- FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 93/07/14 - 01212/01213 NBB01420 SUKE 何もしていない自分 ( 6) 93/07/14 00:41 職場の呑み会... ちょっと気になる女子職員に酔っぱらい職員がチョッカイ出す... それを見ていて、内心気になったりする... 帰りのタクシー、彼女が分乗した車だけ、酔っぱらいとともに道をそれて 遠回り...幸いすぐに還って来たものの、内心は心配で仕方がない かといって、同乗者を差し置いて「あの車を追っかけて!」とも言えない 別に「ゆくゆくは告白」という訳ではないけれど、どうしても気になる。 皆で寮に帰り、彼女も部屋に戻った筈が、電話には出なかったりする。 酔っぱらいの寮内3次会はどこでやってるんだろう..... 「あの娘は嫌なら嫌ではっきり断れる娘だ」と信じているが、 それは過大評価、勝手な思いこみ、迷惑な憶測かもしれない。 そう気にしながら、実際には何もしてあげられなかった。 「してあげる」などということ自体、余計なお世話であろう。 そう思いながら、深夜零時をすぎても構わず、部屋に電話をしてみる... 帰った筈の先ほどから、留守番電話のまま... 20分も経ってようやく、電話が通じたけれど、だから何を言えば良いのか.. 結局、僕は自分の想いに自分かってに振り回されて、一人芝居をしているような 気がする。      酔っぱらいの愚痴でした。ゴミです、ごめんなさい (;_;)`` Suke. - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/07/14 - 00514/00517 JBH00742 炎 6から7 ( 7) 93/07/13 22:07  スサノウは悪神である。  従ってこれを滅ぼすがいい。  その時アマテラスは永遠に光を発しない。  富士の封印が切れるとき  善を超えた悪が世に出る。  7番目のキリストに剣を与えてはならない。  もし持てば全てが亡びる。  しかし6名の天使がこれを守るであろう。  人は自由意志を持っている。  そして自由意志で拒んでいる。  だからいざと言うときに助けを求めても  決して救わないのである…。  ただ黙って眺めるのみ。                        炎 00515/00517 KFD00473 たまご RE:感謝 m(_ _)m ( 7) 93/07/13 23:42 00513へのコメント   >>>シゲ さま  言いたいことは,よおくわかった.  そういうことを言うだろうことも,おおよそ想像ついていた.  たぶん,これは考え方の違いだろうね.  わたしは,今その人がどうなのかってことを大切にしていきたいんだ.明日 どうなるかわからないからなんて考えていたら,何もできないとわたしは思う.    今ほっとしている人には,今よかったねって言ってあげたいし,今悲しんでいる 人には,今元気だしなさいよって言いたい.  それがなぜいけないのかって言うことなんだ.  シゲの言うこともわかるけど,シゲも将来にわたって安全を見極めるなんてこと しないでしょう?そこまで言い出したら,何年か,あるいは何十年か先に後遺症が でるかもしれない心配もして,それを見極めなきゃ“よかった”が言えないじゃない.  もちろん,わたしもシゲと同じく,そんなこと考えたくないし,元気に回復される ことを願っている.  そこでだ.  なぜシゲはわざわざ“安易だ”なんて決めつけちゃっているのかってことが, やっぱり疑問になるんだな.     たまご 00516/00517 QFG02515 めるく RE:禊ぎの子 ( 7) 93/07/14 12:14 00506へのコメント  こんにちは、炎さん。  私は、感性で読み、感性で書きました。  炎さんの書き込みを理解しているかどうか、自分には分かりません。  私は、あの三行の文を読んで、書きたくなったことを、書きました。  炎さんの上を行っていたのかどうかは分かりません。  でも炎さんがそう言うのなら、ひょっとしたら、そうなのかもしれません。  だから、私に対して剣を振っても安心なのかどうかについても、  私からは分からないとしか言えません。  炎さんが剣を振るということが、具体的にどういうことなのかも、  私には分かりません。  でも、やるというのならば、きっと受けて立ちます。  (その時間が私に残されていれば、ですけど ^_^;)                            め る く 00517/00517 QFG02515 めるく RE:進化 ( 7) 93/07/14 12:15 00510へのコメント  「それ」を隠してはならない。  「それ」を誤魔化してはならない。  「それ」から逃げることはできない。  台風がそうであるように、  地震や津波がそうであるように、  「それ」は常に、剥き出しの力なのだ。  平和とは、決して綺麗事のことではない。                         め る く - FARION MES( 9):★TAO のヒーリング・ルーム----------<01> 93/07/14 - 040/044 MHD02672 TAO 健康という概念 ( 9) 93/07/13 22:46  「健康」とは具体的にはどんな状態を指しますか…?  こう問われて、即答出来る方は案外少ないのではないでしょうか。  「病気でないこと」「どこにも悪いところがない」といった否定形で  定義は出来ますが、では、否定形を使わないで定義すると?  健康とは、人間にとって最も望ましい状態であることは疑えませんが、  では、どういう状態を指して健康と呼ぶのかというと、結局上記のような  形容を選ぶ方が、大部分ではないかと思います。  しかし「健康」を何かのアナロジーととらえるならば、その語源から  ヒントは得られそうです。  聞くところによれば、英語の health(ヘルス) は heal(ヒール)=癒す から  来ており、そして heal(ヒール) は whole(ホール)=全体 から来ているそうです。  となると、「健康」とは、損なわれていない「全体」である、と解釈出来る  かもしれません。全ての部分が調和し、バランスを保って配列されている  「全体」。  ドイツの中世の修道女であり、神秘家でもあったヒルデガルト・フォン・  ビンゲン(1098〜1179)は独自の医療論を下記のように展開しています。   原罪によって損なわれる以前のアダムの姿は、神によって造られた   人間本来の姿であった。あらゆる自然は彼に働きかけ、彼もまた、   自然とともに、神に与えられたままの健康な状態を喜んでいた。   しかし、これがアダムとエバの反抗のときから、病み苦しむ、損な   われた人間の姿に変わってしまった。人間は苦しみつつ生きる者に   なったのである。そして、人間はいま、この苦しみのさまから救わ   れ、もとの姿にもどされようと助けを求めている。医療とはまさに、   この苦しみのさまを救いに転じようとする援助の業であった。        (『宗教学と医療』 弘文堂/監修:中川米造 より)  ここには、人間は原罪により病み、死ぬ存在になったというキリスト教的  観点が出ていますが、元来人間は、自然の秩序が働きかける「完全」な  存在(=ミクロコスモス)だったのであり、その自然の秩序が乱れた時から  病い、病気が出現したのだ、と言えるのでしょう。  人体の内部で、自然の秩序が理想的な調和を保っている時、「健康」という  状態が現れてくると言えるかもしれません。  アンドルー・ワイルはその著書「人はなぜ治るのか」(日本教文社/上野  圭一訳)でこう定義づけています。   <健康>とは<全体>である。−すべてを包含し、すべてがほどよい   秩序を保ってバランスという神秘な姿をとった、最も深遠な意味での   <全体>である。健康とは、単に病気ではないということではまった   くない。それは、人間を構成し人間をとり巻くあらゆる要素、あらゆ   る力が、ダイナミックに、かつ調和的に平衡状態にあることなのだ。  癒しとは、全体性とバランスを回復し、人間の本来の内なる調和を取り戻す  ための業なのでしょう。  TAO 042/044 GGD02212 Soo 大きな御世話ですが… ( 9) 93/07/14 03:01 041へのコメント  前略たまご殿  血液検査で肝障害の疑いが出たのですか?その歳で肝硬変はないと思います。 親が肝炎だったとか、ススキノあたりで酔ってどんな遊びをしたか覚えてない とかでなければBとかCの肝炎でもないでしょう。いちばん考えられるのは、 (例の写真から察するに)皮下脂肪と同様に肝臓がフォアグラ状態(脂肪肝) かと…その場合は飲酒の事も含めて食事療法…あ、あの写真は『着ぐるみ』で、 中身は天使とのことでしたね。どうも失礼しました。m(__)m 早々 Soo(スウ). - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/07/14 - 00441/00444 GGA02514 KAZE 懐かしの若き時代の悲歌^^; (13) 93/07/14 01:16 大学の頃使っていたドイツ語の辞書を見ていたら、 思いがけず、そこにほとんど記憶にない詩のようなものが書き込んでありました。 日付をみると、昭和53年5月8日とありますから、大学の3年のときのものです。 数日前から、その頃影響を受けはじめていた、松岡正剛さんの「遊」の 創刊当時のものから眺めてたりするのですが、それに関連して、 その頃考えていたことや感じていたこと、こだわっていたことなどを思い出すと、 ちょっと感慨めいたものがわいてきました。 ということで、自分の過去に乾杯!という思いを込めて、 その詩をここに記しておくことにしたいと思いますので、笑ってやってください^^;。 今はもうどこにいっているかわからなくなりましたが、その頃は こういう類の詩をたくさん書いていて、かなりの量になっていたはずなのです。 やっぱり、今読み返してみると、恥ずかし懐かし^^;って感じするんでしょうね。 テーマは5月ということで、ちょっと、季節は2ヶ月ほどずれますが・・・。 ************************************** 五月の悲歌 情念の曲がりくねる歩道に 悲鳴の転がる五月の嫉妬 夢見るアフォリズムの影は 危険な思念の蔓をおびき寄せながら 秘密めいた喉で空に抵抗する 肩をゆする滅亡の月に祈れば 六本指の一角獣に似せて創られた 白い花瓶のそばを不思議な口笛が飛ぶ 穴に落ちた三つ目の犬が泣く あるいは 野辺の火に追われ 歯のない悪魔が三番街の隅で笑う まるで よろめく波の残す幻 私 僕 俺 あたい あらゆる一人称の波に追われ 転がる五月 はねる指のまわりを しなやかに舞う五月の四散した夢 情念のころげまわる歩道に 一人称のよろめく影が長く伸びる ************************************** こういう詩を今書くとすると、どんな詩になるのでしょうか。 最近はめっきり素直になって、こういう言葉遣いをしなくなりましたが、 近々試しになにか書いて見ようかな、とも思ったりする郷愁のKAZEでした。 00442/00444 GGA02514 KAZE シュタイナー●霊的諸存在の働き/11講■第4回 (13) 93/07/14 11:35 ●ルドルフ・シュタイナー「霊的諸存在の人間への働きかけ」/第11講/第4回 ************************************************************************** >旧約聖書の族長の歴史に示されている人間進化の第二段階。 >その時代の記憶の対象は、個人ではなくあらゆる血縁関係であった。 >記憶は世代を越えそれを貫き、血縁を通じて、「命名」が継続された。 >「我と父アブラハムはひとつ」ということで表されるのは、 >個々の人間が、集合魂の意識、<父アブラハム>の中で守護されていると >感じていたことである。 >キリストは、人類に<われあり>を刺激する衝動を個人に流し込んだ。 >つまり、「アブラハムが存在する前に私はいた」。 ************************************************************************** 私たちは人間の進化の二番目の段階を観察することにします−−間の段階は省略しま すが−−その段階は、旧約聖書の族長の歴史に暗示されています。そこに本来根底的 にあるものについてはすでに触れたことがあります。なぜアダム、ノアといった族長 たちがそんなに長い間生きたのかということの理由について述べました。彼らは、こ うした人間の記憶が今日の人間のそれとはまったく異なっていたから長く生きたので す。今日の人間の記憶はまさに個人的になってしまっています。人間は、生まれてか ら−−多くの方はずっと後の時点からはじめて−−体験したことを思いだします。そ のころは、記憶の対象が誕生と死の間にある固有の体験であるように、父が誕生と死 の間で体験した事柄は、祖父や曽祖父のもった体験でした。今日の人間にとってはと ても奇妙に見えるのは−−それは事実なのだが−−個人にまさり、すべての血縁関係 を浮かびあがらせるそうした記憶の存在した時代があった、ということです。そうし た記憶が存在したことに対してどのような外面的なしるしが存在するかを自問すると すれば、ノア、アダムなどのようなそうした名前がまさにそれなのです。それは誕生 と死の間にあるそれぞれの個人のことを言っているのではありません。誕生と死の間 に閉じこめられた記憶をもっている人間が、こうした一個人に名前を与えたのです。 記憶が世代を越えて行く限り、世代を貫いて流れる血が伝わる限り、以前は命名とい うことが継続されていたのです。 アダムは、人がそれを思い出すことで長く続いた名前にほかなりません。命名という のが以前はまったく異なっていたことを知らない人は、こうした事柄の本質を理解す ることはできないでしょう。その古い時代には、まさにまったく異なって伝わる根本 意識が存在していました。先祖に二人の子供がいて、そのそれぞれにまた二人の子供 がいて、その次の世代にもまた二人の子供がいて・・・と続いていくことを考えてみ てください。そうしたすべての場合、記憶は祖先へと達することになります。そして 彼らはもう一度、いわばその上述のある時点で出会う記憶の中でひとつであると感じ ました。旧約聖書の民は、もちろんそれを口にだすことで表現しましたし、それは旧 約聖書のすべてのそれぞれの信仰告白者にとってあてはまりました。つまり、「我と 父アブラハムはひとつ」ということです。そこでは個々の人間は、集合魂の意識、 <父アブラハム>の中で守護されていると感じていたのです。 キリストが人類に送った意識は、それを越えていきます。自我は、その意識の中で直 接霊的世界につながっています。それは「アブラハムが存在する前に私はいた。−− あるいは<私はある>ということ」という文で表現されます。そこに、<私はある> を刺激する衝動がそれぞれの個人の中へ十分に流れ込んでいます。 (つづく) 00443/00444 GGA02514 KAZE 谷口正和●直観の原則 (13) 93/07/14 11:38 ここ数年来、その著書を通じて大変にお世話になっている 谷口正和さんの新刊が出ました。 ●谷口正和「直観の原則」(TBSブリタニカ) 著書は、「心の若者よ、自己内投資に賭けよ」というメッセージを呼びかけています。 今最重要の課題は、個人が内的に充実することであって、 社会を変革していくための行動も、その基盤となる認識の形成なくしてはならず、 その認識の形成のための「自己内投資」こそが急務だというのです。 我々は、内面的充実をどんどん深化していき、 「直観」を高めていかなければならない時代に来ていますが、 その直観の根源には、すべての物事に対して「なぜ」という問いを 持たなければなりません。 著者はそれについて、シュタイナーを引用しています。 一人の魂が哲学的衝動に駆り立てられているとすると、それは魂のもっとも個 的な部分である自我が、自らの宇宙的由来を思いだそうとしている 「なぜ」の根源には、私はいったいどういう存在で、どこからきて、 どこへ向かおうとしているのか、という問いがあるものと思われますが、 そのなぜに立ち向かっていくためには、 著者も言っているように「すべてから学ぶ」ということが必要だと思います。 この「すべてから学ぶ」ということは、 「立命」ということを基本としたカルマ論という、 宇宙を生きる大原則からくる大いなる要請でもあると、僕は思っています。 私が存在する意味は、「学ぶ」ということにあります。 その「学ぶ」ということによって、宇宙進化は深化していくのです。 学びのないところに深化はありえないと思うのです。 この著書の「直観の原則」には、それを学ぶための 全部で30のキーが紹介されていますが、 今後、この中から折りにふれて、いくつか紹介していきたいと思っています。 すべてのものから学び続ける姿勢をいつまでも大切にしていきたいKAZEでした。 - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/07/14 - 00898/00904 GBG02043 維/YUI 近頃の・・・ (14) 93/07/13 21:42 コメント数:1 宗教やら、なんやらのこと。 なぁぁんとなく、気がついてみると・・・ 近頃流行りだったチャネリングだぁとか・・・に、いろいろ首をつっこんでみたり、 足をつっこんでみたり、宗教者の言うことを聞きに行ったりしてみてた・・(チョットマエネ) なんと、すでに第3次世界大戦やら、ハルマゲドンやら、そういう人を脅かすたぐいの ことは、回避されている・・・っていうような、内容のものが多いのでした。 たとえ、天災で何十人死んでも、戦いで傷ついたり死んだりしても、それは過渡期の ことでいたしかたない・・・と。 それでも、救いはあり桃源郷が目の前に開けようと している・・・と。  そんな風なことを耳にしたり・・ね。 本当にそうだとしたら、ラッキーではあるけれど・・・。 ふに落ちない話ではあります。 だってさぁ、どう考えてもまともとは言えない世の中でさぁ・・・、そこにいる人も 反省してるかっていうと、かなり疑問だし・・・。 彼らの言うことは、”なるほど”って、思える内容なのかもしれない。 けれど、なにか”違う”気がする。 自分が生きることに、自信を持てず、そのあがきの中で・・・たとえば宗教やら チャネリングやらにであったとする。 そこでいきなり、救われている大丈夫なんだから、安心しなさい、 と、いわれて・・・安易にそれを信じた場合。 そして、なにか不都合なことが(自然災害にしろ、戦争にしろ、政治の乱れにしろ) 起きても、”それはあっても、なんとかなる”という基本ができていたら、 ”ああ、大丈夫、大丈夫 (^_^)” と思い込んでしまうことが”ない”とは、言えない 。 目の前で悲惨なことがおきても、”大丈夫”になってしまわないのだろうか?? 大なり小なり、宗教や精神世界に足を踏み入れてくるものは、心に傷をもっていたり することが、ほとんどのようです。 その傷の正当化を”大丈夫”がしてしまってることもあると思う。 あまりにも仰々しく”かみを信じなければ、地獄に落ちる!!!”とやられるのも 気分良くないけれど、反対に”もう、ぜったい平気! 信じて日々のお勤めをするの ですよぉ!!”っていうのも、いまいちふに落ちないのでした。                       なんか違うよねぇ・・。(- -;) 維/YUI。 00900/00904 KFD00473 たまご RE:神々の系譜。 (14) 93/07/13 23:43 00895へのコメント  >>>ソニック さん  初出のころとはずいぶん話ぶりが変わったねぇ.  いや,深い意味はないです.ただの感想です.(^_^;)    言葉ってすごいって最近特に思う たまご 00901/00904 KFD00473 たまご RE:「知らぬが仏」? (14) 93/07/13 23:44 00888へのコメント  「知らぬが放っておけ」?  気付け!  と叫ぶのは簡単でも,眠っている人を起こして気付かせるのは 大変だそうだよ.  それはさておき,寝た子を起こしてまで,それを気付かせることに いかなる意味があるのか,あるいはないのか.    なんてことは考えない たまご 00902/00904 NBB01420 SUKE RE:神々の系譜。 (14) 93/07/14 00:26 00886へのコメント コメント数:1  レスありがとうございます、HVHYぎちゃう!(^^)''   >現代の危機(喜ばしくない状態)を大きく反映しているのです。 (MES14 #886)  という、ぎちゃうの注目されたところには賛成です。鋭い看破ですね(^^;)...  >「存在する/存在しない」と「居る/居ない」は意味が異なります。(MES14 #886)  なるほど、無生物的な対象に「居る」とは言いません。「在る」と「居る」は違う  のですね。  しかし「居る」の反対語であるはずの「居ない」には、「存在しない」という響き  が含まれているように思います。例えば「ユーレイなんか居ない」という表現には  「存在への否定」が暗に含まれているのではないでしょうか。  (もっともこれは個人の言葉感覚の相違かもしれませんが(^_^;)...) =======================(・_・)========================  ARIONが言わんとする「最終的」状態というのは   >...「天使」を頼るような軟弱な生き方から脱却... (MES14 #886)  するだけではないように思います。  私もHVHYぎちゃうと同じく、神霊族が   >“「居る」と人間に言われる”ような現れ方 (MES14 #886)  になくなっても、神霊族自体は存在し続けると思っています。 が、それは我々の  日常から切り放されるということではないと思えます。  ARIONは局在ではなく遍在すると言われます。媒介者を通じたパソコン上の文  字としてでなくても、我々の日常のそこここに、彼らの存在を感じとれる人はある  と思います。その意味で、   >「居る」とはどんなことをしても確認出来ない在り方 (MES14 #886)  になっても、「居る」と誰もが感じられるように我々がなってゆくことが、即ち   >「...私の存在など必要なくなる....」 (I LOVE YOU 2 P175)  という言葉の意味ではないでしょうか。 =====================(-.-)y=゚゚゚ヨリミチヨリミチ================  では「在る」ではなく「居る」と感じとれるという状態では、神霊族の存在や彼ら  のメッセージが我々の心にどのような形で知覚されるか?  思うところのある方はいるでしょうか? =====================(^o^)===================  このメッセージの意味するところは、(変な言い方ですが)相当に最終的な姿では  ないかと思います。  まだまだそこまでは....でものんびりもしていられない....(-_-メ  いかがでしょうか??                     (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 00903/00904 GBG02043 維/YUI 伊達さん!! (14) 93/07/14 10:38 00899へのコメント RESどうも、ありがとうございますっ!  心に傷をもつ・・・っていうと、言い過ぎかな・・・・。 でもさ、まったく傷がなかったら、すごい!!!かもしれない。 傷が自分で癒せたとしても、記憶としての傷跡は残っているだろし・・・。 ん、でも、そういう言い方でなくても、心が弱い・・でも、空しさをおぼえて・・でも いいんです。 なにかしら、ひっかかったところが、意識的にしろ無意識的にしろ あったのではないか・・・ってところです。 ん〜、でもなぁ・・・お金を稼ぐためにあの世界へ足を突っ込んでる人もいますから、 ”ほとんど”ってのは、削除した方がいいかなぁ・・・。(^^;) そうなの!!!伊達さんが書いてる、他人に依存して安心をえるってのが、私には すっごく変に思えるんです。 なんか、ごまかしてるなぁ〜〜って感じ。 他人に依存しなければ、安心できないとしたら、その人がいなくなったらまた次の そういう人をさがす・・・ってことになるのでしょうかね?? どうなんでしょ・。 自分の足で立って歩けなければ、一人前になったことにはならないのに。 それとも、一人前になる・・・なんていうのが幻想なのかしら?? 一人前の人が、お互いに協力してなにかを創造していくから、進歩ができるんでは ないかなぁ・・・って、ずうっと感じて来ているのです、私。 でね、”他人に依存”したくて(表面上は、私は自分で頑張ります・・といっても) ある宗教団体にはいった人をみていると、とにかく代表の人から言われたことは、 なんでもありがたくって、そのまんま丸暗記ってくらいにおぼえるわけです。 で、その内容に対して質問をすると、”わたしにはわからない。まだ勉強中なんです もの。”なんていう返事がくるの。 勉強中なのがいけないんではなくて、まだ わからないことを、どうして人に伝えられるのだろうか・・って、不思議に思ったわ けです。 勉強中なら、その範囲で人に伝えられることがあるだろう・・って。 それを越えて話したとしても、説得力も薄れるし、間違って伝わってしまったら どうするのだろうか・・って思ってしまう。 その団体、女の人が多くてね、おばさまとかお嬢様みたいな人が・・・。 妙に素直で、妙に丁寧な感じのする会。 そのくせ、それぞれの目立ちたい心やら ちゃんとしている人にみられたい心ってのに、ふりまわされてるところもあって・・。 そこになんのうらみもないんだけれど、なんか変だよ〜〜〜って言いたくなってしまう。みんなが・・・ではないけれど、私の目に付く程度には、自分で考えるのではなく 言われたままに行動して、それで安泰な気分になっている人が多い・・・って気がした。 まあ、たとえばARIONさんのいってる事にしてもね、本当にわかるまで自分で 探していかなければ、上記の信者さんと一緒だろうし・・・。 反対に上記の信者 さんでも、自分で自分のものとしてつかんだものをもっている人もあるわけですが。 予言解読・預言解読にしても、解読してこうである・・・ってわかっただけじゃ しかたがなくって、やはり自分がどう行動し生き抜くか・・なんですよね、きっと。 解読しても、個人の手にはあまることもあるし、それよりも最低限自分のことくらいは 自分で責任をもてる・・ってならなきゃ・・・。 あら、長くなってしまいました。 読み返すと、ただの愚痴だったりして・・・(^^;) これにこりずにまた書いてください〜!!                          維/YUI。 00904/00904 GCC01413 HVHY RE:神々の系譜。 (14) 93/07/14 14:52 00902へのコメント  −−−−−−−−−−−−−−> SUKE さん  素早いRESをどうも!  |が、それは我々の日常から切り離されるということではないと思います。  その通り。「切り離される」どころか「一体化」してしまうのです。  「一体化」と言うとオカルト通俗っぽいですが、 >> 人間と遍在するエネルギー存在の交流(或いは循環)が旨く機能していれば、 >> そのエネルギー存在が殊更に「客体」として意識へ上ってくることはない。 >> “日常生活のダイナミズム”そのものが全て…といった様相を呈するだろう。  というぐらいの意味合いです。但し、  ここに書いた事柄が文字通り実現した状態においては、  人間と神霊族それぞれの存在形態に若干の変化が伴っているかも知れません。  |媒介者を通じたパソコン上の文字としてではなくても、  |我々の日常のそこここに、彼らの存在を感じとれる人はあると思います。  もしも現在「彼らの存在を(明確に)感じとれる」とすれば、  それは「彼らが(理由があって)自ら客体化して迫ってきている」からでしょう。  そのこと自体が既に現在の特殊な状況を示しているわけです。  |「居る」と誰もが感じられるように我々がなってゆくことが、即ち、  |> 「...私の存在など必要なくなる....」(I LOVE YOU 2 P175 )  |という言葉の意味ではないでしょうか。  したがって、 >> “「居る」と誰もが感じられるように我々がなってゆく”  という方向は、現状を乗り越えて行く一つのパラダイムとして、  過渡期的には正に必要なことかも知れませんが、(※現在までの歴史認識の意味)  長いレンジで見れば“定常的理想状態”とは言えないと思います。  やはり、「居る」と「在る」とは大違い、ということでしょうか?  いずれにしても、まだ旨く説明出来た気がしないので、  このことに関しては、機会があれば、また触れたいと思っています。                                  HVHY - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 93/07/14 - 298/300 QFG02515 めるく RE:命を大切にしましょう (15) 93/07/14 12:23 296へのコメント  「なぜ命は大切なの?」  なぜなら、それが存在であり、それが生命だから。  あるいは、大切だと感じることのできる自分がいるから。  そして、きっときっと、  そう感じているのは自分一人じゃないから。  「死にたくないと思う?」  永遠に生きていたい、ということではないけど、  とりあえず今は、死ぬより死なないほうがいい。  今はどちらかといえば、死にたくない。  「では、なぜ死にたくないの?」  もったいないから。  「自分が死にたくないのは分かったけど、   では、他の人にも死んで欲しくないのはなぜ?」  もったいないから。  松川 貴さん、こんにちは。  私は、「決して説明出来ない」とは思いません。ただし、他の人にその説明が理 解出来るかどうかは保証の限りではない、ということになりますけど。  そういう視点から、一応私なりの考えを、あらためて書いてみました。  「命を大切にしましょう」と口先だけでペラペラしゃべってばかりというのは、 私も好きになれないと思うことはあります。心のどこかで、「大切にしなくちゃい けないんだ」と闇雲に信じこんでいる自分がいて、しかしその一方で、大切にして いない自分がいたりする。という、そういう人は「命を大切にしましょう」と口走 ることによって、自分は命を大切にしない側の人間ではなく、する側の人間なんだ と思い込もうとするんじゃないかな。  そういうわけで自己どうちゃくみたいな発言は見苦しいけど、ビートたけしの発 言は単なるイタズラ根性じゃないかって気がします。  「私には分かりません。ですが、死にたくはないのです」  なんて言うつもりは、全くありません!  なぜ、そう言うことが素直なのだと思うのですか? 私はその言葉を素直なもの だとは感じませんでした。                           め る く 299/300 QFG02515 めるく RE:命を大切にしましょう (15) 93/07/14 12:23 294へのコメント  こんにちは、伊達邦彦さん。  一人ひとりが、素直な気持ちで、命を大切に思えればいいんだけどね。  命を大切に思う、という思いを伝えられたらいいんだけどね。  口先だけじゃ伝えられないのは、実証済みですね。  ではどうしたらいいんだろうか。う〜ん。                          め る く 300/300 GFD00204 松川 貴     RE:俳句の話 (15) 93/07/14 14:15 297へのコメント  ナガトさん  今ここで一茶という名前を聞くなんてなんという不思議でしょう。維さんへのレス (#285)に登場したサリンジャーは大の一茶ファンだったからです。  彼は一茶についてこう書いています。  かの偉大なる一茶は喜々として庭に一輪の牡丹があると助言してくれる(それ以上  のものでもなくそれ以下のものでもない。われわれ自身が一茶のいう牡丹を観にい  くかどうかは別の問題なのだ。名前をあげるわけにはいかないが、ある種の散文作  家や西欧のへぼ詩人とは違って、一茶は警察のようにわれわれを規制しはしないの  だ)。まさに一茶の名を口にすることは、わたしに真の詩人は素材を選ばぬという  確信を与えてくれる。明らかに素材が彼を選ぶのであって、彼が素材を選ぶのでは  ない。大輪の牡丹は一茶にしか現れないのだ──蕪村にも子規にも、芭蕉にすら現  れない。(『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア─序章─』P134)  奇妙な話です。サリンジャーは一般の日本人よりもずっと一茶のこと、そして俳句 のことを知っているように見えます。(大抵の人はサリンジャーと聞くと、「あっ、 『ライ麦畑でつかまえて』でしょ」と──一度も読んだことのない人まで──答えま すけれど、彼の真価はそれ以後の小説群にこそあると私は思っています。)  私自身について言えば、とくに好んで一茶の俳句を楽しんできたということはあり ませんでしたから、彼の俳句について私の知っているのは、学校の教科書でおそわっ たほんの二三のものに過ぎません。  今回一茶がこのような死にまつわる句を残していたということを知って驚いた次第 です。──再びナガトさんの書き込みに対する私の牽強付会になってしまうんですけ れども──、  シーモアは自殺した日の午後、ホテルの彼の部屋の備えつけ吸取り紙に、きちんと  古典様式の俳句を書いている。わたしはそれを字句どおり翻訳するのをあまり好ま  ぬが──彼は日本語で書いていたのだ──その中で、彼は飛行機に乗った小さな女  の子のことを手短に語っている。(前掲書 P146)  小説の中での出来事ではありますが、ここでも死と俳句が結びついています。(シ ーモアの自殺は『ナインストーリーズ』所収の一編「バナナフィッシュにうってつけ の日」の中で起こりました。)  サリンジャーはどうも輪廻転生を信じていたようです。「シーモアはかつて日本の 禅僧だったことがある」などと書いていますから。また別のところには、  事実、弟のウェーカーは、シーモアがもっとも効果的な詩の多くで、ベナレスの準  郊外や封建時代の日本や巨大都市アトランティスにかつて存在し、とくに記憶に値  するさまざまな生活の興亡を語っているのではないかと主張している(彼のいる修  道院の院長がそれを嗅ぎつけないように祈ろう)。(前掲書 P146) と書いています。  このようにサリンジャーの書く小説は、当時のアメリカの主流文学の基準からどん どん離れていってしまいました。そういうわけなので、彼自身この小説の中で「わた しはここで筆を止めて、読者に手を引く機会を与えたい」と何度も言わなければなり ませんでした。  それにしても、維さんへのレスにサリンジャーが飛びだして来たことに、実は私自 身が驚いていたんですけれも、すぐにナガトさんに対しても──別の側面から──そ うなるとは思ってもみませんでした。  私も最後に、一句(サリンジャー『フラニーとゾーイー』新潮文庫 P194より)  カタツブリ ソロソロノボレ フジノヤマ   一茶  それでは、また。                                   松川 貴 - FARION MES(17):★パワフルなえ★の《おふくろ通信》--<01> 93/07/14 - 479/481 KFD00473 たまご RE:元気録ぱわー《言いたい事》 (17) 93/07/13 23:44 478へのコメント  言いたい事は,はっきりいっちゃおう!  そのココロは言わないで後悔するより,言って後悔した方がいい?  いやいや.  言っても後悔しないように言うのが大事.  そのためにはただやみくもに言うだけじゃ駄目.  よく考えて.心をこめて.元気よく.思い切って.  そうしたら,いっちゃおう!  言ったことに責任を取ろう.  責任は後悔しないってことでどうだろう?  そのココロは後悔するくらいなら言わない方がいい?  いやいや.  でも,それもひとつ選択だよ.     たまご 480/481 GBA01276 しまうま RE:元気録ぱわー《言いたい事》 (17) 93/07/14 01:09 478へのコメント  コホン。  では、お言葉に甘えて・・・。  おめーなぁ、自分の基準が全部まっとうなもんだと思ってたら大間違いやぞ。  「人が何を言おうと俺はこの道を」っつーのは、大多数の場合ゴーマン以外のな にもんでもないと思うね。「ひょっとしてオレ、なんか間違ってねぇか?」とか感 じたことないんか、このニブチン野郎!  おめーは自分のことすっげーエライやつだと思ってるようだが、実はただの寂し がりやサンだね。それから根本的に自信もないね。人に見てもらって「うんうん、 そうだね」って言ってもらわなきゃ安心できないんだろ?  結局おめーは「自分」にしがみついてなきゃ生きていけないのさ。・・・違うという なら、何のためにお前は自分を捨てられる? 事態に直面しないうちに、ジックリ 考えておくことだね。  以上、自分自身への私信でした。失礼をば。            しまうま