- FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 93/11/03 - 01736/01738 GCC03437 星也 ラジオニュースを聞きながら ( 6) 93/11/02 21:46  昨夜だったか、今朝だったか。  車のラジオは、九州の造船所の時ならぬ繁盛を伝えていた。  タンカー事故による重油の流出の被害を減らすために、タンカーを二重底に する規制が、世界的に決まるらしい。  造船ラッシュは、その規制が効力を持つ前に、駆け込みで新造船をするため だろう、と。二重底にすると、建設費が高くなるから、その前に造ろうという 動きのあらわれであろう、というようなことをアナウンサーは言っていた。  二重底のタンカーが従来のタンカーと比べて、事故の時の重油の流出がどれ だけましなのかは、知らない。どれだけ建造費が高くなるかも、知らない。  でも、事故の発生率をゼロにできないなら、少しでもマシな方がいいと思う。  けれど、タンカーを動かしている側からみれば、どうなんだろう。  「起こるかも知れない(起こってはいけない)事故」の為に安全対策をして も、その費用は誰が負担してくれるんだい? というかもしれないな。  末端で石油製品が値上がりしても、その利潤がどこに吸い込まれていくのかを 知りようもない。  事故が起こってしまったら、汚されるのは人間だけの海ではないのにね。  そんなことを考えながら、車を運転している自分に気がついて、苦笑した。  いまさら、車も火力発電も石油製品もない生活には、戻れないだろうなって。  どうか、駆け込み造船されたタンカーも、これから造られるタンカーも、これ までに造られていま働いているタンカーも、無事それぞれの港につけますように って、祈るしかないんだな。 たぶん。 01737/01738 GDB00064 オリハル RE:50 OFF ( 6) 93/11/03 00:07 01729へのコメント コメント数:1 /スサノオさん、こんにちは。 追記をどうもありがとうございます。 でも、なんで、スサノオさんて、逆ヨド・ヘイ・バウ・ヘイさんに「対する」のですか?仲良くしないのですか? 何故?                                オリハル 01738/01738 JBH00742 スサノオ RE:50 OFF ( 6) 93/11/03 00:30 01737へのコメント  オリハルさんへ  こちらこそどう致しまして。  追記の意味は特に「逆カ・ナ・オ」に気を付けてください  ということです。  ☆梅★の食べ過ぎにも気を付けてくださいね。(^_^)                       スサノオ - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/11/03 - 01564/01568 JBH00742 スサノオ RE:そして… ( 7) 93/11/02 22:39 01563へのコメント コメント数:1  星也さんへ  こんにちは。  昨日は図らずもARIONの名前を出してしまった私ですが  この際はっきり言えば、たとえARIONが神霊だとしても  ARIONは私たちには何にも(これは言い過ぎ?)出来ないのです。  精々が行動の指針を提示するかそれとも警告をするか(^0^;)  その程度しか直接には物質に働きかけできない筈です。  つまり私たちには一人歩きするしか道がないのだと思います。  私はそうした意味から言えば、黙っている人よりか  その時の判断に悩みそして真剣に考えた結果、発言したのなら  たとえそれが間違いであっても、その発言をした人の方を尊敬します。  そしてきっと何時か道が開けることと信じています。  もちろん状況判断によりここは黙っておいたほうがいい  そういう場合もあるのでしょうが、今当たりを見回しても  そんな悠長な状況にはないと思います。  目をつむっていても何も変わることはないでしょう。                           スサノオ 01568/01568 GCC03437 星也 そして、ぼくは歩き出す。 ( 7) 93/11/03 14:05 01564へのコメント  こんばんわ、スサノオさん  そうですね。。。    (うぅ、一瞬「水戸黄門」の主題歌を口ずさみそうになりました(^^;)) 01565/01568 NAG02033 EX マーロート、ゾーハート、ルシファー、アリ ( 7) 93/11/02 23:45 ARIONは12のタイトルを持つと聞いている。 ARIONは12の存在からなるという。 中矢伸一氏の著作「とどめの戦」の中で言われている、 12人のフリーメーソンの最高位とこれは同一なのだろうか? 一二三神示もARIONも供に「イシヤ」について警告している。 イシヤに気をつける様にいうルシファーとは、改心したそれなのか? 小細工ばかりしていては、いつまでも、目覚めることがない。 目は曇っていないか? このような疑問は「冒険」であろうか? 逆に、私にとっては「冒険」とは、疑問を持たずにそれを たのしむことのように感じられるが、それでよい。 なるようにしかならないばかりでなく、それら完全に法則に護られている のである。 気づきそれ自体が恩恵である。 何か問題があるのだろうか? EX (NAG02033) 01566/01568 GDB00064 オリハル FARION活性化計画? ( 7) 93/11/03 00:05 コメント数:1 確か、ルドルフ・シュタイナーが言ってました。 シュタイナーが、ある門の前に立つと、霊視が始まったそうです。 その門の上にはエーテル体の仏陀がおり(シュタイナーによると、解脱した仏陀は 最早、肉体をまとわず、次の段階であるエーテル体までの受肉しか出来なくなるか らだという)、シュタイナーに次のように語ったと記憶しています。その内容は、 ゴータマ・シッダルタ氏が出家した修行僧を受け入れて一つの場所に隔離して 修行に励んだ結果、確かに清浄になった。しかし、落差が大きすぎたのでしょう、 門の上に浮かぶ仏陀は、「にもかかわらず、そうであってはいけないのだ!」 とおっしゃいました。 というものです。この、仏陀の反省は後々の時代、生かされて来たようです。 私も、FARIONは完全オープンであるべきだろうと思いました。 ということは、その反対側に新しい視点があるのでしょう。 このようになったという形を積極的に捉えるなら、やはり、「共振」現象を 出来得る限り、この限られたFARION内で増幅し、高める事で、一つの 波動の核としての場をここに確保し、世界へ影響力を与えて行けるような、 いわば、心臓部、太陽としての場を活性化し、臨界点を越えたフィールドを作るため だとも思う。ならば、癒しの玉が帰る程までにこの場を高めて行ければと思います。 人類の呼掛けに応じてARIONが臨在されますが、FARIONで多くの人の 書き込みが続き、認識がナーナーとなり、ツーツーとなり、いつのまにか別々だった 人々の意識がつながっているという事実を体験して行くことで、「臨界点を越えた」と 判断されるでしょうね。この時、私達(=下からの力)に、上からの力が加わって来る はずだと思います。その時、私達はフリーエネルギー装置となり、嬉し嬉しの世が 来るのだと思います。                                 オリハル 01567/01568 JBH00742 スサノオ RE:FARION活性化計画? ( 7) 93/11/03 11:46 01566へのコメント  オリハルさんへ  面白い話ですね。(※全然面白くもないが。)  でも「門」は潜ってこそ「門」です。  ひょっとしてそれは偽者の仏陀でしょうか。  そう言えば以前、縦の柱だけを書き込んでおられましたね。  しかし「鳥居」は横の柱があってこそ「鳥居」です。  霞返しは三倍返し。  今後ともよろしくね。(^_^)                    スサノオ - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/11/03 - 00753/00756 JCF00616 YUI 中心の存在 (13) 93/11/02 22:49 00750へのコメント コメント数:1  先月は大変忙しく、ROMになっていましたが、今月からは積極的に発言していこ うと思いますのでよろしくお願いします。  まず、KAZEさん、ヘリゲルについての考察、ありがたく読ませていただきました 。これからもよろしくお願いします。  それから、隆さん、挨拶が遅れましてすみません。MRTという治療法には大変興 味があります(治良、というのでしょうが)。私のうちも、健康法などには非常に 関心がある方ですから、これからもよろしくお願いします。  そして、DIRACさんはじめまして。私の紹介はPROFILEに登録するつもりですから 後にそちらご覧ください。毎回の几帳面かつ丁寧なな発言には尊敬しています。私 もその様なきれいな文章がかければ良いのですが、暫くのあいだはお許しください (^^;。  岳同さん、はじめまして。豊富な知識をお持ちの様ですね。私などはほとんど情 報らしきものを提供する事ができそうにありませんが、実践的・具体的な立場から 神秘学へのアプローチを図りたいと思います。なにかのお役に立てれば、と思うし だいです。 少し長めの前置きでしたが、早速のレスということで。 >●アインシュタインの悩みとファインマンの悩みの解消に向けて/宇宙と意識 > 「生命」とは、「質量とエネルギー」の「変換体」のことだ! > かくして「生命」=「二系の、確率の振幅」によって表記可能!  特に2行目に注目しているのですが、この「生命」の定義とシュタイナーの神秘 学は深層でつながっているように感じます。つまりは生物の構成物質とそのエネル ギーとが「生命体」によって形・意味のあるものにする、ということでしょうか。  また、FFORTUNEで「渦巻くものから気は発する」という話題がありましたが、 この事についても同様に考える事ができると思います。生命体というのは、エネル ギーを体外から「渦巻くところ」に放出する(中心部に留まる)際の仲介役と考え るのは考え過ぎでしょうか。おそらく、エネルギーは生命体という変換体によって 変容され、「気」として現れるのかもしれません。  弓術を例にとって考えてみます。矢というのは実際のところ、発射の後回転運動 をして的の中心へと到ります。つまり、「私」の生命体は「私」のエネルギーを、 渦巻く矢へと移すための変換体と考えてはどうでしょう。そのために、武術では「 呼吸をとめて」まで「死」に接近し、生命体の活動を表面化させるのではと思いま す。「変換」という意識を持ってみれば、「気」も物質的な側面を持っていると考 えられます。  渦巻くものというのは結局中心はないのですが、そこには「気」若しくは高次の エネルギーが収束する場所だといえます。誤解が出ないように付け加えますが、エ ネルギーの収束というのは中心への意識的な収束ではなくて、内側への遠心力だと いう事です。この言葉は適切な表現ではないのかもしれません。なぜなら、対義語 は「近心力」ではないからです。中心以外のすべての領域を「A」と定義すれば対 義語は「遠A力」となるのでしょうか(自分でも何を言っているのか不明です。気 にしないでください)。つまり、エネルギーが中心へ投げ出されるわけです。ただ 、弓術の場合は跳ね返されたエネルギーが己に戻ってくるのですね。すなわち己は 中心であったという事です。またこの現象というのは縦の時間(永遠の瞬間)で起 こる、すなわち宇宙に共鳴するわけですから返されるエネルギーというのは当然大 きくなるのではと思います。(何だかこんがらがってきました)  ゆえに、原子という極小さなものから宇宙という非常に大きなものまで動かすチ カラは渦・回転だと思います。また、逆にいえば中心がないからこそ原動力が集中 する、集中する環境が生じるとも表現できるわけですが。  これは勝手な推測にすぎませんが、「二系の、確率の振幅」はそれぞれをあくま で別のものとして考えるにしても、観念の上では「渦」のように見る事も可能では ないでしょうか。  ちょっと長くなり過ぎたのでこの辺で止めておきます。神秘学はこのように底の 方で複雑で絡み合ってしまうので一つ考察するにしても大変ですね。少ないボキャ ブラリーをふりしぼって書いたので何を言っているのかさっぱりわからない方も多 いでしょうが、そこは見逃してください。一応、引用部分から発想した考察です。 まったく違っていたらごめんなさい。機会があればそちらの書籍も読んでみようと 思いますが。  それでは 「矛盾論」著者(^^; YUI 00754/00756 JBH00742 スサノオ RE:中心の存在 (13) 93/11/03 00:10 00753へのコメント  YUIさんへ  こんにちは。面白そうなので割コメします。  武術で呼吸を(一時)停止することと「気」ということは  大変重要なポイントだと思います。  取り合えずの基本は呼吸を止めることにより  “「内気と外気」を知る”ことでしょう。  この場合心臓に負担がかからない様にしなければなりません。  たぶん武術では最初にこれを教える人はいないと思います。  他にも面白そうな話題が沢山あったのですが  あまり書き込んでもご迷惑になると思いますので  ここら辺で止めておきます。                        スサノオ 00755/00756 HCB00374 DIRAC RE:ジブンヲカンジョウニ入イレズニ (13) 93/11/03 12:57 00752へのコメント  こんにちは。 岳同さん。 今後とも宜しくお願い致します。  NHKの番組は、残念ながら見る事が出来ませんでしたが、すばらしい 内容のものだったようですね。 > 最愛の妹とし子を病気で失ってから、茶碗一つにもとし子が思い出されて >鳥に生まれ変わって悲しく鳴いていると感じられたり、天国へ行っているの >かどうか案じられたり、痛々しい詩が続きます。 >死後4ヶ月後、賢治は花巻から北海道・樺太へ旅に出ます。旅から還ってくる>彼は、少し見方が変化しました。 >誰もが死ぬという存在なのだということ。自分もやがて死ぬのだということ。 > タナヤマガハラ(という風に聞き取れた)の下書き稿に >「わたくしは水や風やそれらの核の一部分で…水や光や風ぜんたいがわたくし>なのだ」と賢治は記しています。  人生経験の豊かな、おじいちゃん、おばあちゃんならば、上の内容について 「賢治は、妹さんの現実を受け止めて、すべては自然の営みの一部なんだと 死を受け入れられたのである−−−」みたいなことを言っても説得力が、  あるのでしょうね。そう言う意味では、年をとるって尊いですね。 > 哲学者 梅原猛さんは、番組の中で >もう西洋の近代的自我ではやって行けない。滅びるか原理をかえるかしかない。 >利他を喜びとするような理想が浮かび上がってこざるを得ない。 >賢治は生きとし生けるものとの共感意識の予言者だ、と評しています。  梅原猛さんの文章を、新聞でよく拝見させて頂いているわけですが、 哲学という領域を超えて、宗教観、倫理観まで含めた包括的な視点が すばらしいと思います。 >私も同感です。たぶん、いつまで待っても自我の完成なんてない。 「自我」これも、私が勝手に思っているところの「第3STEP」に 入っているのだと考えています。  (1)自我 −−−− それは、我がままのレベル。  (2)無我 −−−− 自我の執着を離れたレベル。 (3)自我 −−−− 自我の執着を離れて出て来る本当の自分。 自我の完成への為には、「無我」を通らなければならないと思っているわけです。 ここから、さらに真の自我、無常でなく、有常(造語)のところへ。とにかく、 大乗利他の歩みが向上の道かなと思っています。 それから、「自我の完成」はないと思います。自分は「完成」したと思う思い 上がった心が、自分を堕落させてしまうような気がするからです。 いつも、「まだ足りない」という謙虚さが必要だと感じています。 >他を利する、祈ると考えている間は、まだ自分にこだわっている。 >欲しいという気持ちがあると思う。 >本当はリクツ抜きの感謝に気づくのが、本当のありかたなんじゃないかと思う。 >感謝が出来れば、反省が出来るし、周囲に自然に尽くして行ける。  「リクツ抜きの感謝」、本当にこれがすべてだと思うのです。 問題は、どのようにしたら心から本当に「リクツ抜きの感謝」が出来るように なるかということです。これが、ひじょーに難しいと感じているわけです。 自分の(顕在)意識では、感謝しようと思ってもなかなかそうはいかない。 嬉しいときならともかく、気に入らない相手に怒鳴られても−−それでも 感謝−−なかなか出来ないことです。反省が必要なときは、感謝が出来にくい 状況である場合が多いんですね。 私は、「徳」と「大乗利他」とそれを貫く強い「信念」を考えるわけですが、 どのように感じられますでしょうか。 捧げ尽くしたときに本当の感謝が涌いて来るというのを信じているDIRACでした。 ありがとうございました。 00756/00756 GGD03030 《 隆 》 空が高い(^^) (13) 93/11/03 16:03 00748へのコメント  KAZEさん、こんにちは。    気がついたら・・・11月になってしまいました(^^;)。空がとっても高くなりま  した。ここんとこ雑用で妙に忙しい上に、なんだかとっても眠たくて、ノヘっと  しています。いくら暇とはいえ、年末に近づくとそれなりに忙しくなってくるも  のですね。    >隆ちゃんにとって何らかの可能性を秘めているというか、  >なにかとても大事なことを教えてくれようとしているのでしょうから、  >それに感謝の気持ちをもって臨む必要があるのかもしれない・・・  >なんていう余裕はないのでしょうね(^^;;。  だはは、まあそうなんですけど・・・。でも最近はちょっと余裕が出てきました  よ。辛いながらも、割と冷静に自分の身体の状況を観察できるようになりました  し、感謝まではいきませんが、「一体これは何のサインかしらん?」とは思える  ようになりました。    >今も、先日のストレスが一気に身体にでたのか、首がまわらなくなっています  >が、ま、これも、僕の視野の狭さを教えてくれているんだわい、と反省の機会  >になっているようです。  それって視野の狭さを教えてくれていると言うよりは、逆にあまり周りを見ない  方がよいっていうサイン(少しは休みなさいという意味です)かもしれませんね。  まあ、人それぞれに思う事があるのでしょうけど、色々な気づきの契機になるの  だろうなあと思います。    >何か行動するときなんか、なんらかの「断定」がないとダメです。  >問題は、もしそれがどこか間違っていた場合、  >あとでちゃんと謙虚に反省できるかどうかということなのだと思います。  そうですね、反省がないと猛進になっちゃいます。反省とつながりますが、断定  するときには責任が発生するのだと僕は思っています。ですから、断定できる事  というのは断定した本人がその事の責任を十分に負えるときに限ると思うのです  ね。僕はまだ時々この「自分で責任を負えるかどうか」の判断が曖昧なのに断定  口調になっちゃう事があって、わちゃちゃ〜であったり、赤面であったりするの  でした(^^;)。    >もちろん、その両方がいっしょにできる方もいるのでしょうが、  >凡人はなかなかそういうことは難しいものですよね(^^;;。  両方どころか、視野も狭くて行動力も無い僕などはどうすればよいうのでしょう  か(^^;)。特に行動力が劣るので(怠け者ですからね)、とりあえずそっち方面を  意識しながら生きているのですが・・・。    >「闇を見ない」というのも可能ではあるでしょうが、  >それだと最終的には逃避以外のなにものでもなくなると思うのです。  逃避で終わればいいのですが(個人的には良くないとは思いますけど)、結局は  見ないですむ事は無いのではないでしょうか。逃避のおっかない所は、逃げて逃  げて逃げまくったあげく、結局逃げきれずに大きなショックに遭遇する事だと思  います。結局、光にこだわりすぎると、かえって闇がきわだってしまうとも思い  ますし・・・。    >その神は、はじめからすべてが決定されている宇宙を展開させたのでしょうか。  そのへんはわからないです(^^;)。ある最低限の秩序はあると思いますが詳細はど  うなんでしょう。    >それともある「理想」に向かって、完全なるものが、  >さらに発展的なプロセスとしての完全なるものをめざしているか、  これもどうも想像しにくいというか、なんかピンとこないのですね。宇宙は果た  して進化するのか?というのも考えるところです。ある秩序・法則に沿って起こ  る変化は進化と呼べるのだろうかとか、呼べないとしたらその秩序・法則が進化  (変化)するのだろうかなどなど。結局まだなんにもわからんというのが正直な  ところですけど、感覚的には秩序・法則が変化するのはなんかぞっとしない(^^;)。    >運命を真に考察するとすれば、それは、単に視点をどこに置くか、  >という問題にすぎないのですから。  それはそうなんですけど、視点の置き場所を明確にしないと話はズレズレになっ  ちゃいます(実際かなりズレてしまったような気が・・・(^^;))。例えば、運命  に流されるとか運命を泳ぐという事にしても、泳ぐという能動的な行為と流され  るという現象が視点によって全然変わらなく見えたり、全く違う様に見えたりし  ます。勿論この二つは全く違うものであると僕は考えますが、直線的な4次元時  空では同じに見えるでしょう。  っで、視点を変えればという話になるのですが、運命というものをイメージした  時点で視点はあるところに固定されている訳で、そういう意味では運命は決まっ  ていると思われます。それを4次元時空が直線的でないという視点(僕にはよく  わからないですが)に移すと今度は運命という概念が意味を成さなくなるかもし  れません。ただ、相変わらずの視点で考えている人間には何が何だかさっぱりわ  からなくなります(^^;)。狭い視野や低いレベルの視点も時と場合によっては必要  ですし、それがなければ次のレベルには到底行けないと凡人の僕は考えます。    ところで、運命に流される云々の話ですが、僕はやっぱり結果的には流されるの  だと思います(^^)。勿論懸命に泳ぐのですが、どうしても流れに勝つ事はできな  いであろうと・・・。だから同じ泳ぐにしても流れにのった方が楽しかろうとも  思います。途中で渦に巻き込まれたり、わけもわからず流れに逆らう事もあるで  しょうが、それも含めて「泳ぐ」という事で筋力はつくわけです。その筋力が流  れに勝てるほどになるかどうかはわかりませんけど、つかないよりはついた方が  良いとは思われます。流される事と泳ぐ事は違う次元の事柄のように思うのです  が・・・。    >そういう僕の経験から推し量るとすると、隆ちゃんのしばしばの不調というの  >も、その「お気楽主義」の影の部分が現象化しているのではないのかと思われ  >ます。真のお気楽主義というのは、そういう影がない状態のはずです。  なるほど、確かにそうですね。そうして考えると「お気楽主義」というのはある  種、達人の域ですねぇ。非常に魅力的でもあります。なかなかに難しそうですけ  ど頑張りたいと思います(^^)。    >でも、いったい僕は今なにをしようとしてるんだろう?  僕は仕事が忙しいときは忙しさにかまけて、ほとんど何も考えていませんでした  が、暇になるとよくそういう思いが頭をよぎります。例によって「まあ、そのう  ちわかるだろう」とか言ってシャンシャンにしてしまうのですが・・・、死ぬま  ぎわになってもわからなかったりして・・・(^^;)、                               by 隆ちゃん - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/11/03 - 01486/01486 GGD02212 Soo <ログに残さないで下さい> (14) 93/11/03 17:15  下向き三角は臍よりやや下に降ろして陰を見るな…そこはだめ  ギチャウノ カキコミガ ナイノヲ イイコトニ バチアタリナ パロディヲ ヤッテシモウタァ (ー_ー;  エー、 シモネタRoom?ガ デキルトイウ ウワサヲ キキツケタノニ サキガケ ・・・(オオウソ)  アー シモネタハ RTダケノ ツモリ ダッタノニ ・・・ (ー_ー;(ー_ー; (Soo) - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 93/11/03 - 372/374 GFB00026 一輝 AMA族の系譜・外伝<4> (15) 93/11/03 18:29              <AMA族の系譜・外伝4>                …かごめかごめ1… 次の歌は、 日本古代史の秘密を担った。か過去から伝わる預言歌であり、 未来へ託された希望の預言歌である。  『かごめ、かごめ             (今、開かれる)   かごの中の鳥は             (今、飛び立つよ)   いつ いつ 出やる           (今、今、飛ぶよ)   夜明けの晩に              (真昼の荒れ野)   ツルとカメがすべった          (ツチとアメが合わさった)   うしろの正面だあれ』          (私・あなた・あなた・私)   注)カッコ内は、ARION  ●解釈1<過去>  『ソロモンの知恵の源   天使ARIONは   いつ顕れるのか   むかし荒野だった日本の国で   ツチ(縄文)族とアメ(AMA)族が合流した   あなたに目覚めるのは誰だろうか』  ●解釈2<現在>  『ソロモンの末裔、   封印された者たちは   いつ現れるのか   新しい時代の黎明に   ツチ(縄文)族とアメ(AMA)族が混血した   自分に目覚めるのは誰だろうか』                                    つづく 373/374 GFB00026 一輝 AMA族の系譜・外伝<5> (15) 93/11/03 18:33 コメント数:1              <AMA族の系譜・外伝5>                …かごめかごめ2… 私は以前<AMA族の系譜>で、以下のことを記した。 >* 海路グループのAMA族は、アレクサンダー大王の手厚い保護のもとに、 >  イランやメソポタミアやイスラエル、エジプトの重要な聖域を足早に尋ね、 >  それらに根ざす神秘主義のエッセンスを学んでいった。 >  エジプト神秘思想、ユダヤ神秘思想、ゾロアスター教などとの接触である。 >  またピラミッド(方墳)建築も、中東周辺の旅で習得してきたのだった。 > >  最近、巷で騒がれる「日ユ同祖論」(=日本人はユダヤの失われた12氏族と >  同祖であるとの説)は、海路グループが持ち帰ったこれらの知識が原因だが、 >  血の繋がりで言えば、全くルーツが異なるものであって同祖ではない。 >  日本に於ける「ユダヤ人」の活躍と称される文書に、 >  この「AMA族」を当てはめると、謎解きが明解になるので試されたい。 > >                       <AMA族の系譜・6>より 私は遺跡の発掘体験や、決して豊富とは言えぬ歴史の知識による先入観から 抜けウ&ーnネいままに、ある事実にぶつかり、ここ数カ月悩んでいた。 上記の事柄は、一部修正の余地があるのだ。 ヘ それは、AMA族こそがイスラエルに住んでいた民であった、という事実である。 このことは、ARIONから約3年前に聞いていたことであったが、 先の理由でどうしても受け入れることが出来ず、 記憶の片隅に留めているに過ぎなかった。 先日、中矢伸一氏から、ARIONの話によると失われたユダヤ10部族のうち 6部族が日本に来ていたということ、そのうちの2部族(海路グループ)が出雲族、 4部族(陸路グループ)が日向族になった、という事実を聞き、 先入観によって打ち消してしまった記憶が蘇ったというわけである。 この話はAMA族の歴史、つまり世界史に大きな疑問を投げかける。 私の中では、例え共通の風俗が見い出せたとしても、 現在イスラエルの地に住んでいる白人種としてのユダヤ人と、 モンゴロイドとしての日本人が、歴史教育による先入観によって、 頭の中で結びつくことはなかったのだ。 まず、AMA族こそがイスラエルに住んでいたからと言って、 我々のルーツが本当に白人種であったのか、 あるいは誰がそれを言いだしたのか、を徹底的に調べ上げねば、 自分の中の疑問を完全に払拭することは出来ないと考えた。 以下は、その調査報告である。 さて、ここで再び「日ユ同祖論」が脳裏に浮上してくる。 「日ユ同祖論」は、1875年(明治8年)イギリスの商人マクレオドの著書、 『日本古代史の縮図』によって内外へ向けてデビューした。 イシヤの歴史研究家であったマクレオドは、 幕末末期の1867年から長崎、神戸、大阪などに滞在し、日本研究を開始する。 一般には横浜に来日したユダヤ系スコットランド人と言われているが、 真偽のほどは明らかではない。 幕末頃から訪れるイギリス人やドイツ人、フランス人、アメリカ人のあいだでは、 日本国民の持つ独特の民族文化や特徴ある行動様式に、 中国や朝鮮のものとは異なる血脈が感じられ始めていた。 彼らが考えたのは、『旧約聖書』にもその後の歴史が描かれていないという、 古くから欧州で夢遊病の如く流布されていた伝説の種族…… 「三千年前にイスラエルの地を追われ、 行方不明になったユダヤ人12部族のうち、東方に追放された10部族」が、 日本に住み着いているとしたら説明可能である、ということであった。 イスラエルの失われた10部族は、栄華を極めたダビデやソロモンの統一王国の後、 南のユダ王国、北のイスラエル王国に分裂し、 北王国がアーリア人種系のアッシリアに征服され滅ぼされかけたとき、 東方へと旅立ったというのが伝説の発端である。 日本が、古くから金の産出の豊かな国であるということ。 そして仮に金銀財宝を沢山積んで行方不明となった ソロモン船団の終着地点だとしても、 伝説は充分に成り立つと彼らは考えたのである。 当時は、イシヤの目論んだ金銀比価格の国際化に日本が追い付けず、 絶え間なく金塊が国外へと流出する真っ最中であった。 当時行った幕府の貿易統制は、現在の日米・日欧貿易摩擦の源流ともなっている。 この黄金の島ジパングに、10部族が来ていることを発表したのが、 『日本古代史の縮図』であった。 英文で書かれたこと、聖書の普及に遅れたという二つの理由から、 日本国内に於いては、殆ど相手にされることはなかった。 しかし、これが小谷部全一郎らの翻訳によって出版されると、 欧州文明に劣等感を持つ者たちの間で、強く支持されることとなったのである。 一方、日本民族主義者を取り込み、彼らの主観ひとつで、 紙一重に反ユダヤへも親ユダヤへも転じることが可能であることから、 滑稽無唐な「危ない文献」として、 戦前戦後を通し歴史家からは無視されることになった。 大衆を「感動」「関心」から、急転直下で「無感動」「無関心」へ落とし込む。 その隙に、着々と自分たちに都合の良いプロパガンダが行われる。 このようなメディアを使ったイシヤお得意の戦略は、 日本の真の歴史を封じるには打って付けだったのである。 「本物そっくりの偽物」を輸入させ、最初はメディアで持ち上げて肯定風潮を作り、 飽きられてくると否定風潮を作り、最後には「全て偽物」のムードを演出し、 とことん偽物をコメンテーターが馬鹿にする状況を迎えたところで、 ドミノ倒しの如く「本当の本物」まで大衆に唾棄させるという戦略である。 ここ10年近くのUFOや超能力・霊能力、精神修養技術、チャネリングに関する 輸入のパターンを振り返って頂きたい。 僅かな本当の情報に、沢山の嘘情報を混入させて売り出すわけだ。 しかし、結局はこれも嘘なのである。 日本の独特な風俗習慣に目を付けて、古代に白人であるユダヤ民族が日本を訪れ、 彼らが現在の日本人や天皇家の祖先となったとする「日ユ同祖論」は、 日本人の欧州に対する劣等感を満足させ、欧州の価値観を導入し易い状況を作り、 正史に混乱を招くために仕掛けられた嘘だったのである。 イシヤがアジア攻略の中で、最も手ごわい相手と認めた日本だけに、 マクレオドの『日本古代史の縮図』は、日本攻略の秘密兵器として、 先に挙げた輸入パターンの手始めに使用されたわけである。 以上の事実を確認した上で、 マクレオドの著書の中にある僅かな真実を解凍する必要があると私は結論し、 検証作業を続行中である。                                    つづく 374/374 JBH00742 スサノオ RE:AMA族の系譜・外伝<5> (15) 93/11/03 19:47 373へのコメント  一輝さんへ  こんにちは。お久しぶりです。  AMA族の系譜について感じたことがあるので  少しばかりコメントさせて頂きます。  一つは現在のユダヤ・キリスト教はかなり偏った見方がされている  ということを忘れてはならないでしょう。  つまり分裂後の南ユダ王国を主とした記述に満ちているということです。  従ってダビデ・ソロモンの系列をまともに追っていったのでは  逆にイシヤの戦略に乗ってしまうことにもなりかねません。  注目すべきは北イスラエル王国の特にエフライム族です。  もう一つ気を付けるべきは血筋そのものと霊的思想(あるいは技法)  の伝播は別物である可能性もあるということです。  聖書の(特に旧訳聖書の)問題については某キリスト教フォーラムにて  試みていることがあります。  もしご興味があればそちらを覗いてみてください。  どうもお邪魔しました。m(_ _)m                            スサノオ