- FARION MES( 2):【居酒屋1999】自己紹介・雑談--------<09> 94/05/16 - 02158/02158 SDI00635 みれ RE:本の感想のUP、遅れそうです ( 2) 94/05/15 23:58 02128へのコメント  #02128 めのう さん  またまたRESが遅れ気味で、すいません(^_^;)  ARIONの本って、本当に読むタイミングみたいなものがハッキリと 現れる本なんですよ。これは、他の人達からもよく聞く話なんですよ(^_^)  焦らないでゆっくり自分の「時」が来たら、読んでやってくださいまし。  その上で気が向いたら感想など、MES 7 の方へお願いしますね!  自分のことで恐縮ですが…ちょっと近況をば…(^O^;)  今日は殆ど持病化してしまった両手首の腱炎が、雨のせいだか何だか悪化 していまして、肩凝りもそのせいかキツイ日だったのね。元々、寝不足では あったんだけれど、今日の眠さは本当に信じられないくらいの眠さで(^_^;) このまま、眠り続けて一生を過ごしても良い…と思えるくらいの眠さだった ので、これはきっとベッドに催眠でも掛けられているのでは?と疑ったほど。  普段から、身体が疲労すること=眠くなることくらいにしか考えていなか ったんだけど、睡魔って本当に居るんだわね(笑)  私って放っておいたら一日24時間のペースじゃなくて、大体、起きてい る時間が36時間で睡眠時間入れると44時間位になってしまうのだけど、 人間を地下のような所で住まわせる実験をすると、人によって一日の時間が 異なるんだそうですね。って言っても、私は普通のマンションに住んでいる んですけどね(笑)  効率良く眠れて疲れが取れるんなら、2時間でも3時間でも睡眠時間は短 い方が有り難いんだけどね、そうも行かないわね(^_^;) ・:*:・みれ・:・。,★ - FARION MES( 3):【めでぃあ室】本/映画/音楽 etc----<01> 94/05/16 - 00465/00465 GDB00064 オリハル RE:中継番組 ( 3) 94/05/15 19:26 00410へのコメント 今後はM田S子さんやN森A菜さんが出演される中継番組でも見ていない事にします。 つまり、本当に全ての生番組を見ない事にします。今までも何度もそのように言ってま したが、わざわざ生番組で共振する必要はないと思うわけです。歌の最中にパジャマな 気はいつもしてたのですから。「24時間いつも神は人間と共にあります」ということ を人間が感じられればそれでいいと思います。人が真に求めているのは神です。ちなみ に石野真子さんに怒りを向けていたのは私ではなく、小川知子さんを批判していたのは 私ではありません。私はただ引いていました。防衛しなくてすんません。必要以上の干 渉は避けるという判断がその時はあったのです。何故「見ない」のかと言いますと、同 調しないでいるほうが難しいからです。また、中継テレビを「見ない」と言っても、チ ャンネルを変えるときや一時的には見てしまうと思いますが、それはしょうがないと思 います。また、絶対に見ない訳でもありませんので、私の性格上、見ている時には、は っきりとしますので、テレビ出演者ははっきりと分るでしょうから疑念の生じる余地は ないと思います。それは感覚としてはっきりしていますから。そういう訳で、私がテレ ビを見るか見ないかという個人的な事についての規定に変更がありましたので、お知ら せいたします。どうぞ安心して生番組に御出演下さい。                                 オリハル - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/05/16 - 02235/02242 GDB00064 オリハル 5/15の日替りメッセージ ( 7) 94/05/15 13:17 02234へのコメント | 翼の白は汚される為では無い…苦界に投げ棄てられた壷のためだ。 ええ、そうですよ。FARION(壷)のために在りながら、 人類全体へと目を向けるべきだと思いました。 つまり、心情的には壷の為ですが、しかし、外へと向かわなければならないという 課題があると思います。丁度MSさんとNAさんとの関係にも似ているようです。                               オリハル 02236/02242 NBB01420 SUKE RE:命宣り(いのり) ( 7) 94/05/15 22:25 02218へのコメント  #2218 英雄さん、興味深いお話をありがとうございます。  語呂合わせと言いますが、実際、発音に合わせて漢字を当てるということもあるの  ですから、むしろ音にこそ意味が込められているという見方も出来そうではないで  すか(^^)  語呂合わせとして笑って片付けられない気がします。  それと同時に、どういう文字で表現するか、ということをもっと慎重に考えてみる  のも一考かと思います。  英雄さんの解釈「命宣り」「命乗り」は、漢字だけ見たとき、「命の叫び」という  意味あいを感じました。  >>祈りとは、生命を生き生きと輝かせ働かせる、人間にとって欠くべから  >>ざる行為である、と思っています。もちろん、命は自分だけでなく他人  「祈り」が「活き」「生き」るための当たり前ほどの「事」なのならば、  それは常日頃私たちの心の中に在って、  言葉で唱えるだけでなく心に思うことも含めた広い意味があるのかな...  こう考えたとき、ふと「希望」という言葉が浮かびました。                           (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 02237/02242 NBB01420 SUKE RE:SUKEよりARIONへ(自分が決める善 ( 7) 94/05/15 22:26 02220へのコメント  #2220 オリハルさん、おひさしぶりです。  オリハルさん、この頃混乱していたのですか?  (私はまだ「波動」のニュアンスがはっきりわかっていないのですが、)  オリハルさんの波動が結構広範囲に影響を及ぼしていて、私はオリハルさんの  波動の混乱の影響を感じていた、という解釈でいいのかしらん??(^^;)  広範囲というのは多分、地理的距離の意味ではなくて、コミュニケーションの  つながりの意味でいいのかな?  電話がかかってきたときに相手が誰かわかってしまう、とか、見えもしないのに  後ろを通った人が誰かわかってしまうとか、そういう日常の虫の知らせ程度でしか  判りませんが、オリハルさんの気配は特に感じませんでした。  あるいはオリハルさんはご自分の気配をさせずに波動を拡げられるのかもしれま  せんが..  いずれにせよオリハルさんから迷惑を被ったという自覚はありません。(^^;)  そういう意味では安心なさって下さって良いですよ(^_^)。       ところで「織春」という署名はいい漢字ですね(^^)…☆ッテナモンダ Suke. 02238/02242 NBB01420 SUKE RE:SUKEよりARIONへ(自分が決める善 ( 7) 94/05/15 22:26 02228へのコメント  #2228 セン・シュアさん、どうもです。  セン・シュアさんの「メソッド」というのはご自分の体験により編み出されたもの  でしたね。それだけに確たる自信を持って勧められているのがわかります。  私にはそうしたたたき上げがないので、字面に共感することが出来ませんでした。  しかし今回のセン・シュアさんのコメントは、それを読む数時間前に考えついた  ことと根が同一かも知れないと思いました。  セン・シュアさんが伝えたいことと多少意味あいがずれるかもしれませんが、  私が感じたことということで、書かせていただきます。               =====  車が故障した時に私がしていたことは、かつて多感な(^^;)高校時代の記憶の検証  でした。夜景が好きで出歩いた夜の中で、当時の私は何か見えないがどこかに存在  する、不思議な雰囲気のようなものを感じていました。それを何とか形にしようと、  スケッチをしたり創作を書いたりしていたものです。  長らく忘れていたその世界が、押入の荷物の整理という形で出てきました。  そこで、これらを処分するにあたって、今の自分の目で当時の自分が感じていた  ものを見直してみよう、と思い立ったのです。  今の自分が見ることで、当時見えなかったものの正体が分かるかも知れない、と。  車の故障により帰投を余儀なくされた訳ですが、これはそれで良かったのだろうと  思います。何故なら当時私の感じていた雰囲気は、「陰の中の光」というか  「闇の中の灯」というか、「マイナスの中のプラス」というか、......  まぁそういった類の感覚なのですね。  ところが今はベースが「陽」であるような気がします。  つまりその頃の自分と大きく転換している。  私が過去の自分を掘り下げようとしたのは、すなわち過去を目指す生き方です。  だからこそのめり込まなくて良かった。  と同時に、過去の自分を垣間みることで、現在の自分の変化、在り方が見えてきた  のですから、得るものは充分あった訳です。  セン・シュアさんの「自分の中に新しい自分が内包される」(#2158)というのを  思いだし、ふと今回の自分の体験が「新しい自分」が出来上がっていたことに  気付いた旅だったのかも知れない、と思いました。                          (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 02239/02242 NBB01420 SUKE RE:SUKEよりARIONへ(自分が決める善 ( 7) 94/05/15 22:27 02231へのコメント  #2231 みれさん、コメントありがとう!  そういえば私の弟も多方面で困ったことにぶつかっているようでした。  案外身の回りにそういう状況は多いのかも知れませんね。  焦るときほど何かしなければと思うものですが、「何とかしよう」と思えても  「何をしよう?」になってしまう時って、結局何も出来ないときなのですね。  かつて苦しかった頃に、その苦しい状況をただ観て待つということを覚えました。  今回はその時に学んだ事を実践する場のようです。  >> 取り返しの付かないことって、きっと何も無いと思いますよ。  うーん...そうですね。多分その筈です。  しかし取り返しの付かない「気がする」という感触です。  実際には取り返しの付かない何かがあったわけでもない...と思います。  ただ放っておくと煮詰まってしまうというような、漠然とした焦りのようなものを  感じていました。  >> また、何事かが起きてしまった時に、それを同形に近い形で取り返そうと  >>しないことも大事なことかも知れません。  そうですね、これは気が付かなかった大事な点だと思いました。  同じ形であることに対して意義がない時に、同じ形でなければいけない!!と  思いこんでしまうということのないように気を付けたいと思います。  >>                      私には SUKEさんが頑張って  >>いると思えるから、こういうことを言うんですけどね(^_^)  ありがとう。でも「自分は頑張っている」と認めた時に頑張っていなく  なりそうですから、謙虚に受けとめたいと思います。(^^;)  >>           だからどんな局面にあっても、良心の痛むようなこ  >>とだけはすまい、と考えて一生懸命に自分の「分」をこなそうとしていれば、  >>大丈夫!だと思います。  注意したいと思います。「良心」と言う言葉にどきっとするものがある時ほど、  何か忘れているものがありそうです。  今の自分には、「頑張っている」時間だけでなく、自分を甘やかしている時間も  あるのだということが、どこか心にひっかかっているのかもしれません。  もちろん人間、甘えも遊びも無しというわけにはいかないでしょうけれど、  自分との戦いに在るときは、甘やかせないものの筈ですね。  >> SUKE さん、頑張ってね!  心強い言葉をありがとう!                          (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 02240/02242 JCF00616 YUI ⇔ 優位 自己限定からの解放 ( 7) 94/05/15 22:28 02225へのコメント RE:#2225/TO:英雄さん  今日はいかが御過ごしでしたか?  私は部活で試合が入っているにも関らず、  栃木に帰省して田植えをしていました(^^;  おかげで、体中はボロボロ状態です。疲れたぁ〜(^_^)  ■限定してしまうのは人間。それで苦しむのも、人間。  先に英雄さんの提示された、具体的な方法、  つまり鏡に向かって「無限なる向上への」想念を発すること───  って、なかなか良いと思います(^^)  鏡というのは、自分を客観的に見つめるのと同時に、  自分の想いが鏡面に現れて反射し、跳ね返って来る訳だから  良い想念を発するということは、自己を高め上げて行くのに  えらく効果を発揮しそうですよネ。  潜在意識というのは、2、3日で創られ、  効果が表出して来て、自分が途端に向上することはないんですね。  素直な性質を持っている人は、  早く効果が出て来るのかもしれませんが、  やはり人間、なかなかそうはいかなくって、  過去から強情な感情が邪魔をすることは多いのだと思います。  ただ、いくらその因縁が重なっていても、  1年、2年、〜10年と積み重ねている内に、  自然と潜在意識は浸透して来て、自分を向上させるようになるでしょうネ。  ちょうど、アクリル板に水を塗っても載り難かったのが、  幾度となく何度も繰り返すことによって、  次第に馴染んで来るというのに似ています。  ただ、英雄さんのおっしゃるような〈向上〉を  思い続けるのは大変良い事なのですが、  逆に悪い(否定的な)想いを想い続ける習慣が残っていると、  その〈向上〉への想いも徐々に打ち消されて来てしまいます。  ■では、どうするのか?  常日頃から、何か否定的で暗黒の想念を発しそうになった時には、  潜在意識に〈光〉(=良い想念)をため続けるよう、ひたむきに  努力してゆくべきなのではないかと思います。  ただ、あんまりこれに把われ過ぎて、逆に辛くなるようであっては  まったく意味がないとも言えます。  だからこそ、  「悪い想いがでてしまった(--;」と気付いた時には、  「過去の習慣の因縁なのだ。仕方が無いんだ。だからいっそのこと   想いを転換して、良い方向へ向けるようにしよう(^^)」  または、  「ああ、私の想念は光そのものなのだ。無限なる輝きを   皆に振りまいているのだ。」と  自分の想いを解放し、悪想念への執着心を消してしまうように  するがベストだと思うのです。 p.s.「無限」という言葉、好きですよ(*^^*)   無限の広がりをもつ言葉で、最も強力な解放の言葉だと思います。   僕も使わせてもらおうかな??>「無限なる向上」 〓 YUI ⇔ TANAKA Masanori 〓 02241/02242 JCF00616 YUI ⇔ 優位 天命 ( 7) 94/05/15 22:28 02231へのコメント RE:#2231/TO:みれさん  割りコメント失礼しま〜す!  ■人事と天命  つまらないことですが、   1─人事を尽くして天命を待つ。   2─天命を知って人事を尽くす。   3─天命を信じて人事を尽くす。  の3種類の内、僕は3番目が好きです。  何しろ、天命が何たるか、ハッキリと自覚出来ないのが本音で、  自覚出来て初めて、2番目に移行するのだと思います。  なにしろ、1番目は人事を尽くした後はど〜するのぉ??  みたいに言われるとそれまでで、なあんにもしなくなっちゃうんですね(^^;  人事は尽くしましたよ、じゃあポケーっと待ってますよん、みたいな。  天命を待つ余りに現実の生活を忘れないようにしたいものですよね。  兎にも角にも、今は天命を信じるしかなさそうです。  質問:みれさんにとって、天命とはなんですか?     ARIONとの関係も合わせて一度訊ねてみたいことでした。 〓 YUI ⇔ TANAKA Masanori 〓 02242/02242 PXB01563 おみゃー RE:おみゃーさんへ ( 7) 94/05/15 23:32 02227へのコメント >セン・シュアさん 楽しかったですか、それは良かった。 さて、人間の多面性についてまだ答えてもらってないので再度RESしますね >> そして、私があなたに対して思いがけない方法でアプローチをかけていっ >> たのはなぜでしょうか。私は人間の多面性を尊重し、そこから学んでいこ >> うと考えています。 多面性を尊重し、そこから学んでいこうと考えられているのは、この会議室での あなたの基本姿勢なのでしょう。でも、この書き方だけでは「単に事実を記録し たにすぎない」と私には思えるのですよ。 私の質問は、なえさんの、#2184と同じ質問だと思っています >> 頭の >> 中だけで考えて判断されているのと違いますか?。仮にそうならば、血肉と >> しての人の生き様からはほど遠い、絵物語に過ぎませんでしょ?。絵を幾ら >> 沢山見て、感じて、自分の中の資料や参考にしようとかんばっても、絵の枠 >> から抜け出し現実の事に転換する事は出来ないのと違いますか?。別にイメ >> ージする事が悪いとか、思い描くのが間違いとか言うのと違います。 どうしても、あなたの一連の書き込みから生きた人間の息吹というのか命とい うのか、が感じられないのです。もう少し言うならあなたの設定している人間 像は、ある一面だけに限定されているような感覚を覚えます。 あなたの二者択一問題がどのような意義があるのか今の私にはわかりませんが すばらしい分析力を持っている(と私は感じています)セン・シュアさんとの これからの会話の中で、血のかよった人間の話をしていければ、おいおい見え てくるのでしょう。(そのときまた、人間の多面性の話もしましょう) つきあってくれてどうもありがとう おみゃー - FARION MES( 8):★シゲの【恋愛玉手箱】爆走編--------<01> 94/05/16 - 00301/00301 JCF00616 YUI ⇔ 優位 真実を伝えないのは嘘? ( 8) 94/05/15 22:28 00298へのコメント RE:#298/TO:NORIさん  こんにちは(^^)  前回の電話の件だけど、礼儀知らずだなんて、そんなこと無いですよ。  部活の仲間からも、僕の口調は丁寧すぎると良く指摘されるんですけど、  もう直る見込みもないし^^; 、諦めましょう>自分  NORIさんの体験談、是非聞かせて下さいね。  やはり、実態が掴めていないと、どうもポイントがずれてしまいますもんね。  ■本当の事を伝える事  つまり、告白の件なんだけど、  NORIさんは「本当の自分を伝える」ことが「正しい」としていて、  「真実を隠す」ことが「嘘」でいけないこだ、と捉えているように見えます。  NORIさんの言われる「嘘」というのは、  「暴露しない」ということと同じだと思います。  何でもないことなのに、それを〈特別視〉してしまうのではないですか?  別に打ち明けるまでもない事を、なぜもそんなに暴露したがるのでしょうか?  確かに、「僕は同性愛者なんです」と告白してしまえば、  両親が息子に良い理解を示すかもしれない。  でも、NORIさんは、なぜ「嘘をつく」ということにそれほどまで  こだわるのでしょうか?  〈嘘の無い関係〉は本当に、あなたの理想でしょうか?  想像力を羽ばたかせて、じっくりと検討して見て下さい。  僕にとっては、余り居心地の良い環境ではなさそうな気がします。  なぜなら..  ■レッテルということ  一寸前にARIONも示唆していたこともあるのですが、  「相手を見ているのは即ち自己を見ていることなのだ」という真理があります。  例えば、NORIさんが「同性愛者宣言」をする前と、  その後とでは、読んだ方は恐らくあなたを観る「目」が変わったはずです。  それがレッテルということなんですよね。  例えば、僕がある秘密結社に所属しており、  世界に何らかの悪しき影響を与えているとします。  僕は今までこの〈真実〉をいわなかったけれど、  言った後とでは皆の態度は豹変する筈です。  実を言うと、僕もある秘密(?)のような事があって、  このフォーラムではまだ打ち明けていません。  もちろん、既に御気付きの方も大勢いらっしゃるでしょうが、  解らない人も沢山居る筈なんです(^^;  僕の場合、(何だかは告白しませんが)  肯定的な意見の方が多いし、告白しても  大して驚かれたりすることはないでしょうが、  NORIさんの場合はどちらかというと、世間一般では  否定的、偏見的な見方が結構あるのではないでしょうか?  すると、そういった偏見を持っている方から観れば、  NORIさんは「おかしなヤツ」になってしまいます。  そんな風な見方をされ、今後そういった偏見が  NORIさんに纏わり着く可能性も、ないとはいえないのです。  日常的に〈真実を隠す〉ことと単に〈嘘をつく〉こととを  取り違える事の無いよう、気を付けて下さいネ(^^)  〈真実を隠す〉ことは、イケナイ^^; ことではないのです。  僕なんか毎日”真実を隠し”てますよ、ホントウニ(^^; p.s. バイセクシャル云々については、後ほど。    体験談などを聞かせてくれると、ありがたいな(*^^*) p.s.2.そういえば、雑誌『Quark』92年8月号に    「キミはゲイかもしれない」という特集がありました。    興味があったら、住所を教えて下さいな(^^)    すぐに送ります! 〓 YUI ⇔ TANAKA Masanori 〓 - FARION MES( 9):★TAO の《神々の曼陀羅》―美と信仰と史― 94/05/16 - 182/184 MHD02672 TAO 笠井 叡公演 「三島由紀夫の修羅」 ( 9) 94/05/15 22:06 コメント数:1  笠井氏が主宰していられる「天使館」より、オイリュトミー公演の  インフォメーションが来ましたので、ちょっと紹介のほどを。   題名:「三島由紀夫の修羅」   日時:1994年6月12日(日) 午後6時より開場                    午後7時より開演   会場:梅若能楽堂(JR東中野駅最寄り)   料金:前売 5,000円/当日5,500円(定員350名につき、予約要)   主演:笠井 叡 今度の公演は、三島由紀夫の「英霊の声」からインスピレーションを得て、  創作された模様です。パンフレットに笠井氏の文章が載っていますので、  引用します。 帰神法とは何か?−−−人間の言語活動は聴く事と語る事の上に 成り立っているが、両者のうち聴く事の方がより根源的な活動で あろう。帰神法とは、ひたすら心を無にして神霊の気に感応し、 神々の沈黙の言葉を聴くことであるが、三島由紀夫は、『英霊の 声』において、この帰神法的言辞をひとつの文学までに高めた。       ・・・・・・・・・・・・・    この裏切られた霊たちと、その霊たちの言葉を聴き取る川崎少年    という二者の関係は、この言霊舞(オイリュトミー) −−三島由紀夫の修 羅−−においては、三島由紀夫の魂と舞人との関係に転移する。          ・・・・・・・・・・・・・    言霊舞(オイリュトミー) とは、「語る舞踏」である以上に「聴く舞踏」    なのである。人間の肉体全体をひとつの超感覚器官にして、宇宙    の言葉、神霊の言葉、他者の言葉を聴き取り、それを物質として    の肉体に顕現するのである。このように神霊が人間の肉体を通し    て、自己を語ることを帰神と言うなら、言霊舞(オイリュトミー) とは、    現代という時代に相応しい帰神法であると言えよう。          ・・・・・・・・・・・・・    ここでは通常の帰神のように、いかなる神霊が神下るかを見る審    神者を必要としない。ただ舞人の自我は神霊が主観的な魂に神下    るのか、客観的な物質に神下るかを見続けているのである。 去年も、モーリス・ベジャールが三島由紀夫をモチーフにして創作した、 新作バレエの「M」が、NHKで放映されていましたが、三島由紀夫と いう人は、確かにアーティストの創作意欲を駆り立てる、一種神秘的な 魅力を備えていますね。 今度のオイリュトミー公演はテーマの面白さもあって、必ず見に行く つもりですが、他にも見に行きたいという方がいらっしゃいましたら、 ご一緒に見に行きましょうか。  以上、とりあえずインフォメーションまで。  TAO 183/184 MHD02672 TAO 【リトル・ブッダ】 ( 9) 94/05/15 22:07  今日、ベルナルド・ベルトルッチの新作「リトル・ブッダ」を見て来ました。  見終わった後、真っ先に感じたのは、今までのベルトルッチに無かった  “ピュア”さが全編に満ちていたということでしたね。「暗殺の森」  「ラストタンゴ・イン・パリ」「1900年」「ラストエンペラー」  「シェルタリング・スカイ」…といった前作群に見られた、精神の深淵を  えぐるような人間洞察、ペシミズム、強烈な性的描写が消え、代わりに  あたかもおとぎ話を物語るような“透明感”が漂っていました。  ベルトルッチは「あらゆる世代の子供たち」に向けてこの映画を撮ったと  言っていますが、確かにこの映画は“輪廻転生”というテーマを中心に  繰り広げられるファンタジーとも言え、チベットの高僧の生まれ変わりと  目された三人の子供たちの冒険の物語とも言えます。  ただ、今までのベルトルッチ作品と違って難解さは無かったけれども、  だからと言って通俗にも堕ちていない。ベルトルッチは恐らく、西洋人から見た  東洋−オリエンタリズム−というものの空虚さを自覚しながらも、寓話としての  エキゾシズムを徹底的に推し進めている。それは、この映画の色彩設計にも  現れています。  物語は、現代を舞台としていますが、その中でシッダールタの物語が物語られる  という構成になっています。ベルトルッチは西洋と東洋の差異を意識してか、  アメリカのシアトルのシーンでは色彩を抑え、アジアのプータンやカトマンズ、  そして古代インドのシーンでは、艶やかな原色の氾濫になっている。これは、  いわば意識されたエキゾシズムの強調とも言えますが、ベルトルッチの盟友で  あるストラーロの流麗なカメラワークには酔わされることしきりです。  「生と死」「輪廻転生」といったテーマを、おとぎ話のように美しく、しかも  切なく綴った今度の新作には、ベルトルッチの新境地を見いだしたような気分です。  それは、ベルトルッチの成長か、それとも衰弱か、それは次の作品で試されるの  でしょうが、透明で美しい映画であることは間違いありません。告白すると、  前半ではしばしば涙が流れ(この頃、涙腺が緩くなったこともあるでしょうが)、  自分でも何故こうも切ないのか、不思議に感じたものです。  主役のジェシー少年を演じたアレックス・ウィーゼンダンガーのピュアさ、  シッダールタ役のキアヌ・リーブスの高貴な存在感、ラマ高僧ノルブ役の  イン・ルオ・チェンの圧倒的な風格が、印象的でした。  (しかし、中国人のイン・ルオ・チェンがチベットの高僧を演じたという事  自体が驚きなのです。中国政府はチベットを迫害しているのだから、本当なら  不可能に近い筈なのですが、ダライ・ラマ14世がそれを問題としなかった  為、可能になったとのことです)  TAO 184/184 TCC00116 NoB RE:笠井 叡公演 「三島由紀夫の修羅」 ( 9) 94/05/16 11:16 182へのコメント 笠井さんの公演のパンフは僕んとこにも来てました。天使館で学んでいる人たちから も、最近の神道的な傾向は伺っているのでそれほど驚きませんでしたが、あれを、 「言霊舞(オイリュトミー)」というのかなというのはさすがに関心がわきました。   「語る舞踏」である以上に「聴く舞踏」なのである。人間の肉体全体   をひとつの超感覚器官にして、 というのは、どうなんでしょうか。オイリュトミーの場合、シュタイナの神秘観が基 礎になっているのですが、たしか、超感覚器官というより発声器官が第二の生殖器官 となるということではなかったかと思います。実際、オイリュトミーの場合は、言語 のほうは発声器官の模倣でもあるわけだったかと。ま、ちょっと、つっこみすぎた話 でしたが。 そういえば、このフォーラムの参加者は若い人が多いから、三島由紀夫の現場など見 ている人は案外少ないのかもしれませんね。 リトルブッダは僕はまだみてません。3部作といわれると前2部を見ている僕は、こ りゃ、デューティですね。ベルトルッチに難解さというというは僕は感じません。ラ ストエンペラは、きれいで嫌いではないけど、映画としては駄作かもしれないという 感じはします。シェルタリングスカイは、かなり好きですね。あのサントラもよく て、好きなCDの一つです。ただ、ボールズの原作のほうが好きかなという感じもし ましが、映画のほうの後半の砂漠の彷徨あたりはいいのかもしれません。 あもりさんの話に、赤米が出てましたが、バリではこれをよくたべました。ほかに も、いろいろありますよ。個人的には黒米が好きです。あれを甘くお粥にしてばなな を切って載せてたべるのですよ。 鹿島香取については、以前歴史フォーラムの宗教史で藤原氏関係で触れましたが、最 近の鳥越氏の本とかで物部をもう一度考えると、さすがにいろいろ考えることがあり ますね。石上神宮が物部というのもそうした線でみるといいのでしょう。ま、この話 題は、どっかで少し整理する必要があるかもしれません。というか、物部王朝という ふうに見ていかなくてはならないのでしょう。そうした意味で、神道なるものが実体 的にあり、日本的なる「神」がある、ということは、「ない」ようにも思えるという のが僕の考えです。 TAOさんが書かれていたかどうか、龍神はまさに天武のシンボルですね。まぁ、海神 ではあるのでしょうが。 「仏教」については、これも、歴史フォーラムのほうで、ぼそぼそと扱ったりもしま した。よく知られているはずの般若心経が女神礼拝の密教典であるあたりもすこし扱 いました。 このあたりは、反論というわけではないのですが、   インドで発生した仏教は、中国大陸・朝鮮半島を経て日本にも伝播して   行った訳ですが、日本に一旦入るや、山岳信仰や道教、或いは密教等の   影響を受けながら、日本的仏教に改変されて行ったのだろうと思います。 というパラダイムは僕は最近とらなくなりました。まず、「伝来」の発想それ自体が かなりバイアスがかかっているように思います。もちろん、伝来したには違いないの ですが。また、こうしたパラダイムでは、高度は宗教が未開的なシャーマニックな宗 教に流れこみ、混合するというものですが、これも、バイアスのように思えてきいま す、僕には。 日本の場合、現在我々が神道とみなしているものは、やはり天武期における一種の宗 教改革の結果であり、そのときに、「神」の体系が、道教的に整備されたものでしょ う。それ以前は、ポリネシア的な要素とプレ道教があったのではないかという感じが します。ですから、こうしたものを、「日本」を実体化し民族精神みたいに実体化し なければ、ある散逸した諸層の、しかし、高度な宗教形態として、「日本古代」がと らえられるように思います。しかし、このあたりは、もうすこし詳しく語るべきでし ょうし、TAOさんの引かれている「山越しの阿弥陀像」の言及の背後にある折口的な 問題でもありますね。 このあたりはさらにやっかいな問題があって、柳田にしても折口にしても、その得意 な民俗学はある意味で、日本近代のイデオロギーだったのではないかという、問題で す。稲作あたりも問題になります。日本の食=コメ、という、発想ですね、このあた りは、最近の網野さんの対談「歴史の話」でも言及されていますが、しだいに歴史学 的に解体されていくだろうと思います。あと、網野さんは古代には言及してません が、岡田さんの説などを考えても、日本諸島における稲とは、文化や民族と一体的に 伝搬したというより、きわめて人為的に、いわば古代華僑たちの商品として、さらに いうと「貨幣」として「鋳造」されていたものでしょう。そう考えたほうが、日本諸 島における急速・広域な伝搬は合理的に理解できるものと思います。 ちょっと感傷的になりますが、あれは自然農法の藤原さんでしたか、コメなんか食う から隷属されてしまうのだという発想は、僕なんかは好きです。コメによって、土地 (ツチ)とその税制によって拘束される神話的・呪術的な体系(カミ)としての神道 から離れていたい。民族から離れて、ただ、海やステップにさまよっていたいという 感じが僕なんかはしますね。ま、これは感傷です。で、ま、そんなわけで、NoBさん は、アメ・ツチ・コメの世界とは異質なのでしょうね。ただ、異質であることはたん に異質であるままであっていいように思えます。 最後に、十二神将については、新薬師寺のものが好きですね。あの寺の現在の経営に はちょっと疑問がありますが。あと、ここで、ペニスがエレクトした地蔵というのが ありますよ。十二神将のあとで見ておくといいかもしれません。 長くなりましたが。 NoB - FARION MES(10):★Dr.Sooの《夢酔い人の部屋》--------<01> 94/05/16 - 00432/00432 JCC02647 とかち 久しぶりにみた夢 (10) 94/05/15 20:19  今日体調がわるかったので昨日の夜から寝たり起きたりを  繰り返しながら13時間も寝てしまった(^_^;)  いつも通りに8時間寝て、頭がガンガンするので横になったら  そのまま3時間ほどねてしまった  しばらく新聞読んでTV見て再び2時間ほど寝てしまった  1・2回目の睡眠でも夢って見てたんだけど記憶にない  3回目の夢だけが残ってしまった   8人くらいで旅行をしてる   ようやく旅も終わり後は電車に乗って帰るだけって言う状況   場所ははっきり憶えてないんだが新幹線か特急電車で帰れる場所みたいだが   私がごねて普通列車で帰る事になる   ホームに滑り込んできた電車はいたって普通の通勤型電車   で、先頭車両から車内に入る   座席が全部埋まっているので次の車両に移動する   通勤型だと思っていた電車がなぜか2段ベットの寝台車で   2段ベット3つで個室になっている   その個室に入った人物がめいめい好きなベットに潜り込んでいく   「えっ!!」って驚きながらも「俺、下段ね!!」って叫びながら   真ん中の下段ベットに入るや否やすぐに寝てしまった   ここで起きてしまった   過去にも電車が出てきた夢ってあった   その時も旅行の終わるときの夢   で、やはり通勤電車に乗ろうとしている   ただその時は夢の中でも寝たって記憶はない   で、今回気になっているのが   ・何故、旅行の終わる時なのか   ・何故、普通列車で近郊型なのか   ・何故、夢の中でも寝るんだろうか   って事   不思議だ〜〜!!(^_^;)                             とかち - FARION MES(11):★アキラの《平井和正*異界漂流》----<01> 94/05/16 - 455/458 GEH01636 酔狂生 RE:まずはご挨拶など。 (11) 94/05/15 17:52 451へのコメント  あめんほてっぷさん、こんにちは。酔狂生こと岡本であります。  某ファンクラブのときのイラスト、おぼえてますよ〜(特に表紙をかざった 8マンとかね)。それから、某全国大会で、不思議なところで寝ていらしたこ ととか。  カナメさんがおっしゃっているように、なんでもありの会議室ですので、今 後とも、どうぞよろしくおねがいいたします。                            酔狂生(GEH01636) 456/458 PFC02535 カナメ 不毛な話(笑) (11) 94/05/15 21:04 「明星ヘア・カタログ」の広告を見て、あらぬ想像をしてしまうのは私だけだろう か。もちろん、そんなことは有り得るはずもないが、ヘアというと陰毛を連想して しまうほど、陰毛露出ヌードは当たり前のものになってしまった。法的に認められ た訳ではないのに、みんなで出せば恐くない、とばかり今や雑誌も写真集もヘアー ヘアーのオンパレードである。  この状況を無邪気に喜んでいる男性は大勢いるだろうが、私に言わせれば、お莫 迦さんである。何故か。陰毛にしろ、局部にしろ、それを見て興奮するのは、それ が禁じられているからであって、禁を解かれてしまえば、それはもはやおっぱいや お尻と同程度の値打ちしか持たなくなるからである。  たやすく得た喜びは、たやすく色褪せてしまうものだ。性の解放は不毛である。 ポルノなんて下らない、という風潮に行き着いてしまうだろう。だから、性の商品 化を問題視するなら、むしろ、性の解放を大いに奨励するべきだ。婦人団体は愚か にも逆のことをしている。  私はドがつく助平だから、性の解放には反対である。ヘア写真を掲載した雑誌な らびに写真集全てをただちに発禁処分にしろと言いたい。史上最大のガサ入れであ る。万が一実現したら、おもしれーぞぉ。今出ているヘア写真集の実売価格は一気 に数十倍にハネ上がるだろう。これは見物である。  しかし、性の解放は時代の潮流であり、それを止めることはできないだろう。お そらくは、最後の砦(タブー)である局部の解禁も、そう遠い未来ではあるまい。 その時に何が起こるのか。  SEXが下らないものとなり、人々はプラトニックな愛に目覚めるだろう(繰り 返し言うが、私はド助平なのでこういう世の中は好かん)。逆に、更なるタブーを 求め、獣姦、殺人淫楽といった、変質的姦淫に及ぶ者も増加するはずだ。つまり、 性の二極分化が起こるのである。清浄な上澄みと汚れた沈殿物にはっきりと分かれ てしまう。なんと、これこそハルマゲドンの姿そのものではないか。性の解放はハ ルマゲドンだったのである。 457/458 KHC01313 まるにちょん 般若心経はカミサンの光 (11) 94/05/16 00:38 コメント数:1 皆さん、御無沙汰のまるにちょんです。  般若心経の効果について以前話題になっていたので、遅ればせながら僕の経験 に基づいて、般若心経について書きましょう。  1 般若心経の写経と僕   僕が写経を始めたのは、13歳のころからで、そのころから折りに触れて写  経を続けてるんや。(今は31歳のオジサンやねんけど)  例の浜本氏の本を3年前に読んでからは、墨できっちり写経するようになった  けれど、それまでは、ボールペンなどで写経してたんや。   なんで若い身空で、写経なんてはじめたんやろって、みんな思うやろ   それは、先祖供養のためやったんや。当時ぼくは腎臓を悪くしていて、治療  をしてたんやけど、なかなか回復せんかったんや。   それでね、僕の今は亡き叔父が、「この病気は先祖の因縁から来ているので、  先祖供養をせんとあかん。先祖供養は、先祖の辿ってきた道をはっきりさせて  漏れなくおまつりすることや。それから般若心経を写経して、墓に埋め、河に  流し、燃やすことや」と。 まあ、浜本氏と同じことをゆうてたんやね。 それで病気の方はどうなったんやって?   それが、4、5年かかったけど完全に治ったんや。医者は多分治らんから、  養生しながら生活しなさいっていってたんやけれど・・・  これは、僕の経験やから、誰にもあてはまるとは言いきれないかも知れない けれど、逆に経験に裏打ちされてるから、確かに、般若心経には先祖供養のため の大いなる力があるといえるんや。 それと般若心経には、魂についた垢(=カルマ)を洗い流す力があるんや。  魂に垢がついとったら、カミサンの光が届かへんのや。  雲が、太陽の光を遮ってしまうようにやね。 この魂の垢は、自分で付けたもんと先祖の因縁で付いたもんとがあるんや。  だから、先祖の供養をして因縁を解消してやらないと、カミサンの光が届か へんのや。  つまり、先祖から自分に至るまでの系譜を河に例えるなら、川上(先祖)で 流された汚物(悪い因縁)は、川下(自分)までおも汚染してしまうんや。  そこで、浄水場ないし浄化濾過装置としての役割が必要なんや。 それが、先祖を供養したい自分の気持ちと般若心経なんや。  般若心経は、極言すればカミサンの光そのものなんよ。  だから良き因縁も悪い因縁も溶かして、己の肥しにしてくれるんや。  今回はこれくらいにしておいて、しばらく般若心経について書き込むことに したいので、みなさんお付き合いのほどを。                    では、また。まるにちょん、○=ゝ 458/458 GBG02755 すまる RE:般若心経はカミサンの光 (11) 94/05/16 07:00 457へのコメント 般若心経、私も大好きなの。 声にして読んでいると涙があふれてくる。 そして、感謝に満ちて来る。 そして、愛されていることもわかる。 写経したときも、不思議だったよ。 写経は、ただ書けばいいって感じで、ひたすら書いたのね。 一気に。 求めている答えをみせてもらったの。             でもそらんじてないのだ(^_^;) すまる - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/05/16 - 01272/01277 GGD03030 《 隆 》 誇りを持つ事=自分を見る事 (13) 94/05/15 13:04 01269へのコメント コメント数:1  KAZEさん、こんにちは。    >もちろん尾道側からの橋はずっと前からついているのですが、  >四国の方の今治側の方がまだまだなんですよね。  >もっとずっと先のことにはなりますが、橋がすべて完成したら、  >さっそく瀬戸内の島々を眺めながら尾道まで完走しようと思っています。  なるほど。ドライブもいいですが、瀬戸内の島々を巡るのなら自転車なんていうの  も魅力的だなぁと思いました。なんせ気候が良いですから。  そういえば、明石海峡大橋もキャット・ウォークが通ったとか。あれができれば四  国はものすごく近くなるんですけどねぇ。    >科学というのは、人間学と比べて、自分をシビアに見ていくという意味での  >逃げられない生々しさのようなものが希薄ですから、そうなんでしょう。  そういうことです。普遍性&客観性=個人差からの離脱みたいな感覚が科学にはあ  るように思います。普遍性&客観性は科学の長所のひとつではありますが、自分を  見つめるというような部分がどこかになくては単なるお化けになってしまいます。    物理学の中では、人間が考えている以上(要するに現象に自分が含まれているとい  う意味で)、真に客観的であることは不可能の様に思えます。同様にどんな計測機  械を使おうと、最終的な判断は人間の感覚で下さなくてはなりません。だから、常  に自分のあり方を見つめていなければいけないのですが、それを怠って歪んだ方向  (要するに勘違い)に技術・理論が増殖して行ったという事はたくさんあるようで  す。KAZEさんのおっしゃった「核」の問題や生物実験などはその例ですよね。    不思議な事にというか、当たり前というか、こういう勘違いはいわゆる新興宗教な  どにも顕著に現れるようです。宗教というと自分を見つめる為にあるのではないか  と思いますが、どっこいそうは問屋がおろさないのですね、これが。何かを盲信し  てしまうと、自分自身が見えなくなってしまうという意味においては、勘違いの科  学も的外れの宗教も同じなわけで、よくよくそのあたりの自覚はきちんと持ってい  なくてはと自戒したのでした。    >でも、コントロールが困難だからといって、エネルギー量を制限して、  >何もしない方がいいというのでは、どうしようもないですから、  >肝心なのはエネルギー量が増えた分だけの制御装置を適度な大きさで  >その都度意識的に自分のなかにつくっていくということだと思います。  これができれば最高ですが、なかなかにむずかしい事ではあります。少し消極的な  方法かもしれませんが、僕はクールダウンというか、時々立ち止まってみる事が有  効な気がしていますが、どうでしょう。  大きなエネルギーも一度に大量に出さなければコントロールは容易です。フルスロ  ットルにする前に、ブレーキや燃料の確認はしなければね。そういう意味でも自分  をシビアに見てゆくという事がやっぱり重要なのでしょうね。    >光は粒子性と波動性をともにもっているというのはよく言われることですが、  >それなんかもそれが結局のところどういうことなのかは、よくわかりません。  ですね。そもそも縦波と横波の区別さえ、感覚的にとらえるのはとてもむずかしい。  ただ、音も光もある種の波動だと言われると、世の中全部波動だと思えてしまいま  すが・・・。    >波動を「場」として考え、その顕現の仕方そのものが、  >この「世界」というふうに考えていくとイメージしやすいかもしれませんね。  「場」という事を考えるとなおさらそうなのですが、僕には「波動」というよりも  「振動」という方がピンと来るところがあります。波動と振動の違いは何かという  のも、もう一つよくわからないところですが、まあとにかくこの世はたえず動いて  いるという感覚です。    >ただ純粋に「特ダネはつくってでもほしい!」っていうジャーナリスト根性^^;。  はぁ・・・、なんともあさましい話ですね。ナミダガチョチョギレル    >やはり、自分の国に誇りをもつっていうことがないと、いけないんじゃないか。  >誇りをもって自分の国のことを見ていくなかで、その闇の部分についても目をそ  >らさないでいるっていうのが必要だと思うんです。  自分の国に誇りを持っていない人間には、その国の良いところも悪いところも見え  はしないと思います。あの戦争は確かに悪い部分がたくさんありましたが、それを  ただただ卑屈に否定しているだけというのはあまりに情けない。外国の目を気にし  てそういうポーズを取っているだけの人は結局また同じ過ちを繰り返してしまうよ  うな気がします。もちろん、凱旋車で叫んでいるような人たちも国に誇りを持って  いるとはとても思えませんが・・・。    >ほんとだったら、これまでの西欧に対して、もっと怒ってもいいはずなんです。  日本人も含めて、アジアの人たちは西欧に対して妙なコンプレックスがあるようで  すが、これって一体何なのでしょうか。身勝手で独善的な西欧人(そうでない方も  たくさんおられますが)に対して、何が悲しくて黙って従わねばならんのか。僕は  いつも不思議でしょうがありません。カミさんは「日本人(というより多くのアジ  ア人)が優しいからよ」と言いますが、そしてそれは我々の大きな美徳の一つであ  ると僕も思いますが、物事には限度というものがあるはずだぁと叫びたくなってし  まいます。    このあたりの西欧コンプレックスを助長しているのは、きっとマスコミとそこに登  場する頭の腐った(^^;)知識人と呼ばれる人々なのでしょうけど、「マスコミ複合汚  染」が進みすぎると、逆言論弾圧がおこるような気がしますね(もうおこっている  か)。とにもかくにも、一人一人がもっと自分をしっかり見なければとここでも思  いました。自分に誇りが持てない人に、国に誇りを持ちましょうと言っても仕方が  ないですものね。    >お互い「毒」だけはなくさないようにしたいものですね(^^)。  そうですね。そして、そういうJIZZYの「毒」が許容されるような世の中であ  って欲しいものです。もちろん、それを築くのは僕たちの仕事ですが、例によって  マイペースではありますが(^^;)、がんばらねばと思うのでした(^^)。                                by 隆ちゃん 01273/01277 GGA02514 KAZE 自由のために(1)Kに寄せて/見ること (13) 94/05/15 20:04 最近いろんな本を読みながら、おりにふれて考えるテーマについて、特にゴールと いうか結論を導き出すとかいうことではなく、いわば即興的にとりとめなく語って みたいと思った。ゴールがないとはいっても、漠然とした大テーマは、遠くはるか にかすかに見える気もする「自由」をめぐることになるようにも思い、とりあえず 「自由のために」とでもしてみた。途中、ひょっとしてそれが違ったテーマに変化 する可能性もあるが、それもよしとすることにしたい。お付き合いいただければ幸 いである。 なぜか、最初はクリシュナムルティになってしまったが、それは出発点を赤裸々に してくれるという意味であって、それは単なる出発点であることをご承知願いたい。 -------------------------------------------------------------------------- ひさびさ、クリシュナムルティ(以下、K)についての論考を読む。これまでKに ついて考えていたことが集約的に書かれているもののように思った。そこには、K の重要性が述べられていたのだが、やはり同時にだからこそその限界性、いやそう 表現するのは適切ではないだろうから、そのどうしようもなさ、仕方のなさとでも いったものが浮かび上がってきているように思った。しかし、これを読んでそう思 ったのは、僕だけなのかもしれないが。 その論考は、次のものに収められていて、そこには「クリシュナムルティの会世話 人」の大野純一さんとの興味深い対談も収められていた。また、この論考は、Kに ついてだけのそれではなく、「ホスピス」「シュタイナー人智学」「解放の神学」 についても、それぞれそれらについて実践的に取り組んでいる方との対談とそれに 基づいた論考が収められている。K以外のものについては、今回は特にふれない。 ●津田広志 編著「生のアート」(れんが書房新社) Kは「見ること」の「自発性」について語り続けた。この著書と同じくそう思う。 「見ること」のためには「受動的」でなければならない。「思考」を使い、それに よって集中的目的を定めて見るのではなく、全体的受動的にみなければならない。 著者はその「目の在り方」をジョージ・レナードが「サイレント・パルス」で紹介 している「ハードアイ」に対しての「ソフトアイ」であるという。それは、スポー ツ選手が使う目の使い方であり、「刻々と動く戦況を輪郭を設けずソフトに受容し、 敵味方の動きの流動体をとらえながら自己の身体を的確に運動させること」である。 こうしたKのいう意味での「受動的」に「見ること」は「瞑想」と同じであるとい う。しかしKのいう瞑想はいわゆる宗教的な技法としてのそれとは異なっていると いうことは指摘しておかなければならない。それは「形式のない瞑想」であり、内 面的な瞑想ではなく、「関係を見ながら外へ向かう瞑想」であるのである。ちなみ に晩年のKはそうした「受動的」という言い方でさえ形式的であると考えたのか、 その言葉を使っていないほどだともいう。 この瞑想についての考え方は、僕自身の経験からもいえることであるし、ことある ごとに強調しておきたい点でもあるから、孫引用しておくことにしたい。  瞑想は決して終わることのない運動である。自分がいま瞑想を行っていると か、瞑想のための時間をとってあるなどということは決してできない。それは あなたの意のままにならない。あなたが組織だった生活を送ったり、あるいは 特定の生活規則や道徳にしたがったからといって、瞑想の祝福が訪れるわけで もない。それはあなたの心が本当に開いているときにのみ訪れるのである。               (「クリシュナムルティ瞑想録」大野純一訳) そういう意味では、「見ること」というのは「ソフトアイ」であり、かつまたそう いうルール下で生み出されるようなものではなく、まったくの即興的なものである ともいえる。つまり、それは「条件づけられている」ことから自由でなければなら ないのである。(「自由でなければならない」という表現は適切ではないが)。K は晩年にはこの「条件づけられている(conditioning)」という言い方をより先鋭化 し「プログラミングされている」という言い方をするようになってるくらいである。 この「条件づけ」はいかにしておこるのだろうか。そのプロセスを観察することこ そKのいう「見ること」であり「瞑想」である。我々は未知なものに関係するとき、 すぐに既知なものや社会通念や体験などでそれを処理しようとする。そうした既知 なものによるパターン化こそが「条件づけ」のはじまりなのである。その条件づけ によって形成される自我は、いくら「知」を積み重ねても「既知なもの」の延長上 でしかありえない。つまり、どこまでいっても「未知そのものと遭遇することは絶 対にできない。つまり関係と遭遇することはできない」のである。「あるがまま」 をみることができなくて、その「あるがまま」と「あるべき」との間で、ベイトソ ンのいうダブルバインドが引き起こされる。「条件づけ」というのは、現在を見る のに常に過去から見るということになり、それによって今まさに直面している「未 知」を無意識的な「外部」として放出してしまうことになる。そしてそれが条件反 射化して、「抑圧」される。これによる「分裂症」の3つのパターンについて、著 者は次のように解説している。  この無数の、網の目状になって日常のいたるところに潜伏しているダブルバ インドを回避するために、我々はさまざまな自己防衛を行ないはじめる。まず 既知の情報処理パターンで自我を防衛するのは、ベイトソンによれば「破瓜型」 の人間である。つまり対人関係で杓子定規に反応し、複数のメッセージをあえ て一元的に、字義どおりに解釈し自己防衛するタイプ、いわば教条主義的な人 間である。第二は、自分のなかに複数のメッセージを受けて混乱する「妄想型」 である。この場合は、複数のメッセージを受けすぎて判断や述語づけが困難に なり、葛藤に苦しみながら、常に他の意味が隠されているのではないかと、猜 疑心を妄想的に肥大させてしまう。そして第三には、こうした人を苦しめるメ ッセージをすべて無視してひたすら内向し、自己の内面に自閉する「緊張型」 もあらわれるようになる。しかもこれら三つの「分裂病」にあらわれるパター ンは、心理学の病理に還元されるものではなく、クリシュナムルティが言うよ うに社会的な条件づけによっておこるのである。 結局、こうした「条件づけ」「プログラミング」は、「見ること」を「過去」から 引き出してくることから起こる。従ってそれから自由になるためには、自由なイン プロヴィゼーション、即興としての「見ること」を実践していかなければならない。 クリシュナムルティのいうように「見ることが即行なうことであり、両者は別々で ない。」のであるから、常に新たに見るという「自発性」が必要である。著者は言 う。 このインプロヴィゼーションは、アナーキズムやハプニングに見られる無秩序 な行為とはまったく関係ない。自我のプログラミングとのミクロ・レベルの闘 いをしているわけだ。その意味で<実践>(プラクティス)という伝統的な概 念は、クリシュナムルティによって再構築される可能性をもつだろう。相手と 全体の状況の気配を見ながら、微妙にかつ瞬発的に動くこと、あるいは動かざ るをえないこと、それが教えることは、認識とは相手よりも何よりも自分がい ち早く変わることである、ということだ。そうしないと相手に打ち負かされて しまう(つまり機械的反応に巻き込まれてしまう)、自分自身とその認識の位 置に対して常に小さなステップを刻みながら差異と変化を加えないと、ものは 見えてこないということである。……<見ること>をあえて定義すれば、それ は感じる(反応する)ことではなくて、自己が変わる自己差異化、というきわ めてリアルな事態を意味するのである。 そうしたインプロヴィゼーション的な実践のためには、自我のプログラミングを全 的に気づいていることが必要である。Kはそれを注意(atenntion)と呼んでいるが、 それは「主体的な注意」などというものではなく、中心に「観察者」がいない気づ きの状態のことである。それを「瞑想」ということもできる。そしてそれを「自然」 が開示される瞬間でもあると著者はいうのであるが、それは「ただ沈黙としてある」 という。Kはその「自然」の力を「アザーネス(otherness)」、「他なるものであ り、形も実体もなく、世界の至る所にありながら徹底的に他なるもの/外部的なも の」と呼んでいる。 これはいわば「自ずから起きる」という「自然(じねん)」の思想に近いのだが、 Kの場合はそこに「見ること」ということが残されている。そういう「まなざし」 が実現したときに「自発性(spontaneousuly)」が起き、その中にこそ真の「主体」 がある。そしてその「非人称的なまなざし」は「アザーネス」からやってくる。 *「Kに寄せて」の項、続く。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01274/01277 GGA02514 KAZE 自由のために(2)Kに寄せて/自由の基盤 (13) 94/05/15 20:05 (承前) ざっと、Kの「見ること」「自発性」「アザーネス」といったことについて著者の 考察を追ってきた。そしてこうした見方は、現代人にとって非常に重要なものだと 思う。実際に十年ほど前にこうしたKの言葉にふれたときの「気づき」というのは、 その後も僕のなかに確かな「種」となって育っているのは間違いないことだ。 しかし、以前からKについて指摘してきたように、その有効性というのは、主に 「条件づけ」され、自らのなかにダブルバインドを抱え込んだ、いわゆる「大人」 に対してなのだと思われる。もちろん、子供であっても、条件づけによるダブルバ インドによって既に内なるプログラミングを絶対化しているのであれば、それはも はや「子供」ではなく、まぎれもなく既にその部分は「大人」としてとらえねばな らないのだが。 ここで何が言いたいのかというと、人はまったく最初から「条件づけ」なしで、成 長してゆけるのかどうかということである。「守破離」という発想があるが、Kの 「自発性」というのは、この「守破離」における「離」にあたるものではないか。 そう思われる。「離」というのは、最初の「守」、つまり「型」の修得ということ が前提となる。シュタイナー教育などの視点でも大事になってくる点に、たとえば 7歳からの7年+αの時期には「権威」というものがなければ、その後の人生にお いて確かな地歩を気づくことが難しくなるというのがある。これはむしろ、その後 自らを自由にせんがための魂の気分とでもいったものを作り出すための前提となる ものであって、そのときの具体的な「権威」への盲従ということではないのは、誰 にでもわかることである。「条件づけがいけない」ということを、生まれた子供の ころから実践させていくと、人間がどのように育っていくかということを考えれば よくわかると思われる。それは土台なしの家を建てようとすることに等しいのであ る。 そういう意味でシュタイナーは「自我」の積極的な意味をいう。もちろんそれは、 Kのいうような意味でのプログラミングされたものという意味のそれではない。魂 の中心としてのそれである。中心がない「離」というのは、無秩序になってしまう。 朝顔に添木なしで上に向かって成長せよ、というのに似ている。「守」なくして 「離」を求めるのに似ている。 シュタイナーのカルマ論についてもこれがいえて、それによるとカルマというのは、 人間がこの地上を歩む場合の大地、魚が生きていく上での「水」のようなもので、 それから自由になるということは、それ自体が矛盾しているということになる。魚 を水から出してやって、「ほら、おまえは自由なんだ!」っていうのは馬鹿げてい るのである。 「自由」とは、無闇なものではない。中心がない「アザーネス」というのは無意味 なのである。それは「条件づけ」「プログラミング」からの自由であって、それが ないところに自由はないのである。鏡で自分の顔を映すには、自分の顔をそこにも っていかなければならないように、顔がないものを鏡に映すわけにはいかない。K の発想は、ともすればそんなお化けのような発想に飛躍しかねない部分があると僕 は思うのである。それは「自発性」の基盤づくりというプロセスについての配慮が 欠けている。たとえその基盤が「マーヤ」であって、最後にはそれを「見破ったり !」と言うことになったとしてもそれは必要なプロセスなのである。 「自我」は不要なものではない。むしろ、それはその自らの条件づけについて意識 し、自らの感情を「器」にするためになくてはならないのである。「聖杯の秘儀」 といわれるものはそれに関連したことである。人は、自らを「聖杯」にしなければ ならない。その「器」こそが「自発性」に他ならず、「アザーネス」であるのであ る。そこには「見るというまなざし」はあるが、いっていれば「非人称」なのであ る。 以前、こうした発想に近いものとして、世阿弥の「花鏡」にある「離見の見」とい うのを紹介したことがあるが、参考までにそれを改めて紹介したい。  いったい、観客によって見られる演者の姿は、演者自身の眼を離れた他人の 表象(離見)である。いっぽう、演者自身の肉眼が見ているものは、演者ひと りの主観的な表象<我見>であって、他人のまなざしをわがものとして見た表 象<離見の見>ではない。もし他人のまなざしをわがものとして見ることがで きるならば、そこに見えてくる表象は、演者と観客が同じ心を共有して見た表 象だということになる。……したがって、われわれは他人のまなざしをわがも のとし、観客の眼に映った自分を同じ眼で眺め、肉眼の及ばない身体のすみず みまで見とどけて、五体均衡のとれた優美な舞姿を保たねばならない。これは とりもなおさず、心の眼を背後において自分自身を見つめるということではな いのだろうか。         (世阿弥「花鏡」(中公バックス日本の名著10/山崎正和訳) この「離見の見」というのは、この引用にもあるように「我見」ではない。という ことは「非人称」でもあるということではないか。そしてそれは単なる「非人称」 ではなくて「見るまなざし」という中心のある「非人称」である。このことは、仏 教的にいう「無我」ということにも繋がってくるテーマである。諸行無常であり諸 法無我であるが故の涅槃寂静であるということ。その涅槃寂静はその言葉からイメ ージされるようなスタティックなものではなく、Kについてご紹介したような、 「見ることのインプロヴィゼーション」であり、それは即実践である気づきに他な らないのではないか、そう思われてくるのである。そしてそこにこそ、「自由」と いうことが見えてくるのではないか、そう思う。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01275/01277 GGA02514 KAZE RE:東理論の基本的考え方 (13) 94/05/15 20:34 01271へのコメント YUIさん、どうも。 >高次元の視点を獲得している必要がある、という部分ですが、 >僕は、人間とは本来そういった視点どころか、 >次元間の移動を容易に成し得る能力が、 >その神性の内に秘められているのだ、と思うのです。 >どういうことかと言うと、 >我々の肉体は、高次元に存在する我々人間の姿が3次元的に現れたものに >すぎないのだ、ということです。 そういうイメージを僕も持っています。 ただ大事なところは「3次元的に現れたものにすぎない」というところで、 すべてを忘れ去って生まれてきて、3次元といいうマーヤ世界で、 こうして右往左往していることの意味を忘れてはならないんじゃないか。 そう思うんです。 もちろん、「神性」というのは誰の内にも秘められているのでしょうが、 それを顕現させるかさせないかということは、 まさにそれぞれの「自由」なわけです。 それと、「高次元の視点」の獲得のためには、 「私」という「人称」の「無我性」とでもいうものを 意識の在り方として獲得しなければならないんじゃないかと思っています。 つまり、「私」を別の次元の「私」にしなければならなくて、 その場合、もはや「私」は「私ではない」ということになります。 それを「非人称」ということも「無我」ということも、 「私の拡大」ということもできるだろうと思います。 そして、その基盤は、この3次元というマーヤ世界にあります。 それを否定するのではなく、その内にいながら、 己の「神性」の部分に気づき、意識をシフトさせること。 >さて、あなたに無限なる神性はあるか? ううむ、少なくともまだそれは顕現していないようですね^^;。 少しでもそれに気づけるよう、かんばりたいと思っています。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01276/01277 NBB01420 SUKE RE:空間のコンピューター (13) 94/05/15 22:28 01264へのコメント  #1264 《 隆 》さん、はじめまして。  (あれ?RTで会ったことありましたっけ?)  現在のコンピュータは教えたとおりの作業を一つだけこなすという方法から  逃れていませんね。複雑なプログラムにより、環境に応じる反応の決め方が  複雑なだけです。  そういえば人工知能のハードウェアの話で、こんな実験の話を聞いたことを  思い出しました。                =====  一本の棒を立てます。普通はすぐに倒れてしまいますが、モーターで自在に動く  床の上に立ててやり、倒れそうになるとコンピュータがそれを検出して、  床を動かして倒れないようにする、という実験装置でした。  最初は観ている誰もが「何だ、こんなの簡単じゃないか」と思ったらしい  のですが、制作者がハードウェアのラックから、ボードを一枚抜き取った時に  驚きが走ったそうです。  それでも棒は倒れませんでした。揺れが大きくなったものの、まだ床が補正動作を  していたというのですね。  普通はボード一枚抜かれたら、コンピュータは正常に動作しません。しかしこの  人工知能は、細胞が一つ減っただけで基本的には同じ作業を続行出来るのです。                =====  複数のコンピュータを有機的にリンクする方法により、真の意味での並列処理が  実現するという例だと思いました。  複数CPUのネットワークというのは案外いろいろな事が出来るのかも知れない  ですね。                    遅くなりました(^^)…☆ッテナモンダ Suke. 01277/01277 GGA02514 KAZE 蜜柑の花の薫に包まれて (13) 94/05/16 01:18 01272へのコメント 隆ちゃん、どうも。 このところ裏が蜜柑山のわが家は、蜜柑の花の薫につつまれています(^^)。 この季節になるとこの薫を胸一杯に吸い込むのがとても楽しみです。 僕の住んでる愛媛県は蜜柑の生産量が全国でも有数で、 県内どこにいってもこの季節には蜜柑の花の薫に満ちているのですが、 やはり他の地方ではこういうのってなかなかないんでしょうね。 >ドライブもいいですが、瀬戸内の島々を巡るのなら自転車なんていうのも魅力的だ >なぁと思いました。なんせ気候が良いですから。 そうですね、自転車も確かにいいですね。 近頃運動不足でもありますから、その準備も兼ねて、 自転車でいろんなところにいく習慣でも身につけるかな。 自転車というと、そういえば学生時代以来、ほとんど乗ってませんね。 当然、僕用の自転車も今やない状態です^^;。 そのうち通勤なんかも自転車でするようにするかな。 自転車で行っても会社までだと20分はかからないくらいですから。 >普遍性&客観性=個人差からの離脱みたいな感覚が科学にはあるように思います。 哲学者なんかだと、科学の認識論なんてのも勉強するんでしょうが、 科学者っていうと、あまり自分の基盤でもある認識論ってあまり考えないみたいで、 だから、何でも自分は客観的に見ているんだと素朴に考えてしまうんでしょうね。 そもそも科学と哲学っていうのは別のものでもないはずだのに、 いつのまにか科学者が単なる技術屋さんになってしまったんでしょうか。 科学者と技術屋さんというのはちょっと違うと思うのですが、 今ではほとんどいっしょくちゃになってしまっているようですね。 数学でもそうですが、科学も歴史を辿ってみれば、 ほとんど魔術と同じようなものなんですが、 技術屋さんていうのは、そうした歴史っていうのを無視する傾向にあって、 今現在の先端技術ばかりを見る癖がついてしまっているから、 そのそもそもの在り方について目を塞いでしまうことになっているんでしょう。 ニュートンだってほとんど魔術師だったのにねぇ^^;。 数式のもとをつくったデカルトなんて、ほとんど薔薇十字ですし。 >不思議な事にというか、当たり前というか、こういう勘違いはいわゆる新興宗教な >どにも顕著に現れるようです。 盲目の科学者も盲目の宗教者も、「盲目」という点ではまったく同じで、 それはどちらも「鰯の頭」的な「信仰」以外のものではないんですよね。 特に新興宗教の多くは、「病気直し」などの御利益が餌になってますから、 かんじんな部分っていうのがどうでもよくなってしまうんです。 結局、「自分を見つめる」ことができない人こそ、 宗教者になりやすいっていう逆説が生まれてしまうんですよね。 何度も言っているように、「宗教性」と「宗教団体」っていうのは別モノで、 現代では宗教性を自覚しようとすれば 団体さん的になることは考えにくいと思います >少し消極的な方法かもしれませんが、僕はクールダウンというか、時々立ち止まっ >てみる事が有効な気がしていますが、どうでしょう。 >大きなエネルギーも一度に大量に出さなければコントロールは容易です。 そうですね、いい考えですね(^^)。 一気にできないことは、小出しにすればOKってことですよね。 千里の道も一歩から、ってことで、最初から大きなことを考えるより、 自分の処理可能な範囲を着々とコントロールしていくのって大事だと思います。 >「場」という事を考えるとなおさらそうなのですが、僕には「波動」というよりも >「振動」という方がピンと来るところがあります。 「振動」っていうと、何かが振動している、となって、 「振動」しているものと「振動」とが別のモノのように イメージされてしまいませんか。 そうなると結局唯物論的な観点を基盤にしてしまうことになりかねません。 「波動」っていった方が、誤解が少ないような。 ま、僕にもそう確かなことが分かるわけでもないから、 これについてはそのうちちゃんと分かる範囲のことを調べてみることにします。 >自分の国に誇りを持っていない人間には、その国の良いところも悪いところも見え >はしないと思います。 先日、渡辺昇一さんの「日本史から見た日本人・古代編」というのを読んだのですが その「はじめに」にこんなことが書かれてあって、なるほどと思いました。  愛と誇りのないところに、どうして自分のアイデンティティを洞察できよう か。非行少年の多くは、自分の親に対する愛と誇りを失うことによって、「ど こそこさんの家の子」という第一義的なアイデンティティを失い、それを補う ために、非行グループという偽のアイデンティティを得た者たちであるが、同 じように国民が自分の国の歴史に対する愛と誇りを失えば、日本人としてのア イデンティティを失い、日本よりさらに野蛮な国に、自分のアイデンティティ を求めたりすることになるのではなかろうか。  日本史の暗黒面ばかりに関心を持ち、日本の悪口を言うことを正義と思って いる人たちの書いた本をも、私は喜んで読む。それはそれなりに面白いし、ま た教えられることもあるからである。それに自分の国の悪口ばかり言っている 人を自由に活動させておくこと自体、現在の日本が高い文明状態にあると思い、 それを誇りに思っているからである。日本の悪口を書いたり言ったりすること ができないような国になってもらっては、一番困るのだから。  それに、私の親の旧悪をいくら他人が暴露したところで、私の親に対する私 の愛情は揺るがないのと同様に、日本の歴史をどのように暗黒で塗りつぶされ ても、私の日本に対する愛情は、少しも動揺しないのである。 この渡辺昇一さんの面白いところは、専門が英語学で、 ドイツ、イギリス、アメリカと留学して、 他の国のことも非常によく理解しているからこそ、 自分の国のことがよくわかっているように思われるところです。 それだけ視点が多いからこそ、日本人の自虐的な在り方に対する アンチテーゼとしての日本史を書いたのかもしれませんね。 僕は生まれてこの方、どうもエイリアンのような感じで^^;、生きてきてまして 「日本に対する愛情」が果たしてあるのかどうかはわからないのですが、 一応、この知に生まれた以上、それなりの誇りを持ちながら、 批判的であるべきところは批判的になり、 誇るべきところは誇りたいというふうに思っています。 「インターナショナル」な視点というのは特に現代では大事だけれど、 その基盤はやはり「ナショナル」なわけで、それを無視はできませんからね。 やはり、そこらへんのことをちゃんと教育でも教えていくべきですよね。 それを妙な在り方にしてしまう現代の教育っていったい何なんでしょう。 それって、自分のことはかまわなくていいし、見る必要はないけど、 人のことだけ考えていなさい!っていうのと同じですよね。 >日本人も含めて、アジアの人たちは西欧に対して妙なコンプレックスがあるようで >すが、これって一体何なのでしょうか。 やはり、長い間の植民地支配の慣性の法則ってやつかもしれません。 それがある種のトラウマになっているから、 「いじめられても、ま、仕方ないか」ってことになっている。 でも、「日本人は同じ黄色の猿だから許せない」っていうこと。 それに、明治維新でいきなりなりふり構わず西欧に学べ!っていうことで、 表面はなにもかも見境なく何でも真似してしまったのも軽蔑の対象だったのかも。 韓国との軋轢のはじまりはそこらへんにも原因があったようですね。 >このあたりの西欧コンプレックスを助長しているのは、きっとマスコミとそこに登 >場する頭の腐った(^^;)知識人と呼ばれる人々なのでしょうけど、「マスコミ複合汚 >染」が進みすぎると、逆言論弾圧がおこるような気がしますね そもそもマスコミで飯を食ってるのは、あの安保時代に、 公の職業につけなかった方々で、就職先がそこだったから、 ほとんどやっかみもあって、反権力の権化となったんですが、 今度はそのマスコミが、アホな大衆を見方につけて、 いっしょに反権力=嫉妬の最大権力になってしまっているということです。 ちょっと前から筒井康隆さんなんかの絶筆宣言でもクローズアップされている 「差別用語」の問題でも、ほとんど「逆言論弾圧」ですよね。 現代では、「自称弱者」というのが、こうしたマスコミと結託して、 「逆差別」のための権力を持ちすぎてしまっているのが実状で、 そうした方の多くは、「他の方のために」という思いやりではなく、 「自分のために」というエゴを基調としていますから、問題は複雑になります。 もちろん、正当な差別への抗議や福祉面での改善などは非常に重要ですが、 そうした「逆差別」っていうのは決してそれには寄与しないと思うんです。 >そういうJIZZYの「毒」が許容されるような世の中であって欲しいものです。 はやく、健全なJIZZYの「毒」でみんながそれをネタに 酒でも飲んで楽しく騒げるようなそんな社会になってほしいですね。 それまで、ま、長生きでもしてじっくり腰を据えて、 毒の調合でもしておくことにしましょうか(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):★YHVHの預言解読部屋------------<03> 94/05/16 - 02065/02066 PFH02766 河井 浩美 雛型芝居としての大本2.2 (14) 94/05/15 19:58 だいぶ時間が経ってしまいましたけど、大本の雛型芝居による日本の将来予測です。  この間は大本が昭和8年旧暦の1月1日、皇道大本と改称する少し前までの 雛型芝居を書きましたが、その様子はバブルがはじけるまでの 日本の政治経済文化の雛型芝居であったことは多分お解りであると思います。 今回はバブルがはじけてからの日本に対応する雛型芝居です。  昭和6年、大本は出口王仁三郎の元に活動していたが、この頃から大本の活動に 変化がみられてゆく。  昭和6年9月8日、王仁三郎は聖地綾部本宮山の山頂に三基の石碑を建てた。 この石碑が建つとき、「いよいよ神がおもてにでる。」とも、 「神界の経綸(プログラム)が実行の緒につく。」と大本内部では前々から 知らされていたものであった。王仁三郎はこの日、「これから10日後に大きな事件が 起き、それが世界的に発展する。」と宣言した。しかして10日後の9月18日、 満州柳条溝にて鉄道爆破事件が起こった。満州事変の勃発であった。  この満州事変を期に、王仁三郎は大本の総力を挙げて満州経綸(満州国建設)に 集中している。これは素盞鳴尊(すさなるのみこと)の霊的東亜経綸であり、 日本、朝鮮、満州、蒙古、東シベリアをひとつの経済圏とするものであった。 これはまだ雛型の「満州国の失敗」としてしかしか実現していない。  この2カ月後の11月大本大祭が行われ昭和青年会改組が決議された。 これまでの青年会は各都道府県ごとに組織されていたのが、この時を期して 全国統一組織とされ、王仁三郎が会長となりこれを統率した。 服装もカーキ色(軍色である。)の制服に統一し、疑似軍隊式訓練を行って 団体行動を取るようになった。かくして昭和青年会は王仁三郎の親衛隊的性格となり、 後に結成される昭和神聖会の行動前衛隊として大きな役割を果たす事になる。 (これは現在都道府県単位となっている公の暴力集団が全国組織に 統合されることである。)  昭和7年11月1日には婦人組織も昭和坤生会として統一される。(宗教組織の統合?) このような経緯があって昭和8年旧暦の1月1日、王仁三郎は大本を皇道大本と 改称したのである。(現実には日本の国家目標が大きく変わり、 政治体制も変容していくことである。)  「皇道大本は、建て替え立て直しの雛型を実演して教えを示すところである。 雛型では出雲系の大本でユダヤを世にだし、日本系の皇道でイスラエルを世に出す 仕組である。」と王仁三郎は言う。  この説明とは違うが、王仁三郎が皇道大本を称したのは、じつはすでに一度あった。 大正5年4月22日から大正10年1月10日第一次大本弾圧までの間である。 この時も宗教活動という枠から外れて、政治運動に傾倒して行った。 この時の主演男優は「東大卒の秀才」浅野和三郎である。王仁三郎はというと、 この時は皇道大本の総師としてもっぱら脚本・監督(霊的指導)をしている。  この第一次大本弾圧は大東亜戦争として実演され、 「東大卒の秀才」東条秀樹が浅野を演じ、そして昭和天皇が王仁三郎を演じた のであった。  この二回の皇道大本の仕組において特徴的であるのは、 1.大本教祖が女性であるにもかかわらず(一次の皇道は出口ナヲ、第二次皇道では  教主はナヲの次女スミであった。)男性である一次では浅野が、二次では王仁三郎が  総帥している。 2.大本はおもに宗教的な路線であり、皇道大本はもっと現実的な政治経済の  動きとなっている。この二つである。(現実的には経済優先の国策から、  イデオロギー中心の国策への変化として現れる。) さて皇道大本に改称してからの王仁三郎の動きを列挙すると次のごとくである。 国防運動(もちろん再軍備である。)、五・一五事件被告減刑運動(これは政治腐敗 粛正運動である。)、ワシントン条約破棄運動(今回は輸出自主規制の撤廃運か?)、 国体明微運動、天皇機関説排撃運動(この二つはともに国連改革運動として 現れるだろう。)・・・  提携団体も次のごとくである。軍部、在郷軍人会。政治家、愛国運動諸団体・・・ さて昭和9年1月14日から5月7日ごろまでの間、王仁三郎は側近に命じ、軍部をはじめ 政友会の代議士であった長島隆二や、公爵一条実孝、皇室の一部と協議し、 大日本協同団構想を作成した。この構想に賛同するものは、政界、財界、学者、 法曾界、新聞、文芸、愛国団体、仁侠など各界層の有志をほとんど網羅していたが、リ ーダー・シップの問題で消滅となり(多分世界支配グループの一部との連携を 考えるが消滅するのだろう。)、昭和9年7月22日の大本を母体とする昭和神聖会の 発足となる。  発足式は九段の軍人会館(今の九段会館)で、発足会に集まった者は約3000人に 及んだ。出席者は内務大臣後藤文雄、衆議院議長秋田清、貴族員議員津村、 陸軍中将安藤紀三郎、渡辺良三、佐藤清勝、貴志弥次郎、黒龍会の頭山満、 松岡洋右をはじめ大臣4名、貴族院議員4名、衆議院議員11名、陸海軍将官15名、 大学教授7名、講師4名といった壮そうたる面々であった。  昭和神聖会統官は出口王仁三郎、副統官内田良平、出口宇知麿であった (日本を中心とした反世界政府、反国連グループが出来る?)。 長くなってしまいましたので、今回はここまで。 現在はすでに第二次皇道大本の時代に今今入るところである。 02066/02066 JBH02324 なえ 苦界 (14) 94/05/15 23:20  苦界 苦蓬 苦艾   にがよもぎの意味は、親しくしていた人の別れに涙する事だそうだ。  チェルノブイリのネームにもなっている???。  草餅のシーズンももうすぐ終わり。 - FARION MES(18):★あもりの二人三脚ネットワーク------<01> 94/05/16 - 00980/00982 JBH00712 桂 桂 RE:わりコメで〜す(^^;) (18) 94/05/15 16:16 00979へのコメント コメント数:1  #00979   始まりは何処からだったんだろうね? 桂 桂(JBH00712) 00981/00982 JBH00712 桂 桂 差 (18) 94/05/15 16:16  差を取るということが言われるようになって久しいが、 では「差」とは一体何なのだ?  あなたと私の違い?  男と女の差?  違いが在ると言うのなら、まずそれ以前に「基準」が なければ相違もよく解らんだろう。  基準は自分自身だ。  平たくいえば「自分のモノサシ」。既成概念。  それを知らずに、他者との「差」などありえるか?  自信がなければ人目を気にして行動を抑制しがち。  自信があれば自己の行動の意味を振り返らず。  にもかかわらず、自己の心血より出た言葉(何と抽象的 表現!!)は理屈抜きでスンナリ入って来る。「素直」に うんうんそうだね、と納得出来る。アンビバレンツ。 桂 桂(JBH00712) 00982/00982 HGE02116 MAKOTO 始まりかぁ… (18) 94/05/16 01:28 00980へのコメント  あたしの始まりは、憤りと哀しみ… そして、「なぜ?」という疑問かな…               MAKOTO