- FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 93/07/13 - 00492/00495 GBG02043 維/YUI 今日(7/13)のメッセージに ( 2) 93/07/13 06:00 >>★祈りは天と地と私達の生命を繋ぐものの一つだね、維/YUIさん うん。。。。。。。 祈りになにひとつ力がなかったとしたら、 空しい・・・。 どうしてかは、ちゃんとした説明はできないけれど、 祈りには、力が働くみたい。 もちろん、祈る人の心のありようもあるわけだけど。 しばし、祈れる気分じゃなかったの。 さざなみがいっぱい立っていて。 人の事になら、祈れるのに・・・。 自分の事ではそらぞらしくって。 なんか、ずれてきて・・。 また、そんな気分のときもくるかもしれないけど、 その時は心して、せいいっぱいの祈りをもっていたいな。 人の事で祈れるのなら、自分の事でも祈れるよね・・・。                           維/YUI。 - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/07/13 - 00511/00513 GGD02212 Soo 犠牲と保身 ( 7) 93/07/13 04:21 00393へのコメント | 自分の命を救おうとするものは、それを失い、 | それを失うものは、保つのである。(ルカ伝17:33)  マタイ伝16:25などにも同様な逆説的パラドキシカルな言葉が聖書に記されている。 <引用ではない>過度の自己保身は腐敗を招き、自己犠牲が却って繁栄を生む。 保身の為には犠牲が必要であり、犠牲となる為には保身も必要である。  こんなことは昆虫でも本能のレベルで知っていて、全体の為、次の世代の為、 自らを犠牲にすることを野生の動物達は厭わない。そうでなければ淘汰される。  これは真実だと思うが、自分がこんなことを堂々と言い切るには抵抗がある。 『犠牲』という言葉にネガティヴなイメージばかり刷り込まれたせいだろうか。 正直言って、例えばPKO参加の話が回って来たら積極的に承諾できるような 内的基盤が自分にあるとは言いがたい(--;。一般にマスコミなどでは『犠牲者』 という言葉は『被害者』の意味で使われるきらいがあるように思うが、犠牲は 被害者ではない。被害者意識を持ったのでは犠牲の価値が無い。犠牲は本来、 『義とされるもの』であって、被害者扱いされては犠牲も浮かばれないはずだ。  戦傷の後遺症として、『自己犠牲』を忌まわしく危険な、馬鹿馬鹿しいもの と決めつけ、そう思い込む日本人が増えることは、日本の弱体化を願う勢力に とっては都合の良い事だっただろう。自分自身、犠牲を積極的に否定せずとも 肯定には消極的、いつの間にか、そういう教育を受けて来たような気がする。 自分さえ良ければ…みんなで思えば悪くない、という若者文化を担って来た。 自分の中でもそれは根深いものを感じる。(-_-;)  せめて国のリーダーシップを取ってもらう人を選ぶ際にはネガティヴな意味 ではない『犠牲』の精神を少しでも持ち合わせた指導者のいる党を探したい。 ※このコメントは、某シスオペがRTで、「リーダーとは、自分を育てるより 他人を育てることに生きがいを感じ、結果的に自分も育つことの出来る人よ…」 とのたまわったのを受け、以前から私が書き込もうと思っていた事をUPした ものです。 自分の皮下脂肪ばかり育んでいる Soo(スウ) 00512/00513 GBG02755 スマル RE:禊ぎの子 ( 7) 93/07/13 20:03 00507へのコメント 愛するお父さまへ はあい、ご心配おかけして申し訳在りません。 でも、月曜日の実地試験無事に落ちました。 で、金曜日から追試でーす。 明日からは学科の試験でーっす。 がんばりまっす。    それにしても、お父さまはクソまじめなんですねえ。    私もそうだけど、負けてないところが恐い・・・・ ふみみ、それにしても? 私のその質問はくだらなくて答えてはくれないんですよね。                       スマル - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/07/13 - 00440/00440 GGA02514 KAZE シュタイナー●霊的諸存在の働き/11講■第3回 (13) 93/07/13 15:33 ●ルドルフ・シュタイナー「霊的諸存在の人間への働きかけ」/第11講/第3回 ************************************************************************** >アトランティスの初期には、今日の眠りと覚醒の交代はなかった。 >そのころの人間は、昼には外界をぼんやりとした輪郭で見、 >夜は、今日の昼の意識のように、自分のまわりにいる >霊的諸存在といっしょに生きていた。 >ヴォータンなどは、人間が実際に関わりあった存在であり、 >神話や伝説は、古い時代の霊能力が見ていたものの思い出である。 >そのころは、人間は自分を個人的な存在だとは思っていなかった。 >自分を霊的諸存在の一部に属していたのである。 >そのころの個人的感情というのは、人間が肉体の中に入り込んで、 >そうした霊的諸存在の影響から離れたときだった。 ************************************************************************** たとえば、アトランティス文化の発展の最初の三分の一の時代に戻ってみましょう。 そこでは人間の生はまったく異なっています。当時私たちが受肉した肉体の中では、 私たちの魂はまったく別の経過を体験しました。もちろん個々の人間であり個々の社 会的個体でもある人間の生において役割を演じる経過を、私たちは目のあたりにする ことができましたが、あの時代以来、圧倒的な変化を経験したのです。つまり目覚め と眠りの交代ということです。 古いアトランティス時代においては、今日と同じ目覚めと眠りの交代を体験しません でした。ではいったい現代人とくらべたときのその特徴の違いはいったい何でしょう か。 肉体とアストラル体がベッドに横たわり、アストラル体が自我といっしょに出ていく ときには、アストラル体と自我が出ていくのに応じて、今日的な意識と呼ばれている ものは不確かな闇に沈みこんでいきます。朝、アストラル体が自我とともにまた肉体 やエーテル体の中へと引き込まれるときには、アストラル体と自我は再び肉体器官を 使い、そして意識が明るくなるのです。意識のある昼の目覚めの状態、意識のない夜 の眠りの状態は以前はなかったのです。こう表現してよければ、それはむしろこうで した。−−それがそのころの状況にまったくふさわしいわけではありません。私たち は、人間が肉体に結びつけられていた状態でその表現を用います。−−それはこうだ ったのです。つまり、人間は、昼を有し、そのころ堕落である限りにおいてその肉体 の中に隠れていたときに、昼には、今日のように決してそのような境界で外面的な物 質的な存在や事物を見ることはなかったのです。そうではなくて、霧の宵に街に行き、 街灯が霧のオーラに包まれているのを見るときのように、人間はすべてを外へと消え ていく不確かな輪郭をもって見ていたのです。そのころの時代の人間にとってはすべ ての事物がそうだったのです。 では、昼の状態がそうだったとき、夜の状態はどうだったのでしょうか。人間が夜の 間に肉体とエーテル体から抜け出すとき、完全に無意識な状態ではありませんでした。 それは意識の別のありようだったのです。そのころの時代には、人間はまだ自分のま わりの霊的なできごとや霊的な存在たちも知覚していましたが、正確にいえば、実際 に透視していたというのではもはやなく、古い透視能力から残っていた最後の残余の ようなものでした。輪郭のぼやけたあいまいな境界をもった世界で、人間は昼を生き ていました。夜は、今日の昼の状態のように自分のまわりにある霊的諸存在のもとで 生きていました。そのように、昼と夜の間には厳密な境界がなかったのです。そして、 伝説や神話にふくまれているものは、任意の民話のできごとではなくて、昔の人間が そのころの意識状態で超感覚的な世界で有していた体験の思い出なのです。いろいろ な民族に知られているヴォータンやデウス、その他の超感覚的な霊的神的な諸存在は、 博識の役所のテーブルで主張されているように民話のつくりあげたというようなもの ではありません。ただ主張できる何かがあるとすれば、それは誰も民話の本質を知ら しめたものはいないということです。そのように人間化することは民族にはまったく 思いつかないことです。それは古い時代における体験だったのです。ヴォータンやト ールは、今日同胞と関りあうように人間が関りあった存在であり、神話や伝説は古い 透視能力の時代の思い出なのです。 私たちは、こうした霊的超感覚的世界への順応には何か別のものが結びついていたと いうことを明らかにしなければなりません。人間はこの世界では自分を個人的な存在 だとは思っていませんでした。人間は自分を霊的諸存在のぶぶんのように感じていて、 いわば両手が私たちに属しているように高次の霊的諸存在に属していたのです。人間 が当時すでに有していたわずかな個人的感情を受けとったのは、人間が肉体の中へと 沈んで、それからすぐに霊的神的な諸存在の輪舞から解放されたときです。それは、 人間の個人的感情の始まりでした。それは人間が集合魂を有していることがはっきり している時代の個人的感情でした。人間は、肉体から離れて超感覚的意識になるとき、 自分が集合魂の中に消えていくと感じました。それは、人間の中にものすごい強さで 集合魂、集合自我に属しているという意識が存在した時代でした。 (つづく) - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/07/13 - 00895/00897 HGE03563 ソニック RE:神々の系譜。 (14) 93/07/13 01:28 00886へのコメント コメント数:1 ちょっと思ったことを・・・。 ARIONのメッセージってほとんど何処かで読んだものばかりだ。 (新しいのもあったけれど・・) 至極当たり前のことを言っているから。 人間の理性から当然の如く引き出されるべき言葉だもの。 人間の理性が純化されているなら、その人間の言葉はARIONのそれと 合致するようになるであろうとぼくは思っています。 例えば、「遊び」という考えは、ぼくが今まで理解できなかった事の一つです。 ARIONは車のハンドルの「遊び」を例えにして、説明していたけど、 ARIONの本を持っていないとゆうシゲさんも同じく、 ハンドルの「遊び」を例えにしていた書き込みを見たことがあるけれど、 あれは偶然かや??(^_^;)カシテモラッテイタトカ?? でも本を読んだりしただけでは理性は発達しないし、 やはり実践、経験が無いと駄目なんだろう。 実践、経験をつむことは、本を読んだり精神世界をさまようことよりも常道だ。 実践、経験を積むには、健全な肉体と精神からほとばしる直観力が不可欠だ。 現代人にはどれも足りないものだけど。 だから、ARIONは必要なんだろうか??? 話はズレますが、 意味不明の「預言解読」をさせてることってのは、ぼくの考えでは、 文学的思考力とゆうか、シンクロなんとか・・とゆうか、 見えないものを見る知恵というか、 そうゆう能力をみがくためのゲームであり、実践であるのではないかと、 勝手に解釈していたりしています。 00896/00897 GGD02212 Soo 詩的メッセージ2/一七、一八 (14) 93/07/13 18:37 00893へのコメント | 一七、 黄泉の裁きを侵すことなかれ |     黄泉の壷を手にすることなかれ |     叡智は黄泉にも等しく与えられ |     神の御業に等しく映り その対を |     成す様に 定められたからである | | 一八、 神の名を呼ぶとき 等しく黄泉をも |     影が呼んでいると |     心に止めておく様に |     天秤の左右 どちらかが重くなった時に |     真に求めている者の名を |     知るということを覚えておく様に <以上引用、以下解釈>  「黄泉の裁きを侵すな」、と言われても、侵し方が思い付かない(^_^;)が、 神に召されるか黄泉に下るかを、神の叡智に逆らって勝手に選ぼうとするな、 ということか…黄泉に下るのも、神に召されるうちに入るのかも知れないが。 (黄泉と地獄がどう違うのかも解っていない私。)「黄泉の壷を手にするな」 …『壷』というのは、人間の都合で勝手に扱えるシロモノではなさそうだ。  人間は、神に救いを求める心の裏側で黄泉の裁きをも求めているものである。 (自分が許せない、という気持ち)人の心は上辺だけでは計ることはできない。 自分には良心の呵責など無いから却って極楽へ行くだろう、と 思っていても、 そんな自己催眠を続けているだけで、醒めてみれば寒いかもしれない。しかし、 たぶん本質的には、裁きも救いも同じ剣の両刃、同じ壷の中なのだろう。??      (新沼健二が呼んでいる、黄泉にぃ来ないかぁ〜・・・・フルカッタカナ(・・;)  このシリーズはここいらで一休みさせて頂きます。詩編(詩的メッセージ) の残りは昨年秋頃に、まこと(現めるく)さんが全文UPしてくれています。 <DLでは[FARION/LIB3#44 HVHYの預言解読部屋<02>]の中に収録済> バイナリファイルのダウンロードが出来る方、既にDOWN済の方、『光の黙示録』 持ってる人も当然、面白い解釈があったらUPして下さい。預言はマルチプル・ ミーニングですので、一つが正しければ他は誤りというのではなく、十人十色 の解釈があって互いに補完し合うこともあると思います。 (Soo) - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 93/07/13 - 297/297 JCC00626 ナガト 俳句の話 (15) 93/07/13 03:59 松川塾長、ご無沙汰です。 最近こんな俳句を知りました。  いざさらば死にゲイコせん花の陰    小林一茶   一茶は、ご存じ江戸時代の信州柏原の人。 この句には色々な解釈がありまして、有力なのは、西行の例の歌----- 願わくば花の下にて春死なむその如月のもちづきのころ をなぞった、仮想の歌だというものです。 古典という、文化的なユリカゴの中での発語であると。 そうでしょうか? 一茶には、こんな句もあります。  花の陰寝まじ未来が恐ろしき さて。 死の稽古をしようとして、桜の下で眼を閉じた、そこで見えたのは自分の 「未来」であった‥‥ 彼は、何を見たのでしょうか。 一茶はこんな句も詠んでいます。  ゴクつぶし桜の下にくらしけり 悪夢ですね。桜から離れられない。たとえゴクつぶしであっても。 これはすべて「解釈」にすぎません。 一茶が見たものは、私が見たものではない。 しかし、江戸人・一茶と今の私たちを比べ、失われたものを云々したり 共通する何ものかを言挙げするのも、ともに、私には納得できないのです。 失われた伝統?共同体? 今も残る美意識?制度? もし、そういった分別ですべてが明らかになるのならば、文芸など何の必要も ないことでしょう。古典落語が最高といいつつ、昇進試験にパスして真打ちに なることを願っている噺家みたいなものです。 そいういえば、こんな現代俳句もありました。  予約ずみ死の席が空くひでり月   佐藤鬼房                              ナガト 拝 - FARION MES(17):★パワフルなえ★の《おふくろ通信》--<01> 93/07/13 - 475/478 JBH02324 なえ RE:突然で申し訳ありませんが・・・ (17) 93/07/13 06:52 472へのコメント コメント数:1 これはこれはお久しぶりですね。炎さん。 刀は手入れをしっかりしてましたから、一点の曇も無かったでしょ??。 貴方も曇無い心でお使い下さいませ。その雲型には心が投影されるハズですから。 貴方の未来を明る照らしてくれますように。 478/478 JBH02324 なえ 元気録ぱわー《言いたい事》 (17) 93/07/13 20:37   《 言いたい事 》  こいつ!!何言ってんだぃ。いい加減にしろよ!!!  文句は多い癖に、こっちの言う事は聞かない。まったく勝手な奴だよなぁ。  俺がこんな苦労をしてんのに、誰も解っちゃくれない。ちっとは理解しろよな。  そんなにあんたがお偉い様だってぇ??。知らないねぇ。顔も見たくもない。  ****************  どっか一ヶ所あれば良い。うだうだをぶつけられる場所。  大声で罵倒して、はり倒して、思いきり良く。  無限大に受け入れてくれて、遠い世界に消してくれる「玉手箱」  溜まった「うっぷん」を綺麗さっぱり洗い流してくれる「箱」  それが「魔法の宝箱」がある場所。  さて、次に叫びたい人は??? ささ、思いっきり!!