身の会話に対する在り方は、結果を非常に意識していること(相手を元気付け   ること、相互理解をすること(^.^;)等)  それらに支配されているようです。  この会話を初めたきっかけは、不毛な会話からPHOQUEを助けてあげたいという動機か  らでした。(以前の解釈より、失礼)  もうひとつは、理解されない(これも私の以前の解釈)ことが、HVHYさんにとっ  てつらいのではないかということでした。  ただ、PHOQUEさんに理解されるということに関してはむずかしいままですが。  (もちろん、理解が必要というのは、私の解釈)  あなたのその姿勢は、敬服せざるおえません。  誠実さと明確さをありがとうございます。(^.^)                                   By Eddie 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 519/522 GCC01413 HVHY RE:Re:RE:維/YUIちゃんへ(^_^) ( 8) 92/12/23 01:43 480へのコメント   >PHOQUEさん  私は、PHOQUEさんの心を傷つけることを、何度も言ってしまいました。  いまさら謝って済むことだとは思っていません。  でも、今は、謝ることしか思い浮かびません。  ごめんなさい。どうかお許し下さい。  今後も、もしお付き合い下されば、この上ない幸せです。                                 HVHY 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 520/522 QFH02012 アラミス RE:今更ではありますが…。 ( 8) 92/12/23 01:44 516へのコメント  今回のHVHYさんの件については、私も一言書こうと思い、 1文書き上げたのだけど516のRESでどうやら解決した様ですね。 せっかく書いたんだけど不用部分を削除したら下の2行だけ残り ました。(^^;) * で、私は一言言いたいのだけど、 「焦らずに、じっくりと行きましょうよ」>>HVHYさん  * 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 521/522 NAG02402 Beijing M/C 意識と虚像 ( 8) 92/12/23 02:21 514へのコメント  例えば、「自分は○○を愛している」という意識の上で、まず見えてくる己 というものの中で最も大きい要素は「○○を愛している自分」であるわけです。  ところが、実は「○○を愛している自分」という意識は、いうなれば虚像で あって、「自分は○○を愛している」という意識の上に成り立つ己とは同音異 義なのではないか、ということです。  つまり、相手というスクリーンを通して見える自分というのは、いわば自分 の中にある「意識」が宗主となって創造したものを、自分自身によって映し出 し、自分自身によって見る、という構造なのです。  極論を云ってしまえば、相手が存在することによって、ヒトはすべてにおい て自分の虚像を創り出し、それを見てその虚像を「自分である」と認識してい るのではないか、ということです。  ということは、その自分自身によって作り出された虚像の自分が、例えどん なに美化されていようと、どんなに卑下されていようと、自分ではない、とい うことが云えるのではないでしょうか。  さらに、本来の意志であるはずの「自分は○○を愛している」という意識は、 実はこの「虚像」を創り出すためのいわば「知識」であり、「引き金」であっ たのではないか、とも推測できます。  更に、その虚像を創り出す根幹の部分(ひょっとすると、これが先祖代々、 DNAに書き込まれ、伝達された情報の伝統的な部分なのかもしれない)が、 一番「理性」を刺激する部分にあるということが、ポディショニングの問題、 つまりどこに位置付けられるかということが、虚像の人格を支配する、という ことなのかもしれない…ということです。  ますます、訳がわかんなくなってきましたね。考えている本人としては、結 構「インナートリップ」を楽しんでいるのですが、コンピュータネットワーク の性格上、あまりミクロ過ぎる、あるいはあまりに個的であるのは、話題には ふさわしくないな、と常々反省しております(^_^;)。 Beijing M/C 'PANAMA!! PANAMA!Ah!!......Wow,7 years ago!' 1992 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 522/522 GCC01413 HVHY 理解とは? ( 8) 92/12/23 15:52            〜 どのように理解出来るのか? 〜  と言うわけで、もう一度、  PHOQUEさんが“どのようなこと”を思っているのか?  私なりに考えて(思い巡らせて)みた。  PHOQUEさんのことをどうしても理解したいからだ。  そして、そのような気持ちが一方的なものであったとしても、それは構わない。  | 私は私が誰かを愛していられれば幸せだし,そしてその人が幸せで  (*)  |いてくれたならもっと幸せ。大事なのはそれだけなんだよね。(#464) (*)  私はまず、今までのPHOQUEさんの書き込みを全部読み直した。  そして、PHOQUEさんの気持ちが最もストレートに表現されている部分を捜した。  と言うのも、捜さなければならないほど、そういう部分が少ないからだ。    (※例えば、#495のような書き込みは、少なくとも私には、)    ( “気持ちに忠実な表現”ではない、と感じられる。  )  しかし、上に引用した2行には、PHOQUEさんの思っていることが、  正に「心のまま」表現されている、と私は感じた。(※私は感じた…)  即ち、正しいとか間違っているとか、望ましいとか望ましくないとか、  そういうことを度外視して、ともかく、「ふむふむ」と頷けたのである。  書いているPHOQUEさんの“笑顔”が浮かんできたのである。  そして、妙な言い方だが、その姿を“愛しい”と思ったのである。  「もっとPHOQUEさんのことを知りたい」と思ったのである。  (何だろう、この書き込みは…)  なぜか? なぜ、そう感じたのか? >>> 「何かが、ほんの少し、違うような気がする…」  旨く表現は出来ないが、そんな感覚にも近いような気がする。或いは、 >>> 「すご〜くよく分かるのに、分からない…」  という自分の気持ち自体が、これ又、分からない、ということのようでもある。  いずれにしても、差し当たって、私は、このように理解したのである。  (…というような理解の仕方もあるのだろう、きっと。)                                  HVHY 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室11 ★KAZEの神秘学遊戯団----------------<02> 発言数 :437 未読 :6− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード >ウ ◆番号又はコマンドを入力して下さい◆ 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 432/437 GGB03531 COOL RE:ご理解を(^^) (11) 92/12/23 02:56 430へのコメント コメント数:1  どうも、KAZEさん!  色々と過去のLOGを読み直してみましたが、  どうやら私のフライングだった様に思えます。  「どうして私があの時、あの様なコメントをしたか。」  ということを自分なりに考えてみましたが、  私としては、SPOHEさんの書き込みの中に  私の疑問を解決してくれる何かがあるのでは、と直感し  その流れを終わらせたくない、という思いがあったからだと思います。  いずれにしましても、結論を急ぎ過ぎた私のはやとちりでした。  KAZEさん、どうもすみませんでした。m(_ _)m  今後ともよろしくお願いいたします。  取り急ぎ、お詫びまで。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 433/437 MHD02672 TAO 雑談/週刊プレイボーイ記事 (11) 92/12/23 08:54 コメント数:1  >KAZEさん  ご無沙汰しておりました。最近の会議室の“神道”的な展開には、なかなか  興味をそそられますね。さて、いきなり雑談になりますが、昨日発売された  「週刊プレイボーイ」に、ブルガリアの女性超能力者にして、国家公認の  『バイオエネルギー・セラピスト』(超能力治療士)としても活躍中の  ベラ・コチョフスカ氏にインタビューした記事が載っていましたが、  なかなか興味深い内容ではありました。以下、「 」内は記事よりの引用。  ・日本政治の行く末について…   「日本の政界スキャンダルは今後、もっと重要な事実が明るみに    出されるでしょう。そして、 '94年前後には日本の政治家の権威は 地に堕ちてしまいます」   (記者:“すでに政治家の権威は堕ちていますが”)   「いいえ、もっと堕ちます。とことん堕ちるところまで堕ちます」  ・今後の世界の動向について   「 '93〜 '96年までは各国で民族紛争や組織的な犯罪が激増します。    そして、 '99年前後にはヨーロッパと中近東を経済危機が見舞い、    天変地異も起こります。その時、世界の人たちは何かを学ぶはず    です。カオスを乗り越えた21世紀になって人々はやっと落ち着きを    取り戻します。さらに21世紀には世界の救世主が現れます。    その救世主はすでに日本に生まれているんですよ!」  日本の政界の堕落ぶりがさらに明るみにされていくというのは、  今後「禊ぎ」の時期に入っていく以上、そういう状況になっていっても  おかしくはないかもしれませんね。  世界の動向についても、「各国で民族紛争や組織的な犯罪が激増」すると  いうのは、何となく頷けるものがあります。特に、民族紛争については、  民族的なレベルでの霊的な活動が働きかけているという説もあるぐらいで、  まだまだ、エスカレートしていくような気がします。 しかし、世界の救世主が日本に生まれているというのは、どうかなあ?  キリスト教圏では、イエス=キリストの再臨が信じられていますが…。  それにその救世主っていうのは、逆に我々を支配し、堕落させようとする 反キリストが偽装した姿とも考えられなくともありませんね。 19世紀ロシアの神秘思想家ソロヴィヨフは、反キリストは日本から出てくる、と 言い遺していますし…。  もっとも、一見相反するものでも、より高い次元から見れば、「正」と「反」が 結び合わされることで、新しい働きを生み出すという効果もありますが。 「反キリスト」もまた、本来の「キリスト」と対峙することで、お互いに 新しい局面を生み出すという役割を担わされているのかもしれませんね。  霊的分野にしても、「東洋」と「西洋」が一見敵対して見えることがあるのは、  より大きな展開のダイナミックスを生み出す為の、意図的に配置された  “対立”なのかも。特に根拠があるわけではありませんが。  本当に雑談めいて来たので、これぐらいで…。  TAO 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 434/437 GGA02514 KAZE “MIZUHO”のチャネル・メッセージ<14> (11) 92/12/23 10:22 ************************************************************ 神には、いろいろなお働き。さまざまな動きが起こって来るぞ。そ れは働く形が違う。役目が違うということじゃ。気付かせる方法が 違うということじゃ。最後にみれば、ひとつとなってゆくぞ。大き な目で見れば、ちゃんとわかってくるぞ。 時間がない。もう時間がないのじゃ。悟りてくだされよ。神の心気 付いてくれよ。直接に神は言えぬのじゃ。それゆえ形を変えて知ら せておるのぞ。さまざまな神がお働きされておるのぞ。それゆえ現 れは違って見えるぞ。違って見えても、元はひとつぞ。惑わされる なよ。魔を入れるなよ。心で見ればわかりてくるぞ。善と見えて、 悪があるぞ。悪と見えて善もあるぞ。形だけに惑わされるなよ。姿 だけに惑わされるなよ。 心で見るのぞ。心しかないのぞ。他になにもないのぞ。善悪の見分 け、心してくだされよ。見分ける術はひとつしかないのぞ。 ただ外からだけで、判断するなよ。心で取れればわかりてくるぞ。 離れたように見えて、底では深くつながっていることあるぞ。近付 いたと見えて、もつれてしまうことあるぞ。人と人も、神も人も同 じぞ。何もないのぞ。心しかないのぞ。 動き出るぞ。なれど、ただおどすことのみ、神はしておらぬぞ。お どして人は変わらぬぞ。それでは、まことの改心できぬのぞ。まこ との改心できぬのぞ。まことの改心できねば、世は変わらぬぞ。救 うことできぬのぞ。見せかけだけの改心要らぬのぞ。今度の大掃除、 見せかけだけではすまぬのぞ。底の底からの大掃除ぞ。木一本にい たるまで、神のお心にそうものになるぞ。 それでのうては、また同じことの繰り返しとなるぞ。それではいか んから、心を決めての大掃除ぞ。早うわかりてくだされよ。決して 惑わされるでないぞ。まだ、人にはわからぬこと、いっぱいあるぞ。 まだ人には、言えぬこと、山ほどかかえておるぞ。神には言えぬこと 多いのぞ。神の心、わかりてくれよ。神の心、察してくれよ。 ************************************************************ 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 436/437 GGA02514 KAZE RE:ご理解を(^^) (11) 92/12/23 14:50 432へのコメント COOLさん、ご理解いただいて、どうもです。 ま、そういうことなわけです(^^;)。 メッセージの<14>にもありましたように、 >神には、いろいろなお働き。さまざまな動きが起こって来るぞ。そ >れは働く形が違う。役目が違うということじゃ。気付かせる方法が >違うということじゃ。最後にみれば、ひとつとなってゆくぞ。大き >な目で見れば、ちゃんとわかってくるぞ。 ということですので、「最後に」「大きな目で見れば」、 「ちゃんとわかってくる」ことを信じて、 表面上の「働く形」の違いにこだわりすぎないようにしたいものですね。 もちろん、それぞれの「働く形」には、それなりの重要な役割と意味があるのは 確かですが、これからの動きとしては、やはりグローバルに見ていくことを 必ず伴ってないと、肝心なことが見えてこないということだと思います。 これらかの時代への心構えということでいえば、 とってもむずかしいことではありますが、 >心で見るのぞ。心しかないのぞ。他になにもないのぞ。 を基本にしていく以外にないのだという気がします。 もちろん、その心は「素」でなければなりません。 それから、メッセージ内容と本人の顕在意識のギャップが 現在のところ予想以上に大きくて、 僕&パートナーも、どうしようか(^^;)(^^;)(^^;)、なんて思っている状態で、 そのギャップが小さくなれば、もっといろんな可能性が開けてくると思います。 こちらこそ、今後ともよろしくお願いします、のKAZEでした。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 437/437 GBD01723 サッチャヘルカ 真の叡智は救済を始めるまでは開かれぬ (11) 92/12/23 15:34   インドには多くの経典が存在している。その多くの経典とは、テーラヴァーダ  に属する物、あるいはマハーヤーナに属する物、あるいはタントラヤーナに属す  る物、あるいはヴァジラヤーナに属する物、あるいはヨーガ的な経典等々です。   ではなぜこの国がこれだけの多くの経典を出すのかというと、それはインドが  ラジャスであり、そしてサットヴァだからです。      非常に荒っぽい。しかしカルマの解放も非常に早い。そしてカルマの解放が早  いという事はそれだけ証智・捨断のプロセスが非常に速くなるという事を意味し  ている。そして非常にこの証智・捨断が速くなるという事はそれだけ、より高い  世界、あるいはこの世界の下の世界、つまり低級霊域や動物やあるいは地獄につ  いての理解が深まる事も早いということがいえる。そしてこれらの理解の早さは、  この人生における無常を経験させる早さとも一致する。つまりもしわたしたちが、  「現実」と呼ばれる生から死までの間を全てであると考えるならば、わざわざ修  行する必要はない。なぜならば、その間の期間の努力は、その定められた期間内  のための努力をすればよいからである。しかしもしそうではなく、この世界の他  に他の世界が存在し、そして特に高い世界の記憶があるとするならば、そのとき  にはこの人間の世界の苦しみを早く捨断し、そして元の世界へ帰りたいという意  識が出てくる。これが一般的に、インドヨーガの成就者たちが修行に入るきっか  けです。   ところが仏陀釈迦牟尼の場合、そうではなく、大いなる発願をなさった。では  いったいなんの発願をなさったのかというと、全ての魂に絶対的な自由・幸福・  歓喜を与える、そのために自分自身は輪廻転生を繰り返そうと。そして自然に完  全煩悩破壊するような状態を作り出すようにしようと。これが釈迦牟尼の歩かれ  た、つまりボーディサットヴァの道であるということができます。それはちょう  ど、意図的に、五つの構成要素、つまり身体、感覚、イメージ、経験の構成、識  別というものを捨断し断つ道ではなく、自発的に、善、徳、それから多くの人た  ちを引き上げる事によって崩壊させる道です。この二つは同じとも言えるし違う  とも言える。同じと言えるのは何かとというと、それは静止の状態は同じである  と。違うとは何が違うんだというと、それは全ての経験をしつくしているがゆえ  にグナの干渉、つまりラジャスやサットヴァやタマスのエネルギーが関与したと  しても、あるいは愛欲界のマーラが関与したとしてもそれに対して影響を受けな  いということが違いとして挙げられます。      つまり真理勝者の庇護のもと、五つの構成要素を捨断する事はできるが、もし  真理勝者が登場しなければ、一般の人は五つの構成要素を捨断することはできな  いということが言えるのです。ところが真理勝者はそのあらゆる段階において、  マーラとの対決やあるいはマーラとの友人関係、あるいはグナについての徹底的  な叡智が存在してるがゆえに決して惑う事なく自分の来た道を帰ろうとします。  ここに大きな違いがあります。そしてこの大きな違いは導く者と導かれる者の違  いとなり、またこの大きな違いは、大いなる守護者であられる、例えば釈迦牟尼  の入滅後、仏教的成就者がほとんどと言っていいほど出なかったのと同じように  それらの弟子たちの祝福が消えてしまうという事となるのです。   以前わたしはこのような本を読んだ事があります。これは、真理勝者ではない  が、ある神通力者がいた。その神通力者は神秘的な力によって病気を治していた。  そしてその人をすがる人が何万人もいた。そしてその人は確かに病気の苦しみを  消すことができた。しかしその人がなくなった後にその病んでいた人たちの病気  は全て再燃したと。これはまさに、その病気を治していた人の神秘的な力だけで  病気が一時的にシャットアウトされたに過ぎないという例です。   したがって、三宝に帰依するという基本的な土台、これは大切であるが、土台  は土台として、皆さんが日々修行を行ない、それによって身の行い、言葉、そし  て心の働きというものを統御し、それによって自分自身を浄化するという、この  プロセスを忘れてはいけない。   いかに偉大なる聖者が登場したとしても、その魂が真の意味での三業、つまり  身の行い、言葉、心の働きについての道を示し、実践をさせる事、たいへんであ  ったとしても実践をさせる事を主張しないとするならば、それは確かにその神秘  的な者が登場したときだけはその人たちは救われたかのように見えるが、結果的  には救われてないんだという事を理解しなければならない。     そして、それらに対する教えはたくさん存在しています。例えば六つの極限に  ついての教え、聖なる十段階の道についての教え、七つの覚醒段階についての教  え、あるいは五つの潜在的な能力と力についての教え、それから二つの断滅と二  つの精進についての教え、それから四つの念処についての教え、それから四つの  神足についての教え等々がそれです。そしてこれらの実践を皆さんがなさる事に  より、皆さんは確実に幸福な道を歩く事ができるのです。   インドには、すでに完全なる真理の道はありません。しかし、この真理の道の  一部であるヒナヤーナのヨーガ的な部分はまだ残っています。彼らは山に篭もり、  静慮に集中し、そして神聖世界への道を目指そうとしています。しかし彼らには、  今度は逆に、善人であれという教えの弊害が存在しています。この善人であれと  は、先ほども述べたとおり、もしすべての衆生が三悪趣の方に流れるとするなら  ば、その流れに乗っかる事、逆らわない事、周りの人と意見を同じくする事こそ  が善人なのです。しかし、法則は法則として存在している。そしてそれは高い世  界へ至る法則と低い世界へ至る法則がある。そしてもし皆さんが低い世界へ至る  法則の流れに乗っかり、善人となるとするならば、いくら瞑想したとしても皆さ  んの五つの構成要素はけがれがどんどん増大し、そして瞑想として達成すること  もなく、また魂としての達成もないでしょう。   つまり皆さんが土台とするもの、皆さんが必要とするもの、それは真理の法則  なのです。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室12 ★アキラのハルマゲドン探偵局--------<01> 発言数 :448 未読 :1− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 448/448 PFC02535 カナメ 終末に何をすべきか (12) 92/12/23 01:32 446へのコメント  本業に精を出し、人間関係を大切にする。これに尽きると思います。  それじゃ、普段と変わらないじゃないか。と、お思いの方もいらっしゃるでしょう。 それでいいのです。少なくとも、私はそう信じています。  もし、ハルマゲドンであることから、自分の生活や生き様に疑問が生じたのなら、 ハルマゲドンであるなしに関わらず、それらを見直してみるべきでしょう。  確かに世の中には「戦士」や「預言者」「救世主」といった、特別な使命を授かっ た人がおります。しかし、誰もがこのような人間になれるはずもなく、また、その必 要もありません(まあ、すき好んでなるもんじゃないと思いますがね)。たとえば、 農業に従事している人が全員仕事放り出して教祖様になったら、具合悪いですよね。  人には皆、役割があります。救世主には救世主の、作家には作家の、営業マンには 営業マンの、プログラマーにはプログラマーの、板前には板前の、遊び人には遊び人 の役割があり、それぞれ必要があって、この世に存在しているのでしょう。  結局、自分の最も望む生き方を選ぶのが一番であり、それしかないような気がしま す。単純だなー、長生きするぜ。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室13 ★HVHYの預言解読部屋------------<02> 発言数 :395 未読 :2− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 394/395 HGB02122 あもり RE:クリスマス (13) 92/12/22 23:56 393へのコメント #393 へのコメントと、私の内的キリスト感について ★ 何度も許されてまた、 ★ この地に集う嬉しさに。  しょうるさん、初めまして。  今はちょうど 12 時になるところですから、クリスマスまであと 2日です。今年も また、60 億の様々な想いを孕んだ特別な夜が訪れます。 > すなわち、天の父の意思を受けてそれを表現するのが子と呼ばれるのでは > ないだろうか。  神=父=子という三位一体の観点から言えば、我々と同じ肉の身を持つキリスト 同様、我々もまた、神から必要とされている存在だと思います。  −神の元に立つ人間− これを、人間のエゴだとか傲慢だとする人もいましょう が、私は人間の無限の可能性を信じています。  私的キリスト観ですが、私は、敢えて彼を何も出来なかった人と捉らえています。  何も出来なかった、と言ってしまうと誤解を招くでしょうが、簡単に言えば、 巷間に語られるような奇跡を為さなかった人、となります。  ただ、悩める人に寄り添うた人。  彼等の苦しみを同じくした人。  私はそんなふうにして、彼を慕っています。また、進化の度合いとしての人間の レベルから考えて、当時の人々には奇跡も必要だったのではないかな、と思ったり していますが。  我々には、奇跡は必要ないでしょう。  また、我々から観たキリストは、奇跡を起こさなかった人として捉らえるのが、 もっとも自然な事のように思われます。  「犠牲」という言葉が出てきましたが、最近になって、愛をするために犠牲は、 ないと思い知らされました。  詳しくはまた後程。 > 愛ってむずかしいですね。(^_^;)  そうですね。きっと、「愛」という言葉がこころにあるうちは、為せない ものなのでしょうね。  がんばってください。  特別な夜に、みんなの本当のしあわせをお祈り申し上げます。                               あもり 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 395/395 GBG02043 維/YUI あもりさんへ (13) 92/12/23 10:55 RE: 一連のコメントへ ありがとう。  *^^* 他に書くことが思い浮かばなかった・・。                              維/YUI。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > −会議室14 ・壁(2)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 発言数 :699 未読 :3− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード > 697/699 GBG02755 スマル(珠) 正直なはなし (14) 92/12/23 11:43 私はひどい母親です。 泣く子供を叩いて黙らそうとします。 30分位は、じっと抱いてあやしてあげますが、 それ以上は、イライラしてきて、ほおり出します。 「良い加減にして、私だって我慢の限界があるのよ。」 じっとしていることの苦手な私は、子供の顔を30分も見ていると 飽きてしまう。母親ってそんなもんだろうか? 子供は可愛いけど可愛くない。 早く自立してくれ〜と思う。 「親をいつまでも当てにすんじゃない!」 などと3才の子供に言ってどうなる! うちの子供はお蔭で自立は早く、なんでも自分で工夫していける子にはなったが。 それでいいのかしら? どうして子供を生んだの? それは、命を繋いで行く義務があるから。 自分の子供を見てみたかったから。 おかあさんになってみたかったから。 泣いてもわめいても、無視しちゃうのってやっぱりひどいって思う。 だけど、抱いていやるってことは苦手だったりする。 わがままな親だなあ。 風邪を引いてぐずっている子供をみると、いい加減に直れよ〜と思う。 痛がっていれば、さすってやるが、手が痛いんだよ〜って思う。 なんか我ながら愛情のない育て方してるよな。 それで良い子が育つんだろうか? 愛を理解できる子供に育つのだろうか? ただ、元気でいてくれたらそれでいいんだけど。 人を愛することを知っていて欲しいと願うけど、 こんな母親に育てられた子供は、果してどうだろうね! 私の後ろ姿みて育つ我が子は、いかなる子供に育ちましょうや。 不安だ。                      スマル               電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 698/699 GBD03557 シゲ なんてことはない (14) 92/12/23 14:56 We all need someone to kiss away our tears. という言葉が、似合う人間になってみたいもんだ。 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード > 699/699 QFG02515 SHANA 壁の細道 (14) 92/12/23 15:03 夕焼けの 赤い女神に 魅せられて