- FARION MES( 3):【めでぃあ室】本/映画/音楽 etc----<01> 94/04/02 - 00429/00429 PAG03543 NOISE 友川と宮沢りえの関係 ( 3) 94/04/02 01:34 00422へのコメント ぴささん始めまして >>友川さんって昔M10でやってた特集見たなぁ。宮沢りえが彼のファン >>だって事と、なんだか無性に恐かった記憶だけしか残ってないけど。 あのぉ、昔といっても…、 M10の友川特集は去年の今頃放映されたんだけど…… 宮沢りえがライブに現れたのは、例の「スッタモンダがありました」の直後で、 精神的にかなり参っていた時期だと思うけど、 某深夜番組に出演した友川を観て、心に響くものがあったんだろうね。 その後、宮沢宅に招かれた雨の夜、酒飲んでいるうちに泥酔して 「気がついたら、長靴穿いて盆踊りを踊っていた」(^_^;)とか… こまったもんだ。 昨年の夏、NHKで放映された宮沢りえ主演のハイビジョンドラマ 唐十郎原作「青春牡丹灯籠」(訳のわからんドラマだったな)に 友川も共演していました。 なんでも、その役は片岡鶴太郎がやる予定だったのが、 宮沢サイドからのプッシュで実現したとか。 「なんだか無性に恐かった」ということですが 初めて聴く人は一様に吃驚するようで、 その後「もう二度と聞きたくない、避けて通りたい」という人と 「のめりこんでしまう」人と二つのタイプに別れるようです。 - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/04/02 - 02081/02081 NBA02777 アポロ RE:アーリオーンは超能力集団とどこが異るのです ( 7) 94/04/02 01:16 02080へのコメント #2076 SUKEさん、こんばんわ 「昼の続きです」  「具体例2」の前に、 どんな人達かと言うことを紹介します。会話形式です。  この人の奥さん、(実は同棲しているだけなのですが)も、超能力者です。 「なぜ結婚しないのですか?」と聞いた事があります。  『超能力者同志は、お互いにお互いの心を読む事ができる。従って尊敬し合う 事などできない。ではなぜ一緒に暮らしているかと言えば、その方がお互い 都合が良いからだ。超能力者は孤独・・・・』 「どうして私は、貴方の声は聴こえるのに心が読めないのですか?」  『私は17才の時から修行を本格的にしている。読心術は修行を行わないと できない。』 年齢は40才代ー50才代である。  『貴方のおかあさんは胃がだいぶ弱っている。原因は市販の胃薬の飲みすぎ、 今すぐ、薬を飲まない様に超能力で伝えなさい。』  「どうやって? 100Kmも離れているのに・・・」 『まず、正座して、母親の顔を思い出すんだ。』 3分位、顔を思い出すがどうしても思い出せない。 『では、家の景色を思い出すんだ。』 この途端、宇宙空間の映像が見えて来た、地球の風景ではなく、 ★サイノカワラ?、惑星の崩壊後だ、お前は宇宙人だ、 (別の超能力者が頭の中を勝手に見ていたようです ★を記す)  私が思うのは、猿の惑星の雰囲気かハワイのマウアイ島 でも、宇宙基地のような住居跡があり、半壊した部屋の内部 から電子機器?、コンピュータらしき物、金属片それ自体になんらかの 機能が有りそうな様子。とても高度な文明に相違ない。 これは、コンピュータゲームにしたら使えるキャラクターだなぁ。 ★ なるほどね、これを商売にね。ふーん 早くXXXの家に行かなくては、と必死に思い出す。 出てくるのは、火山の噴火跡の様なコゲ茶色の岩と岩盤ばかり、 植物や人影も見あたらない。SF映画に出てきそうな赤いヘルメット を肩まで被った、作業用ロボットらしきものだけが見えた。 後日知ったのですが、この映像は、中心人物さんが、何を思ったのか 私にイメージとして送り込んだとの事でした。 「具体例2」  このグループとは別に、中心人物のこれまた、すぐ側に4人の 学制風の超能力グループが住んでました。    こちらのグループは金銭を要求したりしないのですが、自動車で 尾行したり、県外に出ると別のメンバーを呼んだり、組織的な行動 をします。グループ全体の規模はかなりのものと思います。  彼らの年齢は20ー30才と非常に若い(声の質と服装、髪型より)  このつづき また、あした              アポロ - FARION MES(11):★アキラの《平井和正*異界漂流》----<01> 94/04/02 - 387/391 GHF02266 カンチャン ゴーストライター (11) 94/04/01 22:16 月狼さん、林さん、初めまして。カンチャンです。 高橋圭子の著書『真・創世記』に関しましては、平井和正の筆によることが当 の平井センセ自身が2年前に某リ○出版から出ていた全集のあとがきで告白し ています。 G○Aがらみのゴシップ的な話は本とかでも出てますが、あまり興味がない。 GHF02266 カンチャン 388/391 GHF02266 カンチャン 宗教について思うこと (11) 94/04/01 22:16 384へのコメント コメント数:1 私も宗教についてちょっと一言。某高橋○子氏ネタに触発されて。 (自嘲・自戒の意を込めて……(^^;) もっともらしい”真理”ってのは誰にでも言えることです。 誰も否定できないような”正論”で武装しているのが気に入らない。 (よく見ると穴はボロボロあるのだが……) 自分の弱さやロマンチシズムによる期待が、誤った神を作り上げてしまう。 わたしゃ、偽りの神による権威で装った宗教よりも、”諺”の方がよっぽど 役に立ち、害がなくてよいと思っている。言ってることって、そんなに変わ りませんよ。  ”真理・奇跡”を唱えている自分は一体何なの?  ”真理”を口にする自分に酔っていないかい?  ”真理”を唱える自分には何ができるんだい?   自分の存在に意味を与えてくれる”権威(安心)”が欲しいのかい? ”溺れるものは藁をも掴む”って感じだったりもするのだろう。 宗教にはまる人って”真面目な人”(←シニカルな意味で)が多かったりする。 ”同じように悩んでいる人と、本音で話し合えて嬉しい!”などの意見を聞 いたりもする。 哀れ。ちょっとだけ道を間違ったね。本当はみんなそうなのに。 完璧な答えは、多分手に入らないだろう。 だからといって、苦しさを偽りの安らぎで埋めてもしかたがない。 ……と考え、私の苦しみは永遠に続く。(盲信したいよう〜(^^;) あれこれ、いろいろ考え、解が出ずに ”村上直樹(江川達也の『東京大学物語』参照)状態”になっている                 GHF02266 カンチャン (^^;  でした 389/391 MGH00465 アキラ RE:宗教について思うこと (11) 94/04/01 22:27 388へのコメント  げげっ。もしかして、受験前夜に…… P.S.デザインが上がってこなくて、待ちぼうけくらってるんで、アホなこと   書いてすいませんm(__)m ペコリッ                         MGH00465 アキラ 390/391 JBH00712 桂 桂 魂の故郷より (11) 94/04/01 22:48  4年振りに新宮へ、玉置にいった。  少しも変わっていなかった。海の風を受けた時、何故か郷愁が蘇った。  自分の原点の一つでもある、懐かしい土地へ。  始めは成地さんに会う予定はなかったのに、いきなりホテルにやってこ られた時は驚き以外のなにものでもない。しばらく見ない内にすっかり年 をとられたようで、涸れた感じを受けた。「遠い所から山へゴミ拾いをし てくれる人が大勢来ているというのに、ここにいるわしがぼちぼちしてい るわけにはいかんでのう」そういっていた。聞けばもう半年も山に入って ないということ。「心中期するものあり」と、思えたのかもしれない。  その後Sさんの所にみんなでいった。  このかたももう5年ぶりの再会である。ただ懐かしかった。  翌日玉置に参る。  新宮側からいくコースは古代神武天皇が東征の際熊野を渡ったのと同じ コースである。途中水場が在り、その先を暫く過ぎると山中の雰囲気が変 わるのを、過去幾たびに常に感じていた。ところがこの日は、そのいつも 感じる「きつい印象」がなくなっていた。これはこの日一緒に連れ立った 人達に何人か聞いても、やはり同じであった。「明るくなった」そう、こ の日ホテルを出る時は曇天であったのが、山に入る頃にはすっかり小春日 和になっていた。気分はすっかりピクニック気分。  玉石での般若心経あげは久々に聞くものであり、あげるものだった。  それよりも下の方での供養の墓での前のお経あげの方が凄かった。  半年ぶりに行うと言うのに、成地さんの声には一向に衰えは感じなかっ た。むしろ振り絞るような、半年分の声をだしたような凄味を感じさせた。  行きと帰りに僕は成地さんの錫杖をもってならしていたが、山の中での 錫の音はやはり耳に心地好かった。  帰る日の海辺にて。  ここで少し成地さんの話しを紹介してみよう。 「人真似はいかん。強制もいかん。みな教祖さんの真似をしたがるが、そ れはそのひとが10年くらいかけてえたものじゃて、最初から真似すれば 10歩飛びにする事じゃから絶対失敗する。支離滅裂になってしまう。 「まず足をしっかり地面につけさない。ついでに両手をあわせて先祖のご 冥福を祈りなさい。よければ、般若心経もあげなさい。それを一としなさ い。なんでも一から始まるのや。自分で決め、自分で判断する。それでい い。 「他の宗教の事をとやかく言う気はないんや。それぞれの世界があるから のう。でも、信者はこれからますます悪くなっていく。 「誰でも先祖の言う事聞いて、きちんと供養していれば何も問題はなくな るのよ。子供は素直じゃろ? だから転んでもけがせいへんのや。大人に なっても素直じゃったら、何も問題もおきずに生きていけるのよ。 「山を見てな、東西南北どこからみても違うようにみえるじゃろ。登り方 も違う。だけどな、頂上は一緒なんや。 「神の力はな、権現いうて色々な霊が集まって四方に働きかける。一定の 修行を積んだ霊ならこの中に入って働きかけをすることもできる。だがそ れをする時代はとうの昔に終わっている。 「今はもっともっと上の宇宙神が人間に働きかける時代になったのや。 「UFOのようなものがあってその中でモニターみたいのがあって、人間 の魂を逐一見ているのや。それでその魂がいい方向に向かっている時はな、 明るい光が大きくなるようにみえて、神の波動が入りやすくなって守りが 入るのや。でも悪い事考えてするような時はどんどん暗くなって守りもは いれんようなってしまう。 「関東はこれから大変や。後2年もせいへんうちに苛立ちが募っていても たってもいられんようなってしまう。みんな自分の畑をたがやさにゃなら んと思う日がくる。 「わしは玉置に12年登った。でもな、この山の上にな、もっともっと広 い宇宙の世界があるのがわかったんや」  これをいった時、何故だか僕はとっても嬉しくなってしまった。  山中もとっても気持ちがよかったが海辺の潮風もとても気持ちが穏やか になるものだった。  始めに成地さんに会った時、その変りようにいささかショックを受けた。 年をとったな・・・・それだけでは済まないものがあった。でもそれはわずか 3日の間に、新しい人間像が出来上がっていた。50を過ぎても再び新し いものに変わりつつあるだけだった。成地さんは健在であった。おそらく は、これからも再び山を登り、するべきことをするのだろう。「わしにも 問題はある」そう、苦笑しながらいっていた。これからもっと大変な事も するのだろう。  山にはおかしな宗教団体も入り込むようになっている。  悪い気もそこかしこにただよっていて、何気にそんなものに触れて山を 降りてしまえば後が大変だともいっていた。  でもそんな訳の解らん状況であっても、玉石はある。おかしな人間がお かしなものをあげていても、そこを奉る人は健在である。  最初から最後までよくて、そして希望を持ち帰れた素晴らしい旅だった。  余り他の方々とお話出来ませんでしたが、次の機会に又お話したく思い ます。最後に、幹事であるアキラさんと、2日連続の深夜のおたけびに付 き合って頂きました方々に感謝(^_^;)。  「万事OK」  「ベリーグッドや(笑)」 桂 桂(JBH00712) 391/391 MXF02277 林 光之 こんにちは (11) 94/04/02 16:13 はじめまして カンチャン。んーん、あらためて色々考えさせられました。 非常にありがたいコメント(ほんとに)ありがとうございます。 これからもどんどん突っ込みを入れてやってください。 今回カンチャンがあげられた設問に答えられるのは、いつになるか 解りませんが、今後の課題です。と言うことで即答はできません、 悪しからず。(ころころ変わる発言はしたくないので)。 P.s 自分を観ると言う作業はなかなか辛いですね、自分の精神年齢が 小学校で留っているのが分かってしまって。やり甲斐もあるけど。 東京スカパラが好きな MXF02277 林 ----- - FARION MES(12):★SUBUDHの《アジア・チャンプル》----<01> 94/04/02 - 00186/00195 GFB00026 一輝 「タキタさんのカンボジア訪問記」に寄せ て (12) 94/04/01 23:01 コメント数:1  「タキタさんのカンボジア訪問記」に寄せて。   15年近くミニコミを出し続けている私の古い友人が、不定期刊の新刊を送っ  てきた。ミニコミの名は『日本芸能新聞』。何度タイトルを変えてきたことだろ  う。最初の誌名は『Street fighting men 』。15年前、都下に住む、学校では  燃焼し切れぬ現状への不満や、大人たちの欺瞞を吐露する高校生たちの作るミニ  コミのひとつだった。現況のパソコン通信の如く、スポンサーや肩書にとらわれ  ることのない自由な表現の場として、これらのミニコミは棲息していた。   70年代半ばには、こういったミニコミのブームがあり、中心は高校生だった。  彼らは、学校をサボってタムロする喫茶店(ジャズ喫茶、ロック喫茶などが多い  )やイベントスペース、ミニコミ専門店、米軍の払い下げハウスに本拠地を置く  コミューンなどに、自分たちの作るミニコミ販売を委託し、様々な情報・意見を  集めては仲間に分配していた。私は別のミニコミを編集していて、喫茶店のミニ  コミ・ネットワークの中でその友人、増田昭人と知り合った。   各誌の内容は、編集人の好みによって異なり、ライターが重なることもあった。  もちろんノーギャラ。編集人は自分の足で印刷・編集・営業をやっていた。内容  には一貫性がなく、編集人の好みの変化に応じて内容も変わっていった。『Stre  et fighting men 』は、当初ロック系のカルチャー誌だったが、現在は編集人の  増田昭人の独断と偏見による嗜好の変化によって名を変え、『日本芸能新聞』と  いう名前で現在に至っている。途中何度か休刊していたが、創刊15年を越える  ミニコミ歴は珍しい。   他に長命のミニコミと言えば、”名付けようもない真実”を追求することよっ  てマスメディアへ挑んできた、創刊20年を越える浜田光氏編集の『なまえのな  いしんぶん』(編集部は、吉祥寺…国分寺…八丈島と移転)があるが、年代的に  は、私や増田昭人よりひと回り上の世代である。かつては70年代安保闘争以降  のくすぶり世代が読者の中心だったが、今ではニューエイジムーブメント以降の  エコロジストや市民運動関係者が読者の中心だ。   コラムニストの山崎浩一氏は、このミニコミ世代の出身だ。彼は青山トンネル  脇にあった「地球の子供たち」という店で出していたミニコミ『子供たちから子  供たちへ』で、イラストやレイアウトなどを巧みにこなしていた。私と同世代で  は、『摩天楼』の編集人だった漫画評論家の竹熊健太郎氏がいる。彼もイラスト  やレイアウトだけでなく、執筆やコミックまでこなすマルチプレイヤーだった。   さて、今やパソコン通信の時代だというのに、増田昭人は時流に対抗するが如  き編集方針を『日本芸能新聞』の冒頭に掲げる…「世界の民族芸能、大衆、芸能  をはじめ、失われゆこうとする8ミリ映画、アナログレコードなどの風習風俗、  街の記録などのアナログ文化全般についての情報、研究、記録、および愛好者の  ための同人誌です」。                    ◆   『日本芸能新聞』で、多喜田英良氏の「カンボジア訪問記」を見つけたのは、  昨年末のことだ。それは、一個人によるカンボジアの興味深い報告だった。   カンボジアについての情報は、国連が絡み出してからマスメディアの裏側で検  閲を受けているのか、首を傾げるような情報が多く、正確な判断をしかねる報告  が日本国内で伝えられている感がある。   特に、非人道的な政策で悪名高いポル・ポトは、とうの昔に失脚し、カンボジ  ア共産党は解党、今はキュー・サムファン代表が指導者であるにも関わらず、日  本国内ではキュー・サムファン派とは呼ばず、今でもポル・ポト派と新聞、雑誌、  TVで呼んでいること(正式には、民主カンボジア派、DK派)も、大いに情報  操作と関連があるという見解がある。その一方で、ポル・ポトはラ・ムットと改  名し舞台裏で健在、という報告が伝えられてもおり、真相は謎に包まれている。   また、UNTACの被害者、特に死者は日本やブルガリアなどの国連の敵国条  項該当国、インドネシアやバングラデシュといった発展途上国に多く、主力部隊  のオランダやオーストラリアに被害が少ない、などの疑問点も挙げられている。  つまりカンボジア和平の阻止をしているのは、民主カンボジア派に見せかけた別  の武装集団の可能性があるということだ。しかし、まだ真相は分かっていない。   さっそく増田昭人と多喜田英良氏に、まだ『日本芸能新聞』で連載途中の「カ  ンボジア訪問記」の当会議室での転載を申し込んだところ、快くOKの返事が出  た。また、当会議室議長のSUBUDHさんからは「歓迎」の旨を戴き、連載してゆく  ことになった次第。この場を借りて、御三方に感謝致します。   上記の現況を踏まえた上で、日本のPKOが動き出す直前のカンボジア情勢を  感じ取って頂けるとありがたい。多喜田氏の報告には、新聞記者たちが割愛して  しまったカンボジアの生の姿がある。   もちろん、これはあくまでも「タキタさんのカンボジア訪問記」である。何を  どう判断する(すでに判断不能なほど、カンボジア情勢は混乱しているが)かは、  読者の皆さんにお任せしたい。100人の人間がカンボジアに行けば、100の  カンボジアを体験するであろうから…。                                     一輝 00187/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・1 (12) 94/04/01 23:03 00186へのコメント コメント数:1        <タキタさんのカンボジア訪問記・1>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと ● これは、一九九二年七月二十八日から三十一日のDK派支配地区訪問の報告兼紀 行文です。(DK派=デモクラチック・カンプチーア派=民主カンボジア派。いわゆ るクメール・ルージュとかポル・ポト派といわれている団体) ● 一九九二年七月ごろのカンボジアは、前年の十月に紛争四派に合意されたパリ合 意(パリ和平協定)に従って、国連カンボジア暫定行政機構UNTACが展開。カン ボジア側には唯一の政体ともいうべきSNC(カンボジア最高国民評議会)が四派に より創られていた。  これらによってカンボジアに停戦状態が生まれ、各派による武装の七〇パーセント 解除がおこなわれ、しかるべき後に憲法制定議会の総選挙が各派の参加で全土で行わ れ、新憲法制定と新生カンボジアが生まれることになっていたが、この文章の扱って いる一九九二年七月ごろにいたっても停戦状態にはちがいはないが、あちこちで各派 により小戦闘が行われていて、武装の七〇パーセント解除も、遅々として進まずであ った。  このような中で、日本では、当時の日本の指導政党の自由民主党が一部野党を巻き 込みPKO法を可決させ、国連カンボジア暫定行政機構UNTACに日本の自衛隊を 派遣する決定をくだしていった。  筆者の私がカンボジアを訪れたのはそんな頃である。 ● なお、この文章は、旅行記専門(?)ミニコミ『日本芸能新聞』の依頼により一 九九二年(平成四年)末に入稿したものに、加筆と修正をおこなったものです。  『日本芸能新聞』は季刊紙のため、一九九四年(平成六年)三月の現在もこの文章 の掲載を続行中ですが、現地の情勢は刻一刻と変化していますので、現在は登場人物 の役職名や、政権担当の政党などに変化があります。しかし、この文章は、基本的に は、すべてを当時(一九九二年七月二十八日から三十一日)の役職・情勢のままに表 現してあります。例としては、現在の〈シハヌーク国王〉は、文中では〈シハヌーク 殿下〉というふうにです。                                 1994.3.                                   つづく 00188/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・2 (12) 94/04/01 23:06 00187へのコメント コメント数:1        <タキタさんのカンボジア訪問記・2>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと 「カンボジアに行ってみないか?」  古くからの知り合いに、そう声をかけられた。  実は何年も前から、そういう話はあったのだが腰をあげる気が起こらずにいたのだ。  そういう中で今回に声をかけられたのは、ちょうど日本のPKO法案が国会を通過 してしまった一九九二年の六月の半ばだった。  (注)PKO=〈平和維持作戦〉の略。日本では〈平和維持活動〉と強いて誤訳を     させている。  例によって今回も「いえいえ、私などとてもとても………」とお断りしたのだが、 その話のあった二日後に突然「今をおいて行く機会はない!」と気づいて申し込んだ。  何が「今をおいて」だか? 実は本人も理解していなかった。とにかく発作的に申 し込んだ。私が申し込んだのは、東京にある〈日本カンボジア友好協会〉の友好訪問 団にである。  この協会は、シハヌーク殿下の依頼で一九七三年にできた団体である。だから、シ ハヌーク氏と密接な関係を有しているが、同時に他の三つの派にもパイプを持ってい る。すなわち、カンボジアの紛争四派すべてにである。  特に、この友好協会は、ポル・ポト派支配地区に入ることもできる日本では数少な い団体の一つだそうだ。  今回、私が申し込んだ訪問団の行き先は、四派のうちのポル・ポト派の支配地区で あった。だから申し込んだ。その地は、カンボジアの国土の二〇パーセントを占めて いるというが、そのうちのカンボジア西部の国境地区に行くのだという。  しかし「なんだってそういう地雷や戦闘のある危険な地区にいくのだ?」との問い が、多くの友人達からは私に対しておこなわれた。  これについては、先にも書いたように実はうまく説明できない。  しいて挙げれば、私の職場でもPKO法案反対の行動なり動員が行われていたのだ が、〈自衛隊の海外派兵反対〉というのを専門的におこなっている職場という訳では ないので、阻止できなかった今は、運動が他の行動ともども冷えていくのは目にみえ ていた。いつも歯がゆい思いであった。できれば、そうはさせたくなかった。しかし、 真面目な反戦活動家や市民などでは決してない私が口にしては、片腹痛い(傍ら痛い )と笑い飛ばされるだろう。  したがって、この説明は、日常の私の不徳ゆえに使用できない。  しかし、「だから説明できない」ではカッコウがつかない。そこで、とりあえずの 理由を、問われたとき用に後から創らざるを得なかった。  すなわち「私は子供のころからの怪獣ゴジラ映画のファンである。そのゴジラ映画 には(憲法違反か合憲かは別にしても)ゴジラのライバルとして自衛隊が出演して我 々を楽しませてくれた。その自衛隊が(これも憲法問題はここでは触れないにしても )PKO法により海外に送り出されてしまう。もはや絵空事の怪獣映画の世界ではな い。そこで彼らが送られてしまう場を見、その地に存在する、自衛隊の活動に対して 最大のネックとなりそうなポル・ポト派等をこの目で見定めて置くことは、今回のP KO法を阻止できなかった日本国民の、そして我々ゴジラ映画ファンの責務ではない か!」という説明である。  多くの友人達は、この論旨になかば呆れたようだが、何とか納得してくれた。  もちろん、中には「そのとおり!」と言う声もあった。  しかし、ある協会関係者からは怒られた。その一点は、ポル・ポト派をゴジラに例 えたと解釈されてしまったという事と、さらに「自衛隊は、ポル・ポト派を討伐しに 行くのではないぞ! ポル・ポト派をふくめた紛争四派が作ったSNC(カンボジア 最高国民評議会)の要請で、カンボジアの道路の修理に行くのだ!」という二点目の 理由による。  そのとおりでした。  ところが、どうも連日のマスコミの論調では、まるでポル・ポト派が手ぐすね引い ている所へ自衛隊が送り込まれ、一戦もありうるという空気がつくられてしまってい る。改めて読み返すと、どこにもそういう事は書いてはいないようだが、流れるニュ アンスやトーンはそういう空気なのだ。  これはいったい何なのか?  とにかく出発した。                                    つづく 00189/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・3 (12) 94/04/01 23:09 00188へのコメント コメント数:1        <タキタさんのカンボジア訪問記・3>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと 一九九二年、夏。  まだ自衛隊は出発してはいない。  私は、集合地点のタイランドの首都バンコクにいた。  今回のポル・ポト派支配地区への訪問団は、二十人までの参加が可能だ。この人数 枠の理由は、ポル・ポト派地区の外国からの訪問客の受け入れ設備の収容可能人数が 二十人までだからだという。  具体的にはどこの地区に入れるのかは行って見ないとわからないというが、まあ二 十人までは大丈夫なのだろう。  ところで、私は申し込みが遅かったので、その二十人枠にもぐり込めないのではと 思っていたのだが、蓋を開けてみると、参加者は十四人だった。  これは何かというと、申し込みを行った人のなかに、参加の取消しを行った人もい るからだという。連日の日本のマスコミのカンボジアの大報道を見て、現地の情勢に 危機感を持った家族や妻に参加をすがって中止させられた人もいるとかと聞く。  しかし、そういう話を聞いて参加者を見渡すと、十四人のメンバーの多くが、いわ ば〈家族や妻に参加をすがって中止させ〉たであろう報道を、送りだした側のつまり 報道関係者側であった。『朝日新聞』一人、『毎日新聞』一人、『共同通信』一人、 フリーランスのジャーナリストやカメラマン五人と、八人までが報道側である。  〈報道〉も送り手と受け手では反応や行動が違うものだと、感心のようなものを私 はした。送り手はニコニコと入国を待っていると私は感じた。  他のメンバーは協会からの引率者等を含めてカンボジア問題などの研究者が五人。 唯一の場違いな観光客一人(それは私)であった。  今回の参加申し込み者の中には、カンボジア報道で著名なカメラマンの馬淵直城( まぶちなおき)氏や、三留理男(みとめただお)氏。さらに、軍事ジャーナリストの 神浦元彰(かみうらもとあき)氏らの姿もあった。  彼らは単独での入国取材もするが、こういう機会でも積極的に参加してきているの だと私は感心した。  そのうちの一人の神浦元彰氏は、カンボジアにいる国連の暫定統治機構UNTAC の部隊のことを「国連軍、国連軍………」と口にしていた。この表現に私は驚いたが、 よくよく注意していると、他の報道陣諸君もごく自然に「国連軍」と、わりと言って いる。  ちなみに〈UNTAC〉のことを日本では〈アンタック〉と発音しているが、現地 では〈ウンタック〉と発音されていた。だから私たちも〈ウンタック〉と口にするよ うになった。しかし、それらの報道陣も、日本ではわざわざ〈アンタック〉と言い換 える。日本では〈ウンタック〉と発音しては下ネタギャグを連想するために配慮した なのか?あまりに馬鹿馬鹿しくて、報道陣にも質問をし忘れてしまった。   (注)〈ウンタック〉というのは、〈国連カンボジア暫定行政機構〉の英語表記      の略称〈UNTAC〉を、さらにフランス語式発音で音声にしたもの。      カンボジアでは、フランス語の方が英語より一般的なので、カンボジア人      は〈UNTAC〉を〈ウンタ〉もしくは〈ウンタッ〉〈ウンタック〉とフ      ランス式発音で読む。      ちなみにフランス語での〈国連カンボジア暫定行政機構〉のフランス語表      記の略称は〈APRONUC〉と表記し、発音は〈アプロニュク〉である。      〈国連カンボジア暫定行政機構〉発足のおりに、〈国連カンボジア暫定行      政機構〉で使用する共通原語は「フランス語を!」という案をフランスは      強行に押した。しかし、世界の国々から来る部隊の隊員の大部分はフラン      ス語を解さないので、共通原語は、フランス語を解さない連中でも多少な      りとも解せる英語で行くべきだとの案の方が強かった。結局、英語とフラ      ンス語が共通言語ということになって決着をみた。      だから、プノンペンの〈国連カンボジア暫定行政機構〉の本部の入口には、      〈UNTAC〉と〈APRONUC〉のふたつの言語の並んだ看板が付い      ている。もちろん、〈UNTAC〉の英語発音は〈アンタック〉である。   (注)国連カンボジア暫定統治機構=〈国連カンボジア暫定行政機構〉が訳とし      ては本来は正しい。(もっともこう喋ったら、日本の国際連合広報センタ      ーの人には「〈統治〉です!」と注意された)  いずれにせよ〈国連軍〉という表現が現実には行われているのには驚いたが、そう 呼ぶ彼ら報道陣も、記事やテレビのレポートでは〈国連軍〉とは表現せず、例えば〈 UNTACのバングラデッシュ軍〉とか〈国連の部隊〉ともっぱら表現する。しかし、 現場では広義な意味で今日〈国連軍〉と表現されているのだろう。  さらにもう一点。〈ポル・ポト派〉という表現も今回の訪問団ではまず聞かなかっ た。参加者はもっぱら〈DK派〉と表現していた。〈DK〉は〈デモクラチック・カ ンプチーア〉即ち〈民主カンボジア〉の略である。  〈民主カンボジア〉は、ポル・ポト首相と彼の政党〈カンボジア共産党〉がカンボ ジア全土を文字通り掌握していた時期の国名である。(一九七五年四月〜一九七九年 一月の間の、途中から命名。)その後、ベトナム軍とその後押しを受けたヘン・サム リン派により国土の大部分を奪われ、ポル・ポト首相は政治責任をとって引退したと 伝わる。また、〈カンボジア共産党〉も後に解党している。ゆえに、彼らに対する適 当な呼び名がない。彼らを、引退した人の名をとって〈ポル・ポト派〉の皆さんとは 言えないし、〈カンボジア共産党〉の皆さんとも呼べない。有名な〈クメール・ルー ジュ〉と言う呼び方も、〈赤いクメール人〉すなわち〈共産主義者になったカンボジ ア人〉との軽蔑の意味をこめてその昔のシハヌーク時代(一九七〇年三月以前)にシ ハヌーク氏が勝手につけた蔑称だからだ。  だから、結局は一九九一年の十月のパリ和平合意で彼ら(いわゆるポル・ポト派ら )がSNCにカンボジアの国連議席をプレゼントするまでの間に存在していた国連加 盟の国家名をとって〈民主カンボジア派〉=〈DK派〉と呼称しているのであると言 う。                                    つづく 00190/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・4 (12) 94/04/01 23:12 00189へのコメント コメント数:1        <タキタさんのカンボジア訪問記・4>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと 一九九二年七月二十八日。  数日前より集合地のタイランドの首都バンコクに到着していた我々は、現地参加の メンバーを加えて、朝七時過ぎにチャーターしたマイクロバスで出発した。  一路をバンコクから東へ東へと、タイ側の国境の町アランヤプラテートを目指す。  町を出ると時速百キロ位だしているらしい。  バンコク周辺から遠ざかって行くと、次第に英語表記の看板や道路の標識がなくな ってゆきタイ語だけになっていく。  自分一人では場所を地図で確認することもできなくなる。辛うじて読める文字は、 日本でも使われているアラビア数字と、すれ違う現地の人が運転する小型トラックの 後方に色付きで浮き彫られているTOYOTAとかNISSANとかMITSUBI SHIとかという文字だ。  彼らタイ人にしてみれば「大枚を叩いて車を買ってやったのに宣伝までやらされて はたまらないなア」とでも思ってはいないかと、それらの自動車会社の社員でもない が、日本から来た私は恥ずかしくなっていく。  しかし、彼らタイ人には一種のステータスシンボルなのだろうか? いつか聞いて みようと思う。私の記憶違いではなければ、アメリカのフォードの小型トラックも、 映画でみる限りは、お尻の文字は、同様にでかく浮き彫ってあるが、文字にわざわざ 色まで塗ってなかったと思う。一見、奥ゆかしさとハデの対照文化などという日米対 比があるが、米国のフォードなんと奥ゆかしいことだろう。  まちがっていたら教示ください。  ところで、いま走っている所は、まだタイランドなので、カンボジアにいるUNT ACの車両は見ないが、あれもメーカーが納品する時に全体を真っ白に丁寧に塗りな がらも(〈UN〉の文字は当然としても)なんで尻にあるTOYOTA等という文字 に色をわざわざ付けてあるのだろうか?  十二時半過ぎ、車はアランヤプラテートに到着。マイクロバスの運転席の上の時計 はとんでもない時間のままに止まりっぱなしなので、後で写真整理する時に混乱の元 だと思った。  このアランヤプラテートでタイ国内での最後の買い物をする。  日本やバンコクで買い忘れた細々としたものの購入だ。  国境を越えると、そこは世界で唯一の貨幣制度を廃止した国で有名なDK派(ポル ・ポト派)の支配地区だからだ。  私達は、車を乗り換えて国境に向かった。  くれぐれも、国境地区のタイ軍兵士や軍事施設の撮影はしないでくれと日本側の引 率者氏が言う。撮影しているところをタイ軍に見つかったら国境までたどり着けない からだという。 「一体どこからが国境地区なんでしょうか?」と私がたずねると、引率者氏は少し困 った顔をして、もうここからだと考えていただいた方が安全ですと言う。  引率者氏からすれば、私のような、よく物事を理解していないアマチュアが、もし や無知ゆえにとんでもないことをやるのでは? と、怖かったのだろう。                                    つづく 00191/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・5 (12) 94/04/01 23:17 00190へのコメント コメント数:1        <タキタさんのカンボジア訪問記・5>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと さて、我々はそこからさらに乗合の車で三十分も走った。時速は百キロ近く出して いるようだと同乗者は言う。私の所からはメーターが見えない。  いたるところに軍の検問所がある。コンクリート製のトーチカ風の建物の中にはい ちいち機関銃らしきものが見える。それらを越えるたびに緊張してこれが国境検問所 かと思うのだが、それを越えるとまた、呑気そうに農民が原付バイクにまたがったり、 トラクターで走っていたりで拍子抜けする。道路の左右にはまず、手入れの届いた畑 などがある。  突然、それまでの往復二車線以上の幅のあった舗装道路から、車がすれちがえるか どうかも怪しい未舗装の赤い土の道路に入った。 「こんどこそ国境だ!」と、車中で何度も聞いた台詞が、だれからともなく日本語で でてくる。  今度こそ本物だろうとの緊張感が高まる。だが、やはり道路の左右には呑気そうな 畑が広がっている。  肩の力が抜けていく。が、そこにタイ軍の検問があったので慌てて緊張しなおした。  国境だった。  国境は、その先にわずかに進んだところに横切る幅二か三メートルの幅の川だった。 川の上には長さ十メートルほどの木の橋が架かっていた。  川は、カンボジア側の川べりがスロープになっていて降りられる。ちょうど橋のほ ぼ下でカンボジアの万能布〈クロマー〉を頭に巻いた婦人が洗濯をしていた。  橋のカンボジア側のたもとには、ほとんど橋にくっついて検問の小さな木製の小屋 が建っている。そこに、共産圏製のAK47ライフル銃を持ち人民帽を被った兵士が 数人いて、我々をにこやかに迎えてくれた。  我々は、カンボジアに入国した。  橋のたもとのカンボジア側には、タイ側に向けて三枚の大看板が立てられている。  それには「私たちは要求する。ベトナムの侵略軍のカンボジアからの撤退を検証す ることを。それはまだ正しく満たされていない」とか「私たちは、全てのカンボジア の州、地区、町、村による民族会議の組織を要求する」さらに「われわれは要求する。 一九九一年十月二十三日のパリ合意が正しく実行されることを。ベトナムのカンボジ アへの侵略軍のカンボジアからの撤退が正しく検証されていない現状では、SNC( カンボジア最高国民評議会)がカンボジア唯一の政体としての機能を果たしていない 現状では、カンボジア西部地区での(UNTACの)活動は認められない」と要訳で きる文章がカンボジア語と英語で書かれていた。  これらの看板は、お向かいのタイ軍に見せているというよりは、UNTACや国境 見学にやって来る報道陣に向けて立ててあるらしいと研究者の一人が言う。  さて、カンボジアに入国した我々は、未舗装道路がぬかるむという理由もあろうが、 三台の車でいわばパレード(?)をかねて国境から村に入って行った。車は、タイと は違って速度を上げずに進んだ。  村のあちこちに、我々の歓迎のために住民が待ちかまえていてニコニコと手を振っ て迎えてくれる。  動員されてもいるのだろう。と、私は、日本のオリンピックの時に小学校総出で聖 火ランナーに沿道からニコニコと手作りの小旗を振った時の自分自身の事を思い出し て、どう対応していいのか困ってしまった。  しかし幸いにも、ニコニコと手を振る大勢の村人や子供の中には「なんで手を皆で 振ってるんだろう?」というふうに、理由を理解できずに困っている小さな少女がい るのを、車の中の私は見つけた。  私は、その少女を見つけて変なことだが非常に嬉しくなって、思わず少女に手を振 って返した。  しかし、へそまがりになってよく見ると、道路ぎわは歓迎風景だが、道路沿いの少 し離れた家屋の入口などに腰をおろしている住民のなかには「何様だ、こいつら!」 とばかりの表情で我々を見ている人々も中にはいる。  へそまがりとしては、逆に、その姿と表情に健全なものを感じてしまった。  こういう手前の歓迎と背景の風景を同時に捉えた映像が欲しかったが、まだ撮影禁 止が解除される合図は(きっと忘れてしまっているのだろう)ない。残念だった。  「おい!? あれを見ろ!!」と同乗者が沿道を指さす。そこには、小さいながらもど う見ても商店にしか見えないものがあった! 「DK地区に商店ですよね!? あれ!!」 「雑貨を並べて、店番のおばさんがいる………」  板張りの民家の正面に面した壁に一メートル半ほどの窓と申し訳程度の棚があり、 駅のキヨスクの正面に似た高さのその棚に二十個程の工場生産した雑貨品が並べられ ていた。  続いてもう一軒。こちらはもっと大きい、ポスターなのかカレンダーなのかをカラ フルに壁に貼って並べ、棚も二段になっていて、棚の長さも二メートル以上はある。 店番のおばさんの後ろにも棚がある。積み重ねた金属バケツとか、麦わら帽子とか、 ケースに入ったファンタだかの清涼飲料水とか、ポリエチレン容器の何かも並んでい る。 ドラム缶を二個並べたガソリンスタンドも二軒ある。  さて、家々は、このあたりの気候風土に適した高い床式のものや、なぜか平屋式の ものもある。つくっている材料は、伝統的なココ椰子や砂糖椰子(扇椰子)の葉で壁 や屋根を葺いたものから国防色の弾薬箱の板を流用したものや製材した板を使用した ものまである。  はたして、日本人の私などから見て、最も高価そうに見えるものが、現地でも良い ものかどうかの判断はつかない。例えば、家の上にテレビアンテナが立っていればそ の家が裕福かどうかの基準になるかどうかも日本の昔のセンスだし、第一、日本人の 目に高価そうにみえる建物にだけアンテナが立っているというわけでもない。  彼らは、タイの放送をもっぱら見ているのだろう。電気のないこの地区だから、発 電は各自が小型の自家発電装置で行っているようだ。  さて、車は、再び鬱蒼とした山道に入った。と、思うとすぐさま検問ゲートをくぐ り、波板トタンの門を越えた。  門を越えると、そこは空の見晴らしの良い、花壇とか何軒かの建物の散らばった広 場になっていた。  進行方向中央が小さなロータリーになっていて、そのロータリーの真ん中に円柱型 の東屋があった。  我々はここで車を降りた。  さっそく東屋に入ると、各自にグラスがだされペプシコーラが注がれた。  「ようこそいらっしゃいました。ここがDK派支配地区のプノンマライ地区の迎賓 館です」と、DK派の元儀典局長のロン・ノリン氏の挨拶とその説明を日本側の通訳 氏が日本語訳して伝えてくれた。  ついに、DK派の拠点のひとつカンボジア西部のプノンマライ地区の戦時下に造ら れたと聞く迎賓館のゲストハウスに来たのである。 ロン・ノリン氏は、いわば外務を担当しているという。英語ができるので、カンボ ジア語(クメール語ともいう)を我々のために英語訳と案内をしてくれる。  さらにもう一人、トゥ・キムセン女史も英語訳と案内をしてくれる。  ところでトゥ・キムセンさんを女史と表現したが、社会主義の洗礼を受けたことの あるこの地で〈女史〉とつけるのは、はたしてよろしいのかどうか疑問だが、とりあ えずそう表現をさせていただく。  ちなみに、この地では、レディー・ファーストは、女性に対するマナーなのか侮辱 行為なのか? だれか知っていたら教示願いたい。  さて、我々はここで始めて、カンボジア入国中の行動予定の発表を受けた。  「本日二十八日は、三時から、この迎賓館で元DKの副首相兼外務大臣のイエン・ サリ氏との会見があります。あす二十九日は、コムリアムというところの病院を見学。 これはここから南に五十キロのところにあります。あさって三十日は、パイリンの町 を訪問します。これはここから南に七十キロのところにあります。しあさって三十一 日は、午前中にカンボジアから出国します。以上です」  一斉に、すでに歓声があがっていた。  DK派の「拠点」で、報道陣もまず入れないマラリアとルビーの産地、さらにDK 派の首都だとか本部のあるところともウワサされている〈パイリン〉に入れるからだ !  これまでにも、この訪問団でDK地区を訪問するとき、だれもが幻の町〈パイリン 〉に、ひょっとしたら入れるのではないだろうかとの淡い期待を持ち参加するが、ま ずその期待は叶わない。だから、この事はこの上なく幸運なことなのだそうだ。常日 頃は冷静な友好協会関係者も報道関係者の嬉しそうな顔であった。  大手の報道陣は、DK派のだれかしらの要人に会え、カンボジア情勢についてのイ ンタビューができる。ということで参加申し込みをしていたと彼らは言う。  その大手報道陣用には、報道陣の希望もあり、インタビュー後の本日中に帰国する ための車の段取りができていた。  しかし、彼らは「ぜひパイリン訪問も行ったあとに帰国を延ばしたい」と希望を変 更した。  さて彼らの心配は、出国が延びる旨をバンコク支局にどう連絡するか? というこ とだった。電話も電報もここにはないからだ。  だが、幸いなことに、今日中に出国しフランスに向かう研究者や、どうしてもいっ たんタイ側に一時出国しなくてはならないタイ在住のインドシナ問題研究家やフリー ランスのカメラマンのための便でもある。大手報道陣は、出国日が延びる旨の支局へ の伝言を彼らに託すことにした。  そのうえで、会見がはじまるまで時間があるので、東屋では、一九八九年にベトナ ムやヘン・サムリン派からDKが奪還して以降のパイリンに入った報道陣はだれがい たっけ? という話題になっていた。  それによると、NHKが一九八九年の十月の奪還直後に入ったとか、DK側がタイ の報道陣を呼んだことがあるとか、テレビ朝日の何とかさんが入ったことがあるとか、 ということだ。あとは、今年の五月(一九九二年)にUNTACの明石康代表が空か らヘリコプターでマスコミ陣を連れて入ったが、ヘリポートからそのままDK派に追 い返されてしまった等であるという。  さて、我々は、思い思いに宿舎を決めなくてはならなかった。  周囲を林に囲まれた迎賓館敷地内の庭には、東屋の周りにそれ以外にも九軒の平屋 の建物がある。  その一つは食堂。もう一つは会見の間。  三つめは、十畳程の広さの黒く塗った板張りの建物で、板床のベランダも付いてい る。青いビニールテントの日除けもついている。この建物はシハヌーク殿下用の元は 寝所だそうだ。このシハヌーク寝所にだけは、屋根の上に水のタンクが付いて、室内 にシャワー室と水洗トイレがついている。床も板張りだ。  以上の三軒はすべて地上から三十センチメートル程にわずかに高床式になっている。  残りの六軒は、六軒が全く同じ造りだ。十畳程のコンクリートの土間と、木の柱を 組んで、ココ椰子の葉っぱを竹の軸に編みこんだもので壁を、扇椰子(カンボジアで 言う砂糖椰子)の葉で屋根(天井を兼ねている)を葺いてある。正面の柱に一個だけ 蛍光灯が室内に向けて設置されている。このひとつだけの広間の真ん中に緑色のカー テンがあり、その奥には、木製の板張りの個人ベッドが四つある。それぞれのベッド に小型の蚊帳が吊ってある。  カーテンの前は、ベランダというかサンルームかリビング空間というわけらしく、 折りたたみ椅子が四個に、簡単な食堂用のテーブルが一つある。テーブルの上には、 コカコーラの大瓶と飲料水のポリ瓶がいくつか置かれている。  宿舎内の気温は、午後二時で摂氏三十二度。湿度七十二パーセント。  この同じ造りの六軒の建物のうちの二軒は、今日見るかぎりでは、緑のカーテンの 内側が倉庫になっていて物資がつまれている。  つまり、我々の宿舎は、四軒の宿舎用建物と、先のシハヌーク氏用の元寝所であっ た。シハヌーク氏用の寝所は、戦時下に造られたもので、現在はこの近所に新しいも のできているので、元の寝所は我々のような訪問団に開放しているのだと言う。  庭から見ると、林の樹木の上に遠く赤い屋根の建物がある。現在のシハヌーク氏の 寝所は二階建ての高さがあるようだ。  さらに、迎賓館の敷地の中心部の東屋に向かって、元シハヌーク氏用寝所を頂点と した〈L〉の字状に並ぶ我々の宿舎の裏には、さらに小さな波板トタンの小屋が合計 二個あるが、〈L〉の字の左裏手にあるのが水浴び場。〈L〉の字の下裏手にあるの がトイレであった。  私の宿舎は〈L〉の字の角の下側で、宿舎としては隅っこになる。〈L〉の字の下 側の右の二軒は同じ造りの倉庫が並んでいる。                                    つづく 00192/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・6 (12) 94/04/01 23:21 00191へのコメント コメント数:1        <タキタさんのカンボジア訪問記・6>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと さて、昼食は遅くなった。我々がタイランドから出発する時刻が遅れ、タイのバン コク名物の交通ラッシュに巻き込まれたりし、カンボジアへの入国が遅れたためだ。  昼食は迎賓館の敷地内にある小劇場風な建物で行われた。ステージらしき〈えんじ 〉色の幕が下りていて、その左右の壁にはカンボジアの古い神々が描かれている。  その客席にあたるだろう床にテーブルクロスをかけたテーブルと、折りたたみイス が並んでいる。  室内気温は摂氏三十度は越えているのだろう。しかし、ステージ側以外の壁は手す りの高さまでしかなく。その上は屋根を支える柱だけなので、風が通り抜けていき心 地よい。  食卓には、カンボジア料理に混じって米の〈ご飯〉がでていた。日本の食事にまず 必ず出る白い米のあれだ。  ここの日本式〈ご飯〉はこの地にもあるインディカ種という、世界では多数派を占 める細長い米を使って作られていた。  その〈ご飯〉は脚つきのボウルに盛られていて、各自で適量をよそおうようにと〈 しゃもじ〉代わりにアルマイト製の〈おたま〉がつけられていた。  だが、その〈おたま〉は、すぐさまグニャグニャに曲がっていって使いものになら なくなった。〈ご飯〉の粘度に負けてしまったのである。  多くの国でもそうだというが、このカンボジアでも米は粘りけをつけないようにパ サパサと茹で挙げたものをもって上出来とする。したがって彼らからすれば、外国( 日本)料理のネバネバ〈ご飯〉の粘度は、食事の担当者の見積もり以上に強力のもの だったのだろう。  日本側の引率者氏は、「クメール民族というのは、米食う(こめくう)民族という 説もある。彼らの主食は米だ」とも言う。  しかし「この地区(迎賓館周辺のプノンマライ地区)では、米の配給は軍の正規軍 兵士にしかできていない」と同行の軍事ジャーナリスト氏は言う。  ともあれ、そういう状況下で、我々に米の食事をもてなしてくれているのである。  我々はこの地区を守るために来たガンマンや侍では決してない。しかし、私は『荒 野の七人』や『七人の侍』といった映画の似たシーンを思いだしてしまった。  だが、そのことは食事中の話題には私はしなかったし、他のだれの口からもでてこ なかった。  私は、なんとなく食事係の青年の目を直視できなくなった。  食事係の彼は、もちろん日本語を解さない。英語は喋れるが、それはDK時代以前 の教会の日曜学校で学んだのだという。両親はDK時代に殺されていて、彼は今、D K派の拠点のここで働いている。               …………………………  食後、我々は会見の間の入口でイエン・サリ氏を待った。  ややあって「イエン・サリ氏の到着は、三時ではなく四時になります。執務に忙しく ………」との連絡が入る。  我々はいったん会見の間から解散した。  「四時の十五分前になったら起こしてください」と、疲れたのか日本側引率者氏が 宿舎のベッドに横になった時に、突然、ジープの音とともにイエン・サリ氏ィがやって 来た。 井川一久氏だったか本多勝一氏だったか誰だったかの本に描写がしてあった 〈決しのロが笑わないのは確かです〉のはずのイエン・サリは、満身の笑顔で出現し た。   (注)〈決して目が笑わないのは確かです〉…『このインドシナ虐殺・難民      ・戦7ヘア争』(井川一久編)二十一頁、九〜十行目。一九八〇年一月・ 連      合出版より。私はこのイメージを持って行ったので、拍子抜けをした。                                    つづく 00193/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・7 (12) 94/04/01 23:25 00192へのコメント コメント数:1        <タキタさんのカンボジア訪問記・7>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと 会見の間で、孫が最近生まれたとニコニコ顔の元民主カンボジアの副首相兼外務大 臣のイエン・サリ氏は、続いて私達の質問に答えて、少し情け無い話をしてくれた。  「DK派は、祖国カンボジアの統一と平和のために、パリ協定(一九九一年十月二 十三日調印)以前から一貫して頑張ってきた。パリ協定締結後はこれを尊守してきた。 しかし、尊守しないのはフン・センのほうだ」   (注)フン・セン=〈プノンペン政権=ヘン・サムリン派〉の支配地区の「首相」  「フン・センはベトナムとくっついてこれを尊守しない方向できている。我々はパ リ協定を早期に実現したいと思っている。早期に国連が来て、解決に協力してくれる 事を願ってきた。しかし、(国連の)UNAMIC先遣隊が来るのが遅かった」   (注)UNAMIC…パリ協定で設立されたUNTACの先遣部隊。一九九一年      十一月からカンボジアに展開。UNTAC発足後UNTACに吸収された。      〈ユナミック〉と読む。または〈ウナミック〉と呼んだ人もいる。  「その後、三月十五日(一九九二年)明石氏が来てUNTACの活動が開始された。 (我々は)三月十五日以降、カンボジアに停戦状態が実現することを願ってきた」  「しかし、話し合いを始めて一箇月の間にUNTACの(方針に)変化の兆しが見 え始めた」 「その後、三月十五日(一九九二年)明石氏が来てUNTACの活動が開始された。 (我々は)三月十五日以降、カンボジアに停戦状態が実現することを願ってきた」  「しかし、話し合いを始めて一箇月の間にUNTACの(方針に)変化の兆しが見 え始めた」 「私たちは、UNAMICが来た時から和平協定をどう進めるか検討してき、このプ ノンマライ地区でも兵隊をどう集め、どう武装解除するかの準備をしてきました。し かし、UNTACが来てからは、〈四派が平等に協力し武装解除を実現する〉という のではなく〈UNTACが独自に停戦監視をし、武装解除をしよう〉という態度に( UNTACは)変わってきました」  しかし、イエン・サリ氏は言う。「DKの支配地区には、九箇所の武装解除地点が 設けられる予定でした。西側の国境のポイペト(タイのアランヤプラテートの隣のカ ンボジアの町)とコマンという海の近くまで、停戦監視所と武装解除をするという地 点ができました。そして、オランダ軍八百五十人が、DK軍の武装解除を監視すると いう形で、準備されました。このプノンマライ地区には、(オランダ軍の)一大隊百 人が来ることになっていました」  だが、見ての通り、オランダ軍はここには居ず、また、武装解除にはDKがまだ参 加してはいない。  これについて彼は「(五月二十七日に)プノンマライにも、オランダの軍人が五十 人、そこの橋(今は看板のある国境の橋)のところまで来て、『五月三十一日から六 月二日までの間に、この地区に入りたい』と言ってきたが、準備ができていないとい う理由で受け入れを拒否しました。この時は、オランダ軍の小隊長をこの場所(迎賓 館)に呼んで説明しました。それに我々は、オランダ軍を受け入れたくないのではな く、プノンペンにいるDK派の代表者とよく話し合ってほしいと要請をしたところ、 理解を示して引き揚げてくれました」「その結果、六月十三日(UNTAC主導での 各派の武装解除日初日)にUNTACがこのプノンマライに来る予定になっていたよ うだが、彼らは来なかった」  イエン・サリ氏の言うオランダ軍の小隊長だか司令官が納得した話は、〈第一、ベ トナム軍の完全撤退の検証。及びベトナム軍が再びカンボジア再侵攻しない保証と善 後策をUNTACが行うこと〉〈第二、SNCを、カンボジアの最高権力機構として 実質と力を発揮させること〉である。しかし、これでは失礼ながら日本の新聞なみの 「大本営発表」的文章だろう。つまり、中身もニュアンスも伝わってこない。 そこで、〈第一、ベトナム軍の完全撤退の検証………〉に関連した部分を紹介する。  「UNTACは、〈四派が平等に協力し武装解除を実現する〉というのではなく〈 UNTACが独自に停戦監視をし、武装解除をしよう〉という態度に変わってきまし た。しかし我々(DK)としては、基本的に全ての作業は四派が平等に協力して行わ なければいけないと思っている。したがって、UNTACが東側(ベトナムとの国境 )からではなく西側国境地域即ちタイとの国境を接する部分から勝手に監視活動を独 自に始めたことについては、我々の予想外であった。(中略)監視活動について、U NTACに四派の代表を送るのではなく、勝手にUNTAC独自で展開することにつ いては我々の予想外であった。それはパリ協定の精神と違うのではないかというのが 我々の考えです。我々は、したがって、監視ないし武装解除という国連の活動を行う ことについて、我々は、当然、四派の一つとして参加できるものと思っていたが、実 際には我々DKは排除され、他の一派ないし二派だけとともにUNTACは活動を開 始した」  「我々はSNC会議の席上、いつも明石代表やサンダーソン司令官に対し、私達の 立場を説明してきたところである。すなわち、パリ協定の精神に従って監視が行われ るべきだと説明してきたところである」  「このSNC会議の中の、特に軍事関係の会合では、六月十三日からUNTACの 第二局面をはじめることを決めました」   (注)「第二局面」=紛争四派の武装の七〇パーセント解除。  「したがって我々の司令官も、この日に向けて、停戦が実現することは喜ばしいこ とであると声明を発表しました。さらに、UNTACの平和実現への行動に協力した い旨の声明も併せて発表したところであります。その日以降重要なのは、この内容と して、我々は国境での軍事関係者の出入りをチェックするべきであること、特に東側 すなわちベトナム国境側でのチェックがしっかりと行われていないことを問題にして きました。そしてサンダーソン司令官も、一つのチェックポイントに二十から三十人 の監視員を派遣し、ベトナム軍がカンボジアから出ていくことを監視するとの方針を とってきた」   (注)「サンダーソン司令官」=UNTACの軍事部門の責任者。オーストラリ      ア軍の中将。                                    つづく 00194/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・8 (12) 94/04/01 23:29 00193へのコメント コメント数:1        <タキタさんのカンボジア訪問記・8>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと 「我々の主張したい点は、東側国境と西側国境を同時に平等にキチンとやってほし いということである。我々のところだけ武装解除させるということではなく、ベトナ ム国境側も停戦の監視と武装解除をしてほしいということである」「そして、サダン ーソン司令官もいろいろと準備し協力してくれましたが、しかし、たとえば東側の監 視地区、チェックポイントとか監視地点においては、四派を平等に置かすということ はしてくれませんでした。そして、パイリンやポンタユンテ(北側)やその他の戦闘 地区では、それぞれ四派が平等に参加して監視活動を行っているのに、どうして東側 のベトナム国境では我々の代表団が参加できないのか?」「そして、四派が代表を出 している所でも、本当は一派から二人ずつと言う予定だったのに一人しかいかせても らえず、二人出さないと仕事がしづらいと主張したのだが認めてもらえなかった」「 したがって六月十三日以前にも、オランダ軍がDK側に来たいと要請があったが、こ れは少し待ってくれ、東側での我々(DK派)の参加が認められてから、DK派側に 入ってもらいたいと主張しました」  「この話をオランダ司令官に話をしたところ、納得して引き揚げていかれた。その 結果、六月十三日にUNTACがこのプノンマライに来る予定になっていたようだが、 彼らは来なかった」  さて、タイランドからカンボジアの国境に入る時に三枚の看板がタイ側にむけてカ ンボジア側(DK派)が立てている。そのうちの一枚の看板の文章は、「われわれは 要求する。一九九一年十月二十三日のパリ合意が正しく実行されることを。ベトナム のカンボジアへの侵略軍のカンボジアからの撤退が正しく検証されていない現状では、 SNC(カンボジア最高国民評議会)がカンボジア唯一の政体としての機能を果たし ていない現状では、カンボジア西部地区での(UNTACの)活動は認められない」 と要訳できる内容だ。  「(六月三十日の)その後も、SNCの会合で我々の主張していることは、東側の (ベトナムに接した)チェックポイントでのDK派の行動を認めるところから始めて 欲しいということでした」「六月二十六日にも以上の二点について、キチンとやるこ とが、UNTACの第二局面に入るための基本的条件であることを申し上げてきたと ころであります。七月十二日のDK派の声明もこの二つの点についてもう一度確認し てほしいという意味をこめてのことであります」  「DK派は他の三派と協力する用意はある。しかし、いままでの経過をみるとSN Cおよび他の三派が我々DK派を排除する形で動き、我々を参加させない動きを示し てきた」  「参加させず、協力させてもくれないのであれば、SNCに協力できないわけです。 DK派側にも多くの人民がいることを知るべきです。DK派は十三年も十四年も、外 国勢力の侵略と戦ってきたが、和平の作業について我々の参加を認めないのであれば、 民族の団結と独立の為に協力出来ないこととなる」  イエン・サリ氏の話はまだ続くが与えられた紙数の関係もあるので、割愛させてい ただきたい。筆者宅に日本の外務省に提出されている文章があるので希望者には配布 したい。  最後に、とくに私には興味ある、日本の自衛隊のカンボジア派遣に対しての回答は、 「たしかに(日本の工兵隊の修理する)国道二号線三号線は、我々DK派の支配地区 ではないが、結局はカンボジア人の利益になるのだから感謝します。また、プノンペ ンの日本橋の修理もです。しかし、日本の援助が直接ヘン・サムリン政権にわたされ てはいけないと思います」と、イエン・サリ氏は言う。考えてみればそもそも日本の 自衛隊は、DK派も含む紛争四派の参加するSNCの要請でカンボジアに行っている のである。つまりDK派の要請で行っているのでもある。と、当たり前の事をあらた めて気付いてしまった。  何処のどいつだ? DK派が手ぐすねひいている所に自衛隊が行くと言ったのは?!  夕方六時、イエン・サリ氏は会見を終え迎賓館を発って行った。  残った我々訪問団員は、薄い夕焼けの中の迎賓館の敷地の庭や宿舎でそれぞれに時 を過ごした。  ひとつには、迎賓館の庭の門には警備の兵士が立っていて、我々を不測の事態から 守っていてくれていると同時に、我々が勝手に出歩き悪さをせぬか? と見張ってい るわけだ。だから、近所への散歩は遠慮した。  もっとも、地雷の炸裂音が一時間あたりに数発ほど遠くから低く、入国以来ずっと 聞こえてきている。勝手に出歩く無神経さもない。  それら地雷の炸裂音は、人が踏んづけてしまったのか? たんなる爆破処理なのか は、ここにいてはわからない。  さて、新聞記者諸君は、会見直後のカンボジアからの出国を予定をすでにパイリン 訪問後に延期に決定していた。  彼らからその旨のバンコク支局各社への連絡を引き受けたタイ在住のインドシナ問 題研究家やジャーナリスト等三人は、タイランド側に一時出国して行った。  また、カンボジア側に残った新聞記者諸君の間では、三社協定が急きょ結ばれた。 イエン・サリ氏とは会見を、ぬけがけなく同一日に新聞に掲載するためだ(結果とし てそれは八月一日朝刊となった)。  夕方、昼間同様の食堂で食事となる。  昼間と違って、ビールが出る。  天井に近い柱に蛍光灯が計二個あるが、まだ点いてはいない。いずれ自家発電装置 動くのだという。  この地には発電所がない。したがって、タイから買ってきたらしい氷のキューブが グラスに大量に入れられる。そこに昼間の食事係の青年がタイ製の冷えてはいない缶 ビールを注いでくれる。  多くの国もそうらしいが、このあたりの国々でも現地の人以外は生水と氷を口にし てはいけない。現地の水に対しての免疫のない外国人は、一発で下痢になる。しかし、 氷の入った飲み物を出され飲まないと失礼になってしまう場合は、その氷が溶け出す より速く飲んでしまう事。私はこのアドバイスに従った。  注がれたビールを一気に飲んだ。すると青年が即座にまた注いでくれる。また一気 に飲んだ。また注いでくれる。繰り返しているといつの間にか、すでにグラスの中の 氷はなくなっていた。注がれるビールとの摩擦のためか温度差によるのだろう。後で 三種類の下痢止め薬と胃腸薬を飲んだ。おかげで便秘に近い症状になってしまった。 しかし、下痢よりは便秘のほうが、地雷原ではありがたかった。  やがて、突然に蛍光灯がついた。各宿舎にも一本ずつ点いている。質素だが、近所 から見れば不夜城なのだろうか。  食事中の食堂の壁にはヤモリが数匹這っている。日本で見ると不気味なヤモリも、 ここでは異国情緒をかき立ててくれる小道具だ。  また、ここの迎賓館の主といわれているトッケイ(いろんな訳があるがこの発音が 正確さに近い)という鳴き声の可愛い三十センチほどの灰色っぽいトカゲが、すみか の食堂の絵の額の裏から全身を現す。「オオッ。これが名高いトッケイか!」との感 動が食堂の客を包む。残念ながら客の人数に遠慮したのか、すぐに姿を額の裏に隠し てしまい鳴いてもくれなかった。  やっと迫った庭の闇の中で、蛍がお尻の明かりを点滅をさせずに点けっぱなしで舞 っている。写真や話には聞いていたが本当にいるものだと感心する。  そうこうしていると、車の音が迎賓館の庭にやって来た。何だろうと思っていると、 食堂の入口にイエン・サリ氏が立っていた。                                    つづく 00195/00195 GFB00026 一輝 タキタさんのカンボジア訪問記・9 (12) 94/04/01 23:48 00194へのコメント        <タキタさんのカンボジア訪問記・9>1992.7.      −DK派(※)のUNTAC武装七〇パーセント解除拒否の頃−           多喜田 英良(たきた・えいりょう)・記             ※DK派=ポル・ポト派のこと このレセプションの主催者の登場だ。  我々は、さっそくイエン・サリ氏を囲んでの会話に花をさかせた。  呑むことも呑むが、招かれた我々からは、氏に、さっそく、国外に伝わってこない カンボジア報道の欠落部分や実情に対しての質問がここぞと出てくる。  しかし、さすがに酒を呑んでもイエン・サリ氏は大幹部(この大幹部という表現は まるでショッカーだね!)。極力正確を期して話てくれる。もっとも、重要機密事項 に関しては、遠回しの表現にならざるを得ないのだろうが……  一九七五年のDK派によるプノンペン解放時に起こった国立銀行爆破が、誰の命令 でおこなわれたかとか、同じく、解放時に、本来なら流通させることを前提にDK政 権の新貨幣の印刷を終了し、配付準備も終了していたにもかかわらず、なぜ貨幣制度 そのものを廃止する方向に、いったい本当の理由はなぜ誰が決定したのかなどである。  これらは、直接の質問者たるジャーナリスト諸氏の発表を待ちたいのでここでは触 れない。質問の発案者に発表権ありだろう。  なお選挙(一九九三年五月実施予定)に関しては、DK派としてはどうするつもり なのかとの問いにイエン・サリ氏は「我々(DK派)は、今はあまり選挙のことは考 えていない。もしかしたら、我々は選挙に立候補しないかもしれない」「まあ、状況 がよくなれば、選挙にでている他の派で、他の党で、国を愛しカンボジアの問題を解 決としようとする人がいたらその人たちを支持する。しかし我々(DK派)は(選挙 )にでないかもしれない」「しがって、我々(DK派)としては、今後、先程もお話 しした二項目が決定されることを、まあ、最大限に追求したい。だから現時点では選 挙のことはあまり考えていない。」 ★質問「(選挙に参加不参加の決定の)タイミングというのはあるんですか? 判断    する………」 ☆通訳の一人の回答「(二項目については)むこう(UNTAC?)が………こっち    (DK側)は(二項目を実施せよと)追求するだけだしね、むこうが決定する。    折れてきて実施するかしないは、むこうの問題だ」 ★新聞記者の質問「二項目が一定度満足できるまで満たされない場合は、選挙をUN    (国連)が、ポル・ポト派というかDKを外して行おうとする。それについて    は黙視するわけですか? それともやっぱり軍事力での抵抗をやるわけでしょ    うか?」「実施については、国連の計画どおり開催できない所は外して、この    (DK)支配地域と別々に選挙をやっちゃおうという意見もあるわけですよね    ? その場合は、『他の派を支持するということもある』と言うのは、それら    の選挙は、黙視すると………ポル・ポト派としては武力を使わずに………?」 ☆イエン・サリ氏の回答「この問題に関しては、まだ、あまり、(お答え)できませ    ん。まだしっかりした方針もありませんし。だから、この二・三箇月の情勢を    みてから、そういうことは判断されるでしょう」 ★他記者の質問「念押しなんですが。要するに、立候補者を立てる立てないというこ    とは、要するに投票するという形でやっても選挙には参加するということなん    でしょうか? これは重要な問題だと思うんですが。つまり、立候補者を(D    K派)が立てる立てないというのも重要ですが、つまり、他の候補を支持する    かもしれないというのは、そういう形であっても選挙に参加すると、(つまり)    ボイコットではないということですか?」 ☆イエン・サリ氏の回答「この問題はまだ私どもは、具体的に考えていないので、最    大限、我々は二つの項目が遵守されて、我々がパリ協定のなかで平和を一刻も    早くもたらせるよう努力する方が先です。したがって当分の間は様子をみよう    というつもりです」   (注)一九九二年八月一日の『朝日新聞』『毎日新聞』共同通信配信の『日本経      済新聞』等にこの話は要約されています。  ほどよく。二度目の会見を終えたイエン・サリ氏は、元気に車で迎賓館を後にした。  我々も、迎賓館内の各宿舎の建物に解散した。  食堂では、係のDK派の青年たちがあとかたづけに入っていた。  やがて、静まり返った食堂から、鳴くトカゲの〈トッケイ〉の愛らしい声が聞こえ て始めた。トッケイの鳴き声は「トッケイ、トッケイ、トッケイ………」と自己紹介 を続ける。その鳴き声の回数が偶数で終わるか奇数で終わるかで、願い事の占いごっ こに古来より使われている。  『朝日』『毎日』『共同』の自主的な合部屋の宿舎では、フリーランスのジャーナ リストを交えて、本日の会見に関しての討論会がおこっていた。  彼らの宿舎は、私の宿舎のとなりの建物だったので、その声が大きく聞こえてきた が、それが彼らの仕事なのだと思うと、私の睡眠の邪魔にはならなかった。  しかし、私の宿舎のもう一方の隣には、我々の泊まっている宿舎と同一デザインの、 今は倉庫に使っている建物がある。  やはり光々と蛍光灯の点いたその中で、器用に柱の間に軍用のハンモックを吊りA K47軍用ライフル銃を持った兵士が一人で仮眠している。不寝番である。  この兵士は、我々を不測の事態から守るために警備してくれているのだが、さぞや、 討論の声が彼の耳にはうるさかろうと私は同情してしまった。                                    つづく           (このつづきは、後日。乞う御期待!) - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/04/02 - 01149/01151 GGA02514 KAZE 西行の花・世阿弥の花 (13) 94/04/02 12:33 01146へのコメント 隆ちゃん、どうも。 4月になりましたね。 桜の花が咲くには、あと数日かかりそうですが、 一年に一度の絢爛豪華な花盛りの「春」という季節というのは、 「春の季節」であって、それは「冬=殖ゆ」、つまり、 自然や生命、魂が「ふえる」という意味を持っている冬の間に、 そうしたエネルギーが満ちてきて、それで蕾などが「張ってくる」のが 「春=張る」なのだそうです。 ついでにいうと、「花が咲く」の「咲く」というのは、 「サキ」という言葉からでているようで、その「サキ」から、 「先」「崎」「柵」「裂く」「坂」「酒」などの言葉がつくられたといいます。 エネルギーが満ちてきてそれいじょう先に進めない状態がサキで、 「花が咲く」というのは、蕾にエネルギーが充満してそれが破れて外に出る。 そういうことを表しています。 この「サキ」は「ムスビ」につらなります。 つまり、咲くことで実を結ぶということです。 この「ムスビ」の「ムス」は「産す」、 「ヒ」は「霊」のことであるのはいうまでもありません。 実は今お話ししたのは、 ●松岡正剛「花鳥風月の科学」(淡交社) の「花」の章に書かれてあることなのですが、その中から、 「花鳥風月に遊ぶ」というあり方を提示した西行からはじまった流れの行き着いた 世阿弥の「能」における「花」についての箇所をご紹介します。  能楽における「花」は最初は観阿弥が追求した概念です。ただ、観阿弥にお いては「花」は珍しさから生ずるのだという結論でおわり、たんに「物数(も のかず)をきわめる」ということ、ようするに演者が場数をふやすことが「花」 に近づく方法だと考えた。世阿弥はそのような観阿弥の見方をさらに深め、その 「花」はいつでも咲かせうるはずだと考える。そして、そのような芸域を「正花 風」と呼びます。そこでいったん世阿弥は満足するのですが、その後、さらに上 の芸域があることを提唱します。  その第一段階が「閑花風」というものです。これは表面的な美しさが消えたあ とでも冷え冷えとした美が香ってくるというもので、そこには、このあと説明す るように連歌師の心敬がとなえた「冷えさび」にやや共通する感覚があります。 第二段階の境地は「寵深花風」といいます。これはどんなに変則的で異端じみた 芸をしても品がくずれず、それがなんとも美しく見えるという微妙なもので、ま たの名を「らん闌位(らんい)」という。「闌」というのは「たけた」という意 味です。たいへんにきわどいが、抜けきった芸域です。  世阿弥はさらにこの上に、第三段階の芸域である「妙花風」というものを置 く。ここではもはや美醜や良し悪しはまったく超越されていて、どこがよいとす ら指摘できないような最高の境地です。華厳にいう「時事無碍法界(じじむげ ほっかい)」に近いもの−−すべてのものが溶け合ってたがいの境をなくしあっ ている状態−−いわば理念上の境地とでもいうのでしょうか。とんでもない境地 です。 とまあ、日本では「花」についていろいろなコンセプトが提示されてきたのですが、 そうしたものの原点ともいうべき西行の「漂泊の花」「物狂いの花」「数奇の花」 「無常の花」・・・などを表現した歌を、先日吉野山の西行庵を訪れたのも記念して ご紹介してみることにします(^^)。 吉野山こずえの花を見し日より 心は身にもそわずなりけり 花みればそのいわれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける 花にそむ心のいかでのこりけむ 捨て果ててきと思ふわが身に ねがわくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ 花見にと むれつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎にはありける 惜しまれぬ みだにも世にはあるものを あなあやにくの花の心や もろともにわれをも具して散りぬ花 うき世を厭ふ心ある身ぞ 春深み枝もゆるがで散る花は 風の咎にはあらぬなるべし ながむとて花にもいたくなりぬれば 散る別れこそかなしかりけれ 心得ずただひとすじにいまよりは 花をおしまで風をいとはん 青葉さへ見れば心のとまるかな 散りにし花のなごりと思へば 春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり >発想が貧困だと確かにあるところで止まらざるを得ないのかもしれません。それは >とっても悲しい事ですから、気をつけなければと思いますが、今の世の中はそれを >悲しい事だと思う方が少なくて大変です(^^;)。 ARIONの最近のオープニングメッセージにあるように、 ひとはきわめて多くの場合、相手に自分を投影しているものだから、 相手と話しているように思っていても、 結局のところそこにいるのは自分の分身にほかならないのですよね。 別の言い方をすると、ひとは誰かを鏡にして自分を見ているといえるでしょう。 おそらくそのことはある程度は認識上は仕方ないのだとは思いますが、 想像力が貧困であればあるほど、その投影を疑うことができなくなります。 つまり、相手がどう感じ、どう考えているのかを想定できないんです。 そうしたことへの配慮として大切なのは、 まず自分の認識の限界と、自分の持っているであろうドグマについて できるだけちゃんと意識的になった上で、他と関わることと、 多くの視点を得られるだけの想像力を日々磨いていくことなのだと思います。 もちろん、その上で、自分はどう感じ考えているのかを しっかり把握しておくことが大切で、 そうでないと相手への迎合の集合になってしまうんですよね^^;。 ここでも、「個の確立」と同時に、その上に立った共同体への参加ということが 非常に重要なテーマとなってくるのはもちろんです。 >自分が絶対正しいと主張する人には多分2種類あって、心の底からそう信じている >方(口の悪い我々夫婦はこういう人を「おバカ」と言ってしまいますが(^^;))と、 >潜在的に不安があって、それを払拭するために自分が正しいと信じ込みたい方がい >るように感じます。 前者は単なるバカですよね^^;。 それを想像力の決定的貧困ということもできるでしょう。 後者というのは、別の言い方をすると一種の「保身」なのだと思います。 もちろん、僕もともすればそれに陥りかねませんが^^;。 やはりそれに陥らないためには、おっしゃるように「腹」というか 「保身」に拘らない意志とでもいうものをしっかりもって、 感情をぶらさないように心がけるしかないように思います。 >人間の努力というのは、完全なるものを目指していると言うよりは、自分の不完全 >さを修復して行くと言った方が良いのかもしれないですね。そんな事を考えなが >ら、僕は僕自身をよく観察して、その欠陥を知る事が進化への道なのかもしれない >と思ったのでした。 それに関連した話で、「弱者が進化する」というコンセプトが好きな人に 森毅さんがいて、こんな話を最近読みました。 (森毅「形の中の文化・文化の中の形」/  形の文化会編「アジアの形を読む」(工作舎)所収)  人間はいろいろな文化を作りながら進化している。しかし、適者生存で選択 されて生き残るというのは、きわめて一九世紀的な考え方で気に入らない。・ ・・・河合さんの説によると、サルは弱者が進化する。サルの先祖は、ムシを 食って生きていた。植物を食うには腸を長くしてバクテリアを飼わなくてはい けない。ムシが食えるところで安住したやつは、進化する必要がないからそこ にとどまって生きた化石となる。ところが、そこを追い出されてムシが少なく 葉っぱの多いところで生活するサルは、しかたがないから葉っぱを食う。そし て下痢して死ぬ。しかし、いつまでも死ぬことを繰り返しているわけにもいか ないから、そのうち葉っぱを食うことができるようになるわけです。これが進 化です。文化というものはそういうものでしょう。たとえば一九世紀なら一九 世紀で、大勢の画家がいる、当時有名で名声が安定していた人は、事典には名 前がのっていますが、われわれの印象は薄い。その当時に下痢をして死にかけ ていたようなやつが、次の時代に生き残っていく。無理なことをして生き残る のが進化です。 もちろん、弱者だから進化するとは決していえませんが、 そうした「不完全」な存在がその不完全さをバネにしてがんばっていくところに 進化というダイナミズムがあるのではないかなと思うのです。 そういう意味で、僕などはその「不完全」「不適応」という条件は、 生まれてこのかたずっともっていますから^^;、あとは努力するだけなのですが、 はたしてどうなりますことやらであります^^;。 >考えてみると人間は食物連鎖という観点からみると、天敵がいない動物なんです >ね。一方的に食べるだけ。逆に植物は一方的に食べられるだけなのですが、植物 >は動物に食べられる事に喜びを感じているというのは本当なんでしょうかねぇ ある意味では、人間の天敵というのは「神」なのかもしれません^^;。 感謝の波動などもふくめたエネルギー連鎖を考えていくと、 人間は神的存在にエネルギー供給する役割を担っているといえますが、 最近では神的存在にエネルギー供給する方がすごく減ってしまっています。 植物や動物などの存在は、シュタイナーの講演録などを読みますと、 その存在は神的存在とその存在のあり方が非常に調和的にできているそうで、 インドなどで牛が聖なるものとされているのは、牛という存在はとりわけ この地上のエネルギーを天上に捧げるための存在だからなのだそうです。 その点、人間はそのままではそうしたことができない存在です。 植物が「食べられる事に喜びを感じている」というのは、 一概にいえことではありませんが、食べられたり愛でられたりすることで、 植物存在の魂が向上するということはいえるようです。 ただ、その場合も人間が「おまえたちは食べられるために存在するのだ」などと 驕った態度だと、その植物からの拒否を受けるような気がします。 やはり、植物、動物に限らず、その供儀に対して、 限りない感謝を捧げるという姿勢なくしてはなんにもなりません。 だから、いい加減にしろ!とばかり、神は天罰を下す^^;わけです。 もちろんその「天罰」というのは、 自らの破壊的意識で自滅するということなのですが。 >詭弁と理屈は全然違うものですから、気をつけなくてはいけないと僕も思います。 >ただ、子供には詭弁が通用しないんですよね、これが(^^)。 最近、なぜかいろんな方に、子供のことを相談されるのですが、 昨夜もご両親がちょいとすねた^^;子供を連れて、会うはめになってしまいました^^;。 そのご両親にとっては、その子供の考えていることが どうしても理解しかねなくて困っているということでしたが、 会ってみると、なんてことはなくて、ただご両親が勝手に、自分の子供に 自分の想定した子供像を投影していただけのようなのでした。 例の「想像力」の問題と同じで、子供への想像力が貧困なあまりに、 その子供の中に自分たちの望を勝手に投影してただけで、 子供としてはそれがやりきれなくて反発してるだけなのです。 で、しばらくはその子はむくれていましたが、 その子のいうことの真意をちゃんと受けとめてあげると、 表情などが次第次第にちょっとはずかしそうな笑顔に変わってきました。 一見屁理屈に見えたり不機嫌そうに見えたりすることも、 それをどれだけ受けとめられるかということが一番大事なんです。 要するに、自分の言っているこ、表現していることを理解してほしいだけのこと。 そのためには、やはり想像力の貧困ではどうにもならない。 まさに、「子供には詭弁が通用しない」んですから。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01151/01151 JCF00616 YUI 時間のバネ型モデル (13) 94/04/02 17:57  えっと、「調和」について触れる前に 時間とは何か? という問題に  関して、閃いたことをお話します。  (毎日、何か閃いては、メモする僕なのでした^^;;)  ■時間とは伸び縮みする一定の長さのバネ(→生命)である   マクロの極 @  神(創造主)(L=0)   |                      |   中間層        〜〜〜〜〜〜〜〜〜  地球人間階層(L≒(0+l)/2 )   |                      |   ミクロの極−−−−−−−−−−−−−−−  最少構成要素(L=l)   バネの幅がLである時、神(点)においてL=0とする。   最少構成要素(点)においてL=lとする。   2つの特殊な点を除いた中間層においてバネの長さl=const.(一定)である。   Lが増大するとバネの密度(L/l)は粗くなる、   Lが減少するとバネの密度(L/l)が細かくなることから、   反比例の関係が浮かび上がる。   y=L^2/lx(BASIC 言語表記)のグラフ   (L/l)密度       ↑|   |       ||   |       ||   |       | |  |       | |  |       | |  |       | \ |       |−−−+−−−−−−−−−−       |   |\       | |  ̄−−−____       +−−−−−−−−−−−−−→ (L)      0   x軸はバネの単位当たりの密度を示し、y軸はバネの幅を表している。   また、バネのモデルは一定の長さを持つ「波」として記述する事が   可能である。ただし、注意するのはこの波動には「一定の長さl」がある   という点である。   現在の(地球)人間階層の波動は曲線上斜め45度程になる点のほぼ中心から   微妙に右にずれた点にあるものと推測する(直線の交点付近)。   もし、シュタイナーのアーカーシャ年代記に基づく時代区分に拠るとすれば、   現在はその進化のほぼ中間に位置していることになるからという解釈も   間違ってはいないだろう。   ただ、シュタイナーが提示した「文化期」という区分(約2160年間)も   バネの幅であり、シュタイナーの時代からバネの幅が「収縮」したとすれば、   我々は既に第5文化期を超えている可能性も出て来るのである。   また、双曲線の性質によると中心部分は傾斜が最も急である点からも   「バネの収縮」は加速することに成る。   また、バネの幅Lは階層存在の「精神(心)」に関係している。   精神波動を「心波」とすると、説明を数式に切り替える事が容易になる。   「心波」もバネ型モデルに喩えられ、l=const.である。   直線の交点は【中央駅】であり、「秘儀は中央駅で起こる」とは   この点に於いて最大の混乱が訪れることを意味している。   光と闇が交じりあう、灰色の時代がこの【中央駅】として表現でき、   <灰色>のもの達の運命はここを境にしてほぼ決まってしまうのである。 p.s.メモ程度の「遊び」ですので、気になさらないでください。   直感をつらつら書き綴ったものですから大したものではないと思います。   だた、もうチョット「数式語」が使えたらイイんですけど(^^;   数式など間違っていたら教えてください。   ところで、「秘儀は中央駅で..」の本来の意味って何なんでしょう? 無知なる人間YUI - FARION MES(14):★YHVHの預言解読部屋------------<03> 94/04/02 - 01968/01971 GDB00064 オリハル RE:怒る前に (14) 94/04/01 22:39 01966へのコメント コメント数:1 河井さん、始めまして。 河井さんはHygineさんが2番会議室で紹介されていた「河合先生」と同一人物ですか? 私が広めている理解の一つに 「あなたは何を肯定するためにそんなに否定ばかりするのですか?」 というのがあります。 日本人は結構否定の上に否定を重ねていて、その循環からぬけ出せないでいますので。                              オリハル 01970/01971 PFH02766 河井 浩美 RE:怒る前に (14) 94/04/02 12:24 01968へのコメント ハイ、サイでございます。今後よろしくお願い致します。 なんか、F2ではヨイショされちゃいまして「何か書かなあかんなー。」と 思ってはいるんですけど、FecoF14でIAEA批判やってるもので なかなか手がまわんなくて・・・ 向こうがおさまったらまとまったもの書きますね。 01969/01971 JBH00712 桂 桂 RE^2:えっとねぇ (14) 94/04/01 23:07 01963へのコメント コメント数:1  #01963 河井 浩美 さん  火水について2.3質問させて下さい  1.日月には一言も「カリスマをたてろ」ということは書いていないのに、    なぜ日月の言葉を一人の人物の神懸かりによらなければならないので    しょう?  2.「日月の行動マニュアル」とありましたが、そもそも神の言葉に行動    マニュアルと言うのが必要なのですか?  3.火水はネットワーク的活動はしているのですか?  以上、宜しければお答えして頂きたく思います。 桂 桂(JBH00712) 01971/01971 PFH02766 河井 浩美 RE:RE^2:えっとねぇ (14) 94/04/02 13:24 01969へのコメント 桂 桂さんへ ご質問はもっともだと思います。 まず 1.日月には一言も「カリスマをたてろ」ということは書いていないのに、    なぜ日月の言葉を一人の人物の神懸かりによらなければならないので    しょう? ・・・これは我空に降りた神様がいつも戒めていることでして、    神は「日月を浴びて、火水を歩め。」とおっしゃっていて    「日月、解釈ならんぞ。神のフデそのものであるぞ。」と    くどくクドクおっしゃいます。    我空個人も(個人の我空はホンマにどこにでもいる40男ですが・・・)    「僕の言葉も信じちゃいけないよ。日月と火水読んで     御自身でとれるとこだけ取ってね。神の言葉は一象万象だから     皆さんの御霊に応じて取れるようになってるから。     解釈したとたんに万象が解釈の一象に囚われちゃうからね。    火水読んだら日月は解りやすくなるけど、僕の講演聞いたら    火水は解りやすくはなるけど、唯それだけのものだからね。     僕なんかを「我空先生ステキ!」なんて言う人出てきたけど    絶対だめよ。やめてね。」     と、講演会の中でいつもいつも言っておりました。     この傾向が強くなったのと、他の御用を言いつけられたので     昨年の12月を最後に1年半の我空のオモテの御用は終了し     今は日月神示全4巻と火水伝文と 我空の講演会のメモだけで火水のグループの活動が続いています。  2.「日月の行動マニュアル」とありましたが、そもそも神の言葉に行動    マニュアルと言うのが必要なのですか? ・・・神は「本当は火水は出したくなかったが、そなたらの汚れが    あまりにひどいので、神示取れるもの少ないので、    このままではそなたらドロウミとするしかなくなるので    縁あるものに火水渡すことにした。」とおっしゃってます。    もう時代は「神一厘の秘密」でこの世の建て替え立て直しが完成する    直前のタイム・テーブルに有ります。    しかし「神一厘の秘密」は「言うては成らず、言わねば成らず」    各自が(日常生活の中で)行動し、その体験でしか取れない    そういうものなのです。理屈じゃ解らない。    神は我空の口を通じて「五つの杖」と言うマニュアルを    出しておられます。    1.この世には「ウレシしかない。(苦はそなたらが作りた物じゃ。)」    2.偶然はない。必然のみ    3.自分のものなどない。(全て神のものじゃ。)    4.今しかない。未来も過去も、今今に作られているもの。    5.被害者などいない。皆さん加害者。    これが行動マニュアルの基本です。 3.火水はネットワーク的活動はしているのですか? ・・・火水にご縁があった方々が、各地でばらばらにネットワークを    お作りになり、または個人で動いていらっしゃいます。    統括組織はありません。    このネットワークには、我空は今は一切タッチすることを    神から禁じられているようですし、本人もタッチする気はないようです。 これで答えになりますでしょうか・・・ - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 94/04/02 - 504/508 GFD00204 松川 貴     RE:彼らはアンフェアーだ (15) 94/04/02 15:26 503へのコメント  本社は一貫して自由で公正な言論活動を続けてきました。  (4月2日付け朝日新聞 松下宗之朝日新聞社専務(編集担当)談)                                報告 松川 貴 505/508 GFD00204 松川 貴     RE:彼らはアンフェアーだ (15) 94/04/02 15:27 503へのコメント ┌──────────────┐ │自由な社会への挑戦、深い憤り│ └──────────────┘ (4月2日付け朝日新聞見出し)  いや、犯人たちの脳味噌はこのような〈抽象化〉には向かないようにできてます。  彼らなら、こう考えるでしょう。   おいらたち、〈朝日新聞〉に挑戦しただけなんやけどな。それなのに、  なんでこんなふうに言われなならんのや  彼らは〈学〉がないので、素直です。                                   松川 貴 506/508 GFD00204 松川 貴     RE:彼らはアンフェアーだ (15) 94/04/02 15:29 503へのコメント コメント数:1 ┌───────────────────────────┐ │言論の萎縮心配/社会よ怒れ/近代の知恵無視 識者に聞く│ └───────────────────────────┘ (4月2日付け朝日新聞見出し)  朝日新聞社には社員が8000人いて、編集局員は3000人ほどいるというじゃ ありませんか。(『文藝春秋』4月号 橘弘道氏談)  朝日の社員の中には「ああ、またやっちまった。どうしてこんな紋切り型の表現し かうちの会社はできんのだろうか」とひそかに嘆きながら、普段は黙っている人々が たくさんいると思いますよ。トップ連の脳味噌が旧弊だから、目のある人たちに笑わ れるんですよ。 ┌────────────────────┐ │言論の自由は憲法によって保障されています│ └────────────────────┘ (4月2日付け朝日新聞 識者井上ひさし氏談より一部要約)  〈憲法なんぞが保障してくれてなくても〉、しゃべりたい奴は〈勝手に=自由に〉 しゃべるよ。昔の日本人は皆そうやって生きてきたんだから。こんなことは〈近代の 知恵〉でもなんでもないよ。ただ肚のねえ日本人が増えたってだけの話でんすよ。  何かというと〈言論の自由〉を叫ぶ奴らってのは、自分のやってる仕事に〈命を張 る気〉のない連中だけよ。 ┌─────────────────────────────────┐ │巖本 維新の時、福沢〔諭吉〕から、何か書いたものを出しましたか。 │ │                                 │ │海舟 イエ、ありません。あの時は、何でも、本所辺にかくれておった │ │   そうナ。弱い男だからネ。それであとから、何とかかんとか言う │ │   のサ。アレに、福地〔桜痴〕ネ。ミンナ、後で、何とか言うのサ。│ │   (『海舟座談』岩波文庫 P81-P82)              │ └─────────────────────────────────┘                                   松川 貴 507/508 GGA02514 KAZE RE:彼らはアンフェアーだ (15) 94/04/02 16:10 506へのコメント コメント数:1 松川 貴さん、どうも。 いつも松川さんの書き込みを楽しみにしています(^^)。 4月2日付の朝日新聞、僕も読みました。 新聞社に対してこそ、「自由な社会への挑戦 深い憤り」ということを 日頃から感じているのですが、 今回の朝日新聞の「言葉」の、特になんとおそまつなこと。 おそらく、朝日は「自由な社会」を子供のままごとのようにとらえて、 「○○ちゃん、いけませんよ!」程度の表現で、 さも「良識あるマスコミの代表」とでも思っているのでしょう。 そもそも「良識あるマスコミ」というのは、 現状においては形容矛盾でしかないのにもっかわらず。 先日、こちらの地方にいる朝日新聞の若い記者と話す機会があったのですが、 最初はなかなか本音を語ってくれなかったものの、 話す内に、朝日新聞的姿勢に憤っていることがわかりました。 そして、どういう記事が掲載されて、どういう記事が掲載されないかについても その日和見的な、迎合的な、無責任な姿勢を情けなく思っているようでした。 でも、それへの批判は、もちろん無言の内の絶対のタブーであるとのこと。 つまり、そういう記事は決して書いてはいけないから、 書いても無意味であるということを記者は暗黙の前提としているということ。 先日の米関連の記事にしても、 米に関する冷静で的確な、しかも「大衆」を煽らないようなあり方は却下され、 いち早く「大衆」を煽動することに繋がる姿勢をとるよう 指導があったとのこと。 つまり、米に限らず、記事としてとりあげる基準というのは、 「大衆」の望む表現をいち早く先取り、迎合して、 その「お先棒」となって、「さすが朝日は早いね!」と言われること。 そのことにしかないようなのです。 そこには、真の倫理的な基準というのはほとんど存在していません。 しかも、そのお先棒をかついだことに対しては決して責任をとりません。 とぼけるのが大変うまいのです(^^)。 こうした姿勢というのは、戦前のあり方と全然変わってないんですね。 これから朝日新聞を代表とするマスコミが、 どんなことを煽動してくれるか楽しみに見守りたいと思います^^;。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 508/508 GFD00204 松川 貴     RE:彼らはアンフェアーだ (15) 94/04/02 18:14 507へのコメント  KAZEさん 朝日の地方記者さんの話、こりゃあスクープもんですよ。これで裏づけがひとつと れたじゃないですか。  今私は子母沢寛氏の『勝海舟』の3巻目に入っているところですが、子母沢氏はこ の本の中で勝海舟に以下のように言わせています。 ┌──────────────────────────┐ │ 過激人がいくら騒いでも、朝敵という一と言をきくと、│ │国中の者が是非によらず足腰も立たなくなるが日本人だ。│ │(『勝海舟』新潮文庫 P200)            │ └──────────────────────────┘  サムライの時代の〈朝敵〉とは、〈天皇という権威=玉〉に逆らう者たちのことを 指していました。現代日本の〈玉〉は、〈天皇という権威〉ではなく、〈国民〉とい う〈記号〉です。戦後の日本人はこの〈国民という記号=玉〉にひたすらひれ伏すよ うになってしまいした。  ですから、先に挙げた子母沢寛氏の文章を本歌取りして言うとこうなります。 ┌──────────────────────────┐ │ 過激人がいくら騒いでも、国民という一と言をきくと、│ │国中の者が是非によらず足腰も立たなくなるが日本人だ。│ └──────────────────────────┘  私たちの意識の中からは、すでにかつての〈玉〉は消えてしまっており、今私たち は新しい〈玉〉を拝している最中なのです。                                   松川 貴 - FARION MES(18):★あもりの二人三脚ネットワーク------<01> 94/04/02 - 00775/00781 VFC02636 ぼんぼん DOUBLE BIND (18) 94/04/01 22:13 コメント数:1  DOUBLE BIND が成立するためには以下の5つの要件が満たされなければならない.   1. 二人あるいはそれ以上の人間   2. 繰り返される経験   3. 第一次的な禁止命令   4. より抽象的なレヴェルで第一次的禁止命令と衝突する第二次的な命令   5. 犠牲者が現場から逃れるのを禁ずる第三次的な禁止命令  DOUBLE BIND 状況から逃れるためには, 以下の4つの方法がある.   1. 背後のコンテクスだけを隠喩的に捏造する   2. 全てのメッセージを字義通りに受け入れる   3. メッセージを無視して外界から引きこもる   4. 状況についてメタコミュニケーションする  1)〜3)の方法では妄想や自閉を産み出し, DOUBLE BIND 状況を克服するために はメタコミュニケーションを行うしかない.  DOUBLE BIND, メタコミュニケーションの具体例として, 説話を要約し紹介する.  《 病気の妻が臨終間際に「あなたを愛している. もし他の女と一緒にな   れば化けて出て終生困らせる」と言った. 男は妻が死んだ後, 3ヶ月間   は妻の望みを守った.    しかしその後, 他の女と出会い恋に落ち婚約した. 婚約した直後より   幽霊が毎晩現れ, 約束を破棄したことを非難した. また, 幽霊は大変賢   く, 男の婚約者への行動をすべて知っており, 詳細に述べた.    男は悩み苦しみ村の禅師に相談した. 師は賢い幽霊であり, あなたは   その幽霊を誉めるべきだと言い. そして, 「何も隠すことが出来ないほ   どお見通しですね. 一つの質問に答えてくれたら, 一生独身でいましょ   う」と交渉するように勧めた. 男はどんな質問をしたらよいかわからず   師に尋ねた. 師は, 「豆を一掴みほど掴んで, 幽霊に手にいくつ掴んだ   か正確に答えさせなさい. 答えられなければ, 幽霊はあなたの空想の産   物にすぎなく, あなたを苦しませることはない」と答えた.    その夜, 幽霊に対し男は師に教えられた問いを発した. その質問に答   える幽霊はもはやいなかった…》          (砂石集より)  FARION において DOUBLE BIND 状況が生じやすいならば, いったい誰が何を変 えていけばよいのか? そもそも変革可能なのか? 過保護と拒絶というダブル メッセージを送っているのはいったい誰なのか?  メッセージが持つ「場」そのものをコミュニケートし, 変化させていくために は, 我々はよく考えてみる必要がある.  たまご君は犠牲者でもある. これだけは忘れてはならない. 00776/00781 TBE03167 うんこ星人 RE:DOUBLE BIND (18) 94/04/01 23:05 00775へのコメント え? たまご、犠牲者だったの? そうなんかなぁ、なんかええとうーんあれ?ホントそうなん ?_? 00777/00781 KFD00473 たまご 桂 桂 へ(1) (18) 94/04/01 23:34 「誤解や勘違いが色々あるようだが」 これが僕が君に(電話で)語った最後の言葉だったと思います。 当時の君には何が何だか???だったでしょうし、今でもそうでしょう。 君が引用している僕の発言は、細かい表現を除いて、間違いなく僕が言ったこと ですが、僕から見ると、何でそうなるの?的な解釈が多いのです。 たとえば、今回の疑問点である「親友」という言葉の意味の捉え方ひとつでも、 全くそうだと思います。 僕とあもりの人間関係の事実をあもり側から整理してみれば、以下のようになります。 あもりは僕に「親友だ」と言われたことは一度もありません。 あもりが僕に「友達だ」と言ったことも、たぶん、一度もないはずです。 あもりが僕に「お前は友達でも何でもない」というようなことを語ったことも、 一度もありません。 一方、僕側からあもりへの事実というのは、 僕はあもりに親友だと言ったことが何度もあります。 あもり以外にも彼は僕の親友であると言ったことが何度もあります。 僕は、彼がアップしたように、彼が友達だの何だのと言葉にするのが嫌いと いうことを知っていました。 ゆえに「あもりが何も言わない」という事に対して彼に何か言ったことは、 一度もありませんし、それを例えば不満に思うといったこともありませんでした。 さらに言えば、僕はそういう人間関係が好きでしたし、今もそうです。 さて、ところで、こういう人間関係は、一般的には「親友の間柄」とは 言わないはずです。ですが、僕としては、完全に精神的に信頼できる人間に 出会ったという事実、この一般的でない人間関係を「親友」と表現する 以外の言葉を持たなかったのです。 しかしながら、こういった事実関係は、僕からだけの情報でなく、 あもりや他の人に尋ねれば、君は容易に発見出来たことであろうと想像しますが、 何故に君は僕の言葉のみを元にして、また、自分の解釈だけで事実を 把握しようとしたのでしょうか? 少し疑問に思います。        たまご 00778/00781 KFD00473 たまご 桂 桂 へ(2) (18) 94/04/01 23:34 「本気か?」 僕が君への最後の電話で君に尋ねたこの言葉の意味は、君の解釈とは全く違います。 君は副議長を辞めると言っているが、それは本気なのか? というのが僕のあの言葉でした。 ついでに言うなら、あのとき僕は君が副議長を辞める必要など全くない、 と思っていましたから、君のあの発言は全く唐突に思えました。 それでも、本人が辞めると言うのであれば仕方ないだろうなぁという事を 考えながら電話したのがあのときの話です。 既にアップした「たまごの内部事情」の繰り返しになりますが、 僕は僕が議長を辞めるという僕の予知に対して、信頼できる人間がこの会議室に 参加くれればと考えていました。 ですから、そうだと思っていた人に辞めると言われるのも、 びっくりする話じゃないですか。        たまご 00779/00781 KFD00473 たまご 桂 桂 へ(3) (18) 94/04/01 23:36 加害者が僕で被害者が君というのは本当だろうか? 少なくとも、君は最初テレパスに喜んでなろうとしていたはずですが、 その結果起こったことに対して、君自身はなんら責任を取ろうとしないのは、 どうしてなのでしょうか? 僕が加害者であるとすれば、 僕には人をどうにかする力(いわゆるサイッキクパワー)があるということが 前提になります。 しかし、そういう力はないように、今の僕には思えます。 だとすれば、君に起こったテレパスに関わる様々な現象とは何なのでしょう? 君自身が君の力で起こした現象ではないでしょうか? そして、ARIONパワーを送る云々の話はもちろんジョークです。 しかし、あれはジョークだったから自分には責任がないというようなことを 僕が言えば、アキラ氏のごとく責任回避になってしまいますので、 そうは言いません。 ただ、僕が君に言いたいのは、君は自分が被害者なんだという意識から 少し抜け出てみれば、みえることが出てくるのではないか?という話です。        たまご 00780/00781 KFD00473 たまご たまごの内部事情10 (18) 94/04/02 09:01 IV. Andante grandioso 多数の人格が共存し、そしてそれらの人格が本人(?)の意志に関係なく 勝手気ままに入れ替わる状態に置いて、本人とは何を意味するのだろう。 最初の段階から自己を失っているかもしれない人間にとっての「自分」とは 何らかの意味を持つものなのか、それとも意味がないのか。 これは本人にとっては相当深刻な問題である。 僕が相談した人の中には、人格を統合すべきだと言う人が居て、 ふみふみ、そうかなぁとも思ったのだが、 さて、それをやってみようかという事を考えたとき、 人格を統合するって何だ???何をどうするんだ??? とわからなくなってしまった。 それに、どれが自分の本当の人格なのか解らないのに、 それらを統合したら、それって自分と全然違う別の何者かになってしまうのでは という恐さもある。 当事者人格とは何を意味するのか、しないのか。 果たして当事者人格は生きているのか。それとも、もう死んでしまったのか。 それを確かめる術は無い。 「私が当事者人格だ」と名乗る人格が現れても、それが当事者人格なのか、 それとも当事者人格のふりをした別人格なのか。 それすらも確かめる術は無い。 じゃあ、どうすんだ? うーん?   とりあえず、このシリーズは完。 00781/00781 PAF02400 湖の鷹 御免なさい (18) 94/04/02 09:10 00769へのコメント  #00769 智美パパ さん 言い訳します(^^;)。もし必要であるならばこの書き込みは無かったこととし て話を続けて下さって結構です。 まず私が書いたものはこれですね。 >(宗教がどうかという議論をする人々が)宗教かどうかという議論をしていて >(宗教がどうかという議論が)バカらしいから辞めてくれっ いうことか で、私が発言した内容が指すものは多分20番か7番会議室で過去にあった “FARIONは宗教か?”論争(?)のはずです。だけどももしかするともっ と別なところから来たものかもしれないです。 これはFARIONだけに限らないのだけど、何かに対して断定的な言い方を したならば、それを聞いた人間は必ず拡大解釈しますよね。あるいは聞きたく ないようなことであるならば、当り前のように無視するわけです。 “○○は宗教である”と言っている側を例に取りましょうか。彼らは決して、 それを肯定するだけでは納得しませんね。その後に当然のように、それを拡大 解釈し自己の持つ“宗教”を○○に当てはめようとするでしょう。しかも、そ れが自分のモノサシであることを自覚せず、かつ、不変的なことであると言わ んばかりにね。そして、“大勢”に名を借りた自分の言い分が受け入れられな いと分かった時、彼らはこう言うでしょう、「“○○は宗教である”と言った ではないか?」とね。そして、細部に目を配り、宗教らしからぬ(であろう) もの見つけたならば、それを取り払う努力を惜しまないでしょうね。曰く『○ ○は宗教である』の言質の元に・・・。 “○○は宗教でない”と言ってる側は上の例の反対側を目指すという理由で、 結果は180度違うといえる。が、既に目指してる方向が“間違っている”ん じゃあないだろうか?。 私は、この件に関してはどちら側に回っても得るものは無いと思いますね。双 方共に既成概念を押し付け、“○○”を既存の(そう、既に存在する)何かと 同じものしよう、なんていうのが目的だからね。彼らは言わゆる“多数意思” の威をかるキツネでしょう?。 最近、国会でまたオマヌケなことしてますね。あたしはよく知らないんだけど、 国会ってのは“首相の金銭感を追求する場”なんでしたっけ?、あたしは国会っ てのは全体の方向性を示す場だと思っていたんだけど違いましたっけ?、イケ ニエを祭るのが、そもそもの目的でしたっけ?、首相が個人的に借りた高々1 億円程度の金を追求するのにウン十億、あるいはそれ以上想像もつかない位の 巨額と時間を費やすのにためらうことを知らない連中に、我々はなにが楽しゅ うて税金を払わねばならんのです?。・・・あぁ、なるほど、私も“選挙権を 行使しない”という方法でもって、彼らに加担していたんでしたっけ。ふんっ、 つまり私も共犯ですね。まぁ、主旨を変えるつもりは毛頭ありませんけども。 最近は目に付かないけれど、FARIONってところは“FARIONが宗教 かどうかを追求する場”なんでしたっけ?、あたしはFARIONってのは世 紀末に対する何かを論じる場だと思ってやって来たんだけど違いましたっけ?。 ・・・あぁ、なるほど、私も“発言権を行使しない”という方法でもって、彼 らに加担していたんでしたっけ。ふんっ、つまり私も共犯ですね。まぁ、主旨 を変えるつもりは毛頭ありませんけども。                                湖の鷹 ps. ↑、ってなことをウツロウツロ考えてたら、無性に書きたくなったのが、   #763 です。 ps2.えと、もう一度、 話の腰を折って御免なさい。