- FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/04/05 - 02091/02091 NBA02777 アポロ RE:アーリオーンは超能力集団とどこが異るのです ( 7) 94/04/05 13:06 02076へのコメント #2076 SUKEさん、こんばんわ 「続きです」   「具体例4」     1.5日程連続で、運転をしていたので、胃の下の方が少し痛くなっていた 所に、全然しらない声で『あなたは胃ガンでxx歳で亡くなります』  と言ったのです。  私は既にxx歳をだいぶ越えていたので、案外好い加減なんだと思い カラ笑いをしました。  『なんだぁこいつは』との中心人物さんの声に、ザワザワと複数の気配 がしました。この感覚は、ダイヤルQ2の会議室サービスに似ています。  この後、これも知らない女性コーラスグループが『死の歌を歌います。』 ワワワワワーーンと両耳の奥上からコメカミに響く声がして、朝日に向かって 走行していた為か景色がピンク色に変わり、森林の道であるような錯覚が し、平行感覚がだいぶ鈍くなった気がしました。  運転に集中していたので、何を歌っているのか残念ながら思い出せません。  唯一、甲府方面に走行中XXXに住む人が、『この先の電波塔の下に逃げなさい この下では、電磁波で超能力を防ぐ事ができます。私の通信限界はここまでです。 さようなら。』と助けてくれました。  私は、電波塔の場所がわからず手前で左に曲ってしまった。残念です。  例はこの辺で良いですか?、私の意味する「超能力集団」の概要が解って 頂けたでしょうか?   使用言語はC言語で、オット日本語です。それしか知りません。 | ただし! ARIONという存在がどういう種類の存在であるか、ということに主 | 題を置くのは、多分実り少ないことでしょう。 | それはあなた自身のことではないのですから、貴方の参考にはなっても貴方の人生 | にはならないのです。 | それよりも自分がどういう存在なのかとか、どういう風に生きてゆくのか、といっ | たことに主題を置く方が、遥かに実り多いものと思えます。  難しい事をいいますね。よく解らないのですが? もう春で、桜もこちらでもちらほら咲いているのですが、敢えて真冬のさむーい 時期で、少年A君が寒さに耐え兼ねてデパートにストーブを買いに行ったとします。    ここには電気ストーブと石油ストーブが置いてあります。(イマハファーンヒータダイフルイフルイ)  SUKEさんの場合は、とにかく操作方法がわかればどれでもかまわない早く家に 持って帰って暖かい生活をエンジョイしようと言うタイプですね。  私の場合は、どっちが安上がりかな?、安全性はどっちだ?などと言って納得 するまで買うのか買わないのかわからないタイプだと思います。  どちらのタイプがより早く暖かくなれるかと言えばSUKEさんタイプでしょう。 私は心配性だと思います。火事になったら側迷惑だなんて思ってしまう。 アポロ - FARION MES( 9):★TAO の《神々の曼陀羅》―美と信仰と史― 94/04/05 - 006/009 GDB00064 オリハル RE:新規巻き直しの「巻頭言」 ( 9) 94/04/05 03:06 001へのコメント 会議室新装オープンおめでとう御座います。 私は歴史とかほとんど知りませんので、 勉強させて頂きますです。               オリハル 007/009 JBH02324 なえ 会議室新設にあたり ( 9) 94/04/05 07:14 001へのコメント  TAO氏には新しく会議室が出来、議長となられます事を、心からお喜び  申し上げます。  さて、この度TAO氏より副議長を賜りました。取り立てて勤勉家でも無  いし、実の所、足を引っ張るだけ・・の〜てんきな若輩ではありますが、  皆様のお力添えを賜り、この場に花一輪(あ、チョット・・しおれてるか(^^;)  添えられると嬉しく思います。  思い返せば14番会議室にて、YHぎちゃうからの暖かいご支援の結果  (本人にはその様な積もりは無かったのかも知れませんが・・。(^^;)  古代の精神文化という、大変興味のある分野にお誘い頂き、しっかりド  ツボにはまってしまいました。(^^;  この部屋の新設にあたり、このウツケモノ(別名おつけもの)に副議長  というお役を頂き、恐縮しながらも、大変嬉しく思っております。  出来る限り精いっぱいサポート役を努めますので、どうか皆様の、活気  溢れる書き込みと、ご支援をお願い致します。    TAO の《神々の曼陀羅》−美と信仰と史−                   蝶ンブレサリョ なえ 008/009 GBD03557 シゲ 開設おめでと ( 9) 94/04/05 09:28 001へのコメント  えっと、タイトルが、、、神々のバンダナぁ?  神様もバンダナするんかいな?  え、違うって? あ、曼陀羅ね、曼陀羅。了解了解。  で、サブタイトルが、、、美と信仰と史だって?  まるでNHKの番組みたいだなぁ。  新日本紀行 《神々の曼陀羅》―美と信仰と史― を追う。  みたいな。  おっと、こわいおぢちゃんとおばちゃんに、おちりペンペンされるからこれで。 009/009 TCC00116 NoB Untitled ( 9) 94/04/05 12:32 TAOさん、新会議室開催おめでとう。 とても興味深いテーマですね。実は、僕も、歴史フォーラムで「宗教史」の司会をし てますが、この会議室のテーマにかなり類縁なので興味深く思います。 あまり、物騒な話題をするのもどうかと思うし、どうも、アンチNoB派の人もおられ るようなので気がかりではあるのですが……、ま、それはそれとさしてください。こ の機に、アリオンでのハンドル名を変えようかとも思ったのですが、ま、それもなし で。 まず、このテーマについて、どういう基本的な方針を僕が持っているかというあたり を書きます。ちょっと難しいかもしれませんが。 で、近代への批判(超克)からです。 「近代」とはなにか?と問うことはとてつもなく難しいことですが、ひとつには、 「民族」ということがキーになることでしょう。つまり、民族が国家を形成する、と いう運動と、その反対の運動が、近代というものを形成していると言ってだろうと思 います。そして、この構図は今でも、現代の世界を覆っています。 「民族」によって形成された「国家」は(すこし議論を省略するので飛躍に見えるか もしれませんが)、まさに、その国家が、民族という同一的なものによって構成され たのだというところに、ある種、共同体的な意識での強迫観念のようなものを持ちま す。本当は、民族などなかったのだ、ということを、意識の下につねに押し込めてお く抑圧が必要なのです。 この強迫観念は、一般的には、「建国神話」というものを形成します。これは、類型 としては、「古代」の創作、と、「英雄」の創作(創造者の創造)という類型をとり ます。 一般に近代世界は、西洋文明による帝国主義支配に覆われおり、現代はその反動とし て、西洋文明よりも「古代性」を主張することが、古代創作のポイントとなりがちで す。このような、民族国家としては、日本はある類型的なものです。この類型性は、 トルコや革命以前のイランなどと類比すれば理解されることでしょう。 どうも、むっかしい話になってしまいそうなのではしょると、基本的には、このよう な古代創作型の近代民族国家は、美意識を含めて宗教というものを創作してしまいま す。 この宗教と美意識の創作という面では、近代の契機と、もうひとつ、異文化支配の契 機の2つがあります。この類型としては、中国があげられます。よく中国4千年な り、漢民族の歴史のような言説があるのですが、実際には、中国という国家の理念が 形成されたのは、宋代であり、基本的に、中国は異民族支配の歴史を持っています。 こうした類型でも、同様に、民族に求心的な宗教や美意識が創作されます。 日本の場合、これが非常に錯綜しています。しかし、大きくみて3つのエポックがあ ることでしょう。 まず、国家成立において、国家としての「日本国」たらんとする要請がつよく、これ が、書記の神話に反映されます。古事記については、平安初期の偽書なので(という ことはあまり知られていませんし、まだ定説とはなっていませんが)ちょっと扱いが 別になります。いずれにせよ、この時期、簡単にいうと、天智系と天武系の宗教・美 意識の分離発生がありました。 また、南北朝のとき、正統が分裂したため、その負い目をもった南朝が、国家成立に おけるのと近似な、宗教・美意識を形成します。実際のところ、この時代に、古事記 は発見されたといっていいものでしょう。この南朝の創作には、先の宋の国家求心性 が関連してくるあたりから、実際のところ、日本の明治における近代民族国家の形成 は、準備されていたと言っていいものがあります。(なお、この時期の分離性として は、性の問題を含んだ浄土教の運動があります。また、近代国家統一にかかわる国王 たちの信仰も重要な問題です。雑駁にいえば、信長、秀吉、家康はオカルティストで あったわけです。) というか、このような2段構えの上に3段目の明治国家ができるわけです。 近代における、対抗西洋文明という以上に、日本を同一化される、宗教・美意識を用 意していたため、だからこそ、これは、かなり強固なものになっていったわけです。 ま、今でも、この強固なものは解体されておらず、対抗西洋文明的に強化されつつも あります。 どうも、むっかしい話をしてしまいましたが、ようは、3つの問題があるというふう に僕は認識しています。  A 創作性の宗教に覆われる以前の多様性を発見すること  B 創作性の宗教の発生継承過程における必然性を理解すること  C このような背後にあって、史的に人間が追求している宗教とはな    にかへのモデルを提示すること です。 とくにCは、おそらくこのフォーラムでは、言葉としては意識されなくても、もっと も要請されている課題であるように思われます。ただ、方法論の問題としては、それ らの宗教的な意識が鋭敏なものであって、それを客体化したモデルにひきはなして、 自己を了解できるか、という契機が、必要で、しかし、実際にはむつかしいように思 えます。 ただ、このCにおけるモデル対象性の方法契機がないと、A、Bの探求は、個々の断 片的な知識になっていくことでしょう。それはそれで興味深いことではありますが。 ま、そんなわけで、NoBさんとしては、そのようなスレッドを意識しながらも、ここ では、個々の断片に関わることになるかと思います。 NoB - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/04/05 - 01159/01159 JCF00616 YUI 食物の摂取と霊障 (13) 94/04/05 14:25  どうも、YUI です。  最近、「肉食はよくない」とか「炭酸飲料は危険だ」などという声を  耳にしますが、いったいここら辺はどうしてよいものやら..(^^;  ■食物摂取の欲求は2種類ある、と思う   ひとつはもちろん「本能」と呼ばれるもので、生物の成長に欠かせない   ものです。で、もうひとつはカルマなどから来る一種の「霊障」のような   ものです。   本能による欲求は霊的進化については殆ど影響を与えないのでしょうが、   過去世の業が現在にいたって「現れては、消えてゆく」ことは日常茶飯事   のことではないでしょうか?当然、「食」についてもその対象となる訳で、   過去世から来る業は食事時にも現れるのですね。   また、これまた当然ですが現世に於いても業は何等かの霊的要素によって   「生み出され」ているのです。   ですから、肉やアルコール、炭酸飲料などが「無性に」食べたくなっている   時は、よほど気を付けなければなりません。なぜなら、それが霊要素の働き   による場合が多いからです。   それらの霊要素は地球人類の進化に当たって多大な貢献をして来たことは   シュタイナーの宇宙進化論などからも明らかになるようですが、   現在にいたってはそれを極力避ける必要があるようです。   宇宙神霊からの警告メッセージなどは、恐らくそれを意味するのでは   ないでしょうか?   しかし、人間の肉体波動・精神波動を乱さない為には、   私たち自身の想念がなるべき方向へと成る事が必要であり、   食物による影響は人間自身がそれを「どう捉えるか」にあるのだと思います。   例えば、「今日は無性に肉が食べたい」と思ったとする。   普通ならば、「肉を買って来て料理して食おう」となる。   でも、ここで「無性に肉が食べたいのは霊障の現れだ」と考え、   ぐっと我慢していれば、いつのまにかその思いは消えてゆくものです。   そして、消えていった後、その肉を食べれば良いのだと思います。   でも、ここで注意するのは「肉を食べている内に」また次の欲求が沸いて出て   来たような場合で、そうなりがちな人は肉食を止めて菜食にすべきだと   思います。   <あなたは菜食向きか?肉食でもOKか?>のテスト ^^;   1 「あとをひく」食べ方が多い   2 願望はすぐにかなえなければ「イヤだ」   3 大好きなもの、を大量に食べる     (多種少量ではない食べ方をする)   4 食べた後、もしくは欲しいものを手に入れた後、     熱が覚めること(興覚め)が多く、後悔することがよくある。   ※作成:YUI   もちろん、当てはまる数が多ければ多いほど、「菜食の方が良い」ことに   なります。少なければ、「OK」となるかもしれません。 P.S.〜なのです。などと断定口調で書いていますが、〜だと思います。   〜だそうです。と同じ意味です(^^; YUI - FARION MES(14):★YHVHの預言解読部屋------------<03> 94/04/05 - 01979/01979 GDB00064 オリハル RE:「自分を見る。」ことについての私見。 (14) 94/04/05 02:53 01978へのコメント 確かに、火水伝聞ではそういうこと言いますよね。 ところで、「神一厘の仕組」について、私は7番会議室で書込みしてます。1992年 10月からです。よければ是非読んで頂ければと思います。その第一段が芸能界で、第 二段がFARIONで、今、第三段として一般へと流出しようとしています。それと、現在の 世界情勢の中に大本の型が写されているという論説が楽しみです。                                オリハル - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 94/04/05 - 512/513 JCC00626 ナガト RE:「空気」を変えなくちゃ^^; (15) 94/04/05 03:46 511へのコメント コメント数:1 #511 kazeさん、誠意溢れるお答えをありがとうございました。 真っ正面からご自分の思考を吐露される言説に触れたような気がして おりまして、実に爽快な心持ちがしております(^_^) >問題は「悪気ではないのにどうしてそうなるのか」ということにあります。 >問題のキーはまさにそこにあるわけなんです。 >戦前の戦争報道にしても問題は「悪気ではない」ことにありました^^;。 kazeさんのこの御指摘を私なりに >問題は誰も「本気ではない」従って「悪気でもない」ことにあった。 と言い換えてみたいと思います(^^;) ここでいう「本気ではない」を「自分に責任があるとは思っていない」と更に 置き換えても構いません。 戦前の日本はアジアの解放のために戦った、という神話がありまして、今だに そう信じている人は多いのですが、冷静に日本国が行った「共栄圏政策」を 検証すれば、準備の泥縄ぶりから実施の御粗末さまで含めそれはとても解放の ためなどと胸を張って言える代物ではありませんでした。 当時、たとえば南方軍の報道班員として現地経験をもつ新聞記者がそういった 事実に気がつかなかったとは到底思えないのですが、しかし或は当時の彼らが 置かれていた状況は、今回の若い記者氏と同様に、 〈もし「共栄圏」に関する記事を、配慮して書かないでいるとするとそれに  対して、「なぜ書かないのか」という教育的指導がくるから、配慮して書き  たくないと思ったとしても、それを書かざるを得ない〉 というものだったのかもしれません。 しかしこれは、事実を伝えそれに対する解釈を解釈として述べるのがジャーナ リストの仕事だということを思えば、相当に面妖な話ですね。 事柄はモラルに関わる以前のレベル----自分はなぜその仕事を選んだのか、 という、いわば職業意識・仕事に対する誠意に関わるものです。 その意味で彼らは決して「アジア解放」などという神話を「本気」で検証 しようという気もなく、誤報をしてもそれは決して「悪気」でそうしたわけで はなかったと思っていると理解されても、これは仕方がないことですね。 無論、個人として敗戦を境に筆を折った方もいらっしゃいますし、また心底 アジア解放を信じて現地に留まりそのまま骨を埋めた方もおられます。 そのような人々は、まさしく「本気」であろうとする自分の宿命に淡々と 従ったわけですが、残念ながら日本が〈国〉として刻んだ歴史は、そうした 人々の〈生き様〉〈死に様〉を反映してはおりません。それは個人史では ありましたが、日本という国の歴史とはなりえなかったわけです。戦前に声の 大きかった者は戦後も相変わらず声が大きく、ただ叫ぶ内容が変わっただけ。 それが現実です。要はまさに〈集合的無意識〉が作りあげる〈空気〉のなせる 業と言っていいのかもしれません。 これは私見ですが、私はかつて南方特派員が目をつぶった〈事実〉の大切さ、 それにできる限り目を配ろうと意識的であることが、この〈空気〉を排する ことにつながるのではと、一縷の希望を託しているのです。 kazeさんが知り合った若い記者が、もしそのような職業意識と自分の置かれて いる環境との板挟みになって苦しんでいるならば、あるいは何かお役にたてる こともあろうかと思いしゃしゃりでたわけですが、どうも、お話ではそういう 状況ではないようですね(^^;)。 若い記者が、ご指摘のように、 >「それは困ったね^^;云々」 というテンションで話しているのであれば、どうも彼は、さしたる「歪曲」 「捏造」的指導を経験しているのではないのでしょう、おそらくは。 上から「なぜ××問題を取り上げないのか」というT御下問Uがあったという 事と「こう書け」という指導があったというのは、本質的に異なる問題です。 御指摘の事柄がてっきり後者に属する話だと受け取ったので、前回のような ご質問をしたのですが、この点は合点がいきました。 単に「なぜ××の問題を取り上げないのか」というT御下問Uがあっただけで あるならば、これはあくまでも取材で得た事実を踏まえて記事を突き出せば 済む話です。取材の結果それが実は何も現実の動きがないものであるならば、 これは記事にはなりません、といえばいいだけのこと。 基本的にデスクは取材を行わない立場ですので、何が取材で裏付けのとれた 事実であるかは記者以外には知りようがないのですね。ですからよほど流動的 な素材---1時間後には情勢が変化するような素材や情報のソースが多方面に 渡らざるをえないような素材---でない限り、まあ喧嘩をしても十中八九現場 を知る記者が勝ちます。 もっとも仮に彼が書くに足りる事実を持ってもいないのに、御下問を受けた だけで右往左往し、上の意を推察しその意に沿う小さなファクトをかき集めて 記事を書いてしまった、というのであれば状況はより悪いものですね。これで はただの茶坊主でしかありませんから(^^;) あるいは全く別で、彼は「自粛」について語っているのかもしれません。 上司も何も「指導」せず、記者も別段何も「主張」しない。しかし目に見えな い規範として何を報道してはいけないか・事実をどう表現するかのコードが 確実に存在している。それを感知し従うことのできる者は出世し、それに無神 経な者・疑問を呈する者は排除される。彼のいう「指導」というのはこのコード のことなのかもしれません。ただこの場合には別の問題が出て参ります。 彼が仮に「米の問題は書かない方がいい」と判断したのならば、それではその 「書かない方がいい」という判断自体が「自粛」的な思考態度かどうか、という             点ですね。もっともこれは彼自身の言葉を聞かなくては知り ようがありません。 (、と勝手に解釈していますが、そういう口ぶりだったでしょうか?) とはいえこのような「空気」で動く人々を、無暗に非難しその無責任を追及する のでは、これは言われる通り、ただの蜥蜴の尻尾切りの結果しか招かぬことで しょう。これはkazeさんの、 >結局のところ、問題はマスコミの姿勢云々という以前の問題で、 >日本人のそうした無自覚な「悪気のなさ」と、 >それ故にある種の集合無意識的な流れに対して流されやすいということ。 >その部分を、一人一人が自覚していく以外にないのではないかと思います。 >「誰が悪いか」という問題設定では糸口が見えてこないと思うのです。 というご意見にも関わることでもあるのですが、当の私たちも、また決して このような「空気」と無縁ではなく、むしろヘイヘイと空気によって動くこと が多々あること、甚だしい場合はまさに空気によって真の責任の追及を避けて しまうことさえあることを思えば、むしろ大切なことは  「誰かが空気によって発言していること」 を告発することではなく、  「私たちはいかにすればこの〈空気〉に意識的になれるか」 であるように思えます。私が「事実の検証」を一縷の望だ、というのも、 それが「〈空気〉に意識的」になる上で最も堅牢な根拠となりうるからに 他ならないのです。 敢えてこの空気の中で、どこまでが責任の体系として機能しているかを 見極める。何者かをスケープゴートとしてヒステリックにその責任を追及し、 批判するのではなく、意思決定の過程を当事者の「判断根拠」「本音と建前」 まで踏み込み、その中での「空気の在り処」を探り当てる。 結果とその過程がどう関わり、空気がどこで何に関与したかを、為し得る限り 意識的にしようと試みる。 個人がこのような試みを行うには情報を多角的に集めるなど、それなりの 努力が必要ですが、これは決して不可能なことではありませんね。要は私たち 自身が「何がいったい大切か」と考えるかに掛かっているだけのことですから。 思考の枠組みをそう変更した時、〈責任〉という言葉も、また新しい意味を もって現れてくるのではないでしょうか。たとえば空気によって結果に大きく 関わった者の「無過失責任」が問われる場合も、或は出てくるかもしれません。 これは組織内渡世の経験がある方には頷いていただけることと思うのですが、 最近、組織のリストラなどと称して実は上辺だけをいじるに過ぎない改造が、 しばしば行われますね。その際「責任分担の明確化」が呪文のように唱えられ、 新・管理部門の設置・横断的な組織を交流活性化させる〈真の意思決定の場〉 〈新しいチェック機能部門〉など様々な方策がとられています。しかしその ような試みの中には挫折に終わってしまったものも数え切れぬほど存在して います。そのようなケースの場合、実は「改革という空気」によって走り 何ら成算の有無を考えることもなく大声をあげてそれを支援した者が社内には 無数にいる事が多いのですが、空気によって動くかぎり彼らは決して失敗の責任 を問われることはありません。新設セクションの担当者だけが過失責任を問われ る羽目になってしまっているのです。 これは結局は〈「誰が悪いか」という問題設定〉の無惨な結果にすぎないので しょう。 先に述べたような検証は、このような疑似的な責任体系のレベルを突き破る ものである必要があります。そのためには、何者かを詰ったり性急に責任の 所在を追及するような偏狭な態度は避けなくてはなりません。 と同時に蜥蜴の尻尾切りを許さないためにも、それ以外の「手を汚さない者」 の責任に、どう目を配るかを考える必要があるのではないでしょうか。しかも それが「責任の拡散=事実上の無責任」にならないという形で。 要は〈空気〉について語る時には、より慎重でなければならないということ なのだと考えています。これは自戒の意味をこめての言葉ですが(^_^)。 このような検証の姿勢こそ、kazeさんのいわれる >(日本人が)ある種の集合無意識的な流れに対して流されやすいということ。 >その部分を、一人一人が自覚していく以外にないのではないかと思います。 という「自覚」の過程で大きな武器になるのでは。 そんな気がいたします。                         ナガト 拝 ps:>要は、話す人間関係とそのテーマを意識的にさせることだと思います。   >テーマをちゃんと真面目に大切なこととして提示すれば、もともと素朴   >で正義感の強い方が多いのですから。      これには思わず唸りました。   まさに事実の把握は、結局は人間関係によってもたらされるもの。   ですからご指摘のように(特に社会部系の記者には)「素朴で正義感の   強い」連中が多いのでしょう。だからこそ報道するのが仕事の記者に対し   ○暴や闇金、新興宗教の教祖や汚職代議士までが、本来は明るみに出ない   はずの裏の事情までも語ってくれるのですね。   彼らはまさに誠意で事実と勝負するのが仕事の本性なのですから、彼らに   はその本性にあくまでも拘ってもらいたい、言ってみれば私はそう願って   いるだけなのです。考えてみれば非常に単純な頭だと自分でも思いますね   これは(^^;) 513/513 GFD00204 松川 貴     RE:「空気」を変えなくちゃ^^; (15) 94/04/05 17:14 512へのコメント  ナガトさん  話題が違ってしまいますが、書きたくなった点がひとつあったので、その点につい て書かせてください。 >戦前の日本はアジアの解放のために戦った、という神話がありまして  この〈神話〉は実際は二つの意識の支脈を持っているのではないでしょうか。  ひとつ立場は、本当は日本の戦争行為の前提には、そんな思想などなかったのだか ら、これは虚言だ、したがって、日本これすべて悪である、という立場。  もうひとつは、確かに、日本は国策としてこの思想を本気で押し進めたのではない が、結果としてアジアの政治的地図は変化したではないか、したがって、日本の行っ た盲目的行為にも、アジアを利する一点があったのだという部分を認めてもよいでは ないか、という立場です。  一方は、前提(動機)論に立って語り、もう一方は結果論で語っているのです。こ れでは、議論がかみ合うわけがありません。  それから、もうひとつ、先の〈太平洋戦争〉について語られるときに、現代日本人 が実際に頭の中に思い浮かべているのは、アメリカという国家との戦争行為ではなく て、中国や朝鮮や南方諸国に対する政治行為や戦闘行為についてであって、日本の宣 戦布告相手国たるアメリカ(更にその他の西欧諸国)という国家との政治関係につい てであることは稀であったということです。(ただし、個々の作戦についてはよく語 られてはきました。しかし、それは今私がここで焦点を当てている問題とは重なりま せん。) 私たちは〈太平洋戦争〉と言うときにさえ、実際はアメリカという国家と の関係のことではなく、すでに〈太平洋戦争〉以前に始まっていた、アジア地域に住 んでいるアジア人同士による紛争ついてばかり語ってきたのではなかったのでしょう か。そして、その意識文脈がそのまま〈太平洋戦争〉開始以降にも引き継がれて語ら れています。  当時、中国共産党には偉大な人物たちがひしめいておりました。日本は結局アメリ カと戦争することで中国共産党の手助けを行ったようなものではなかったのでしょう か。向こうさんの方がどうも役者が一枚上手だったような気がいたします。ある意味 で言えば、日本人は彼らにとっての政治的露払い役だったんですよ。  勝海舟は中国との戦争についてこのようなことを語っていたことがあります。   おれが李鴻章にしても、ナニ馬鹿ナ、日本などと本気に戦うものか。サッサ  と逃げるよ。土地が広いから、逃げ回って二、三年もかかるサ。大きに都合が  善いよ。(『海舟座談』岩波文庫 P341)  日清戦争について中国人が日本人に対して恨みを言うというような話は聞いたこと がありませんが、「広い土地を逃げ回って、日本がアメリカとの戦争に負けるまでが んばりつづけた偉大な知恵者たちの国」が今でもどーんと立っています。  日本側の視点から眺めるならば、日本は幕末維新以来絶えず、アジアという広大な 大陸の向こう側に住んでいる欧米列強の力をまず問題にしてきたのだということを忘 れるべきではないと思います。  当時(19世紀の半ば以降)、中国や朝鮮は、欧米列強と自国との関係、あるいは 運命について、どのような見取り図を描いて生きていたのか、というような議論には ──欧米列強のアジア進入以降に、遅れて大陸にやってきた〈日本と自国との関係〉 についてはよく聞かされてまいりましたが──私はまだ一度も出会っておりません。  そういうわけで、現在でもなお〈アジアにおいては〉戦争について混乱した議論が なされているということ、これがまず認識されるべき第一番目のことではないかと私 は考えております。 >今だにそう信じている人は多いのですが、冷静に日本国が行った >「共栄圏政策」を検証すれば、準備の泥縄ぶりから実施の御粗末 >さまで含めそれはとても解放のためなどと胸を張って言える代物 >ではありませんでした。  日本はこの〈共栄圏思想〉を独自に発案したのでしょうか。これについては、ひと つの資料を提示しておきたいと思います。ただし、これから御紹介するのは、ちゃん とした歴史学者の手によるものではなく、ソロヴィヨフというロシアのキリスト教神 秘思想家が──このような人物を引用できるのも、このフォーラムが、常識的に見る と少々キ印っぽい連中の集まってくる場所だからですよ──自分の死の直前(1900)に 書いた文章の中に(日本では『ソロヴィヨフ選集』東宜出版で出ております)入って いたものです。ただし今回の引用は、『いま、シュタイナーをどう読むか』(イザラ 書房)という本からの孫引きであることを初めにお断りしておきます。   二十世紀は、最後の大きな外的・内的な戦いと、政治的な変動の時代だった。  外的な戦いのうちでもっとも大きなものの、はるかな昔の原因は、汎モンゴル  主義の精神運動であった。その運動は、すでに十九世紀末に日本で発生してい  た。驚くべき早さと起用さでヨーロッパ文化の物質主義的形態を受け入れた、  模倣に機敏な日本人は、あまり価値のないヨーロッパ的な理念も、いくつか受  け入れた。彼らは新聞と歴史の教科書から、西洋には汎ギリシア主義、汎ゲル  マン主義、汎スラブ主義、汎イスラム主義があるのを知り、汎モンゴル主義の  理念を告げた。敵、すなわちヨーロッパとの決戦のために、日本の指導下に全  アジア民族を結合するというのである。ヨーロッパが二十世紀初頭に、イスラ  ム世界との決戦をおこなったという事実を利用して、彼らは大計画の実現に手  を着けた。彼らはまず朝鮮を占領し、ついで北京に進撃し、中国の進歩党の助  けによって古い満州王国を倒し、日本の王国に替えた。(P134-P135)  私は、19世紀半ばから20世紀(今日も含む)にかけて、それぞれの地域に住む 人々がどのような政治的視線を向けていたのかについて、以下のような図を思い描い てみました。もちろん、おおいに誤りである可能性もあります。ですから、これはひ とつの試論にに過ぎません。いかがなものでしょうか。        ┌────視線──────┐        │    ┌──視線──┐│        ↓    │ アジア  ↓│日本      ───────┴───────┘       欧米     アジア+日本        │        ↑        └──視線────┘  書きたいことはまだまだいくつか残ってはいるのですが、それはまた日を改めて、 気の乗ったときにいたしたいと思います。                                   松川 貴 - FARION MES(18):★あもりの二人三脚ネットワーク------<01> 94/04/05 - 00809/00810 GDB00064 オリハル RE:主人公であること (18) 94/04/05 02:53 00804へのコメント 人間が持っている地上的な諸力は、この地上での他との関わりの中で働くものなので、 必ず、比較の意識となります。それは機能としての自分ですが、存在としての本当の自 分ではないのです。それが機能にしか過ぎない事を理解すれば、「他と比較する」とい う意識の機械性、必然性が理解できると思います。そうすれば、その単なる機械性を、 生体保護の観点からなるべく摩擦(葛藤、苦しみ)を少なく運用しようと判断するはず です。そうする事で生体(普通は「自分」と言われますが)は元気になり、うれしうれ しの世になる訳だと思います。でも、人によって、時によっても価値観が違うわけです から、「禁欲=善」という感覚を持ってる人はまず、徹底的に自分で禁欲してみればい いと思います。そして、どれほど自分に対して申し訳ない事をしたか、という反省=い わば、「命の納得」を得られるならば、積極的に人の欲求を満たしてあげようという人 になると思います。これは、なえさんへのRESにもなるかも知れませんが、表層的な 意味では言ってません。ボランティアとか傲慢とかの言葉が出始めていますが、例えば、 線路で電車に片足を切断された犬が、その後、線路に近付こうとする子供を引き止めて 話さない、という実例の中に表れている神の御意志を見よ! という感じです。                               オリハル