- FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 94/01/10 - 01968/01969 TBE03167 ねずみ 旧友と親交を暖める私 ( 6) 94/01/10 12:37 昨日、かつてフィリピンで海外援助をしていた女友達と久しぶりに逢って、 援助のこと、彼女の仕事である看護婦のこと、人生のことなどについて、 実に深く有意義な議論を交わすことができた。 最終的な彼女の結論は、「おっさん、そろそろ爪切りなさいね」。 ああ、でぃいいいいいぷっ!! 01969/01969 GBA01276 しまうま 自戒をこめて ( 6) 94/01/10 21:22 自信を失ういちばん簡単な方法は、自分にした約束を破ることである。 誰も共鳴してくれない、と感じるときは、まず自分が果たして 鳴っているのかどうか、疑ってみる必要がある。 - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/01/10 - 01874/01879 JBH02324 なえ 発言者削除 :化け(^^; ( 7) 94/01/09 19:35 01873へのコメント 01875/01879 JBH02324 なえ それって・・ ( 7) 94/01/09 19:41 01873へのコメント コメント数:1 あたし良く解らないけどさ、 長い文章でも良く解るんだけど、殆どが「ありたい」「思う」「したい」「 出来たら」そんな羅列に見える。 恐かろうと、辛かろうと、まず相手と目見えてから、葛藤を通じて、身体が 感じて行くから、自分の物になるんでないの?それまでは理想論て言うんじ ゃないの? >出来た雛型を基に決意、実行そして飛躍する…真正面から! >翔ぶことについての説明を延々とする者は翔べないだろう 自分に都合の良い、おいしい部分だけ取り出すのは、たやすいと思うよ。 無論あたしにとってもね。 ゲホゲホ・・・(^^; 01876/01879 GBG02755 すまる RE:それって・・ ( 7) 94/01/09 22:28 01875へのコメント ありがとう、なえちゃん。 相手はいないのよね。 というか、出会った人全部だからさ。 羅列だけどさ、だからこそ、ぶつかったら頑張ろうって思うわけなんだな。 そうね、飛べないかもしれないね。 でも、とにかく、自分の夢を確認したってところなんだな。 現実を見るのが苦手かもしれないんだけど、 だからって現実の厳しさに負ける私ではないと信じてもいるのよね。 理想論も、ないよりあったほうがましよ。 現実に出会って修正すればいいことだしさ。 決めつけないことだと思う。                        すまる 01877/01879 VFD02105 メルク RE:愛されないこと。 ( 7) 94/01/10 00:15 01873へのコメント コメント数:1  こんにちわ、すまるさん。  すまるさん、あなたは優劣を排除したいといいながら、  自分に一生懸命優劣を付けているように見えます。  自分を本当にさらけ出したいなら、  その自分を最低最低と言わないはずです。  自分のやることに最低のレッテルをはることが、  本当に、自分を恐れずに表現することなのですか?  あなたは「それ」を最低呼ばわりできるほど賢いのですか?  そういうのは、高慢とは言わないのですか?  自分の中が優劣でいっぱいなのに、  どうして他人を、優劣を超えた目で見れるのですか?  それから、  「愛したい」という言葉の中には、  「いま私は愛していない」という自己暗示が隠れているように思います。  とても矛盾していますね。  揺れているのは表層に過ぎないのであって、  あなたの内的な本質(魂って言えばいいかな?)は、  常に愛に満ちていて、なんどきも小波ひとつ立っていない。  あなたの表層意識が限界を作っているんだと思う。                               メ ル ク 01878/01879 GBG02755 すまる ありがとう>>メルク ( 7) 94/01/10 02:23 01877へのコメント 自分のことを最低と言葉にはしましたが、本気でそう考えているわけではないよ。 そういう風に他人は見るだろうと思いながら書きました。 常識でいう最低のことを私は現在やっていたりするから。 「愛したい」って言葉には確かに、今は「愛していない」を含んでいますね。 それは矛盾するでしょうか?愛していれば、苦労しないよ。 出来ないから、苦しんでいるし、でも、それを諦めようとしていないって ことですね。いま、努力し始めたところなんだ。 少しづつ、実行出来るようになると思っているよ。 表層が限界を作っている・・それは当然のことだろう。 深層がいくら無限でも、それを行動に結びつけていくには、 そうとうの努力、壁を壊してゆく努力を要するよ。 あなたの言葉どおり簡単に実現すれば、この世界はもっと素晴らしいだろうよ。 そんな風に簡単に答えを出すものじゃない。 壁がどんなに厚く、幾重にもなっているのか、想像出来ることだろう? 人の心は宇宙と同じ広さを持つとも言われている。 この愛の実現には今生だけでは無理ではないかとすら、私は考えるよ。 だって、神様の愛なのだもの。私はただの普通の女だしね。 でも、今生、命あるがぎり、努力するよ。そう決めたのだもの。 覚悟、根性決めて、行くしかないさ。 この夢を失ったら、生きた屍だからね。 私のわかるところから、手をつけてゆく。実際それしか出来ない。 今の私には今の私の限界と言うものがある。しかし、明日はきっと、 次の新しい限界に挑んでいるだろう。 信じることだ。そう思っている。                           すまる 01879/01879 GBA01276 しまうま RE:人との衝突 ( 7) 94/01/10 05:45 01849へのコメント  #1849 SUKEさん :けれど集団の中にあってその場での和を重んじることも、ケースとしてはある...  ありますねー。僕は会社の同じ部署には、友達と呼べる人はいません。「友達み たいな人」ならいるんですけど。思ったことをぶつけ合うには、僕がまだまだ力不 足のようです。「友達みたいなふり」をしようとすると、どうしても背伸びになり ます。だから、どちらかというと周りの人は「先生」という感じです。  ただ、きっと自分の方が正しい!と思えるのに「和を重んじる」がために黙って しまうこともあります。これをなくさないと、たぶん僕はこの仕事で本当に飯を食 うことはできないだろうと思ってます。 :あるいは衝突によって相手の可能性を絶ってしまうことも、ケースとしてはある..  相手の可能性を絶ってしまう衝突、というのは友達を作るための衝突とは別物で しょうね。相手の可能性を絶つ衝突を「殴り合い」とするなら、友達を作るための 衝突は「もみ合い」(←変な意味ではない(^^;))でしょうか。相手の心を解きほぐ すために、このへんがツボかな?とか思いながら、さぐり合う。たまには古傷に触 れちゃったりして痛がらせたり、へんなとこ触ってくすぐったがられたりすること もあるかもしれないけど、友達として相手の人格を尊重していれば、可能性を絶っ てしまうことはないと思います。  なんて、このへんのことはSUKEさんの方がよくご存じだったかもしれませんね(^^;)。  今年もよろしく!                   しまうま (GBA01276) - FARION MES( 9):★TAO のヒーリング・ルーム----------<01> 94/01/10 - 280/280 MHD02672 TAO モノローグ/世界の蘇生 ( 9) 94/01/09 21:50  かって手ひどい“失恋”を味わったことがあった。  そもそも、最初から普通の意味で言うところの「恋愛感情」とは、  かなり隔たった類のものだったし、素直にその感情に身を委ねられない  “罪悪感”をも伴っていた。最初から「報われないだろう」という  悲しい確信もあったし、実際その通りの展開になってしまった。  相手には告白出来たし、相手も私の感情そのものを否定しなかったと  いうことで、救われたところもあったが。  家族や友人が居ても、「愛されていない」「愛されないだろう」と  いう孤独と諦めの感情が、常に切なさを伴って胸の中に居座っていたし、  この内的不毛から、死ぬまで逃れられないかもしれないという恐怖も  あった。  およそ二年半前から、何故かと気にかかる人に出会い、気付いてみると  心の中に、その人の影が棲むようになっていた。これが果たして  “恋愛感情”と言えるかどうか分からない。冷静に見れば、好かない処も  かなりあるのだが、ある種の切ない感情をも確かに起こさせている。  部分的に共鳴しているだけかもしれないが。 去年後半に、ふと別の人と恋愛状況に陥りかけた。当時は確かに狂熱状態に  なっていたし、陶酔していたと思う。しかしその陶酔はあっけなく冷めて、  自分でも驚いたのだが、今にして思うとあれは、相手には申し訳ないのだが、  「恋する自分」に恋していただけのように思える。  その狂熱状態が去ると、またもや心の中に以前からの人が棲んでいるのが  くっきりと見えるようになった。これもまた、「報われる」ことは多分ない  だろうし、この“執着”から逃れるのはたやすくない。しかし今後、この  人の影を心の中から完全に拭い去るぐらいの出会いはもう“無い”、とは  言い切れないし、“執着”に自分の心を縛り付ける必要もないだろう。  今は、「愛されない」という己の恐怖自体をはっきり自覚しているし、 それ故に、人間にとって愛されるということがどんなに貴いか、確信も  出来ている。愛されなかったが故に傷つき、心の鎧を填めてしまった魂を  癒すのには、可能な限り無条件の愛を注ぐのが唯一の策のように思えて  ならない。  萩尾望都の漫画、「スターレッド」「マージナル」では“忌む存在”の  自己献身が“世界の蘇生”を遂げさせる。エルグは死の星ネクラ・パスタを、  キラは地球の病んだ海を、蘇生させる。  命の蘇生、魂の蘇生、世界の蘇生。  TAO - FARION MES(12):★SUBUDHの《アジア・チャンプル》----<01> 94/01/10 - 00120/00120 TBD00623 SUBUDH RE:はじめまして (12) 94/01/10 18:03 00109へのコメント AVIDYAさん おめでとうございます。返事遅れてごめんなさい。 > 一元論的サーンキャ説じゃないかと思われるのですが. 本当に,元論的な「ブ > タ」から次第に物質化が進み可視的な物質が生成される,というようなことが書い > てあるのでしょうか.SUBUDHさん教えてください. 具体的にそのような事が書いてあるかどうかは僕にはまだわかりません。カンダ・パ ットをすべてマスターしているわけではないからです。しかし僕が師匠から教わった ことの中にはそのような概念もありました。 それはバリ語の発生に関する話しです。                   Sang   Sang                          Bang            Ang    Bang   Tang      Ang                 Ang Om −     − Ung  − Tang − Ing      Ah                  Nang            Mang   Ang    Mang                          Sing                   Ing    Wang                          Yang 一番左のOmは「絶対」であり「全て」です。右にいくほど分化され個性がでてきま す。4列目のものは「パンチャ・ブラフマ」を表わすマントラになっています。 また、この表は分化の順序を示すものではありません。例えば、Omから直接Ang Ung、Mangに分化します。 表は5列しかありませんが6列目にはつぎのようなものがきます。  A  Na Ca Ra Ka  Da Ta Sa Wa La  Ma Ga Ba Ta Nga Pa Da Ja Ya Nya これらが、いわゆる「バリ語」のアルファベットの基本になっています。表記はサン スクリットに似ていますが、もっと丸っぽい。そうそう、日本の密教でみられる梵字 みたいです。Daは何故か重複しています。 でもって、これらのアルファベットを用いて単語がつくられているのですが、そもそ もこれらのアルファベット1つ1つには「意味」があるんです。 これらのアルファベットは、± U 岻ャ・ブラフマ」から派生しているので当然なん ですけどね。 僕等はすべての「モノ」に対して言葉を与え、言葉でもって理解します。 バリ語はその言葉はすべてOmから派生しているということです。 「パンチャ・マハー・ブータ」を「パンチャ・ブラフマ」に対応させれば、ブータの 一元性ということの理解につながるのではないでしょうか。 このあたりは「サンヒャン・シヴァ・グリグー」という文献に詳しく述べられていま す。 また、バリではあらゆる所に「パンチャ・マハー・ブータ」がでてきます。サジェン (供物)に使われる花も5種類の色が要求されますし、ガムランの基本となる音も5 つです。それで当然ながら5つの音それぞれは「神」をあらわしていて、曲の進行で の音の順番にも意味があります。例えば演奏最後の楽器はシヴァ(破壊・再生の象徴 )の音を表わす大きなゴングです。 >  それから,プダンダ・ボッダについてホーイカース以外に研究している人がいた > ら教えてください.またプダンダ・ボッダが使用しているテクストを紹介していた > だけると嬉しいです.なにしろホーイカースも読んでいないものですから. ヴェタンダにはシヴァ派とブッダ派がいて大きな儀式は両者が同時に行います。彼ら の使っているテキストということですが、僕が知っているかぎり彼らは独自のロンタ ルを持っていてそれを参照しているみたいです。ヴェタンダにしてもマンクーやバリ アンにしても基本は口伝ですので、本当に彼らの事を知りたいのならば、やはり弟子 入りするしかないでしょうね。僕が「カンダ・パット」の内容について歯切れが悪い のもこの「口伝」によって「秘密を守る」ことが義務づけられている部分が多々ある からです。 これからもヨロシク御願いします。                     《アジア・チャンプル》案内人 SUBUDH - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/01/10 - 00950/00953 JBH00742 スサノオ RE:宇宙子科学の研究生の方との出会い (13) 94/01/09 21:51 00944へのコメント  YUIさんへ  フリーメーソンとシュタイナーについてですが  シュタイナーは1910年前後から「メンフィス&ミスラム」  といった非公認のメーソン組織と接触を持っていたそうです。  (シュタイナー自身がこの事をどう捉えていたかは?です。)  20世紀末における彼らの戦略のひとつは、例えば国連を中心とした  地球環境問題に対する取り組み方にも窺えます。  つまり支配者層である自分たちの千年王国を作る為に  SDつまり「持続可能な開発(SUSTAINABLE DEVELOPMENT)」による         SSつまり「持続可能な社会(SUSTAINABLE SOCIETY)」の実現を  目下のところ目指しているようです。  彼らが「地球を守ろう」などと考えているとするのは  あまりにも“お人好し”のメンタリティと言わざるを得ません。                        スサノオ 00951/00953 PXH01650 英雄 RE:シュタイナー農法とEM (13) 94/01/09 22:55 00943へのコメント ええと、オリハルさんとは、この電脳空間内では 友人ですが(^^;)、実空間では面識はありません。 実は、ウチの会社で、去年からキチン・キトサン食品の販売 を始めたもんで。いや、そのテの会社じゃなくて、れっきと したコンピュ―タ会社なんですが...(^^;) で、少し講義を受けたもんですから。 効果とかは、また機会がありましたらご説明いたしますでづキ。 けっこう面白い話があるんですよ。 これは、TAO さんの部屋でアップすればいいかしら? あ、決して宣伝活動等は行いませんのでご安心を(^^)。 ほんとうはわたしは食べていない:英雄 00952/00953 GGA02514 KAZE 人間らしく生きること (13) 94/01/10 01:32 00947へのコメント YUI さん、どうも。 白光真宏会については、ちょうど知人がそれに入っていて、 どうもそれに基づいて生きているとしたらちょっと歯車が狂っているのでは、 と思えましたので、その教義について調べて、 それが間違って影響すると危険な面を見つけたのです。 知人といってもそれが悪く影響していると思えた方は ひとりだけではないので、特に危ないなと感じたということです。 「世界人類が平和でありますように」というわりには、 そうした方の家庭が全然平和でないままに、 世界人類の平和をふくめ、自分から視点を逸らしていてどうするんだろう、 と思わせるのって、やっぱり自己逃避だと思うのですがねえ^^;。 もちろん、五井さん自身はとっても暖かくて、 人格的にも素晴らしい方だったんだろうなとは感じましたが、 その優しすぎた部分があだになった部分もあったかもしれませんね。 でもそのおかげで、それまで宗教団体的なものには ほとんど関心がなかったのが、 白光真宏会以外の教義も調べることができて勉強になりました(^^)。 >もしや、ここでいう「カルマ」とシュタイナーのカルマは別のものなのでは? いえ、「カルマ」が別のものとしてとらえられているのではなく、 宿命的に作用するマイナスのカルマから脱して、 自由な意志によって創造するという意味でのプラスのカルマへと向かうという ダイナミクスが白光の教義には欠如しているということだと思います。 >「認識者」にとっては見分けられるのでしょうけれど、 ううん、「認識者」云々ということではないのだと思います。 問題は、自分の身に起こったことを、他のせいにしたり、 じっとがまんしたりするというのではなくて、 どうやったら自分も他も向上させていくことができるのかを 真剣に自分の「いのち」の問題としてとらえることができるかどうかですね。 言葉をかえていえば、「自分を見ること」から逃避しないということですね。 それは理論、*理屈なんかではなく、生きる姿勢の問題に他なりません。 問題をすり替えて、自分を甘やかそうとさえしなければいいということです。 ですから、もちろん、白光がいけないというよりも、 それを好んで受け取る方の姿勢にすべての問題はあるのだと思います。 宗教団体には、そういう方の姿勢などにまで すべて責任を負わなければならない役割があるのだから、 そこらへんのことまで考慮しないで活動すべきではないということです。 >これはアントロポゾフについてもいえることなんですよね。ただの、「知」に >よってのみシュタイナー思想を得ようという人がいるのは事実です。 そうなんですよね、ですから僕はセクトとしての人智学とは無縁なんです(^^)。 以前も、人智学に取り組んでいる方とお話をしていて、 人格の向上についての話になると、 その方は、「自分はそんなことには関知しない」としきりに言うのでした^^;。 シュタイナー教育をされてるという方も同じで、 多くの方はそのカタチだけしか関心がない場合が多いんですよね。 つまり、それが一種のブランド化しているということです。 シュタイナーや人智学を「信仰」したってしょうがないと思うんですが、 科学を信仰する^^;のと同じではいけませんよね、まったく。 人間としては「知」「情」「意」のバランスを大切にしながら、 それらすべてをダイナミックに活動させたいものです。 そういえば、こんな話があります。 (安岡正篤「知名と立命」(プレジデント社)より) 白隠の許に参じていた有名な婆さんがいる。それと同参の居士が非常に親し くしておりまして、婆さんを尊敬していました。ある時その老婦人の孫が亡 くなって、身も世もなく嘆き悲しんでいた。そこに居士がお悔やみにいって この男まだあまり(人間が)出来ておらぬ人と見えまして、「あなたのよう に禅に参じて出来た人でも孫を失えばそんなに悲しいか」と言った。すると その老婆は色をなして、「孫が死んで悲しくないような禅なら止めてしまえ」 と言った。まことにそのとおりである。  世の中には相当の人でも、道徳とか宗教とかいうものを誤り解して、道徳 や宗教を修めることは、悲しんだり、喜んだりせぬようになることと思って いる人が少なくない。これはとんでもないことでありまして、学問・道徳・ 宗教を修めるということは、人間がもっとも人間らしくなることである。人 間がもっとも自然真実に錬成されることで、人間廃業することではない。人 間を木や石にすることではない。なんでもないことであるが、そういうとこ ろに非常に誤解がある。心配事があって心配するということは人間として自 然のことであるが、そのために意気地なく苦しんだり、意地も張りもなくな ったり、うろたえたり、仕事が手につかなくなったりしない。平常と変わら ず仕事ができるというのでなければならない。 人間がもっとも人間らしく生きるということ。 そのことを離れてはすべての営為は無意味になる、そう思うのです。 カルマ論の一番大事なテーマも、やはりそのことにあるはずです。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00953/00953 GGA02514 KAZE カルマ・神・愛 (13) 94/01/10 01:33 00949へのコメント TAOさん、どうも。 MES14では、TAOさんの喪中にもかかわらず 新年のご挨拶をしてしまい、とんだ失礼をばいたしました^^;。 ま、それはそれとして^^;、今年もよろしくお願いします。 しかし、たしかにほんとうにひさしぶりですね。 >「血」「血統」を通して、個の中に遺伝的に継承されるものが >あるとすれば、それを単に「民族性」と表現してよいものか、 >私もためらわれるものがあります。 問題はその「個」で意味されるものによりますよね。 それと、時代や地域によってその「個」のポジションが 少しずつ異なっているということは押さえておく必要があると思います。 シュタイナーは古代へと遡るほど、「血」や「血統」と「個」との関係は 切り離せないようになるということについて述べているようです。 「血」は「特性のジュース」であり、「自我」であるというのも、 古代に遡るとその自我が「集合自我」的になってくるということです。 しかし、現代においては、「個」はいわゆる「民族性」からは 基本的に切り離されているというか、「自我」のレベルでは、 もはや集合的なものであってはならなくなっているのだと思います。 ですから、 >人生におけるカルマの問題を設定するためのファクターとして、 >「遺伝」という現象が起こる、と言えるかもしれません。 ということが原則的には正しいのだと、僕も考えています。 そういう言い方が「危険」であるとしても、 その認識がないことの方が、救いようがないくて、もっと危険なんだと思います。 「毒にも薬にもならない」というように、 危険性のない考え方というのは、何の役にも立たないのではないでしょうか。 >人生に起こる全てのことがカルマに定められているとは思わないし、自ら招く >展開も含めてのことでしょう。 まず、人間はほっとけば自由な存在ではなくて、 主体的な意志によって自由な存在に「なる」ことが求められています。 ですから、必ずしも過去のカルマだけに規定されているわけでもないようですし 自らがプラスのカルマを創造していくことも可能です。 それと、先日訳された「カルマの開示」(イザラ書房)にもあるように、 カルマというのは、個人のカルマだけではなく、共同体のカルマ、人類のカルマ、 霊的存在のカルマ、地球のカルマ、宇宙のカルマなどなどがあって、 必ずしも、個人の人生がそのカルマだけに左右されるのではないと思います。 つまり、個として自分に関して努力し成長していくだけではなく、 自分が今ここにいることにつながっているすべてのことに関して、 それを最大限に愛し、生かし、成長させていくことが、 言ってみれば人間の義務でもあるともいえるわけです。 ですから、過去の時代のように、集合的な意味で「血」や「血統」などに 規定されながらその一部として無自覚にその集団を成立させるのではなく、 あくまでも個人が個人として集団から切り離されていながら、 その上で、自分ののみならず、自分の属しているさまざまなレベルについて 自由な意志で主体的にその集団に関わり、「責任」を果たしていくという、 自覚的な関わり方が何よりも求められなければならないと思うのです。 その方向性を誤ると、とんだ落とし穴が待ちかまえているということです。 >KAZEさんの考える「神」というのは、人類の運命それ自体に関わる >高次元の存在ではないでしょうか。 高次元の存在ではありますが、人間に「外から」関わっているのではなく、 いってみれば人間の高次の部分でもあると思っています。 正確にいうならば、神とは単なる「超越」でも、また単なる「内在」でもなく、 「超越的内在」でありかつ「内在的超越」の存在であるといえるということです。 日月神示から引用するとこういうことになります。 神は人となりたいのじゃ。 霊は形を、形は霊を求めてござるのじゃ。 人は神のいれもの、神は人の”いのち”。 この世では、そなた達が神であるぞ。 あの世では、そなた達の心を肉体としての、人がいるのであるぞ。 それが「カミ」と申しているものぞ。 あの世の人を、この世から見ると神であるが、その上から見ると、 人であるぞ。 あの世の、上の世では、 神の心を肉体としての神がいますのであって、限りないのであるぞ。 神は、人間の想念の中に入っているのじゃ。 想念が一致するから、神の想念が人間に伝わるのぞ。 人間の言葉となって、人間にあらわれる。 言は、神であるが、人間でもあるぞ。 自分が自分に語るのであるぞ。 その道理、よく心得なされよ。 こうやってみると、日月神示を一番適切に解説しているのが、 シュタイナーの神秘学であるという気がしてなりません。 もちろん、そのスタンスが違っているのはもちろんですが。 さて、ついでにMES7についてもちょいコメしておきます(^^)。 >「全ての人は “愛されない”という恐怖から 解放されるべきだ」 >人間は無条件で愛されることを体験し、そして己が愛することで愛を増殖して >いくことが、限りなく可能な世界が実現する時、“愛されない”という恐怖か >ら人間は解放される。 僕の考えでは、こうなります(^^)。   人間は、たとえ愛されることがなくても、無条件で人を愛することによって   しか、「愛されない」という恐怖から解放されることはできない。なぜなら   与えたものが与えられるのであって、与えられたものを与えるのではないか   らだ。愛すれば愛するほどに愛され、愛は増殖していく。愛される愛は足し   算、悪くすると引き算であるが、与えることで増殖する愛は指数的である。   指数的な愛は、恐怖という闇を照らしていく。無条件に愛することで、愛す   ることそのものの素晴らしさが拡がっていく。もう一度繰り返そう、「愛さ   れないという恐怖」は、愛されることでは消すことができない。ただひたす   ら愛することによって、愛そのものの素晴らしさをみずからの礎としたとき   にのみ、おのずとその恐怖が喜びへと変容していくのがわかるはずだ。 このような愛についての考え方は、ちょっと厳しいようにも感じますが、 縁起やカルマなどの法則から考えても、恐怖からの解放は、 それを積極的に喜びへと変容させることでしかなされ得ないと思うのです。 つまり、「愛される」ことにこだわりすぎる限り、 恐怖から解放されることは非常にむずかしいということです。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 94/01/10 - 424/426 GFD00204 松川 貴     恐怖を捨てよ (15) 94/01/10 16:43  MES7#1872 で見たTAO さんの  「全ての人は “愛されない”という恐怖から 解放されるべきだ」 に触発されて、今回は書きます。  というのも以前私は、この会議室で〈国民(あるいは民族)の精神全体に巣くって いる恐怖心〉ということについて書いたことがありましたが、その書き込みにTAO さ んの今回の書き込みが接触したからです。  TAO さんが上の書き込みを行っていたちょうどその頃、たまたま私はケイシーさん の『精神革命ガイドブック』(たま出版)を読み返している最中でしたが、なんとそ の第十九章には「恐怖を捨てよ」という表題が出てくるじゃありませんか。この本は 以前読んだはずなのに書かれている内容についてはすっかり忘れておりました。  とてもいいことが書かれているので紹介いたします。   ……頻繁に引用されてきながら、人間の生活においてその意義が説明されるこ  とはきわめて少なかったのであるが、神の存在を自覚することは、キリストにあ  ってあかしされたごとく、恐怖を追い出すのである。   ほかならぬあなた自身の心の中に、あなたを怖がらせようとするもろもろの恐  怖が生ずるのだ。だが恐怖は地上的なものである。「真理」と「正義」の聖霊が  恐怖を追い出してくださるのだ。   利己主義は人間を怖がらせるものなのだ。……恐怖は、主の御約束、人は自ら  が満たされることを要求できるという聖約にすっかり頼り切ることによって払い  のけられる。“汝らの父は、求めぬ先から、汝らの必要なる物を知り給う”恐れ  を抱かぬようになり、逆にすすんで主を信ずるのであれば、平安があなたととも  にあり満足があなたのものとなるのだ。   自我の内なる恐怖、己の能力に対する恐怖は、……困難を通じて……克服され  るために現れるのだ……   物質的なもろもろの影響力の中に、もしくはこれらの通路を通して、恐怖や失  望やそのたぐいのものが作り上げられ、かかる状態に付き物の数々の病を身体に  もたらしてきたのである。このことは、つまるところ信念と希望に乏しいこと、  そしてそう簡単にはやれそうにないことがわかっているもろもろのことを“喜ん  で”行う能力を身体が欠いていることに起因する。   恐怖こそ人間的要素にとって最大の怪物である。なぜなら恐怖にあっては同化  吸収されたものの活力を破壊してしまうもろもろの状態が生ずるからである。恐  怖を克服するにはもろもろの精神的影響力を創造的性質を備えたもので満たすこ  とだ。それも恐怖を追い出してしまうほどに。なぜなら男にせよ女にせよ、恐怖  を持たぬ者こそ真の意味で自由なのだからである。   我が子らよ、思い出すがよい。物質的身体を台なしにするのは、物質的条件を  心配し恐れることなのだ。ある通路がより大いなる支給に向かうことを妨げるの  は、あれこれのことへの“心配と恐れ”なのである。   恐怖を常に愛で置き換えよ。  ケイシーさんはまたこうも言っています。   恐怖とは人間の知性にとって破壊的影響力の最たるものであり、身体が当面す  る難局に対処するうえで障害となる。  私は前にこの会議室で〈日本人の思考力の弱体化〉ということを言いました。いっ たい何がその根本原因なのでしょうか。答えは「利己主義は人間を怖がらせるものな のだ」というケイシーさんの言葉の中にあります。  戦後の日本人にとっての善とは、こういうことでした。     「個の旗を立て個に仕える人間になること」  そして、そのような考え方がオブラートにくるまれて──つまり弱者の味方のよう なふりをして──今なお日本中にばら蒔かれ続けています。そのようなことを積極的 に押し進めている人々はどんな顔をしているでしょうか。なんと実に無邪気な顔をし ているではありませんか。なぜなら彼らには〈それは毒の実を生む〉という自覚がな いからです。  しかし日本人にはもう一つの可能性も残されています。すなわち、     「個の旗を立て公に仕える人間になること」  〈公〉とはいったい何でしょうか、それは私にとって──以前も書いたように── 〈神〉すなわち〈内なるキリスト〉の謂です。西郷さんはこれを〈天〉と呼び、サリ ンジャーは小説『フラニーとゾーイー』の中で、それを〈太っちょのオバサマ〉と呼 びました。  今や〈個〉の自立を叫ぶだけでは不完全です。ケイシーさんの言うごとく、確かに 新しい理解が必要になっているのです。私たちは新しい理解を手にすることができる でしょうか。そのためには、〈公〉の把握の仕方が変化しなければならないのです。  キリストはもと太陽霊でした。キリストは人間ではなかったのです。イエスは人間 でした。長い時間をかけてキリストの霊は段々と地球に近づき、そしてついに200 0年前、約束されていたように地上に肉をもって立ったのでした。すなわち、キリス トがヨハネの洗礼を介してイエスの中に受肉し、3年間だけ地上で働いたのです。そ して、ゴルゴタの秘儀によって──大地にみずからの血と水を流すことによって地球 の霊となったのです。血を大地に流すことによってキリストの霊が地球を包み込んだ からです。時到って罪に落ちた人類のために天界へ至るための〈逃れの道〉を用意す る必要があったからです。それは太陽霊キリストのまったくの自発的な行為によって なされたのです。それ以後私たちは、キリストの体を食べ、キリストの体を足で踏ん で暮らしているのです。  そうであればこそ、あのサリンジャーが『フラニーとゾーイー』の中でゾーイーに このように語らせた〈衝動〉も理解できます。ゾーイは妹のフラニーにこう言ったの です。  「ぼくはね、俳優がどこで芝居しようと、かまわんのだ。夏の巡回劇場でもいい  し、ラジオでもいいし、テレビでもいいし、栄養が満ち足りて、最高に陽に焼け  て、流行の粋をこらした観客ぞろいのブロードウェイの劇場でもいいよ。しかし、  きみにすごい秘密を一つあかしてやろう──きみ、ぼくの言うことを聴いてんの  か? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおら  んのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。それから何十何百ってい  う彼の兄弟分もそっくり。シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人  もどこにもおらんのだ。それがきみには分からんかね? この秘密がまだきみに  は分からんのか? それからよく聴いてくれよ──この『太っちょのオバサマ』  というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?……ああ、きみ、  フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、き  み」(『フラニーとゾーイー』新潮文庫 P219-P220)  現在の大部分の日本人たちが行っているように、イエスを単なる人間の宗教教祖の ようにとらえるなら──例えば、左翼人たちのイエスに対する態度を思い出してくだ さい──たとえその人がいくらイエスを良心的に描き出そうと努めたとしても、「結 局彼もひとりの人間に過ぎないのだ」と言うことによって、その人はキリスト教の唯 物論化に手を貸しているのです。つまり〈良心的に敵対する〉というような矛盾が起 きるのです。事実それはずっと行われてきました。  最近『ベンハー』という映画を見直して気づいたことがあります。子供の頃からも う2度も3度も見たはずだというのに……つまり……この映画は「キリストの物語」 だったのでした。それまでは活劇の方にばかり関心がいってそのことに気持ちが向か ないでいたのです。  キリストを描いた映画というと私は『キング・オブ・キングス』と『最後の誘惑』 の2本しか知りませんが、『ベンハー』に出てくるイエスの後ろ姿にもっとも好まし いものを感じます。特に主人公のジュダ・ベンハーが罪人としてナザレの町を引かれ ていく場面で出てくるイエスの右半身の後ろ姿はいいです。イエスは罪人たちが引か れてくるのに気づくと自分の大工仕事をぱたりとやめて彼らの方を見るのです。  映画の最後は聖書に「血と水とが流れ出た」(ヨハネ 19.34)とある通り、キリス トから流れ出る血が雨と共に大地を潤していくシーンとそれに続くジュダ・ベンハー の改心へと到ります。映画が好きで聖書の神秘的な解釈のお好きな方は一度この映画 をそのような視点で見て見るとよいかと思います。  さて長くなりました。今回はこの辺で。                                   松川 貴 425/426 GFD00204 松川 貴     ケイシーさんについて1 (15) 94/01/10 16:45  世の中にはケイシーさんに敵対的な発言をする方もおられますから、そのことに対 しては私も反論を行っておかなければなりません。  これはかつて五島勉氏の『「1998年日本崩壊」エドガー・ケイシーの大予言』 しか知らない人々の偏見を払拭するという目的で私が書いたものです。人々の恐怖心 に付け込むという手法を用いることによって世界を国家と民族と人種でしきりたいと 考えている人々が書くものがたくさん書店に出回っています。以下の文章はまだFARI ONが存在していなかった91年の8月にFMISTYにUPした文章を短くつづめてそれに 補足を加えたものです。かつて読んだ記憶のある人は飛ばしてくださって結構です。  それは世界がまだ第二次世界大戦の惨禍の中であえいでいた1944年5月のこと でした。あるアメリカ人が、ソファーの上に眠ったように横たわっているエドガー・ ケイシーに向かって、こう質問したのです。 「永く続く平和を実現するためにアメリカ人は具体的に何ができるでしょうか。」 するとケイシーはこう答えました。 「アメリカ人という考えは私達には不必要なのです。大切なことはまずあなた自身の ことから始めるべきです。国家や特定の地域に対して自分自身の中に(協調的精神) を持っていないかぎり、それを他の人々に押しつけてはいけないのです。」  さて、ひるがえって我が国には、ノストラダムスの解釈でその名を知られている五 島勉さんという方がいらっしゃいますが、その五島さんの著作に『「1998年日本 崩壊」エドガー・ケイシーの大予言』というのがあったのをご存じの方もいらっしゃ ると思います。その本の中で五島さんは、ケイシーのリーディングに出てくる「The greater portion of Japan must go into the sea . 」というたった一つのフレーズ を基にして、およそエドガー・ケイシーの仕事の本質とは何の関係もなさそうな議論 を延々とやっていました。はたして彼はエドガー・ケイシーのことをちゃんと研究し て、あの本を書いたのでしょうか。五島さんは、この英文に独特の解釈を施すためだ けに、ケイシーを利用したのではないのでしょうか。  この本の中で彼は恐るべき曲解をやってのけました。彼はこの英文の中の「must」 を「ねばならない」と訳したのです。このフレーズについては、他の日本で出版され ているケイシー関連の書物はすべて「違いない」と訳しています。「must」に二通り の訳が可能なことは、日本の中学生でも知っていることです。それなのに五島さんは そのことには一言もふれていません。どうして彼はあえてそのことを無視したのでし ょう。それとも彼はそのような別の解釈があることを知らなかったのでしょうか。だ としたら、私は作家としての彼の良識を疑わざるを得ません。なぜなら彼は十分な下 準備もなく、自分の憶測だけで一冊の本を仕上げたことになるからです。  五島さんがこの本を出版した後、林陽さんが『1998年エドガー・ケイシー世界 大破局の秒読み』という本を出版して、五島さんが誤訳をしていることを指摘してい ます。彼はこう書いています。 「五島勉氏がこの予言をテーマに本を書かれたが、その結論は日本経済の破綻を象徴 的に予言したものだろうという解釈だった。しかし、ケイシーははっきりとリーディ ングの冒頭部で、『地球の物理的異変』と一度ならず二度までも断ったうえで予言し ており、『精神的変動』については別に予言している。(中略)この部分を誤訳して 、『日本は沈まねばならない』と訳す人がいるが、主語が人間であり使われている動 詞が有意志動詞である場合に限り、mustは『ねばならない』と訳せる。この場合の主 語は陸であって、意志があるわけないから、ここでは『沈むに違いない』、『沈むは ずである』という推定の訳語を使うのが自然である。」  五島さんの本は新書版で大々的に宣伝されたので、かなり売れたようですが、林陽 さんの本はあまり読まれなかったのではないでしょうか。日本の読者の多くは五島さ んのこの本によってケイシーの存在を知ることになったはずです。私はここにはひと つの隠れた意図があるように思います。ケイシーは、海の底に沈むのは、何も日本だ けではなく、アメリカのカリフォルニアやニューヨーク、それからヨーロッパの北部 と、およそ文明の花が咲いていると思われているところは、ことごとくその影響から はのがれられないことをちゃんと言っているからです。それをなぜことさら日本だけ を特別のように言わなければならないのでしょう。  91年の8月号の『ムー』誌上において、松村潔さんが述べておられた「ケイシー が、五島氏のいうとおり、アメリカ人の無意識に日本沈没のイメージをインプリント したとしたら」という言葉は、むしろこれを読む日本人の心に、ケイシーの口を通し て語られた意図とは異なったイメージを、さらに強くインプリントするのに役立つこ とになるのではないでしょうか。  五島さんがその仲間だというつもりはありませんが、自分たちの地上的な利益のた めに「人間を地に繋げておきたい」と思っている人達は、むしろ人間同士の争いごと を喜ぶでしょう。そういう人々はアメリカだけではなく、ここ日本にも、そして世界 のいたるところにもいるのではないでしょうか。しかし、私たちは、その実態につい てはほとんど分からないままです。もしも私たちが「地に繋がれた存在」としてのみ 生き続けるつもりならば、私たちもまた間接的に彼らに手を貸してしまうことになる のではないでしょうか。私たちの本当の敵は民族でも国家でも白人一般でもないのだ ということを忘れてしまえば、またもや日本人は半世紀前に陥ったのと同様の罠には まり込むことになりはしないでしょうか。(以下続く) 426/426 GFD00204 松川 貴     ケイシーさんについて2 (15) 94/01/10 17:37 (承前)  私は今はなき『ワンダーライフ』(1991年11月号)という雑誌において、五 島さんの書かれた文章を読む機会がありましたが、彼の言説はキリスト教徒に対する 偏見に満ちているように思いました。ちょっと引用してみましょう。   今度ソ連も加わり、米ソそれからヨーロッパ全部がキリスト教、ユダヤ予言  体系を根底にした、ものすごい白人大帝国を作ろうとしている。いや、だんだ  んできている。彼等が目指しているものは、予言にあるハルマゲドンを起こさ  せないことだ。そのためには最大限の努力をする。だけれども、ハルマゲドン  の破局が起こっても、自分達はキリスト教徒だから救われると思っている。他  の奴はダメ。日本なんかももちろんダメになる。ざまをみろというのが彼等の  本音です。  一体ここでいう彼等というのは誰のことを言うのでしょうか。キリスト・イエスは 国家のものでも民族のものでも人種のものでもないのだということが五島氏には理解 できないのでしょうか。私が不思議に思うのは、彼がハルマゲドンを語るとき、彼が キリスト教世界対日本という図式で語ろうとしているように見えることです。確かに キリスト教は現代の西欧世界における大きな思想的バックボーンには違いないでしょ う。ですが、ヨーロッパが一神教世界に染まってから、たかだか2000年にも満た ないというのに──というのも〈真理〉はたえず成長を続け、そこに立ち止まってい るのではないからです。しかし例えば現代日本人は「もはや成長は過去のものだ」と 漠然とした意識で考えています──五島さんはそれ以前にヨーロッパ世界を支配して いた多神教世界についてはなんら語っていません。もともと、一神教というのは、ヨ ーロッパ人の思想なんかではなかったのです。それ以前にはギリシアの神々がおり、 ローマの神々がおり、ゲルマンの神々がいたのですから。日本が八百万の神々を説く ように、ヨーロッパの人々も八百万の神々を説いていたことを忘れてはなりません。  キリスト教というと、日本人はすぐにアメリカ・ヨーロッパを思い浮かべがちです が、これはもともと、その当時全盛を誇っていたローマから眺めるならば、辺境の地 と見なされていた中東の地に住むユダヤ人たちの宗教から発展してきたものです。現 代のユダヤ人は、ほとんどその外貌をとどめてはいませんが、もともとは現代のアラ ブ人と同じようなセム系に属する容貌をしていました。そういうわけで、かのイエス も決してヨーロッパ人なんかではなかったのです。(とはいえケイシー・リーディン グによりますとイエスの容貌は特にユダヤ人的でもなかったとありますが。)イエス というユダヤ人が、歴史的にずっと疎外され続けてきたユダヤ民族の内部において、 いわば二重に疎外されることによって、キリスト教は世界宗教になる契機を掴んだの です。その後のキリスト教の発展の様子は歴史に見る通りです。  これらのことを念頭に入れて考えてみると、五島さんのおっしゃることはあまりに も単純に過ぎるのではないでしょうか。そもそも五島さんには現実に生きている生身 の人間としての普通のヨーロッパ人なりキリスト教徒なりのことを考えてみる余裕は ないのではないのでしょうか。  核戦争の到来を期待する、理解に苦しむ一部のキリスト教の宗派ならいざしらず、 「我々だけが救われればいいのだ」などと、もし本気で思っているキリスト教徒がい るとしたら、それこそ最初に地獄に落とされることになるでしょう。  「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者がみな天国にはいるのではなく、ただ 天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ伝7-21)と言っ たのは一体誰だったでしょうか。また、ソドムとゴモラを破滅させないように、そこ に住む悪人たちのためにさえ、神と談判したユダヤ人は誰だったでしょうか。まして 誠実な真のキリスト教徒が、自分さえ助かればよいなどと思うでしょうか。それは、 ありえない話です。五島さんはキリスト教徒と何か別の勢力とを混同しているのでは ないでしょうか。  最後に五島さんの、ある意味では反キリスト的だと指摘されかねない言説を紹介し ておきましょう。先程の引用文の最後の方に出てくる言葉です。   ノストラダムスはこういったユダヤ予言の一番最後に出てきたアンカーなん  です。聖書の預言者なんですね、本質的からいうと。時代が聖書より五百年も  後から出てきたものだから、自分でも非常に惑ってしまった。ユダヤ教の予言  者で一番偉い人はイエス・キリストですから、キリスト以後にキリストよりも  偉い奴が出てきて、自分の方がキリストよりもちゃんとしたことを言ってんだ  と言ったら、火あぶりですよ。ノストラダムスはとても賢明な人だったから、  そういう自分の立場を知っていて、表面は忠実なキリスト教徒であるが如く言  いながら、いろんなところに自分はキリストを上回る人間なんだということを  ちらりちらりと、いろんな自分の文章の中に隠してます。  私は、キリスト教徒であったノストラダムスが本当に「自分はキリストより偉い」 などと思っていたかどうかを確認するすべはありません。私にはとても信じられない 話です。ですが、それが五島さんのおっしゃるとおりならば、「ノストラダムスこそ 反キリストの一人だ」と言わなければならないでしょう。しかし、逆にこれらの情報 が単に〈五島さんの口〉から出たものであるのなら、私は先のノストラダムスに対す る見解を今すぐ撤回しなければなりません。  キリスト教について特に深い知識があるわけでもない人々を相手に、しかも、「人 の恐怖心に付け込む」という最も避けるべき方法を用いて、次から次へと本を出版し 続けている一群の作家たちがいます。私たちはシュタイナーの言う通り、「書物に書 かれていることをどれも同様に受け取るのではなく(『輪廻転生とカルマ』水声社 P233)」、人間の意識を絶えず地上的視点へと引きずり落とそうとしているアーリマ ンの影響力を見極めなければならないのです。                                   松川 貴 - FARION MES(17):★パワフルなえ★の《おふくろ通信》--<01> 94/01/10 - 738/738 JBH02324 なえ 心のぺーじ・その壱・夫婦って? (17) 94/01/10 09:15   外目と内目 世の中には、多くの夫婦が居ます。 中には婚姻届を出さなくても、立派に家庭を築く者もあります。 一見して、身なりが良くて、誰にも愛相が良く、気の付く人で、 しっかりしている。 反対にだらしなくて、身なりはいい加減で、顔もイマイチ。頑固そうで 煮えきらない。鼻持ちならない人ね。 だけど、これはあくまでも第三者の見た目に過ぎません。 内輪が同じであるとは限らない。 貴方は外目を気にしますか?。それとも。 本当にお互い長く生活を共にするのです。 外面が幾ら良くても実り有る生活は出来ない。 それを「ミエ」とは言いませんか?。 内々の中に本当に大切にして行く事が有る。 慈しみ、育み、いたわり合う。 「ミエ」は世評を良くするだけで、それ以上は望めません。 心の充足感・・。「外目」「内目」貴方は「まず」どちらを先に選択しますか?                         - なえ -