- FARION MES( 3):【めでぃあ室】本/映画/音楽 etc----<01> 93/11/09 - 00306/00306 GGD02212 Soo 中矢氏の新刊 ( 3) 93/11/08 22:38        ウシトラ イクサ  「日月神示 艮の戦」を読んだ。 (MES(15)の#377参照)  悪の権化「イシヤ」とは結社Mでもユダヤ資本でもなく、彼らを陰で操っている 秘密結社Iであり、その上層は悪魔を崇拝する小数のオカルティストなのだと言う。  私は書店に山積みされた本、つまり大衆に売れる、もしくは売ろうされている本 には眉に唾してしまう質なので、どちらかと言うと辛口の見方をしたくなる。  この世の覇権を牛耳ろうとする勢力の正体を暴こうとする書籍が世に出る頃には、 それを逆手に取るような準備が彼ら↑によって既になされているのかも知れない。  荒唐無稽と批判したい者にはどんどんさせておき、彼らを糾弾しようとする事が 愚かしい事のように演出する。彼らの勢力を脅かす新たな勢力への牽制とする。  神示を肯定するかのように見せかけて曲解や誤解に満ちた幾通りもの解釈を流布、 撹乱して何れが正しいか解らなくし、更には神示そのものの信頼性を失墜せしめる。  また本書を肯定的に受けとめる者をして本質から逸脱せしめるよう情報操作する。 菜食主義者をして肉食肯定論者と対立させる。国粋主義者の反米感情を煽り立てる。 古神道の愛好者をして仏教・キリスト教への不信感を増大せしめる。…etc. …とまあ、自分がイシヤならば、こんなふうにして分裂を画策するだろう…。      わしゃ石屋やのうて医者や。                (Soo) - FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 93/11/09 - 01760/01762 GCG01043 彩瀬 無邪気な自分は何処へ行った? ( 6) 93/11/08 23:13 01756へのコメント >>>>> #01756 あもりさん |   心がちらかってるだけだよ なるほど。確かに、そんな風にも思えます。 ヒステリーを起こして部屋中ひっくり返してしまい、 気がついたら混沌のまん中にポツンと座っていた。 そして、あまりの散らかり様に途方に暮れている。 整理整頓するにも、どこから手をつけていいやら分からない・・・。 そんな状態かもしれません。 けれど、いつまでも放ったらかしにしておくわけには行きませんね。 私も、ひとつひとつ拾い上げ、もう一度見つめ直して そいつらの居場所を探し出して、そこに収める作業をしていきます。 私の #1755の発言で、一つ勘違いしていたことがあります。 私が否定して「捨てなければ」としていた習性も、 私を作っている「大切な」要素であって、捨ててはならないものです。 何が欠けても、私ではなくなってしまうのです。 いつだって、誰だって、本来はそのままで過不足のない存在なんです。 私を形作っている要素のある特定のものを否定したり捨てようと考えたりする心は、 まだ、私を「あるがままに」見つめていない状態だと言えますね。 そこには、自分に対するある種の「期待」や「抑圧」があります。 それこそ傲慢と言うものでしょうね。 あの発言をした時点では、かなり真剣に見ていたつもりなんですが 結局、穴がありました。 もっともっと心を裸にして見つめなおしてみます。 | 失望している「僕」はどこにいるんでしょう? これは、<<僕に失望している「無邪気な自分」はどこにいったのか?>> という質問だと理解して問題ないでしょうか。 うむむ・・・。 私は、「いなくなった」「姿をくらました」と騒ぐばっかりで 「どこにいるの?」と問いかける事を忘れていたものだから、 ちょっと戸惑ってしまいました。 「弱気」の下に埋もれて仮死状態になっている。息をひそめている。 と言った気がしています・・・って言い方では、何か曖昧で、印象が薄いですね。 もし良かったら宿題として、何日か預けていただけませんか。 じっくり見てみたいと思います。 最後に。 あもりさん、コメントしてくれてありがとう。感謝しています。                              彩 瀬                              SAISE. 01761/01762 KGH02737 弥沙 ずっと、思っていたこと ( 6) 93/11/08 23:31  先月の最後の金曜日は年次有給で、会社は休みました。 それで、前から行きたいと思っていた、ある公園に行きました。 風が強く、平日ということもあり、人はまばらでした。 その公園には、小さな動物園があります。  しばらく、ぶらぶらと歩いてましたら、いきなり、  「ピ−ピ−」 という、動物の鳴き声がしました。  声の方を見ますと、モルモットの飼育小屋があります。 その中には、自由に入れるようになっていて、二人の小さな男の子がいました。  「ピ−ピ−ピ−」 悲鳴をあげるモルモット。子供たちは、逃げ惑う彼らをわしずかみにして 次々と、地面や、壁にたたきつけていました。  なんてことをと、駆け寄りますと、側に若いアベックがいました。  親なのかな。と、思っていたら女の人の方が、  「ちょっと、とめてよ。ねぇ。」 言われた男の人は、  「何やってんだ、あれ。わははは。」 と、子供たちはますますエスカレ−トして、蹴り上げていきます。  私は、まだ笑い続けているその人を押し退けて、  「だめだよ。その子たち、ないてるじゃない。そんなことしたら、 痛いんだよ。」  一瞬の間の後、幼い男の子は、まっすぐ私の目を見て、言いました。  「どうして?」  その澄んだ目は、言葉以上のものを、私に語りかけてきます。    どうして?そのおじさんは、笑ってるじゃない。    僕たち、何も悪いことしてないよ。  私は、次の言葉が何も浮かびませんでした。  この子たちはまだ、善悪の判断もできない年頃です。  まだ、笑い続けている男の人に「笑うな。」と、言えない私も、 とても情けなかった。  その時、彼らのお母さんが来ました。   バシン。バシン。うわ〜ん。 しばらく私は、隣りにあるたぬきの小屋の前で、それを聞いてました。   たたかれたら、痛いでしょ。“うさぎ”たちも痛いんだよ。 たぬきは、先ほどの“悲鳴”を感じとってたらしく、おろおろとしてます。  やがて、お母さんの声は聞こえなくなりました。 二人の子は、今度はヤマアラシのさくに、身を乗り出してます。 ここは下まで、1メ−トルはあり、コンクリ−トなので落ちれば 怪我ではすみません。  「あぶないよぉ。」  「どうして。」 また、あの無邪気な瞳で見つめ返してきました。    あぁ。ほんとに無垢な目をしてる。  「あれは?」  「ヤマアラシだよ。寒いからふるえているんだろうね。」 もう一人の子は、しゃがんで書かれてる文字を読みだしました。  「…に、し、な、い、で、く、だ、さ、い、…」  「君、いくつ?」けっこうすらすら読めるので、聞いてみました。  「らいねん、ほいくえん」     すごいでしょ。ぼく、もうよめるんだよ。  その目には、もうさっき怒られたことなど残っていませんでした。  文字を覚えるより先に、まわりの人たちが教えてあげなければいけないこと、  もっと大切な…こと…  時代があまりにも早く流れすぎて、それに戸惑っている子供たちが見えます。   空の色が毎日少しずつ季節を運んでくれること、   風のにおいがとても優しくなること、   星の光が勇気をくれること、   山はいつもそこにいて守ってくれること、   すべてのものに包まれていて、孤独じゃないってこと、   地球という星に生まれて幸せだと…いつか気づいてくれるでしょうか。  わたしは今の時代で、母親になるのがこわいです。                               弥沙  01762/01762 GCG01043 彩瀬 HELLO MESSAGE・・・ ( 6) 93/11/09 01:31 | …結論を早く出したいばかりに安易な結論に飛び付かない事… クソッ!! >彩 瀬 - FARION MES(11):★アキラの《平井和正*異界漂流》----<01> 93/11/09 - 130/130 VFB00116 小都子 RE:浜本末造の本 (11) 93/11/09 00:12 129へのコメント こんにちは(*^^*)このお部屋には初めて書き込みを致します。 とあることろで私と同じハンドルの方がいらしたことと、まだ皆さんが私のハンドル をご存じでないので(知っているのは主人とアキラさんのみでしょうか…このことを 半ばいいことに) 改めて「小都子」(ことこ)というハンドルにさせて戴きたいと思います。 アキラさん、お返事ありがとうございました。私は皆さんのようにたくさん書物(文献)に 目を通しているわけでもなく、全くと言っていいほど知識がないのでこうして 書き込みをさせて戴くのもおこがましいのですが…… わけのわかっていない子どもが何か書いているとでも思ってさらっと流して下さい。 何分、知識不足、ほとんど感性で生きているような人間ですので、率直な素人意見、感想 です。 私は一家で二度「玉置山」に参詣させて戴きました。一度目は今から思えば子どもに 対して下さった「飴玉」だったように思います。というのも、以後どうしても また行きたくて何度も何度も行く予定を立てるのですが、事情ができたり、 事象が起こったりして、流れてしまうのです。(まだ行ってはいけないのかなあ、 やっぱり自分が勝手にこの日なんて決めているけれどそう簡単には行けないところ、 時期が来て行ける時が来たら変な意気込みなどなくても行けるだろうから 力を抜いて待っていよう)なんて思ってました。 それから一ヶ月ほどして主人が書いていたとおり、ある一枚の吉野郡の土地売却の 広告が入ったのです。見学期日は10月23・24日の両日、この少し前に玉置山に 行っている夢も見ていたのでもう絶対行けると妙な確信まで持ってしまって… 当日は雲が多く、しかも分厚いふわふわした雲、そらが近く感じるようなお天気でした。 お祭りでしたので、初回に比べ驚くほどの車、人の量。 でも、でも、それとは対照的に私が感じた玉石社の石は何か沈黙を守っているような、 じっとしているような、敢えてそうしているかの如く見えました。 端的に私の感じたのはこの事でした。 また動きだすのかどうか… また玉置山に行ける時が訪れましたら率直な感想を述べさせて戴きたいと 思っています。 それにしても自然が織りなす景色というのは本当に綺麗ですね。私が大好きなスポット があって今回もそこを見ては「綺麗ねえ」を連発しておりました。 ですから、人工的に手を加えたり、人の手で汚したりというのは悲しくなります。 どんなに人間が頑張ってみても、自然の力には及ばないのですから。 自然のなかで育った植物はとても力強く活き活きとして、誇らしく存在しているように 私には見えます。(無論、勝手な見方ですが) 人間がすることは支配ではなく、ほんの少しの手助けと、愛情(心)を注ぐことなのでは ないのかな、なんて偉そうですね。 土地の件ですが、申し訳ないことにその広告をリサイクルに出してしまったので 詳しいことはお教えできないのですが、(とにかくすごい急勾配で絶対にこれは 住めないと判断したものですから手元に置いておかなかったのです。) 168号線の(大変な勘違いかもしれませんが)西野トンネルを抜けて2〜3本目の細い道を 左へ折れた所だったと思います。天文学習センターにも近いとあったのでその付近には 間違いありません。70万円からで1区画とありました。 あやふやな事しか申し上げられなくて本当にすみません。 以上、勇気を出してアップした小都子でした。 皆さん、どうぞ宜しくお願いいたします。 - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/11/09 - 00764/00767 GGA02514 KAZE 慌ただしい日々の中で (13) 93/11/09 02:21 00761へのコメント 隆ちゃん、どうも。 ここんとこ精神状態は持ち直していますし、体調もまずまずなのはいいのですが、 この慌ただしさはなんなんだ!って感じの日々が続いています。 けっこう時間をどこかから捻出している僕も、ちょっと息切れの状態です。 なんだかマラソンの途中でもう走るのをやめようやめようと思いながらも、 ここで立ち止まってしまったらもう二度と走り出せないような気がして、 必死になって足を前にかろうじて出してるような感じです。 確かに学ぶことはどっさりとあってありがたいのですが、 早くオアシスを見つけて、ひとときの休息に身を委ねたいものです。 >身にしみるという事は、裏をかえせば「ありがたい」という事なのですよね。 >僕としては、そういう体験を通してまだ未体験の「ひどい目」も実はわかっち >ゃいないんだという事を理解したいと思うのですが、実際はなかなかに難しい >訳で理想と現実のギャップは大きいのでした。 ほんとうにそうですねぇ。 僕にとってもその理想と現実のギャップははるかに大きいものです。 先ほどお話した息切れの苦しさも、「ありがたい」と思わなければ、 という気持ちと、「やっぱり苦しい」という情けなさの間で、 どっちつかずの状態になっていて、やっぱり人間ができてないなあ、と 反省することばかりがしきりです。 はやく、自然な気持ちで感謝できるような心境に近づきたいものです。 >普段温厚な方が怒るというのは非常にインパクトが強いものです。 そのようですね。 僕は温厚というよりも、ひととひととの摩擦を極力さけて生きてきましたから、 今回のような「怒りのぶちまけ」っていうのも、 一種のブレイクスルーなのでしょう。 ひととひととの関係をもっと真剣なものにせざるをえない、という意味ではね。 先日立ち読みした本に、「感情的な人ほどひとに好かれる」という内容のものが ありましたが、やはり距離をとった人間関係よりも、 距離を縮めたそれのほうが、ずっと安心できるということなのでしょうね。 ま、僕はひとに嫌われる、というのもほとんどありませんでしたが、 その反対というのもそんなにない(^^;;ようで、 常に距離をとって生きてきましたから、そこらあたりに、 自分で破壊数を仕掛けはじめたのかもしれませんね。 それを考えるととっても恐ろしいのですが(^^;;、 たぶん、それも自分で仕掛けたことなのでしょうから、仕方ないのでしょう。 やれやれ、またまたたくさん学ばされそうな気配の今日このごろなのです(^^;;。 >日月神示といえば、最近カミさんが一生懸命関連の本を読みあさっています。 けっこう楽しめるでしょう(なんていうと、不遜かなあ(^^;;)。 ただ、日月神示は原文がよくて、解説書はあまりよくないようですね。 特に、中矢伸一さんの一連のシリーズは、視野の狭さと洞察力の低さがめだって どうにもこうにもイライラしてしまいます。 言ってることの多くは、おかしいというのでは決してないのですが、 (もちろん、部分的には激しくおかしなところがありますが) どうにもこうにもいろんな本のつぎはぎを不器用にまとめただけ、 という感じがして、その不誠実さにイライラしてしまうのです。 今回の新刊も、引用部分は傾聴すべきところが多いのですが、 結局、シュタイナー的にいうとエーテルレベルのことばかりで、 肝心のもっと広い意味での人間学というのが不在でやれやれなのでした。 でも、ああした新書のかたちで出す以上、ああいうスカスカの書き方をしないと 多くの読者が獲得できないということかもしれませんね。 人間学として読める解説は、むしろ桑田次郎さんの漫画の方がずっといいですね。 やはり、桑田さんの苦しみを越えた人間洞察というのは、 傾聴に値するものがあると僕などは感じています。 もちろん、神秘学的な深みというのはイマイチという感じもするのは事実ですが。 >そもそも数学は言語と同じようなもんですから、言語で世界を現せない様に、 >数学も実世界とはかけ離れたものだろうと推測します。 でも、その反面で、数学も言語も、高次の諸世界がこの世界に射影したものでも ありますから、それはそれなりに重要なものなんです。 もちろん、その破綻した部分も含めて、そうなんです。 カズタマというのも、その射影のあり方をとっても重視してますよね。 でも、僕の考えでは、カズタマにおける言葉の展開の破綻部分というのが とっても重要なポイントにもなっているのかも、なんて想像していまいます。 というよりも、言葉そのものの生きた動きというのこそが、 カズタマの新たな可能性を開く結節点なのかもしれません。 >その爆弾を爆発させる使命を人間は持っていると考えると楽しいですね。 シュタイナーによれば、△と▽の結びの位置にいる人間は、 下降する自由と上昇する自由を有する立場で、上昇することによって 神そのものの可能性を押し上げることができるのだそうです。 神は、みずからだけでは上昇する自由は持っていないというのです。 そう考えると、堕落できる人間が、がんばって少しでも学び続けることが とっても大切に思えてきませんか。 >原因と結果が織りなすダイナミズムだけでも相当なもんだと思うのですよ。 もちろん、そうだと思いますし、僕なぞも目に見えるような程度の因果関係さえ まだまだわからないことだらけです(^^;;。 ただ、仏陀にも「毒矢のたとえ」というのがあって、浮ついたことではなく 目の前にさしせまったことをちゃんとやんなさい!という教えもありますが、 反面、やはりできるだけ視点は多くもっていたいし、 できるだけ深い視点ももっていたいなあ、と思ってしまうわけです。 東理論という心強い味方(見方)も得られたわけですから、 これからお互い少しずつでもいろんな見方を模索していきましょうね(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00765/00767 GGA02514 KAZE 風遊戯24●運命が創造となる場所で (13) 93/11/09 11:13 どれほどの思いを経て この場所はつくりだされたのだろうか かつてわたしは誓ったことがあるという 自由によって愛を勝ちとろうと もちろんそうでない者たちは多く 自由であることの愚かさと危うさを諭す者も 声を荒げてわたしの無謀な試みを とどめようとする長老たちもいた 「運命はきまっているから得るものが多いのだ」 そう諄諄と説く最長老に わたしはこういったものだ 「そう、運命はきまっているのだろう  だが、ご老人、それはみずからがつくりだし  そうして運命ということを創造に変えてこそ  ほんとうに得るものがあるといえるのではないか」と どれほどの思いがこの地に わたしをふたたび生み出し どれほどの思いがこの地へと 流れ込んできていることか ああ、時間がわたしに流れ込む かつて争ったことも すべては意味深いことだったのだ いま、わたしはそれを知り さまざまな思いに身をゆだねる さあ、思い出のわたしよ その思い出が新たな礎となるように意志せよ わたしという存在はそこで運命となるのだ そして運命はそこで創造そのものとなる 00766/00767 GGA02514 KAZE 階層変換のインターフェイスとしてのエレメンタル存在 (13) 93/11/09 11:14 00763へのコメント YUIさん、どうも。 >彼らはとてつもなく簡単な視点を見つけることができなかったのですね。 >その「タテの科学」の世界を体験できなくても視点さえ見つけるべきだった >のに、と思います。 「とてつもなく簡単」といえばいえるのですが、 これが、現代のように唯物論的なドグマがまかりとおっている時代には 「タテ」ということをなかなか見ようという気にならないのかもしれません。 先日、数年前に知り合ったお医者さん(こちらの地方の医師会の会長さんを しているような方なのにとっても謙虚で探求心旺盛な方)と ひさびさお話をしていまして、その「簡単な視点」が いかに受け入れられないかということに話が及びました。 僕とその方が話していると、話はどんどん前に進んでいくのですが、 事が、通常の医者や現実の患者のことになりますと、 癌の告知の問題も含めて途方にくれてしまうことが多いようです。 ホスピスということを主張されている方が唯物論だったり、 お「説教」することの好きな坊さんがそうだったりで、 きわめて簡単だけれども一番肝心なテーマが受け入れられないんですね。 で、その方とお話していたのが、 やはり、ちゃんと時間と空間についての探求から 一般の方の理解できる説明の仕方を模索していかなくちゃね、 ということでした。 >どんなにこの世界のことを紹介してもたいてい真剣に関心を示してくれる人 >は皆無で身近に話し相手がいないのは残念でなりません。 ほんとうに、そうなんです。 僕の勤めている会社でも、こうしたことを理解できる方は皆無ですし、 医者や坊さんさえそうなのですから、やれやれです。 こうしたテーマが理解できれば理解できるほどに、 その残念さは大きなものとなっていきます。 現代文明の病理の根源がそれなのですから、 地道に探求しながら理解者をふやしていくしかなさそうです。 >そこ(「つのみ」)はまさに弓本体と身体(=生命体)との接点であり、会 >(弓を大きくひいて矢が放たれるのを待つ状態)に至るすべてのプロセスの >総和であるのです。生命体を通じて変換されたエネルギーはその「つのみ」 >を接点として身体から弓、矢、そして的までの物理的現象に帰結するのです。 おもしろいですね、お話を読ませていただきながら、 最近、僕の気になっている視点とどこかでそれがつながってるような、 そんな気がしました。 つまり、エネルギーが変換されるときのその「接点」ということについてです。 先日、シュタイナーの講演集をちらほらみていましたら、 「エレメンタル存在」についての興味深い話がありました。 この「エレメンタル存在」というのは、人間の生と死にあたって、 また、エネルギー変換が必要な場所で働く不思議な存在者で、 その存在者を高次の存在たちが「使役」して、 「この世」と「あの世」のインターフェイスとしているようなのです。 このエレメンタル存在というのは、おそらく、階層間の「接点」にいて、 エネルギー変換ということを司る存在で、 生のときにも死のときにも、その存在たちのお世話になり、 たとえば、原子力などといったパワーの発現などというのも、 この存在者たちと密接に結びついているのだという気がします。 この存在を「解く」ということが、おそらく「タテの科学」や それに関連した「運命学」をふくむ神秘学のキーになりそうな気がして、 今後ちょっと注目してみようかなと思っているのです。 >弓道はエネルギー変換の方法の一種でありまたそれを引き起こすため >の精神的ダイナミズムだということができるでしょう。 そういう意味では、武道というのは、 エネルギー変換のための身体=精神技法の集大成ということもできそうですし エレメンタル存在をコントロールするための実践魔術(^^;;だともいえます。 もちろん、その魔術は往々にして黒魔術になってしまうわけなのですが(^^;;。 >すでにお気付きのように私はなにか体験したことから意味を探るという >方法で考察します(^^;  その「方法」というのはとっても貴重だと思います。 もちろん、その「体験」を深めるのも浅いままにしておくのも、 エネルギー変換の「タテ」の視点が理解できるかどうかで、 大きく変わってくるのだろうな、という気がします。 そういう意味で、YUIさんの視点というのはとっても参考になります(^^)。 >なにしろ、この会議室は私にとっては的の前に立っているようで自分に嘘を >つくことができないからなのです(^^;; 僕も、この会議室では(会議室で「も」というべきか)、 「自分に嘘を」つかないで真剣に取りくみたいと常々思っています。 そうでないと、結局のところ得られるものがマーヤーに過ぎなくなるからです。 もちろんそのマーヤーは、単なる偽善にしかならないものです。 今後とも、体験と認識から発した「地に足のついた」やり方で、 お互いいろいろ得るものがあることを期待したいと思っています。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00767/00767 JBH00742 スサノオ RE:呼吸の停止について (13) 93/11/09 13:16 00762へのコメント  YUIさんへ  “気”と言うことについては、近年の気功ブームにより  間違った扱われ方をされているようで大変嘆かわしいものです。  “気”のことをまともに言い表そうと思えばかなりの分量の  コメントになりますので、少しずつお伝え出来ればと思います。  さて内気、外気ということに直接触れる前に、YUIさんは  私が以前UPした「矢叫びの声」についてどのように思われましたか。  次にYUIさんは何をどのようにして呼吸を止めるのですか。  既に私はYUIさんの“気”を引いてしまったのですが  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^  本論に入る前に私の質問にお答え頂きたいと思います。  心臓の負担云々については純粋に肉体に負担をかけない  つまり肉体の損傷などの危険を避けるという観点から申し上げたものです。                               スサノオ - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/11/09 - 01495/01495 PAG03543 NOISE 水火(ミカ)ちゃん(^_^) (14) 93/11/09 00:47 01494へのコメント みれさん、どうもおひさしぶりです。 >> で、お聞きしたいのは「火水(カミ)」が逆序の「水火(ミカ)」 >>になることについて、NOISEさんが何か気付かれることは無いか >>?ということと、「タタラ・アタタラ」という言葉が「水(ミ)」 >>と「火(カ)」の間に入ることで何か気付かれることは無いか? >>ということです。 難問を提出されてしまいましたね、どうしよう(^_^;)・・・。 たとえば「火」を「ヒ」と読むとしたら、「氷」も「ヒ」と読みますよね。そのよ うに「ヒ」には七つの意味があったのだそうです。      「ヒ音七義」(荒深道斉)   霊・日・光・火・冷・水・氷   ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ   →→→下降・収縮、凝集→→→→ ↑霊・日・光・火・冷・水・氷↓  無限の螺旋進化サイクル    ←←←上昇・膨張・分散←←←← 「霊ヒ」から「氷ヒ」までの下降は、霊体の物質化、または神霊の働きかけ、とす ると、「氷・水ヒ」から「霊ヒ」の上昇・進化こそが「人のカミゴト」の範囲だと おもうんです。この「ヒ音七義」はどちらかというと物質にあてはめたものですが、 「水ヒ」を「血液」、「氷ヒ」を「人体」と考えてもよいでしょう。人は「霊ヒ」 が、凝縮した「霊止ヒト」、小宇宙ですから。 言い換えると、「火水(カミ)」は神霊からの視点、「水火(ミカ)」は人からの視点、 「水火(ミカ)」のカミゴトは、まずは水を調達して、次に火を起こし、 お湯を湧かすようなことだとおもうんです。抽象的な表現ですが。 ちなみに「火水」が「水火」になるのは目新しいことじゃなくて、言霊学の山口志 道(1765-1842) なんかは「水火」を「イキ」=「息・生き」と読ませて「天地も人 も水火イキの凝り」というようなことを言っています。 次は「タタラ・アタタラ」ですが、「タタラ」というと、製鉄の「踏鞴」、「アタ タラ」は福島の火山・安達太良山(あだたらやま)を連想しますね。安達太良は古く はアタタラとよばれていたようで、まわりに鉄山とか、鬼女伝説があったりするの で砂鉄の産地だったのかもしれませんね。詳しい資料が有ったんですが、処分して しまったのでわかりません。 あと、地名では元寇の古戦場で足利尊氏が菊池武敏を破った、福岡の「多多良浜」。 「踏鞴吹き」は大量の水と火を駆使して日本刀を精練しますから、踏鞴師は「水と 火をむすぶ者」といえます。 「水・タタラ・アタタラ・火」は 「己が水と火(血)を以って剣を鍛えあげよ」 ということでしょうか? なんともまとまりの無いレスになってしまいました。 書いてる本人も訳がわからんです。 - FARION MES(17):★パワフルなえ★の《おふくろ通信》--<01> 93/11/09 - 665/666 JBH02324 なえ 元気録ぱわー《無名》 (17) 93/11/09 10:34 コメント数:1   《 無 名 》 わたし達はあらゆる可能性の中で生きている。 あれもこれもと欲しい物は多い。 だが、時としてたまらなく不安になり、自分を計りかねる時もある。 そんな時、じっと心を見る。 ただ、ただ、見る。 それだけ。 そこには冷徹な存在だけを感じる。 ああ、机があるね。窓がある。電話がある。 ただその存在だけを感じる。 もしも「この机はもう長く使ったので傷んだな。」と思えたら もうそれは「欲の世界」。 全てを冷酷に見、自分を解き放ち淡々とみつめる。 この世は全てが「無」から始まり、全てが「与えられている」。 そして、自分を離れ、ただ冷淡に世界を受け入れた時、 そこには幼児の純粋で無垢な心があり、そこに差し込む光をこう言う  「 無 名 」 こういう世界を感じる事が出来た時、初めて人は人として歩き始める。 感情に押し流され、自分を見失いそうな時、「無名」は貴方に道を示す。 666/666 GBG02755 すまる 悲しみは・・・ (17) 93/11/09 17:17 665へのコメント 悲しみは・・・ この世に自分が存在するということ。 悲しみは・・・ この私が人を傷つけずに終わらないということ。 悲しみは・・・ この私の思いの他に道があるということ。 悲しみは・・・ 心のままに生きるということ。 色のない世界の何が美しいのだろう。 悲しみのない世界のどこが優しいのだろう。 色も感情も隠して見えるものの、何が本物なのだろう。 ささやかな、ふと、心の温まる、言葉達。 思いやりの言葉達。 それを無視して何が心なのだろう。 愛は無色透明にして、色鮮やか。 悲しみは、深い青でありながら、燃える赤。                        すまる