- FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 93/11/17 - 01182/01192 JAB00735 ぱうわー バベルの塔? ( 2) 93/11/17 00:20 コメント数:1 聞いたことのある名前ですね。聖書で出て来ましたっけ? そういう建物って、すごく近代的であこがれますけど、なんか心配。 200メートルじゃあ、倒れた時大大惨事になっちゃいますね。 いくら安全と言われていても、建てたものはいつかは壊れます。 それが心配。でも、みてみたい。 入るだけで1万くらい取られそう・・・。 ぱうわー 01192/01192 PXH01650 杉本英雄 RE:バベルの塔? ( 2) 93/11/17 19:04 01182へのコメント バベルの塔・・・旧約聖書の話。バビロンの都にあった塔ですが、天に届くよ う建てて、人間様はこんだけエライんだぞと、あろうことか、 天に向かって矢を放っちまったのです。で、エホバの神は怒 って、(その頃は言語は一つだった)一人一人が違う言葉を しゃべるようにしてしまい、みんなコミュニケ―ションがで きなくなって、滅んだ...つう話(だったと思います)。 ブリュ―ゲルの絵にあります。 >いくら安全と言われていても.... 浜松は、原爆を落とす候補地でもあって、空襲がヒドかったんです。で、ア クト・シティ(がこの建物の本名)を建てるとき、不発弾が3発も見つかって、 運びだすときは、新幹線は止めるやら、周辺は店も休んで立ち入り禁止にする わ、大騒ぎだったんです。先月も1発また見つかって、今そのままなのよね。 だいじょうぶかねえ?? :英雄 01183/01192 JAB00735 ぱうわー 14番はよいとこ一度はおいで(意味不明) ( 2) 93/11/17 00:20 01167へのコメント といいたいところなんですが、オートダウンロードしても されていないってことは、書き込みがないのでしょうか? 書き込み一つでもしていただければ茄子というツールで簡単に 書き込みできるようになりますので、何か書いてくれませんでしょうか? うーん、一体どういうところなんだろう。部屋名が気になる。 ぱうわー 01185/01192 GBG02755 すまる 切ないだ、秋だね。 ( 2) 93/11/17 16:44 コメント数:1 乙女なんか? なんかさ、秋のメランコリーってのかな。 寂しくて、悲しくて、虚しくてさ。。。 欝なんだよ、ほんと。 なんもやる気ないだ。 このまま、冬ごもりするだ。。。                   冬眠する、乙女  すまる 01189/01192 PBA02422 さはし RE:切ないだ、秋だね。 ( 2) 93/11/17 18:25 01185へのコメント 冬来たりなば、春遠からじ…。なんて言いますから、元気になったら 顔見せてくださいね〜。                             さはし 01186/01192 PBA02422 さはし 頭が寒い(^^;) ( 2) 93/11/17 18:10 01173へのコメント 丸坊主になってしまったので、頭から風邪をひきそうですよ。(^^;) 鏡を見ると、みっともなくて笑えてしまうので、なるべく見ないよ うにしています。 少なくとも、髪の毛がクシャクシャになるってことも無いし。(^^;) 01187/01192 PBA02422 さはし RE:うなぎパイ ( 2) 93/11/17 18:18 01180へのコメント コメント数:1 こんにちは、杉本さん。 うなぎパイの箱に入っていたチラシに「団欒のお供に」って書いて あったような気がしますよ。 でも、うなぎパイって好きです、僕。(^^) ちょっとパラバラとなってしまうのが問題だけど、おやつには、も ってこいだし。 ちなみに僕の住んでする豊田市の生協には「自動車もなか」という もなかを売ってます。(^^;) 01191/01192 PXH01650 杉本英雄 RE:うなぎパイ ( 2) 93/11/17 19:03 01187へのコメント こんにちは、さはし さん。 うなぎパイの他に、うなまん、ていうのもありますよ。あ,それから、 徳川絵巻、つうのも。 でも、やっぱり、うなぎの白焼きかな! :英雄 01190/01192 PBA02422 さはし 献血したよ〜 ( 2) 93/11/17 18:29 今日、献血しました。免停になってしまったので、県の試験場に行ったら 献血車がいたので、400CCほど献血しました。その直後は何ともなか ったのだけど、後の講習時間は眠くて眠くて…。 - FARION MES( 3):【めでぃあ室】本/映画/音楽 etc----<01> 93/11/17 - 00308/00309 GBE02650 ユ−リ 許されざる者 ( 3) 93/11/16 22:24  まず最初にお断りしておきますが、この書き込みは「ネタバレ」ですので、これから クリント・イ−ストウッド監督主演の映画「許されざる者」を観ようとしている人は、 申し訳ありませんが、読まないでください。  これは映画に限らず、音楽でも小説でもなんでもそうなんでしょうが…  映画を何本も観続けていると、次第に目が肥えてきて、最初の頃は全然気にも止めな かった部分のおもしろさが理解できるようになったりするのが面白いところなんですが、逆に純粋に感動できる映画が少なくなってくるのが悲しいところです。  例えば、僕に関して言えば、高校生の頃ヒュ−・ハドソン監督の「炎のランナ−」に あれほど感動したのに、今観るとそれほど胸に迫るものが無い。また何年かしたら違っ てくるのかもしれませんが…  そんなこんなで、久しぶりに「面白い映画」では無く、「いい映画」を観たなぁ、と いう気持ちにさせられたのが、最後の西部劇と噂される「許されざる者」でした。  この映画について、細部にわたって話をすると本当に長くなりますので、この映画の テ−マだけに絞って話をします。  主人公のウィリアム・マニ−は、かつては名の知られた無法者。ですが、結婚してか らは心を入れ替え、一介の農夫として暮らしています。(劇の中ほどに、友人に向かっ て「今の俺はただの平凡な男だ」というシ−ンがある。)  初老を迎えた今、妻には先立たれ、2人の子供をかかえて、病気でバタバタと死んで ゆく豚の世話をしながら貧しく暮らしている。  かつては5人も一度に撃ち殺したという銃の腕も今はめっきり衰え、馬ですら満足に 乗ることができない。  そんな彼に、ある日賞金稼ぎの話が持ち込まれる。とある町で娼婦の顔が切られる事 件が起こり、その犯人が無法者でもなんでもなく、ちゃんとした所で働くカウボ−イ達 であったことから店の主人との示談で軽い罪に問われるだけで済まされた、ということ に腹を立てた仲間の娼婦達が有り金を寄せ集めて賞金稼ぎを傭った、というもの。  最初はにべも無く断ったマニ−も子供達の将来のために仲間とともに人殺しの旅に出 る。そして、犯人であるカウボ−イの命を守り、町の秩序を保つために彼等の前に立ち はだかる保安官(ジ−ン・ハックマンが久々の快演)と渡り合ううちに、しだいに昔の 無法者の血がふつふつと頭をもたげてきて…  だいたいスト−リ−はこんな感じなのですが、これをちょっと読んでもらうだけでも わかるように、昔の西部劇の不文律として存在した「善と悪の戦い」という軸が全く存 在しません。  主人公は確かに善良で無力で魅力的な男ですが、彼の行おうとしている行為は、娼婦 達に不満のタネを残したとはいえ、法的には自らの罪を償った男達であり、逆に保安官 は無慈悲な男に描かれているとはいえ、それはあくまでも「よそ者達」に対してのもの であり、基本的には自分の職務をまっとうしようとしているにすぎません。  そして、この映画のテ−マは「人間は自分が過去に犯した罪から逃げることができる か?」「罪とはなにか?」と、いうことではないか、と今の僕は思っています。            (以下、続く) 00309/00309 GBE02650 ユ−リ 許されざる者(続) ( 3) 93/11/16 22:26  例えば、こんなシ−ンがあります。  主人公の仲間に血気にはやる若者がいます。彼は人を撃ったことがありませんが、常 に仲間に「俺は何人も殺した」と言い続けています。  彼は、早く人を撃ち殺したい。撃ち殺して、皆にガンマンとして認められたい、平気 で人を殺せる人間だと、自他ともに認められたい。(これはこれで、立派な自己実現の 道です。)  主人公は、彼の望みをかなえようとします。ちゃんと襲撃の手はずを整え、万全の体 制を整えてから「あいつを撃つのはお前の仕事だ」と若者を送り出します。  首尾よくカウボ−イを若者に撃ち殺させ、うまく逃げおおせた後で、若者が自分のし た「人を殺す」という行為の重大さに怯える段になって、はじめて主人公は諭すのです。 「人を殺すことは非情なことだ。相手から未来も過去も奪い取ってしまう。」と…  主人公ははじめから「人を殺す」という罪の重さを知っている。  でも、それを若者に最初から「人を殺すのはいけないことだよ」と言って辞めさせる 訳でも無いし、若者に罪を犯させないために彼の代わりに罪を被ってやる訳でもない。  彼の望み通りに罪を犯させ、その重さを身にしみて感じさせてから諭している。  罪の重みを理解させるためには、その罪を犯させるしかない…  それから、こんなシ−ン。  娼婦の顔を切った男の相棒は、事件当時はむしろ犯行を止めようとした男であるにも かかわらず、成り行きから共犯者という事にされてしまう。  それでも彼は罪の重さに怯え、なんとか許してもらおうと哀願するのですが、どうし ても娼婦達からは許してもらえない。  そして、この男を主人公達が殺すシ−ンは、恐ろしく、吐き気がするほど不気味なシ −ンです。この時点で、この物語が単なる勧善懲悪の物語では無いことを、いやという ほど観客は思い知らされるのです。  そして、最後には主人公そのものが、完全に自分のなかから消し去ったとばかり思っ ていた過去の無法者の血にだんだんと変わらされてゆく。(「変わってゆく」のか?)  彼は黙ったまま、僕らに問いを発しているのです。  「人間は変われるのか?」  「人間は過去に自分の犯した罪から逃げることができるのか?」  「人間は本当に自分自身から逃げることができるのか?」  どのような受けとり方もできるラスト・シ−ンは僕に問いを預けているような気がし てなりませんでした。   - FARION MES( 4):【宴会/オフ】プラン・レポート------------<02> 93/11/17 - 381/382 NAG02033 EX RE:EXさんの書き込みからの連想じゃなく… ( 4) 93/11/17 12:21 380へのコメント  #380 Soo さん ふみふみ そうでしたか? また要らぬ事を書いてしまいました。(^^;) EX (NAG02033) - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 93/11/17 - 01622/01625 NBB01420 SUKE RE:怒りの傍観者? ( 7) 93/11/16 22:23 01615へのコメント  スサノオさん  短いながら、まさに的を得た励ましでした。  ありがとう!                 今日は元気だよん! (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 01623/01625 NBB01420 SUKE RE:怒りの傍観者? ( 7) 93/11/16 22:24 01618へのコメント  はじめまして、黄金仮面さん  公私混同なのか公私両立なのか、立場によって見え方が違うのでしょうね(^^;)。  私の場合、羨ましさを麻痺させた後に残るものが、本当に納得できない疑問点にな  るのでしょう。  「瞑想」と名前の付くような修練はしていません。  楽に座って心を落ちつかせる程度のことかなぁ。               今後ともよろしく (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 01624/01625 NBB01420 SUKE RE:SUKEよりARIONへ(目先の苦しさ) ( 7) 93/11/16 22:25 01600へのコメント  ARIONへ  週末に忙しく過ごしたため、私は時間稼ぎをしてしまったようです。  昨夜のアップ(#1614)では、あまりのことに精神的な不安定に陥りました。愚痴ま  がいの発言になってしまい、恥ずかしい思いです。  そのときに感じていた怒りは、「ずるさ」に対する怒りではなかったかと思います。  「ずるさ」と「賢さ」は違うと思います。  そしてまた、そのとき感じていた「疑問」というのは、何が本筋なのかわからなく  なったという、漠然とした疑問だったようです。  こうした体験をするときに、「いや、自分はこう考える!」という決意を持ったと  して、それではその「考え」はどこに源があるのか、と自分を顧みると、案外、幼  少から体験学習してきた既存の価値観であったりします。だから、こうした価値観  は本当に自分なのか?と躊躇してしまいます。  #1600の発言にある私の傲慢さについて気付いた日から、何となく私の頭に付いて  離れないのは、   苦しみを知っているから、強く生きられる   悲しみを知っているから、優しくなれる  という言葉です。           また気付いたことがあれば報告させてください。 Suke. 01625/01625 TBD00623 SUBUDH RE:0=∞=美=神(再三掲) ( 7) 93/11/17 00:18 01621へのコメント オリハルさん、こんにちわ。 美と神について、読ませていただきました。 おっしゃる事、よくわかりました。 ただ、僕の場合は「唯一絶対の存在」としての神を直接的に把握しようとする 方法はとっていません。人間と神との間には多くのヒエラルキーが存在してい ると思っています。人間が捉えられるのはせいぜい1つ2つ上の存在なのでは ないかと思っています。まあ、このようなモデルも個々によってどのようなも のが一番であるかは違ってくるのでしょうね。要はアプローチの問題なのでし ょうね。 さて、僕のハンドルの理由ですが、これはバリ呪術の先生が僕がその世界に足 を踏みいれると決めたときに付けてもらったものです。ですので、呪術的な行 道を伴うときは、この名前を使っています。バリ呪術はヒンドゥ系のアニミズ ムです。スブドは確かイスラム系のアニミズムと聞いています。同じインドネ シアのアニミズムが母体なのでイロイロな共通点があるのかもしれません。が 、僕はスブドの教えを知らないので何ともいえません。SUBUDHの意味はいろん なレベルがあります。深い部分はお教えできません。浅い部分では、とてもハ ズカシイのですが「智慧なる者」なんていうのもあります。 僕がオリファルコンを観たのは肉体から意識が解放されたときでして、それは 半透明の固形物なのですが、シリコンのようにブヨブヨしているよなイメージ がありました。用途ははっきりと教えてもらえませんでした。このときの体験 についてはいずれ書く機会があると思います。今回はこの位で失礼します。 SUBUDH - FARION MES( 9):★TAO のヒーリング・ルーム----------<01> 93/11/17 - 253/256 TCC00116 NoB 菊 ( 9) 93/11/16 21:16 252へのコメント コメント数:1 Noiseさん、インフォありがとう。それ、天皇家の菊の話、なにか本かなんかあ りますか。 じつは、アレックス王の生まれたペレにある博物館では、ハスの紋様も見たので す。ようなヘレニズムの伝達がどう「王」なるシンボルを形成しくのかちょっと 関心あるんです。 よく中国4000年の歴史なんて、しょーもない嘘がまかりとおっていますが、 中国は異文化にじゅうりんされてきたようなもんなんで、そんなことが歴史観に なっちゃうわけで、そこで入ってくる外来の王のシンボルとヘレニズムの関連と いうのはどうなのかなというがけっこう気になっています。 話は変りますが、12月に、またマックの本を出します。同じくエーアイ出版か らで、たしか『マックの通信』という題で出るでしょう。原稿はもう脱稿してい ています。今度の本は、CompuServeまわりをマックで扱うときになんか役にたつ かもしれません。内容が多いので、立ち読みはできないかもしれませんよ、と、 CMでした。ちゃんちゃん。 そういえば、CompuServeなんかだと、このTAOさんの部屋話題みたいのは分散し ているわりに盛んですね。 NoB 255/256 PAG03543 NOISE RE:菊 ( 9) 93/11/17 01:17 253へのコメント どうもNoB さん 手持ちの資料は図書館でコピーした断片的なもので、 確か戦前の分厚い本でした。 書店でもこの分野のやつは、なかなかみかけませんね。 普遍的シンボルとしての菊花紋の源流ってのは どこらへんにあるのでしよう。 蓮の模様というと仏像の蓮華座のようなものでしょうか。 日本の神様は菊座にのっかっていたりします。 チャーチワードに言わせれば、菊花紋や蓮はムー帝国のシンボル なのだそうですが・・・。 我が家のMacもINIT.cdevの類が増えてきました。 トラブルは困りますが、カスタマイズの面白さはMacならではですね。 254/256 TCC00116 NoB いろいろ ( 9) 93/11/16 21:22 251へのコメント スサノオさん、レスどうもどうも。 年末はできたらポルトガルに行こうかと思っています。こっちのほうとの連絡は とれたのですが、フライトの準備がけっこう大変。直行便はないし、その他いろ いろとね。 「あちら」の会議室は、MistyかなRekishiかな。ま、ごひーきに。 「キリスト意識」というのは、シュタイナーの言葉でしたけっね。でも、シャル ダン(ティヤール)なんかも実際それと同じようなこと言っているので、そうい う意識ステートとしてキリストがとらえられるというのはあるのでしょうね。 ただ、Mistyのほうでぼそぼそ展開していますが、意識や霊魂なんていうのは、 たいして問題ではないのですよ。キリストについていうなら、その信仰によって 霊の体=サルクスが復活するというのがポイントなんです。もうすこし言うと、 聖書において「霊」としてあるものは、日本人の神秘学好き好きがかってにロマ ンして誤解するのと違って、むしろ「サルクス」なんです。そのサルクスの感 覚、空間的な感覚が生命感なのだと言ってもいいのではないかと思うのです。 ですから、キリストの復活を信じるというのは、奇妙な、ブードゥー教まがいの 死者復活を信じられないのに無理して信じるっていうのじゃなくて、自分のサル クスが死すべきものであり、すでに死んでおり、そのなかにキリストが生きてい ると実感できるかどうかだけなんです。 このことは、本当は、聖霊の問題もあるんですが、ちょっとめんどいんでパス。 で、ですからね、それは、信仰ですらないんです。それは、すでに成し遂げらえ た祝福としてしかないのですよ。 信仰からあるんじゃなくて、祝福からあるんです。 そこんところが、うまく伝えられたらいいなと思いますが、なかなかそううまく いったことがありません。 イエス・キリストの命を死をこの身におびて生きている、ということの、キリス ト教というのが、なかなか現代ではむつかしくなっているのでしょう。 こういうとよくないのかもしれないのだけど、多くの日本人は西洋がキリスト教 文化だと思っているようだけど、そうじゃないんですよ。西洋のキリスト教受容 というのはかなり異教に近い。ただ、それでも1000年の伝統があるんで、ほ んまものもありまっせ、というのはある、というだけなんです。 ただ、なにが本当のキリスト教信仰かなどということは、むなしい議論ですし、 ろくなことがありません。みんなが自分が真理だといいはるだけのことでしょ う。 でも、あえていうなら、西洋の文化は、それ自身がひそかに異教であることを自 覚しているのだろうと思うのです。昨今のチャネリングだのカルマ論などという のは、そういう文明の屈曲したところから発生しているのではないかなと思いま す。 その屈曲の屈曲たるところが、なんか、ノーテンキに、近代化した日本にもたら されると、日本文化自体が過去の歴史自覚がないものだから、古代的なるものに ぐちょっとくっついてヘンテコなアマルガムができてしまう。アリオンがバリ島 の伝統なんかとぐっちゃになっちゃうのはそんなんじゃないかなと思うのです。 でも、そう言えば、揶揄にしかならないのだろうと思います。そうではないので すよ。でも、そうではないというためには、きちんとしたことも言えなくちゃ駄 目なんです。すくなくとも、僕が歴史フォーラムでやっている宗教史のように、 ある程度はアカデミックに吟味の対象になる理性と学問は必要なんだと思うので す。このフォーラムの別会議室で口をつくぐんだのはそのためなんです。 シュタイナーの神秘学にしたって、そこからそこから入ろうとしてしてしまう人 が多い。でも、そうではないんですよ。ある意味で、西洋の文化のひとつの相対 の統合としてシュタナーの神秘学はある。そのあたりというか、そして、そこに あるキリストというものですね、そこがカコーンとかっとばされてしまうと、か なり異質なものになるんだろうなという感じがします。ま、なんかうまく言えて ませんが。 なんか、暗いトーンに聞こえるかもしれないけれど、うまく言えてないんです が、神なんて信じる必要もないんです。イエス・キリストのことを考える必要は ない。なぜなら、神は、必ず、「あなた」を呼ぶからです。そして、「あなた」 はかならず「キリスト」に会うからです。こういう言い方は、もうほとんど信仰 でしかないのですが、そう「としかいえない」ものです。 ずばずばいうと、人が生きるということは、30なかばもすぎて、イエスやモー ツアルトも人生を終えたあたりを越えると、生きるということは、嘘のつみかさ ねであり、その嘘を嘘と気付かないように自分に嘘をつくことになるのです。 嘘をついているなぁとどっかで呼びかけるものがあるはずなんです。我々は残酷 ですし、狂暴です。それは、あまりにも明白です。なぜなら、この世界は我々の 結果であり、この結果は明白です。我々は無慈悲であり、嘘つきなんです。 でも、ほんとうはそれを知っている。自分のみじめさ、弱さ、苦悩を、隠してい ても嘘ついていても本当は知っている。そして、そのほんとうにいつの日か会う ように「神」は待っているのです。 そうして「ほんとう」に会ってしまえば、「死」ぬしかないのだろうと思うので すよ。それは、肉体的な死や病を意味することもあるかもしれないけれど。で も、そうして死んでもなお、すべての虚飾が取り払われても、世のなかというも のにこてんこてんに打ちのめされても、すべてを失い、その苦しみに降りていく とき、嘘は終わり、そこには、ただ、イエス・キリストがいる。そしてそのキリ ストに会って、なお生きているという不思議がただある。 僕なんぞは、聖書を学問しちゃったこともあるんで、こざかしことをしこたま知 っています。でも、イエス・キリストを知るには、聖書なんかいらないと言って もいいのかもしれないと思います。ヨハネ書の話に、罪を犯した女がイエスにひ きだされる。彼女は石打ちの刑で殺されなくてはならない。そこで、イエスはれ いの「罪なきものが」と言うわけですが、このアネクドーツのポイントはそこじ ゃないんです。誰だって人生生きてみれば本当は、石打ちの刑で殺されなくては ならない状況にあり、そこで、イエスに会い、そしてイエスのもとで生き始める ということなんです。この女性のことを思えば、イエスの存在のメッセージは単 純です。そして、彼女は、イエスを忘れないでしょう。人類がイエスを忘れない ように。 でも、イエスというのは、隠喩でしかありません。キリスト教というものも信仰 も比喩でしかありません。言葉という媒体がなければ思いが伝達しづらいよう に、イエスもキリスト教も媒体でしかありません。 ただ、真理はいろんな入り口があるというくだらないことがいいたいのではない のです。真理なんていうものはどうでもいい。イエスの比喩が意味するものはた ぶん、たった一つなのでしょう。 ま、奇妙な熱弁しちゃいましたが、キリスト教の癒しというのは、この、新しい 命にあずかる、ということで、こじつけさせてください。 MoB - FARION MES(10):★MWの深層心理研究室--------------<01> 93/11/17 - 239/239 JBH02324 なえ RE:???症候群 (10) 93/11/17 14:02 238へのコメント いえいえ、やっぱ書くべきだったかや・・。 そりは「恐怖」症候群ですね。 あたし??あたしは書き込み恐怖症候群です。(^^; 書き込みを止めると・・・・訳もなく手が震え、書かずには居られなくなって・・ 最後には異常なまでに書き込みに執念を燃やす・・・。ア ア コワイ (^^; ほらほら・・そこの読んでいる貴方!!。あなたですよ。 ほおら・・もう貴方も、その病気に感染してるんじゃありませんかぁ??? ああああ・・・・・手が!手が勝手にエディッタを起動しているるるぅ・・・。 きゃああぁぁぁぁぁ。 恐怖の書き込みでしんどいろおむぅ!! ウソ バッカ (^"^;) さっ仕事仕事(^^; オラ オラ ハタラケ ハタラケ (^"^)/~~~~~~ピシ - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 93/11/17 - 00781/00785 GGA02514 KAZE 腹の座った書き方へ (13) 93/11/17 01:42 00778へのコメント YUIさん、どうも。 >一つ文章を書くにしても、あるひとつの壮大な文学作品を創りあげるにしても >それに対して払われる努力というのはそれが自分の血肉と化さない限り、苦痛 >として感じられることもしばしばです。だから私などは文章を組み立てること >にコンプレックスを抱かざるをえないのです。 ううむ、僕も今でこそ、こうして恥も外聞もなくたらたらと書いていますが、 そもそもつい最近まで文章を書くというのがいやでなりませんでした。 手紙などは生まれてこの方ほとんど書いたことなどありませんでしたし、 日記などというものさえつけたことはありません。 今になって振り返ってみると、言葉を使うことに対する欺瞞のようなものを そこに感じ続けているのかもしれません。 つまり、「血肉と化さない」言葉の欺瞞ということです。 ですから、高校で自分の進路を破壊させるまでは^^;、 数学の世界というのが僕にとっては一番心がやすらぐものだったのです。 で、こうしてパソ通で文章のお稽古をかねていろいろ書くようになったことを もういちど考えてみると、以前のような「頭中心の書き方」から、 「一度は腹を通った書き方」へと変わってきたように思えます。 今でも「血肉と化」したような書き方とは無限に隔たりがあるものの、 少しは言葉と行いの懸隔というのは少なくなったかなという気もしてるんです。 生業にしている広告表現にしても、数年前までの浮ついたものから、 最近では少しは「腹」がどこかに座ったものになっているかな、 と最近では自分なりに感じるところもあったりします。 そのために、このところ広告で賞などをいくつかもらえるように なったのかもしれませんね。 でも、こうしてかろうじてなんとか文章が書けるようになっても、 小さい頃からの言語不信や「コンプレックス」はまだまだ大きくて、 こうして書いている今でも、自分のなかでなにかが戦っているイメージを ぬぐい去ることができないでいます。 ま、認識にも、知識、見識、胆識という段階があるように、 少しでも「腹の座った」書き方ができるようになればと思っています。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00782/00785 GGA02514 KAZE RE:自分の血肉にするための人智学 (13) 93/11/17 01:43 00780へのコメント 杉本英雄 さん、どうも。 >自分の認識の浅さがわかるということは、それだけ自分が進歩しているというこ >とですね。読む度に新しい認識がある、ということは、素晴らしいことだと思い >ます。 そうですね、自分の認識の浅さを自分でいつも感じていられるということは とってもありがたいことだと思います。 反対にいうと、そう感じられなくなったときは、危険だということですから、 いつもいつも進歩していける自分であるように心がける意味でも、 「まだまだこれがすべてではない。 まだまだ自分にはわからないことがたくさんある。」 ということを山ほどもって生きていきたいと思っています。 幸い、その山は日々、どんどん大きく大きくなっているようで、助かります^^;。 つまりは、一つなにかがわかった気になると、 その度ごとにその何倍もわからないことが増えてくるわけで、 あせってしまうということでもあるのですが^^;。 >「世界は鏡」といえるでしょうか つまりは、自己認識と世界認識は、認識のベクトルが逆のように見えながら、 その実まったく同じことだといってもいいのだと思います。 >(この点について、詩の形にしたものがあります。近いうち >に、ARIONの会議室に上掲したいと思っています)。 楽しみに読ませていただきます(^^)。 >「ヒマラヤ聖者の生活探究第3巻」に、太陽系の創成を描写したくだりが >ありますが、諸惑星は、太陽から「生み出された」ことになっています。こ >れと、シュタイナ―の「太陽と月の分離」が一致するのでしょうか。月(前 >地球)に視点を置けば、「太陽が」分離したと言えますし、逆に太陽から視 >れば、「月(=地球)が」分離したと言えるからです。 「ヒマラヤ聖者の・・・」というのは、読んでないのでわかりませんが、 シュタイナーの宇宙進化論によれば、土星紀から太陽紀、月紀、地球紀、 木星紀、金星紀・・・と続くわけで、ちょいと違うかもしれませんね。 ま、そこらへんはそのうち読んで比較してみることにしましょう。 それと、ついでにコメントしときますと、 シュタイナーは、霊的には天動説、物質的には地動説が正しいとかいうことを どこかで言っていたように記憶してます。 ですから、宇宙進化のあり方についても、それがどの「視点」というか 「観測の地点」なのかということによって、 説明の仕方が大きく異なってくると思います。 >このシュタイナ―の壮大な宇宙進化を、コンピュ―タ・グラフィックスに >してみたいなあ。・・・ちなみにレムリア期、アトランティス期、 >もっと遡って、ヒュ―ペルボリア期の人類の姿を映像化できないかな ううむ、どうなんでしょうか。 たとえば、土星紀の「熱」っていうのをどう表現するかとか、 まだ「水」のない「太陽紀」、まだ「土」のない「月紀」などを どう表現するのかということを想像すると楽しいですね。 それに、土星紀の前には「時間」以前の「持続」の世界というのがあるのですが、 そこらあたりもどうやって表現していくのか興味津々です。 それから、「レムリア人」については、 シュタイナーも、現代人の目からみるとあまりに醜悪なので、 見るに耐えないのであえて説明しない^^;というのを随所で語っています。 あまり見たくないような、そんなイメージもあるのですが^^;。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00784/00785 JCF00616 YUI RE:ア−カ−シャ年代記より:英雄 (13) 93/11/17 17:53 00776へのコメント  杉本英雄さんへ  はじめまして。私はシュタイナーや神秘学については今もって勉強中ですが  、よろしくお願いします。 >わたしがシュタイナ―を知るきっかけになったのは、「アカシャ年代記より」 >でした。  「アカシャ」といえば最近ではそれの正体が「宇宙線」であった、というこ  とを耳にしたことがあります。その説によれば、宇宙線は何でも通過するこ  とが可能だから、宇宙におけるすべての情報はその宇宙線に刻みこまれると  いうのです。この説が真実であるかそうでないのかはわかりません。しかし  、科学は神秘学の一面を補い、また神秘学は科学を補うという補助の関係が  目に浮かぶようです。  本来すべての学問というのはひとつであって不可分であったわけですが現代  においてその学問の在り方というのは徐々に変化し、細分化の一途をたどる  ようになりました。細分化によってもたらされた収穫というのは生活を豊か  にする技術となり、人々はより楽に暮らすことができるようになりましたが  、逆に細分化はそれ自身では自らをも説明ができなくなったのですね。  最近でこそ、世界中に見られる超常現象や心霊現象、また臨時体験などを取  り上げる傾向も見られるようになりましたが、やはり「物質科学的」手法に  よって説明されているのが現状のようです。しかも、それがどんなに不安定  な基盤の上に乗っていようとも、それを科学者は疑いさえしないのです。   経済についても同様のことが言えると思います。なぜ不況は回復しないの  か、それを学者は政府の経済政策のせいにします(もちろんなかにはそうで  ない方もいるとは思いますが)。決して現在まで続いてきた経済機構、とり  わけお金のシステムについて言及しようとしない。もちろんこれも経済学の  専門化が原因だと考えることもできますが、ここには一種の学問に対する姿  勢というものも見られるのではないでしょうか。   環境問題についてもそうです。いかに上手に出費を押さえ、なおかつ最低  限の対策を立てるか。またいかに巧妙に地球資源を搾取するか、そのことを  考えます。けっして現代の経済学者がお金そのもののシステムを変えようと  考えないように、自然に対する愛情を育むような教育の実施、たとえば森を  大切に思う気持ちが、おえらいさんの頭ににはこれぽっちもないのです。国  家と国家のあいだのいわゆる「利益の取得戦争」がからんでいることを考え  れば現状ではやむを得ないのかもしれません。  話が随分と飛んでしまいましたが、上に書いた分は5分に1にも満たないの  です。わたしは物事を整理するということが下手なので、こうなってしまう  のですね(^^;  シュタイナーは世間でいわれている、いわゆる「オカルト」(この言葉には  怪しげな雰囲気があるのであまり使いたくありませんが(でも本来はもっと  素直な意味なのですけれど))的な指導者でもありますが、社会有機体の提  唱者でもあるのですね。  自由な人智学徒であるかどうかは私自身では判断のしようがありませんが、  できるだけそうありたいと願っているのです。それこそが私のシュタイナー  への敬意であると信じています。 YUI 00783/00785 GGA02514 KAZE メルヘンの世界観 (13) 93/11/17 17:35 水声社から、シュタイナーの関連書である、 ヨハネス・W・シュナイダーの「メルヘンの世界観」(高橋明男訳)がでました。 これは、もちろんシュタイナーのメルヘン論につながるものなのですが、 読んでみると予想以上に素晴らしい内容なので、 その一部をご紹介させていただきます。 この著者のヨハネス・W・シュナイダー氏は、 シュタイナー教育を代表する教育学者のひとりだそうですが、 今回訳出されたのは、日本での講演を集めたものなのだそうです。 そのために、日本のメルヘンもなかには紹介されています。 とっても読みやすい講演録なのに、内容はとっても深いもので、 その内容を簡単に言い表すことは憚られるのですが、 メルヘンの意味するものは、人智学の神髄に近い認識のように思われますし、 このところ僕が幾度か「叡智と愛」というテーマで繰り返しお話してきたことと 驚くほど近い内容となっていまして、正直言って驚きでした。 シュナイダー氏によれば、メルヘンの主人公のたどる道は、 これまで人類が歩んできた進化の道そのものでもあって、 それは、天上界と結ばれていた状態からあえて遠ざかって、 この世界でさまざまな試練に会い、 それによって成長していく人間の姿を表現しています。 ・・・すべてのメルヘンはなんらかのかたちで人間の発達を描いている、といえ ます。そこでは、人間の意識が、いわば最底辺にまで下降していく過程、そして その最底辺からふたたびもといたところまで上昇していく過程、という二つの過 程が描かれます。そして一つのメルヘンのなかには、人間の全体像が描かれてお ります。また、メルヘンのなかには、人間にとっての古い世界に属する存在たち が描かれています。それと同時に、人間の新しい時代、知性の時代に輝く太陽と でも言えるような、そういう存在も描かれています。  けれども、そのような新しい光に人間がいたるのは、必ずこの地上、大地の上 でということになっています。つまり、人間は地上から逃れるのではなく、地上 における生活を通して、そのような新しい光にふたたび到達するのだ、というこ とをメルヘンは描いています。 別の箇所で著者は、古代の叡智は一度すべてすてさられねばからなかった、 ということを言っていますが、これは、運命論に関して僕の繰り返していっていた、 叡智というのは愛によって再創造されなければならないということと同じですし、 以前からずっとテーマになっていたような、 「一度切り放されたものをもう一度結ぶ」という「結び」ともつながるものです。 つまり、一度は古代の叡智から切り放されないと、 人間は成長する可能性を持てなかったということです。 それがシュタイナーのいう「自由」「自由な意志」ということでもあり、 「ルシフェル=グノーシス」のテーマにつながるものでもあります。 ちょっとまえに、河出書房新社から訳出されたハンス・ベンマンの 「石と笛」という現代ドイツのメルヘンをご紹介したことがありますが、 あらためてこうしてメルヘンというテーマの深さを見てみると、 そこに込められている人間学には感動をおぼえざるをえません。 前にも言いましたが、この「石と笛」は、おそらくエンデの「はてしなき物語」を 越えた超名作だと思いますので、機会があればぜひ読まれるといいと思います。 また、それとあわせてこの「メルヘンの世界観」を読まれると、 思いがけないほどのメルヘンの世界の深さを再認識されると思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00785/00785 PXH01650 杉本英雄 太古の人類:英雄 (13) 93/11/17 19:06 KAZEさん、 的確なコメントありがとうございます。 >霊的には天動説、物質的には地動説 確かに読んだことがあります。その理由はなんなのでしょうか? >土星紀の前には「時間」以前の「持続」の世界 ううっ、これはちょっと表現できませんね。そういえば、この「持続」と 土星期との”遷移”は、最近のビッグバン理論の「無から有への相転移」と 似てなくもないですね。 ところで、シュタイナ―の描写する物質の階層は、以下のようでしたっけ? (高次) ・ ・ エ―テル *これらの諸相は、”波動” | の違いによる、と思ってい 熱 ます。 | 気体 | 液体 | (低次) 固体 (物理屋が見たら一笑に付すだろうなあ) >現代人の目からみるとあまりに醜悪 こわいもの見たさって、のもありますね。 この現代人は19世紀後半だから、「現代」のような、ホラ―映画がバン バン見られる時代ならば、それほど抵抗ないかも!? ちなみに、最初に受肉した人間の姿って、釣り鐘のような肉袋だったそう です。これって、C.ウイルソンの「賢者の石」に出てくる「古きものども」 とよく似ているんですよね(H.P.ラブクラフトも同じような描写をして いる...)。 昔、「UFOと宇宙」という雑誌に、ブラバッキ―の描写する人類の姿の 絵が載ったことがありました。レムリア人とかいろいろあって、何か、映画 に出てくるような奇妙な姿だったのを覚えています。誰か、知っている人い ますかねえ? - FARION MES(14):★HVHYの預言解読部屋------------<03> 93/11/17 - 01498/01499 GBA01276 しまうま 無題 (14) 93/11/17 01:17 :混乱に呑まれない為には、その動き・流れに目を奪われない事  光の黙示録の、詩編2の六 苦しみは 夜明けと共に、霜の様に頭上に 降るであろう 川を渡る時に 川のおもてを見てはならない  を、思い出した。  ハローメッセージのような忠告が出るということは、苦しみが霜のように頭上に 降る(白髪になるほどの苦しみ、という解釈でしたっけ)のも、そう遠くはないの かも。  「夜明け」というと、この間一輝さんが書いてらっしゃった「かごめかごめ」を 思い出す。  夜明けの晩に、ツチとアメが合わさった?  あるいは、 :明けの明星は、スグリの目の上に。 :夜明けの橋には、梟(フクロウ)は居ない。 :ただ、飽くことを知らぬ者には、夢の果てを。  というのもありましたよね。  梟の何番目の羽が・・・というのが、ゼビアス・デニアス・アイなんでしたっけ?  うーむ・・・眠いので寝よう。おやすみ。         しまうま (GBA01276) 01499/01499 JBH02324 なえ 狛犬 (14) 93/11/17 10:51  狛ちゃんは門番として、時に唐獅子だったりするけど、もっぱら神社の  境内を守っています。  でも、それが無い神社も有ったりします。羅列すると面白い事が解る。  どちらかと言うと日向の宮崎・鹿児島には居ないのですね。  中には猿だったり鶏だったりする狛ちゃんもありますが、やっぱ門番に  は違いなく、生活様式からこいう形になった様です。  あたしは個人的にスサノオノミコトさんの第6子?ウカノミタマノミコ  トさんのキツネちゃんが好きだったりします。赤い鳥居も綺麗だし。  で、何が言いたいかって言うと、こいう事を書いてしまうと、霊のぎち  ゃう・・・あ〜〜〜殺してない殺してない(^^;。例のぎちゃうが、RE  Sしにくるのでわ??と・・・召還呪文を唱えるのでありました。(^^; でんでろれん。 - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 93/11/17 - 393/394 MHD02672 TAO 紅葉旅行記 1 (15) 93/11/17 19:03  既に他フォーラムでUPしていますが、11月3日・4日の二日間、  奈良・京都・大阪を廻って来ましたので、その所感なぞを。  【法隆寺】  夜行バス「ドリーム奈良」号で、奈良駅前に着いたのが、朝七時。  JRで法隆寺前駅まで移動し、下車し十数分歩くと門前に着く。  八時までまだ間があり、ぶらぶらと歩くが、法隆寺付近の雰囲気と  いうのは、寺の抹香臭い印象が希薄で、重苦しさを感じさせない。  木の感触と白壁がそういう雰囲気を醸し出しているのかもしれない。  または、法隆寺建築には、大陸や半島から“モダンな”文化や技術を  携えて移住した帰化人らが大いに関わっているというから、その  影響もあるのだろうか。  門が開き、回廊の中に入る。五重塔を見上げ、それから大講堂へ行き、  ポストカードを買い求める。今は焼失してしまった金堂壁画の写真も  買ったが、六号壁の、向かって右に立つ観音菩薩(阿弥陀浄土左脇侍)の  凄絶なまでの妖艶さには、いつも衝撃を受ける。三白眼に近い眼差しの  ああいう容貌とは、例えばアジャンター壁画にも見受けられるが、多分  西方より東漸して来た、異国の仏教美術のスタイルが、法隆寺壁画にも  及んでいるのだろう。しかし、観音菩薩像の妖艶さというのは、あちらの  誘惑するような妖艶さとは違う、人を突き放すような超然とした冷酷さを  秘めたそれであり、故に魅惑されてしまうのだろうか。  大宝蔵殿に移る。百済観音は相変わらずスレンダーで優雅なただずまいで  あり、確かに美しくはあるのだけど、私にはどうもピンとこない。多分  この像にある「品行公正」なイメージが物足りないのだと思う。それに比し、  今度初めて見た救世観音には、確かに奇怪な魅力が感じられた。  救世観音が納められている夢殿は戸が閉められており、救世観音は網戸を  通して見るしかないのだが、内部は照明がないので、見にくいことこの上  ない。しかし用意周到に懐中照明灯を持って来た人がいて、その人が網戸の  間から救世観音の顔を照らし出してくれたので、私もそれに便乗して見せて  頂いたのであるが、救世観音の顔って、まず「精力的な」感じというのが  第一印象だった。何だか妙にギラギラした、顔面に脂が乗っていてもおかしく  なさそうな感じなのである。そういう意味では、実際の人間の顔をモデルに  したという説があっても、おかしくはないなと感じた。それくらい救世観音の  容貌というのは、百済観音のそれに比べ、「強い」パワーを感じさせる。  黒人的と評した識者もいたが、確かに全体的に大振りな造形の顔立ちだし、  大きな目と太い鼻柱が迫力を感じさせる。  救世観音は、長い間秘仏にされて来て、白い布でぐるぐる巻かれていたのを  フェノロサと岡倉天心が解いたというが、誰が何の意図を持って救世観音を  白い布で巻き、秘仏にしたのか…。梅原氏が「隠された十字架」で開陳した、  行信僧にそそのかされた藤原一族が、聖徳太子とその一族の怨霊を封じ込める  為に行ったという説も面白いし、説得力もあるのだけど、それだけではない  ような…(あくまでも勘だけだが)。  救世観音は側面から見ると、胸を引っ込め腹を突き出した格好になっている。  梅原氏はそれを「頭部に光背を打ち付け、背負わせる為」と説明したけれども、  あの直立ポーズは、中国人のフォーマルなポーズである、と言う人もいるので  ある。中国人自身に聞いたことはないし、直接見て確かめた訳ではないので、  確認は出来ないのだけど…。  後、夢違観音も心に残った。独特な髪飾りの造形、円みを帯びた容貌、  肉感的な身体、腕部の自由な動きが一体となって、悪夢を吉夢に変えると  いう、この仏様の性格を的確に表しているように感じた。なお、夢違観音の  容貌は、橘夫人念持仏(金銅阿弥陀三尊像)にも似ているなと感じた。  共に白鳳時代の作品だし、同じ作者だろうか?  【中宮寺】  夢殿を後にし、中宮寺へ足を運ぶ。お目当ては「弥勒半跏思惟像」だったの  だけど、実物を目の前にした時、何か期待をはぐらかされたように感じた。  ライティングの問題もあるのかもしれないけれども、何の感銘も受けなかった。  もっと違う光線状態で見たら、印象も違って来るかもしれないが、その時は  何か「軽い」と感じたのである。ちょっと気落ちしたのは否めなかった。  【慈光院】  中宮寺を出て、バスで慈光院へ向かう。慈光院は、江戸時代に小泉城主の  片桐貞昌が、父の貞隆の菩薩を弔う為に開いたものであり、貞昌自身も  石州流茶道の祖であり、石州を名乗ったという。庭園は良かったけれども、  借景には町並みしか見えないのには、ちょっと興ざめではあった。抹茶は  美味しかったなぁ…。  【談山神社】  再びバスで近鉄・大和郡山駅に行き、近鉄線で桜井駅に向かう。多武峰にある  談山神社は桜井駅からバスで約30分くらいの距離にある。今は紅葉シーズンの  為か、バスはすぐ満員になった。私は席に座れたものの、ちょっと疲れた為か、  窓からの風景を眺めることなく、談山神社に到着するまでウトウトする。  目が覚めると、もう紅葉が見えていた。  まだ11月初めなので、紅葉は4〜5分といったところだったけれども、  朱塗りの社殿と紅葉がハーモニーしていて、とても綺麗。人波は結構多く、  あちこちで写真を撮っている(私もその一人)。ちょうどお昼前だったので、  境内でお弁当を広げていた。  談山神社は周知の通り、藤原鎌足公を奉っており、「談山」の謂われは  藤原鎌足と中大兄皇子が多武峰で、蘇我入鹿を討つための極秘の談合をし、  後世に「大化改新談合の地」として伝えられ、それによって談山という  社号が起こったということである。  しかし、何でこんな山奥に神社を建てたのかいな、というのが今一つ  分からないのだけど、多武峰はいにしえより霊山として信仰されて来たと  いうし、また、戦略的な意味もあったかもしれない。「多武峰」という  のは、峰が多いことから来たというし、攻めづらい地形なのかも。  多武峰は「御破裂山」ともいわれ、何かの聖霊がいて、国家に異変がある時は  山が暴れて鳴るという伝承があるという。梅原猛氏によれば、御破裂山の  伝承には、鎌足の長男であり孝徳天皇の落胤だとも言われる定慧の、悲劇的な  生涯とは切り離せないものがあり、そこには「鎮魂」の意図がこめられている  ことも考えられるという。  定慧といえば、彼が建てたと伝えられる十三重塔(但し現存するのは、享禄  5年−1532年−に再建されたもの)も、彼が唐から持ち帰り植えたという  菴羅樹も見たが、定慧の悲劇的な生涯については、事前知識を得ていただけに、  胸に切々と来るものがあった。十一歳の時に唐へ渡った(追いやられた?)  定慧が、十二年を経て帰国したその年に、二十三歳の若さで殺されたという。  (なお、定慧が生まれた皇極2年−643年−には、山背大兄王が上宮一族と  共に果てている…)  談山神社が創設されたのは、鎌足の次男である藤原不比等が鎌足公の木像を  奉って三間四面の神殿を建てたのが始まりだというが、上記の事情を考えれば、  そこに兄の定慧に対する鎮魂の意図があってもおかしくはないように思える。 御破裂山にも登ってみようかと思ったが、後の三輪山登拝のことを考えて  止めた。ちょっともったいない感じもしたが…。  一説によれば、日本書紀の編纂には藤原不比等による改ざんがかなり入って  おり、日本書紀という「史実」が捏造されたことで、聖徳太子や大化改新と  いう“虚構”が、日本の「歴史」というフィクションの中に組み入れられたと  いうことだが、それとは別に、私個人としても“聖徳太子”と藤原氏の  絡みあいには非常に引っかかるものを感じる。 本殿の中に入り、お目当てだった、ガラスケースの中に展覧されている  「多武峰縁起」絵巻を見る。やっぱり、入鹿の首がはねられ、皇極天皇の  前の御簾に噛み付くシーンが開かれている。やっぱりインパクトがあるから、  あのシーンが選ばれるのだろうけど、いかにも妖しい絵である。  三輪山登拝のことが頭にあったので、1時間半ぐらいで多武峰を後にし、  三輪へ向かう。  【三輪山】  三輪駅で降り、大神神社の方へ歩く。この日は祝日なので縁日が開かれて  いたが、ここの「たこ焼き」はたこがたっぷり入っていて、美味しかった。  大神神社への参道は通らずに、左手より若宮社と久延彦神社の方へに廻る。  この日は快晴でシャツ一枚でも汗ばむほどの陽気だったが、久延彦神社への  参道を挟む竹林が、爽やかな雰囲気を感じさせる。その後は、三輪山への  登拝口がある、狭井神社へ。  先日は途中でへばってしまい、頂上までたどり着けなかったという悔いが  あるので、今度は水筒や甘い菓子などを準備し、軽装備で臨んだのが  良かったか、今度は40分ぐらいで難なく頂上にたどり着いた。頂上には  小さな社殿(祭神は“日向御子神”という名前だった)と、そのもう少し  先に磐座が鎮座ましている。この磐座は、中矢氏の「神々が明かす日本  古代史の秘密」(日本文芸社)によると“ニギハヤヒ”の墓ではないかと  いう。何か侵し難い空気が、あそこには漂っていたのは間違いないが…。 三輪山の秀麗な姿は、神山としていにしえより信仰の対象とされて来たが、  あまりに整った円錐形の姿なので、ピラミッドと評する趣きも見受けられる。 三輪山は蛇神を奉っているが、吉野裕子氏の蛇信仰に関する研究が、法政  大学出版局の「蛇 −日本の蛇信仰−」にまとめられており、当然ながら  三輪山の蛇信仰にも触れている。その中で、三輪山のような円錐形の山は  どくろを巻いている蛇の姿を連想させ、それが蛇神信仰につながったという。  また、吉野氏によれば、鏡は蛇の目を象徴しており、鏡は蛇の目との相似  から、蛇目 -カカメ- と呼ばれ、それが転訛して「カガミ」になったのでは  ないかという。鏡=蛇目というのは意表をついた指摘だったが、従来の  通説に収まらない見解を知る驚きには、心弾むものがある。 【大和神社】  三輪山を下山し、大神神社へ少し寄ってから、JRで長柄駅へ向かう。  日本最古の神社とうたわれる大和神社へ行く為である。創建は崇神天皇の  頃といわれ、明治期に再建されている。日も暮れかかっており、その微かな  光の中に、いかにも古びた雰囲気の社殿が浮かび上がっている。古くには  遣唐使出発時の祈願、第二次世界大戦時には戦艦大和に、この社の分霊が  勧請されたという伝承がある。  境内を廻っていると、白雉や白鶏が囲いの中に飼われているのを見かけた。  石上神宮でも、鶏を「神の使い」として放し飼いにしているが、ここでは  殆どが白雉、白鶏なので、その漂白されたような白のイメージに驚くと共に  何かの意図があって、白い鳥を選んでいるのだろうかと考え込んだ。  日もいよいよ沈もうとしており、この日最後の目的地であった大和神社を  後にして、長柄駅から奈良を経て京都の宿に向かった。  TAO 394/394 MHD02672 TAO 紅葉旅行記 2 (15) 93/11/17 19:04  【広隆寺】  早朝の京都駅から、太秦映画村行きのバスで広隆寺へ向かう。  太秦広隆寺前で降りると、もう目の前に仁王門が開いている。中に入ると  広々とした境内に朝の陽光がさし、微かに彩られた紅葉が美しい。  まず、本殿である上宮王院太子殿へ向かう。この堂は本尊に聖徳太子像を  奉っており(毎年11月22日に、一日しか開帳されない)、古来からこの像に  歴代天皇の御束帯(天皇即位の時、または宮中の儀式の時に着る衣服)が  即位後に贈進され、各天皇の一代を通じて着せるという。どういう理由で  こういう儀式が起こり、今だに続けられているかは不明だが、今上天皇の  からも平成四年六月に内金を贈進されており、目下調製中とのことである。  平成六年から着用させるそうだが、聖徳太子像に天皇の衣装を着せると  いうのは一体どういう意図があるのか、ミステリー(?)である。  広隆寺の起こりについては、「日本書紀」に下記のように認められている。       十一年十一月己亥朔。皇太子(=廐戸皇子)謂諸大夫曰。       我有尊仏像。誰得是像以恭拝。時秦造河勝進曰。臣拝之。       便受仏像。因以造蜂岡寺。  蜂岡寺とは広隆寺の前名であり、他にも秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺とも  呼ばれて来たが、現在は広隆寺に落ち着いている。廐戸皇子より秦河勝が  賜り、御本尊として奉った仏像とは、現存する「弥勒菩薩半跏思惟像」で  あるという。実際に「弥勒菩薩像」であるかどうかについては、意見が  分かれているが、田村圓澄氏によると「半跏像は、元来は出家入山前の釈迦、  すなわち悉達太子をあらわしていた」といい、悉達太子が頬杖をついて  思い悩む姿が半跏思惟像になったとのことである。  中国で5〜6世紀を通じて造られた半跏像は、ほとんどが悉達太子像だったが、  時代を下るにつれて、釈迦伝とは無関係に半跏思惟像が造られるようになり、  それらが弥勒菩薩と見られるようになって来たという。それらの弥勒信仰を  伴った半跏思惟像が、中国・朝鮮半島から日本へ伝えられるようになったの  だろう。  「弥勒菩薩半跏思惟像」が納められている新霊宝殿へ入る。薄暗い室内に  所狭しと仏像像が並べられていたが、奥の中央にスポットライトを浴びて  弥勒菩薩半跏思惟像が静かに立っていた。  この瞬間が、今度の旅の「白眉」だったと、今にしても思う。  ライティングはもう少し何とかならないのだろうかと思ったが、それでも  弥勒菩薩半跏像は、(陳腐な表現ではあるが)圧倒的な“崇高さ”とでも  評したい気配を発散していた。中宮寺では何の感銘も受けなかったのに比べ、  ここでは像の鋭角的かつ思惟的な表情と、柔らかな木肌の微かな光沢、  繊細な指先の動きに目が吸い付けられ、かなり長い間眺めていたように思える。  人間の肉体を通して、人間ならざる存在の精髄が滲み出ているかのようだ。  この像に恋する人は絶えないというが、どうやら私もその列に入ったようで  ある。  この気高く美しい像は、恐らく新羅から渡ったのではないだろうか。  広隆寺を後にし、路面電車で西院駅まで行き、そこから阪急京都線で梅田へ  向かう。  【四天王寺】  梅田駅から地下鉄で四天王寺前駅に移動する。駅からすぐ四天王寺へ着いた  ものの、繁華街の中にある寺というのは、奈良等と比べると随分趣が違う。  聖徳太子が推古元年(593年)に建立したというゆかりのある古寺だが、  何度も再建されているせいか、それとも土地柄なのか、朱塗りの色合いが  エグク、雰囲気も何もあったもんじゃないな、と思ってしまった。  おまけにお目当てだった宝物館が、休館日でないのにもかかわらず展示替えと  いうことで、臨時休館になっていた…。聖徳太子絵巻やら、聖徳太子の佩刀と  いわれる国宝の「七星剣」やら、色々と見たい物があったので、悔しかった。  それにしても、今度の旅行は大部分が聖徳太子絡みだったが、聖徳太子という  存在には、本当に奇妙な吸引力がある。日本史上、最もポピュラーな偉人で  あり、様々な伝記が伝えられているが、その中で奇怪なのは「未来記」と  呼ばれる聖徳太子の預言集であり、四天王寺にはその「未来記」が二、三種  納められているという。それ自体は後世の「作り話」に過ぎないと思うが、  「神皇正統記」を著して南朝の正統性を主張した北畠親房が、「未来記」を  引用し、南朝側の志気を鼓舞したというエピソードが残されている。恐らく  親房は、聖徳太子の「未来記」をまともに信じた訳ではなく、志気を鼓舞する  為の方便として使ったのだろうが、逆に言えば「聖徳太子」という名前が  それだけ権威づけられていたと言えよう。  【最後に】  旅に立つちょっと前、RTでふと思いついて、みれさんを通じてARIONに  “聖徳太子”について聞いてみた。答は下記の通りだった。     1.聖徳太子は実在した。     2.渡来人という説もあるが、そうではない。     3.彼の誕生に色々と疑問がある。     4.伝記は改変されている。     5.大阪の四天王寺に秘密の一部が保持されている。  聖徳太子の伝記はあまりにも美化されているが故に、かえってその実在を  疑わせるものがあるが、「聖徳太子」に相当する人物が実在したというのは  間違いなさそうである。「聖徳太子」の記録をしたためた日本書紀が編纂  される際、意図的な改ざんはあったにしろ、全くの創作でこういう人物を  でっち上げる意義も労力も不要な筈だから。  飛鳥〜奈良時代と、幕末。いずれも社会システムが激動した時代であり、  どの方向へ向くか、全く予測がつかず、波乱万丈でスリリングな時代とも  言える。その時代に生きた人々の思いや情念を、歴史の中から汲み取って  いくにつれ、命に限りある「人間」というはかない存在を愛しく思わずに  いられない。  TAO