- FARION MES( 7):★アリオン世紀末書き込み寺----------<01> 93/01/19 - 732/733 GAA01342 オデオン 発言者削除 :ARIONに今週の週間現代 ( 7) 93/01/19 00:54 733/733 GBA01276 しまうま RE:祈りのあり方 ( 7) 93/01/19 08:51 726へのコメント  いやはや、「祈り」の原義が『自分の身の上にはよい事が、他人には悪い事が起 こることを欲すること』だったとは、知りませんでした。でも他人に悪いことが起 こることを願ってるときって決して幸せな気持ちにはなれない気がするなぁ。 :要はさらけ出した姿の中から良心に染まぬことを拾い集めて見ること、それが :「浄化」につながって行くのではないでしょうか?  そうですね! 良心に染まないことは、なるべく心に貯めたくないものだと思い ます。マメにお手入れしなくっちゃな>自分  毎度々々不躾な質問で申し訳ないのですが・・・アマデウスさんは、「自分をさらけ だす」というのはどんな風にやってらっしゃいますか? 僕は以前仕事でちょっと ドン詰まりかけたことがあって、夜部屋で悶々としてた時に、ふと自分が「他人に 対する怒りとか憎しみ」をムリヤリどこかに封じ込めている、という気がしました。 で、思い立ってタガをはずしてみると、結構出てくるんですね、これが。罵倒やら 恨み節やら。あと泣き言とか・・・。そうして出来るだけ開けっぴろげて自分を見直し てみると、なんとなく元気が出てきたのでした。(ウウ、ひとりよがりな文章でご めんなさい(^^;)) :何らかの超越的存在と深く関わることは、祈りの質(?)に影響するのかも :知れませんが、その存在に依存しきってしまう危険性には注意しないと :いけないんじゃないでしょうか。  依存はまずいっすよね、やはり。異存ありません(うわぁ〜、怒んないで怒んな いで〜(^^;))。深く関わる、ということは、どれだけ真剣になれるか、というとこ ろにかかっていると思います。(あ、真剣ってマコトのツルギって書くのですね) :私も偉そうなこと言ってますが、「こうありたい姿」を書いているだけですので、 :実践が課題です。  そうなんですよねぇ・・・実生活にどうつむぎこんでいくか、とゆーあたりが、まだ 全然・・・。すごく基本的なところで無神経だったりするし・・・。自分が間違ってると 思っても謝れないこともあるし・・・。怒られないためにしょげた振りをすることだっ て・・・・・・あー情けない。  でも、こっからスタートするしかないです。頑張りまーす!(^_^)   しまうま - FARION MES( 9):★猫が好き♪の宗教円卓会議----------<01> 93/01/19 - 073/074 PEH01124 猫が好き♪ RE:風邪ひきの 岡 です/宗教家と金儲け  ( 9) 93/01/18 22:00 015へのコメント コメント数:1  あー。こないだどっかで「なもん現行不一致じゃねーか」とのたまったら、 なんとまあ「現行不一致なんて当り前じゃねーか」という反撃を食らってしま ったオタオタしてたにゃんこすき♪です(どっかじゃねえ、どっかじゃ。ここ だっ)(しかしリンクからはずれるのでそっちにはこれ以上言及はしないので ある)。  だけどおれはやっぱ一応、現行一致というのは原則だと思うのね。現行不一 致であってもそりゃかまいませんが、まあ信頼はされんでしょう。で、宗教は 一般に信頼されたがるものである、と(*1)。さて、と。 *1 えー。まあしかしたとえばキリちゃんあたりが個人的に「不特定多数に信   頼されたがっていた」と強弁するわけではない。いまのキリスト教会は間   違いなく信頼されたがっているとは思うがね。 *  宗教が「心の平穏」を求めるものだとすれば(*2)、全ての人々が物質的に満 足することはできませんから、どこかで自制が必要になるんだと思うんですね え。 *2 ええと、とりあえず「宗教の目的」という意味で「心の平穏」という言葉   を使っているんであって、「宗教の目的は心の平穏である」というテーゼ   を提出しているわけじゃないんで、そこんところ間違わないよーに。  で、宗教は「物質的な満足を求めない方向」に進まざるを得ないだろうと思 うわけですよ。で、それをどこまで徹底するかというのは戦略の問題となって くるわけ。  プロテシタンティズムが一般市民に「金儲け」を「天職」というかたちで認 めたのは、物質的満足への諦観を徹底して求めることによって少人数の信者し か得られない状況に満足するか、それとも物欲を認めることによって間口を広 げ多人数の信者を獲得するかという、戦略の問題にすぎないでしょう。その信 念がどうあれ、プロテシタンティズム初期段階では、「信者となる市民の人数 を稼ぐ」方法以外に、叩きつぶされないための道はなかったと言えます(*3)。  というわけで、プロテシタンティズムの問題は置いときます。つまりぼくは プロテシタンティズムの考え方は、「金と宗教の融合」とは無関係であり、も っぱら「金に対する宗教側の妥協」であるとみるわけ。もっともこれはいずれ にせよここらへんの本論ではなかったようにも思う。 *3 たぶん「えー、そんなんいさぎよくないじゃーん」という声はあろうが、   このテクニックを導入しなかったせいで旧教体制の改善を志し叩きつぶさ   れた宗教者なんてのはいっぱいいるわけで、それはナイモノネダリという。  というわけで要するに、「心の平穏を求めるためには、物欲を捨てよ」と述 べる尺ォ、単なる空論の提案者・評論家ではなく、現実性のある説得力のある 提案を提出し、同じ希望を持つ者の先達として評価されるためには、実際に物 欲を捨てて見せなければいけないわけですね。  というか、自分がそうしてみせなくても他人をしてその提案を受け入れさせ るだけの方法論を導き出せればそんなことはどうでもいいわけですが、なかな かそれは難しいと。だからまあ、「実際自分でやってみせる」というような手 が、一番近道なのではないでしょうか。「現行不一致だがカリスマ性で引っ張 れる」なんてケースもないわけじゃないだろうが、レアケースであろう、と。  で、これは金に限らないのねえ。  「心の平穏のために、たとえば権力欲は捨てなければならない」というテー ゼを掲げる宗教のリーダーが、教団内で権力闘争を繰り広げていたりし、どう も求める目的を達成できていないようだったら、観客たる信者・信者候補者は、 「あ、あかん。どうもこれは提案者自身をも救わない道であるようだ」と思っ てしまうわけなのだよねえ。  更に、物欲・金銭欲・権力欲あたりを否定したとしても、まだまだ疑われる 余地はあるわけですよ。「自己満足」あたりは厳しくチェックされるわね。そ の言動の内容の妥当性なんてのがその評価基準になったりする。そこで「この 宗教は、物欲・金銭欲・権力欲などにはかかわりあっていはいないが、しかし リーダーの自己満足・自己陶酔にすぎない」と判断されたら結局は同じコトな のである、と。 *  というわけでですね。  宗教者に求められる特別の「モラル」というのは、特にないんじゃないかと 思うわけです。普通の人と同じように、単に「現行一致」「論理的妥当性」が 求められているだけである、と。いや、それどころか「宗教的信頼」という特 別なものがあるわけではなく、「信頼」というものは他のケースと同じ基盤の 上に乗っているものなのであるy、と。  ただ得意なのは、宗教の場合、その「言」の方が物欲・金銭欲・権力欲・自 己満足・自己陶酔などといったものを否定する方向に走ってしまいがちなもの だから「行」の方もそうであることが求められる、ということだね。 (となると、次は「現行一致の意味」ですかね(笑)。しかし続きでそれをや  ると多分リンクがコケるから、#060,065とは関係しないように注意して続き  をやってくれ(=^_^;=)) 074/074 PEH01157 酷使夢想 割り込みモード ( 9) 93/01/19 01:25 073へのコメント   言行不一致というワーディングのまずさを認め、   日本でクリスマスやバレイタインは、原則として、キリスト教とは関係ないと   いうことのみ主張するにとどめる。      え〜と プロテスタンティズムについて、議論が進んでいるようですな。   ひょんな関係から、大昔、おれっちは、ウェバーというおっさんに関心をもっ   たんわけなんだが、最初は彼の宗教観や科学の方法論に興味があったわけ。数   年前、またウェバーを読み始めたんだが、今度は、経済史という視点から、こ   のおっさんの話に関心を持つようになった。少しは、まともになったわけだな   俺も。そんな話は、このさい、どうでもいいんで、実はね。このウェバーとい   うおっさんについて、おもしれー話があるんだ。      ウェバーというおっさんと同時代にワグナーというおっさんがいたんだな。   え〜と。このふたりは、さかんに論争したらしい。ひらたくいうとだな。ワグ   ナーは、国家が貧乏人や弱者の面倒をみるという今風にいうところの社会福祉   政策をとなえ、ウェバーは弱者切捨てを主張したわけだな。ワグナーは、国家   が産業育成を主張し、ウェバーは民間が産業を育成すべしと主張したわけだ。   結局、ビスマルクがワグナーの理論を継承して、ドイツを「経済的な成功」に   導くわけだ。ワグナーは、自分の理論を国家社会主義と呼んだそうだが、ナチ   ズムとは一応関係ないことになっている。(おれはそう思わない)      で 話のおとしどころなんだが、ワグナーは貧乏人だったんだが、ウェバーは   金持ちだったんだな。まあ、そういう環境ってものがだよ。その人の理論なり   理念なりにだ。影響を与えないはずがない。とこう思うわけなんだな。   そもそも、経済史は唯物論であって、その頂点にあるのが共産主義の生まれる   背景だろ。つまり、物欲の話なわけ。で、一応、キリスト教とは相いれないも   のがあるということになっているわけだ。で,金持ちのキリスト教徒には、い   いわけが必要だったわけだ。そういう意味では、ウェバーは、ありがたい存在   だった人もいるんだよ。これ、マジな話だよ。おれっち、このへんのことガタ   ガタいいわけしている文章にでくわしたこともあるからね。      だから、ウェバーの主張もだな。真相は、いいわけの本だったといいたいわけ   なの。      ウェバーの文章はわかりにくいんで有名なんだが、それは、彼が湧き出るよう   にでる博識と学説をみせびらかすとこにあるんだな。全部かかないときがすま   ないわけなんだ。ウェバー自身、きどり屋だったそうだよ。だいたい、ウェバ   ーに傾倒する連中は、こういう知的おかざりが好きな奴が多いし、気取ってい   るのが多いらしい。おしゃれな奴が多いということを付け加えておこっかな。      ところがだ。最近、急成長している企業の経営者なんかみていると、とても質   素なんだな。別に信仰があるわけではないがね。だから、ウェバーのいうとこ   ろもあながち嘘ではないんだな〜という印象も持つようになったね。だいたい   俺のカミサンの父親が小さい会社の経営者なんだが、自分の金と会社の金をき   れいに区別しており、生活がまた質素なんだな。で、何度もの不況を乗り越え   て、まわりがバタバタ倒産していってもだ。特殊の産業とはいえ、40年以上   も会社をひとりで存続させてきたのもみるとだな、う〜んと考えてしまわけね。   で、俺の頭では どうもわからんということで、ま。しっかり地道が一番だと   という結論におちついたわけ。      だから、金と宗教の部分と、プロテスタントの戦略つ〜ところは   まだ、おれっちは よくわかんないってーのが本音だな。 - FARION MES(10):★MWの深層心理研究室--------------<01> 93/01/19 - 106/108 JAE00201 竜人 こんな内容で恐縮なんですが (10) 93/01/18 23:02   ここ、夢の話を入れても良いんでしたよね?  MWさん。   最近こんな夢を連ちゃんでみているので、解  釈の出来る方がいらしたらお願いします。   夢の世界では私は現実の私とは違う姿をして  います。もちろん人間ですが。その世界で、お  ばけ屋敷というか、妖しげな場所に宝?みたい  な物を捜しに行きます。その時に何人かで行く  のですが、屋敷の中で私は仲間がおかしく(悪  霊につかれたという表現が的確かもしれません)  なり、宝を手にいれたかどうかの瀬戸際にそこ  から逃げ出さねばならなくなります。   ここまでなら、気にはしないのですが続きが  あります。   逃げ出す際に私の一番愛している人が、(こ  の場合も実在の姿をしていません)先ほどの「  おかしくなる」状態に陥り私に対して殺意を持  って殺そうとしてきます。私自身は相手を殺せ  ないので、相手の攻撃?を避ける一方なのです。   そして、気が付くと寝汗でびっしょりの寝て  いる自分で安心をするという状態です。   この夢って、一体何なんでしょう?夢解釈の  方法を知らないので自分では分かりません。  どなたか、解釈の本なり、または夢の解釈をお  願いします。           静かに眠りたい竜人でした  PS.オーロラさん副議長就任おめでとう!! 107/108 PGB01415 BUBU 深層心理と唯識:1/BUBU (10) 93/01/19 14:32 102へのコメント コメント数:1 体験世界(境)をいかにとらえるか ――唯識の無本質論とユングの元型的本質実在論  唯識の場合、体験世界(境)はそれ自体としては存在しないものとされます。 それは虚妄分別(こもうふんべつ)のはたらきによって仮構されたもの(偏計所 執性 ヘンゲショシュウショウ )にすぎません。私たちの悟性は、言語概念を媒介として物 事を把握しますが、言語概念自体に対応する現実があるわけではないのに、そう した仮構を現実と誤ってとらえてしまいます。それに対して、そのように誤認す る主体である分別ないし識は存在します。それは因縁によって生じたもの(依他 起性 エタキショウ )です。そして、識から仮構を去ったところに真理(円成実性 エン ジョウジッショウ)はあるとされます。 これら三性(サンショウ)の関係は蛇と繩と麻の比喩で説かれることがあります。私た ちが薄暗い森を歩いているとします。何が現われてくるだろうか、という期待と 不安でドキドキしてきます。すると、目の前の道に長いものがある。とっさに 「ヘビだ!」と思い、ぞっとして身の毛がよだちます。しかし、どうも動かない ようです。そこで、おそるおそる近づいてみると、どうやら繩のようです。といっ ても、繩という実体があるわけではない。それは麻をよりあわせて作られた繩の ようです。簡単な例ですが、このように、妄分別された「長いもの」は蛇として 捉えられます(偏計所執性)。しかし、それは実は日常的な認識の上では、繩で す(依他起性)。さらに分析してみると、この繩とは、麻の繊維がより合わさっ てできたものにほかなりません(円成実性)。(『摂大乗論』、『義林章』参照。)  このように、唯識においては、私たちの日常的な言語的な意味の分節化作用そ のものの意義が根底から否定されます。井筒俊彦氏はそれを無本質論と名づけて います。  他方で、ユングの場合には、「元型的本質(実在)論」(井筒俊彦)の立場を とります。これはつまり、強い情動価を担った一定の表象に、究極的には人類全 体にかかわるような普遍的な意味的現実性を認める立場です。例えば、自我とあ いいれない人格像としての「影」、内なる異性像としてのアニマないしアニムス、 心全体の、結局は体験世界全体の可想的中心をなすと考えられる(自我から)独 立した人格像としての自己、精神の人格化としての老賢者、集合的な母性像とし ての太母(グレートマザー)などが考えられています。日常的には、これらのイ メージは日常の体験世界と重ね合わされていて、区別がつきません。それらの区 別を可能にするのは、いわば「元型論的還元」ともいうべき構成的解釈法です。 或者が、プラスにしろマイナスにしろ非日常的なほど強い情動価を意識的無意識 的に付与しているものが、元型的表象であるといえます。そのようにして、日常 世界から遊離された「心像的世界」(mundus imaginalis)(アンリ・コルバン) 榲ホ]cヲ義の6フ踊なNX0q「て、心は自己変容をとげ、自らの実現していくと考 えられます(個体化過程)。  唯識思想と分析心理学(ユング心理学)とは唯心論的な立場をとり、体験世界 を広義の心と考える点や、体験世界に対する執着を解消するための手段をこうず トる点では共通しているといえますが、体験世界の評価の仕方が根本的に異なって います。唯識においては妄分別された体験世界はことごとくなきものにされてし まいますが、分析心理学では、むしろ積極的に分節化され、体験世界に付与され ている主体的な意味がくみとられるのです。 (つづく)                             PGB01415 BUBU 108/108 PGB01415 BUBU 深層心理と唯識:2/BUBU (10) 93/01/19 14:34 107へのコメント こころの構造論  体験世界の構成の問題を論理的に根拠づけようとするとき、構成主体に対する 反省が生まれてくる。その反省の結果が心の構造的把握です。唯識思想において、 こころは、八識からなるものとして考えられている。八識とは、眼識・耳識・鼻 識・舌識・身識・意識の前六識と、末那識および阿頼耶識です。以上は、心王と 呼ばれる認識と執着の主体としてのこころです。それに加えて、遍行・別境・善・ 煩悩・随煩悩・不定の四種五十一の心所と呼ばれる付随的なこころの働きが考え られています。前五識は感性に対応し、意識は悟性もしくは経験的自我に対応し ます。末那識は、潜在心の一つであり、睡眠中や気絶している最中にも間断なく 思量しつづけ働きつづけている(恒審思量)と考えられています。このことを考 慮すると、それにはむしろ論理的要請としての性格が強く、カントにおける超越 論的統覚に近いといえます。それは自己同一性の確立(我執つまり体験主体側へ の執着)と対象認識における事物の同定作用(法執つまり体験世界側への執着) との可能根拠となっていると考えられます。対象(境)を対象として構成するこ とを可能にする能動的な源です。その意味で、末那識は、執着を離れることをめ ざす仏教においては汚れた存在であり、染汚意と呼ばれます。  それに対して、阿頼耶識は、表象の多様を与える可能根拠である。したがって、 それは体験世界の多様に対応するだけ多くの潜在的表象構成素(種子)(シュウジ) をもっていると考えられなければなりません。そして、仏教の無常説と無我説と あいまって、それらの要素を含めてこころ全体は瞬間的に現われては消える運動 を繰り返しているとされています。しかし、体験的現実の世界では、さまざまな 事物は現に近似的な同一性を保持しているようにみえています。この仮象の同一 性を説明するために、種子が現実の体験世界を産み出し(種子生現行)、体験世 界が種子を植えつける(現行熏種子)という過程が瞬間的に繰り返されていると いわれます。また、種子が次々と種子自身を産み出す(種子生種子)とも考えら れている。阿頼耶識には、心、阿陀那、所知依、種子識、阿頼耶、異熟、無垢識 などの別名があり、それぞれ過去の経験の集積体(集起)(ジュッキ)(=心)、 自己の生命と体験世界の維持の基体(=阿陀那)、知の成gLmLYーチ``LLY l.亊`5Rvチフ有漏と無漏との諸法を生ずる可能的存在(種子)を内蔵している識(=種 子識)などを意味します。また、阿頼耶(alaya)には蔵の意味があり、蔵識とも 呼ばれます。阿頼耶識説の成立には∵*A業相続の主体・生命維持の根拠・我執の対 象などの論理的追及があるため、輪廻説、生命源、無我説(有我論に対する反駁) などの多様な側面が阿頼耶識の概念には込められています。  他方で、分析心理学の場合には、心は意識と無意識の全体として考えられてい ます。両者は個人的と集合的、諸力もしくは機能と諸内容というふたつの軸から 区別されます。集合的意識とは、ある一定の社会集団が共有している意識内容で す。伝統、慣習、風俗、先入見、規則、規範などの総体である。そこに集合的主 体は考えられていません。個人的意識の内容は、現に今、自我とのつながりが知 覚されている感覚知覚、思考内容、記憶像などであり、その機能主体は、自我で す。意識に同化された社会的役割や肩書きは、ペルソナ(仮面)とよばれ、仮象 のアイデンティティーを形づくっているとされます。個人的無意識は、個人が経 験的に獲得し、忘却したり抑圧したりしたすべての内容をおさめ、さまざまなコ ンプレックス(観念複合体)が働いています。また自我も、ユングの考えでは、 コンプレックスのひとつにすぎず、なにもそれなりの実体があるのではありませ ん。集合的無意識というのは、個人が生得的に獲得している表象の可能性です。 それは一方で対象認識の根拠となっています。しかし他方で、そこで働いている さまざまな元型は、コンプレックスと同じく自我から独立した人格像をなしてい ると考えられます。ここに、認識論的契機と心像形成的契機の両方を見ることが できます。ある主体が、自らのコンプレックスや活性化された諸元型に対して無 意識的であると、一方でそれらに憑依され、他方で体験世界にそれらを投影して しまうと考えられます。そこで、体験世界の中に感情転移的に投影された内容 ――概して体験世界は投影によって成立しているとはいうものの――を主体の側 に引き戻すことが重要になります。こうして、「広義の心としての体験世界」と 「狭義の心」との弁証法的関係の中で、心は一個の全体として個体性を実現し、 対象世界に対する情緒的執着からの離脱がはかられると考えられています。 言語の問題  ところで、解釈学的観点からすると、そのひとつのよりどころは、言語の問題 にあります。残念ながら、ユング理論には、言語に対する反省がまったくといっ てよいほど欠如しています。そのため、元型と言語との関係がはっきりしません。 他方、唯識の種子の場合、名言種子というように、言語的表象と種子とのかかわ りが明確化されている点にその今日性があります。井筒氏は、言語アラヤ識とい うことばで、阿頼耶識と集合的無意識との共通の場を想定していますが、ここに、 より深い比較研究の可能性があるといえるでしょう。 おわりに  この短い紙数では到底扱いきれませんでしたが、唯識思想は極めて多面的で多 くの理論的可能性を有していて、中でもそれが、広義の意識一般をめぐる批判的 哲学と、表象と主体との有機的なかかわりをめぐる心理学としての性格をも持ち あわせています。その意味で、深層心理学をはるかに凌駕しているといえるでしょ う。とりわけ、言語をめぐる今日の解釈学的問題意識に対する寄与が期待されて います。   (以上)                           PGB01415 BUBU - FARION MES(11):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<02> 93/01/19 - 581/586 GDB00064 オリハル RE:“MIZUHO”のチャネル・メッセージ<49> (11) 93/01/19 01:30 578へのコメント コメント数:1 MIZUHOのメッセージが「ぐれん」となりました。以前、KAZEさんが#539で「ぐれん」と題したのは、今回のNO.49のメッセージを読まれたからだったのですか。メッセ ージは降りてから、KAZEさんの手を経て、ここに掲示するまで大体どのくらいの時間が かかっているものですか。 ちょっと一二三神示より抜粋したいと思いました。 ア火ハの巻 第七帖 『いやなことは我が血統にいたさすなり、他人傷つけてはならんなり、ひふみにも二十 @(ふとまに)、五十@(いづら)、いろはにも二十@、五十@、よく心得なされよ。 何彼の事ひふみ、いろはでやり変へるのぢゃ、時節めぐりて上も下も花咲くのぢゃぞ。 誰によらず改心せなならんぞ、この方さへ改心致したおかげで今度の御働き出来るのぢ ゃ、同じこと二度くり返す仕組ざぞ、この事よく腹に入れておいて下されよ。同じこと 二度、この神示神と仏のふで。八月二日、一二Θ。』 私個人の見方で言うと、最初にARIONから「掟は破られた」と言われ、MIZUHOのメ ッセージ<49>で厳しいことを言われてしまいました。(同じ事二度)大きな目で見 ると、日本で一度、世界で二度目となるのでしょう。 ア火ハの巻 第八帖 『時節には従って下されよ、逆らはず、後の立つ様致されよ、後のやり方、神示で知ら してあろうがな。国々所々によって同じ集団いくらでもつくりあるのぢゃ、何れも我折 って一つに集まる仕組ぢゃ、天狗禁物、いづれもそれぞれに尊い仕組ぞ、又とない集団 ざぞ。神の心告げる手だても各々違ふのぢゃ、心大きく早う洗濯致されよ、とらわれる なよ、とらわれると悪となるぞ。一旦治るなれど、後はコンニャクぢゃ、判らん仕組、 判らなならんのぢゃぞ、悪とは我よしのこと。八月二日、ひつ九Θ』 ア火ハの巻 第九帖 『苦労いたさねば誠分らんなり、人民と云ふ者は苦に弱いから、中々におかげのやり様 ないぞよ、欲出すから、心曇るから、我よしになるから中々に改心出来んなり、六ケ敷 いぞよ。慾さっぱり捨てて下されよ、慾出ると判らなくなるぞ。大地の神の声誰も知る まいがな、だまって静かにまつりて清めて、育ててゐるのざぞ、何もかも大地にかへる のざぞ、親のふところに返るのざぞ。次々に不思議出て来るぞ、不思議なくなりたら神 の国、ミロクの国となるのぢゃ。八月三日、ひつ九Θ』 ア火ハの巻 第十帖 『よき神にはよき御用、悪き神には悪き御用、自分で自分がつとめあげるのぢゃ、人に なんと云はれても腹の立つ様では御用六ケ敷いぞ、腹立つのは慢心ぢゃと申してあろが な。仕組途中でグレンと変り、カラリと変る仕組してあるのぢゃ、其処に一厘の仕組、 火水の仕組、富士と鳴門の仕組、結構々々大切致してあるのぢゃ。仕組変わり変わりて 人民には判らんなり、よき世と致すのぢゃ、いくら智あっても人間心では出来ん仕組ぞ、智捨てて神にすがりて来ねば分からん仕組ぢゃ、と云ふて人間世界は人間の智いるのぢ ゃ、智でない智を神が与へるぞ、神人共にと申してあろがな、つとめ上げたら他にない 結構な御用。八月三日、ひつ九Θ』 ア火ハの巻 第十一帖 『世界一目に見へるとは世界一度に見へる心に鏡磨いて掃除せよと云ふ事ぢゃ、掃除結 構ぞ。善と悪と取り違ひ申してあらうがな、悪も善もないと申してあらうがな、和すが 善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり、気 ゆるんだらすぐ後戻りとなるぞ、坂に車のたとへぞと申してあろがな、苦しむときは苦 しめよ、苦の花咲くぞ。世は七度の大変り、変る代かけて変らぬは、誠一つの九の花ぞ、九の花咲くは二三(ふみ)の山(FARIONの事か?)、二二(ふじ)は神山神住む所、や がて世界の真中ぞ、八月三日、ひつ九Θ』 ARIONの時、「私はすべきではなかった」<−−−出すぎた しかし、今回、「私はすべきだった」<−−−控えすぎ? 私は客観的な自意識過剰人間なのかな? オリハル 582/586 GGA02514 KAZE カオスの自然学 (11) 93/01/19 11:59 580へのコメント 隆ちゃん、どうもです。 >・・・日本人は水っぽい人種ですから、水の事をもう少しちゃんと >考えんといかんなあと思う今日この頃であります。 「水」というと、水をひとつの生命体としてとらえ、 そのことにより水の未知の性質を把握しようと試みている テオドール・シュベンクという方の「カオスの自然学」(工作舎)という 興味深い著作があります。 同じ、「水」をテーマにしたものでは、 ライアル・ワトソンの「水の惑星」というのもあって、これも楽しめますが、 「カオスの自然学」というのは、ゲーテ、ノヴァーリスからシュタイナーにいたる 自然学の系譜に位置する著作ですので、今回はそれを。 この著作は、もう30年以上も前の1961年にドイツで出版されたものですが、 その内容はきわめて現代的な視点に満ちています。 著者は、現代においては、水の霊的本質についての知識を忘れ去り、 今やそれを合理的に、技術的物質的側面でしか扱わなくなったといい、 その流体元素としての「水」(もちろん、「流体」としての「空気」もその対象で すが)の本性について探求、考察しようとしています。 その流体の作り出すさまざまな形態を通して、水と大気の遊星である地球の上に 誕生した生命現象の本質に迫り、生命の起源から言語の発生まで、 自然の神秘についてさまざまに描き出している好著です。 その「形態」というのは、まさに「モルフォロギア」に直結するテーマで、 先日のシナジェティクスについてのワークショップも、それに関わるものであると 思われますので、今後いろいろとりあげていきたいと思います。 そもそも「形」ということについて、ある程度現代的にとらえかえそうとしたのは、 以前も一度紹介したことのあるランスロット・ロウ・ホワイトが、 1952年にロンドンで行われた、結晶学・天文学・生物学・心理学・芸術学の 各ジャンルからの参加によるシンポジウムをまとめた 「形の自然学/自然と芸術の形態をめぐるシンポジウム」(工作舎)が最初で、 それ以降、各分野で、展開されつつあるようで、 やっと日本でも最近、ゲーテの自然学の再評価と相まって、 とみに注目されつつある分野になってきました。 このエポックメイキングなシンポジウムについても、 形態学の一貫から、一度紹介したいものですが、いつのことになるやら、 やりたいことがたくさんあり過ぎて、追いついていけない自分がもどかしい(^^;)。 それはそれとして、そういえば、ゲーテの形態学について探求している 高橋義人さんの、ゲーテと宮沢賢治の色彩観について比較した論が 今期の「文学」(岩波書店)に掲載されています。 話がそれてきてますので、「カオスの自然学」に話を戻すと、 ここにとりあげられているのは、流体の「祖型的運動」としての 「旋」「波」「形」「渦」「律」「環」「静」についてや、 自然界に現れている水の働きのさまざまな働き、 人体内の「耳」「腸」「心臓」などにみられる流動的形態、 それから発展して「天界の水」、「脳と宇宙の水」、「思考の流動性」、 「呼吸する地球」、「気圏の中の水」、「大気の運動」などについてで、 最後に、「宇宙の創造的言語」や「芸術作品における流動形態」について さまざまに述べられています。 で、いろいろ羅列しましたが、これらの中から、「言霊」なんかのテーマに関係しても 興味深いと思われる「発話」ということについて、シュタイナーがらみの オイリュトミーに至るようなあたりをご紹介しておくことにします。  人間の霊的生命そのものが声帯に流れ込み、発話流動の形態が形成される。 これが霊(ガイスト)の自己表現の方法なのである。未だ形態化されざる空気流 動は、意志の領域から流出してくる。それは声帯において、人間の意志的な 霊的生命から信号を受け取り、外世界と意志(インパルス)を通じ合おうとする( つまりこれが発音という行為にほかならない)。肺から出た未組成の空気は 喉頭に流れ込み、あらゆる細部まで組成されてこの発話器官から離れる。こ まかに組成された形態は、たとえば波であり振動であり渦である。つまりは 限定的ではあるがつねに千変万化する形態である。こうした形態化作用の相 互関係は、空気流動の祖型的運動から複雑な諸形態を作り上げる。・・・ ・・・そもそも聖書の創世記に隠された神秘とは、原初の人アダムが生物・ 無性物を問わず、すべてのものを名ざすことができたということ、さらには 人間そのものの秘密である自らの名を名のることができたというところにあ る。かれが、これをおこなうことのできる理由は、神が始源に活性的・形成 的力----すなわち生命の気息----をアダムに吹き込み、それによってかれを 創造したからにほかならない。宇宙の創造的言語そのもの、それはとりもな おさず霊の根源的運動であるが、これが人間とその喉頭とを形成したのであ る。・・・「人間が言葉を発するときにはいつも、創造の太初にあった創造 的元素を分有して自ら発しているのである。創造の太初とは人間が宇宙の深 淵、すなわちエーテル的状態から空気的形態へと鋳出されたときであり、人 間はそのとき未だ流動的形態、さらにはそののちの地上的な固体としての肉 体をもっていなかった。われわれはあらゆる発話の瞬間において、原初の時 代にあったままの宇宙と、人間が進化をたどるその過程へと自らを移しかえ ているのである・・・。」(シュタイナー、1924年6月24日の講演より) で、こうした考え方からシュタイナーのオイリュトミー芸術への距離は 非常に近いものがありますので、そこらあたりをさらに。  喉頭は、人間という形態にまで達している星界の祖型的活動を内包してい る。もしも、その活動が運動形態としての一個の人間にそっくり対応してい るとするなら、さらにすすんで、この祖型的活動が喉頭を通じて可聴的なも のになっているばかりではなく、人間の肉体全体の運動を通じて可視的にな っていると考えてもよいだろう。こうした考えは、運動する人間を、宇宙的 文字の法則性にのっとった一種の表現方法として利用する、運動芸術へと到 達するだろう。オイリュトミー芸術とも呼ばれるべき、この新しい芸術の創 造は、同じく宇宙的基盤の上に成立する発話芸術の復興とともに、ルドルフ ・シュタイナーの手によってなしとげられたものである。オイリュトミーと は、人間の全身を通じてエーテル的な祖型的活動のもつ多種多様な運動が、 可視的になることにほかならない。こうした運動は、空気流動を鋳造する喉 頭という肉体器官にとって、基底的なものなのである。さらに発話と同様、 人間は自らの内部に音色、すなわち音楽の領域を保有しているが、これもま た人間の運動を通じて、音色上の法則性にしたがって視覚化することが可能 である。発話とオイリュトミーは、一方は聴覚上、他方は視覚上のものであ るとはいえ、究極的には同一の体験である。人間とこの世界を創造したもの は発話----すなわち創造的な霊的実体のオイリュトミーにほかならない。人 間もまた霊のうちで創造的になりうるがゆえに、発話とオイリュトミーが与 えられたのである。 というあたりで、すでに長くなってしまいましたので、 このアーティクルはとりあえずこれまでとして、 続いて、フラーなどのテーマについて いろいろだべってみたいと思っているKAZEでした。 583/586 GGA02514 KAZE フラーとシナジェティクス・ワークショップについて (11) 93/01/19 18:49 580へのコメント 隆ちゃんへのレスの続きです。 先のレスからこの続きを書く間に、 先日のシナジェティクス・ワークショップに一緒に参加したMさんという方が、 それを地方雑誌で紹介するために書いた原稿の下書きのコピーを もらってきましたので、それを簡単に紹介させていただきます。 その原稿には、幾何学の具体的な内容には踏み込んでいませんが、 フラーとそれを継承する梶川さんのスタンスはおおよそ理解できるものと思います。 幾何学の具体的内容については、フラーが子供達と対話しながら説明したものを 本にした、リチャード・j・ブレネマン編の「フラーが僕たちに話したこと」(めるくまーる社) というのがあって、わかりやすそうですので、それなんかを使いながら、 ご紹介できればと思ってますが、今度ということにさせていただきます。 (「今度」というのが、一番あぶないのですが(^^;)) ----------------------------------------------------------------------------- 梶川泰司 シナジェティクス研究所所長、 地球的視野のデザインサイエンスに取り組む20世紀の発明王 バックミンスタ・フラーに学ぶ。 われわれの惑星上の生命の本当の富は未来に向かって作用する メタボリック(新陳代謝)で、知的なシステムそれ自体である。  『バックミンスター・フラー』。幾何学や物理学に興味のない人でもこの名前を聞 けば、ご存知の方も多いのではないだろうか。  彼が1989年に亡くなってからも彼の研究や意志を受け継いでいる人が世界中に 多く、特に最近になって彼らの活動が目につくからだろう。そして、彼の名著である 『宇宙船地球号』で提示されている問題が切実なってきているためか、とみに注目を 集めるようになってきた。バックミンスター・フラーは、アメリカのフィラデルフィ アにある『フラー研究所』を活動の基盤に、フラー・ドームをはじめ、スポーツ選手 が利用しているメガネ・ベルトなど、数知れないほどの特許を持ち、また現代の幾何 学や物理学の世界に新しい学説を投じているところなど、まさに現代が生んだ今世紀 最大の天才科学者のひとり、現代に生まれたレオナルド・ダ・ヴィンチといえるので はないだろうか。 梶川泰司、彼は日本にけるバックミンスター・フラー研究の第一人者である。現在、 広島工業大学研究所内にあるシナジェティクス研究所の所長であり、アメリカにあ るバックミンスター・フラー研究所を経て、ハーバード大学視覚環境学科客員講師、 武蔵野美術大学特別講師なども兼任している。昭和26年7月、広島生まれ。専門は、 シナジェティクスとデザインサイエンスで、芸術と科学の幾何学的なブリッジとなる 研究や作品を発表している。主要論文に、『多面体を折りたたむ』、『成長する正二 十面体』など、訳書に『エッシャー・変容の芸術』『クリティカルパス』(近刊)が ある。  彼は26歳のときフラーの理論に出会い、すぐさまアメリカの研究所に赴き、彼と 出会う。当時フラーは80歳を越え、理論の完成時でもあった。その時期に会えたと いうことは非常に運が良かったという。  今回のワークショップは、梶川氏の研究の一端である『プラトン立体』を中心とし たフラーの研究コンセプト入門編、といった内容のものだった。参加者は25名。職 業としては、建築家の学生、建築家、医者、舞踏家、声楽家、学校の教師、デザイナ ー、広告プランナーなど、クリエイティブな仕事に取り組んでいる方々が多かったが、 やはり『現状』というフィールドに限界を認め、積極的なオルタナティブを獲得して いこう、という試みからのものが多かった。  ワークショップは、梶川氏のフラー観から始まった。時間の多くは、参加者による 幾何学立体の工作とそれによるさまざまな視点の提示に費やされたが、それを文字に することは困難なので、以下、彼の語ったことをピックアップしながらかいつまんで 紹介していきたいと思う。  まず彼、フラーの仕事面から話していきたいと思います。『偉大な発明と発見は、 常に大学の外でなされた』という半世紀前の哲学者ホワイトヘッドの指摘は、現代に おいてはほぼ正しいでしょう。バックミンスター・フラーにあっては、まさにそれが 正しかったといえます。フラーが直径50メートルの全天候型のジオデジックドーム を空輸によって一日で製作したのは1953年でした。その構造は、東京ドームより も大きな体積を覆うこともできました。砂漠化や戦争が作り出す難民のために、設計 から施工まで一週間とかからないこのデザインが有効なのは言うまでもありません。  一日で完成し、その日から住むことのできる量産型の金属住宅は、1944年につ くられています。今生産すれば、重さも価格も、日本の高級車一台分です。それは住 宅に費やされている多くの資源と無駄な支出を節約できるに違いありません。そして、 今人類が必要としている20億戸の住宅を持てないでいる人々へ供給する手段となり えます。  1932年にフラーが完成させたダイマクション・カーは、時速192キロメート ル、世界初の空力学アルミニウムボディを持つ、燃費13キロメートルの11人乗り、 3輪自動車でした。そして50年後、アルミニウム・ボディはようやく自動車工業界 に取り入れられることになりました。  先に紹介したものだけでなく、フラーの偉大な仕事のすべては、今日でもなお、革 命性を失っていないどころか、これからますます注目されていくに違いありません。 それは、これからの人類にもっともっと必要になるデザイン・サイエンスの巨視的な ものの見方なのです。  また、フラーは、1927年に、「間違った理解や近視眼的な欲望による大量生産 は、地球上の有限な化石燃料を半世紀以内に失わせる」と警告しましたが、当時の方 々は耳を傾けようとはしませんでした。  全体的な知識から分断され、自分の非科学的な行為に無関心な哀れな専門家でしか ないデザイナーに、フラーは絶望しました。彼らが作り出す製品は、資源をますます 枯渇させていくばかりになってしまいました。フラーは、お金持ちのクライアントか らかかってくる電話に人生や社会の幸福を期待することを、一切やめたのです。  そして、政治が解決できなかった人類の問題を解消することへ、個人として着手し ました。地球のエコロジカルなシステムがクライアントの依頼でつくられたものでな いように、彼の仕事も誰かに依頼されたものではなかったのです。  彼は自然の構造に学び、生態学的な相互作用を破壊することなく、すべての人々に 高い生活水準を実現することを目指しました。それは彼が創始したデザインサイエン スでした。目に見えない状態で宇宙にはじめから備わっている本当の機能----より少 ないエネルギーで最大の効果をもたらす宇宙というテクノロジーを知り、無限に存在 する原理を発見し、それにより快適な環境のために物質化することを彼は実践したの です。  フラーがいったように、我々の惑星上の生命の本当の富は、未来へ向かって作用す るメタボリック(新陳代謝)で知的な再生産システムそれ自体です。太陽エネルギー を何億年もかかって蓄積した石油やウランなどの埋蔵資源をどんなにハイテクのシス テムで燃やそうとも、消失でることに変わりがないのです。非生産的なエネルギーに 頼って生きている限り、我々はこの大宇宙の中のほんの束の間の粗悪なDNAとして 消え去るのみではないでしょうか。  私がフラーにはじめて会った時は、フラーが86歳の時でしたが、その頃でさえ、 彼は世界中いたるところで、毎日のように講演をし、移動の飛行機の中で本を書き、 睡眠をとるという超多忙な生活を送っていました。アポイントをとることも考えず渡 米したもので、フラーが会ってくれたのは、まったく運がよかったとしかいえません。 研究所に入ると低い厚みのある声が聞こえてきました。その瞬間の感動は今でも忘れ られません。彼は私の研究のアイデアをとても喜んでくれて、その可能性や思いつき を2時間もしゃべり続けていたのを思い出します。  それから彼が亡くなるまでの2年間、私は彼とともにシナジェティクスの研究をし ました。フラーのエゴは天才にふさわしく巨大でした。エゴは発明には不可欠な要素 です。発明したいという強い欲求なくして発明は生まれてきません。しかし、彼が素 晴らしい発明を生みだしたのは、そのエゴを打ち消すだけの自己否定的な人間性を持 っていたからだと思います。  研究所は世界中から優秀な人材が集まっていました。彼自身は実際には応用的な実 務はあまりできませんでしたが、それを手足となってやってくれるスタッフがまわり にいました。そして、彼らの手によってさまざまなアイデアが実用化されていきまし た。  現在、私も広島をキーにして東京、大阪と大学の講義や講演、ワークショップなど で飛び回っておりますが、新しい研究活動を再重要視しています。現在、実用新案特 許が26あります。今日使った教材などもそのひとつです。  最後に、人間の知識は無限です。なぜなら宇宙は無限で、そこには無尽蔵にアイデ アがあふれているからです。まさに、発明はエンドレスだと思います。物理学におけ る最大の発明は、超伝導などこの10年間に集約されています。そして、これからの 10年間のサイエンス&テクノロジーの進歩は素晴らしいものがあると思います。 ---------------------------------------------------------------------------- ということなのですが、ワークショップでもっとも興味深かったのは、 プラトン立体をはじめとする多面体相互の関係が、 数式などを使ってではなく、まさに感覚で理解(?)できたことでした。 モデルとして実際につくった立体は、辺としての木の棒を ゴムのチューブでつないだ、頂点数が12、辺の数が24、 面の数が14(うち、正三角形が8つ、正三角形ふたつ分のひし形が6つ)の CUBOCTAHEDRONといわれる多面体で、 これがある法則性をもって折り畳められていく快感はなかなかのものでした。 ちなみに、梶川さんは、プラトン立体をはじめとする18の多面体を 「面」の関係としてではなく、頂点数と辺数の関係で、 それら相互の関係を解明した業績をもっています。 といっても、なかなかその画期的なところは理解しがたいかもしれませんが、 とにかく、正四面体からはじまる多面体による幾何学の新展開が開く 新たな視点は、さまざまに応用可能なようで、 たとえば、DNAの構造の解明についても、そうした成果が応用可能なようで、 そのほかにも、梶川さん自身が「梶川バンド」と名づけていた、 立体的メビウスの輪のねじれの解明など、あっという驚きに満ちていました。 僕などは、すぐに、その幾何学的発想を神秘学的ビジョンに応用してみようか なんて考えていたりしているのですが、 ま、それは今後のお楽しみということにしましょう(^^)。 「かたち」の不思議を解明する大きな契機になりそうな 幾何学の新展開に思いを馳せているKAZEでした。 584/586 GGA02514 KAZE RE:“MIZUHO”のチャネル・メッセージ<49> (11) 93/01/19 18:49 581へのコメント オリハルさん、どうも。 僕が#539で「ぐれん」と題したのは、 MIZUHOさんのメッセージとは直接関係はありません。 ま、僕が日月神示を読んだのは、中矢さんの解説本を、 中矢さんの解説のものものしさに閉口しながら読んだぐらいですが、 それでも、そこに書かれていた「ぐれん」が印象に残っていたのでした。 ま、単なる思いつきの題ですので、ぜんぜん意識していなかったことは確かです。 僕の別のアーティクルには、MIZUHOさんのメッセージの影響というのは、 ほとんどないと思いますよ。 内容を見てみると、シュタイナー的な神秘学と矛盾しないことが多いですから、 内容的に影響を受けてううむ・・・ということもまずありません。 でも、その言霊のパワーというのは、すごいなあとは感じています。 それから、今アップしているメッセージは、お正月あたりのメッセージで、 まずはそれをMIZUHOさんがちゃんと読めるように清書してから、 僕の方に10日頃(だったと思います)受け取ったものを、 少しずつ紹介してる・・・とまあ、そんな感じです。 僕は、あまり日月神示とかその手のものをあまり読んだことはないので、 そこらへんについては詳しくはないのですが、 改めて見てみると、ビジョンとして僕の理解できるものが多いのに ちょっと安心しているKAZEでした。 585/586 GGA02514 KAZE “MIZUHO”のチャネル・メッセージ<51> (11) 93/01/19 18:50 ************************************************************ この大切な年の明け、いよいよ戦い間近に迫りて来たぞ。戦いとは の、悪と戦うのみでなく、そなたは己と戦えよ。己の弱さと戦えよ。 言葉というは、思いなくては成り立たぬものであることを、もう一 度心に刻めよ。こうしてのう、波動が変われば、言葉も変わる。神 を感じることのみ大事であること、わかりたか。言葉にこだわるこ とはない。何の意味も持たぬことじゃ。 日月の神を呼べばよい。心で祈れば、神には届く。名などいらぬが、 まことの神じゃ。 ************************************************************ 586/586 GGA02514 KAZE “MIZUHO”のチャネル・メッセージ<52> (11) 93/01/19 18:51 ************************************************************ 外から攻めて来るのみならず、内からの悪の動きに注意せよ。人の 心の内というだけではないぞ。内とは国の内ということあるぞ。ひ とつの言葉、いろいろにとりてくだされよ。このひとことに、大い なる神の思いが込められておることに気付いてくだされよ。言の葉 だけでは、こと成らぬ。その裏の裏までも、神の心は深きもの。取 りてもらうは、その裏の深きまことの神の意志。深きまことの神の 愛。 ************************************************************ - FARION MES(13):★HVHYの預言解読部屋------------<02> 93/01/19 - 631/636 GGD02212 *ねぎひさお* RE:超能力孝 (13) 93/01/18 21:05 622へのコメント  そのTV番組(子供達の超能力…)は、私も見ました。  空のケースに過去に入っていたモノを子供達に透視させる実験 も試みられていましたが、あの場合は中身を知っている人の記憶 を読み取るテレパシーようなものと区別できないと思いました。  そんな事よりも私は被験者にされた子供達の将来が心配です。 一方でチヤホヤされ注目される快感や報酬をもらう喜びを覚え、 一方で妬まれ怪しまれたりイジメのターゲットになったりして、 人格的成長が歪められはしないか…というようなことです。  あの番組では、今度は超能力者?と早大の吉村教授と組んで、 またエジプト発掘をやるみたいです。(他局の二番煎じですね) 興味を引きますが、局は視聴率稼ぎ、調査隊はスポンサー欲しさ でしょうから、安易なヤラセに陥らないか危惧されます。  近い将来、遺跡の発掘や資源探査に霊能者もしくは超能力者が 活躍することが珍しくなくなると私は思います。但し、金銭欲や 名誉欲から神秘的な能力を濫用する者には、好ましくない結果が もたらされるように思います。  昔から「失せ物あて」などをしてくれる「拝み屋」さんは村に 一人はいたもので、今でもひっそりと活動しています。彼(女) らの多くは、「魔女狩り」のように、時の権力者達に卑しめられ 迫害され社会的に抹殺されて来たように思います。  近代日本においては某大新聞が先頭に立って迫害したために、 「超能力」や心霊現象の研究が百年遅れたと言われます。一人の ニセモノを引っ張り出し、あるいはホンモノであってもインチキ をするよう追いやり、科学的に説明できない神秘的なモノ全てが インチキであるかのように印象づけようとし続けました。  旧ソ連で心霊研究が盛んだったというのも、あくまでも唯物論 で全てを説明しようしたのであり、データを捏造してまで科学的 証明を試みたと聞きます。  最近はホンモノの方がウケる(売れる)風潮にあり、わざわざ ヤラセをしてまでホンモノに見せかけようとするマスコミもあり、 結果的に依然として神秘的なモノ(『預言』も含む)は何でもイ ンチキくさいと印象づけるのに一役買っているように思われます。  このような、神秘をバカにしたがる姿勢は、一般大衆が低俗な オカルト信仰に陥るのを防いできたとも言えますが、一方で『心』 よりも『物』偏重の風潮を助長し、日本人が古来より持っていた 『カミ』に対する素朴な『目』を塞いできたとも言えるでしょう。  少々長くなりましたが、思うところを述べさせて頂きました。*ねぎ* 632/636 GCC01413 HVHY 八へ帰す。 (13) 93/01/19 02:09                 〜  八  〜       > 一六を八に帰せよ       > 何も問うな       > 内なる方が「待て」と仰せある  (詩篇 第2章 2Q)   これに関しても、大昔に扱ったことがある。(※FMISTYの頃)   その時の内容の繰り返しになってしまうと思うのだが…。                <16>  →  <8>             「青の儀式」        『 龍 』 ルシフェル             “光”『10』                 ↓      “風”                 × −−−−→『8』 「緑の儀式」                 ↑     ラファエル?             “炎”『6』        『不死鳥』 ミカエル             「赤の儀式」   因みに、『8』の内容を細分化してみると、次のようであった…。             [低 位] [中 位] [高 位]                  スパスシフィカ     <光の領域>   “風”   “星”  「終りの者」              『8』   『17』   『26』               ・     ・     ・      (反射軸)−−−−・−−−−−・−−−−−・−−−−               ・     ・     ・              『4』   『13』   『22』     <影の領域>   “地”   “死”  「次元交差」                     ↑                  これが私の所                  へ現れた死神か?   次のような詩句もあったことが思い出される…。       > 終わりの日 神 唯お独り 立たれる   これは、かなり最終的な段階で、   “「緑・光・高位」の領域”から現れる大天使のことを言っている?                    [審判長]                                 HVHY 633/636 GCC01413 HVHY リフレイン。 (13) 93/01/19 04:01                〜 色彩論(再考) 〜             <O>     <A>     <I>            ミカエル     ???    ルシフェル                             『青』    (光の領域)          “天上色”     ・                     『緑』      ・                      ・       ・     反射軸 −−−−『赤』−−−−−−・−−−−−−−・−−−−−                      ・       ・                     『赤』      ・    (闇の領域)          “地上色”     ・                             『赤』   ARIONの中心本体は、ミカエル(中心黄金太陽)。即ち、<O>。   これと常に共に在るのが、ルシフェル(光り輝く者)。即ち、<I>                                  。   両者の間に鎮座するのが、「地上色は『赤』/天上色は『緑』」の存在。   これは、たまごさんの理論によれば、単に中間点に位置するのではなく、   ミカエルやルシフェル(つまり大天使)よりも更に高次元に存在する。   大天使よりも高位の存在となれば、「神」にも等しいと言うより他ない。   それは、“小圧力”で現れる時には、「ラファエル」という形を取る。   (※但し、「ラファエル」単独で現れることは有り得ない…)   現時点では、もし現れたとしても、“この形”に限られる。???   このラファエルは「重力コントロールの鍵」を握っている。   一方、“最大圧力”で現れることは、今のところ無い。   ミカエルの力もルシフェルの力も未だ行き届いてはいないからだ…。   更に言えば、“小圧力”は、3段階に分類される。             (低)  →  (中)  →  (高)    天  >     ハァ〜      カ      ???   [緑] >     “羽”     “星”    「終りの者」    ・  >     『HA』     『QA』     『ZA』    ・  >      ・       ・       ・    ・  >  −−−−・−−−−−−−・−−−−−−−・−−−−    ・  >      ・       ・       ・    ・  >     『DA』     『MA』     『BB』   [赤] >     “田”     “死”    「次元交差」    地  >     ダァ〜      マ      無音韻            「 肌 」   「摩 訶」    表現            (境界域)  (不可思議域)    不能   このような表現形を取った後に、「“最大圧力”の何者か」が現れる。                                 HVHY 634/636 GCC01413 HVHY 「天狼星」(DOG STAR) (13) 93/01/19 04:46 コメント数:1               〜 恒星と惑星 〜                『O』   /   『I』                 ↓         ↓    [恒星]>>>  「ベテルギウス」   「シリウス」(天狼星)                 :         :    [惑星]>>>    「太 陽」     「金 星」     取り敢えず、これだけのこと。                                HVHY 636/636 NAA01730 猫又の沙門 Lucifer・・・・ (13) 93/01/19 19:24 昨日、本屋で資料用の本を探してたら・・・・ 悪魔を扱った本があったのでLuciferを調べてみたら Luciferってラテン語では「炎を運ぶ者」と言う意味が あるそうな。ちょっと、立ち読みしただけだから、性格では無い と思うけど、大体意味はあってると思います(^^;) アナあと、ヘブライ語の意味も出てたけど、それは、「光を広める」だそうである。 いじゃう 猫又の沙門 - FARION MES(14):・壁(2)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 93/01/19 - 870/880 GBA01276 しまうま おいしいご飯がたべたいね(^_^) (14) 93/01/19 01:34  舌がおいしいと感じるご馳走より、ささやかでも心からおいしいと思える食事が 食べたい、とこのごろ思うんだよね。あんまりないもんだからさー、最近(;_;)。 #859 維/YUIさんへ :独り分のごはんって炊くの・・・面倒だしもったいないし、おいしくないのよね。  んだよねぇ〜。たくさん炊いて、大人数でわっさかわっさか食べると、どんな米 使ってようがおいしく食べれるよね(^_^)。 :まとめて炊いて、いっかいぶんづつにして、冷凍しとくのも手だけど、電子レンジ :あるんだっけか?  この部屋に住み始めて以来、購入した台所用品と言えばコップ(←台所用品とは 言わんか?(^^;))がひとつあるきりなのだ。無念。 #861 EXさんへ :(;_;)虚しいあるう虚しいある。電子レンジよくないある。  なんか、みょーな実感がこもってますね(^^;)。一人暮し同士(カナ?)、強く生き て生きましょーね! #867 《 隆 》さんへ :ただし、夜中に空腹で目覚めて、炊飯器に入ったままのご飯を2・3合食って :しまうという「ふたくち女」のような状態に陥っても責任は持てませんが・・・  ふたくち女さんがどんな方なのかよく存じませんが・・・なんか親近感を感じてしま うなぁ・・・ヨーカイミタイナモン?。 :ぜひ山用のコンロを買いましょう。  うーん、そのお金はマック用の貯金に回そう(^^;)ゼンゼンタマッテナイケド。  今まで自炊しなかったのには、面倒だとか時間がなかったとかいうもっともらし い理由がいくつもあるけど、やはり根本は自分を大事にしてなかったからだとゆー 気がする(←あくまで僕の場合ね)。出来た料理を食べさせるような親しい人もい ないし。でもなんか、作って食べて片付けるっていうリズムは心にもよさそうだな。             とりあえず今夜はサンドイッチとヨーグルト しまうま 872/880 GGD02212 *ねぎひさお* 子供は医者を嫌う (14) 93/01/19 04:36  風邪が流行っているようですね。私も医者やってるんですが、 子供が熱を出したと言って病院を訪れるお母さんが多いようです。  注射など痛い目にあったことのあるお子さんは、お医者さんの 白衣を見ただけで怯え、狂ったように泣き叫びますね。あんまり 大声で泣かれるとこっちまで泣きたくなります。動物園でも獣医 さんにトラウマなサル(^^)は、白衣を見ただけでパニックになり 敵意を顕にします。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い…ってやつですね。  ふと思ったのですが、神サマから見れば人間も似たような反応 をしてるんじゃないかと。痛い目に合わせるのはイジメたいから じゃなくて救いたいからなんだけれど、向こうはそれが解らず、 怯え、拒み、怒り、ウンコやら石やら投げつける者さえいる。(;;) 自分が治療を必要とする病人であることを理解できないうちは、 お母さんがなだめすかして連れて行くしかないというわけですね。 (どういう比喩か、わかりますね?>??)  嫌な目に合わせるのが悪い神サマとは限らないし、良い神サマ が楽しい目に合わせてくれるとは限らない…違いますか?*ねぎ* - FARION MES(18):◆冗談パロディ症候群----------------<01> 93/01/19 - 347/348 HFC01344 URD RE:引っ越し貧乏(;_;) (18) 93/01/18 22:28 346へのコメント コメント数:1   じゃぁ これを引っ越しのたしにでもしてくださいね(^^)   −−−−−−−−−−−−−−−−   −   こども ぎんこう   −   −   ひゃくまんえん    −   −          はんこ −   −              −   −−−ーー−−−−−−−−−−−                 もっと広いお部屋にうつりたいなぁ(^^;)の                      URD in ワンルームマンション(8畳 348/348 HGG01312 たまご RE:引っ越し貧乏(;_;) (18) 93/01/19 18:05 347へのコメント >>もっと広いお部屋にうつりたいなぁ(^^;)   こんなとこにいないで,   ARION部屋や預言解読部屋に移りましょう.   広いよん(話題が).   しかも,引っ越しにお金がかからないっと.     話題がずれたかなっ?  たまご - FARION MES(10):★MWの深層心理研究室--------------<01> 93/01/19 - 109/109 HCA01717 オ〜ロラ BUBUさま、ありがとう(^_^)/~ (10) 93/01/19 21:03 BUBUさま、「深層心理と唯識」のアップありがとうございます(^。^)v  いろいろと感想を書かしていただきたいのですが、BUBUさまに先だち年貢を 納めた弟の式後の手伝いや、親戚達のお世話に追われておお忙しの現状です。  "思い" が即、ダイレクトに伝わらない人のコミュニケーションにジレンマ を感じつつ、イメージや意志の無常さを認識せずにはいられぬ我が心を知る。    あれ???? 語調が変だ(笑) まあいいか(^^;)  思いを伝えると言えば・・・・、ふっと、チベット人に今もなお愛され続け るミラレパの『グル・ブム(ミラレパの十万歌)』を思いだしつつ、私の心に 切なさが甦ります。 ‥…ォァ」★‥…ォァ」★‥…ォァ」★  ‥…ォァ」★ ‥…ォァ」★ ‥ …ォァ」★        ‥…ォァ」★ ‥…ォァ」★ォァ」★     ‥…ォァ」★                      ‥…ォ  ‥…ォァ」★  ‥…ォァ」★  ‥…ォァ」★      ‥…ォァ」★             ‥…ォァ」★       ‥…ォァ」★ ‥…ォァ」★   ‥…ォァ」★  ‥…ォァ」★    ‥…ォァ」★             ふっと、浮かんでは消える流星のような、表層と欲求の幻を内に眺める。                      HCA01717 オ〜ロラ PS.竜人さん   ありがとうね(^_ー)‥…ォァ」★パチ - FARION MES(13):★HVHYの預言解読部屋------------<02> 93/01/19 - 637/638 QFG02515 SHANA 解釈に挑戦(4) (13) 93/01/19 20:41 ARIONのメッセージ「これから生きる者達へ」より引用  狭間より来る者は、印を持っているだろう。  夕刻と朝陽の光を文字に、その者は話すだろう。  今まで聞いた「聖なる言葉」は、彼の足元に崩れ、  人々は、彼を怖れるだろう。  まことに陰なるものは、まことに陽なるものとしての印を  人々の目につくところに掲げるだろう。 「聖なる言葉」というのは聖書を思い出す。 「彼の足元に崩れ」というのは、聖書預言をぶち壊しにしてしまうということか。 それとも預言ではなく教義の部分だろうか。 「汝の隣人を愛せよ」とか。そういうのを、だいなしにしてしまうのだろうか。 それをやる人物は「印を持っている」 そして、その印を「人々の目につくところに掲げるだろう」 つまり、キリスト教徒にとって、一目瞭然な印を持っているということだろう。 たとえば、イエス・キリストと同じ顔をしているとか。 加えて、手足にも傷があるとか。 おまけに、一度死んだと思ったら、生き返ってしまうとか。 さまざまな奇跡能力も持っているとか。 「まことに陽なるものとしての印」というのは、 つまりイエス・キリストの印という意味であろう。 しかし、ほんとうは、「まことに陰なるもの」なのだ。 陽と陰は正反対だ。「人々は、彼を怖れるだろう」 印といえば、聖痕現象と呼ばれるものがある。 イエス・キリストは、はりつけにされたときに、手足に杭を打たれたという。 聖痕というのはその傷のことらしいが、 聖痕現象というのは、それと同じところから血が出てくる現象らしい。 この聖痕現象では、手のひらから血が出てくるのだが、(足からもだが) ところが、実際に杭が打たれた場所は、手のひらではなく、手首なのだった。 手のひらでは、体重を支えられずに、ちぎれてしまうらしい。 ではなぜ、手のひらかというと、 教会にあるイエス・キリストの偶像が、そうなっているのだ。 印というのは、恐らくそういうものだろう。 そこから推測すると、印として同じ顔をしているというのは、 偶像のイエス・キリストと同じ顔をしているということだろう。 肖像画と本物の顔が違うということも、よくあることだ。 写真のない時代の人物の、本当の正確な顔は分からないと思ったほうが良いだろう。 まして、彼は2000年前の人物だ。 正確な顔が分かるはずはない。 恐らく、偶像や宗教画のイエス・キリストの顔は、 本物の、2000年前の、ナザレの大工の息子の顔とは、異なるだろう。 偶像のイエス・キリストと同じ顔をしているということは、 一見、本物の印のようでいて、 実は偽物であるという証なのだ。 さて、 「狭間」=「夕刻と朝陽」 これは、古い時代と新しい時代、古い円環と新しい円環、20世紀と21世紀、 などの狭間だろうか。 たぶん、これは生まれた時期というより登場する時期だろう。 「人々の目につくところに掲げるだろう」 とあるが、世界中に報道されるのかもしれない。 そういう立場に立つということだろう。 たとえば、政治的な指導者とか。 「夕刻と朝陽の光を文字に、その者は話すだろう」 これは、奇妙な文章だ。 文字どおりに読むと、 「夕刻と朝陽の光」について、「文字」に向かって話しかける。 という意味にも読める。 前半の部分で切ると、 「夕刻と朝陽の光」を、「文字」によって表現する。 という意味にとれる。 そして後半、 「その者は話すだろう」とあるが、ふつう文字を話すとは言わない。 が、文字の話をする、文字について話す、とは言う。 文字は一種の記号であり、象徴だ。文字とは、言葉を表現するための媒体だ。 そして、言葉は意味を媒介する。言葉の意味は精神を媒介する。 しかし、100%そのまま媒介することはできない。 したがって、この「文字」は「聖なる言葉」よりも下位にあるといえるだろう。 おそらく、「その者は話すだろう」ということの結果、 「今まで聞いた「聖なる言葉」は、彼の足元に崩れ」 というということが起こるのだろう。 「夕刻と朝陽」=「狭間」 ということならば、 彼が話すのは「狭間の光」についてであり、それは新時代の光ではないのだ。 または、スパスシフィカではない。 新しい円環には属していない。 ということだろう。                              SHANA より 638/638 GDB00064 オリハル RE:「赤−青−緑」 (13) 93/01/19 22:47 627へのコメント ハジベまして。実は質問したいことがあるのです。                 「ハジベ」について既に解読済みとの事ですが、再び簡単にオリちゃん32才にも分か るように説明して頂けないものでしょうか。尚、この文章表現に深い意味はなく、メッ セージを伝えた後、消滅(明滅?)しない。もしよろしければで結構です。                                              オリハル  - FARION MES(14):・壁(2)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 93/01/19 - 881/883 QFG02515 SHANA 壁の細道 (14) 93/01/19 20:44 黄昏の 青紫の 空の色 882/883 NAG02033 EX RE:食べ物について思う (14) 93/01/19 21:04 868へのコメント  (・_・)←泣き止んだ顔(笑) 883/883 GDB00064 オリハル RE:子供は医者を嫌う (14) 93/01/19 22:48 872へのコメント    ^ ^                    ◎ ◎                     Λ       あそっか!          V                  オリハル - FARION MES(17):◆メディアレポート(本/映画/音楽 etc)--<01> 93/01/19 - 221/221 QFG02515 SHANA 「人魚の傷」よんだ (17) 93/01/19 20:46 「人魚の傷」読みました。 この中では、私は特に「舎利姫」の話が好きです。 タイトル・ページの「なつめ」の赤い目を見てると、なんだか吸い込まれそう。 表題作の「人魚の傷」は、 真人(まさと)くんが、名前が似てるし、 なんだか自分みたいな気がしてきて・・・ どっか、似てるのかな? あと、 「真魚」は好きだし、 表紙の絵も好きです(笑)。