- FARION MES( 2):【居酒屋1999】雑談・自己紹介--------<07> 93/03/22 - 765/767 GBG02043 維/YUI 今日(3/21)のメッセージに ( 2) 93/03/21 22:36 >>★何気ない言葉の端々に、思いやりや優しさって見えるね…維/YUIさん そう。 それが見えるとき、ほっと安らぐ。 けど。 それが見えていても、心がざわつくことがある。 それは、やはり違うんだと思う。 求めていないなにかなんだと思う。 悲しいけれど。 理不尽だけれど。 でも。 それは手にすることは、できない。                               維/YUI。 766/767 PFA03563 YAHATA モーフィングの変身シーンを見た ( 2) 93/03/22 05:02  どこかがやると思ったら、やってくれましたねぇ。  来週某局で放映する「西遊記」の予告編で、孫悟空が三蔵法師ににゅいーっ と…。 「これ、やっかい。…あ、間違えちゃった、八戒だ」 YAHATA 767/767 GBG02755 スマル いらないものは、いらないよう。 ( 2) 93/03/22 14:55 ★何気ない言葉の端々に、思いやりや優しさって見えるね…スマルさん わがまま言うけど、欲しくない優しさってあるよ。 それってもらったとき、悲しいってか、傷つく。 私を理解していないよ、この人。  って感じる。 すご〜くそれが、悲しいの。 素直にもらえばいいのだろうけどね。 でも、素直に受け取れないってのが、素直な気持ちさ。 欲しくない優しさって、やっぱ、いらないや。 それより、私をちゃんとみてほしい。 その方が、やさしいって思うな。                         スマルのアホ - FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 93/03/22 - 573/576 GBG02755 スマル 感じるの。それだけ。 ( 6) 93/03/21 21:58 え?ううん、何でもないの。 ただ、あなたに会いたかっただけ。 あなたの声が聞きたかっただけなの。 あなたが私を拒絶していることは知ってる。 でも、それでもあなたが欲しい。 え?ううん、いいの。 あなたはそこにいて。 わたし?大丈夫よ。 風が吹いても、ここであなたを待ってるから。 スマル 574/576 HGC02325 ガッチャ ハローメッセージへ ( 6) 93/03/22 01:59  03/13 ★あなたとあなたの大事な人の心に、真正面から向き合って…ガッチャさん  そうですね、正面から向き合わないというのはごまかしであり、逃げている事です  ね。  「誰が大事な人か?」って悩む事も多々あり、難しい事です。  「自分を愛してくれる全ての人」が大事なんだ、というのは今はまだ「逃げ」の言  葉でしかないと感じるし、まだまだ、全然解っていないという事だと解るだけだな  ぁ。  03/14 霧の向こうに何があるか分からなくとも、ガッチャさんが一緒であれば…  私なんかがたよりになれば良いのですが...  03/15 ★ガッチャさん! 一緒に虹を渡って、薔薇色の夢の国へ行きましょうね…  薔薇色の夢の国。  後に残るのもまた自由。  私は後に残るだろう。  03/16 大事なものを丁寧に研ぎ澄ますことって、心踊る作業ね…ガッチャさん  私の場合は、心踊るというより、自然と熱心になってしまいます。  03/17 ★春風に舞う蝶々のような、軽やかな笑い声と共に居たいね…ガッチャさん  それは本当にすばらしい事ですね。  03/18 ガッチャさんの瞳の奥に見つけたもの…それは、いつまでも変らぬ思い…  瞳の奥に見えるくらいに、本人が気付けばよいのですが、変らない思いがある事に  最近気付いた程度ですから、まだまだです。  03/19 ★困った時は、心の奥でかすかに聞こえる声に耳傾けて…ガッチャさん  心の奥の声に敏感でいたいです。いつも、いつも。  03/20 夢のような現実と、現実のような夢とどちらが好き?…ガッチャさん  夢のような現実です。私はここに生きているのですから。  これは現実だと思います。  03/21 ★何気ない言葉の端々に、思いやりや優しさって見えるね…ガッチャさん  見えます、確かにみえます。                              ガッチャ - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/03/22 - 001/006 MGH00465 アキラ オープン! ( 7) 93/03/22 13:50  お待たせしました。「アリオン世紀末書込み寺<02>」の正式オープンです。  話題も盛り上がっているところなので、このままドーンと行きましょう!  ARIONのオープニングの言葉は今回はなしですが、みれさんによれば、 「そのうちARIONも用があったら何か書くんじゃない?」とゆーことで した(^^;)  なお、次発言(#002)〜#006までは、再オープンまでの暫定会議室からの 発言を移動していますので、すでに読まれた方は RC 6 をするなどして、#007 から読まれるようにしてくださいませ。  それでは、どうぞよろしくお願いいたします。 *以下は、元発言との対照表、および元発言のタイムスタンプです。 −会議室16 ★アリオン世紀末書込み寺(退避所)---<1.5> 発言数 :5 未読 :0− この会議室で ↓の発言番号   番号 ID 登録日 TO CO 題名 #002 1 GBG00331 03/20 21:31 0 始めましての挨拶に代えて #003 2 GCC01413 03/20 22:13 0 #952へのRES #004 3 GCC01413 03/20 23:50 0 #954へのRES #005 4 HDA02171 03/21 23:34 0 れす #006 5 HGC02325 03/22 5:37 0 RE:MES(7)#998OZ弐さんへ                    FARION Sub-SYSOP MGH00465 アキラ 003/006 GCC01413 HVHY #952へのRES ( 7) 93/03/22 13:52  >> OZ弐 さん  ちょっとお尋ねしたいのですが、  あなたは会話する時に、   「相手に自分の思いを理解して欲しい」とか、   「相手の思いを知りたい・理解したい」とか、  そういうことを思って会話しているのではないのですか?  あなたは「会話」しながら「会話」することを拒否しています。  なぜ、あなたが“そう”なのか、私には解りませんが…。  |個人的問題につっこんできて、  |意味不明な答えが返ってくるのは決して変なことではありませんよ。  |そんなことに戸惑っていては、  |アリオン・カウンセラーは失格ですね(これは冗談)  意味不明とは一度も言ってません。戸惑ってもおりません。  ついでに、私はアリオン・カウンセラーではありません。  「皮肉屋」であることを直したい…と言っておきながら、  未だに「皮肉」を“連発”するのは何故ですか?  |あなたは人の心の低部をさぐろうとしたわけですから、  |(そしてぼくはそれに馬鹿正直に答えましたが・・)  |最後には「個人的信念」にぶつかって当然ではありませんか。  それは違いますね…。  OZ弐さんは、私との会話の中で、  「最初から話したかったこと」を“効率良く”話しただけです。  OZ弐さんは、最初から、自分の「個人的信念」をここで話したかったのですよ。  もし、そうでないならば、今からでも遅くないので、  「個人的信念」の話は止めて頂けませんか?  そんな話は少しも聞きたいとは思いませんので…。  それより、OZ弐さんの恋愛経験とか女性観について、是非伺いたいですね。  因みに、あなたの「個人的信念」に対する“私の意見”は、既に述べてあります。  (※但し、その部分に対するあなたのコメントはありませんでしたが…)  |あなたは何を期待していたのですか?  何も特別には期待していません。  ただ、「会話」を望んでいるだけです。  以上は本題ではありませんので、RES不要です。        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ・ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  |あなたはぼくの至誠がなんたるかを  |いかなる心理テストを駆使しても、  |永遠に知ることはできません。  私の書き込みが“心理テスト”の状を呈してきたとしても、  それが“私の趣味”ではないことぐらい、お解りになりませんか?  質問に答えられなくなると、膨大な「言い訳」を延々と書きなぐる…。  それがあなたの「至誠」の表現なのですね。  このこと自体が“あなたの「至誠」がどの程度のものか?”  を既に証しているではありませんか。  |スマルさんの言葉に含められた「幸せ」の質は、  |ぼくには「空虚」だと感じました。  何故、突然“振り出し”に戻ってしまうのでしょう。  あなたが「空虚」だと感じたことを私はそもそも否定していません。  “本当に「空虚」がどうか?”という再考の機会を提供してきただけです。  そのために丁寧な説明を重ねたつもりでしたが、  あなたには全く解って頂けなかったようですね。  私が「YES/NO」を回答肢として最後に提示した問題は、  「YES/NO」で答えられるように作ってあります。  あなたは答えられなくなって逃げただけです。  素直になったらどうですか?  仕方がありませんので、  「あなただけの幸せ」という表現の意味合いについて、  私の言葉で補足させて頂きます。  「あなただけの幸せ」という表現には、 >>> 一般論として語られる「幸せ」はあなたにとって全く意味がない。 >>> あなたが本当に望むことに正直に従っていくこと…。 >>> これ以外のどんなことも、あなたにとっての「幸せ」では有り得ない。 >>> 「幸せ」の“在り方”は、生きている人間の数だけある。 >>> 従って、一般化された「幸せ」は、全くもって“空虚”である。  という意味合いが込められているのです。  さて、ここで述べたことは、  あなたが言う“「至誠」に従う”ということと同じですね?  それとも、全然違うことなのですか?  あなたは言葉遣いに拘るあまり、  相手が実は自分と近いことを言っていることに全く気付かなかった。  或いは、「違い」ばかりに気を取られて、  「接点」を見出だす努力を全くしなかった。  …そのように私は思います。  OZ弐さんは、「会話」というスタイルを取りながら、  実は「自説を延々と吹聴している」だけなのです。  そういった点を指して、ひらがなさんは「お○○ー野郎」と言ったのです。  そういうことが解らなければ、  あなたがご自分で「既に自分を見ている」と言ったところで、  「自分を見ている」ことにはならないのです。        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ・ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  あなたは「何か」を避けています。  そして、あなたが主として今やっていることは、  「何か」を避けるための“頭脳上”の高等戦略に基づいています。  例え、戦略の展開が「身体修養」を中心とした事柄であったとしても…。  あなたはきっと「避けていない」と言うでしょう。  しかし、あなたが“そう”言い続けているうちは、  あなたは自分を何ひとつ見ていない…と言わざるを得ません。  あなたは何も避けていないのか?  それとも、「何か」を避けているのか?  避けているとすれば、「何を」避けているのか?  ゆっくり考えてみて下さい…。                                 HVHY 004/006 GCC01413 HVHY #954へのRES ( 7) 93/03/22 13:53  >> OZ弐 さん  こちらにもコメントします。  |あなたが使っている「至誠」という言葉は「虚」だ。  |実質が伴っていない。  ??? 面白いことを言いますね〜。  私はあなたとの会話をスムーズにするためにこそ、  「至誠」という言葉を使っているのです。  ハッキリ言って“きょとん”としてしまいました…。  |キリストが説く「愛」には実質が伴っている。  |キリスト信者が使っている「愛」という言葉には、  |実質が伴っていない。即ち「虚」だ。  あなたの言うことは段々エスカレートしてますよ。  キリスト教信者の何人の方と会ったことがお有りですか?  あなたは自分がキリストの説く「愛」を理解しているとでもお思いなのですか?  そんな“恥曝し”な書き込みがよくも出来ますね。 全く恐れ入ります…。  「でもぼくにはまだ「愛」が理解できていないけどね」などと言うのなら、  なぜ、このような書き込みが出来るのですか?  |敏感な人にはこの違いが分かるはずだ。  へ? いったい、だれが“敏感”なのですか?  私には、あなたが“鈍感”に見えますよ。  どこが“鈍感”なのか説明致しましょうか?                                  HVHY 005/006 HDA02171 ひらがな れす ( 7) 93/03/22 13:53 こんばんわ☆OZ弐さん >臆病といわれれば、臆病だと思います。 >とゆーことは、 >ぼくは臆病な自分を素直に出していることになるのでは? 臆病な自分で満足できているの? それが、本当の貴方なの? 相手に臆病者だなんて思われてていいの? 臆病なふりしてないで、もっと勇気を出して。 >その「思い」を発した人に内在しているものが素直に反映されていたりします。 >あなたのぼくに対する「思い」が、 >そのままあなたの人格を反映しているものだとみております。 ええ、そのとうりです。 貴方は、はっきり言って、昔の僕にそっくりです。 だから、ほっとけません。 弱い自分なんて、思いだしたくもありませんから・・・。 ・・・昔と言っても、小学生の頃の僕ですけどね。 本気で相手を殴れば、本気で殴り返されます。 けど、殴られるからって臆病に成っていたくないんです。 僕はね。 あなたは、そうじゃないのですか?? 本気で殴りあいをやった事なんて無いでしょう? 喧嘩しろとは言いませんが、したことないでしょう? やってみると結構いいものです。 本音を吐ける友達はいますか? ぼくは、正直言って、数少ないです。 でも、多ければいいなぁ・・と思って勇気を出してやってます。 したら、友達は増えて言っています。 なれ合いではなく、本音の言い合える友達がね。 僕は、貴方も勇気ある人であると信じています。                           ひらがな 006/006 HGC02325 ガッチャ RE:MES(7)#998OZ弐さんへ ( 7) 93/03/22 13:53  ご返事をありがとうございます。  |でも・・・、非難されたからって、そうそう怒りなんて感じませんよ〜。(^_^;)  |電脳空間じゃあ、めったに怒る機会なんてありません。  ここの会議室でもやはり怒る事はなかったという意味でしょうか?  そうであるならば、そうなのでしょうね。  あなたが、怒りを感じないレベルでしか受けとっていないのでしょうね。  |直情径行型の人の非難、無礼には、ぼくは親しみさえ感じます。  |でもね、・・・非難されるのはかまわないのだけど、  |いつまでもそのこと根に持つというか・・・、  |その相手がぼくのことを、「アイツは非難した内容の人物だな」と、  |レッテルをはるといいますか、固定観念にとらわれるといいますか、  |・・そーゆーの、はっきりいってムカつきます。  自分は非難されても、根に持たないでいるのに、自分が非難して、それを相手がい  つまでも根に持っているのは「ムカつく」のですね。  それは、相手が自分に「レッテルを貼っている、固定観念にとらわれているからだ  !」という考えな訳ですね。  「オイラは何言われても根に持たないからさ、オイラが何言っても根に持たないで  よ!そうでないとオイラはムカつくからさ!」=「みんな自分にあわせてくれよ!  」と言っているように感じますけど? こういう事が言いたいのですか?  |非難するときは、「ビシリ!」と非難して、  |その後は、もうそのことについてはパッと忘れてしまう、  |って人っていーと思います。  後に根に持たないサッパリした人間関係って素敵ですよね。  私も、誰とでも、そんな関係になりたいと思います。  でも、そこには無意識でも、お互いの人格の尊重、そしてそれを信じる気持ちが無  ければ、そのような理想的な関係を成立させる事は無理であると思いませんか?  また、お互いの人格の尊重はあったとしても、それを本当に信じていなければ、言  葉の取り違えというささいな事(かどうかは解らない)だけでも、簡単にその理想  的関係は壊れるでしょうね。  私はまだ「信じる」という言葉を心で理解出来ていませんが、この様に思えます。  |どろどろとした「怒り」の感情なんて・・・おぉ〜イヤダイヤダ、ゾッとする。  |なるべくこんな感情にはさっさとオサラバしたいものでござんす。  |「怒り」にはあまり関わりたくはないので、  |やはりぼくは常に中立を保って、相手にそのまま返してやる方法を考えます。  例えばの話ですが、  A氏とB氏が会議室(あるいはRT)で話をしていて、A氏が無意識に発言した言  葉をB氏がひどい事を言われたと感じたら、B氏はその事をA氏に表現しないと、  A氏は気がつきませんよね。  B氏は、怒りをストレートに表現する事を「大人げない事、みっともない事」と思  っていて表現しなかった。そして、怒りを感じている自分を見つめない、怒りを忘  れるようにする。  でも何かスッキリしない物が心に残っている。  A氏はB氏がそのような気持ちである事は全く知らない(表現されていないのです  からね)  そして、この事は繰り返される。  B氏の気持ちはどんどんおかしくなって行く。  そしてA氏に対して怒りを感じていく。  この話は極端な例ですが、あなたは、このB氏のような感情を「どろどろしてゾッ  とする」と感じていらっしゃるようですね。  そしてそんな感情と「早くオサラバしたい」為には「そのまま相手に返す」という  方法を取るのが最適だと考えている訳ですね。  事実はともかく、その通りにしたいからこそ、あのように書かれた訳だと思います。  それで、本当に「オサラバ」出来るのでしょうか?  また、その「どろどろしてゾッとする」感情を「どうしてそんな状態になったのか  ?」と根本まで遡って考える事はしないのでしょうか?  私はこうする方がARIONの言う所の「自分を見る」に近づく事だと思います。  感じたくない事を感じない、感じていない事にする、感じていても知らないふりを  する。  これでは、「自分を見る」事をしていないどころか、「気付き」の実行のきっかけ  さえも掴んではいないと思いますけど。  あなたが、それをやりたくないのであれば、やらないのは当然自由です。  誰も強制はしませんし、誰にも強制する事ではありません。  嫌な事はしないのが当たり前ですからね。  (でも「逃げていると」思われるのも嫌な事かもしれないなぁ)  |「愛」や「敬意」も出来ればそのまま相手に返してやりたい。  もし、あなたの書き込みにRESを付けた人全てに愛されているとしたら、どうや  ってそれを、返しますか?                              ガッチャ - FARION MES( 9):★猫が好き♪の宗教円卓会議----------<01> 93/03/22 - 111/111 NBA02045 岡 アザゼル論を読んで。長文約300行 ( 9) 93/03/22 03:10 110へのコメント   岡 です。   データライブラリに登録された「アザゼル論」を拝見しました。   楽園のへびとアザゼルに代表される「悪」の勢力を結び付けたり、天使が肉  の身を備えた存在であると仮定したり、あるいは洗礼者ヨハネがイエスに服従  しなかった者であると判断されるなど、刺激的で楽しめる主張を展開されてい  るように感じましたが、その楽しさはひとまず置いて論そのものの造りを見た  場合、満足のいく出来映えのものではなかったように感じられ、その点が残念  でした。   論の中で、言 さんが天使=人間という説を唱えられようとしていると読み  取りましたが、その説の醸し出してくれる魅力・面白さは別としまして、自説  を展開される際の資料提示およびその解釈の方法にいささか支障があるような  気がします。   で、その支障を感じてしまう点についてですが、何と申しましょうか、ご自  身の判断を補強するために、資料提示およびその解釈をしているのであって、  その逆ではないと言うあたりに問題の根があるように考えております。 「アザゼル論」は、どちらかと言いますと、実証科学というよりも、むし  ろ考証学の範疇に属するものだと思いますが、この考証学では、ある書物から  何らかの事実を引きだそうとする際には、書物に記述されている事柄を解釈す  る際には、その解釈に妥当性を与えてくれるようなガイドラインというものを  必要とすると考えます。   記述事項から、何らかの事実を引きだそうとして解釈を施して良いのは、あ  くまでも、その解釈が許容される範囲(ガイドラインに従った範囲)において  だと考えます。   実証科学における仮説の構築、あるいは考証学における新事実の発掘には、  それを裏付けるための資料と資料の解釈が恣意的なものに陥らないようにしな  ければならないと考えます。   恣意的、つまり、自説を支えるために都合の良い資料のみに目を注ぎ、さら  には、その資料に補強材料的な解釈を施して自説を強化しようとすることです  が、このような方法は、できるだけ避けた方が良いと考えております。   えーと、これから記すものは、言 さんの「アザゼル論」中から幾つかの項  目をピック・アップしたものについての簡単なコメントです。     A:「アザゼル論」に関する概観   言 さんが、ある説をお持ちであることは読み取れます。   それはそれで結構なことだと思います。   ただ、その説に妥当性を与えようとする方法に支障があるように感じます。   「アザゼル論」の構造は、極めてシンプルなもののように感じております。   a:ある結論がある。   b:結論を支える資料として、ある文章(主として聖書より引用した文章)     を提示する。   c:提示した文章の解釈の提示。   d:提示した文章より引き出した解釈を用いて、ある結論に妥当性があると     する。   上記の作業は、たしかに、ある説の妥当性を示すためには、有効な方法なの  ですが、しかしながら、「アザゼル論」の場合、c項の解釈に妥当性を与える  ための基準が明確ではないと感じております。   聖書の文章のある部分は「たとえ」であり、ある部分は「事実」であり、あ  る部分は「超自然的現象」であり・・・と切り分けていくときの、判断の基準  が極めて恣意的なのです。   また、そうして 言 さんが切り分けられた後に提示された資料の読み取り  方も又、どうように多分に恣意的だと感じております。  B:天使=人間説についての疑問   聖書の記述文そのもの性質について考えてみたのですが・・・。  たとえば、「a)御使い=天使とは、人間そのものである」という説を支えるた  めに、黙示録の21章17を使用されておりますが、すると、ヨハネの黙示録  の記載事項は、すべて事実なのでしょうか?   また、仮にすべて事実だとしても、その記述事項から解釈した事柄が果たし  て妥当性を帯びていると言えるのでしょうか?   さらには、資料として使用している文章の訳の信頼性もまた見直してみる必  要があるのではないでしょうか?   a:訳の信頼性についてですが・・・ |<城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使 |の尺度による>   |ここにおいて、御使いとは人間そのものであることを、はっきり、断言してい |ることがわかります。            (データライブラリ 「アザゼル論」より)   この訳は、以下の英語文章の日本語訳です。   He measured its wall too, two hundred sixteen feet by human measure, that is, by the angel's.(国際ギデオン協会 「新訳聖書」)   ところが、新共同訳聖書(英語訳を使用せず、新たにテキスト化された聖書  です)では、同じ文章が、以下のように訳されてます。  「また、城壁を測ると、140ペキスであった。これは人間の物差しによって   測ったもので、天使が用いたのもこれである」   もしも新共同訳がもっとも原典の内容に即したものであるとしますと、残念  ながら、言 さんが引用された黙示録第21章17を提示しても、天使=人間  という説を裏付けてはもらえなくなります。   あるいは、ギデオン聖書の英語訳を優先させて考えようとしますと、多分、  天使と人間の大きさが同じであるという推測が成り立つだけのような気がしま  す。身体の大きさが同じor使用している尺度が同じ、ということです。   b:記述における「たとえ」と「事実」の仕分けについて |(2) サタンでさえ、人間である |  六百六十六という名の獣について、次のように記されています。 | (黙13/18)<その数字とは、人間をさすものである。> | このように、サタンでさえ、人間であることがわかります。              ( データライブラリ 「アザゼル論」より)   黙示録では、人々の右手か額に、「獣の名、あるいはその名の数字」を  刻印させる第二の獣が登場します。   そして、「数字は人間を指している。そして、数字は666である」と  されてます。   すると、数字は666であり、それは<獣>(第一の獣)の名の数字で  あることになります。   では、翻って、<獣>に関する記述を見てみますと、黙示録第13章1  には、「これには10本の角と7つの頭があった・・・中略・・・豹に似  ており、足は熊の足のようで、口はライオンの口のようであった」とされ  てます。   このような外見を備えた生物が、はたして人間と言えるのでしょうか?   岡 としては、<獣>=人間とは言えないと考えます。   で、黙示録における<獣>の外見描写が「たとえ」であったとしますと、  「数字は人間を指している」という記述もまた「たとえ」だと受け止める  ことも可能だと考えます。     思うのですが、記述のどの部分が「たとえ」であり、どの部分が「事実」  であるのかを仕分ける基準を明確にしなければ、自説を補強するのに都合の  良い記述部分を「事実」として使い、自説を損ねる記述部分を「たとえ」と  して使っていると受け取られてしまうでしょう。   ですから、ある記述部分を事実認定するための判断基準を最初に提示し、  その判断基準の妥当性を点検することから始めた方が良いかと思います。   c:言葉をどのようにして解釈するのか、について   たとえば、聖書中で使用されている言葉、「証人」という言葉が常に人間  (human)にのみ用いられていると言うことが明確になっていない限りは、  ある天使のことを称して「証人」と表現しているからといって、天使=人間  という説の根拠に用いるのは上手くないと考えます。   「証人」という言葉が必ずしも人間のみに使われないと言うことでしたら、  そのような言葉の用法があった場合には、人間のみならず天使に対しても  「証人」という言葉を用いるのだなぁ、と受け止めることができると考えま  す。  C:聖書の伝統的解釈に反論する場合の注意点について   「アザゼル論」の<3.天使観。c)天使の堕落>の第3項目に、下記の文章  がありましたが・・・ |(3)洗礼ヨハネはどうか? | (マタ11/11)<天国で最も小さい者も、彼よりは大きい> | | このように断定されているのがエリヤこと洗礼ヨハネでした。キリストから、 |天国に入る資格もない者と言明されたに等しい人がキリストに忠実な先駆けであ |るはずもないでしょう。イエスが独立した後も、あくまでも屈伏しなかったのが |洗礼ヨハネでした。このような、キリストに従順に屈伏もせず、従わない人が使 |徒のかしらにふさわしい訳がありません。 | | では、洗礼ヨハネとは一体何者なのでしょうか? キリストに従わず、天国に |ふさわしくないような人をキリストの先駆けとしての使命を全うした者と認めて |いていいでしょうか。彼を善なる者と容認していていいでしょうか? 私は認め |られないと思います。            (FARION データライブラリ内 アザゼル論より)   上記の文章の表現に関して検討を行う前に、旧約聖書および新訳聖書から  の引用を下に示します。  1:マラキ書第3章1(新共同訳「聖書」収録 旧約聖書より)   「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」  2:マタイによる福音書第11章7〜14(新共同訳「聖書」より)   「・・・イエスはヨハネについて話し始められた。『あなたがたは、何を   見に荒れ野へ行ったのか・・・中略・・・預言者か。そうだ。言っておく。   預言者以上の者である。【見よ。わたしはあなたより先に使者を遣わし、   あなたの前に道を準備させよう】と書いてあるのは、この人のことだ。    言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な   者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大で   ある。・・・中略・・・すべての預言者と律法が予言したのは、ヨハネの   時までである。・・・中略・・実は、彼は現れるはずのエリヤ*1 である」     ** ここから、検討文章です。   まず第一に、イエスは、ヨハネのことを指して「エリヤだと言った」と受  け止めるのが妥当だと考えます。   そして、この発言によって、キリストたるイエスの先駆けとして、ヨハネ  が現れたのだと受け止めるのが伝統的な聖書解釈です。   さて、上記のマタイ福音書の引用を読んだ場合、イエスは、ヨハネのこと  を称して、「天国にはいる資格もない者と言明した」と受け止めることがで  きるとは考えません。   単に、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と述べただけ  です。   ですから、ここでイエスが述べていることは、洗礼者ヨハネが天国に入れ  る者or入れない者ということではないのです。   女性から生まれた者の中で洗礼者ヨハネは最も偉大な者であるが、にもか  かわらず、天の国で最も小さな者のほうが、ヨハネよりも偉大である、とそ  の偉大さの比較をしているにすぎません。(では、話題にしている偉大さと  は何か? という点につきましては、率直に言って、わかりません 苦笑 )   ということなので、「天国にはいる資格もない〜忠実な先駆けであるはず  もないでしょう」という判断は、少なくとも、マタイ福音書の上記引用部分  を根拠とした場合、その妥当性は与えられないでしょう。   つまり、伝統的な聖書解釈を覆すための根拠にはならないということです。   <(3)洗礼ヨハネはどうか?>で 言さんが示されようとしている自説の基  盤は、ヨハネがキリストの先駆けとしての使命を全うした者ではない、とい  うことなのですから、その基盤を支えるためには、より適当な引用文を提示  する必要があると考えます。   適当な引用文を提示することができないのであれば、伝統的な聖書解釈を  覆すような見解を記すことは控えられたほうが良いと考えます。なぜなら、  不適当な引用を行い、なおかつ強引な解釈をその引用から導き出すことによっ  て、そのような見解を成り立たせようとしますと、逆に、ある仮説全体に対  する読み手の不信感を募らせる結果を招く恐れがあるからです。   覆す意図をお持ちなのでしたら、十分に強力な根拠を提示するよう試みら  れることをお勧めいたします。   ・・・ということで、洗礼者ヨハネに関する 言 さんの解釈および判断は、  その引用文と解釈を見た範囲内では、申し訳ありませんが、自説補強のための  強引な解釈だとしか思えませんでした。   *注1 イスラエル初期(前869−849年)頃の預言者で、バアル礼拝       と対決し、ヤハウェ礼拝を擁護した人物。奇跡の力較べで、バアル       の預言者に打ち勝ったと伝えられている。       マラキ書以降、救い主が地上に降臨するとき、その前に現れる預言       者はエリヤの再来であると信じられていた。  D:最後に、原罪論について   原罪=人間における罪の根本性と普遍性の現実に対する表現。      人間が罪の支配下にあり、その罪が人間の性質的な要素と化している      ものであることを現す言葉。      罪とは、「神に背き、その律法を犯す者」である人間の性質を指すと      捉えることができる。      キリスト教におけるメシア(キリスト)=(キリストを信じる)人間の原罪                       を贖う救世主。   よーするに、メシアであるためには、原罪を贖う能力が不可欠なのです。   メシア(キリスト)という存在は、原罪を贖う能力を備えた存在なのです。   原罪を贖う能力のある存在を表現するために、メシア(キリスト)という言  葉が、キリスト教では使用されているのです。   例えて言えば・・・宇宙を自力航行する物体のことを指して「宇宙船」と名  付けたからといって、「宇宙船」以外に宇宙を自力航行することが不可能であ  ることを証明する必要がないのと同様に、原罪を贖う存在のことを称して「メ  シア」と名付けたからといって、「メシア」以外にそれが不可能であることを  証明する必要はないのです。   ある言葉を規定するものは、単純に言えば、その言葉に与えられた内容(言  語群における他の言葉との関係)だということです。   このあたりは、言葉、つまり言語学上の問題であって、いわゆる「真理」と  か「論理」の問題ではないでしょう。   で、<言葉と原罪>を考察されるのでしたら、できれば、ソシュール以降の  言語学などを参考にして進めていただきたいと思います。   別冊宝島44「現代思想・入門」は、入門書としてわかりやすいし、他の参  考文献の紹介も載ってますので、お薦め品です。   ついでながら、形式論理の面について一言。 |論理的に考えてみても、メシア以外の人には原罪の根を切り取ることが不可能 |であることを証明できなければ、メシアしか「罪の根」を切り取ることができ |ないと言明することはできないはずです。 (データライブラリ「アザゼル論」<a)原罪の意義 (1)「罪の根」とは何か?>)   この文章を単純化してみます。メシア=A、メシア以外の人=非A、罪の根  を切りとる=Bとしますと・・・。  主張1:非AがBすることができないことを証明できなければ、AがBするこ      とができると言明することはできないはず。   文章の単純化によって、主張1ができました。   で、この主張1を支える前提条件について考察してみますと、A+非Aとい  う集団の中には、Bすることができる存在がいる、というものになります。   さもなければ、A+非Aという集団の中には、Bすることができる存在がい  ない、というものになります。   仮に前者が前提条件であれば、Aと非Aとの違いは、Bすることができるか  否か、という機能的相違に還元できることになりますし、またAの存在を否定  していないことになりますから、主張1に含まれている証明は不必要になると  思います。   仮に後者が大前提であれば、そもそもBすることができる存在はいない、と  いうことの証明責任は、主張1を唱える者にかぶさってきてしまいます。   で、この非存在の存在証明は、通常、不可能であると考えられております。      主張1と類似の形式論理の一つとして、下のようなものを作れます。  例文:「神以外の存在が宇宙を創造することができないことを証明できなけ      れば、神が宇宙を創造したと言明することはできないはず」          「オンリー・ザ・ロンリー」を観て退屈を覚えた 岡 でした。      (ジョン・キャンディのコメディは、波長が合わないせいか、どうも       楽しめないのです。脇役のジェームズ・ベルーシは好きなのですが) - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/03/22 - 015/017 HGB02764 EARTH WORK RE:グルジェフの映画というのは… (13) 93/03/22 00:40 014へのコメント こんにちはTAOさん 「注目すべき人々との出会い」の本は、僕も好きで、結構読み返すことも 多いです。なぜだか、元気が出てくる本なんですよ。 ビデオの方ですが、結構レンタルビデオ屋さんに置いている所もあって、 国分寺のアコムビデオレンタルでは置いてあったように思います。 確かミッドナイトフィルムズというところで、出していたと思うんですよ ね。(そーとーなうろ覚えですいません)そーだ。僕の手元にもあるので、 お貸ししてもいいですよ。(ただしダビングされたテープです) ムーブメントも結構入っていて、お勧めですよーこれは。(^^) オフレポートのベトナム料理の紹介で,思わず身を乗りだしてしまいました。 僕はエスニック料理も好きなんですよね。結構爽快感のある辛さなんです よね。 それでは、またー。 earth workでした。 016/017 HGB02764 EARTH WORK kazeさん写真送りますよー。 (13) 93/03/22 00:52 kazeさんどうも。 東京巡業ご苦労さまでした。 上がった写真を送るわよー。 記念アルバムに一枚どうぞ(*^^*) おーほほほ、女気のない部屋だこと。 earth workでした。(^^:) 017/017 HGB02764 EARTH WORK 子供ってすごい (13) 93/03/22 01:51 012へのコメント どうも隆ちゃん。 メール送りましたんで。 さて、「フラーが僕らに話したこと」を平行して読むと、テトラスクロールも少し は分かり易い気がします。(やっぱり絵本といっても結構難解) 内容としては、フラーと3人の子供が対話しながら、フラーの勉強をしていくもの なんですが、子供の理解力ってすごいですよね。 アンテナがビンビンに張っているっていう感じで、ともすれば錆び付きそうでひい こらいっている、こちらの感性としては、ついていくのが精一杯です。 テトラスクロールの一回目の感想として、印象深いのは、 >「心は探検するように考え、分類し、組み立てていくもののだ。ひとつの思考、 >そう、思考というものも非物理的(メタフィテWカル)な概念のシステムだが、そ >の思考も結局のところ、四面体になっているんだよ。それは、この時間と空間に >深く関わった非同時的な宇宙の中でバラバラに存在している4つの出来事を、互 >いに結び合わせていく。だから、思考はいつだって四面体だ。(1)思考する本 >人、(2)今ある「他」、(3)過去にあった「他」(4)未来にあるだろう「 >他」、思考システムの四面体は、いつだってこんな4つの事柄を含んでいる」 という部分です。 全ての現象を四面体というシンプルな形で捉えてしまうところに、物の捉え方とし てすごく興味をもちました。 基本的には、現象には四面性あるということ、だとは思いますが。複雑に、複雑に と流れやすい物事の捉え方ををシンプルに開いてくれたという感じです。 そういえばフラーが僕らに話したことでは、子供たちに一気に球面三角法の説明か ら入っていくのですが、ユークリッド幾何学は、現実ではありえない空想上の幾何 学として、フラーはなぜ、駄目なのかを説明していきます。 現実では、三角形の内角の和は180度以上あるとか、三角形の内と外があって、 三角形に意味があるという様なことがら。など、それをどんどん飲み込んでいく子 供たちにもすごいの一言です。(^^) 球面に書かれた三角形は、その外側も内側も共に認識できるもので、しかも現実に 存在する。空想上の内角の和=180度にこだわる思考形態を西洋方式の思考形態 と例えるのは極論でしょうか。 三角形を球面上で捉え、内も外も共に認識し捉えてしまう方法に、東洋的な思考形 態を感じてしまうのでした。 カライドサイクルは、娘が壊してしまいそうなので、今だ本箱に飾っています。 娘の方は勝手に、「可愛いねぇ」と自分のものに決めてう「ワって" 捺うd│a z テトラスクロールの進行、よろしくお願いします。 earth workでした。 - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/03/22 - 122/125 GCC01413 HVHY 最新詩篇の解読(続き) (14) 93/03/21 21:25            〜 #916の解読・その3 〜  |何があっても守らねばならないことは、あなたがたの感動する心だ。  |  |思いと言葉と行動を一致させるべく、努力しなさい。  この部分は“文字通り”だ。  平易な言葉で語られているが、これ以上大切なことは何もない。 >>> 「思い」と「言葉」と「行動」を一致させる  という事柄に関連しているかどうか解らないが、  比較的最近の書き込みで、  *「やりたいこと」                *「やれること」                *「やること」  この3つを一致させることについて触れたのを私は思い出した。  それよりも何よりも、「感じる心」が全ての大前提となる。        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ・ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  |夢は失われないだろう。  |  |ソロモンのリングは、剣の柄に掛かり  |魔法陣は力を失い、フェニクスは号泣するだろう。  |  |「いにしえのヤマトゆきゆきて」まほろばの夢は語り継がれる。  例によって、関連詩篇のUPから。   > 夢 マボロシ まほろばの剣              「光の黙示録」   > 其方の手に在り                     第20章より   > アジアは「龍」。西欧は「不死鳥」。           7番会議室   > この両者は死を決して戦わねばならない。(?)      #???より   > 私の剣は、炎の剣。                   7番会議室   > 私の剣の意味するところは、龍である。          #686より   > 私はユダヤの神としても知られ、             7番会議室   > アメノクニトコタチとしても知られる。(?)       #???より   > 狂おしき夢より立ちて在れ!   > 日の沈む所には、そなた達の国はない。   > 肥沃な土地を耕し、その日を待て。   >   > 前屈みの帽子の男は、一撃のもとに倒されるだろう。   > 怒れる鷲は、自らの嘴(クチバシ)で自らの目をくり抜く。 91年2月末   > 血の海の中に、真珠を見る者は幸いなり。          の詩篇より  ユダヤの「力」の象徴である「ソロモンリング」が、  アジアの「剣の柄」と合体して、「剣」は本来(?)の「力」を得ることになる。  その結果、西欧を背景から支えていた魔術の「力」(「魔法陣」)は形骸化し、  「フェニクス」であるところの西欧は「号泣」することになる。  「いにしえのヤマト」より伝えられし「まほろばの夢」は、  今こそ実現されようとしている…。  このような解釈はさして強引なものではない。  但し、ここで注意すべきことは、  この解釈を“単なる二項対立”の図式と見るだけでは不充分ということ。  このことについてはARIONが#742でも触れている。  具体的には、「血の海の中に、真珠を見る者は幸いなり」  というフレーズに是非注目したい。  と言うのも、ここで言う「血の海」は、  正に“「フェニクス」の「号泣」”によって生じると思われるからだ。  表面で起きる勝ち負けの様相が重要ではない…ということである。                                  HVHY 123/125 GCC01413 HVHY サファイヤ。 (14) 93/03/21 22:35                〜 ヤグルマ 〜  サファイヤの最高級のものを「コーン・ブルー・サファイア」と言うらしい。  何でも「スター・サファイヤ」より高級なのであるらしい。そして、  「コーン・ブルー」というのは“矢車草(ヤグルマソウ)の青色”のことらしい。  (※聞いた話なので自信がない。維/YUIさんどうなんでしょう?)  一方、最高級のルビーの色を「ピジョン・ブラッド(鳩の血)」  と言うことについては既に述べた。      > ヤグルマ ホホロギを捜せ      > 打たせの壺に剣あり       「光の黙示録」第16章より  ところで、「サファイヤ」の元々の意味は“悪魔の貴重品”だと言う。  「赤いサファイヤ」のことを「ルビー」と呼んだという話もある。    *「ヤグルマ」>『剣』>ルシフェル高位相・・・「サファイヤ」(青)    *「ホホロギ」>『壺』>ルシフェル低位相・・・ 「ルビー」 (赤)  このような単純なことであろうか?  「光の青」と「闇(黄泉)の赤」が“対”になっているわけだ。  (※それぞれに「青龍」「赤龍」が対応している?)  但し、『壺』は“「炎」を醸成する「器」”でもあるから、  正確には「ルシフェルとミカエルを結ぶポイント」と言うことも出来よう。  更に、「フェニクスの号泣」によって生じる「血の海」は、  正に“平和の象徴である鳩が殺されることによって流れる血”で出来ており、  それは『壺』が「ピジョン・ブラッド」に染まることを意味するのではないか?  そう言えば、「サファイヤの子馬」ってのもあったなぁ〜・・・。                                  HVHY 124/125 GCC01413 HVHY 「ヤマト」 (14) 93/03/22 02:04             〜 ヤマトは国のまほろば 〜  次の歌は教科書にも出て来る古事記の一節である。  私の場合、古今集や新古今集の歌は忘れても、これだけは覚えていた。        > やまとは くにの真ほろば        > 畳なづく 青垣山こもれる        > やまとし うるはし  倭建命(ヤマトタケルノミコト)は、  「草薙剣」を美夜受比売(ミヤズヒメ)に預け、伊吹山の神を退治に出掛けたが、  途中で“白い猪”に翻弄され、病に罹って都へ引き返した。しかしながら、  能煩野(ノボヌ)にてもはや命数が尽きたことを悟り、この歌を詠んだのである。  因みに、当会議室のサブ・ネームは『まほろばの剣を求めて』であった…。  (※オープニング・メッセージに書かれていましたネ!)                                 HVHY 125/125 HGG01312 たまご 爆発する夢 (14) 93/03/22 16:59   20日,夜の宴会に備えて(^_^;)昼寝している間に妙な夢を見た.   暗黒の空間の真ん中に,白く輝く球体が回転している.   それをわたしの“意識(?)”が遠くから眺めている.   球体は明るさを変化させながら輝いているが,わたしにはそれが自分である   ように感じられた.   少し経って,突然,球体は爆発し,粉々に砕け散った.   その瞬間,わたしの“意識”は猛スピードで上昇を始めた.   わたしは肉体から意識が離れてしまう,とそんなことを思いながら気を失った.   (夢の中なのに気を失うとは(^_^;))   夢の内容はこれだけなのですが,   この非現実的な夢はいったいなんなのだろうか.(^_^;)   爆発する球体とそれを見ている自分との関係とはいったい……?   謎だ.(^_^;)   それから,起きた後,鏡を見たら,額に赤いあざができていた.   寝ていたのに,何かにぶつけたのだろうか.   それとも,本当に自分の体が浮かんで,天井にでもぶつけたか.(^_^;)   まさかね.(^_^;)    なんにもわからない(^_^;)誰か説明してくれぇ  たまご - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 93/03/22 - 117/118 GFD00204 松川 貴     RE:男であること (15) 93/03/21 22:17 114へのコメント  一輝さん >「男らしさ」という言葉は、戦前には無かった言葉なんです。  伝統的な言葉遣いと信じて疑わないできたものが、実は底の浅い偽物であったとい うことですね。とてもおもしろいと感じました。自分たちで偽物をこさえておいて、 今度はそれを日本と信じ込んだり、憎悪したり。なんという不幸でしょう。  あの神式結婚というのも大正以前にはなかったらしいですね。あれはキリスト教を 神社側がまねたものだということです。例によって司馬遼太郎さんのお話を引用させ ていただきます。   神式の結婚式についても、キーンさんがおっしゃったように、ほんとうに伝統  は数十年でできあがると思いますね。たしか神社で神主さんが結婚式を主宰する  のは、せいぜい大正時代(1912〜26年) からです。神主さんがキリスト教の式を  見ていまして、われわれもああいうふうにやろうということになった。そうした  ら、たちまち伝統になりました。それ以前は、むろん江戸時代も、ごく最近まで  古い家では、結婚式は男の人の家のお座敷でやっていまして、宗教色はありませ  んでした。三々九度があるだけでした。三々九度は宗教ではありませんし、神主  さんも来ませんでした。ところがいまは、神主さんを呼ばずに結婚式をするとい  うと、古い人は日本の伝統に反するということで反対して大騒ぎになると思いま  すが、神式結婚はほんの七、八十年前からの伝統のようですね。   お嬢さん方がお茶を習うのも、大正時代に裏千家が東京の婦人雑誌と組んで宣  伝をしたので、お嬢さんになるとお茶を習う。それまでは男がお茶を習っていた (笑)。伝統など、よく洗ってみるとしばしばそういうものですね。(『世界の中  の日本』司馬遼太郎 ドナルド・キーン P40-41)  司馬さんがおっしゃるように、こんなこと(近代が生み出した擬古としての伝統) は探せばきっとざくざく出てくることでしょう。伝統を目に見えるもの、形となった ものだけではかろうとするのが現代人の悪しき思考習慣です。右翼を自称する人たち もまたそのような思考態度から自由であるとは言えないでしょうねえ。考えてみると 随分息苦しい話です。                                   松川 貴 118/118 GFD00204 松川 貴     RE:激情の澳火 (15) 93/03/21 22:19 116へのコメント  いらっしゃい、アマデウスさん >OZ弐さんは最近ARION部屋で忙しいようですが  あの強情っ張りぶりはなかなか大したもんです。でも会話の裏に隠れた非言語の会 話も同時進行しているはずですから、あんまりヤキモキしなくてもいいんじゃないで しょうか。別に命の取り合いをやっているわけじゃないんですから。  先週土曜日(3月20日)の朝日新聞の九州版「おやじの背中」シリーズに阪神タイ ガースの亀山努選手の話が載っていました。そこにはこんな「おやじ」が登場してき ます。   小学校の卒業間際に、両親の実家の奄美大島に移りました。父は保険会社員で  したが、母方のおばあちゃんが倒れてスパッと仕事をやめた。「島に行ってから  職を探せばいい」と。そんな姿に男気を感じ、口ではなく態度で示すものだと教  えられた気がしました。  「社会的に(あるいは世間様に)認められた私、それに満足を覚えている私」にば かりこだわっているような人だったら、とてもスパッとは決断できませんよね。亀山 選手の家族もまた、自分たちの父親をそのような人として眺めてはいません。(場合 によっては家族が足をひっぱる場合がありますから。)  『公』と『家族』と『個』の相克。しかし、これはそのように見えるだけではない のでしょうか。私は『公』というような抽象的な言葉を掲げましたけど、この言葉が 豊かな内実を持てるようになるかどうかは、結局人間そのものにかかっているように 思えます。初めに『公』があるのではないと。『公』はたえず創造されるのを待って いる、それが本当なんではないでしょうか。  一輝さんじゃないですが、サムライは腹を切り、ヤクザは指を切ります。なるほど 腹を切らずに指を切るヤクザが、指を切らずに腹を切るサムライに頭が上がらなかっ たのも当然です。  ヤクザは指を切り、大衆は責任から逃げ続けます。なるほど大衆がヤクザを恐れる わけですね。                                   松川 貴