- FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 94/05/10 - 02369/02371 GBG02755 すまる 久しぶりの落書きだい! ( 6) 94/05/09 10:36 拒むことはたやすい。 しかし、拒むことで失うものがある。 すべてを受け入れる必要はないだろう。 だが、悲しみは、受け入れられないことから始まる。 自分の分身が相手にみつからないからと言って、 自分の立場が危ういからと言って、 拒んでしまうことは・・・・・・ 静かに相手をみつめ、相手をわかる努力をする。 少しでも触れ合える部分をみつける努力をする。 それが必要ではないのか。 永遠に解り合えない・・・ それも真実かもしれないが、 いつか解り合えると信じることから始まる何かを私は信じたい。 すべての理不尽、すべての悲しみ・・・ 愛することを私たちは、求めて生きている。 あなたの悲しみを、私に与えなさい。 そのとき、人は結ばれる。                         すまる 02370/02371 HGC02325 ガッチャ うちのミー助はたくましい ( 6) 94/05/10 03:01 コメント数:1   ちびっちゃくて、弱虫だったミー助がたくましくなったという話。     うちのミー助(旧 み〜ニャン)は雄猫で、推定年齢10か月。去年のある日  からうちに居着いちゃった。最初は小さくて「み〜み〜」鳴いていてかわいらし  かったんだけど、次第に大きくなった。     それで、7か月くらいの頃、外で喧嘩しちゃって負けたらしく、口の所に傷付  けて帰ってきた事がある。その時は悲惨な感じで耳はへたっと開いちゃって、シッ  ポは下を向きっぱなし。何かのおびえた感じで、3日くらい外に出ようとともし  ないで寝てばかりいた。     ところが、おとといの日曜日の早朝に、外で猫の喧嘩の音がするから、こっそ  り見に行ってみたら、み〜助が圧倒的な優勢。相手の猫はひっくり返って、フー  フー言っているだけで、既にどこか咬まれちゃってる様子。み〜助は基本姿勢の  ままで余裕の威嚇。     後で家に帰って来ても「何時もの事だよ」って感じ。たくましくなったなぁ。  >み〜助(^_^)                              HGC02325 ガッチャ    そういえば、CHARAN さんちの猫はどうなったんだっけ? 02371/02371 GBA01052 CHARAN RE:うちのミー助はたくましい ( 6) 94/05/10 12:08 02370へのコメント すっかり大きくなったとさ。 - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/05/10 - 02210/02211 GDB00064 オリハル RE:言葉の問題 ( 7) 94/05/09 07:19 02198へのコメント 感覚器官を通じて形成された私の地上的自我は、感覚器官からの情報に左右される。従 って、「ARIONの言葉」という視覚情報によって動揺していた。それによって自ら の本源から離れていた。かつて、感覚器官からの情報に対して意見を持たないという行 を行ったではないか。私と言うエゴが立脚すべきは内なる生命力であります。そうして こそ、自由となり自然に帰れる。本源の存在を単に忘れて外的情報に反応していた。私 の自動制御機構も忘却し始めているのかな。再び意識的訓練が必要かな。私は単に唯一 全能の神だけに立脚です。スブドでオープンを受けたときの誓いの言葉は「私は唯一全 能の神と神の力のみを礼拝し、神以外の如何なるものをも礼拝いたしません」は常に真 である。天使に自我はないのだろうから考慮はしません。ただ、神に添い、人間に添っ た活動には感謝しています。                                  オリハル 02211/02211 PXB05763 セン・シュア セン・シュアよりオリハルへ ( 7) 94/05/10 08:44 #2172  オリハルさん  オリハルさんから頂いたRESの核心部分からは、もう少し自分でも考察を進めてい きたいと思います。今後も示唆すべき点がありましたら、是非是非お伺いしたいと思い ます。 >AとBの選択の時にどちらを選択するかは、私は人間の持つ様々なレベルの力の内、 >どれが強くなっているかによって違った判断になると思います。また、人間に作用す >る力はその「持つ力」だけでなく、「越えた力」も作用してますので、それが人間に >方向を指示しますので、それら力の全体がある方向に向かうのだと思います。高次の >力がより低次の力の方向を左右しますので、結局は、「高次の力の一声」によって人 >間存在の方向が決まってくると思います。つまり、通常、「自分」だと感じている自 >分はドグマだったわけですね。  考えていくための要素をきちんと示してくださるので、非常にありがたいです。  「越えた力」については、あなたから指摘された「高次の力の一声」の他に、「自分」 を隔てた周辺の「自分」のもたらす「調和の作用」があるように感じます。「自分群」 はそれぞれ単独に「高次の力」と結び付いているのではなくて、ある程度集まって全体 として「高次の力」と結び付いていく。まだまだイメージの域を抜け切れない表現で申 し訳ないが、そういう感覚を受けることがあります。  高次の力と低次の力とが結び付いていく作用を「統一の作用」と名付けるとして、こ の作用はどの程度の強制力を持っているのかとか、どの程度の正確さを持っているのか とかを考えてみることにします。 P.S.  私は森が大好きです。森には支配者といえるような動物はいないし、どんな小さな生 き物だって、圧迫されることなく自由に生きている。それでいて、それぞれが森の生態 系の秩序の中で、きちんと自分の果たすべき役割を守っている。何のことやらと思われ るかも知れませんが、オリハルさんにこのことを伝えたかった。       調和・統一・継続・向上・克服・実現・理想・希望の8語を信奉する人                             セン・シュアでした。 - FARION MES(11):★アキラの《平井和正*異界漂流》----<01> 94/05/10 - 447/447 NCD01751 しろおか はじめに現象ありき!! (11) 94/05/09 20:00 カナメさんがUPされた平井和正さんの一連の「暴露発言」を拝読して、私には聊か懸 念を感じることがあります(^ ^;)。 それは、平井さんという人は、精神論とオカルティズムというものを折衷主義的に無批 判に受入れているのではないか?、悟性概念が未分化の侭に完全に盲点と化しているの ではないか?という懸念です。精神主義とオカルティズムの概念は矛盾するのです。オ カルティズムというものは現象論なのです、そこには精神現象すらも客体と化してしま うという事実があります、主体はあくまでもオカルト現象そのものなのです。「はじめ に現象ありき!!」なのです。オカルト現象の渦中にありながら、やれ、反省だの!心行 だの!正法だのと言ってみたところでそれは皮相的な表層意識での認知といった程度に とどまるのではないか?、本質はあくまでも現象論にあると私は考えています。精神主 義・ヌミノ−ゼとオカルティズムは飽く迄も切り放して捉らえるべき概念であると認識 しているのです。 実際。休日の賑やかさを見せる東京の人込みの中で、山手線の電車の中で如何にも楽し げにしている親子連れの光景を見るにつけ、己の異常な立場を痛感させられます。かれ らとは全く次元の異なる世界に幽閉されたかのような倒錯した気分です。私が日頃考え ていることと言えば、明けても暮れてものべつ幕無しに「オカルティズムを現象的に体 系化する」といったことばかりです(哀しすぎるヤツ!!^ ^;)。オカルティズムという 混沌とした暗闇の中では、暗夜の一灯となる道標は「現象学的なロジック」以外に無い という事実を私は知っています。 PS:以上の記述は飽く迄も私個人の近視眼的な視野からの見解であって、「全体性」と いう視野で見渡すなら全く別の結論に到達するのかもしれません。ですが、神の身なら ぬ知る由もない、運命というものは不可知、不可抗力です。高橋信次さんのような伝説 の人でさえ、手形詐欺に遭い、会社を倒産させていますから!(;^ ^;;)詐欺師の方が 一枚上手だったようです。 - FARION MES(12):★SUBUDHの《アジア・チャンプル》----<01> 94/05/10 - 00229/00229 GFB00026 一輝 アジアンコンビニ (12) 94/05/09 20:42  日本にいる不法在留外国人のトップは、タイ人だという。最近では風俗関係 ではなくフツーのタイ人のほうをよく見かける。不法在留外国人の次点には、 中国人と朝鮮人。群馬や埼玉では、まだまだ駅周辺の電話ボックスでよく見か けるイラン人やパキスタン人だが、不況でだんだん数が減ってきたようだ。  北新宿のコンビニでは、商品に中国語や朝鮮語、英語に加えてタイ語での商 品説明が書かれている。以前、新宿育ちの友人に北新宿の某民族専用地下スー パーマーケットに連れて行かれて、うっかり禁制の日本語を出したら、私たち を日本人と気づいた周囲の客たちに一斉に睨まれ、危険を感じて逃げだしたこ とがあった。この街はアジアの匂いで満ちている。夜になると、日本人よりも パワー溢れる東南アジア系の人々のほうが圧倒的に目立つ。  北新宿は、東京で最も国際都市を感じさせる街だ。最近では、アジア各地か らの輸入食品が買える24時間営業のアジア系コンビニエンス・ストアが増え、 ますますアジアの活気を帯びてきている。特に奥が深いのはカンズメ。値段は 日本のコンビニと同程度。現地直輸入のビーフンやラーメン、香辛料が簡単に 手に入るので、私はすっかりアジアンコンビニのファンになった。種類の豊富 なジュース類が美味くて、行くといろいろ買ってしまう。  北新宿に来たばかりのアジア系の人々は、まず電気炊飯器を買い、「こりゃ 便利」と、釜をそのまま鍋にもフライパンにも兼用して使い始めるという。こ この人々は、たくましい。夢や希望がある。  今後は、新宿だけでなく他の都市でも続々と24時間営業のアジア系コンビニ エンス・ストアの開店が出来るだろうと言われている。タイ米にはタイ料理、 中国米には中国料理が一番合っている。これからが楽しみだ。  新宿に来たら通り過ぎないで、一度アジアンコンビニに寄ってみたら面白い だろう。何も買わなくても、アジアの活気は無料で体験可能だ。覇気無い綺麗 なだけの日本式コンビニに比べ、粗削りなパワーに満ちている。                                     一輝 - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/05/10 - 01258/01262 GGA02514 KAZE シュタイナーの色彩論(2) (13) 94/05/09 16:06 シュタイナーの色彩論の第2回目として 「色彩の本質」の中の「色彩体験と四つの像の色」「色彩の像と輝き」、 「色彩の秘密」(イザラ書房)の中の「像の色と輝きの色」から、 振動としての抽象的な色彩ではなく、体験としての色彩について。 シュタイナーは、「緑」「桃色」「白または光」「黒」を像の色、または影の色、 それに対して、「青」「黄」「赤」を輝きの色、影のような像から輝き出る色、 としている。 まず、「像の色」について。 たとえば植物の「緑」の色。 シュタイナーは、その色が「生命の死せる像」を表しているという。 それは肖像画に描かれた先祖が先祖そのものでは決してないようなもの。 今見ている緑の中には、植物の像だけがあって、 植物の本質を見ているわけではない。 植物の本質とは、生命であり、その緑の色はその像である。 このように、色彩の世界は現実の世界ではなく、像であり、 それが生命の像、魂の像、霊の像、死の像となる。 さまざまな自然界、死の世界と生命の世界と魂の世界と霊の世界とをとりあげ るとき、ちょうど私が死から生へ、生から魂へ、魂から霊へと昇るように、黒 から緑へ、桃色へ、白へと昇っていきます。私が死から生を通って、魂と霊の 世界へ昇っていけるように、私が私を取りまく周囲の世界の中で、黒から緑へ、 桃色へ、白へと昇るとき、私は私を取りまく周囲の世界を像として見いだすの です。……私はいろいろな現実世界の中でその現実世界を辿っていけます。そ して自然は私にこれらの現実世界の像をも与えてくれます。自然はこれらの現 実世界を像に変えます。色彩の世界は現実の世界ではありません。色彩の世界 は自然そのものの中でさえも像なのです。死の像は黒です。生の像は緑です。 魂の像は桃色です。そして霊の像は白です。  このことによって私たちは色彩の客観的世界の中に導かれます。色彩の本性、 色彩の本質の中に入っていけるには、このことを前提にしなければなりません。 色彩が主観的な印象に過ぎない、と述べるだけでは何の役にも立たないのです。                   (「色彩の本質」(イザラ書房)より) 「桃色」「緑」「黒」「白」という色彩は「像」であり、 世界の中で「像」の性格をとって存在している。 そしてそれらの色には次のような図式が成り立つ。 ●緑/生の死せる像を表す ●桃色/魂の生きた像を表す ●白または光/霊の魂的な像を表す ●黒/死の霊的な像を表す そしてこの図式を円に置き換えると、 色彩の客観的本質についての上記の色の相互連関を見ることができる。 (「死−生命−魂−霊」、「死の霊的な像」〜「魂の霊的な像」、  そして「黒」〜「白」というのを円環としてみてください^^;) ----------------------------------------------------------------------                 死               死の霊的な像                 黒 霊   魂の霊的な像  白        緑  生の死せる像  生命                桃 色               魂の生きた像                 魂 ----------------------------------------------------------------------- また、これらの4つの色が像として現れるとき、 その「影を投げるもの」と「輝くもの」とを区別しなければならない。 影を投げるものが霊であれば、その霊は自分に向かって投げかけられるものを 受け取ります。そして輝くものが死であれば……、その場合には既にみたよう に、霊の中に死の像として、黒が生じます。影を投げるものが死であれば、そ して輝くものが植物のような生あるものであれば、緑が生じます。影を投げる ものが生きたものであり。輝くものが魂であれば、像として桃色が生じます。 影を投げるものが魂で、輝くものが霊であれば、像として白が生じます。                   (「色彩の本質」(イザラ書房)より) つまり、「影を投げるもの」と「輝くもの」と「像」との関係は、次のようになる。 <影を投げるもの>  <輝くもの>  <像>     霊        死      黒色     死        生      緑色     生        魂      桃色     魂        霊      白色 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01259/01262 GGA02514 KAZE シュタイナーの色彩論(3) (13) 94/05/09 16:07 続いて、「輝きの色」である「青」「黄」「赤」について。 「青」「黄」「赤」は「輝く」という性格をもち、そのなかで何かが光輝く。 それらの色は本質的なものの外側であって、 「像」をもつ色とは反対の性格をもっている。 「輝き」というのは、本質がそれによってみずからを外へと表すもので、 それらの色はみずからの内に輝く性質をもっているのである。 では、それらの色はどういう「輝き」をもっているのだろうか。 黄は外へ輝き、青は内へ輝き(輝きが内へ集まり)、そして赤は両者を中和し て、一様に輝きます。この一様に輝くものを、運動する白と黒の中へ輝かせる と桃色が生じます。静止した白の方へ、一方では黄と他方では青とを照射させ ますと、緑が生じます。                    (「色彩の本質」(イザラ書房)) さて、物理学ではこうした色彩を、 「赤」「橙」「黄」「緑」「青」「藍」「紫」というように、 単純に色を順番に並べているだけだけれども、そういうふうに並べるだけでは、 色相互の働きあいについて考慮したいることにはならない。 色相互の運動とでもいうことを考えなければならないのである。 つまり、それを「円環」として、次のように、 上下に像の色、左右に輝きの色を記して、記すことができる。 --------------------------------------------------             黒           <像の色>            桃 色          赤     紫   <輝き> 橙    ↑    藍 <輝き>          黄     青             緑           <像の色>             白 -------------------------------------------------- もし私が今、白から初めて、(下から上へ)上っていくなら、その白は緑の 中に入り込むでしょう。それから(上から下へ)黒がこの白に向かい合い、 そして互いに引っ張り合います。そしてそこに、赤い輝き(緋色)が加わっ て、桃色を作り出します。このように白と黒とは、互いに掴み合い、働き合 う色として考えなければなりません。                    (「色彩の本質」(イザラ書房)) さて、再び「輝きの色」に話を戻すと、 その「輝き」とはいったい何が輝くのかという疑問が起こってくるが、 それは次のようにいうことができる。 ●「黄」は、「霊の輝き」 ●「青」は、「魂の輝き」 ●「赤」は、「生命の輝き」 黄色は私たちを快活にします。快活であるというのは、魂を大きな生命力で 充たすことです。ですから黄色によって、私たちは私たちの自我によりふさ わしくなるのです。別な言葉でいえば、私たちはより霊化されるのです。黄 色の根源的本性は外へ向かって拡がり、薄れていきます。その輝きが今、皆 さんの内部へ向けて輝くのです。それが皆さんの内部で霊として輝くとき、 「黄色は霊の輝きの色である」、と皆さんは言うでしょう。青色は内的に集 中し、鬱積し、内的に持続します。それは魂の輝きです。赤色は空間を一様 に満たし、中心を保持します。それは生命の輝きです。                    (「色彩の本質」(イザラ書房)) さて、ここでこの「輝きの色」と「像の色」と比べてみることにする。 「緑」は「生命の像」であった。 それに対して、「生命の輝き」である。 白い画面上の赤い色を見つめ、その赤を急に取り去るとしよう。 そうするとその画面上には、残像として「緑」が見える。 赤が見る者の中へ輝き入り、その像を見る者の内につくりだしたのである。 つまり、生命の像を作り出すために、それを殺さねばならないということである。 「輝きの色」は能動的な性格をもち、 「像の色」は 受動的な性格をもつということができる。 色彩について体験しようとするなら、色彩世界の中にとどまり、 色相互の関係について、輝くものやその影を見なければならない。 いかに世界は桃色、緑、黒、白という像の色彩と、像の色にそれぞれ相応し た啓示の輝きを与える赤、黄、青の輝きの色彩から成り立っているかを感じ とると、わたしたちは色彩のなかに生き、感情によって色彩を理解します。 このようにして、色彩の世界の輝きと形象のなかに生きると、内的に、魂か ら画家になります。色彩とともに生きることを学ぶからです。  個々の色がわたしたちに、なにを語ろうとしているかを感じとれるように なります。                      (「色彩の秘密」イザラ書房) こういう視点を持って、ルネサンスの絵画などを鑑賞するときに、 こうした忘れられた色彩宇宙の余韻がその中に生きていたのがわかる。 赤は近づき、青は遠ざかるという色彩遠近法、内的遠近法なども、 まだその時代には生きていたのである。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01260/01262 GGA02514 KAZE 風遊戯35●もうひとりのあなたと (13) 94/05/09 16:57 怒らないで なぜそんなにひとを責めるの それはほんとうは自分を責めてるだけ しっかり見て そうしなければ あなたの中の暗闇は けっしてけっしてなくならない 暗闇をひとのなかにあると見るのではなく 自分のなかにあるのだと思いなさい あなたはずっとずっと避けてきたのです 自分の中の暗闇を見るのを避けてきたのです 泣かないで 泣かないで あなたの中のもうひとりのあなたが ようやく育ちはじめているだけなのだから これまで泣くことさえ禁じられていたのですから 許してあげなさい はげましてあげなさい やさしく光を投げかけてあげるのです もうひとりのあなたに これまで封じ込められていたもうひとりのあなたに ほら あなたはもうこれまでのあなたじゃない 怒ることでごまかしてきたあなたじゃない そうして あなたともうひとりのあなたがあわさって 新しいあなたがそこにいる 01262/01262 JCF00616 YUI ⇔ 優位 東理論第3部の読書会 1) (13) 94/05/09 23:11 【5月第2週/第1回目の読書会】−ペアレント発言  では、早速、東理論第3部の読書会を開催したいと思います。  まず、今週は最初の区切りである1)-3) について行います。  私は取り敢えず、重要だと思われる点について  感想、その他の説明をしたいと思います。  なお、引用箇所についてはテキストからの抜粋とします。  (※テキスト:『アインシュタインの悩みとファインマンの悩みの解消に向けて』技術出版)  ■1)物理学者による相対論の易しい例え  P.5/L18〜L25  ここに挙げられている、  ニュートン時間の哲学的思索を不要とした  相対論の基本的な考え方は大変重要だと思います。   1−移動距離   2−経過時間   3−速度  の3つの要素が、それぞれの〈実体〉を問い詰めることなく  お互いの〈関係〉によって、定義付けられることは、  〈実体〉を突き詰めようとする解決不能の問題が必要の無いことを示しています。  僕の例えを使えば、  「ここに右がある」→「右とは何か?」  「ここに右がある」→「左との関係で”右”というのである」  というのと同じだと思います。  ところで著者は、P.6 の前半部分で、相対論の「不可解さ」について、  相対論の核心部分がこの3つの要素の〈関係式〉にある、と述べて在り、  後々に重要になる部分なのでしょう。  よって、ここからの東理論の発展は、   1−観測の対象に〈主体性〉を取り入れる。   2−観測者の観測のプロセスを記述する。  が中心となり、その〈対象側〉と〈観測側〉との関係が  重要になります。  〜〜〜〜〜〜〜  P.7/L7〜L30(日系ブラジル人の例)  ここでの日系ブラジル人をとった例の結論は、  P.7/L31〜L32 の僅か2行に凝縮されています。  つまり、   1−日系人(=人間)に主体を置いた場合   2−光(=光子)に主体を置いた場合  との間には、『同時』/『同時ではない』という区別があるというのです。  確かに、私が光速度で地球を一周したら、”さっき”と”今”は同時である  というでしょう。  同じように、私が光子だったら、ブラジルにいる時と桜島にいる時の  区別ぐらいはつくのだと思います。  〜〜〜〜〜〜〜  さて、P.8 に入ると、「解決不能の問題」が潜んでいるとの指摘があります。  さらにP.9 へ進むと、2つの例題で疑問が生じ、これを解決する事が  できなければ、「相対性理論」の理解に不具合が出るようです。  ここで、P.8/L8 からの説明をまとめます。  【 時 制 】 (過去)─────(現在)─────(未来)  【 場 所 】 ブラジル      桜島      ブラジル  【経過時間】   |←  t1  →|←  t2  →|  〈疑問〉  1.日系ブラジル人が桜島の爆発と同時に出発すると、    (図2の)上半円を→方向に進む爆発の映像には、    列車は追い付けない。  2.また、同様に、下半円を桜島から→方向に進む爆発の映像は    丁度半円の中点で、列車と衝突する。  3.爆破と同時に桜島から列車が出発した時は、    映像も一緒に出発するので、爆破(出発)時の噴火の状態を    列車の中の観測者(=日系ブラジル人)は見続ける。  〜〜〜〜〜〜〜  それ以降の展開については、  後に出て来る「転がる時計」のモデルが具体的にイメージできるようになると  大変理解し易いので、4)以降と合わせて読まれると、  いっそう解り易いものになると思います。  最後に、ここで提起された問題点は、  〈東理論と従来の物理学との原則的な理解の違い〉です。  つまり何らかの考え方に対して、東理論と物理学とでは理解の仕方が異なる、  といっているワケですが、それは即ち  『同時ととるか』/『同時ととらないか』 という問題の答えが、  東理論と物理学とでは違っている、ということを意味しています。  東理論ではこの問題を、〈上位・下位の大きさの違う時計〉として  厳密に区別するのに対して、  従来の物理学ではP.8 の上半分に見られるとおり、人間の時間感覚の感度の  悪さを理由として、曖昧にぼかしてしまうのです。  →つまり東理論では、主体側(=観測者側)の視点を、厳密に   区別する、という訳です。  この考え方は東理論の観測問題に関する大切な考え方ですから、  この部分を充分に理解している事は重要な事です。  ただ、4)の東理論の時計のモデルでハッキリとイメージできますので、  ここでは取り敢えず、前述のパラグラフの部分を押えておきたいものです。 〓 YUI ⇔ TANAKA Masanori 〓   May Peace Prevail On Earth    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 94/05/10 - 553/553 GFD00204 松川 貴     新聞秘密警察論 (15) 94/05/10 11:24   「南京大虐殺はでっち上げだと思う」などと発言した永野茂門法相が辞任  した。〈当然とはいえ〉、何ともやりきれなさが残る。傷だらけでスタート  したばかりの羽田政権は、発足から十日で、〈さらにいやしがたい深手を負  ってしまった〉。(中略)   〈永野発言の罪深さ〉は昨日の社説でも指摘したが、問題は〈中国の神経  を逆なでした〉南京大虐殺の評価にとどまらない。太平洋戦争の侵略性を過  少評価し、従軍慰安婦問題では〈韓国の心を深く傷つけた〉。  (5月8日付け『朝日新聞』社説)〔注:〈 〉は松川による〕  これは、人間の本当の感情の深みというものを知らず、平板な感情世界のみをすべ てだと考えている小学校の教師が──さらに後ろに引いて俯瞰すれば、彼らは前回書 いた通り〈日本の馬鹿息子たち〉ですが──誰かが〈悪さ〉をしたので、「してやっ たり」とばかりにそれを例に挙げ、自分の教室にいる他の生徒たちに向かって「いい ですか、今後このようなことがあってはいけませんよ」と説教を垂れている図です。 その教師が自分の担当している子供たちに説教を垂れる理由は、「そのような発言は 相手の神経を逆撫でし、相手の心を深く傷つけるから」だそうです。このような〈も の言い〉は何かと似ています。──そうです、〈彼ら〉は〈反差別(語)運動〉でも これとまったく同じような論法を使って話しています。  〈彼ら〉にとっては〈真実(本当の正義)の追究〉──それは子供たちの前で説教 を垂れる〈教師自身〉の魂の深みへの遡及をも要求します──なんぞどうでもいいん ですよ。彼らは「同じ言葉を何度も繰り返していれば、それが真実になる」というナ チスばりの論法でぐいぐい押してゆくばかりです。現代のみごとな宣伝ファシズム要 員たちじゃあないですか。  今回の毎日新聞の〈おとり捜査〉は実にみごとなものでした。今回の騒動は〈製造 された事件〉ですよ。新聞屋は〈事件を製造する〉のが得意ですから。私には、今回 の〈事件〉は、永野さんが毎日新聞の社員の誘導尋問にみごとに引っかけられたとい う図に見えます。(永野さんがあれをぽろっとやったのを聞いたとき、毎日新聞の社 員は内心「やったぜ、こりゃあきっと大きなニュースになる!」と小躍りしたはずで す。)  以後、毎日新聞社員の報告を受けての、他新聞・テレビの連携プレー、そして〈国 民へ向けての〉毎度の「同じ言葉の繰り返し」、みごとな〈言論ファシズム体制〉で す。  彼らは超法規的な人事権を持っています。彼らは本当は〈国民〉の名前など背負っ て仕事をしているんじゃあないんですよ。ただ戦後体制の維持のために〈国民〉の名 前を利用しているだけです。今回もまた〈彼ら〉が──少々飛び上がりの〈国民〉か らちょっと脅されりゃあ、泡を吹いて「言論の自由」を叫び出す〈彼ら〉自身が── 「日本には本当の言論の自由などないのだ」ということを証明してくれましたよ。  〈彼ら〉は、日本の恐るべき〈私設裁判官たち〉です。  朝日新聞の編集委員の石川真澄氏は「過去への訣別急ぐ罪」と題してこのようなこ とを書いています。   法相の放言は、細川護煕前首相の中国、韓国などへの謝罪発言の後だった  だけにかえって深刻だ。(5月7日付け『朝日新聞』)  誰が事態を〈さらに深刻〉にしたのか──〈彼ら〉放火魔に決まっているじゃあな いですか。〈彼ら〉はいけしゃあしゃあとこんなことまで言っています。(前出)  羽田政権は、発足から十日で、〈さらにいやしがたい深手を負ってしまった〉  マッチポンプたあこのことですよ。まさしく『マスコミ亡国論』(西部邁)──火 付け人たちが今日まで一貫して行ってきた〈小細工〉で、いずれ日本は本物の天火で 焼かれるか、それは神のみぞ知るですよ。                                   松川 貴 - FARION MES(18):★あもりの二人三脚ネットワーク------<01> 94/05/10 - 00958/00961 HGE02116 MAKOTO ちょい、一休み(*^_^*) (18) 94/05/09 22:07 00882へのコメント うまく言葉にならない部分があるの。 はっきりしたイメージとして捉えられない部分も… それは、ほんとうに漠然としたもので、ただそこに「ある」ってもの… それを、はっきりさせたいなって思う… あたしはよく「わからない」って書くよね。 「頭でわかってるだけ」って言葉もよく使う。 でも、こんな言葉を使うからといって、何一つとしてわからないってわけじゃない。 多分こうだろうな。こんな事じゃないのかな。 そんなものもあるんだよ。いつだって、あたしの中にね。 ただ、あたしはそれに満足してないってだけなんだ… 今のあたしには、これだけしかわかんない、これだけしか理解できない。 でも、わかったって思ってるこれは、本当にわかっているのか? もっと別の捉え方があるんじゃないかな? もっともっと、深めていく事ができるんじゃないか…? そんな感じなのよねぇ… これって、あたしの「欲求」っていうか、「とらわれ」の一つなんだ…(^^;) 心の揺らぎを鎮めて、安定したいって気持ちは強いよ。 揺らいでる限り、安定はしない。 安定しないと、ずっと不安を抱えこんでなきりゃならない… これって、実際、疲れるよ… こうって結論だしちゃうより、はるかに疲れるよ。 でも、揺らがなきゃいいにっていくら思っても、思い通りにはいかない。 その原因は、揺らぎが必要だと思ってる部分が、あたしの中にあるからみたいだ… あたしが揺らいでる時って、今の状態に満足してない時、 何かに引っかかりを感じた時、何かがわかりそうでわからなくて、もどかしい時… 迷ってる時もそうだな。そして、哀しい時、寂しい時、辛い時… あたしの揺らぎって、感情や、感覚や、そんなものにふか〜く結び付いてる。 そうだなぁ、生きているから揺らぐのかも知れないな…(^^;) 揺らがなければ、安心していられるかもなって思うよ。 傷を傷とも感じないで、疑問を疑問とも思わないで、今に満足して… でも、それがなんだと言うの? 揺らぎが少なければ少ないほど、平穏な気持ちでいられるだろうね。 心も騒がずにいられるだろう… でも、本当にそれでいいの? 揺らいでる時って、あたしにとっては、知らない自分を見つけるチャンスなんだ。 今まで、意識さえしたことのなかった部分に、光を投げかけるチャンスでもある。 あたし、そんな風に思ってるの。 だから、揺らぎを揺らぎとして、抱え込んじゃうんだよね。 納得するまでね… そして、揺らぐ切っ掛けは、どこにでも転がっているんだよね。 人の中にも、ものの中にも、状況の中にも、それこそまわり中に転がってる。 で、その中の何を拾い上げるかは、感覚任せなんだよなぁ… で、今も幾つかの揺らぎが、あたしの中で渦巻いてるんだ…                          MAKOTO でした☆ 00959/00961 QFH02012 アラミス RE:2年目 (18) 94/05/10 00:02 00944へのコメント  YAHATAさん、 >>「○○について××という意見があるが私はそれについてこう思った」でも… >>いいのですね? もちろんそれで問題無いでしょう(^^;) ところで、YAHATAさんは「自分の言葉」が出て来なくて苦しいと言いますが、 あなたが壁に書いている会社や仕事、彼女の話・・・あれは自分の思いを率直に 自分の言葉で書いているのではありませんか?私はあれを読む度に(内容はと もかくとして)自分の中でそれなりに触発されるモノが有るのですよ。 ちゃんと自分の言葉で書いているじゃないですか、YAHATAさん。 00961/00961 HGC02325 ガッチャ RE:#932へ(長いですよぉ) (18) 94/05/10 02:13 00947へのコメント  # 00947 MAKOTO さん     例えばMAKOTOさんのように、自分内部で出る答えを信用出来ないとする姿勢の  人であるなら、私の言う事を「そのような納得の仕方をしている」と受けとる事  でしょう。さらには、「納得出来る形への当てはめで安心」「簡単に判断して終  わらせる」と感じる足掛かりになる事でしょう。また、そう考えるのも仕方のな  い事なのです。     そもそも、この(MAKOTOさんの言う自己完結)姿勢の部分が根本的に違う事は  これまでの会話の中で明確ではないですか。私が以前書いた「自己完結」につい  ての、MAKOTOさんと意見の違いはどうなったのでしょう。  この根本的な違いについての反論を具体的に、「それではこのような罠に陥りや  すい」あるいは「矛盾がある」と意見を聞かせて頂けなければ、双方の言う「自  分を観る事」に付いての違いは、少しも明確にならないのではないでしょうか。    |あなたには信じられないだろうけど、あなたの書いた程度の事はやってるよ。  |そして、それでも納得がいかないから、こうして書き続けているんだ。  |いくら自分を見つめても、感じた「なぜ?」に結果がでる訳ではないし、  |納得するわけでもない。  |あたしの中の、どこら辺りに引っかかっているかって事はわかるけどね。  |そして、自分の中のみの問題なら、自分の中で決着がつくだろうが、  |「なぜ?」は、外にあるんだからね。  |それを強引に自分の中だけで終らせてしまう事が、正しい態度だろうか?     私が前回書いた程度の事は行っているとの事ですから、どこに納得がいかない  のか?それは何故なのか?という事にも気が付いている訳ですね。それならば、  さらに詳しい話をしやすいです。    |例えば、人の書込みに対する感想から「自分を観る事」をする場合。  |  |1、ある人の書込みに妙な物を感じた。  |  ↓  |2、何を感じたか?を正確に観る。  |  ↓  |3、「**」を感じたと解る。  |  ↓  |4、何故「**」を感じたのか?に付いて自分の内面を観る。  | ・それまでの、その書込みをした人についての印象。何らかの先入観があるな  |  らば、それに付いての自分内面の理由。  | ・感じた「**」に付いての自分が持っている考えとその理由。  | (ここでの全ての理由には「相手がこうだから」という事は当てはめないのが  | 肝心です。人のせいにしては勘違いにしかなりません)。     ここでMAKOTOさんは4の部分で出た答えに「納得がいかない」との事。その理  由として「いくら自分を見つめても、感じた「なぜ?」に結果がでる訳ではない  し、納得するわけでもない」と考えている訳ですね。     MAKOTOさんが何にどういう答えと理由が出て納得がいかないのか解りませんか  ら、ここでは、その理由の部分に付いて述べてみます。     「何故?」を感じない書込みもある訳ですから、「何故?」を感じた自分には  何らかの理由が存在しているのは確かな事です。ですから「どうして感じたのか」  という事、その理由を観る事が第一にある事だと思います。   書込みをした人と「何故」を感じた自分とのどちらかに問題がある(あるいは、  どちらかが正しい)という判断がしたい気持ちがあったとしたら、うまく観る事  は出来ません。相手の言葉から受ける印象や先入観が目に付いて、「どちらが正  しい意見なのか?」という事にばかり注意が行きやすいですから。ですから、そ  ういう事を一旦脇に置いておかないと、うまく観れない(あるいは観ようとしな  い)訳です。     そして観ると、取りあえず何らかの答えが出る訳ですが、ここで焦って必ず答  えを出そうとか、無理に答えを出そうとかしても勘違いにはまりやすいです。そ  こで出た答えは自分の答えですし、そういう意味では自分勝手な答えである事は  確かです。この部分がMAKOTOさんが言う「納得できない」部分なのかもしれませ  ん。そこで、以前の発言で私が言った「腑に落ちる」という事を当てはめてみれ  ば良いと思う訳です。但し、ここでの「腑に落ちる」は自分で出した答えに対し  ての事です。またここでは、「こういう答えを見つけたのだけど、どう思う?」  と、信頼出来る人に聞いてみるのも良い事だと思います。   さらに先が長いのは、ここで出た答えは絶対ではないという事なのです。あく  までもその時点での答えにしかならないという事。その答えも「過程」なんです。  ようするに「過程」の確認を行っているに過ぎない事なのです。   こう言うと、「完全じゃない答えを得る為にするのでは意味が無いのでは?」  と感じるかもしれませんが、重要なのはあくまでも「その時点での認識を行う」  という事なのです。     さて、ここまで観ても、最初に脇に置いておいた物がある限り、殆どの場合に  は納得がいかないでしょう。そうしたら、今度はその理由を観てみます。「何に  対して納得がいかないのか」という事です。これに付いても「何が納得出来ない  のか」とその理由まで、「相手がこうだから」という事ではなく観ないと何も解  りません。     強引に自分の中だけで終らせてしまうのではなくて、観れば自分の中の事だけ  は自然に終わってしまうという感じです。つまり自然体でいれるという事ですね。  これは、「こうしてはいけない」「ああしなければいけない」というかせを外し  た自分を認めてあげるという事の、副産物みたいな物です。    ※ありのままに見る     私は解らないのではなくて、以下のように思います。     自分の基準を当てはめないで見る事は可能なのでしょうか?という事。     常に何をするにも自分の基準(制御も抑制も解放も含めて)で行動しているの  は当たり前の事ですね。そんな自分の状態を正確に認識出来ていなくて、どうし  て人を「ありのまま」に見る事が出来るのでしょうか。私は人を「ありのままに  見る」という事は、自然体で見るという事だと思います。     自分の基準を当てはめて見て、違っていたら訂正すれば良いではないですか。  重要なのは間違いに気が付きそれを訂正するする事だと思います。自分の相手へ  の認識に疑問を持ち続けている事ではないと思います。    ※書くことで確認     文にして書く事で確認出来る事は多くあります。それを会議室で行う事に付い  てはどう考えているのでしょう? 人の発言がどう見えるのかという事でそれを  行った場合にはどうなのでしょう? 言葉だけの会議室で「言いたい放題」と「  真面目な感想」の区別をどうしたら出来るのですか? 議長になったつもりで考  えてみて下さい。     私は、文を書く事で確認する事は、書かなくても個別にそれぞれで行う事では  ないかと思います。それが相手への礼儀だと思うのですが。     私宛てに関しては良いとして、他の人宛てには「ふり返りシリーズ」のような  事はしない方が良いと思います。ご自分でも「言いたい放題」「禁止用語すれす  れ」「相手をおとしめるような言葉を平気で使う」と認識しているのですからね。  人によっては誹謗中傷と受けとる人もいるでしょうから。そんな事になったら、  どうやってMAKOTOさんを守ったら良いのでしょう? 負担は全てSYSOPにかかる  のですよ。    ※第三者のガッチャ     これは存在しません。第三者で考える事は厳密に言えば不可能でしょう。です  から、#992(#932ですよね)に書いたような事は、即していると考えて  いるとしか言えません。    ※引っかかり     正確に言えば「ガッチャにRESが付いている」という事ですね。それ以外で  も私の名前が出ている発言で、RESしたい場合は発言しますが、RESしなかっ  たからといって、無視している訳ではありません。つまり、私の中ではMAKOTOさ  んの言う「引っかかり」と、実際にRESをするという事には関わりが無いとい  う事です。私は、MAKOTOさんの発言へのRESへは、集中出来る時間があれば、  その時に文を書いているだけです。    ※最後に    |あなたの言う「このフォーラムに適した自分を観る」だけど、  |自分の中で何らかの結果が出なければ何も書いてはいけないって風に、  |解釈していいのかな? 疑問を疑問として口にするべきではないって風  |に、判断していいのかな?     私が言っているのは、MAKOTOさんの「自分を観る事」(=ふり返りシリーズ)  と私の意見との違いに付いてです。から、上の解釈は全く違います。     「自分を観る事」に興味があるなら、何の答えが無くても発言して良いに決まっ  ているじゃありませんか。これとは別に「自分を観る事とはどういう事なのだろ  う」「どうやって観るのだろう」という話はするべき事だと思います。当然、そ  の中では「それは自分を観る事ではおかしい」などの疑問も出るでしょう。それ  はそれで良い事ではないでしょうか?     疑問は最初にあってそれを会議室に書く。それは、それで何も否定する事では  ありません。そこで、さらに会話を続けて、相手の言う事が解るのにさらに疑問  を出す、あるいは誰が見ても当たり前の事を言う、という事は何を意味している  と思いますか? 私は、それを「話題の転換」や「開き直り」と言うと思います。       「何が勘違いなのか?ガッチャの言う自分を観る事とは何なのか?」という事  で、MAKOTOさんに納得出来るようなRESを書いたのですが、それが「自分の土  俵に持ち込んで相撲を取うとしているように見える」とは意外です。     言い忘れていましたが、私の言うこのフォーラムの趣旨に沿った「自分を観る  事」とは、このフォーラム(前身も含めて)で今まで行われてきた「自分を観る  事」の自分なりの解釈です。     私の言う事におかしな点があるなら「こう見える」という感想ではなくて、「  これこれこうだからこの点においておかしい」と言って貰わないと、話が前に進  みません。     今回のMAKOTOさんのRESは感想を書く事だけをしているのですか? 私の投  げかけた質問に対しての答えは無いのでしょうか? そうであるなら「相手がこ  う見える」という話にしかならないと思います。                              HGC02325 ガッチャ - FARION MES(20):■世紀末ウォッチ:これって…!?----<01> 94/05/10 - 575/577 GDB00064 オリハル RE:ネットワークを断ち切ろうとする力 (20) 94/05/09 07:20 574へのコメント コメント数:2 はっきりしていただき、ありがとうございます。私は危ないのだろうと思いますが、外 から自分を眺める訳にも行かず、どんな感じなのか分りません。どのように危ないのか も分りません。ただ、区別が希薄なのは言えると思います。まあ、自分でそのようにし たのですが。言ってみれば、内も外もないし、知ってる人も知らない人もないという感 じです。私はスブドで福祉部を担当しているときに私にとりついてた人が例のごとく、 周囲に人がいないという状況を選んで「人を助けようなどとは傲慢だ」と突然面と向か って言った。そういう風に計画的にポイントを押さえた行動をするタイプの人がいたの です。こんな程度が「喧嘩を云々」という程度だと私は思いますので。ただ、CHARANさ んの、その補足はとても効果的で一時的プッツン状態は起らず、何事もなかったかのよ うに過ぎました。これには大変に感謝いたしております。という言葉に深い意味は実は 無いのですが(ワリーワリー)、裏思考を制御する補足の言葉がとても効率的に働いた例だと 思うのですが、なぜこんなことをタイプしてるのかといいますと、オリハル節が褒めら れたと思ってその部分が活性化しているのですね。ただ、「アブナイ」に関しての私の 考え方は、「実は皆そうであった」という事です。だから言葉にしても全く大丈夫だと 思うのですが、何故か人はそういう内面を言葉にしないんですね。今度、私にチャラン ポラン教の真髄を教えて下さい。(すぐに核心へ至ろうとする>自分)                                 オリハル 577/577 GBA01052 CHARAN RE:ネットワークを断ち切ろうとする力 (20) 94/05/10 12:18 575へのコメント オリハル節の活性化には、一抹の不安があったりしますが・・・(笑)。 以前ちょうど同じようなオリハルさんの書き込みがあった時、 私は「しよーもねぇこと言ってんじゃねぇよ」と反応したのですが、 今回の書き込みには何故かそういう気分は全く起きず、 むしろ読みながらニッコリ微笑んでしまった。 でそれは、もしかすると私自身が「危なくなって」きたのかも?と 勘繰ってみたりしたわけです。 まぁ、私も危ない云々はとりあえず置いて、オリハルさんの側に その因を求めてみる(オリハルは変わったのか?)というアプローチを 試みてみますが、 以前のオリハル節には、『「人を助けようなどとは傲慢だ」と突然面と向かって』 言いたくなるような「何か」があったのではないか? そしてその「何か」が今回の書き込みには落ちているのではないか? と考えるのもそう無理がないという気がします。 他の方がどう思っているかは知りませんし、私は超「斜め読み」の人ですから、 それらしき部品を眺めて無茶な仮説をブッ建てているのかも知れませんので それほど当てにされても困りますが・・・ とまぁ、どうかすれば失礼スレスレの表現になってしまいましたが、 オリハルさんもなかなかに面白い人ではないか、というフォローの一言で そのあたりはご容赦を。