- FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 94/05/02 - 02076/02079 JAA02535 ミーモ 札幌にて ( 2) 94/05/01 16:58  今日(5/1)、私は念願の北海道へ自車でたどりついた。 実にまる一日かかったことになる。はっきりいって、目が疲れた(xx)  早速だが、悪友が上陸した室蘭の埠頭で待ちかまえていた。 私はその後、車の中でバスタオルにくるまって朝を迎えた(寒かったぞぉ〜)  10日までの間私はどこどこをまわれるか?たのしみである。 パラス・ノルディカにとりつかれていてもたってもいられなくなってやってきた。  今は私は札幌の街の中でたたずんでいる。しかし、ISDN公衆電話捜すの 苦労したぞい。(結構ここからやるのは恥ずかしいぞぉ〜)                           ミーモ 02077/02079 JCF00616 YUI 高校生大歓迎! ( 2) 94/05/02 00:46 02075へのコメント RE:#2072/TO:NORIさん  はじめまして、YUI といいま〜す!  「ユーイ」と発音してくださいネ、でないとYUI/維さんになって  しまいますから (^^;  オフとか行くと、「ユイちゃん、」という言葉が発せられる度に、  ぴくん!となってしまうYUI でした。  ■ARIONに興味をお持ちですか?  数年前からARIONの本を読んでいるとのことですが、  NORIさんはARIONをはじめとする神霊などの分野に興味を  持たれているんでしょうか?  チャネリング記録としてはVOICE刊の『BASHAR』などは  有名ですよね。  ま、なにはともあれ、FARIONへようこそ!  気楽に、会議室を見て回ると良いかと思います。  ここでは派閥とか、妙な字面だけを弄ぶような所は少ないでしょうから、  アットホームな感じで、居心地は最高ですよ!  ■高校生って少ないんですよねぇ〜  「あ、YUI め、また愚痴ってる〜」なんて、怒られてしまいそうですが(^^;  同世代の高校生っていないもんだから、つい、ネ。  私は4月22日でめでたく(?)17歳の誕生日を迎え、  ようやく、一人前(??)になったなぁという気分です。  私の性格はと言いますと、  「知識を絡み合わせて」行動し、そこで得られた物を新たな知識(胆識)として  変容して行く、といったところです。  簡単に言えば、何か疑問に思ったら即行動し、(時には失敗し)  新たに経験を積んで行く、そんな感じです。  ですから、余り本を読み漁って知識をぎゅうぎゅうに詰め込むタイプでもなければ、  ひたすら行動に先走るという訳でもないんですよ。  でも、今の所、自分でさえ「順調!」と思えるくらい、幸せな毎日を  過ごしています。  ただ、最近では(4月頃から)滅法忙しくなりまして、  レスも覚束ない状況になっています。  それでも何かのお役にでも立てる見込みが在るようでしたら^^; 気軽に声を  掛けてくださいネ(^^) 〓 YUI ⇔ TANAKA Masanori 〓 02078/02079 SDI00635 みれ RE:はじめまして!! ( 2) 94/05/02 02:23 02075へのコメント  #02075 NORI さん  いらっしゃいませ★  高校2年生!!…ウチの息子と同じですね…(^_^;)  先にRES付けてくれているYUI君も同年齢ですね。  それから、それから…アクティブさんでは無いけれど、他にも何人か高校 生の方はいらっしゃいますよ。  ARIONは主に MES 7 に居ますが、時折(滅多にないけど)RTにも 神出鬼没って感じで現れます。また預言解読に興味をお持ちでしたら、MES 14 も覗いてみてくださいね。  MES 7 で真摯な会話を他の方々と交わしていれば、そのウチARIONと も話をする機会があると思いますので、気長にジックリ滞在してくださいま しね。  何か分からないことがあれば、ここでも MES 7 ででも聞いてくださいね。  では、ごゆるりと〜〜♪           ★世紀末フォーラム/SYSOP/SDI00635/みれ(北川恵子)★ 02079/02079 GFC00477 純子 とりあえず,ボトルキープを!! ( 2) 94/05/02 11:37 巷はゴールデンウィークの真っ最中で,こちら(信州)も県外車でいっぱいです。 ちょっと忙しくって久々のRESです。 さて,英雄さん,FLYING V さん,色について色々と(うーーん,我ながら情けない 洒落だ。こういうのを,意識して使うおじさんが多いんだよなぁ・・・)教えて頂 き,感謝,感謝です。 13番会議室も覗かせていただきましたが,難しすぎて......やっぱり,ここが一番 居心地いいですよ。 これから,ちょっくら新潟へ温泉さがしに行ってきます。事故らないように気をつ けないと。(昨日,あせってて,車線変更しようとしたら,となりにもう車がいて あせった・・・しかし,グラサンかけた黒の車の変な姉ちゃんだと思ったらしく, そのシルビアは絶対に私の車には近づかなかった???) とりあえず,また帰ってきたらお邪魔します。 そうですねぇ,マスター。ボトルは「フォアローゼズ」をキープしておいて 下さい。 あと,コロッケの用意も!! JUNKO : GFC00477 - FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 94/05/02 - 02352/02353 TBE03167 ねずみ やれやれ u_u ( 6) 94/05/01 21:48 自分のバカさ加減につくづく呆れる今日この頃。 02353/02353 KGH02737 弥沙 カウント・ダウン ( 6) 94/05/02 03:07  カチッ・・・  暗闇の中  巨大な柱時計が時を刻み始める  大きな振り子がゆっくりと揺れる  優しい声はそれを告げた  「カウント・ダウン」  時は止められない  運命の輪は廻り続け  再び未来を描き出す  だが、それを変えることはできる  望む未来を強く想うこと  想いは必ず星へ届く  夢はあなたの手の中に  未来はきっと...               弥沙  - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/05/02 - 02148/02149 HGA03610 Kony RE:一致 ( 7) 94/05/01 20:13 02143へのコメント  こんにちは。はじめましてみれさん、英雄さん。金沢に住むKonyです。 > もう一つ不思議な符合があって、それは去年カミゴトで熊本に出か >けた後に、熊本から細川首相が誕生し、今年信州上田にカミゴトで出 >かけた後、羽田首相が誕生したことです。  2/2に私もカミゴトで生まれてからずっと住んでいる金沢から離れ、新潟県柏崎で前 知事さんが同日の午後現職のまま亡くなられたという急報に接しました。  4月の頭にも初めて信州上田/小諸にカミゴト?で出かけた折り、羽田さんの地元で ある事をはじめて知りました。私のお師匠さんが4/23にはるばる熊本にカミゴトに出か けた。その影響か?「改新」という会派が国会内にできました。確か音頭取りは細川さ んでしたね。  あちこちカミゴトに行きますと、いろんな現象が現れて来る事は私も感じ取っていま す。  ハローメッセージは、ARIONさんがその存在を示す為に行っていると考えており、預言の本質 については私には深い感心ありません。ただ、不特定多数の人が入り込むNETWORKでは このやり方(ハローメッセージ)では自ずと限りがあるものと思いますしリスクもある。(否定 的ですHi)ARIONさん以外の他の方はMESSAGE出されませんしね。 私の師匠さんが言うには、”現在、地球人の霊的レベルは著しく向上しています。”と。 いまさら預言のたぐいで注意を引き付ける手法が必要なのか? 私はこれ以上疑問はいわない事とし、黙って見ています。 | O I I I O I -O---+---O- | -O---+---O- | _ _---+---_ _ | O | ~ ~-------~ ~ まだまだ修行が足らない Kony 02149/02149 PXH01650 英雄 日常 ( 7) 94/05/02 01:09 ハロ―・メッセ―ジについて。 「真実は衝撃であるが、その映し絵である事実は日常茶飯事である」 (ARION ハロ-・メッセ-ジ 4/30) ちょっと思い当たることがあったので、書いてみます。 近年、ひた隠された事の真相が暴かれたり、ショッキングな事実が明る みにされたりしています。従来の既製観念を覆すような事が、頻繁に目 に触れるようになってきました。しかし、未だ多くの人々は、それらを 人事(ひとごと)のように感じているのではないでしょうか。 けれど、それらを覆すような事がこれからは起きるに違いありません。 私達はこれから否応なしに、様々な混乱の極みに置かれてゆくのだろう と思います。このメッセ―ジはそれを警告しているのかもしれません。 私は、「どんなに衝撃的な事実であっても、それは日常の事である。つ まり、いつ自分達自身にそれが起きてもおかしかくない。だから、心せ よ」ととらえました。 皆さんは、どうお考えになられますか? ARION、いつもあなた方と共に:英雄: - FARION MES( 9):★TAO の《神々の曼陀羅》―美と信仰と史― 94/05/02 - 149/152 MHD02672 TAO ご無沙汰していました。 ( 9) 94/05/02 00:38 コメント数:1  この一週間は引っ越しの準備やらに追われていましたが、  新しい部屋の中も少しずつ片づきつつあり、やっと息をつける  ようになりましたので、そろそろ復帰しようと思っています。  なえさん、お留守番をどうもご苦労様でした。  3日から5日まで信州へ行っています。それでは皆さんも良い  バカンスを。  TAO 151/152 JBH02324 なえ お待たせ NoB さん ( 9) 94/05/02 15:13 083へのコメント  やっとの事で前回の疑問に答えられます。長らく失礼しました。m(_ _)m  まずは萩の事から・・・。  雁がねの初声聞きて咲き出たる 屋前の秋萩見に来わが背子 「万葉集」巻10  この中で歌われている萩は雁の声を聞いてから咲き始めた・・。という直訳  になりますが、果たして萩が耳を持ち、雁の声に反応出来るのでしょうか?  これは実際の地上の生命活動と天上の雁とが一個の全体生命体として機能し  そこから、揶揄的表現では無く、雁の声に萩は咲き始めるという観念を古代  の人は持っていた。と言えるのではないか。  例えば、雷が発する光は稲妻と言いますが、稲と雷光は夫婦関係にあるのか  どうか。これは平安時代に生まれた言葉ですが、さらに奈良時代まで遡ると  「稲交び」(いなつるび)と言いました。さらに直接的表現で、稲と性交す  るという意味です。  雁と萩以上に宇宙生命的発想で作られています。稲妻は組成が窒素ですが、  それが稲と接触する事で豊かな実りをもたらす。という経験と結びついて、  結果的に和歌という形で現された。  わが岡にさ男鹿来鳴く初萩の 花嬬問ひに来鳴くさ男鹿 「万葉集」巻8  この旅人の歌もそうで、萩は鹿の妻だと歌う。萩は実際に鹿の好きな匂いを  発する。一種のフェロモンでしょうか。そして有り得ない様な事ですが、萩  は鹿の妻になる。でも、宇宙全体の命には、それも有り得る。鹿も萩もその  一部分だから。  現代の人はともすれば、知識に依って理解する傾向が強いですが、遥か古代  の人々は、心を澄ませ瞳を凝らして「そのもの」を凝視していた。そこに、  古代人の感性があり、宇宙は一体である、という事を感じていた。…のでは  ないでしょうか。宇宙は宇宙生命体であり、人間もまたその一部分である。  案外便利になった文化の裏に、忘れてしまった諸々が、こいう歌に依って、  僅かながらも呼び覚まされる。そんな気がします。  NoBさんにとって納得出来る言い方になったかどうか解りませんが、何かのヒ  ントになれば幸いです。                   蝶ンブレサリョ なえ 152/152 JBH02324 なえ RE:ご無沙汰していました。 ( 9) 94/05/02 15:13 149へのコメント  お引っ越しご苦労様。大変でしたでしょう。>TAOさん  わ、旅行ですか??良いですね〜。  信州と言えば「そば」ですか?(ああ、食い意地の張ったあたし(^^;)  諏訪湖が有名ですね。お神渡りって諏訪湖の氷が割れるのではなかっ  たっけ(/_ヽ)?  諏訪大社も有名ですね。そうだ、近所の地区は諏訪の神様と縁が深い  んです。いつだったか日本昔話でも、そのプロットだけは通ったので  す。昔かたりに伝承されていますので。でも、アニメ化まではイマイ  チ無理だったようで、ボツになったみたいですね。詳しい内容は、希  望があれば、今度時間が出来次第にでも・・・。(^^; ←←ナイナイ  では、気をつけて、いってらっしゃい。(^-^)/~                   蝶ンブレサリョ なえ - FARION MES(10):★Dr.Sooの《夢酔い人の部屋》--------<01> 94/05/02 - 00417/00417 QFH02012 アラミス RE:魚、鯉、鮫..の夢のはなしです (10) 94/05/01 23:26 00398へのコメント こんにちは、七穂さん。 RESが遅れましたが、これがこの前話していた「魚の夢」なんですね・・なるほどぉ。 ではスウ議長から振られた事ですし少し象徴とかシンボルの話を絡めて解釈してみ ましょう。 まず象徴的意味とかシンボルとしての「魚」なのですが、生命と豊ジョウそして対 としての死、又性的特徴として両性的な象徴を持つのだそうです。古代からの夢解 釈では富に関する事とか子供、結婚に関する事と受け取られて来た様です。 魚釣りの夢がありますがこれはこんな解釈もあるようです。水面に釣糸を垂れる、 これは深層意識とか無意識といった世界にある宝(知恵とか未知なる要素)の探求 を表す行為であると・・・七穂さんの夢では魚を釣り上げるのではなくて水に戻して いるのが注目する所ですね、これは今まで得た物を捨てる必要がある事をおじいさ ん=老賢者が示していると解釈もできます(水に戻された鯉に良い印象を持たなか った所がポイント) ここで鯉の象徴的意味をば・・・忍耐、勇気、大食、長寿、多産、男性的な魚だそう です。その他思い付くままに連想してみれば、鯉のぼり=端午の節句=男子、鯉の 滝昇り変じて龍と化す?、鯉は恋(^^;)、滋養強壮の象徴、錦鯉一匹うん百万円=富 の象徴等々・・・ 次に鮫ですが、これは危険とか悪、イルカが天敵とか物質の死とかであまり意味が わからない、で色々考えてみたら神話の因幡の白兎に鮫(鰐とかの話しもあります が)が出て来ますね。兎にだまされるお人好し?なんだけれどもバレた時にはきっち りとお返しする鮫ですね(^^;)、その他常に泳いでいないとエラ呼吸できない身体的 特徴から休む事なく永遠に走り続けるランナーといった印象もあります。 さてと、魚の夢の話しはこんな所ですがどんなもんでしょう?(^^;) - FARION MES(11):★アキラの《平井和正*異界漂流》----<01> 94/05/02 - 437/440 PFC02535 カナメ これが「暴露発言」だ! (11) 94/05/02 03:25 コメント数:3  平井和正がGLAと『真創世記』にまつわる知る人ぞ知る真実を明かしたのは、平 井和正全集『幻魔大戦』の巻末企画(いわゆる後書きですな)「平井和正『幻魔』を 考える」においてである。  事情通の間では周知の事とはいえ、平井和正本人から公に発表されたのはこれが初 めてであり、これによって平井ファン、GLAともに、かなりの衝撃を与えたようだ。  アブナイ発言は毎度の事ながら、これは特に重要(そして面白い)なメッセージで あり、全集を買う幸運に恵まれた読者だけのものにするには、あまりにももったいな い話である。  平井さんの許可が出ているということなので、今回、この中から特に「暴露発言」 に関わり、かつショッキングに面白いPART1〜PART3までを、リクエストにお応えして UPしてみる。  全集を買う機会や経済的余裕のなかった未読の方々の参考になれば幸いである。 438/440 PFC02535 カナメ 平井和正『幻魔』を考える PART1 (11) 94/05/02 03:27 437へのコメント  救世主はどこにいる  目の中に鱗が飛び込んだのか、それともそれまであった鱗が落ちたのか、いずれに しても新しい視野を獲得すると、人間は時して、思いきり愚かなことをしていても、 それに気付かないことがあります。理屈としては判っていますが、現実においてあり のままの自己を悟ることはなかなか困難です。  1978年夏、それまで九カ月間関わり合っていた新宗教から離脱しました。苦い 幻滅と失望が私を捉えていました。私は、さながら宇宙船から放り出されて、巨大な 虚空に漂流しているアストロノートの根元的不安を味わうことになりました。  新宗教の指導者も組織も、私が信じたいと願っていた理想とは、およそほど遠い実 体をさらけだして、宗教法人という法制度によって過保護にされる人間と組織が、ど れほど堕落できるか、私に教えたのでした。  全力を傾けて書き上げるのに丸九カ月間を費やした、三冊の指導者名義の大ベスト セラー本を残して、私の理想は空しくなりました。私はその間、全く己れの小説が書 けず、新宗教が教理として掲げる架空の神――人間の顔を持った神に本気で仕えよう とした己れの愚かしさを思い知らされたのでした。  私は、生活を立て直すためにも、大急ぎで新作の執筆に取り掛からねばなりません でした。宗教とはまことに貪欲な大怪魚そのものです。人間の身も心も魂も食らいつ くし、排泄物に変えて吐き出す。作家にとって、宗教とは致命的な毒物だと早めに悟 らされたことは、真の神の慈悲でした。  それでも、私は真の神と、真の神が世に送り出す『画期的な救世主』について考え ようとすることを止めませんでした。新宗教の教理、指導者、その組織と、袂を分かっ たからこそ、そうしなければならなかったのです。私が恐れるのは、自身が幻滅と悲 哀による自己憐憫に溺れて、虚無主義(ニヒリズム)の虚空に沈むことでした。  もし、現代物質文明のさなかに、真の救世主が現れたとしたら、いったいどのよう な活動を行うのだろうか。現世のすべてをからめとる、経済活動(金銭の神)のオク トパスの触手の中で、『神の呪い』を切り抜けていくことが果たして可能だろうか。  その思考実験を成功さすことができれば、私の九カ月間の心身ともにわたる大怪魚 の腹中の苦悩も償われることになるかもしれない。いや、そんなことを遅疑逡巡する よりも、『幻魔大戦』の言霊がすでに来ていたので、待ったなしでことは始まってい たのでした。  もし、この20世紀も終わりに近づいた、現代世界で、イエス・キリストの再臨が行 われたら、マスコミ時代に対応して、当然のことながら新約聖書の記者が記述したや り方とは、布教の方法も異なっていくことになるだろう。  再臨したイエス・キリストは、この高度に発展したマスコミ社会の貪欲な取り込み を、どのような手腕を発揮してかわして行くだろうか。とにかく、真の救世主である ならば、私が目の当たりにした、逃避一辺倒の拙劣な対マスコミ方策とはおよそ異なっ た対応ぶりを見せるに違いない……             *  言うは易く、行うは難し。私という人間の想像力は、釈迦の掌中にある孫悟空のよ うなもので、マスコミ時代のイエス・キリストを生き生きと描き出すなど出来るもの ではありませんでした。  もし、私が言霊使いと自分を名付けなければ、およそ『幻魔大戦』を書きつぐなど 不可能だったに違いありません。知性と理性の枠内でいかに想像力をかき立てても、 貧しい成果しか収められないが、言霊にすべてを預けてしまえば、後は言霊が仕事を してくれるものです。『幻魔大戦』のような、超常識的な作品は、人間主義の言い替 えである知性主義、理性主義の手には負えない。それらに仕事をさせれば、所詮、“ これまであった小説”を模倣するしかすべがないのです。  本能的に、私はどうすればいいか心得ていたに違いありません。言霊にすべてを委 ねること。猜疑心を棄てて、言霊を全面的に信頼すること。ともすれば、闇から放た れた刺客のように襲ってくる自身喪失と闘うには、言霊の“力”に絶対の信頼をつな ぎ止めるしかなかったのです。  かつてない言霊小説を書こうとしているのだから、お手本になるものは何もありま せん。資料を集めて検討すること自体が成り立たないのです。作家にとっての『自己 模倣』という奥の手も、今度ばかりは効きません。自らの裡に潜む、泉を掘りあて、 こんこんと溢れ出す言霊を導き出すほかにすべがないのです。ことの成否は、すべて 自分を訪れる不可解な、神秘的衝動、言霊を信じるか否かにかかっていました。  一度書き出してしまえば、行く先は鞍の下の馬だけが知っています。私は言霊の大 源泉を掘り当てたことを知ると、すみやかにすべてを言霊に委ねました。それは異次 元の扉を開くのに似ています。  扉を開けば、そこに何も彼も自ずと展開されているもう一つの世界が存在する。い つも私がそうしてきたように、言霊の主体性を尊重し、彼のやることを出来るだけ損 なわずに、導き出すことだけが、私に成しうる最善の途なのでした……             *  当世流行の“新趣向”の新宗教において、私の『幻魔大戦』に登場する言霊が大量 に使われている、と多くの読者から教示を得ました。  無断使用、無断引用であることは事実としても、私はさほどこだわらない。おそら く私の意図したのとは異質な利用のされ方をしているのでしようが、元来『幻魔大戦』 はすべてを言霊から頂戴したものなのです。  従って、『幻魔大戦』の『言霊』は私のものであって、私のものではない。読者達 は憤慨しているが、私自身はさほどの関心はないのです。もともと私は盗作問題には 寛大なほう。  それよりも、『幻魔大戦』の『言霊』は、みずからの“力”で決着をつけるだろう と思っています。どのような落とし前がつくのか知りませんが、私には本当に興味が ないのです。私が“呪い”をかけたなどと、くれぐれも誤解しないで下さい。             *  それらの無断で使用された言霊に、『光のネットワーク』があります。 『幻魔大戦』の読者たちには、ことのほか気に入られた言葉でした。多数の人々の心 の結ぼれが、光輝く一枚の布のように織り上げられていく。そんな理想主義な色合い を帯びたイメージが読者たちの心をとらえたのでしょう。  愛し合い捧げ合う多数の人々の心が、さらに巨大な宇宙エネルギーを導入し、病ん だ精神の所産である『幻魔』をすら、最終的に癒す……そうした理想主義が人々の気 持ちに快い共鳴を生んだのかもしれません。  言霊のスピードに乗って疾走感覚に酔い痴れながらも、私の心の裡には、その理想 主義の快さに心身を委ねる気持ちが欠けていました。理念としては、確かに快いけれ ども、ひとり隠遁者のように、世間を遠ざけて保養地の書斎に閉じ篭もった私にとり、 『光のネットワーク』はあまりに遠かったからです。間断なく襲撃してくる霊的圧迫 感や、霊障そのものである首、背中、腰の痛みに呻吟する身にとって、多数読者の不 揃いな感性や心情、知性、悟性のばらつきは、躊躇いを生み出すのに十分でした。  なによりも人間という存在は、均質ではまったくあり得ません。仏様のような上等 な人間もいれば、目を背けたくなるような下等な人間もいます。当然のことですが、 後者の方が断然多数派です。  新宗教に関わり合っている時、出くわした善人たちには絶望的なまでに退屈したも のです。過激なことをまたしても、と思われるかもしれませんが。  もちろんいうまでもないことですが、善人のすべてが退屈な人々だといっているわ けではないので、お間違えなく。精神の手綱を、他人に全面的に譲り渡してしまって いる人々のことをいっているのです。他人とは新宗教の教祖のことで、口にする言葉 は何も彼も教祖の受け売り、精神の働きの自立性、活発さ、清新さ、なにもない人々 のことです。  受け売り屋は、だれでもそうだが、恐ろしく退屈で後ろ向きです。自分の頭で何も 考えない。教祖の書いた本の通りに喋っている。教祖の語り口をビデオか何かで耳に したことを、何も考えず、自動的にコピーして、自分自身を権威づける。  特に、その新宗教の教団の講師と呼ばれている人々のお寒いことといったらありま せんでした。自前の中身はぜんぜんないのに、教祖の御託宣の受け売りだけで、慈愛 に溢れた高徳な指導者を自ら演出しています。このような連中は、一般人に紛れて、 少し刺激的な質問をしてみると、すぐに尻尾を出したものです。『法敵』から挑戦さ れたと感じて、慈悲も愛もどこへやら、がぜん言動が荒々しくなります。 「あなたは自分の心を磨きなさいっっっっ」  その高飛車なことといったらありません。私を悪霊憑きと見なしていることは明ら かでした。セミナーの売り物『悪霊とり』のビデオで見掛けた教祖の頭ごなしの決め つけ方の完全なコピーです。教祖の法話のお粗末な受け売りをやっているうちに、自 然と態度が大きくなるのでしょう。  教祖気取りの権威主義者は、多くの場合善人です。反省の大事さを説きながら、自 らは反省などしない。自分に限って、反省を要するような悪いことは何一つしていな い、と信じています。私のように反省すべきことが多すぎて、反省自体に嫌気がさす のとはわけが違います。他者である教祖の権威を自分のものにしている不遜さは、決 して反省の対象にはなりません。権威者と自ら一体化することで、権力主義である支 配者の幸福を味わうものです。  何度も念を押させていただきますが、すべての善人について批判的なことをいって いるいるわけではありません。しかし、自分が善人であると疑うことなく信じている 人々は、まさに恐ろしいほど退屈です。彼らの精神が襞の擦り減った脳味噌のように 平板なのは、自己満足と自己陶酔と独善に鼻の上までどっぷりと浸りきっているせい と断言します。  話をさせても、決まり切ったこと(すなわち受け売り)しか語れない。自らの頭で 考える習性を失っているので、極私的な体験から生み出される、本人にのみ語れる生 々しい表現が一切何もない。すべてはパターン化した受け売りです。何の刺激もなく、 退屈至極で、まったくワクワクさらるものが払底しています。  世の中を生き甲斐のないほどつまらなくさせるのは、受け売りの専門家たちだ、と 私はしんそこ思い知ったのでした。オリジナルはまだしも、受け売り屋のお粗末なコ ピーは精神が擦り減っていて、その退屈さは優に罪悪のレベルに達しています。  けれども、もっともっと、比較にならないほどの恐るべきは、やがて到る救世主の 仕事が、自らをオリジナルにして、退屈至極なお粗末なコピーを大量に生み出すこと なら――世界の未来はまさしく絶望的としかいいようがありません。そんなおぞまし い彼らにとっての理想世界には生きていたくない、と本気で考えてしまいます。             平井和正全集42『幻魔大戦5 巡り会い』 巻末企画より 439/440 PFC02535 カナメ 平井和正『幻魔』を考える PART2 (11) 94/05/02 03:30 437へのコメント  盲信・狂信の甘美な罠  自分の人生は、すべて『幻魔大戦』を書くために集約されて存在する――そんな奇 妙な信念が長い間私に取り憑いていました。私を動かした言霊は、それほど強力であ り苛烈な代物でした。その他のことが何ひとつ考えられなくなってしまっているので す。真っ暗なトンネルの中を私は闇雲に歩き続けている心地がしました。  すべては、新宗教に九カ月間在籍した経験の、後遺症でした。自分の魂を震撼させ た経験が愚劣な盲信・狂信でしかなかったことを、何とかして認めたくないがための、 死に物狂いの足掻きだった。そういってしまうのは辛いが、自分自身が愚かしい惨め な狂信状態にあったことは認めざるを得ません。  いやというほど、他人のそれは眺めてきたくせに、身震いするほどの嫌悪を抑えき れないくせに、自分だけはそうではなかったと否定したいのです。現実は否定しがた いものであるのに、自分だけは理性を終始留めており、健全なバランス感覚において 行動していた。他の人間たちとは違う。極限まで振れた振り子が次は反対方向へと振 り戻すように、これまでの生神様と崇めた人間を一瞬にして、サタン呼ばわりし悪し ざまに罵ることだけはしたくない。  自分が過去の一時期、れっきとした盲信・狂信の過中にあったことを認めた上で、 熱烈な生神様崇拝に自分を赴かせた当のカリスマが卑小な正体を明らかにしてしまっ た今、それを償う方法はないものか……私は長い間不眠の夜を過ごして思い迷った挙 げ句、いったん棚上げにすることにしたのでした。  棚上げにすること、それが人生の知恵だ、と私は思いました。判断を留保しなけれ ばならないことは、いったん猶予の時を与えて棚上げにしてやろう。そのうちに正体 が明らかになるだろうし、棚上げの物件が溢れ返ったら、棚ごと私の頭に落ちてくる はずだ。その時になるまで、じっくりとこの問題を追及してやろう。  その時の決心から、十数年。今やっと私は棚上げにした問題を、すべて下ろした上 で、一つ一つ吟味することができるようになったのです。 『幻魔大戦』を書くことは私にとって棚上げにしたことを吟味することでもあったし、 自分自身の経験が、盲信・狂信のおぞましい所産ではなかったことを、証明する作業 でもありました。私が、かかわり合った新宗教の経験をすべて『幻魔大戦』という小 説の中で煮詰めてみる。きわめて極私的な経験を普遍的な小説世界に置き換えてみる。  私がやろうとしたのは、無惨な幻滅の中に空中分解した理想主義を、今一度小説世 界の中で再構築(シミュレート)し、その理想が現実の粗暴な洗礼に耐えうるかどう か、検分してみたかったのです。  私が、新宗教のカリスマに対して軽蔑と不信を明確に表明して袂を分かった他の人 々と違い、態度保留を選んだために、『幻魔大戦』の作中世界と現実を混同する錯覚 を、読者たちの一部に与えてしまったことは、いかにも残念なことです。  現実との混同を避けるように、と別の機会を捉えて呼びかけはしたものの、棚上げ のこともあって、直接具体的に警告することには困難がありました。 『幻魔宇宙』のGENKEN及び主宰の東丈と、現実の新宗教のカリスマを重ね合わ せて、新宗教の組織に参加してしまった読者たちは、かなり多数に上るようだし、そ の人々が現実と幻想のギャップに押しつぶされた惨めな経験を持ったことに、私は作 家的責任を覚えずにはいられないのです。この場をお借りして、お詫び申し上げたい と思います。  1977年のこと、私自身の筆で書き表したカリスマ名義の著書三部作において、 私は思いきった過激な推薦文を掲載しました。当時の私が本心からの崇拝と尊敬をもっ て推薦文を寄せたことは事実でしたが、軽率の謗りを免れないことも確かです。カリ スマの名前で著書を出したことも、余儀ない事情があったとはいえ――最初はカリス マの側近が文章を書くことになっていましたが、むろんアマチュアで文章を書いたキャ リアは一切なく、私自身の本を多数刊行していた版元と出版社との交渉の段階で、成 り行きとして『止むなく』私が引き受けることになってしまったのでした。  弁解がましい書き方で、身が細る思いを禁じえませんが、最初はそんな気は毛頭な かったのに、いざ始めるとなると、凝り性の私はドライブがかかり、止めても止まら ないという状態に速やかに陥りました。カリスマの方ははなからそれがお目当てで、 ――平井さんがいつ、“使命”に気づいてくれるかと思っていた、と後で言われまし た。最初からアマチュアに書かせる気などなかったのです。  盲信と狂信のどつぼに嵌まっていた私は、精神的視野狭窄症の虜となってもはや何 らの懐疑精神も持たず、それが偉大なる神――造物主によって称賛される行為と信じ 切っていたのでした。  今となっても、このような告白をなすことはまことに辛いのですが、棚卸しをすべ て終えた今、これを読者のみなさんに申し上げることは、作家としての社会的な欠か せない義務であろうと考えられるからです。  新宗教は、現代において隆盛をきわめています。その隆盛ぶりがどこに起因するの か、私自身の極私的な経験を通じて、語っておくことに『幻魔大戦』の作者としての 責任感を覚えずにはいられないのです。             *  カリスマ名義の最初の本を出すことが決定した後、私は初期の霊的体験で最も印象 的なものに遭遇することになりました。  その前触れとして、毎晩十一時過ぎになると、奇妙な悪寒を覚えるのです。変に身 内がぞくぞくする。寒けがして鳥肌が立ってきます。それがたとえば、入浴中で体が 十分温まっているのに、嘘寒くなってくる。熱いお風呂の中で悪寒がします。  それが私だけにとどまることなく、妻も同じ体験をしていることがわかりました。 悪寒をもたらし鳥肌を立たせる不気味な波動が、確かに私の身の廻りに集中している のです。  そして、ついに決定的なものを見てしまいました。  周囲の空間が不意に冷たく青ざめて暗くなり、左側からくるくると回転しつつ出現 したものが、ぴたっと真正面に静止し、対峙しました。それは染めたように青い、角 を生やした獣人――サバトの牡山羊として、魔術関係の書物で見ることのある有角の 神、即ち悪魔そのものだったのです。  その時の驚きは、直ちに直感による認識に変わりました。この私が何者かによって 呪詛されている!  それは理屈抜きの確信でした。犯人までも直感によって見抜いてしVタたNX慍峅jH 晴^ーPアれは霊的感覚そのものです。呪詛者は勤め人で、毎晩の定まった就寝時に私に 思念ナを集中し、恨みつらみを募らせていたのです。これほどの怨念を受けるとは、た だならぬことで、それが新宗教に関わっていることは間違いないと悟ったのでした。 私がカリスマの側近の一員に割り込んだことで、強烈な嫉妬と恨みを買うことになっ たのです。  事実、私がカリスマにその件を指摘してから、ただちに毎夜の定期便の悪寒は消え ました。カリスマには心当たりがあり、呪詛を行っていた当人を強く叱責したのでしょ う。  このように愛と慈悲を売り物にする新宗教の内実は、おぞましい嫉妬や猜疑心や敵 意に溢れたものでした。初代カリスマが死去した後は、教団組織が権力闘争の反目と 憎悪のうちにたちまちバラバラに解体、分裂を遂げたのも当然でした。  イエスの愛を語り、釈迦の慈悲を説く新宗教の実体がこれでした。しかし、盲信・ 狂信の徒にとっては、“法難”というまことに都合のよい言葉が用意されています。 組織内部の無数の矛盾が噴き出してきた場合も、信者の目をよそに向けさせるのに便 利な言葉があるのです。  盲信・狂信者は、みずから騙されることを求めている。詐欺の被害者に酷似したと ころがあるように思えます。耳に快い言葉だけを聞き入れ、苦い言葉、自分を告発し て傷つける真実の言葉には、耳を塞ぎます。すべては自分の都合次第です。  その信仰の実態は私利私欲に基づく、御利益の追及ですから、カリスマを信じて利 益がある間は、何がどうあろうと信じ続けます。真実など無関係なのです。  その代わり、カリスマを信じることに利益がなくなれば、さっさと見捨てて去って いきます。結局は、御利益信仰だけを追求するのが、狂信・盲信者であることが判り ます。             *  私が唯一、心から安堵しているのは、新宗教に積極的に関わり合っている間を通じ て、一度たりとも勧誘という形で布教をしなかったことです。  だれが何といおうと、新宗教の最大の害毒、万人にとっての大迷惑は、この勧誘と いう布教でしょう。偏執狂の狂信・盲信の信徒に捕まった時の不愉快さは、なにもの にもたえがたいものがあります。  最大値を示す狂信・盲信の極に達した時ですら、私は親しい友人はもちろん家族に さえも新宗教の組織に加入することを勧めませんでした。  私にためらいがあったのは、やはり新宗教の教義よりはむしろカリスマに対して不 安を持っていたためでしよう。  他人にドライブをかけて、盲信・狂信へ誘い込んでいくカリスマのやり方に、同調 しきれないものがあったのは確かです。私の内部に必死にバランス感覚を保持し続け ようとする働きがあり、それこそが真実の神の助けであったことを、今の私は確信し ています。  もし私が狂熱的にだれかれ構わず勧誘して回っていれば、どれだけの不幸を招いた か判りません。自分の内部の歯止めがなかったら……そう思うと冷や汗の感触が肌を 這い下ります。  カリスマの特徴は、その恐ろしい偏執的な狂熱により、他人に熱病を伝染させ、そ れを可能な限り広範囲にわたって蔓延させることにあります。熱病の病原体のキャリ アーなのです。  カリスマの物狂いには度外れの迫力があり、それは懐疑精神と無縁の、偏執者の絶 対的確信ですから、真っ向から立ち向かおうとしても普通の人間には太刀打ちできま せん。粗暴性格の暴力団組員の偏執的迫力と同種のものです。相手の理不尽さにゆえ に、つい圧倒されてしまうのです。  理性やバランス感覚に欠けたものは、偏執のエネルギーを持ちます。理も非もない 無秩序のエネルギーだけ持ち合わせる暴走族同然に、精神世界においては、新宗教の 布教者は理不尽で暴力的な存在です。  私はたぶん、無意識のうちにその真実を悟っていたので、布教どころか、その可能 性を封じるために、それまでの私の友人知人たちから意識的に遠ざかり始めました。 親しい友誼を結んでいた人々から離脱するという感じは、自分が危険な爆発物に等し い存在になっている、そんな感覚があった証拠です。  通常は、すべてのかかわり合いを持つ人々、自分の生存圏にある人々を残らず己れ の新宗教的狂熱に巻き込み、精神的には致命的な病原体をうつして回るのが、盲信・ 狂信者なのですから。  17世紀のペストの大蔓延するロンドンの市内で、死神が出現しました。この死神は、 ペストのキャリアーで、美しい若い女と見ると、抱きついて無理やり死の接吻を与え ることで恐れられました。新宗教の布教者は確かにこの死神同然です。  私は憶病という物質的なバランス感覚の持ち主でもあったので、親しい人々を破滅 に巻き込むのは真っ平だったのです。私が布教、伝道に関して、慎重というよりは憶 病だったのは、カリスマの狂熱性に対してこっそりと『ユダ』のような疑念を心の奥 底に、隠し持っていたからでしょう。  何よりもカリスマの側近たちの、不気味な狂信・盲信の度合いがケタはずれにエス カレートして行くのを見ることが、私を憶病にするのに役だってくれたのでした。              平井和正全集43『幻魔大戦6 悪霊教団』巻末企画より 440/440 PFC02535 カナメ 平井和正『幻魔』を考える PART3 (11) 94/05/02 03:32 437へのコメント  人の道、神の道  新宗教に肩入れして、はっきりと悟ったことがひとつあります。  狂信・盲信者は頭が悪くなる。  それはもう、れきぜんと頭が悪くなるのです。生まれつき高知能だった人間でも、 人並み以下に知能低下する。脳の内部に知能の働きを阻害する物質でも生じるようで す。  このことは、私自身に起こったことでもあるので、自信を持って言い切ることがで きます。宗教に入れ上げた人間は覿面に頭が悪くなる。  この巻末企画の連載を始めてから、私がかつてかかわり合った新宗教の信者である という読者たちから、何通か手紙が届きました。それらの手紙を読むと、彼らの頭の 悪さに驚愕を禁じえません。 ――かつて私の歩んだ道だ。  そんな感慨に耽ります。きっと私も、信じがたい血の巡りの悪さを露呈して心ある 人々を顰蹙させたのではないでしょうか。  私は、過去の自分を振り返り、自らの新宗教体験を語ることで、懺悔をしようとし ているのです。私は作家であり、これまで書いた作品において、大量の情報を不特定 多数の大衆読者に向けて、発信し続けました。  だからこそ、自分の誤りを認めることで懺悔をなし、謝罪することは、当然の責務 と心得るものです。けれども、私が明確な意図を持ち、新宗教批判を試みているにも 関わらず、明白な文脈を理解する能力を持たず、当のその新宗教に入信してしまうよ うな人々には、何といってよいのかわかりません。  人間の思い込みの恐ろしさに、戦慄を覚えてしまいます。とりわけ普段から思いこ みの強い傾向を持つ人間は、目隠しをされた馬のような視野狭窄の虜になります。一 度、刷り込みがなされたらさいご、端でなにを言おうが歯牙にもかけぬようになって しまうものです。  こうなったら、黙っているしかすべがありません。反論も説得も、意味を失ってし まいます。テレビ画面に向かって文句を言うようなものです。一方通行のテレビに対 して大声で反論し、かつ叱責を加えている人は確かに存在しますが、私には到底その ような徒労には耐えられません。  狂信・盲信者には、このような恐ろしい変化が生じるものです。これまで自分がよ く知っていた人が、まるきりの別人に変わってしまいます。理性も知性も、感情も、 見知らぬ不可解な別人のものに変貌してしまっているのです。  肉体と精神を、精神寄生体であるエイリアンに奪取されて、奇怪な化け物のような 存在に変わってしまう、一昔前のSF小説とそっくりです。しかし、狂信・盲信者と いうのは、現実の存在ですから、これほど始末に困ることはない。             *  私にクレームをつけてよこしたひとりは、前々から何度も手紙をくれた読者なので すが、その文章の高飛車なというより居丈高なこと、無神経なのにはつくづく驚かさ れました。確かに別人のような変化です。  要旨は、私の書いた文章に不審な趣きがあるから説明を求める、要するに申し開き をせよ、というのです。そして私が何を書いてよこそうと、そんなことで自分の信念 が左右されることはないが、とにかく申し開きをしろ、ということで、ご丁寧にも返 信用の封筒まで同封されておりました。  狂信・盲信者に何を言おうが通用しないことは、百も承知なので、返事は出しませ んでしたが、自分の狂信・盲信時代には、似たようなことをやっていたのか、と慌て て記憶をプレイバックさせてみたものです。  私自身の狂信・盲信のスケールは更に大きかったらしく、他人にクレームをつける ような手間暇をかけなかったことだけは確かです。偉大なる『宇宙の法』を理解する ことの出来ない気の毒な人々に対して、『寛大な優しい憐れみ』の念を覚えていたの ではないでしょうか。とにかく、批判者のことは、あまり気に掛けないでいたことは まちがいありません。  私は、この文章において、懺悔することを目的にもしているので、申し開きを強い られても答えるつもりはありません。私がかつて参加していた新宗教の教義や教団組 織に対して、十数年前に分離した人々がさんざんやったように、攻撃を目的としてい るならば、教団の名称や指導者である主催者の名前もはっきりと明記していたでしょ う。  現在『百花繚乱』の、新宗教の乱立の元を作った、いわば新宗教における『大本教』 という立場にある、その教団で何が起こったか証言するのが私の目的ではありません。  私の極私的な経験を通じて学んだことを、かつて『幻魔大戦』という小説で、私は 普遍化を試みました。それゆえ、これまで私は実体験について語ったことはありませ んでした。  ひとつには、前にも書きましたが、長らく棚上げの時期にあったこと、棚卸しをし て検証をする機会を得ないままに、十五年も猶予の時を過ごしてきたからです。表面 張力でまるく盛り上がったコップの水が、一滴の水が落ちることで堰を切ったように 溢れ出す瞬間があるものです。  人は神の道を歩むことはできない、人が歩むのはあくまでも人の道である。その真 実を悟った瞬間、私はこの文章を表す決心を固めていました。  神の道というものがあったとしても、それを歩むのは神ご自身であって、人間がな すことはできない。人間は人の道を歩まざるを得ず、それ以外を望むのは冒涜的な結 果に必ず終わるものです。  私がその真実に気付くまでに、実に十五年という歳月を必要としたのでした。            *  自ら全ての人の上に立つ、高踏的な存在、すなわち生神様と思い上がった瞬間から、 カリスマである教祖様は、必ず神の道を歩みだすものです。  自分こそ全人類の師である。全ての人間は自分の前に跪き、ひれ伏し、神の化身で ある自分の託宣を、否やをいわずことごとく受入れ、従うべきだ。  生神様の真情を、言葉にするとこういったものになります。そこにはごく自然な超 エリート意識とともに、信じがたいまでの傲岸不遜な思い上がりがセットになってい ます。  人の道とは何か。一言でいえば義理人情の道です。古臭い日本の陋習などと思った ら大間違いで、地球表面において、人間の存在するところに必ずついてまわるのが、 この義理人情の道です。  義理人情を欠いた人間は、全ての美徳から遠ざかることになります。忘八というエ ゴの塊に堕することになるのです。  以前、私は狼の道を明らかにして、人間が野生の狼の具える美徳に遥かに遠く及ば ない現状を憂いましたが、高踏的な神の道をゆく生神様が義理人情をすべてかなぐり 捨ててはどうにもなりません。  生神様は下等な人間の道を歩む必要はないと本気で思っているのですから、自分の なすこと思うことは、全て完璧という高慢な思い込みの虜囚です。万事完璧なのだか ら、反省など用はありません。反省を必要とするのは、下等な衆生である人間であっ て、生神様のやることではないわけです。  反省など絶対にしないのだから、自分の誤りなど絶対に認めません。生神様は完璧 であるがゆえに、過誤は存在してはならないのです。  一度でも自分の過ちを認めたから最後、生神様の座から滑り落ちる、堕地獄が待っ ている。そんな物凄い強迫観念がはっきり透けて見えます。何があろうと自分は絶対 に正しいとする自己正当化にしがみつきます。そして生神様の過誤を気付かせようと する人間は、徹底的に自分の教団から排除します。  反省するのは他人、失敗するのも他人、責任を負うのも他人。嫌なことは生神様か ら徹底的に遠ざけられます。  神の道を歩もうとする人間は、必ずこの恐ろしい陥穽におちこむものなのです。神 の道を、不完全な人間が歩むことはできない、という証拠です。  人の道、とは全ての人間に義務の要請を行います。人間は自らの義務を負わねばな らず、責任を果たさなければならない。他人に自分の尻拭いを押しつけることは許さ れない。自分の不始末は自分の手で処理することを迫られる。自らを絶対の高みに置 き、自らを尊しとする生神様には、人の道の厳正さ厳格さは到底耐えがたいものがあ ります。悪いことは全部他人のせいなのですから。  生神様は他人の諌言を絶対に受け入れません。下等な人間風情が生神様の自分をお こがましくも諌めるなど、決して許せないからです。  しかし、現実に、生神様にとっての窮地は存在するのですから、なんか知らんけど まずいことになったなあ、と感じるほどの感受性は残っているわけです。それは具体 的にいうと、教団組織内部に反逆の火の手が上がったような時で、そんなときは急遽、 自分の側近を集めて、彼らの責任を問います。糾弾されるべきは生神様の自分ではな くて、責任を負うべき立場にある側近なのです。 「お前たちはなんという不忠者ぞろいなのか。なぜこんな重大なる事態になる前に儂 に諌言しなかったのか」  と、生き神様は側近たちを責めたのでした。  実は諌言は行われたのです。それは私自身が試みたことで、生神様が若い信者たち を一同に集め、おのれらはまことに人間の屑、最低の屑であり、夢の島に投棄される べき忌まわしいゴミである。と口をきわめて罵詈雑言を浴びせられた時に、私がその 恐ろしげな諌言というものをやってしまったのです。  やはり人を叱る場合にも、おのずと作法というものがあるべきであろう、やはり慎 まれるべき言葉があるのではあるまいか、と恐る恐る言上した私は、たちまち火の出 るような叱責の嵐を浴びてしまったのでした。 「えい、黙れ黙れ。頭が高い頭が高い。そのほうは深遠なる神の道に暗き無知無学な 下賎の身であるおのれをなんと心得る。我は恐れ多くも生神様なるぞ。控えい控えい」  というわけで、私は身から出た錆とはいえ、自分がハンバーグのパテになったよう な惨めな気分を味わう羽目になったのでした。  私が庇おうとした若者たちは冷ややかで無表情な顔つきをして、私を眺めておりま した。狂信・盲信の極に達した彼らは、自分たちに浴びせられる罵詈雑言をもよろこ んで受け入れる倒錯的な状況に陥っており、生神様の主宰先生にクレームをつけるな ぞ狂気の沙汰という表情で私を見ていたわけです。  あまりにも惨めに叩きつぶされてしまったので、自ら滑稽な戯画化を行わないと耐 えがたいものがあります。生神様のお言葉には、多少潤色があることをお断りしてお かねばなりません。  お断りしておきますが、別に私怨があって、この修羅場の顛末を明らかにしている わけではありません。高度に客観的に事実を把握し、語れるまでに十五年をかけたと いうだけのことなのです。  人の道を歩むことのない、生神様は、その後けろりと自ら生神様と声高らかに宣言 なさったことを忘れたように、啼かず飛ばずで過ごされてきました。転生輪廻を教義 の核心とする先師以来の過去世信仰も捨て去り、もう教団自体が消滅してしまったの ではないか、と思われるほどの雌伏状態を十五年徹底してきたのです。 ――理証文証、現象にしかず、と先師の喝破した霊的現象も屁入り……このワープロ は人をおちょくっています……敝履、つまり要するに履き古した靴のように捨て去っ た、その恐ろしいほどの改革精神には感嘆はしたものの、私自身は時間がたつにつれ て、この生き神様と教団から早めに離脱しておいてよかった、とこっそり腹の中で思っ たものでした。  偉大な先師の解きあかした『宇宙の法』の教義の根幹をあっさり捨て去ってしまっ た生神様は、明白にパワーダウンして、異種格闘技選手権に出場し、世界制覇するど ころか、突っ張り中学生にもケリを入れられて、あっさり泣きを入れそうな雰囲気が 濃厚だったからです。このような不審な傾向を強める生神様を、かつての私は軽信の 極に達して、真の救世主であるという託宣を本気にした一時期があるのですから。そ の挙げ句生き神様の本まで代作してしまった責任は、免れようもないものがあります。             *  その生神様が十五年ぶりに、新作の著書を出版されるということで、やはり話題の 新宗教の大成功に刺激されてのことなのかなあ、とぼんやり考えておりました。  新宗教の『大本教』とさえ呼ばれる老舗が、この十五年間啼かず飛ばずでは、格好 が付かないのかもしれない。  生神様の新刊の著書についてはコメントは避けますが、私にとって困ったことに、 十五年前の私の代作した生神様のご本が、長年の埃を払って再刊されてしまったこと でした。  教団からも版元からも、ついに今に至るも私に対してただの一言も挨拶がなかった のです。再刊が知らされていれば、私の代作した本の裏表紙に私自身が麗々しく、教 祖様をいせいよく持ち上げた推薦文を削るように要請することもできたのですが……  まったくのところ、顔から火が出るような恥ずかしい推薦文です。若気の至りとは いえ、よくあんな恥ずかしい代物を平然として書けた。これぞ盲信・狂信の見本です。  私はまだ教団に本格的に深入りする前で、教団の孕む問題点には無知そのものでし た。生神様が人の道には全く無関心であることも知らず、喜々として、自ら真の救世 主と言い切る生神様のために、一心をなげうつ覚悟で日々、大量の記録を延々と取り つづけていたのでした。  宗教とは皆一つの穴のむじな、新世代の輝かしさに溢れた、新宗教の旗手であるこ の教団もまた、チョウチンアンコウのように偽りの光で無知な小魚である餌食をおび き寄せる貪婪な大口をぱっくり開いた大怪魚であったことに気付くまでに、更に数カ 月間が必要でありました。             平井和正全集44『幻魔大戦7 浄化の時代』巻末企画より - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/05/02 - 01218/01221 GGA02514 KAZE 継続すること (13) 94/05/02 00:02 01214へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >世の中はGWなのだそうですが、…… そう、そういうわけで僕も世の中の慣例にのっかってGWの最中で、 今、また相棒の実家のある向島(尾道のとなり)に来ているところです。 このところ忙しすぎたので、この休暇を利用して、 心の芯の部分を自分なりに見つめ直してみようかと思っています。 それと、ちょっと勉強不足なのもありますので、そのカバーもしたいな、と。 >比嘉さんの本を読み始めていますが、面白いですねぇ(^^)。 そうでしょ、そうでしょ(^^)。 EMということで、もちろんそれはその名のとおり微生物の有効活用なわけですが、 結局、万田酵素でも同じような作用をしてるんじゃないかという気がします。 シュタイナー農法なんかでも、牛の角にその糞をつめて、 長い間土の中に埋めてそれをとりだし希釈して使うのですが、 なんだかそこに共通した要素があるように思われてなりません。 もちろん、こういう「勘」だけで物事を判断するわけにはいきませんが、 こうした酵素関係というのは、大地の働きをある種集約させた働きを するのではないかと思われますので、 そこらへんの観点でもういちどシュタイナーの本を読み直してみようと思います。 EMや万田酵素というのは抗酸化作用や免疫力の増強ということに 深い関係があるようなのですが、結局のところ、そうした「免疫力」というのは いったいどういうことかというあたりがキーになりそうです。 >東さんの本は書泉グランデのどこのコーナーに置いてあるんですか。 僕が見たのは二階のレジの横の方にある精神世界風のコーナーで、 近くにはみれさんの本なんかも置いてあったように記憶しています(^^)。 >問題なのは、みんなと違うという事で、必要以上に外部から干渉される事です。 そうですね、それに耐えるにはものすごい精神力がいります。 多くの場合、「みんなといっしょ」があたりまえになっていて、 干渉する方もその干渉は「正義」だと思っているところがあるから始末が悪い。 もちろん、なんでも「賛成の反対」をするのは単なる天邪鬼のアホだけど、 具体的にいって直接的に特に誰の迷惑にもならない場合でも、 「和を乱す」というような理由で干渉されるのって嫌ですよね。 つまり、「空気」に逆らうっていうことですが。 >「空気」もなごやかな雰囲気という感じであれば結構なのですが、それがひとたび >「排他」や「束縛」になったときは、どうしようもないものとなりますから、心せ >ねばなりません。 今日、山本七平さんとその息子さんの良樹さんとの間の往復書簡 ●山本七平・良樹「東京−ニューヨーク/父と息子の往復書簡」(日本経済新聞社) というのを読み終えたところなのですが、 そこにニューヨーク在住の良樹さんの「アメリカの空気」についての ちょっと興味深い記述がありましたのでご紹介してみましょう。 …アメリカの「空気」とは、日本的な共同体の中で物事がうやむやのうちに 決まってしまうというような「空気」ではなく、上から高圧的に押さえつけ てくる「重水素」のようなものだ。政府が、マス・メディアが、大宣伝をす る。赤狩りの時でも、ヴェトナム戦争の時でもそうだったのだが、そのよう な「空気」の圧力に対して「NO」と言うことが出来なくなってしまうのだ。 「NO」と言えないのは、日本だけのことではない。アメリカ合衆国の内側 に「NOと言えないアメリカ」がある。「米国の利益を守らねばならない」 「厭戦感情を語ってはならない」という「空気」がある。いわゆる反戦思想 の持ち主は、FBIに盗聴され、尾行されることも多い。… ま、ある意味では「非行」とやらを取り締まる学校の先生などというのも これと似たようなもんだといえますが^^;、 些細なことから大きなことまで、そうした「空気の支配」に対して、 常に自覚的であり、しかも常に声を大にして語り続けられるような、 そんな人間でいたいものだと思います。 シュタイナーが薔薇十字的な神秘行に関連して「懐疑」の必要性をいうのも そうした自覚とその実践ということをいったのではないでしょうか。 神秘学的なことを語りながら、そのくせある種の「空気」に対して驚くほど弱い、 つまりすぐに「権威」に対して迎合してしまう方って意外に多いのですが、 そういう者にだけはなりたくないなあと思うのでした。 こうした「権威への迎合」への防御策にも関連してくるかもしれない 「堕落」の防止に関する面白い話が、上記の本のなかにありまして、 僕も常々そう思っていたことでもありますので、 その部分をご紹介してみたいと思います。 これは往復書簡の山本七平さんの部分で、良樹さんが 「金にならないことは何でも教えてくれる立派(?)な父親」と 言ったことへのコメントです。 …人間はカネにならんことを一生懸命やっている限り堕落しないと私は信じて いるのだ。…  しかし、このカネにならない仕事を長期間継続することは、相当の決心と持 続力がいる。問題は「飢え」より安易につきたがる心情だろう。余り自慢には ならないが、ギリシア語と日本語の対訳版、脚注つきの『新約聖書』全十八冊 分の出版が今年は完結する。数えてみると、何と十七年かかっているのだ。  自慢にならないと言ったのはこの「十七年」のことさ。確かに相当に時間が かかる仕事だが、途中で時々、安易な仕事に逃避したことは否定できない。… 僕もカネにならないことばかり一生懸命やってるから^^;、 「堕落」しないで済んでいる(と自分では少なくとも思っている^^;)のかも。 このパソ通だって、こうして継続的にやることに意味があるんだと思うんです。 もしこの神秘学遊戯団が十七年続いて、この「隆ちゃん−KAZE・往復書簡」(^^)も それだけの間続けていけるとしたら、それはそれなりの価値があると思うんです。 でも、考えてみれば、もう1年と8カ月ほどこうして続いてるんですよね(^^)。 >最近ちょっと考えるのは、来世を考えるとき、それは必ずしも物理的な時間感覚に >おける未来ではないかもしれないという事です。 過去世−今世−未来世っていうような過去−現在−未来の物理的時間感覚というのは ある高次の視点では幻なんだろうなと思うことがあります。 もちろん、その「幻」はそれはそれで意味のあるもので、 そういう観点でカルマ的な視点をとることは大切なんだとは思いますが、 時には、永遠の今というか、全ての「今」が永遠を含んでいるというような観点も 大切なのではないかという気もします。 >歴史(ヒストリーという意味。紙に書いた記録という意味ではない)というものは >魂の数だけ実はあって、その歴史が複雑に入り組んでいるのが、今目にしている世 >界かもしれないと、ふと思いました。 別の言い方をすると、視点の数だけの歴史があるということでしょうか。 真実はひとつだけれども、その見方はその見方の数だけあるということ。 そこに個性と「宇宙の法」とでもいうものの関係が表されているのでしょう。 >…魂がどこのどの時代にに受肉するのか、というのは、結構重要な事なのかもしれ >んなぁと思ったのでした。 「どこのどの時代」というのを「場」ととらえるとすれば、 「どこのどの時代」に魂が受肉するというようなものではなくて、 その場をつくりだしているのこそが魂の集合だと思われます。 魂達は常にあるまとまりをつくりながら転生していくといいますが、 時代ごとに場所ごとに大事な学習のテーマがあるのでしょうね。 ですから、僕と隆ちゃんもある課題の修得を 現在お互いこうしてしているということなのでしょう(^^)。 そしてまた来世でもまた新たな課題をもって、 違った関係でお世話になることになりそうです^^;。 ということですから、結局のところ、先の十七年どころか、 もっとずっと長いスパンでの継続が予想されますから、 あせらないで一歩一歩がんばっていきたいものですね。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01219/01221 JCF00616 YUI 世界が光って視えてくる.. (13) 94/05/02 00:46 01213へのコメント RE:#1213  どうも、FLYING Vさん。  ■私の名前は「優位」で〜す  御存じかもしれませんが、私の名前は「優位」です。  まあ、悲しいかな、今までに〈最初から〉Masanoriと発音してくださった方は、  誰一人居ません^^;;  そういえば、このところやけに世界が明るく見えだすと共に、  何だか春の陽気で幸せがいっぱいに成ることが良くあります。  ただ、街中の風景や、一寸した草木に目を止めたり、  風の音(声)を聴くともなしに聴いていると、本当に「生きているんだ」と  感じて、つい顔がほころんでしまいます(*^^*)  いろんなモノに、感謝を忘れないでいると、  自ずと向こうから感謝(愛)が返ってくる、それをしみじみと  実感している毎日なんです。  また、最近瞑想行(?)みたいなモノ、を実践しているんですが、  突然、目を瞑っていても明るい光が顔面に(というか視界全てに)パァーっと  広がることがあったりするのも、内的な変化が私に訪れているとも言えそうです。  とにかく、近ごろは学習面での目標もでき、  今年はなにかと充実した、実りの在る年になりそうです(^^)  皆さんも、今年は何かが変わる、行動となって現れてくる、  そんな感じはしませんか? 〓 YUI ⇔ TANAKA Masanori 〓 01220/01221 PXH01650 英雄 陰陽螺旋 (13) 94/05/02 01:10 やっほ―、KAZEさん、YUIさん、隆さん、そして皆さま、こんにちは! ごぶさたしておりました。 やああああああっと、休みが取れて、わずかではありますが、書き込み に余裕が出たので、お邪魔させて頂きます。とはいえ、そう頻繁に来れ そうもないのですが(^^;。 FLYING Vさん、こちらでもドゾッよろしく(__)。 さって.... それこそ「色んな」話題が飛び交っていて、ほとんどまともなRESが できそうもないので、とりあえず、YUI さんの「時間即エネルギ―」に ついて簡単にコメントしてみませう(^^)。(#01211) 「時間」とは、「変化」によって計られますよね。つまり「変化」がな い所では「時間」がない。とすると、「時間」という実体はないんじゃ ないか、あくまでも便宜的なものじゃないか、とフト思ったりした事が あります。ある波動で別な波動を計った結果を「時間」と呼んでいるの に過ぎないのでは?と思ってしまいます。ううむ、よくわからん(^^;。 DNAが示す、陰陽の二重螺旋は、そのまんま東、もといっ、そのまま 宇宙の基本構造を示しているような気がします。つまり、<精神波動( 陽)>と<物質波動(陰)>とが交差する螺旋が、物質や心の実体像で は?などと捉えています。 :英雄: 01221/01221 NBG00612 岳同 バトゥーラさん、お久し振り (13) 94/05/02 01:20 01205へのコメント ご丁寧にどうも有難うございます。(キョウシュク) 以前、頂いた内容については率直に感銘を受けました。 ちゃんとした返事を書かなきゃと思いながら、どうしようもない毎日でした。 やっと一息付けれて、しみじみこのままでいいのだろうかと自問する時間が 多いです。 数霊の田上先生も来年は大変な年になると予告していますし、これからが正念場 という気持ちの半面、諦めのような割り切れぬ思いもあります。 バトゥーラさんは、着々と来年に向けて、農業関係などの研究をされているようです ね。ご紹介頂いた本も取り寄せてみる積りです。 今まで、モラトリアムで時間の経過に委ねていた課題が、動き出してきたようで、 結論を迫られているような気がしています。 昔から何度か、何かを捨て去る気持ちで、生存意義の危機を感じながら、その都度 成長してきたように思います。あまり良いことだと思わないのですが、仕方ありませ ん。 こういう時こそ、工夫して内なる声を聞く努力をするべきでしょうね。 そういう一体感みたいな時間をもっと生活の中で大切にしなければと感じます。 それが人間の一番ピュアな時間だと思います。そういう時間が最近枯渇している かもしれない。 ひとりごとで済みません。また、メッセージがあれば伝えてください。 それじゃ。 - FARION MES(14):★YHVHの預言解読部屋------------<03> 94/05/02 - 02044/02044 PFH02766 河井 浩美 二木 聡さんへの RES (14) 94/05/01 19:02    もうすでに型示しを体験されているじゃありませんか。 偶然バイクで転倒し、あわや死ぬところであったなど、その最たるものです。 多分この型が出るまでに、もっと小さな型が次々に出ていたはずです。  自分のやることが閉ざされるようなハプニングが次々と起こったり、 物事の流れが順調に流れないときは、それはすでに型なのです。 脅しではありませんが、バイク転倒でも自らの「身欲保身攻撃」に気づかずにいると 次回の型は怪我、つまり『死(霊体の解き)の雛型』に近付いて行きます。  これらの型にいかに早く気づくことが出来るかを「気づきのセンス」といいます。 気をつけていると段々センスは磨かれてきて、その型の中の意味が解るように なってきます。  今今には「解るものだけを取る。」ということに徹してください。 あれやこれやと小理屈をつけないと解らぬものは まだ今のあなたにとっては(もちろん私もなんですが)レベルの高すぎる型なのです。  神の型、つまりメッセージは一象に万象の意味があるので そのまま出たら解らぬが当然。 心配されなくても、神は何度でもレベルを下げた(限定した情報量の少ない)型を 出してくれます。  あなたが解る段階で取れればいいのです。 これはわたし自身がすでに経験していることです。  一番まずいのは、「解らぬ型の取り違え」です。 これは決定的にまずい。更に物事をややこしくして次の型に気づけなくなってしまう。 「型を取るには智は要らぬ、かえって邪魔なだけじゃ。」 (と今言葉が浮かびました。) 気をつけていれば「あっ、そうか!」という感覚で解ってきます。  次にまずいのは、型に迷って「ああだろうか、こうだろうか?」と思い悩むこと。 不安は、それ自体がすでに「身欲保身」から出しものと心得てください。 前にも書きましたが、不安の心理は「自らの身欲を手放すときに起こる感情」のこと。 私たちが「身欲」を捨て自由になっていくことが、神の意思であるということは アリオンも述べているとおり。不安になるなら取らぬが華。  これも前に書きましたけれど、「型に気づくためのHow To」を お伝えしておきますね。火水では『五つの杖』といってます。  1.この世には嬉ししかない。」神はそなた等に「嬉し」しか与えておらぬ。   何故与えた「嬉し」をそのまま取らず、「身欲保身我良し」で   わざわざ「苦」にして取るのじゃ。素直に「嬉し」とお取りくだされよ。  2.今今の中今にしか生きてはおらぬ。   過去も未来も今今そなた等が産んでおるものじゃ。   今今に神の与えた「嬉し」に生きればよいのじゃ。   過ぎ越し苦労、取り越し苦労、ともに「身欲保身我良し」の囚われにて   あるを知りなされ。  3.偶然はない。すべてが必然である。これ今書いた型(メッセージ)ことね。  4.自分のもの(所有物)など何もない。すべては神からの借り物である。   そなた等今まで気づかずにおりてあろうが、自分のものと申すはそなた等が   一切自由に出来る物だけにてあるぞ。お解りあろうがな。   そなた等自ら病なおすことお出来になるか。ならぬであろう。   それどころか自ら今今に病になることすらかなわぬであろうが。   自らの肉身ですら自らの自由に出来ぬものならば、何故自らのもの   あろうと思うのじゃ。   自らのものと思うておるもの、何にて出来ておるか考えたことおありなさるか?   これすべて資源に手を加えたものであることお解りか?   天然資源たる、農、漁、鉱、これらすべてそなた等がおつくりに   なられたものでは無かろうが。すべて神が造りしものなるぞ。   そなた等が致したことは神が無から造りたものに手を加えしものでしか   なかろうが。   5.被害者は誰もいない。すべては加害者のみ。   (仮に被害者があるとすれば、すべてのものの所有者たる元つ神のみである。)   ご自分の物でもないのに被害も何もないでしょうに。   レンタカー借りて傷つけたときの被害者ってだれよ?   レンタカー屋さんでしょ。だからお店が保険掛けてんじゃないの。   これと3.の偶然はないとを考えあわせてごらん?   『苦』が来るには来るだけの意味があるの。   『内にあることが外に来る。』っていうのが型示しの原則。    さらに1.の『嬉し』しかないっていうのを合わせると、   被害者などないっていうの解るよね。 仁木さん、ご自分で型を観れるようになってきたら、アリオンのいう 『宇宙生命潮流』っていうのが解ってきます。 もっと手っとり早く解ろうと思ったら、『一粒の種の営みを見て神を悟れ。』 今すぐ園芸屋さんに行ってプランター買ってきて、 ベランダでもいいですから実の成る種を蒔いてください。 その種が人たるものの型です。理屈言わずに観て取りて下されよ。 相対二元の話はまたね。                - FARION MES(17):★パワフルなえ★の《おふくろ通信》--<01> 94/05/02 - 906/907 PXB01563 おみゃー 白蟻攻撃 (17) 94/05/01 21:06 コメント数:1  なえさん こんにちは。こちらには初めてですがどうぞよろしく。  我が家の台所に羽蟻が大量発生しました。  出窓と柱の Г 字の部分にウジャウジャと、まるでかまきりの子供が  湧き出るようにかたまりになって Г字がP字になっていたんだな これが。  さっそく業者を呼んで見てもらったら、まだ初期症状だから家が壊れるような  ことは無いそうなのでとりあえず安心したのですがビックリしました。  見積りはGW明けにくれるそうだがいったいいくらかかるやら トホホ  我が家は築15年ぐらいかな、その間なんのメンテナンスもしてないからなー  業者によっては坪当り1万円とかって聞いたけど、今回来てもらったところは  うちはそんなに取りませんよって言ってた。  また新しいマシンが遠のいて行くのでありました。(イマダニV30マシンナノダ)  なえさんのお家はちゃんとお手入れしてますか?                               おみゃー 907/907 JBH02324 なえ RE:白蟻攻撃 (17) 94/05/02 15:14 906へのコメント  いらっしゃいませ〜、おみゃーさん。  こちらこそよろしくね。(^-^)  羽蟻ですか?大変ですね。でも、早期発見で良かったですね。  築15年と言えば、そろそろ水回りの痛みが気になる頃では・・。  風呂と台所にトイレ等水の縁が深い所程痛みも酷いので、用心に越  した事はないですね。でも、白蟻でなくて良かった。羽が散乱して  羽蟻は発見が容易ですが、白蟻は気が付いたら手遅れ・・になり易  いとか・・。この最、見えなくても一緒に退治出来るかも知れませ  んね。  わが家も築30年ですが、さすがに田の上に建てただけあって、通  風には事の他気を使ってあり、床下の高さが高い所で1メートル弱あり  ます。おまけに四方の囲みがそれぞれ外れるように作ってあって、  冬は閉めて暖かくし、夏は風を通して湿気がこない様にしてあるの  です。凄い家でしょう。この設計をした人の職人気質?には、ただ  ただ恐れ入るばかりです。  V30 の機械とは、もしかして98 LV22 とか?あたしが始めて触った  のがLV22だったのです。でも、あいつは長く使っていると、そ  の熱でおかしくなって、書き込みしたらディスクエラーするんです。  たく。チェーンが切れたりして大泣き(^^;  でも、最近では安い機械が出回る様になりましたね。先日もコンパ  ックか何処かでウインドゥズ入りの20万台を出したと宣伝してい  ました。あたしの機械はFAだけど高い(;_;)(まぁ仕事用だもんね)