- FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 93/05/15 - 00118/00118 HCD02470 ☆ASUKA☆ RE:わー! オーッ、こんちはっ! ( 2) 93/05/14 21:34 00096へのコメント さはしさーーーん、ごぶさたでーす。(^ε-)☆パチッ! 久しぶりに日本に帰り、実家にかえり美味しい水を飲んでいます。 ボストンなんか行くもんじゃないよ。水は不味いし、今日本が輸 刀@入するとか、しないとか揉めてるカリフォルニア米、あんな物不磨@   味くて食べられたものじゃない!銘柄米じゃないけど実家で作っa  ている米の方がよっぽど美味しい。  アメリカなんかに負けちゃだめよ!  じゃあ、また書くね!最近SEKO姉大人しいんじゃない?                 ☆パワフルASUKA☆ 久しぶりのUPで文字化けしてる・・・ご愛嬌!(^_^) - FARION MES( 4):【宴会/オフ】プラン・レポート------------<02> 93/05/15 - 002/002 GGD02212 Soo 大阪食い倒れオフ…って企画ないかなぁ ( 4) 93/05/14 18:04  当方、一度オフってものに出てみたいと思っています。 なかなか東京へは行く機会がないんですが、大阪ならば 一時間半ほどで行けます。月に一度くらい土曜日とかに、 なんば界隈・オタク街とかを徘徊したりもするんですが、 だれか「くいだおれオフ」企画してくれへんやろか? 大阪弁と微妙に違う紀州弁:だえそやってくれへんかな Soo. - FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 93/05/15 - 899/901 HGE03563 ソニック RE:誠実で優しいだってぇ・・・(^_-)☆ ( 6) 93/05/14 20:28 895へのコメント コメント数:1 そうですよね・・・。 ・・ケンカや戦争とゆうものがどんなふうに起こるかというの、 ケンカや戦争のミクロ版、「通信内でのバトルの様子」を 分析しても見えてくるように思えます。 ぼくは自称農耕民族だけど、 「競」と「和」では、競の性格のほうがちと強いです。 だからついついあっちこっちでバトルを起こしてしまいがち。 あ、「倫理律の対立」と、「性能の競合」では、ちょっと意味がズレてるか・・。 ・・いや、同じなのかな。やっぱ、ちがうか。。ワカラン。 前者は「競争」を意識しない自己主張してたら、 自分と違うものにぶつかっちゃった! 後者は、「競争」に快感をおぼえて、 倫理観で競争する・・?? 競争は、相手のことを意識しないといけないから、 自然に相手の立場とか理とか考えるようになるとおもいます。 話は変わるけれど、 ぼくは競合は好きだけど、競合は嫌いだ。 ぼくは和は好きだけれど、和はキライだ。 ・・言っていることが矛盾しているけど本心だ。 こうゆう自分でも混沌としたモンダイは、 どうやって白黒の決着をつけるかとゆうと、 どうゆうときに、どんな状況でソレが起きたかとゆう、 正確なデータから、その競合や和が是か非かとゆう判断を 直観で決めます。 だからぼくは、どんな問題もデータがなければ、 判断つけようがないです。 「相手の理」とゆうのは、相手の居る環境とか歴史とかゆうデータが分かって はじめて理解できるのだと思います。 「13」は西洋では「死神」と連想されるらしいけれど、 環境がかわると、ぜんぜんちがうふうになる。 「13」とゆう「理」そのものはぜんぜんかわんなくっても。 どっちかとゆうと、農耕民族という環境では、「12」のほうが死神だと思う。 (↑ああまたもや意味不明なビョーキ発言??・・無視してください   おまけにいつもながら文脈も支離滅裂) PS.ミヒャエルエンデの出版社名教えて下さい。    (本屋いったけどめっかんなかった。) 900/901 TBE03167 ねずみ RE:誠実で優しいだってぇ・・・(^_-)☆ ( 6) 93/05/14 23:34 899へのコメント コメント数:1 たしかに、バトルなんてものは決して歓迎されるものではないのだろうけれど……。 でも、バトルにも色んな種類があると思うんですよ。 ただ勝つためのバトルというのはよくないんだろうけど、妥協のない意見を交換しあっ て、より合理的な思考を導くためのバトルとかは、僕達はもっと一生懸命やらなきゃ いけないようにも思います。 このあたりは、もうちっと試行錯誤をして、恥のひとつもふたつもみっつもかいてい かんことには展望は開けんでしょ(^_^;)。 えと…… ミヒャエルエンデの出版社ですか? 実は、ぼくも今その本が手元にないんで分からないんですよ。 どなたか知っておられる方がいらしたら教えていただけませんでしょうか。 (おーい、スマルちゃよ〜) 901/901 GBG02755 スマル RE:誠実で優しいだってぇ・・・(^_-)☆ ( 6) 93/05/14 23:57 900へのコメント おーい、ねずみどんと、ソニックどん、 あちしにふってくれても、そんなもん、知らんよ〜。 図書館行ってみるべし!べし!                    スマル - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/05/15 - 262/262 JBH00742 炎 許し ( 7) 93/05/15 00:11        * 私の愛 *    私のことを言われるのなら我慢が出来る。    しかし愛する人のことを言われると我慢が出来ない。    私は一人の血の通った人間として怒る。    何故なら私は「私の愛」を傷付けられたからだ。    神よ。それでもあなたは愛せよとおっしゃるのですか…。    いや私は「違う」と言う。    神よ。私は「私の愛」のためにあなたを裏切る。    無くさねばならないものは無くさねばならない。    虐げられ足蹴にされている人間に    更に唾を吐き掛ける人間が入る。    私はそれを許さない。    神よ。私に何をせよとおっしゃるのですか…。                              炎 - FARION MES(11):★アキラの平井和正部屋(仮)--------<01> 93/05/15 - 025/025 GEH01636 酔狂生 今日はなんの日だかしってるかい (11) 93/05/13 22:30   なに、5月13日は平井和正の誕生日だって?   あら〜、そーだったんですね〜  (年齢はかかないのが礼儀ってものか(^_^;))    酔狂生 - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/05/15 - 249/252 NBG00612 岳同 RE:礼と敬 (13) 93/05/13 23:36 244へのコメント KAZEさん、こんにちは。 先日、電車に乗っていて、ふと何かいつもと違うなと思いました。 駅が近付いて減速する途中でいつも国電特有の衝撃があるのですが、 いつもより全然軽いのです。滑らかに緩やかにふわっと止まる感じです。 加速にしてもそうで、吊革をつかんでなくても立っていられるのです。 見当違いかも知れないけれど、その時運転手の静かな心遣いを感じてしまいました。 >この「心の礼儀」ということは、「教育」においてもとっても重要なことで、 >そこらへんのことは、戦前の「修身」のいいところを >もう一度見直してみるべきではないかとさえ思うくらいです。 >そこには今はもはや失われて久しいものがたくさん詰まっているように感じました。 >特にこのところ「教育」に関して思うのは、 >そうした「礼」ということと、それに関連した「敬」ということが >現代ではほとんど無視されているのではないかということです。 >「礼」と「敬」、そのことは本来のコミュニケーションには >欠かすことのできないものだと思うのですが、どうでしょうか。 経済効果という面から捉えられるのは、大きな世界の一部分です。 経済があって社会が成り立っていると教えられてきましたし、そう信じてきましたが 本当は、もっと大きな無形のものによって社会は成り立っているのかも知れませんね。 多くの人々が経済という信仰にがんじがらめになってしまって、 大切な思いや習慣をお金に替えて生き方が貧弱になって行っているのかも知れません。 快感や楽や恐れを原動力とした経済発展のただ中でも、自分の本心は 人間である以上、善悪を知っているものと思います。 だから、人は誰でも生まれたときから「礼」や「敬」を知っているのです。 それが発現するかどうかが、後天的に分かれてくるでしょう。 経済や社会という共通の習慣に、理由を見付けて本心を騙して納得させている部分が 誰にでもあると思います。しかしながら、その結果はいずれにせよ自分で刈り取らねば ならないはずです。その覚悟は必要だと思います。 250/252 NBG00612 岳同 人間関係論(1) はじめに (13) 93/05/13 23:38 最近、国分康孝氏の心理学のシリーズを読んで非常に感銘を受けました。 講談社現代新書より以下の4点が刊行されています。 数回に分けて上の4冊をテーマ別に編集しなおしてご紹介しようと思います。 <自立>の心理学 <つきあい>の心理学 チームワークの心理学 リーダシップの心理学 人はどういう時、生きていると感じるでしょうか。 自分の役割を見付けてそれに賭けているいるときではないでしょうか つまり自分の居場所をもつ時、生への意欲が高まるのかもしれません そしてそれが人と共有でき、その輪が広がっていく... それが生きる喜びと言えるかも知れません。 人生のメインテーマである人との出会いについて、各々の方が自分に照らし合わせて、 くみとれる部分をご自分の糧としてお受取り願えたらと思っています。 なお、参照ページは次のような略号を使用します。 自立 … <自立>の心理学  つきあい … <つきあい>の心理学 チーム  … チームワークの心理学 リーダ  … リーダシップの心理学 例: (自立46)… 「<自立>の心理学」 46ページ を示します。           子どもをどう育てるかは、人生をどう考えるか、人間はどうあらねばならぬと    考えるか、ということである。したがって自分の人生哲学をつくるには、子ど    もをどう育てるべきかを考えればよいという帰結になる。(自立198)    育児の上手な親というのは、自分の本当の気持ちを子どもに伝えるすべを知っ    ている親である。ここぞと思うときには、自分を開ける親である。(中略)と    ころが、せっかく開いてみたもののたいした内容ではなかった、ということが    あると思う。それは親の心情・生き方が貧困だったからである。(中略)親に    なるということは、人間としてどの程度の”でき”かを、たえず問われること    なのである。(自立13)    私はこれまでさまざまな人に接してきて、次のような結論に達している。「人    の迷惑にならない限り、自分のいいたいことをいい、したいことをする勇気を    もった人間」に子どもを育てあげれば、親として最高である、と。(自立178)    人生を生きるとは、仕事をとおして人生とコンタクトをもち、親兄弟との感情    交流をとおして人生に感謝できることだと思う。この前提に立てば、子どもを    育てる親の着眼点としては、仕事と結婚になるべくつまずきのないように、も    しつまずいてもそれを乗り越えられるように育てることになる。子どもが幼い    ときから、親は折にふれ職業生活と家庭生活に関する基本方針を子どもに示す    必要があるといいたいのである。(自立134) 251/252 NBG00612 岳同 人間関係論(2) 子育てと時代背景 (13) 93/05/14 23:12    今日の学校教育と家庭教育の限界とは何か。一つは人と人とのふれあいの欠如    であり、もう一つは自然とのふれあいの欠如である。(チーム118)    むかしは社会一般に教育機能が充満していた。親は社会に子どもをまかせて安    心していられた。たとえば若者組、若い衆、健児の舎など青少年の教育機関が    あった。子どもたちはこれらのグループ体験をとおして一人前のおとなになる    ことができた。(中略)しかもむかしは、社会には四季折々の行事があった。    青少年は寄り集まっては体験を共にした。こういう行事をとおしてヒューマン    ・リレーションを学び、人生の楽しさを味わった。年長児が面倒を見てくれた    ので、親たちは介入しなかった。(自立180)    さらに、核家族化してきたことも、親の責任をクローズアップしたといえる。    むかしは祖父母が生活の知恵を授けてくれたし、父母の代わりもつとめてくれ    たので、父母は楽な面もあったと思う。嫁・姑の苦しみは大きかったとは思う    が、子どもにとっては祖父母の存在は意味があったと思う。たとえば祖父母は    保守的であるから簡単に流行を追わなかった。(いや、追えなかったというべ    きか)。これは子どもに生活の原点を持たせる意味があったと思う。核家族に    なると、時代の変化がすぐ子どもに伝わり、子どもは軽薄になる。祖父母とい    うコントロール機関がないからである。(自立180)    核家族になるとそれだけ親の配慮が必要となる。親が手を抜いてもそれをカバ    ーしてくれる人がいないからである。(自立181)    現代では家庭が教育の最後の砦となっているからである。(自立179)    今の父母はむかしの父母より子どもに対する責任がふえている。にもかかわら    ず、それに応じた教育は受けていない。手さぐりで子どもを育てることになる。    ところが、恋愛・結婚・育児は誰でもできるとたかをくくっている人が圧倒的    に多い。しかし、たかをくくってはならないのである。これからの親は頭を使    わねばならない。人間学のひとつとして「親学」というものがあってもよいと    思う。(自立182) 252/252 NBG00612 岳同 人間関係論(3) 家庭教育 (13) 93/05/14 23:16 子育て    私は育児の基本は、まずわが子への礼賛だと思っている。私たちが親にしても    らったことを子どもにして返すのである。つまり親への報恩としての育児であ    る。私の子どもはたぶん、私たち夫婦にしてもらったことをその子どもにして    返すだろう。私の子どもと私の孫が仲よくしてくれたら、私たち夫婦はもって    瞑すべしである。(自立11)    愛情とは相手の味方になってやることである。人間というものは、ひとりでも    味方がいると思う限り、人生への勇気が湧き出てくるものである。その逆に四    面楚歌ともなると、そうとうに参るものである。(自立20)    自立するとは、愛の対象から分離する能力のことである。(中略)ところが逆    説的になるが、愛がたえず自分に注がれていることを知っているから、安心し    て分離(独立)できるのである。愛を感じるとき人間は勇往邁進の気概が湧い    てくるのである。(自立41)    産みたくて産め、とは人間は人から受け入れられているときに生への意欲が高    まるということである。そういう子どもを wanted child という。(中略)人    間は幾歳になっても wanted child であることを願うものである。(自立23)    子どもが小さかった頃の思い出話を親は子どもにするが、あれはよいことであ    る。子どもは自分が wanted child であったことを知るからである。(自立25)    空間的距離がゼロになった状態が一番心の接近したときである。これがいわゆ    るスキンシップである。人間は皮膚がふれあうと心もふれるのである。(中略)    幼児の夜尿症をなおすのに、私は親にこうアドバイスすることが多い。添寝す    るとか、マッサージするとか、寝るとき本を読んできかせるとかせよ、と。こ    れはスキンシップをすすめているのである。死にたいという中高生には応急処    置としてマッサージしてやれということがある。これも、愛情表現がねらいで    ある。(中略)皮膚をさわられるということは、いたわられているという感じ    がするのである。(自立33)    子どもに親子の愛情体験をさせる第四の方法は、一緒に食事をすることである。    食べる行為は愛情をもらう行為である。食べ物は愛情の象徴である。(自立34)    子どもが夕方早く、あるいは夜遅くひとりだけで食事をすることがある。家庭    は下宿屋ではないのだから、子どもが食べている間じゅう、父と母がそばにす    わって話でもしながらつきあうのがよい。(自立37)    幼児の遊んでいる間じゅう、そばでつきあうのは母親にすれば時間がもったい    ないかもしれないが、人生のある時期だけのことであるから、少々は我慢せざ    るをえない。(自立101) グループ体験    たとえば冠婚葬祭で親類縁者が集まるときは、なるべく子どもを連れていくの    がよい。幼少期に多人数の集まりになじんでおくと、おとなになってからも、    グループに入るのがそれほど苦ではなくなる。(中略)私のこの発想はアメリ    カ人の様子を見て感じたことである。アメリカ人は来客があると、子どもを呼    んで客になじませようとする。家族ぐるみの招待パーティには子どもを連れて    くる。とにかくさまざまな人間とミックスできるようにしようとの配慮がある。    これからの日本もこういう発想が必要になるのではないか。(チーム121)    親は機会あるごとに、外での見聞を子どもに語るのがよい。(中略)つまり世    の中にはどんな思いでどんな人々が生きているかを間接体験させるのである。    これがやがて子ども自身が人生を直接体験するときの心の準備になる。(中略)    お寺の子どもとか牧師の子どもは、幼少期からさまざまな人間にふれているか    ら、比較的人間集団へのなじみが深いように思う。(チーム122)    親は子どもに小・中・高の頃の部活への参加を奨励するのがよい。塾よりは部    活のほうがためになる。塾は部活を引退する少し前くらいからでもよいのでは    ないか。(中略)中・高校を通して勉強一筋だったという学生で、青年時代を    謳歌している者は稀である。(チーム122)    父親    父親は娘を甘や敖~る男でなければならない。男親に甘えられる娘は女性らし    い女性に育つ。甘えたくても甘えられなかった娘は「よい子」スタイルになる。    申し分ないお嬢さんにはなるが、当人とすれば「ぶりっ子」としての苦しさが    ある。(中略)父親は娘が遠慮なく甘えられる男でなければならないが、甘え    にも限度があることを教えなければならない(自立146)    プールで出会ったよその父親、私自身の父親、そしてカウンセリングで接した    数多くの父親。これらの父親を今ふりかえってみると、惜しみなく自分を与え    る父親が子どもを一人前にするのではないかという気がする。(自立156)    身を捨てる度胸のある父親は概して、子どものために金を使うことをいやがら    ないようである。子どもが非行をおかした父親の多くは、財布をにぎっている。    (中略)妻子を信用していないのである。(自立157)    金を貯めたい、子どもも一人前にしたいというのは、ちょっと虫がよすぎると    思う。お金は愛情のシンボルである。金をケチるということは愛情をケチると    いうことである。(自立158)    散財して悦に入る父親は、概して愛情欲求がつよすぎるのである。人の好意を    得たくて、ついつい浪費する。自分本位である。ケチも自分本位、浪費も自分    本位。自分本位の父親は子どもを人並に育てられないのではないかという気が    する。(自立159)    私はポケットから手帖を出したが、そのときタバコの包装紙の一片がヒラヒラ    と床に落ちた。私は知っていたが、不用物だからそのままにしておいた。する    と兄が「おい、拾えよ」と私に命じた。ちょうど小学生の頃の兄貴面がその瞬    間に顔を出したのである。私は父のしつけが兄貴を通して再現されたと受け取    った。これが父の遺産だったのだなあ、とうれしかった。(自立77) 母親    よい母親というのは子どもの状況に応じて「ある程度放任し」「ある程度保護    し」「ある程度干渉する」母親ということになる。つまり、放任オンリィ、保    護オンリィ、干渉オンリィのワンパターンになるのがいけないのである。問題    児の母親はだいたいにおいてワンパターンである。やさしさオンリィではよく    ないわけで、ときには心を鬼にするほどのきつさも必要である。状況に応じて、    さまざまの動きがとれなければならない。機転が利くということであり、俗に    いえば頭がよいということである。学歴とは関係のない頭のよさである。    (自立165)    父の頭がわるくても母が利口ならば、子どもを父の毒気から守ることができる。    女性にはそれだけの柔軟性がある。ところが逆の場合はそうはいかない。    (自立166)    頭のよしあしを決めるものはなにか。頭のよしあしとは状況を見て自由に動く    能力のことであるが、これは私利私欲を捨てないとできないことである。私利    私欲のかたまりをふつう「わがまま者」という。わがまま者の母親、これが頭    のわるい母親である。何事も自分本位に考えるから、相手の状況を考慮しない。    無理強いすることになる。(自立167)    よい母親とは子どもと一緒に四季折々の行事を楽しむ母親である。私たち昭和    一ケタ生まれまでは、母親が月見のだんごをつくり、すすきを縁側にかざり、    子どももそれに参加していた。豆まきも一緒にした。母をリーダーとして、子    どもたちはけっこう嬉々としてこのような行事をうけとめていた。(中略)子    どもの枕元にこっそりクリスマス・プレゼントをおく、一緒にひな人形の出し    入れをする、ゆかたを着て花火を見に行く。こういう「共同作業」をとおして、    母子の情も濃くなるのだと思う。(自立172)    むかしから続いたしきたりを、子どもだましだと軽蔑してはならない。(中略)    核家族になるにつれ、祖父母の影響がなくなるから、伝統的な風習が失われて    いく。つまり母子の情がうすれていく。へたをすると家庭が無料下宿屋になっ    てしまう。やはり母親にはロマンがあってほしい。少しばかり英語を話す母親    より、お彼岸にはおはぎでもと考える母親のほうが子どものためになる。    (自立173) - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/05/15 - 529/535 GCC01413 HVHY 天まで届く声。 (14) 93/05/14 17:56 コメント数:1                〜 Bright Angel 〜  ポール・ウインターとその仲間たちの作品を集めた  オムニバス・アルバム「THE WEDDING COLLECTION」を久し振りに聞いた。  ポール・ウインターのソプラノ・サックスというのは、  いつの頃からかJAZZというジャンルを遥かに超えて宗教的色彩を帯び始めた。  そのことで離れたファンも居るだろうし、新たなファンも出来たに違いない。  私はと言えば、やはり“宗教掛かった”ポール・ウインターのファンである。  逆に言うと、ジャズ・プレイヤーとしての彼は取るに足りないとさえ思っている。  さて、このアルバムは、ラスト曲になって初めて人間の肉声が登場する。  ポール・ウインターのソプラノやデニー・ザイトリンのピアノは確かに感動的だ。  しかしながら、最後になって肉声が登場した途端に、  人間の声というものの恐ろしいまでの表現力を思い知らされるのである。  それまでの楽曲が“この1曲”のための前座であったかと錯覚してしまうほどだ。  その「Bright Angel」という曲を歌っているのはスーザン・オズボーン。  “ゴスペル調の〜”と一言で片付けられないくらい、彼女の声は「天」に近い…。                                  HVHY 530/535 GBG02043 維/YUI RE:天まで届く声。 (14) 93/05/14 18:36 529へのコメント コメント数:1 最近、スーザンさんのコンサートも、ポピュラーになりましたね。 たいてい、企画しているのは、湯川れい子さんの事務所です。 以前彼女のコンサートを聴きに行って、こういう声の出し方というのもあるのよね・・と聴き入ってました・・・。 日本の童謡を集めたアルバムなどもあって・・・(うちにもある)。 もっとも、日本語の方がいいなぁ・・・っておもってしまうのですけれど。 (声は絶品ですけどね。)                           維/YUI。 531/535 GCC01413 HVHY RE:天まで届く声。 (14) 93/05/14 19:38 530へのコメント  −−−−−−−−−−−−−> 維/YUI どん  例のアーク・インターナショナル(港区南麻布)でも、  「ワン・ピープル,ワン・ミュージック」とかいう“謳い文句”で、  何人かのアーティストを抱き合わせたコンサートを催しました。(半年位前?)  そのメンバーの中にスーザン・オズボーンも含まれていたように記憶します。  ひょっとしたらチャリティー・コンサートだったかも知れません。  維/YUIさんの書いた「入口は白でも黒でも構わない」という話…。  全くもって“その通り”だと思います。  “危ないこと”を全て排除していたら何も変化しませんからね〜。  ハイリスク・ハイリターンというわけでもありませんが、  『混沌から清水を得る』というのも“そういうこと”でしょう。  しかしながら、常に“参加者”であることが大前提だと思います。  (※何だかサルトルのアンガージュマンみたいだけれど…)  7番会議室におけるARIONの発言の中にも、 >>> “「白黒の一方に汲みしないこと」と「白黒に無関心であること」は別”  という趣旨の事柄が書かれていたように記憶します。  このことに関連して、またもや、  “『空』と『虚無』の違い”という話が浮上してきますね。  “『緑』の領域”に纏わる問題点が“こんなところ”にも顔を出しているわけだ。  トリックスター論というのも当然この関連で語られて然るべきだし…。  ところで、なんで“こんな話”になってしまったのだろう???                                  HVHY 532/535 GCC01413 HVHY RE:小羊の婚姻の時がきて・・・・ (14) 93/05/14 20:30 521へのコメント  −−−−−−−−−−−−−−> めるく さん  「バビロンの大淫婦」というのは、(西洋の)一般的な予言解釈者によって、  世紀末を悪の方向へ導くグループの重要な存在として位置付けられています。  しかし、そのような解釈が全く浅薄なものであることは言うまでもありません。  ARIONの詩篇の中に「バビロンの夢はシバの思い」というフレーズがあって、  その部分はむしろ「過去に果たせなかったことを悔いる」調子で語られています。  つまり、過去においては、何かが“中途半端”に終わってしまったのです。  ところで…、「火で焼かれて死んでしまう」と言えば、  日本の神話における「イザナミ」もそうでしたね。  自分の産んだ「ホノカグツチ」に“ホト”(陰部)を焼かれて死ぬのでした。  そして「イザナミ」は黄泉の国へと下ります。  怒った「イザナギ」は「ホノカグツチ」を殺すと、  「イザナミ」を追って黄泉の国へ降りて行くのですが…。  結局「イザナギ」は逃げ帰ってくるわけです。その時に、  「イザナギ」は「ククリヒメ」に何かを“耳打ち”されています。  さて、「ククリヒメ」は何を“耳打ち”したのでしょうか? >>>  「緋色の女=バビロンの大淫婦」 >>>  =「イシュタルテ」=「イシス」=「イザナミ」(豊饒の女神) >>>  =「アンク十字」=「金 星」=「ほとばしる愛」???  “イシスの復活”という事柄。(※炎さんはタロットの『女帝』について言及)  それはもちろん起こるべくして起こっているし、  それを「悪」と見做すのは“論外”と言わねばなりません。  私もオリハルさん同様、大変興味深く読ませて頂きました。  (※「緑のおしろい」については稿を改めて…)                                  HVHY 533/535 GCC01413 HVHY RE:そうさく 2 (14) 93/05/14 20:43 512へのコメント   −−−−−−−−−−> 維/YUI さん   う〜む…さっすが副議長!!   決める時は決めるんだね〜〜。   それだけです…。                     HVHY 534/535 GCC01413 HVHY 黒い白。??? (14) 93/05/14 21:09              〜 黒魔術は「黒」か? 〜   黒魔術についても、単純にそれを否定すれば良いというものでもない。   私が思うに…、黒魔術にも“二つの類型”があるのではないか。   ちょっと良い例えが思い浮かばないので、いささか妙な表現になるが、   「ウォームな黒魔術」と「クールな黒魔術」があると考える。或いは、   「アナログ黒魔術/デジタル黒魔術」と言い換えても良いだろう。   「デジタル黒魔術」は更に「ソリッドステート黒魔術」とも表現出来る。   さて、この概念展開からすれば、   「デジタル白魔術(=ソリッドステート白魔術)」も有って然るべきだ。   私はむしろこの「デジタル白魔術」にこそ大きな危険性を感じる。   かつてシュメールさんが『1−0概念』を提示された時に、   「ソリッドステート」という言葉を用いられたことにも注意しよう。   (※それがプレアデス由来とは必ずしも私は思わないが…)                                 HVHY 535/535 GCC01413 HVHY ひとまず。 (14) 93/05/14 23:19               〜 比較預言学? 〜    > 青い外套の女に 人魚の涙を渡す時    > 亀甲の数字を手にするであろう       ・・・(A)    > 緋色の女は、藍のローブを纏い、    > 緑のおしろいを体に塗り準備している。   ・・・(B)  この二つの章句は既に比較したことがあった(と思う)。  そして、(B)の「緋色の女は、藍のローブを纏い」という部分は、  明らかに(A)の「青い外套の女」に対応している…としたのであった。  さて、めるくさんの解釈によれば、(B)の「準備している」とは、  “『(小羊との聖なる)結婚』の準備をしている”のである。  一方、(A)の「人魚の涙」とは、『真珠』のことであった。すると、  「人魚の涙を渡す」とは、“結婚式で真珠の指輪を渡す”ということなのか。  いずれにせよ、二つの章句を組み合わせると、    > 緑のおしろいを体に塗って(婚姻の)準備をしている    > 青い外套の女(=藍のローブを纏った緋色の女)に、    > いよいよ人魚の涙(真珠の結婚リング)を渡す時、    > (小羊は?)亀甲の数字を手にするであろう…。  というようなことになるのであろうか?  ここで、「小羊」については、めるくさんの解説を待ちたい。  「緑のおしろい」についてはやはり稿を改めたい。                                 HVHY