- FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 94/01/15 - 01500/01501 PBA02422 さはし RE:プリンスっていっても ( 2) 94/01/15 06:45 01494へのコメント どもども、シゲさん。 なるほど、そうなんですか。経営しているところが違うと、コンセプトも 違うんでしょうねえ。なるほど…。まあ、一人で旅行する分には、安いの が一番ですけど、大事な人と一緒の時は、高輪プリンスとか赤坂プリンス に泊まりたいですね。 もっとも今は大事に思う人はいても、逢えないんで、ひたすら大事に思っ ているだけなんですけど。いつか逢いたいですね>大事な誰かさん。(^^) 01501/01501 PBA02422 さはし 歌詠みの真似事 ( 2) 94/01/15 06:48 北風に流れる星の降る夜は    遥かに遠く ぬくもり思う                   さはし - FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 94/01/15 - 01987/01988 KGH02737 弥沙 風 ( 6) 94/01/14 23:32    風  星灯りを道標に  大海原を渡る  そは清き風  月灯りを背に  遥かなる大地を目指す  尊き人の世の  繰り返す記憶の環を  あやつる事を願う  たった一つの希望  そして勇気               弥沙  - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/01/15 - 01899/01899 KHC01313 まるにちょん RE:人との衝突 ( 7) 94/01/15 01:54 01880へのコメント #1880 KFD00473 たまごさんへ  お初にRESします。まるにちょんです。  SUKEさんトートツな割りコメですみません。(ユルシテツカーサイ )  >さて?自分にとって衝突とは?と考えたとき、  >それは真剣勝負だったと思えます。  >相手と自分の差を取る「強引な」手段でありました。  相手との差を強引に取る手段としての「衝突」。  たしかに衝突の中から、「真実」がでることが多いことも知っています。  ぼくの場合は、なるべくなら衝突をさけ、相手との真剣な会話の中で、自分の考え をまとめ、自分の位置を確認し、なおかつ相手の言わんとする事を理解するために耳 を傾けます。だから、衝突は、最終手段なのです。  では、なぜ衝突を避けるのか。  それは、たまごさんが自身が指摘するように  >そんな強引なことをしなくても「よい場合」も  あるということです。  人は自分を否定される事、あるいは自分の意見が通らないことがあれば、往々にし て、反発し、あるいは聞く耳を塞ぎ、そこで会話は終了してしまいます。  それを相手の幼稚さだとか、わかってないだとか、決めつけることは、ぼくには、 できません。  わかってないなら、何故分からないのか、また、どうしたら分かってもらえるか、 つきつめが必要ではないでしょうか?  ぼくは頑固な性格で、しかもかつては、決め付けと思い込みが多く、相手を誤解す ことが多々ありました。  相手の立場を思いやることもなく、自分が自分がと主張ばかりして、理解されない のは、全部相手のせいにしてました。(イマカラオモウト、ハズカシイ 。たまごさんがそうだとは いっていませんので、誤解しないでね。 )(^0^)  だから言うのですが、相手の状況を想いやり、決めつけること無く耳をかたむける。  そうすれば、時間はかかるかもしれないが、相手に響く可能性も大きいのです。  まあ、響かない相手もいるので、そのときは仕方ないですけれどね。  (響かないのは、相手のせいばかりではないしね。)  >衝突するのは気構えであって、必ずしもそうしなくたっていいのです。  そう、そのとおりですね。  真剣勝負の会話は、緊張感があり、よいものだと思います。  ハッキリ言って、たまごさんの「辛口」は小気味よいので私個人は好きですが、 すべての人間が理解できるものでもないと思いますよ。  強引に差をとりにこられた相手にとっては、(まあ、人によりますが、)たまご さんの方法は敵対行為、あるいは傲慢ちきと取るかもしれませんね。  まあ、ぼくの方法が最良なんてこともないでしょうけどね。(^0^)  なんか、わけわかめなRESになりましたが、たまごさんのナがタイをあらわす ことを期待しつつ、これからもよろしくお付き合いくださいまし。                            まるにちょん、○=ゝ E - FARION MES(11):★アキラの《平井和正*異界漂流》----<01> 94/01/15 - 170/170 KHC01313 まるにちょん RE:地球樹とカグツチ (11) 94/01/15 01:51 159へのコメント  GEHO01636 酔狂生さん  今年もよろしくお願いします。  RESを貰いながら、音沙汰なしですいませんでした。(ユルシテツカーサイ )  ぼくは、「地球樹の女神」はカグツチノカミの浄化とその裏に、イザナギと  イザナミの和解を隠した物語ではないかとも思っています。  また、それは日本とユダヤの和解、ダニエル・ルキフェラーとの邂逅とその協力にも、象徴されているのではないでしょうか。  「地球樹の女神」はいろんな型が示されていて、それが複雑に絡んでいるように思い ます。  もう一度時間があれば、読み返したいものです。                      では、また。まるにちょん、○=ゝ - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/01/15 - 00975/00977 GBA01350 まるじろう RE:体験的に学んだこと (13) 94/01/15 03:17 00973へのコメント コメント数:1  夜は更けます。また静まりかえっている。  >>愛されたいから愛したいへと自分のあり方を変える    この区別がちゃんと分かるようになるためには、何かが必要なのでは?    自分は愛する方に回っているつもりで、それが実は愛されたいことの裏返し、    なんてことは、ごまんとあるような・・・。    私は、まだその区別がわかってないんでしょう、自己懐疑から抜けられない。  >>ちょっとバランスを崩してしまっている方が幾人かいらっしゃいまして、    あぁ、と読みながら思ったのですが、どうも私も仲間入りし始めてるかも。  ついでで申し訳ないのですが、   >#972 たまごさん     PMFを始めとしたバーンスタインの人間愛的業績     彼は札幌で確か「人と分かち合えないものは無意味だ」と言ったですね。     でも、私が感じているのは、彼はとうとう本当に孤独のままだった、と。     この考えは間違ってるかも知れませんが、彼の終生の悲しみだったのでは?     私の中のバーンスタイン像は、1985年の広島体験で決定的です。     そして、私は、バーンスタインを、彼の根っこのところでは大好きです。                              まるじろう 00976/00977 GGA02514 KAZE ひとりぼっちから (13) 94/01/15 03:55 00975へのコメント まるじろうさん、どうも。 僕も愛されたいと愛したいの区別がちゃんとわかっているとは いえないかもしれないなあ^^;、といまだに感じています。 僕にとっては永遠の課題かもしれません。 でも、愛されたいとばかり思うことで、傷ついて傷ついて、 恐ろしさと情けなさでぼろぼろになることを繰り返していくうちに、 自分がどんどん闇の中に落ち込んでいることに気づいて、 愕然として自分がからっぽになって途方に暮れるというのが、 僕のような人間には必要だったのかもしれないなあと思います。 僕もまだまだ途方に暮れている状態のままかもしれませんが、 やっと自分で歩かなくちゃ、と思って、 とぼとぼと歩き始めたところ、って感じも少しはしています。 「何かが必要」っていうと、 たぶん、いちどはとことん、ひとりぼっちになってみるということだと思います。 つまり、誰にも頼れない、話せない、関われない・・・っていう状況。 精神的にも経済的にもその他のいろんな状況で。 もちろん、すべての「権威」などというものから突き放されて、または突き放して。 そこからしか結局のところはじまらない、って気がする。 ひとりぼっちにさえなれなかったら、気づかない何かがあるような。 ひとりぼっちだからこそ、そのよるべない情けなさ、悲しさをかかえることで、 歩き出せると思うのです。 自分だけで歩いたことがなければ、ほんとうはひととも歩けない。 「自己懐疑」というのも、たぶんひとりぼっちのひとつ。 ひとりぼっちっちでないと、自分を見られないのだから。 「愛されない」ってことも、とことん痛切に感じてみないと、 「愛する」ってことも、その痛切さもわいてこない。 恐いのは、そこから立ち直れる可能性はないということ。 そのままどんどん闇に落ち込んでいく可能性の方が大きいくらい。 でも、自分が一番よっかかっているもの。 それから切り離されたことがないとしたら、 ひとのある痛みは決してわからないだろうし、 ひとと分かり合う可能性もないのだと思います。 その可能性というのがあって、生きている実感があるのだと思えます。 ひとりだからこそ、ふたりでいられるというのもあります。 愛は「結び」だけど、 「結ぶ」ためには「切り離される」ことが必要。 そうすることで、「見る」こともできるのですから。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00977/00977 HCB00374 DIRAC 信仰は人の姿で理解 (13) 94/01/15 12:33  おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。   話をむしかえすというか、乗り遅れた話題で申し訳けありませんが、  「教義」のチェックということと関連して最近自分がひしひしと感じる  ことを述べさせて頂きます。   昨年の暮れに書かせて頂きましたが、最近の天変地異の原因の一つに  我々のおごり高ぶった心があるのではないか?と自分を見返る今日この頃  です。物質科学の立場からいえば、「何、ばかなことをーー」ということ  なんですが、あらゆる事象から自分の心に見返っていく。これが本来の  信仰の姿であると思います。ただ、見返り方法がわからないのでそれを  どのように見返るのかを教えているのが、教義であるという捉え方をして  います。教義が真理に根付くものならば、信仰は社会に遊離せず心を豊かに  するはずのものだと思います。真理とは、誰が見聞きしてもなるほどと思わ  せるものであるはずだと思います。でなければ、人類の和合はいつまでたっ  ても出来ません。真の平和はやってきません。   さて、教義には超越的な存在が説かれる場合が少なくないのですが、これは  「見返りの方法論に必要」いう見方もできるわけで、教義を知るということは、  超越的な存在のあり方を知ることにつながるわけです。超越的なものが単なる  仮定ではなく、個人と祈りでつながっていれば見返りの度合、深さも深くな  って人間としてどんどん向上して行くものだと思います。教義などとしゃっ  ちょこばったことをいわなくとも、祈りで超越的な存在のあり方を感じ、  行動指針とできるものだと思います。  いづれにしてもその人の信仰がどんなものかは、理屈でなく、その人自身の  行動、様子をみれば感覚ですぐわかるということです。超越的な存在のあり方  の投影が信仰している人に現れるからです。理屈で考えるとかえって迷うの  ではないのでしょうか。 - FARION MES(17):★パワフルなえ★の《おふくろ通信》--<01> 94/01/15 - 754/754 JBH00742 スサノオ 生ける水 (17) 94/01/15 01:07 749へのコメント   両掌でそっと優しく水を汲む。   指の間から漏れてしまわないように。   揺れて零れてしまわないように。 いずれ小さな花が咲く。    「…わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、 永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」 ヨハネ福音書第4章より スサノオ - FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 94/01/16 - 01502/01502 SDI00635 みれ RE:うーん、なるほど ( 2) 94/01/15 15:44 01492へのコメント  #01492 シゲ あらまぁ、あたしの誤解だったの?(^^;)ゴメンチャ  あたしゃシゲが維/YUIちゃにイヂワルしてるのかと…つい(笑)  あたしなんか、自分でそう言ってても旦那さんに言われると、きっと 厭だろうな…だから維/YUIちゃも…とか思ったんだわ…(^_^;)  ところでさ;; #01481 みれ (おば)さん;;←この呼ばれ方は あたしだけでなく、きっと30歳越した女性の誰もが嬉しくない呼ばれ 方だと思うので、これからこう呼ばないようにして貰えると嬉しいんだ けどなぁ。息子の友人に「ねー、オバサン、オバサン!」と呼ばれるの は平気なんだけど、対等だと思ってる友人には呼ばれたくないもんなの よ。 ・:*:・みれ・:・。,★ - FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 94/01/16 - 01989/01991 JCC02647 とかち 今の自分に必要な事 ( 6) 94/01/15 15:59  なにか問題にぶつかるとすぐに「自分が悪いから」って観てる  何かいい事起こると「それは自分の行動ではない、相手によってもたらされた」  って常々考えていた  自分を虐めてたんだろうか  自分を観る時ってまず自分に非がないかどうか観るようにしてる  自分に非があればそれを追求し、なければ相手に非を求めるって  やりかたをしてきた  最近気づいたのが、まず自分に非を観る時に  自分に非がなくても非があるって突き止めてる自分がいる  それでその問題を悩む事を終えてる自分がいる  本当に全ての問題に自分がわるかったの?  相手にだって問題あったんじゃないの?  って自分のやり方に疑問が生じてきた  だけどこれしか今の自分には他のやり方って思いつかない  これが最善の方法だって認めてる  ただ、いい事が起きた時だけは考え方を訂正した  まず自分を誉めている、喜んであげる事にした  小学校から中学校の頃、虐めにあってて  家庭が崩壊しかかり、兄弟喧嘩が口だけでなく  暴力になり、心やすまる時が寝てる時だけって状態があった  その時起きてる時はいつも「死にたい、生きてる価値がない」って思ってた  だけど、どうにか今生きてる  死ぬ事に対して恐怖感もある  だからなおさら今の自分に感謝したい  「今までよく生きてきてるね、生きてるからこそいい事を得られたんだよ   だから自分を大切にしなきゃ罰があたるよ   確かに嫌な事もいっぱいあったけど、今生きてるだけで幸せじゃない   幸せだから素晴らしい物に出逢えるんだよ」ってさ  今までこんな考えした事がなかったよ、ここ数カ月で思えるようになった  それまで「なんでお前は生きてるんだ、生きてる価値があるのか?」って  自問自答してる自分がいた  ミーモさんの部屋でたまごさん、えるさん、ミーモとのRTを見たんだ  悪友としてミーモが代打ちしてくれた  それまで通信はやっていたがNIFTYは入ってなかった  それから興味を持ちNIFTYに入会した  すぐにFARIONに来なかった  数日してからここに入会する事になった  入会してからすぐに山中湖BQオフの参加許可が出た  BQオフHPで噂になってたらしい  それからRTにも参加したし、オフ会も隔月だが参加してる  そうした行動からかいろいろな人と接する事ができた  それからだろう、今まで自分が蓋をしてきた事に目を向けるように  なったのは  思いだしたくない事も観直したし、まだ観直しできてなく  心の奥底で鍵がかかってるものもある  けれどここに集う人達と接してなければ依然何もしてない自分がいるだろう  ゆっくりではある、間違ってるかもしれん  けど自分がどういう人間なのか、どうなりたいのか見えてきた  ただまだ時間はかかるだろうし、接してくれる人に迷惑もかけるだろうけど  最近ことさら思うのは、なんて自分は幸せなんだって  そのように行動してるんだろうかって  ミーモさんと9年前に出逢えた自分の行動  ミーモさんたまごさん、えるさんのRTを見れ、悪友ながら参加出来た事  BQオフに参加した事  RTで話ししたり、会議室に書き込んでる事  いろんな人と接しようとしてる事  今ここに居て辛い事もあるが嬉しい事  そんな行動をとってる自分が嬉しい  確かに辛い事もある、悲しくなるときもある  でも今本当に幸せだなって実感できる  実感できるがまだ人を心から信用してない自分もいる  裏切られるんじゃないだろうか、裏切ってしまうんじゃないだろうかって  でも、今はここにいよう、自分でここから去るのはやめようって  去る事が人を裏切る結果になるって  まず自分の嫌な一面(人を裏切る自分)を改善してみよう  折角巡り会えるように行動して巡り会えた人たちなんだから  そんな自分の行動を否定しないで感謝して生きていこう  自分が最近とってきた行動に感謝して生きていこう  それから私に接してくれる大勢の方に感謝したい  「巡り会おうって貴方が行動したから、そういう人が側にいた事にきづいたんだよ」  って誰かに言われた  確かにそうだ。  でもさ、その時側に居てくれてありがとう  自分を感謝する以上に、私に接してくれる人に感謝してる  まだ偽って生きてる自分がいるが、付き合ってくれる人に  感謝したい、自分から縁を切ろうとすると罰があたる  これからも迷惑・愚痴をこぼしますがどうぞお付き合いくださいね  もっと自分らしい自分を見つけれるまで、なれるまで                           とかち 01990/01991 JCC02647 とかち 昨日のTV見て思った事 ( 6) 94/01/15 16:00  ふざけんのもいいかげんにしろ!!  何が追悼だよ、本心からそう思ってやってるのかよ  ただのお約束事じゃないのかよ  昨日のTV、新聞を見ていて腹がたった  山形の中学校での虐めで殺人がおこなわれた事の追悼集会が  全校をあげて行われたそうだ  みていてむかむかしてきた  7人の生徒が虐めに関係してたと報道された  「自分がやった、その時の状況は・・・・」って言ったかと思うと  「自分はやってない、その時間は家にいた」とか  次の日には発言が変わっているじゃないか  本心はどっちなんだよ!!  そうやって本心隠しながら追悼だって  どんな気がして参加して黙祷捧げたんだ!!  虐められてた人にも問題がなかったわけではないだろう?  虐めていた人間だけが悪いって事もないだろう?  なぜ本心話してしまわないの?  マスコミ等が話してる事が正解なの?  私はね虐めてる人間だけが悪者だって思ってない  虐められた人間にだって悪い所があった筈だからさ  相手が死んでしまったら本心隠すの?  それってひどいんじゃない?  殺す、殺さないって部分を私は言ってるんじゃないんだよ  なぜ虐めてたのかっていう部分の本心を知りたいのよ  本心語らないんなら追悼だ、黙祷だってやるんじゃない  儀式みたいにとらえてもらっちゃ困る!!  心から相手に悪い事したから黙祷したの?  それだったら相手にには非はなかったのね?  なぜ矛盾した事を平気でやるのよ  もっと本心だしてみな、今の貴方達はみっともないよ  全てをさらけ出してからお墓にでも黙祷捧げたほうがいいんじゃない!!  辛いはずだよ、本心隠して参加してるなんて  本心だせばもっとらくなのに  ちょっと罵倒モードです  規約及びローカル・ルールに反するようであれば削除してください  でもこれって本心だから書かない訳にはいかなかった  自分の過去を謝罪する上でもさ                            とかち 01991/01991 GBE02650 ユ−リ RE:音楽観など・・ ( 6) 94/01/15 22:40 01953へのコメント  SONIC君、おひさしぶりです。  お元気でしたか?  多分、今はもうアクセスを中止している頃だと思うけど、将来、ひょっとしてこれを 読むかもしれない時のために、これだけは書いておこうと思う。  「音楽をやってみたい」との事だけど、それは良い事だ。是非やってみるべきだと思 う。  と、振っておいて、以下は自分自身の話なのだけど…(^^;  僕は社会に出てから、自分自身のアイデンティティーを片端からはぎ取られるような 経験をしたことがある。  そして、全てをはぎ取られた後に最後に手の中に残ったものが、皮肉なことに、中途 半端な決意で大学時代に齧っていた「合唱」だったんだ。  だから、正確に言うと、僕が合唱に手を染めたのは大学時代なのだが、本当の意味で 合唱に目覚めたのは、その時、という事になると思う。  ここで、僕の日常生活を想像してみて欲しい。  僕には、職場で地味〜に日々の仕事をこなす、という日常の世界がある。  その毎日は、常に「職場」という小さくて閉鎖された世界から外に出ることは無い。  ところが、本当に年に何回か、正装してステージの上に立ち、多かれ少なかれ観客の 前で照明を浴びて歌を歌う、という「非日常の世界」が日常の世界とは全く無関係に飛 び込んでくる。  アマチュア音楽家の醍醐味はここにある、と言ってもいい。  この「非日常」と「日常」の関係は、「ハレ」と「ケ」という表現が一番ぴったり来 ると思う。  これは本当に面白いことなんだけど、「ハレのユ−リ」と「ケのユ−リ」の両方が存 在して、はじめて両方がうまく行くようになっている。  例えば、「ケ(日常)のユ−リ」をしっかりやっておかないと、「ハレ(非日常)の ユ−リ」は、ただの馬鹿騒ぎになってしまう。一本芯が通らないんですね。  逆に「ハレ(非日常)のユ−リ」が存在することによって、はじめて「ケ(日常)の ユ−リ」に「張り」やヤル気が出てくる。仕事してても楽しくなる。  どちらかだけでは本当にうまく行かないんです。  で、こうやって「ハレのユ−リ」と「ケのユ−リ」が感性のキャッチボールを続ける ことによって、「真のユ−リ」に近づいていく、という事だと思うんですけどね。(^^;  まあ、そういった内面的な事だけで無くても、若くて綺麗な女の子達と知り合う機会 は格段に増えましたけどね…(^^;;;;(北海道は美人が多い(^^;)  それと、もうひとつ。  僕には合唱をやってて良かったな、と思う時が何度かある。  それは、うまくハモれた時とか、全員の気持ちがまとまって実力以上の歌が歌えた時 とかなんですけど…  よく、アメリカの映画とか観てると、こんなシーンに出くわすことがありません?  ニューヨークとかの下町で、3、4人の黒人が誰に聞かせるともなく歌っている。  そして、うまくハモって、ノりにノれた後で誰かが言うんだ。  「これは、きっと神様が私達に歌わせてくれているのよ!」  僕は、音楽の原点はここにあると思っているんだけど、まあ、それはそれとして…  実は、この「神様が歌わせてくれてる」ってのは、理屈や気取りや、そういったもの では無くて、本当に自然な実感として僕には理解できる。  本当に気の合う仲間達と、最高の気分でハモって歌えた時、なんていうのか言葉では うまく説明できないんだけど…  こう、僕らには見えない何か素晴らしい存在がね、僕らの身体を通して何か凄くて素 敵なことを表現している…というか…本当にそんな気がする時が何度もある。  (本当だってば(^^;)  観客が居なければそれでもかまわないし、観客が居れば、それをも巻き込んでね、な にか演奏者と観客とが一体となって何か(わからないけど)素敵なことがおこっている んだ…とね。(^^;まあ、そういった実感がある訳です。  で、そこまで実感できた時にね、音楽や絵画や文学・映画といった芸術・文化といっ たものが単なる人生のイロドリやサシミのツマといったものでは無くして、下手をした ら人生で一番大切なものかもしれない…という事が実感してもらえるんではないかと思 うんです。  だから、音楽をやるというなら、それは是非やってほしいと思うし、どうせやるんだったら仲間を見つけて下手なりに人前で演奏できるまでにはなって欲しいと思う。  で、その先で是非、神様を実感してみてください。 GBE02650 ユ−リ - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/01/16 - 01900/01900 HGA03610 Kony はじめまして。 ( 7) 94/01/15 23:33 はじめての書き込みです。  天照皇太神さまが降ろされた歌をご紹介します。 わするなよ むねにひとつの かみみたま みがけばひかる たからなりけり  アリオンさんが何処の所属の方かわかりませんが  いずれは...。  楽しみにしております。 Kony - FARION MES(10):★Dr.Sooの《夢酔い人の部屋》--------<01> 94/01/16 - 00323/00323 JCC02647 とかち RE:とかちさんの初夢に遅いレス (10) 94/01/15 15:58 00320へのコメント  SooさんRESありがとうございます  あの缶のぶつけあいなんですが未だにどういう意味なのかわかりません(^_^;)  ただあの夢の中でいちばん印象に残った言葉があるんです。  相手の女性が3人になった時に最後に残った子以外の二人から  「卑怯!!」ってすごく怒った顔で泣かれるんです  それが未だになんでそんな言葉がのこるんだろうって考えてます    それ以来夢をみてないんですね、今度みる夢はなんだろうか・・・・                            とかち - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/01/16 - 00978/00978 GGA02514 KAZE 祈りのチェック (13) 94/01/15 16:56 00977へのコメント DIRACさん、どうも。 >最近の天変地異の原因の一つに我々のおごり高ぶった心があるのではないか? 「外」に現れることは「内」で起こることの表現なんでしょうね。 シュタイナーの「瞑想と祈りの言葉」(イザラ書房/西川隆範編著)という新刊に、 シュタイナーのこういうマントラが紹介されていました。 世界の周囲を探求せよ。 そうすれば、おまえは人間として、おまえを見出す。 みずからの人間的内面を探求せよ。 そすれば、おまえは世界を見出す。 世界で起こるすべての現象を人間の内面として見るようになること。 それを通じてひとりひとりが自分を深く見つめるようになれ、 そう叫んでいるのが最近の「天変地異」なのだと思います。 それは、「信仰」というよりも、「認識」。 「人類の和合」というのは、それが宗教団体的教義に基づく信仰ではなく、 すべてのひとの認識として世界と自己をとらえることでしかなされえない、 そういうことではないでしょうか。 >超越的なものが単なる仮定ではなく、個人と祈りでつながっていれば見返り >の度合、深さも深くなって人間としてどんどん向上して行くものだと思いま >す。教義などとしゃっちょこばったことをいわなくとも、祈りで超越的な存 >在のあり方を感じ、行動指針とできるものだと思います。 その場合、やはり一番大事なのは「祈りの質」だと思います。 ひとは祈りの質に応じた存在というか波動としか繋がることはできませんから。 間違った方向に向かった祈りは、非常に危険です。 多くの間違った祈りは、研鑽努力を示唆されるというよりも、 「よしよし」という甘やかしに繋がってしまいます。 祈るときには、自分を甘やかすエゴがないかどうか、 自も他もともに生かすものであるかどうか、 つまり、自も他も磨くだけの智慧に裏付けられているかどうか、 その祈りの内容をひとに見られても恥ずかしいものでないかどうか、 などをチェックするというのが大前提となります。 そのときにはじめて、それが「行動指針」となるのではないでしょうか。 「理屈」はいりませんが、だからこそ厳しさが必要なのだと思うのです。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(17):★パワフルなえ★の《おふくろ通信》--<01> 94/01/16 - 755/755 JCC02647 とかち 夫婦か・・・ (17) 94/01/15 15:57  なえさん、会議室では始めましてですね  夫婦ですか、まだ独身者には縁の遠いものですね  ただ両親を見てきて、なえさんの夫婦の書き込みをみて  ちょっと思ったんで書きますね。  夫婦にも色々ありますね  私の兄貴夫婦みたいに新婚1年足らずだと  喧嘩などもするそうだが、私が見る限りでは恋人のまま  一緒に暮らしてるように見える  これはみていて羨ましいしほほえましい  それに比べて以前の私の両親は見ているのが辛く  目を背けたくなった  今親父は新しい人と生活してる  母親も新しい男と生活してる  なぜそうなったんだろう  母曰く「お父さんは人がよすぎる、すぐに人の借金の保証人になる      なって自分がその借金をかぶる事になる。      1度ならずも2度・3度も同じ事をする      家が貧乏になることなどおかまいもなしに・・・」  父曰く「人に親切にできる事自体幸せなんだ      自分が幸せじゃなければできない事なんだよ      だから家が貧乏でも生活できるだけ幸せだと思わないと罰があたる      生きていけるんだから、確かに食うのに困る時もあるけど・・・」  って毎日のように口喧嘩ばかりだったな、両親は。  仲良くしてる両親見たのいつが最後なんだろうか  私が小学校の3年くらいからは見た事がないから  それからお互い無理をしてたんだろうね  父は母を心から愛し必要としてた  しかし母は父の世間体ばかり気にする性格、金への無頓着を  嫌っていたのかもしれない  家の両親は1日中一緒にいたからね  朝起きて会社に行って、帰ってきてと  親父の会社で母も事務をやっていたから  お互い心の休まる暇がなかったんだろう  お互いを他人として見て生活してたんだろうね  ただ子供が成人して一人で生活できるまでは  やはり次男の私が就職して大阪から横浜にでてから  1年経って母が男作って蒸発した  結局はごまかして生活してたんだ、両親は  でも小さいながら感じてたんだ、子供の頃からさ  いつかはこうなるって  だから母が蒸発した時、何もおもわんかった  当たり前だって思ってた。  今考えてみると、子供の為に個を犠牲にして欲しくなかったよ  確かに両親揃ってるのがいちばんなんだろうけどね  でも偽って生活してる両親見てるのって辛かった  だから今はいちばんいい状態なんだろうね、私の家族は  個を大切にしてるから  兄も結婚したし、父も母も新しいパートナーを見つけ  幸せだから、後は私だけか                         とかち