- FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/10/02 - 01408/01411 QFG02515 めるく RE:納豆と生まれてくる子供の生命 ( 7) 93/10/02 04:34 01365へのコメント  こんにちわ、星也さん。  レスおくれて、もうしわけない。  私には、納豆を食べることが、どうしてもヤバンだとは思えませんでした。  納豆好きだもん。  納豆菌が生きていることを想像したって、気持ち悪くならないよ。  喜んで食べちゃう。  生きているからヤバンだとか、  食べるためとはいえ殺したのだからヤバンだとか、  そういう考え方は、私には受け入れられません。  (野蛮という言葉を「良い意味」で使ったのなら別ですが)  この豚肉も、まえは生きていたんだなあ、とか、  想像しながらでも、食べられるけどなあ、私は。  まあ、豚さんを自分で殺して食ったことはないが。 >>野菜サラダは、新鮮な草木の手足を食するも同じだ。  「手足」という言葉を用いることによって、  人間の手足がもがれるとこを、想像させようとしているの?  だとしたら、それこそヤバンじゃない?  人間を食べるのは共食いだから、本能的に拒否反応を示すのが、  あたりまえではないかと思う。  生き者を食べるのが野蛮で嫌なら、  プラスチックでも食えばよかろう。                          め る く 01409/01411 QFG02515 めるく RE:そのこのいのちはどこにいくんだろう ( 7) 93/10/02 04:36 01374へのコメント  こんにちわ、星也さん。  話題もずれるので、コメントは分けることにしました。  こっちが本題です。  私が一番言いたかったことは、     人は、自分の感覚や感情を、普遍的なものだと勘違いしやすい。   そしてそれらを他人にも押し付けようとしてしまう。   一見、相手の気持ちになっているように見えても、   実際には、自分の過去の似たような体験を思い出しているに過ぎなかったり。   勘違いやすり替えは、当然誤った判断の原因になりやすいから、   気をつけた方がよいでしょう。  ということなのでした。  無脳児の話に当てはめて言うならば、  そのことによって不幸になる者がいるとすれば、  それはまず母親の人やあなたでしょう。   (注意:念のために補足しておきますが、これは、「もし〜ならば」という       仮定での話であり、実際に不幸なのかどうかは、私は知らない)  その不幸についてなら、あなたは言えるでしょう。  でも、その無脳児の人ほんにんの幸不幸について、  いったい何が言えるというのですか?  言えてせいぜい、当てずっぽのレベルでしょう。  ということです。  星也さんの書き込みは、私には、  「おまえも苦悩しろ」  と言っているような気がした。  そういうつもりかどうかはしらないけど、  私はそう感じた。  感じすぎですか?                         め る く 01410/01411 GHF01210 Zap! 容赦ないしつもんですね ( 7) 93/10/02 05:01 01397へのコメント コメント数:1 》その話、どこかで聞いたことあるのですけど、”オラン”が森で、”ウータン”が 》人でしたっけ??? やはり手抜きをしてはいけませんね(^^ゞ オランウータン Orang-Utan はマレー語で、 Orang 「人」とUtan 「森」の合成語です。 漢字では猩猩ショウジョウと書きます。 オランウータンは群れを作りません。 雌のまはりに小さな子供がゐる他は 皆個体でバラバラに住んでをります。 01411/01411 GBG02043 維/YUI RE:容赦ないしつもんですね ( 7) 93/10/02 08:21 01410へのコメント ども、ども・・Zap!さん。 よかった、きいといて・・・ (^^;)アハハ・・・ ありがとうございましたっ!!  m(_ _)m 維/YUI。 PS: 著美さんも、おしえてくれたんだよね〜!!(^_^)V どうも、ありがと。 - FARION MES(17):★パワフルなえ★の《おふくろ通信》--<01> 93/10/02 - 633/633 JBH02324 なえ RE:今夜は満月 (17) 93/10/02 10:48 631へのコメント 土地ところで見えようも様々なので、致しかたないですね。(^^; ちなみにあたしゃ、雲の影からチラ・・と見て、7時の*HKニュース で晴れ間の月を見たの。 今年は雨が多い年だもんねぇ。仕方ないわねぇ・・。(;_;) - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/10/02 - 01412/01413 GDB00064 オリハル RE:0921の日 ( 7) 93/10/02 11:25 01400へのコメント /どうも、しまうまさん。 | オリハルさんを“もし”きらいになったとしたら、それは「そっけなく扱われた |から」という理由だと思います。けどこれも「僕が感じただけ」なのかもしれませ ちょっと、この場合は、私には理解できないのですが。しまうまさんと私の間に何があ ったのでしょうか? 私が人を嫌いになるのは、長期に渡る、私個人に対する執拗なも のがある時なのですが、しまうまさんは「そっけなく扱わ“れる”」だけで嫌いになる んですか? 私は人からそっけなく扱われると、解放されたような気分になって、自由 を感じるのですが。つまり、つきまとわれていないと分かるからです。  私は、どのようにしまうまさんに対してそっけないですか?  具体的に教えて下さい。個々の私の文章なり、事例なりを挙げてどのように感じたの か教えて下さい。 |失礼なことを言ってしまったのは僕のほうだなあと、今は思います。「オリハルさ |んは、強固な固定観念の持ち主だから云々」ということを、14番会議室で言った |覚えがあります。 | どうもすみませんでした。ごめんなさい。 別にしまうまさんは私の人生に対して損失を与えたりしていませんから、それほど深刻 な事態ではありませんので、御安心下さい。 | とのこと。実にうらやましいです。僕なんて嫌われ者のいじめられっこでしたか |らね、子供の頃はずっと。 え? 嫌われて、いじめられっこだったのですか? 具体的にどんな風に? | ひょっとして今回の僕もその“つきまとっている人”に該当しているのでしょう |か(^^;)。 いえいえ、ちょっと私の表現が考慮不足だったです。上記に書きましたように、しまう まさんではないですから。私はしまうまさんには「主張する青年像」を感じますが。 || 「しまうまへの返答だから特に突き放したわけではなく、つねにそういう言い方 ||になってしまう」という意味でしょうか。 | |そうです。と言いっ放しだと、「つねに」という部分が強調されるのでしょうか。 |しまうまさんの良識はどのくらいの範囲をカバーするのだろうか。 「そうです」と言っただけでは、私のことを「つねに」そういう言い方をする人間だと 心の中で断定を下し、何かにつけてそれを強調して迫って来るのかなと思った訳でした。でも、しまうまさんは、いじめられっこのほうだから、私とはそれほど感覚が離れてい るわけではないと思いますが。私は思考的な面では「常識」、感情的な面では「良識」 という使い分けをしています。そういえば、「良識」という言葉は社会的な感覚もあり ますね。大人、子供の区別観念と結びつくような感じですね。 | なぜいきなり「良識」という言葉が出てきたのかよくわからないのですが、僕に |とっての「つねに」という言葉のカバーする範囲は、「特に何の感情も抱いていな |い相手に対するときは」というくらいの意味あいです。 なるほどね。分かりました。 | 「何かしら特別な感情を抱いている人」への接し方と「そうでない人」への接し |方は、たとえ無意識にせよ、変わってきますよね? 少なくともまったく同じでは |ないと思います。 そうですね。以前の私はそれを「全く同じ」にしていたりします。自他の区別も彼も我 もありませんでした。そういうようなことは徹底的にやりましたので、満足してます。 ですので、人に対してそうすべきだ云々とは言わないでしょう。もう、そういうことを 課題とは感じていないからです。まあ、(しまうまさんのことでは今の所ないですが) しつこくつきまとう人には言うかも知れませんけど。                                 オリハル 01413/01413 HGE03563 SONIC RE:そのこのいのちはどこにいくんだろう ( 7) 93/10/02 12:45 01409へのコメント 僕のかんでは、 生死の問題はいわゆる感情的な「胸に突き刺さるような痛み」で感じる類のものでは 無いと思う。歌謡曲で唄われているような、 「胸の痛み」なら涙が癒してくれるけれど・・。 実際に無脳児出産に立ちあったら、自分なら、「茫然自失」とか、 「失意のどん底」とか、”腹”で感じる(?)痛みになると思う。 自失=自分を失う・・意がくじかれる・・のであるから、 お先真っ暗となって、愚痴の一つや二つくらい出るであろう。 感情的でないゆえ植物の生命についてとか、いろいろ哲学的考察が可能になるんだ。 プラスチックだって生きているゆえにプラスチックとして存在できる。 ぼくの場合は、「失意」の状況に陥った場合、涙は出ない。 やる気無くして布団をしいてばったり寝込むんだ。 あと、豚さんが殺される刹那の断末魔の叫びは、「肌で感じる痛み」。 自分の肌に直接”痛み”や血の吹き出る様子がリアルに再現されて、 苦しくなるんだ。これが感じられるようになると、肉は”キモチ悪クテ”食えなく なってしまう・・。 植物は痛みを訴える自己表現出来ないので、 植物を食べる際は自分はそう神経質にならない。 「苦労」を知らない人は、「骨身にしみる痛み」なんて理解出来ないんだろう。 頑固ゆえの「孤立」を知らない人は、自分が癌細胞になっていきそうな気持ちなんて わかんないんだろう。 ・・・要するに感応力がないと、「痛み」も感じられないんだ・・! 01414/01414 SDI00635 みれ RE:納豆と生まれてくる子供の生命 ( 7) 93/10/02 14:08 01365へのコメント  #01365 星也 さん  この間、NHKで納豆と乳酸菌の話をしていました。  納豆って成人病予防になるんだそうで、納豆を食べた人と食べない人の 血清をそれぞれ、血栓(人工的に作ったらしい(^-^;))に滴らしてみたら 納豆を食べた人の血清の方は、血栓を溶かしているのがハッキリと映され ていました(゚o゚;)!ビックリ  あの放送以来、納豆はウチの冷蔵庫に必ず居るヤツになりました(笑)  で、思うに納豆菌が生きていることを考えるならば、乳酸菌や人間のお 腹の中にいると言われているビフィズス菌だっけか、そゆ菌のことも考え なければ…と。自分のお腹の中に生きている多くの菌、大腸菌なんかもい るわけだよね…大腸菌がやられるかも知れないから、ビフィズス菌を含む ヨーグルトは食べない…とか思う人っていないと思うんだよね。  あれ?オチが判らなくなってしまった(^O^;) ・:*:・みれ・:・。,★ - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/10/02 - 00709/00709 GGA02514 KAZE 自由・平等・友愛 (13) 93/10/02 12:01 00706へのコメント 隆ちゃん、どうも。 ここんとこ、仕事の方で修羅場が続いていましてレスが遅れました。 やっと昨夜出張からも帰りまして、やっと一息つけたところです。 しかし、締め切りに追われるのはいつもながらつらいものです。 どちらかといえば、案山子のように動かないことが大好きなのに、 こうして結構動きまわるのは、やはり破壊数の愛(^^;;なのでしょうかねぇ。 隆ちゃんにとって「母親」と「静岡県」は相性の悪いものの筆頭なんですか。 こうした「相性の悪さ」というのは、ひとにはわからないんですが、 誰にでもこうした苦手というのはあるようですね。 しかし、そうしたことがないと人間というのは、惰性に流されてしまいますから たまにはそうした苦手にあって、やれやれというのも必要なのかもしれません。 もちろん、必要だということがわかるとしても、 それが辛くないかといえば、やっぱり相変わらず辛い訳で、 「良薬口に苦し」というのもなるほどと思うのであります。 ま、苦手というのは、なぜ苦手なのかという原因をはっきりさせないと、 それをちゃんと認識できませんから、つらいけれどもがんばりたいものです。 >最近思うのはスタティックになると「心地好く」なくなるということです。 >止まっているというのは実に不愉快な状態で、振動しているというか、絶え >ず動いていないとダメなんですね。 そうですね、例えば僕のハンドルネームのKAZE(風)ですが、 これは、止まってしまうともはや風ではないから、 たえず吹きわたっていなければならないということでもあり、 一応そういうことも考えて、このネームを選らんだのでありました(^^)。 中心というのは、スタティックであってはいけないけれど、 またあまりにブラウン運動しても「心地好くなくて」いけないわけで、 MRTの「中心感覚」というのは、そうした意味で、 ダイナミックでありながら調和のとれたあり方をめざすものなんでしょうね。 >組織は自然発生するべきものだと僕は考えています。学校も「作る」のではな >くて「できる」というのが理想的だと考えています。 つまりは、「自然(じねん)」ということで、 禅の十牛図の第9の「返本還源」というあり方に近い考え方ですね。 もちろん、それはある種の理想ではありますが、そこに行き着くまでの 試行錯誤というプロセスというのは必要なのかもしれません。 「汝自身を知れ」ということにしても、「おのずと知れる」までには、 通常は、十牛図のようなプロセスを辿らざるをえないわけで、 そうでなければ、「組織」にしても、「自覚的」なありかたはできないわけです。 たとえば、蟻塚というのは、「作る」のではなくて「できる」のですが、 そこにはアリさん一匹一匹の自覚というのはないように思えます。 蟻塚のような意味の組織というのはやはりダメだと思うんですね。 あくまでもアリさん一匹一匹に自覚のある「自由な」相互ネットワークを 基盤としたあり方でなければなりません。 シュタイナーの宇宙進化論におけるこの地球紀の進化プロセスというのも、 そのひとつは蟻塚のアリさんに自覚をもたせるということでもあるわけで、 やはり「自然(じねん)」を理想としながらも、 そこに至るまでのプロセスというのを、悩みながらも楽しみたい(^^;;、 と思うのですが、どうなんでしょうか。 >「法のもとの平等」と言っても「法」が問題だと思うのです。この「法」が >「因果応報」であったり、宇宙に流れる「法」であったなら「平等」もわか >りますが、誰かが作った「法」であったらどうだろうかと思ってしまうので >す。 「法」とひとくちに言っても、確かに「宇宙の法」と「国家の法」とでは、 ちょいと違うというのは、現実だとは僕も思います。 シュタイナーも、究極的な意味で「社会有機体三分節」を言っているのではなくて 現代社会のあり方をベースとして、「平等」「自由」「友愛」のことを 実際に適応させるためのシステムを模索していたのでしょう。 ただ、「宇宙」というのは、ある意味で「平等」「自由」「友愛」によって 成り立っているともいえないでしょうか。 そして、その「法」の部分の三次元的な対応として「国家の法」ということを 考えてみれば、やはりどんなに歪なものであったとしても、 「法のもとでの平等」というのは理想として掲げられなければならないでは、 と僕には思えるのですがどうでしょうか。 ここにも「試行錯誤のプロセス」の必要性というのがあるのではないでしょうか。 「誰かが作った」という作為ではあるけれども、 その「作為」こそが必要なプロセスなのではないかと思えるのです。 そういうふうに考えていくと、いろんな人為による悲惨な状況はありますが、 そこに、宇宙の根本にある原理としての「平等」「自由」「友愛」が、 カルマ的な愛として輝いているのが見えないでしょうか。 それこそが「宇宙は愛そのものである」とうことでもあると思うのです。 >最近の「差別用語」やら「放送禁止用語」などの言葉の規制がとても不愉快で >す。新聞に「障害物競争」の障害が身体障害を連想させて不適切だから名前を >変えるとかいう記事がありました。 そういう「逆差別」現象というのは、実際のところ単なるアホに過ぎません。 「臭いものに蓋」という「逃げ」の考え方でもあります。 しかも、その「臭いもの」というのは、「逃げ」ている方々が、 自分で「臭いもの」だと勝手に作り上げたもので、 実際のところ、臭いものでもなんでもないものなのです。 そうした、ほとんどアホの一人遊びに付き合っていられるほど、 人生暇じゃあないぜ!というふうに、呆れ返るしかないのですが、 例の衆愚的な民主主義のように、アホは考えなくて騒ぐだけ、ですから、 ほんとうに困っていまいますねえ。 問題は、ちゃんとした人間学が必要だ!ということなのですが、 そうした人間学からもっとも遠ざかっているのがそういう「禁止主義」で、 なんともはや、「バカも休み休み言え」といいたいところです。 >極端から極端へ変動するしかしょうがない現状ですが、その振動が減衰して >行って、「中」の位置で穏やかに振動しているようになればありがたいです。 もちろん、「極端から極端へ」というのは避けたいところですが、 その「振幅」をエネルギーとしてなくしていくのがよいかどうかは、 わからないのではないでしょうか。 もちろん、その「極端」ということはなくしてしまった方がいいけれども、 その「極端」をメタモルフォーゼさせた高エネルギー状態であれば、 その「振幅」と、そのダイナミックな「中」ということは、 必要ではないかと、僕は考えているのですが・・・。 >子供のためにも親はできるだけ正しくあらねばならないわけで、これが結構大 >変なのですね 実際のところ、「親」というのは「正しい」だけではだめで、 おそらく「仁」「義」「礼」「智」「信」という5つの「徳」あたりは、 理想的に兼ね備えている必要もあるようで、ものすごく大変です(^^;;。 がんばってくださいね(^^)(^-^)(^。=)。 ま、そんな難しいことは人間なかなかできませんから、 基本は「母」においては「愛」、「父」においては「敬」という ふたつのあり方を基軸にしていればいいかなというのが、 日本などの比較的伝統的な教育理念ではないかと思います。 >破壊数に関してはまだ何とも言えませんが、命という事を考えると「自由意志 >による条件の克服」は納得です(^^)。吉凶という観点で考えると開運法という >ものがありますが、吉凶をどうとらえるかはその人の考え方次第です。 僕が、占いの原理にはとても関心があるのにもかかわらず、 実際の吉凶云々とうことにはほとんど関心がないというのは、 そこらへんのことなんです。 要は、自己認識を深めるためのきっかけとして「破壊数」的なものはあるわけで それがいかに苦しくとも、それを超えていくことでしか、 自己認識が世界認識であるということにはなかなかならないわけです。 で、もしそういう方向性なくして、占いの吉凶云々について 「知ろう」とすることは、自己認識からの逃避ということになります。 「開運」というのもそれはそれで素晴らしい観点なのですが、 それが自己認識とつながらないとしたら、 やはりそれは「黒魔術」に他ならないと思うのです。 世には、自分では「黒魔術」ではないと思っていながら、 実のところ「黒魔術」以外のなにものでもないという占師などが多いようです。 もちろん、往々にしてそういう方ほど「知的には高い」ですから、 よけいにそういう方の言動というのは影響力をもってしまいます。 僕がわりと占いに関することで、たまにシニカルになるのは、 そういう片寄った黒魔術的なあり方への警鐘ということなのですが・・。 ま、ここらへんはわりと判断がつきかねる部分でもありますから、 説明するのが、なかなか難しいですね。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 93/10/02 - 349/349 GFD00204 松川 貴     RE:林房雄? あのハヤシフサオ? (15) 93/10/02 12:44 348へのコメント  ナガトさん  私は「心霊的な〈世界観〉の影響があった」という話をしていたんではなく、「心 霊的な〈世界〉からの影響力があった」という話をしていたんです。そういうわけで すからナガトさんはそもそもの話の発端からすでに誤解をしております。  ナガトさんはいつも民族(あるいは国民)とその民族内部に存している個人の人格 から離れられないでいます。民族と人格を持った人間同士の激突の世界から離れられ ないんです。だから、私の話をそのようにしか受け取れないんです。  私はここで今ナガトさんに心霊的なことを話しても、おそらくナガトさんには殆ど 理解することができないだろうと考えております。私はナガトさんの心からは、心霊 的世界へ至る内的動機を見い出せませんでした。これがいずれ人格を超えて存する神 的世界を理解するようになるための非常に大きな要因になるからです。  私は心霊的世界観の披瀝や体系化のためにこの会議室の議長をしているわけではあ りません。私はただ私の学んだことをぽつぽつとしゃべっているだけです。ホラとハ ッタリを交えながら。  私がこのフォーラムにやってきたのはほんの偶然なんです。サムライ話を始めたこ ともそうです。二十代前半より始まった神秘主義への傾倒を除いて、私がここで話し ているようなことはすべて私が通信を始める以前には(91年6月からです)興味を 持って調べたり考えたりしたことのないようなものばかりです。 「これまでのシュタイナーなどへの言及も拝見してはいますが、それが林の思考とど う関わるのかは、私にはよく理解できませんでした」とありますが、私は林さんの思 考の話をするためにシュタイナーに言及したのではありません。やはりナガトさんは そもそもの初めから、違うことを自分の念頭において私の文章を読んでいるに違いあ りません。私は林さん個人には──たとえ彼個人が左翼人から天皇崇拝者に回帰しよ うがしまいが──何の興味もありません。ナガトさん御自身がそれに過剰に反応され ているんです。  私が林さんの本をここで紹介したときに、これを初めて読む人にくみ取っていただ きたいと思っていたことのひとつは、先の戦争は、明治維新の動機の帰結であったと いう点です。  また、私の言う〈発見〉とは、あの本に引用されているたくさんの文献類のことを 指してそう言ったのです。(例えば、「後に日本の国旗となった日の丸の旗を考案し て、『日本国総船印』としたのも彼(島津斉彬)である」などという記述を読むと、 恥ずかしながらそんなこととはつゆ知らなかった私は、「うーむ、日の丸の起源とい うのは皇室にあるんではなくて薩摩にあったのか」という具合に私はびっくりするわ けです。)  「明治維新によって日本が刷り込まれた価値観----生き残るためには何をしても許 される、という価値観」というナガトさんの過激な発言(カマし過ぎです、ナガトさ ん)、これは、ナガトさんの個人史のよって立っている背景を知ることなしには、素 直に受け取りかねます。おそらくナガトさんの林さんへの激烈な対応ぶりもナガトさ んの個人史に起因しているに違いないと私は感じております。  ナガトさんは、御自身がたえずそこへ帰還していかざるを得ない、とてもデリケー トな自己の心の領域から──でもそれはまるで煮えたぎる憤怒の沼のように見えます ──言葉を発していらっしゃいます。ナガトさんの内なる感情は一時もそこから離れ ることができないみたいです。けれども、ナガトさんはそれを意識的にコントロール することができません。それが結局私の話を別方向へとねじ曲げてしまうんです。  例えば、私が「勇気という徳を失ったのは」というふうに勇気について話していた 部分を、ナガトさんは「日本人が徳を失ったのは」というふうに徳一般の話に変えて しまいました。ナガトさんの思考は絶えず自己の感情の引力によって別方向へねじ曲 がっていきがちです。  「いまの若い人たちが一方的に左翼的階級闘争的な歴史観を刷り込まれている」と いう箇所ですが、私はそのようなことは言っておりません。左翼的思考から発した独 特の思考形式とそれに伴う感情形式で私たちはしゃべるようになっていると言ってい るのです。敗戦ショックと先の戦争に対する日本人の自責の念がその土壌を提供しま した。日本の左翼人たち自身はこのようなことに気づいておりません。それは彼らの 意識上の政治意志とは何の関係もないのです。  ところで、ナガトさん御自身は左翼の思想をどのようにお考えになっていらっしゃ るのでしょうか。これはほんのちょっとでもよいですからお聞かせ下さい。                                   松川 貴 - FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 93/10/02 - 00878/00879 KFD00473 たまご RE:捕まりました(^_^;) ( 2) 93/10/02 17:55 00876へのコメント  それにしても,付近の駐車違反の車はレッカーされていないのに, そこに止めてあった3台だけレッカーされるなんて世の中不思議. 交差点の中に堂々と止めてあっても通報されなければ,持っていかれ ないなんてね.  変な話だなぁ.  ところで,運の悪い同盟ですかぁ?(^_^;)>さはしさん  それよりも,日本経済に貢献する会というネーミングにしましょう.  ざまみろなんてほざいてる気持ちの小さい人なんかほっておいて. PS:同じ事故でも物損事故は違反点数も反則金も罰金もありません.    世の中って変なのぉ.(経験者は語る(^_^;)) 00879/00879 KFD00473 たまご 一周年 ( 2) 93/10/02 17:55  わたしが居酒屋にはじめましてと書いたのは,去年の9月29日の 事でありました.あれから一年たったんですねぇ.<勝手に感慨に浸る - FARION MES(11):★アキラの《平井和正*異界漂流》----<01> 93/10/02 - 101/101 NCD01751 しろおか 虎になってしまった m(__;)m (11) 93/10/02 18:00 ---->(#100) すみません、酔っ払っていました。m(__;)m<--(海より深く反省) - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/10/02 - 00710/00710 GGA02514 KAZE RE:はじめまして (13) 93/10/02 14:30 00707へのコメント YUIさん、どうも。 前回お話した、1年ほどまえにヘリゲルとドイツ神秘主義に関して発言した ものを探していましたら、ありましたので、 ちょっと長いですが、再掲してみたいと思います。 (92/03/23の発言×2です) ま、今から見ると、そんなに考察が深いわけではありませんが(^^;;、 「それなり」に参考になるかもしれません。 ちなみに、このアーティクルはこの現会議室の<3>から<2><1>と遡り、 またさらに以前この会議室のあったFMISTYでの会議室からのものです。 考えてみれば、すごい昔のことのようにも思えます(^^;;。 ================================================================= 506/618 GGA02514 KAZE ヘリゲル●日本の弓術 (19) 92/03/23 02:31 武道というテーマを考えながら、本屋さんをのぞいていたら、 かの有名なヘリゲルの「日本の弓術」(岩波文庫)が目に止まりました。 分量も少ないのですぐ読んでしまったのですが、 やはり名著(というより、名述か)だけあって、なかなか含蓄の深いものでした。 この「日本の弓術「というのは、ヘリゲルが来日した際、 阿波研三氏について5年間学び、故国ドイツに帰り、行なった講演で、 エックハルトに代表されるドイツ神秘主義と日本の禅などとの関連を示唆しながら、 弓道の本質に迫ろうとしている著者の精神が伝わってくるようです。 この本を読んで昔のことを思いだしていたのですが、 実は僕の兄は高校生のころ、弓道部に入っていて、 そういえば、弓道というのは、的に矢を当てるのが目的ではない。 的に当てようとする心が道を妨げる・・・ なんて、兄が聞きかじったことを得意げに話していたことを思い出しました。 そのわりには、兄は単純理系的科学主義的思考に染まっているようですが(^^;)。 それはともかく、この講演録の要と思われる部分を引用します。 「弓を引く前には、まず初めの儀式が行なわれる。それはきまった歩数だけ進んで、 射手が次第に的と相対する位置に来るのであるが、途中で立ち止まっては深く呼吸を する。それから射手が弓を引く構えをすれば、その時すでに、完全な沈思に成功する 程度まで精神が統一されている。一旦弓を引き絞れば、沈思の状態は決定的となり、 引き絞っていればいるほど沈思は深められ、その後の一切は意識の彼方で行なわれる 。射手は、矢が放たれた瞬間に初めて、ふたたび、しかも漸次にではなく不意に、我 に復る。忽然として、見なれた周囲が、世界が、ふたたびそこに在る。自分が抜け出 していた世界へ、ふたたび投げ返された自分を見る。自分のからだを貫き、飛んで行 く矢の中に移ってはたらきつづけるある力によって、投げ返されたのである。このよ うにして射手にとっては、無と有とは、内面的にはどんなに異なっていても、きわめ て緊密に結びつけられるのみならず、両者はたがいに頼りあっている。有から無に入 る道は、かならず有に復って来る。それは射手が復ろうとするからではなく、投げ返 されるからである。」 弓術(この講演録では、弓道ではなくそういう表現がされてるが、 意味はスポーツとしての弓ではなく、「道」としての弓です)というのは、 この講演録の他の場所でも述べられているように、 禅僧が行なっている「神秘的な沈思法」と同一の境地を目ざしでいるようです。 「実際に、無と有との間には、あるいは理解をいっそう容易にするため構わず言って しまうならば、神性と現世の生活との間には、完全な忘我と明瞭な自己意識との間と 同一の、断ちがたい関係がある。非有の中の有の経験が自己の経験となるのは、無我 の境に移された者が自己存在の中へ、死者が生成の中へ幾度でも投げ返され、そのよ うにして、自己の存在の軌道を越えたはるか彼方にまで意義を有するものを、自己自 身について経験する、ということによるしかない。」 「非有の有」という神秘的な境地というか経験としての弓術というのが 述べられているわけですが、こうした弓術の精神を明かにしようとした試みは、 「神秘説のもっとも内面的な本質を射中でようとする一つの試み」でもあって、 シュタイナーの思想へとつながっていく マイスター・エックハルトなどのドイツ神秘主義などについて 禅などとの関連でよりよく理解するためにも、 こうした武道についての認識を深めることは、 かなり意味深いことのような気がします。 ドイツ神秘主義といえば、ちょうど岩波文庫でエックハルトの遺産を受け継いだ、 ドイツ・バロック時代を代表する神秘主義的宗教詩人のシレジウスの 「シレジウス瞑想詩集」(上・下)が刊行されたところです。 このシレジウスをはじめ、エックハルトやベーメ、パラケルススなどについての シュタイナーの著作、「神秘主義と現代の世界観」(白馬書房)があります。 それから、エックハルトについても、これも岩波文庫で、 「エックハルト説教集」というのがでてますので、興味のある方はぜひどうぞ。 さてさて、話を戻して、ヘリゲルですが、この講演の中で、 日本の武士道精神について述べたところがありますので、 最後にその箇所を引用しておきます。 「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」につながる見解をみせていて、 なかなか興味深いところです。 「仏教ならびにすべて真の術の錬磨が要求する沈思とは、単純に言うならば、現世及 び自己から決別ができ、無に帰し、しかもそのためかえって無限に充されることを意 味する。これが幾度も修練され、実際に経験されるならば、そして決定的に理解され た思想としてではなく、意識的持ち出された決意としてでもなく、意識的に持ち出さ れた決意としてでもなく、非有の中の現実の有として生きられるならば、これは死を も、これは死をも、また意識しながら死んで行くことをも、沈思そのものに対するよ うに少しも恐れないあの自若とした落ち着きを生み出す。じじつ、人間の生存がただ 数瞬にして取り消されるものにせよ、あるいは持続するものにせよ、いずれにしても それは、非有の中の有の実現に移されることに変わりはない。  同時に、ここにかの武士道精神の根本がある。日本人がこの精神を己にもっとも特 有なものとするのは当然と言ってもいい。そのもっとも純粋な象徴はS朝日の中に散 る桜の花びらである。このように寂然として内心揺らぎもせずに生から己を解き放つ ことができるというそのことこそ、終わりが初めに流れ入る生存の、唯一ではないが 究極の意義を示し、かつ開示する。」 武士道、禅、ドイツ神秘主義、シュタイナーを貫いて流れる 共通した「精神」について理解を深めていきたいKAZEでした。 507/618 GGA02514 KAZE エックハルトと武士道における自由 (19) 92/03/23 20:00 前回簡単にふれたドイツ神秘主義の源泉であるエックハルトですが、 その「説教」の中心には「自由」ということがありました。 武士道が実は最高度の自由の表現であるということは 以前に述べたことがありましたが、 この武士道の自由とエックハルトの自由ということには どこか共通性があるように思われますので、 そこらへんについてちょっとばかり見ていくことにしたいと思います。 ちなみに、三島由紀夫の「葉隠入門」(新潮文庫)には、 武士道の考え方を集約しているこの「葉隠」が 自由という理想を追求していたことについてこう述べられています。 「かくて常朝が、『武士道といふは、死ぬことと見付けたり』というとき、そこには 彼のウトーピッシュな思想、自由と幸福の理念が語られていた。だから今日のわれわ れには、これを理想国の物語と読むことが可能なのである。私にも、もしこの理想国 が完全に実現されれば、そこの住人は、現代のわれわれよりも、はるかに幸福で自由 だということが、ほぼ確実に思われる。しかし確実に存在したのは、常朝の夢想だけ である。」 #412で、シュタイナーの自由の哲学と武士道とを比較して >人間の普遍的な存在の行為の格率というのが「武士道」ということであり、 >それによって「大義」に目覚め、それを実践することが >おおいなる「自由」を選択し、自由な人間になることではないでしょうか。 ということを述べたことがありましたが、 この武士道に対して、エックハルトの説く自由とは、 「離脱」というあり方によって説明されています。 この自由へのアプローチは、もちろんキリスト教的な神秘主義の色彩が強いので、 安易に比較するのも誤解のもとではありますが、 そこはそれ、神秘学遊戯団故のクロスオーバーということで、 武士道の理想との比較によって、ある考え方の共通性を見ていただければと思います。 「『内なる貧しさ』のなかで外的、内的一切の束縛から解かれ自由であるようなあり 方をエックハルトは『離脱』と名づける。エックハルトの説くこの『離脱』というあ り方は、世を捨て隠者となり山深く、あるいは荒野で独居するようなあり方ではなく 世界のまっただ中にあって活動しつつ、心の平安と自由の内に不動にとどまりつつ生 きるあり方である。アウグスティヌスの説く『外なる人』というわれわれの感覚的欲 望や、身体的はたらきは人を限りない悲しみや苦しみの淵へと陥らせる人間の有限性 と弱さとを語る者であるが、エックハルトの場合は、この『外なる人』を禁欲的苦行 によって押さえ込こもうとするのではなく、『内なる人』すなわち精神の不動性によ って、苦しみや悲しみの内にあっても、同時にその苦しみや悲しみを高く超え出たあ り方のあることを説くのである。所有という物との関係にあって、その物にとらわれ ずにあるあり方、苦しみや悲しみのただ中にあって、苦しみや悲しみを超えた不動性 に立つあり方、そういった高い「自由」がくりかえし説かれている。」 (エックハルト説教集「解説」(岩波文庫)より) ユングはエックハルトについて、 「自由な精神の木に咲く最も美わしき花だ」と評したそうですが、 こうしたエックハルトの思想というのは、 苦しみや悲しみや物欲などのなかにありながら、 それらを超えて生きる限りない自由ということを強調しているようです。 これらの考え方かたすると、山のなかで修行にあけくれている行者さんのような方は 自由でも悟りでもなんでもなく、単なる逃避であることが明かですし、 平常の生活の中で、しかも執着から自由な人間ということの大切さが 身にしみて理解できるようです。 精神世界のビジネスマンたちは、おそらく山に逃避はしなかったものの、 多くの場合、今度は「所有」ということに深くとらわれる傾向性を 深く深くもつようになっているようですね。悲しい堕落です(^^;)。 シュタイナーによれば、 神秘体験によって得た輝きが自己陶酔的なものであれば偽りの神秘体験、 完全に明るい自己意識のなかで体験され、 おのれをむなしくした暖かい愛の力があふれでるなら本物の神秘体験である、 ということですが、 前者の偽の神秘体験またはどこか正常さを欠いた神秘体験ということが 世には氾濫しているようですね。 後者のような真性の神秘体験であれば、 あの宮沢賢治のような「うちうのあい」がそこから輝きでるはずです(^^)。 さて、自由ということについてさらに考えていくことにしますが、 武士道やエックハルトにみられるような行為というのは、 結局は、自分と世界との間の関係を最高のものにするためのものであるようです。 「自由な行為によって、人間は世界と自分との間の矛盾を解く。人間の行為は普遍的 な存在の行為となる。人間は自分がその普遍的な存在と完全に調和しているのを感じ る。自分と他者との間に不調和があれば、それはまだ完全に目覚めていない自己のせ いだと感じる。しかし、全体と離れることによってのみ全体へのつながりを見いだす ことができるというのが、自己の運命なのである。自我として他者から分離されてい なければ、人間は人間ではないであろう。しかし、また、分離された自我として、み ずから全我へと拡張していかなければ、最高の意味において人間であるということは できないであろう。本源的に自分の中にある矛盾を克服するのが、人間の本質に属す ることである。」(シュタイナー「神秘主義と現代の世界観」より) 宇宙から自我によって切り放されている人間が、 苦しみや悲しみや物欲などを克服しながら最高度の自由を獲得する行為が 「普遍的な存在の行為」であり、 それが「進歩」と「調和」という原理を最高度に併せ持ったということでもあり、 それによって「最高の意味において人間である」といえるのでしょうね。 いつも理想ばかり語って実質が全然伴わない愚かな悲しい存在ではありますが、 理想だけはいつも最高度の自由の門前に置いておきたいと思うKAZEでした。 ================================================================== - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/10/02 - 01333/01335 GCG01101 アマデウス よくわからん。 (14) 93/10/02 15:56 >>  0930 堅いものは堅いままに、柔らかいものは溶けるだろう    「堅いもの」・・・・堅実、確実、手堅さ、厳格、伝統、遊びがない、              変化しないもの、、、??              「固い」ではないから頑固、自我、偏屈といった              印象はないが、「柔らかい」との対句だから              「固い」の意味も含んでいるのかも知れない。    「柔らかいもの」・・融通、柔和、流行、遊び、変化するもの、不安定、、?  あまり具体的なイメージは湧かないが、強いて解釈してみるとこんな風になった。    この世には、堅いものと柔らかいものが入り混じっている。    堅いものが動き回っても、柔らかいものがクッションになり、    大きな衝突は起こらない。    今まではそうだった。    ところが、柔らかいものが溶けてしまったらどうなるか。    堅いもの同士が衝突し、相剋が起こるだろう。  「柔らかいもの」=相手を思いやる気持ちが薄れてしまい、「堅いもの」=自我  がぶつかりあう、、、ということだろうか。??? >>  1002 望まれない許しは得られない、如何に繕おうとも    この「許し」を求める者は、体裁を取り繕って何とか「許し」を得ようと    している。(誰に?) だが、心から悔い改めているのではないことは    お見通しなので、結局「許し」は得られないだろう、、、  冷徹な印象を受ける。  でも、変な表現だと一瞬思った。「望まれない」とはどういうことだろう。  彼(ら)は「許し」を「求めて」いるのだから、それを望んでいるのである。  だから「望まれない」という言葉の主体者は彼(ら)ではない。  とすれば、望んでいないのは彼(ら)に「許し」を与える権利を持つ者  (それはやはり神?)なのだろう。  つまり、彼(ら)はその権利者の望んでいない「許し」を乞うている。  なんとなくわかったような気になってしまうが、意外に奥が深いのかも。  これは裏を返せば「権利者の望む許しが別にある」ということを意味する  のだろうか。わざわざ「望まれない」と言うからにはそうなのだと思う。  権利者=神(ARIONの更に上のレベルの宇宙神?)とすれば、  何かニュートラルな印象が自分にはあるのだが、神にも「人間に進んで  もらいたい方向」があるということだろうか。  ぐじゃぐじゃ書いてきたが、何か非常にしょうもないことに拘っているような  気もする。  預言解読って、難しい!                               アマデウス 01334/01335 KFD00473 たまご 嘘と方便 (14) 93/10/02 17:56 01327へのコメント  『嘘』で出来上がっている世界において『本当の事』を言うのは, なんだかとてつもなく大きな覚悟がいるような気がしないでもない でもない.  我々はよくも悪くも『嘘』で応答することに慣れているので,そこに “免疫”のない『本当の事』を直接ぶつけられると過剰反応になって しまうことがあるようだ.  たとえば,円滑な人間関係のためには『本当の事』をズバリ言う のは好ましくないということは伝統的な日本社会では信じられている ようだ.しかし,これを悪しき伝統として明確にハッキリ言うという アプローチを取る方法も最近は支持されて来ているようでもある.  預言部屋流に説明するなら,これらはどちらも正しい.  ただ言えることは『嘘』と『方便』は違う筈なのである.  あ,嘘と方便の話はみれさんが詳しそうだからみれさんに  振ってしまおう(^_^;)      たまご 01335/01335 KFD00473 たまご RE:ファイバーという考え方。 (14) 93/10/02 17:56 01328へのコメント  親ガメはそうだと気がつかれないかもしれないところにひっそりと生息 しているかもしれない.  科学者は科学する事を疑わない.  科学的手法自体を科学の対象とはしないだろう.  これは,恐らく,当り前の事だ.(そういう科学があったとしたら,それ は無限連鎖して発散してしまうだろう)  既存の理論を疑うことというは,たぶんひ孫ガメくらいのレベルではない だろうか.それは親ガメを考察するのに比べたら全く安全と言っていいくら いだ.  さて,親ガメをこけさせることは愚かな事なのだろうか. - FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 93/10/02 - 00880/00880 GBD03557 シゲ 運が悪い自慢 ( 2) 93/10/02 20:57 00874へのコメント 心が小さくて悪かったね!>たまご さはしさんの事故とか、たまごの駐禁とか、すまる茶の定期紛失とか、 色々言っておりますが、そんなのみんな自分の不注意じゃない! って、言ったら顰蹙を買うばかりじゃなく、話が完結しちゃう・・・(^^;) まぁ、そんな憎まれ口ばかり叩いてる僕も似たような状況で、 無気力症候群、体調不良(傷が全然治らない、内蔵疾患)、運が悪い・・・ とかありましたが、今月になって調子は上向いてるようです。 みなさんも運が上昇するといいですね。(たまご以外(^^;)) - FARION MES( 3):【めでぃあ室】本/映画/音楽 etc----<01> 93/10/02 - 00259/00259 GCC03437 星也 蒼のマハラジャ ( 3) 93/10/02 20:26 蒼のマハラジャ|角川書店:ASUKACOMICS  全10巻 by 神坂智子  その10巻に出てきた台詞が気に入ったので・・・・。 「誰も滅びたりはしない   滅びていい人間などいない」 物語だからかもしれない、そういう言葉を紡げるのは。                     ・・・・・・でも。 - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/10/02 - 01336/01337 PAF02400 湖の鷹 RE:龍、竜、ドラゴン…☆ (14) 93/10/02 22:13 01322へのコメント ふっ、日本には八百万の神々が私達のまわりに居るのだ。苦しい時にはいつだっ て手を合わせるだけで神頼みが出来るというのに、何故に西欧の黒魔術(とい うより降霊術か)みたくわざわざ訳の分からん儀式を執り行なってどこぞの異 世界から素性の知れぬ霊体を呼び出し、血を媒介する契約なんぞをする必要が あるのだろう?。無知故に、得体の知れぬもの=何でも出来る、と考えるのは 愚行、無謀、狂気、・・・、なんかじゃなくて『甘え』というのが一番正解に 近いか。                               湖の鷹 01337/01337 PAF02400 湖の鷹 RE:模造物の限りなきリアリティ。 (14) 93/10/02 22:14 01332へのコメント : ほんとに、ここは変な星です(笑)   ↑、「ここは変わった星です」いうのがどうも気にかかってしまった・・・。 いわく“気に入らない表現”なのだな(当然のことながら“私にとって”の意)。 で、何故に気に入らないかつらつらと考えてみると・・・、 先ず最初に、『変な星』の定義。果して『変でない星』というのはどういう星 を指すのだろう?。天に見える星々・・・、あっ、最近のあたしの目には木星 &金星&月&火星&太陽&数個の恒星しか見えないのだな、寂しくなったもの である。子供の時見た万天の数百の星々が懐かしいぜよ。だが、近代工業化に 走る前の夜空には三千の星々が燦然と輝いていた(←、下手な言い回し(^^;)) と聞き及ぶが、果してあたしにもそれを見る機会があるだろうか?。・・・、 ふっ、話がずれたぜ(^^;)。あたしは地球から“まだ”一歩も出たことが無い ので、他の星と地球とを比較することが出来ないと言おうと思ったのだ。そし て、こいつは私が思うに人類の大多数にとっても同意見だと思うから、『変な 星』、『変わった星』という概念がそもそもおかしいといえる。 で、表現として文字どおりに受け取るならば、言外に『まっとうな星』になる べし、の意を含ませていると読める(あぁ、なんか国語の勉強みたひ)のだろ うが、多分、そのような星に住むのは人間では有り得ないのだな。 結論、『変な星』云々は今の人類が存在するに相応しくないということなのだ ろう。 *********************************** ええと、ちょっと戻って#1327の : きっと『本物のウルトラマン』が現れても気付かないかもしれませんね。 : ここは変わった星です。 ここで書かれているのは『変わった星』でない星というのは『本物のウルトラ マン』が現われた時に、それに気付く人々が住んでいる星のことを云うのだと 思うんだが・・・、一体ぜんたい誰が『本物のウルトラマン』だと証明できる のだろう。『本物のウルトラマン』本人が自分で本物だと言ってみたところで ナンセンス。誰もンなことを信じるやつはいるまい(いや、なに、信じた奴は 狂信者のレッテルが貼られることだろう)。第三者が証明書を掲げて見せて、 「あれは本物だ」と叫んでみても同じこと、・・・なのだが、こちらは果てし ない愚行だわな。本人の弁よりも第三者の弁の方が信用できるなどとはね。まぁ どちらにしろ最終的には『ホンモノ』であるか『ニセモノ』であるかは個々人 が各々判断することなのだと思う。 さてさて、個々人が真贋を判断する場合、何故か(?) 必ず曲解してなんでもか んでも『ニセモノ』にしてしまうんだな。なにね、誰も彼も目の前に存在する ものを認めたくないんだろうね。自分が自分であると証明するためには、つま り自分が“ホンモノ”であるためには、他の全てが“ニセモノ”である必要が あると考える、“ニセモノ”であると信じることによって安心する、「私には、 ニセモノを見抜く目が有る」という自惚れをともなって。 だがしかしこの世の中には“ニセモノ”など全く存在しないのだ。にもかかわ らず、何故に「“ニセモノ”が多い」ウンヌンを受け入れてしまえるのか?。 人は“ニセモノ”を望んでいるのではなく、“ニセモノ”であって欲しいと願っ ているのだ。・・・、これは敗北主義であると私は思う。自分が生きるに値し ない人間であると思い込むのはそれこそ個人の勝手なのだが、それを周囲の人 々にも当てはめるのは褒められる行為とは言いがたいわな。・・・、ふむ、私 はそういう行為を見るのが嫌いだから辞めて欲しいのだ。                               湖の鷹 - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/10/03 - 01416/01416 KHB03657 まとうど 苦、楽、無? ( 7) 93/10/03 00:39 赤い星は、3つのことを教えるだろう。それは苦・楽・無… この言葉のなかから 真意を つかみなさい。 それを苦と感じるのも それを楽と感じるのも すべて 己が 決めることである。 つまり 無いに等しい。 もともとないものをあるとして 私は、 苦しんできた。 私の中に なにもなければ 相手は、 わたしに 何かを                  感じさせることはできない。              まとうど 01417/01417 JBH00742 スサノオ RE:聖地の争いね〜・・・ ( 7) 93/10/03 01:31 01401へのコメント  みれさんへ  まず、貴方が投げ掛けたという質問に沿って答えます。  貴方は論拠を示せとおっしゃっていますが、  もし貴方がARIONがかつて貴方に推薦した  「暗黙知」に関する書物(ポランニーでしたね)を読んでいたなら  論拠を示せ、と言う問いかけ自体が意味を成さないということに気付くはずです。  これは認識論にも係わってきますが  つまり我々が事実として捉えている(と思い込んでいる)  その事柄は、我々全員が一定の根拠をもって認識しているからこそ  事実なのであり、その根拠を覆すだけの根拠をもってすれば  それは事実でなくなります。  (これ以上はアトランティスの失敗にも関係するので  この場では触れません。)  では、その覆すだけの根拠を出せば問題は解決するかと言えば  事はそう簡単ではありません。  まず、このFARIONでは情報を生に受け入れるだけの体制が  整っていないだろうということです。  つまりはっきり言ってしまえば、  1.参加者の主張が余りにも幼稚であるということ  2.参加者が情報を処理出来ないということ    (つまり思考停止をしているということ)  と言うことが挙げられるでしょうか。  この様なところに生の情報を流すとどうなるか。  それこそ、ここ数日私が受けたような状態になるでしょう(笑)。  特にパソ通などメディア抜きで情報を流すと混乱がひどいと思われます。  (だから訓練なのだ、と言う声が聞こえてきそうですが…。)  要するに“場”が出来ていないということでしょうか。  (3)の質問に関してはノーコメントです。  「ミス」云々に関しても、以上のような理由から  コメントは控えさせて頂きます。(もちろん回答は何時でも出来ます。)                           スサノオ 01418/01421 GDB00064 オリハル 《前ローマ教皇ヨハネス23世の預言(1/4)》 ( 7) 93/10/03 01:35 これは、HELEN SOLEM(アメリカ)→十菱麟(日本)と伝わってきた情報である。 HELEN SOLEM女史のプロフィール:  公認会計士。テキサス出身のロス・ペローの組織の郡支部議長。公認会計士の前は、 国語(米国)の教師であり、スウェーデンボルグの研究家・信者で、刑務所の教悔師の ようなこともしてました。  日本からの手紙を歓迎するそうです。アメリカはオレゴン州在住。                            HELEN SOLEM                            POBOX58                            VERNONIA,OR                            97064 USA 十菱麟(じゅうびし・りん)氏のプロフィール:  東京大学時代に、竹村健一氏と第1回フルーブライト留学生としてアメリカ留学した。帰国後、同級生であり、同じ「成長の家」の信者でもあった建部哲也氏とスブド同胞会 日本支部を設立。その後、2人目の妻に「逃げられて」から、牧野元三氏を弟子として 16年間、日本で無銭飲食托鉢旅行を行なった(勿論? 何度も捕まった。交番で警官 にすねをけられたそうな)。毎日酔っぱらっていたそうな。弟子の牧野元三氏はオーム 真理教のニューヨーク支部長となって「逃げた」そうな。日本人離れした英語能力によ って、日本にエドガー・ケイシー、TMを紹介した。現在、大分県で3人目の妻と生活 保護を受けて生活している。お子さんは、全部で21人だそうな。インドのサイババに も会いに行ったりしている。                     〒879-69 大分県大野郡清川村天神9                      TEL:0974−35−2140 HELEN女史とのつながりは、十菱氏が女史の著書の中に「不思議な夢の体験談」を 募集してるのを見て、手紙を出したのがきっかけである。 教皇預言はファイルを分けて続けてUPします。                                 オリハル 01419/01421 GDB00064 オリハル 《前ローマ教皇ヨハネス23世の預言(2/4)》 ( 7) 93/10/03 01:36 『           2000年までの教皇預言  これからの8年間、苦痛に満ちた激しい戦争の時代、多数のが死者が出る飢饉、破壊 的な天災を受けて苦しむだろう。しかし、この悪夢の後に、長い愛と調和の時期が訪れ て来る。それは地上の美しい晴やかな天国の状態となることだろう。  この戦慄すべき預言は、教皇ヨハネス23世のセンセーショナルな、紛失されていた 日記から出て来たものだ。この愛すべき教皇は1963(昭和38年)6月3日に昇天 したお方である。手書きで走りがきした預言が記されていた埃だらけの革綴じの日記帳 は、ヴァティカン宮殿の掃除婦によって偶然発見された。彼女はあまり使われていなか った倉庫に積まれてあった箱を整理していたのだった。  その記入文を見ると、ジョン・F・ケネディーの暗殺、アメリカがベトナム戦争の泥 沼に入ること、中東地域の争乱、共産主義の瓦解を、何年も前に預言していたことが分 かった。(彼の在位は1958から63と短かったが、ベトナム戦争は1965から7 3年で、ケネディ暗殺は1963年だった。−−訳注)その後の日記を見ると、更に困 難な時代の到来が予見されている。 「前教皇ヨハネス23世は定期的にイエスと聖母マリアの来訪を受けていました」 と、ジューゼッペ・ダンジェロは、驚くべき話を深く調べながら語った。 「教皇室におけるこの会合の結果、人類の未来について想像も及ばぬ瞥見が出来たので す。西暦2000年に急激なセンセーショナルな転換を見るまでの間に、状況が遥かに 悪化するということを知って、教皇は深く悲しみました。その2000年からは、アダ ムとイブが楽しんでいたような原初の美しい世界が人類にやって来るのですが、それま でが大変なのです。教皇は、1995年6月までに、炎に包まれた鋼鉄の戦車(チャリ オット)に乗ってやって来る天からの使者たちについて書いています。この特別の来訪 者達は我々が絶望の極に達したとき現れ、人類がその傷を癒すのを手伝い、人類に協力 して全ての恐ろしい禍害を正常に戻すのです」  ダンジェロ神父は73才で、1959年2月から1963年4月までの日記の記録の 若干を公表することに同意した。走り書きの筆跡から、キリストと聖母マリアとの会合 を秘密にする決心をした教皇のおののきと興奮した様子がうかがわれます。キリストの 最初の示現は1959年2月12日に起こり、ヨハネス教皇は次のように記しています。 「愛する神様! 私は今までの誰にもなかったほどの祝福を受けました。救い主は私の 個室で特別の謁見を許して下さいました。主は、私が真実を聞くように選ばれた者であ ることを打ち明けて下さいました。それを私は真に光栄に思っています。イエスが私に お話になったのは、聖母マリア様がまもなく来て、近い将来の最初の知らせを持ってき て下さるということでした」                                 オリハル 01420/01421 GDB00064 オリハル 《前ローマ教皇ヨハネス23世の預言(3/4)》 ( 7) 93/10/03 01:36 ・「1959年4月7日。彼女は私の想像を絶した美しい方です。聖母を見守るだけで 喜びに満たされます。彼女のメッセージがもっと積極的な明るいものだったら良かった と今の私は思います。彼女のお言葉はこうでした。”4年先に、世界は偉大な指導者を 失うでしょう。そして、強力なある国が勝目のない紛争に巻き込まれるでしょう。この 戦争は戦場で多数の死者を出します。人民がその国の青年の生命を軽視する心を抱いて いるために、内部から不幸が起こるのです。”その胸を裂くような光景を描写するとき、聖母は涙をながされました」 ・「1959年8月17日。聖母の2度目の来訪は初回とほぼ同じものでした。彼女は ご自分の生誕の地の争乱について悲しげにお話をなさいました。権力のバランスが変わ り、多くの血が砂の上に流されるということでした。何人かの狂人が神の名に於て人民 を戦場に駆り出すというのです。しかし、創造主はこのような同胞間の無意味な闘争に は一切の関わりをお持ちになっていません」 ・「1960年1月3日。キリストが再びいらっしゃいました。私はこの奇跡的御出現 を仲間のクリスチャンに告げたいと切願しましたが、その時が熟するまで黙っているよ うにといわれました。私としては、我々人類の前途に立ちはだかっている苦難の一部で も阻止できるのではないかと思へてなりません。しかし、キリストは私に、地球全体の 計画が成功するためには悲惨事も起こらねばならないといわれました」 ・「1960年6月13日。聖母マリアは、あと30年後に圧政の鎖が東ヨーロッパ全 体で粉砕され、その時世界中は間違った希望を持つだろうといわれました。(東西ドイ ツの統合やソ連の解体を予言している−−訳者)しかし、その希望も短い期間しか続き ません。その理由は、解放された庶民族がそれぞれの国の経営の仕方について仲間内で 争いを始めるからだということでした。何万という哀れな何の罪もない子供達がその父 親たちの愚かな行為によって死ぬだろうといわれました」 ・「1961年3月6日。もう天国からの御来訪は終ったのかと思っていたところ聖母 がもう一度おいでになりました。彼女は私と分かち合わなくてはならない心労で大変お 疲れの様子に見受けられました。彼女がこんなにもお悩みの様子を見て、私の心は痛み ました。お知らせはまたもや不吉なものでした。1990年代の始めはすさまじい自然 災害の時期になるだろうといわれました。(日本の津波・台風・火山爆発やアメリカの ミシシッピー川の反乱、その他世界中から天変地異が報告されている−−訳注)彼女の 言葉では、強烈な風と海の波は楽園を破壊し、大洪水と激しい地震は人間の住居を滅茶 苦茶にするだろうということでした。1990年代の半ばごろまでには、地域紛争は大 規模な衝突になるでしょう。死傷者の数が激増するにつれて、世界的な飢饉が襲ってき ます。その災害は未曾有のもので、特にアフリカ全体で、何百万、何千万という人が餓 死するといわれました」                                  オリハル 01421/01421 GDB00064 オリハル 《前ローマ教皇ヨハネス23世の預言(4/4)》 ( 7) 93/10/03 01:37 ・「1961年9月23日。聖母はさらに悲惨な知らせを持ってこられました。この卑 しい召使に過ぎない私は、そのような圧倒的な苦難を耳にすることがもう耐えられなく なっております。聖母によれば、恐ろしい疫病(エイズもその一つだろう−−訳注)が、1984年までに、既に心身が弱くなっている人類に放たれるだろうということです。 戦い合う国々が内部から弱体化するために、戦争は段階的に縮小するだろうと伺いまし た。これは変化の始まりです。ハレルヤ!」 ・「1962年5月19日。諸天体から救い主達が現われるでしょう。(E.T.や宇 宙人のことと思われる−−訳注)彼らは1995年6月5日に到着し、地球環境と機能 を失った不具同然の国々の大掃除と修復を助ける仕事を始めるでしょう。彼らは見かけ は奇妙な人類ですが、平和な心を抱いてやってきて、神のお導きにしたがって、焼けた だれた回転する岩石に過ぎなくなった地球を、宇宙空間の緑豊かなオアシスに改造する 仕事に専心するでしょう。生き残った人類は、最早戦争と病気と憎悪の無い世界で繁栄 することでしょう。人類に希望があることを聞いて、私の心はやっと安堵することがで きました」 ・「1962年7月2日。聖母は私に、これが最後の訪問になるだろうといわれました。素晴らしいニュースを持ってきて下さったので、今度は喜ばしい出逢いでした。199 8年が到来するまでには、私達の天の友人達は彼らの進んだ知識の多くを地球人に分か ち与えてくれているでしょう。人類はやっと人間の病気のほとんどを一掃し、私達の寿 命はバイブルに出て来る古代の人々くらいに延びるでしょう。(創世記第5章には、例 えば、マハラルエルは895歳、エノクは365才、メトシェラは969才などとあり、箱船で災害を逃れた後のノアは500才になって、セム、ハム、ヤフエト(ヤペテ)を もうけたとある−−訳注)宇宙からの来訪者達は死人を蘇らせる素晴らしい力を人類に 伝え、不当な氏に方をした多数の人々は生き返るだろうといわれました。最後に、驚く べき奇跡が2000年12月25日にニューヨーク市の上空に起こり、その時は数百万 人の人々が、地上に第2のパラダイスが始まるということを宣言するメシアの出現を目 撃することになるとのことでした」  教皇ヨハネス23世は、その後1年して死去したので、彼が受けた預言を発表するチ ャンスがなかった訳です。専門家の鑑定によると、その日記は100%真正のものだと 証明されているのです。来世紀の「新しい出発」の前に来る苦難の時期を迎えている私 達は、真剣にあらゆる準備をせねばならないと、教皇庁周辺の人々は全世界に呼びかけ ています。  私はこの「教皇預言」の重要性に鑑み、この紹介文を多くのマス・メディアに送ろう と思っていますが、このコピーを最初に受け取った方々は、これを再コピーして地元の 放送局や新聞社にお送り下さるよう願います。私としては、聖母マリア預言について何 冊も著書を出しておられる鬼塚五十一氏と、地元の大分合同新聞社に、ワープロからの オリジナル原稿を送るつもりです。なお、有名なエドガー・エドガー・ケイシー預言で は、1998年までに日本の大半は水没すると預言されています。この問題の参考書は 霞ヶ関書房刊「奇跡の人、エドガー・ケイシーの生涯」と、たま出版刊の「超能力の秘 密」その他をお読みになって下さい。』                                  オリハル - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/10/03 - 00711/00712 GGD03030 《 隆 》 RE:はじめまして (13) 93/10/02 23:41 00707へのコメント  YUIさん、はじめまして。この会議室に常駐しております、雑談要員(^^;)の隆ち  ゃんと申します。    弓のお話、興味深く拝見しました。僕も武術をかじっておりますが、YUIさんのよ  うな体験はないです。高校時代は陸上で短距離を走っていましたが、その時には  似たような感覚を味わったようにも思いますけど・・・。まあ、遠い昔の話です  ので記憶があやふやですが・・・(^^;)。    団長のKAZEさんは博学ですし、いろんなお話をして下さいますから、楽しんでい  ただける会議室だと思います。僕はシュタイナーにも暗いですし、ひたすらお気  楽に生きていますのでお役に立ちそうもありませんが、息抜きでもという時は声  をかけて下さいね(^^)。    それではまた。簡単なご挨拶でした(^。^)。                               by 隆ちゃん 00712/00712 GGD03030 《 隆 》 運命学は人間学? (13) 93/10/02 23:42 00709へのコメント  KAZEさん、こんにちは。    お仕事、大変そうですね。時期的に仕方の無い部分もあるんでしょうが(TVも  番組改編の季節ですし)、くれぐれもご自愛下さい。    僕の場合、相性の悪い事は極力避けていますが(要するに逃げているんですが)、  それでも関難辛苦はやってきます(^^;)。KAZEさんのおっしゃる「やれやれ」状態  は確かに必要なのかもしれないと、病気を境に思うようになりましたが、やっぱ  り極力避けないと凡人はつぶれてしまいます。    >ま、苦手というのは、なぜ苦手なのかという原因をはっきりさせないと、  >それをちゃんと認識できませんから、つらいけれどもがんばりたいものです。  苦手の原因がわかればそれなりに我慢もできますが(例えば母の場合)、なんだ  かちっともわからない(静岡県(^^;))のは大変です。多かれ少なかれ、その原因  の一部は必ず自分自身にある訳ですが、それを認識できるのはいつになる事やら  です。おそらく、人間学、神秘学を学んで行くうちにわかるようになるのではな  いかと思っているのですが、まだまだ先は長そうです(^^;)。タハハ    >もちろん、それはある種の理想ではありますが、そこに行き着くまでの  >試行錯誤というプロセスというのは必要なのかもしれません。  そうですね。それなくして理想はありえないのかもしれないと思います。問題は  プロセスをプロセスとして認識できるのかどうかで、プロセスを終点だと勘違い  しているのが現状なんじゃないかと思います。進化という事を考えると全てはプ  ロセスにすぎない訳ですが、その事を忘れないようにしたいものです。    >あくまでもアリさん一匹一匹に自覚のある「自由な」相互ネットワークを  >基盤としたあり方でなければなりません。  それが理想的だと僕も思います。一人一人が自由であり、なおかつきちんとした  自覚を持っていれば、それなりの(あるレベルの)組織は勝手にできるものだと  信じたいですね。そして各人の自覚のレベルが上がるとき、その組織は一時崩壊  しますが、また新たな組織が構成される。分裂、結合を繰り返して進化する事が  できるはずです。組織はまとまる自由があると同時に、拡散する自由をも持って  いないと進歩はないのではないでしょうか。    >やはり「自然(じねん)」を理想としながらも、  >そこに至るまでのプロセスというのを、悩みながらも楽しみたい(^^;;、  そうなれればと思います。僕は文句ばっかり言っている方ですから、ちょいと反  省しなければいけませんね(^^;)。    >そして、その「法」の部分の三次元的な対応として「国家の法」ということを  >考えてみれば、やはりどんなに歪なものであったとしても、  >「法のもとでの平等」というのは理想として掲げられなければならないでは、  >と僕には思えるのですがどうでしょうか。  僕は「法律はそれがたとえ悪であっても守らなくてはならない」とは思っていま  す。どうしても我慢できないときは法律を変えるように努力すべきなのです。正  直者がバカをみるような事態は許されるべきではないと思います。また「法のも  とでの平等」というのは法を受け入れるか否かは自分で判断できるという意味で  平等であるとも思っています。否と判断したときはその組織から抜ければ良いの  です。現状で使われている「平等」は本当の意味での「平等」ではなくて極端に  言えば「強制」でしかありません。理想としてあるのは良いのですが、やっぱり  「試行錯誤のプロセス」という認識が無いと破綻してしまうと思います。  今のところ、不満はたくさんあるものの、法律に我慢できないという状態でもな  いので、己の自覚を促す努力をしたいと思っていますが、その前にドカンと何か  が起こるかもしれませんね(^^;)。ヨノナカガウゴキハジメテイルヨウナキガ・・・    >それこそが「宇宙は愛そのものである」とうことでもあると思うのです。  その事が身体全体でわかるときが来るよう、励みたいと思います。    >しかも、その「臭いもの」というのは、「逃げ」ている方々が、  >自分で「臭いもの」だと勝手に作り上げたもので、  >実際のところ、臭いものでもなんでもないものなのです。  そうなのです。差別、差別と騒ぐやからこそが差別を作っている。勿論、本性む  き出しで差別する人間は論外ですが、差別はそれを意識した時点で差別なんです。  人間は千差万別と考えれば差別など有り得ようはずもなく、「禁止主義」を唱え  るよりも、差別という意識が恥ずかしい(大バカ野郎だ)という雰囲気を作らな  ければと思います。人間とは何なのか、もっと言えば生命とは何なのかをもっと  真摯に考えなければなりません。その先には世界とは、宇宙とはに続くのですが、  そのためにもまず人間学の必要性を感じずにはおられませんね。    >その「極端」をメタモルフォーゼさせた高エネルギー状態であれば、  >その「振幅」と、そのダイナミックな「中」ということは、  >必要ではないかと、僕は考えているのですが・・・。  ちょっと僕の言葉が足りなかったようですね(^^;)。振幅は減衰してもエネルギー  は変わりません。周波数が高くなるだけです。そして周波数が高いほどその波動  は上質になるのだと思うという事を言いたかった訳で、たぶんKAZEさんのおっし  ゃる「メタモルフォーゼさせた高エネルギー状態」とイメージは同じだと思いま  す。中心は小さな振幅で周波数が高いのが良いと感じています。中心の揺れは、  外側に行くにしたがって大きな振幅になります。バランスのとれたダイナミズム  です(^^)。KAZEさんのイメージと違いますか?。    >実際のところ、「親」というのは「正しい」だけではだめで、  >おそらく「仁」「義」「礼」「智」「信」という5つの「徳」あたりは、  >理想的に兼ね備えている必要もあるようで、ものすごく大変です(^^;;。  >がんばってくださいね(^^)(^-^)(^。=)。  (^^;)(^^;)(^^;)、言うは易し・・・ですが・・・ウーン  「敬」というのを僕に求めるのは酷というものですが(^^;)、恐いお父さんではあ  るようです。特に上の娘にとって世の中で一番恐い存在はどうやら僕のようで、  幼稚園の先生に叱られても、びくともしません(^^;)。これが良い事なのか悪い事  なのかは彼女が成長するまでわかりませんが、いまさらどうにかなるものでも無  いですから、神様に祈るばかりです(^^;)。    占いの吉凶を現世利益にあてはめてしまうのは、なんとも悲しい事ですが、「破  壊数」に関しては吉凶以上のものを感じています。自分自身の向上の為に「ここ  は動かずに力を蓄えよう」とか「良い運気に乗って加速をつけよう」とかいう風  に使えればそれに越した事はないでしょう。回り道はできるだけ避けた方が賢明  です。ただし、あえて回り道をする必要を感じたときや試練を自らに課す必要が  あるときは、それこそ「破壊」は「八開」となるとも考えられます。僕は今、こ  れまでの力ずくでハチャメチャな生き方を考え直そうと思っています。そういう  時期が来たからこそ、数霊に出会ったのだと思うのです。  病気は吉凶で言えば明らかに凶の現象ですが、その事で僕は多くの事を学んだ気  がします。運命学によって凶を避けて行けるとしたら、それはより高い次元に自  分を導くための道標です。必要とあればどんなに凶を避けても、神様がちゃんと  凶を与えて下さるでしょう(と言うよりも、すべからく因果応報ですから自分自  身が原因でそういう事が起こるのでしょうが・・・)。  はっきり言ってKAZEさんのおっしゃるように人間を奴隷化してしまうような占い  師がたくさんいることも事実のようですが、「運命学はそういうものではない」  と真摯に研究をされている方もたくさんおられます。運命学も突き詰めると人間  学なのですから、大事に育てなければと思うのです。                               by 隆ちゃん