- FARION MES( 6):・壁(1)=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 94/05/26 - 02389/02389 GBG02755 すまる なんと言うこともなく・・ ( 6) 94/05/25 22:34 本を読んでいて、ふと思いついた疑問。 一つの場を守っているリーダーと言う存在は、 究極の選択を迫られたとき、何を選ぶのだろうと。 つまり、その場に参加しているメンバーの可能性と、その場の可能性の どちらか一方を選ばなくてはいけないという場合のこと。 両方を選ぶことが出来れば、確かに素敵な解決方法であるけれど、 どちらかを生かす、つまり、どちらかを殺す選択であるという時、 何を選ぶのだろうと・・・ それは、いろいろなケースがある。 メンバーが、大切なポジションにいる場合とか、新参ものである場合とか、 古株である場合とか、いてもいなくても構わないような場合とか・・・・ すまるはHPを主催しているので、そういう究極の場面に来たらどうしようか、 などと思いあぐねていたりする。 実際には、場を選んぶだろうなあ。 ま、大したHPではないので、それほど深刻なことに至ることはないけど・・・ しかし、個をつぶしてまで、維持するほどの価値がその場にあるのかどうか・・・ ・・・・おもいっきり深刻してしまうだな・・・こういう問題は。(-_-;) 算数出来ないのである。                            すまる - FARION MES( 7):★アリオン世紀末書込み寺------------<02> 94/05/26 - 02324/02327 MHD02502 ARION ARIONよりセン・シュアへ ( 7) 94/05/25 21:43 02323へのコメント  #02323 セン・シュア  あなたが自分を観るためにこの会議室で会話をしたいと望み、  そして他の者達の自分を観る行為を遮らず、  且つ、他の者との会話をする時の「礼儀」を弁えることを、  明確にするというのであれば、ここで会話を続けなさい。  フォーラムとは、あるテーマを掲げた場であり、  その中に20近くの細密なテーマを持つ部屋があり、  その部屋には各々リーダーとなる議長が居る。  そしてそこには既に会話をしている人達が居る。  あなたは部屋の扉を開けるなり、「私のやり方は、こうである〜」と主張し、  会話上での自己紹介に当たる部分(自分の経験を詳らかにすること)を、  厭う発言をした。  また、以下に転載する部分に見られるような思い込みの強い断定的な意見が多く、  それについて質問してくる者に明確に答えることをしていない。 (#02323 よりの転載部分) | 私のより内面に関わる部分に関しては、すべてその思考方法によって扱われている | ため、そこに関する合意なしでは、私はより突っ込んだ言葉を語ることはできない | のです。 | | もちろん、私の体験のすべては、ここで一般に用いられている様式で解釈すること | ができますし、結局思考パターンなどというものはイメージを言葉に移す際の道具 | にしかすぎない訳ですから、その目的と、精度に応じて使い分ければいいのだとも | 思います。 | | しかし私は、自分の体験をオカルト的に評価されるのが嫌だし、オカルト的にはそ | れほど価値もないし、興味を引くようなものでもないのです。ただ私の価値観に基 | づく場合のみ、それらは価値を持つようになるからです。  自分を観るということは、自らが見知った自分自身を断定的に論じることでは無い。              ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^  自らの内部にあるものを見つめること、  それは殆どの場合において恥を伴うことであり、  多くの場合、非常に辛く苦しいものであることは否定しない。  しかしそれを避けて記号としての言葉を幾ら構築しようが、  幾ら優れていると喧伝される論理で糊塗しようが、  無駄に終ると言い切っても良かろう。  セン・シュア、あなたはこの会議室の仲間や私に何を求めているのか?  自らの体験や修行に依り辿り着いた結論を顕しているのか?  あなたは何を知りたいのか?  求めるものが明確でない限り、曖昧な答しか私は渡さないのだよ。           −−−ARION,O∴O−−− 02325/02327 JCF00616 優位 鏡のなかの鏡 ( 7) 94/05/25 22:04 02311へのコメント RE:#2311/TO:セン・シュアさん  【変容・統一・調和のヒント】                〈?〉                 ↑                 統一                /|\               / | \              /  |  \             /   |   \            /    |    \           /     |     \          /  変容  |  実践  \   ・・・  知 ←────→知 ←────→ 知 ・・・            争い       争い            ↓        ↓          不幸・災難    滅亡・殺戮  ■非難されている点  あなたが、この会議室で非難される点を、簡単に挙げてみます。  ・非人間的(?)なコトバ、例えば「思考パターン」「ビジョン」   「分析」などを頻繁に用いる。しかも必ずしも、客観的とは言えない。  ・レスをする際に、かなり長い範囲を引用し、   それに対して、分析を試みる傾向が強く見られる。  私は、あなたの血肉の通った、生身の言葉が聞きたいのです。  いかなる知的な会話も、あなたが本当に何か悩みがあるかぎり、  単なる妨げとなることでしょう。  このフォーラムには、知識の豊富な人も居れば、教養のある人も多い。  しかし、実践には到らない方も、少なからず居られます。  そんな中で、あなたは発言なさっている事を、よく自覚して下さい。  「知」と「知」の対立で終わってしまう事ほど、つまらないものはありません。  ARIONも以前いっていましたね、鏡像VS鏡像の対話は、むなしいものです。  【鏡のなかの鏡 第16話より】    この紳士は文字だけからできている。きわめて多くの文字でできている、   それはあたりまえの話。文字の数は天文学的。とはいえ文字だけでできてい   ることに、かわりはない。    ここに彼の女友達がいる。見てのとおり、彼女は肉と骨からできている。   しかしまあ、なんたるものからできていることよ!そいつは見るだけでも愉   しいぞ──ましてや、触れるとなると、なおさら愉しい!    さて、ふたりは連れだって歳の市にでかける。舟形ブランコ、そして観覧   車のところでは、まだ万事順調である。ところがそのあとふたりは射撃台の   ところへやってくる。ちょっと風変わりだが、射撃台にはちがいはない。    汝の力をためせ!と上のほうに大書されている。そして、ずっと下のほう   にルールが書いてある。読んでみると、ルールはたったの三つ。     一、撃てば、かならず当たる。     二、当たれば、おまけにもう一撃。     三、最初の一撃は、無料。    紳士は、女友達の腰に手をまわしたまま、注意深くルールを研究する。男   は急いで立ち去ろうとするが、女は男に存するはずのないこのゲームをやる   べきだと迫る。男の力のほどを知りたいのである。    だが紳士はこばむ。    「ねえ、どうしてやらないの?困ることでもあるの?」    困るのは、標的がまったく異常だからである。つまり金属の鏡にうつった   自分の鏡像めがけて、いいかえれば自分自身にむかって、撃たなければなら   ないからである。そして文字でできた紳士は、自分の現実性に自身がないの   で、そういう大胆なやり方で自分と自分の鏡像との区別をつけることができ   ない。    「撃たないのなら」と女友達はとうとう怒りだす。「あなたとはお別れよ!」    男は首をふる。そこで女は別の男と行ってしまう。その男は、肉と骨には   心得のある肉屋の主人である。    紳士はその場にとどまったまま、女の姿を追う。人込みのなかに女の姿が   消えると、紳士はゆっくりこわれはじめ、ちっぽけな小文字たちの小山とな   り、大勢の人がそれを踏んづけていく。    こんなことになるのなら、紳士は撃ってみてもよかったのではないだろうか?     ────ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』丘沢静也訳(岩波書店)  【Questions 〜読解の指標にしてください〜】  ▽天文学的な数の文字から出来た紳士とは誰に対応している?  ▽肉と骨をもった女とは何だろうか?  ▽紳士は、ルールを注意深く研究する。誰かの姿に似ていないか?  ▽自分の現実性に自身のない紳士は、自分と自分の鏡像とを区別出来ない。   区別出来ないのは、なぜか?  ▽小文字たちの小山を、大勢の人が踏みつける。   これはこのフォーラム内の状況に対応するが、それがわかるか?   こたえは、あなたの内面にあります。   私は、お力添えをすることはできません。   どうぞ、セン・シュアさん自身の力で答を発見してください。     ── セン・シュアさんの天命が完うされんことを祈って ── 〓 YUI ⇔ TANAKA Masanori 〓 02326/02327 KHC01313 まるにちょん ARIONはお日様なの ( 7) 94/05/26 00:43 ARIONへ  久しぶりにあなたにMESします。   つい最近ですが、妻とあなたのことを話していますと、2才になります娘が  急にこう言い出したのです。   「ありおん、どこにいるの? ありおん、お日様のなかにいるの。ありおん、   光ってるの。お日様なの。」  思わず、妻と顔を見合わせてしまいました。びっくりするやら、おかしいやら。  ひょっとして、彼女はARIONがみえるのかななんてアホのことを考えたりして。  親バカですが、ほほえましかったので書き込みしました。  では、また。             親バカちゃんりんのまるにちょん、○=ゝ 02327/02327 GDB00064 オリハル RE:オリハルさんの雰囲気って? ( 7) 94/05/26 13:46 02321へのコメント ええ、外見上では普通でございます。 そ、それとオ、オフには行く事になるかどうかは 神のみぞ知るでございます(^_^;)。               オリハル - FARION MES( 9):★TAO の《神々の曼陀羅》―美と信仰と史― 94/05/26 - 221/225 JBH02324 なえ 長いファイルが続きます ( 9) 94/05/26 14:52  これまで続けてきたシリーズが長編になります。RE:139 で始まるファイルです  一個の大きさが各々3000バイト程度あります。興味の無い方、長くて困る方  は、遠慮無く、このシリーズを外してお読み下さいませ。                   蝶ンブレサリョ なえ 222/225 JBH02324 なえ 伝承の真偽と流れ1(長文) ( 9) 94/05/26 16:26 139へのコメント  「たなばた女」と言えば、7月7日の七夕が思い出されますが、棚機を伝える話  は全国各地どころか中国まであります。ちょっと長いですが、概要を書いてみま  す。長いので興味の無い方は飛ばして下さいね。 ***********  天雅彦草紙  ある日洗濯していた女は「毒蛇」から手紙を頼まれて長者の所に届けた。長者の  三人の娘を差し出して、豪華で巨大な家を建て、そこに嫁として住まわせる。さ  もなければ殺してしまうと言う。しかし、誰も大蛇の嫁など気味が悪くて受けな  い。やさしい末の娘が長者の悲しむ姿を哀れんで、その話を了解した。  指示通りに作った邸宅に、末の娘が機を織りながら待っていると、巨大な蛇が現  れた。驚く娘に蛇は、刀で頭を切る様に伝える。そこから出て来たのは美しい天  上人の姿だった。その人を「あめのわかひこ」と言う。睦まじく暮らす内にワカ  ヒコは自分の正体を海龍王である、と告げる。やがて留守中、様子を見に来た姉  達に、妹は、絶対に開けてはならないと言われた箱を無理矢理開けられてしまう。  これが開いてしまうと、二度とは帰れないという言葉通りに、ワカヒコは、いつ  まで待っても帰らない。  そして帰らない時は「一夜杓」という物を持つ女にそれを貰えば天に来る事が出  来るから、と言われた通り、夫を求めて天へと向かう。しかし二度と帰れない事  を思うと、両親の嘆きが忍ばれて、後ろ髪引かれる様にしながら。  さて、天に登ってみると、白い狩衣を着た男に出会う。それが「夕づつ、宵の明  星」そして、さらにワカヒコを尋ねて出会ったのが「ほうき星」さらに「すばる  星」しかし誰もワカヒコの居場所を知らない。が、やっと出会った輿に乗った人  に尋ねてワカヒコの居場所を知り、やっと巡り会う事が出来る。  所が、喜びに浸る間もなく、ワカヒコの父は鬼であり、見つかると酷い目に合う、  と言われ、父鬼が来る度、ついたてや、枕等に次々と姿を替えて、その目をごま  かすが、ついには見つけられてしまう。父鬼はワカヒコから愛しい妻を連れ去っ  てしまうと、容赦無く仕事を言いつけて、難題をふっかける。しかし、ワカヒコ  は、密かに自分の衣の袖を解いて彼女に渡し、呪文を言えば、父鬼の命令は難な  くこなせてしまうと伝える。その通りにどんな困難も姫はこなした。  この様子に父鬼は降参したのか、二人の関係を許そうと言う。だが、それは、月  に一度だけである。という事だったのに、聞き間違えたワカヒコは、年に一度と  言い返してしまい、父鬼はこれ幸いと、年一回と言う事にしてしまった。そして  父鬼が投げつけた瓜が川になり二人を隔ててしまう。こうして、二人は天の川を  挟んで年一度だけ逢えると言う。 ***********  天人女房  天から来た美しい娘に一目ぼれした男は衣を箱に隠して夫婦になる。しかし、や  がて生まれた子供に聞いて、衣を取り返した女は天へと帰ってしまう。忘れられ  ない男は、夕顔の種を蒔いて、蔓を延ばし、その蔓伝いに天へと向かう。やっと  出会うが、頼まれた畑仕事をしている内に、女が切るには構わないが、男が勝手  に切ってはならないと言われた瓜を、喉が乾いて食べたくて我慢できず自分で切っ  てしまう。切った瓜からは水が溢れ、大きな川になり二人は離ればなれになった。  年に一度だけ互いに呼び合って、逢う事が出来るという。                            新潟の昔話 ************  あもれのはなし 注:あもれ(天人)  男が薪を拾っていると美しい女が水浴びをしていた。男は着物を隠して、夫婦に  なった。女房は二人に出来た子供が唄う童歌にハッとして、その通りに隠された  着物を見つけ、天に返る。男が女を追って天に登ると、畑仕事を言いつけられる。  そして、瓜を作るが、縦に割らなくては食べてはいけないと言われたのに、横に  切ってしまったので水が溢れ、二人は隔てられてしまう。雨が降らなければ、年  に一度七夕の日に渡って逢えると言って、この日は雨が降らない様に、祈ると言  う。                            奄美の話 ************  天の瓜畑  天の瓜畑は、タナバタの星の付近に菱になって見えると言う。 香川県 ************  似たような天人女房の話  山形 岩手 山梨 香川 徳島 長崎 熊本 喜界島等 (概略は近い) ************  中国のタナバタ  張文潜(宋代)の七夕歌 ・ 牛飼いと織り姫 中国昔語り ・  中国武帝の張騫 今昔物語 ・ 北斗七星の生け捕り 西陽雑阻 ・  北斗南斗 捜神記 ・ 朝鮮北斗 朝鮮 ・ アイヌの北斗 北海道 ************  以上、引用が多くて申し訳ないのですが、この中に幾つかの面白い事が隠されて  います。  ・龍と人間が夫婦になる。(本来は出来ない事)  ・蔓や紐で天に登る事が出来る(二度と帰れない)  ・瓢箪(一夜杓)の様に空洞の物が二種の世界の仲立ちをしている。  ・瓜を切ったら水が出て川になって、二人を分けた。  ・瓜は天の畑にある。(北斗の近く)  ・女(姫)は機を織る。(たなばた女)  伝承は、天人伝説・羽衣伝説・浦島伝説・北斗信仰・龍神を内包しています。  それぞれに逸話として伝承されながら、連綿と続いた中にはとてもシンボリック  でありながら、大事な要素がある様です。  根底にある要素を見るなら、水が関係深いと言えるでしょう。そしてそれは、ま  さしく命の源である「作物」が、天体との運行に関与し、天体と作物の相互作用  を最重要視していたと言えるのではなかろうか、と思えるのです。でも、ここの  辺りに陰陽五行を絡めるのはひとまず後で。  特に、前回で引用した   天なるや 弟棚機の項がせる 玉の御統 御統に   穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ  この中にある、「みすまる」という言葉は「すばる」であり、すばるは目印とし  ての意味を持って、すばるが南中する時期と併せて、種を蒔く時期も計られたと  言われます。つまり、農民の伝承だからこそ、農民の暮らしに基づいた、穀物=  天体の位置が、重要であった。そこに伝承される温床があった。と言えるのでは  ないのでしょうか。  天でのすばるは、数個の星が互いに連なる様に見えます。その辺りが、纏めるつ  ながる、すまる、統括するという語源であると言われるゆえんです。また、漁師  もすまるの入り方が変化する事で方角を見、天候の変化も見きわめたと言います。  では、この中から少しづつピックアップして見て行きたいと思います。  あまのさぐめの話はその後に                   蝶ンブレサリョ なえ 223/225 JBH02324 なえ 偽書の真贋 ( 9) 94/05/26 16:27 216へのコメント  こんにちわ NoB さん  そうですね。あたしも「ほつま」が全部本当とは思っていませんね。ただ、あ  ながち、全部が作り物、という見方もしていません。強いて言えば、どんな書  でも、たとえば「ウガヤ」でも「九鬼」でも「竹内」も「津軽三郡誌」でも、  内容の中には、何らかの「真意」が存在するのではないか。つまり玉石混合で  すね。それをみつけたい訳です。  そして、おっしゃる様に古代華僑の戦略かも知れない。ただ、これの初頭に書  いてある、ボートピープル帰化説に近い所に主眼を置いて書き進めている訳で  す。これが、ごっちゃになると、何も見えなくなりそうなのでね。  だから、別段拘り無く批判でも、異説でも、歓迎致しておりますです。  実際、書き方には二種あって、このアーティクルの様に、基本事項なり真意等を書く  場合は、自己の基本内容を根本に置いていますから、その考え方そのものを批  判されたらば、そりゃ反発もありますが、いちお、批判をも受けたい一個の資  料という面で書いてますから、むしろ、そんな批判など頂くと、視点転換にも  なって、有り難い事です。ホント。でも、批判されたい批判文って、トートロジだ  わ。(^^;。それに皆がみんな同じ考えだって、気味が悪いですもの。(^^;  第一、批判は非難と違いますもの。  血縁も、ちょっと言い方が大まか過ぎたきらいがありましたね。実際は、朝廷  等という形としての団体性を血縁システムとして見たかった訳なんで、日本全  部が血縁重視という事は有り得ないとも思います。ただ、地域性とか、部族性  という環境が与える血縁重視的考え方は、存在すると思うのですね。  NoB さんの書かれた文章で礼儀知らずという文面には出会えないですから、多  分そんな事は無いでしょう。でも、そんな風に気にされる所ってとっても好感  持てるから不思議ですね〜。あ、からかってないです、ホント。                   蝶ンブレサリョ なえ 224/225 JBH02324 なえ 伝承の真偽と流れ2 ( 9) 94/05/26 16:28 139へのコメント  ワカヒコを追って行った娘の様に、星の間を巡り捜す話は沢山あります。  びしゃもん (四天王の中の毘沙門天の由来)  天竺の国に長らく世継ぎが居なかった王は、願をかけて娘を授かる。所が余りに  美しく育って、その噂が遠い国にも伝わった。遥かマヤ国の大王から嫁に貰い受  けたいと言われ、強国故に仕方無く姫を嫁がせる。が、道の途中で出会った若者  が「マヤ国を倒すから后になってくれ」と頼み、姫も受け入れ3年待つ事になっ  た。しかし、その若者の勇猛果敢な姿にマヤ国の王は、養子に迎え入れ、沢山の  女を寄せて、大変な歓迎の仕方でもてなし、そのまま何年も住まわせてしまう。  待ち続けた姫はついに死んでしまい、若者の夢に立つ。驚いた若者(太子)は姫  の後を追って尋ね歩く。姫は死んでつつ井にいると言う。  やがて太子は大梵王宮のこがねの「つつ井」を知らないか。と尋ね、僧に出会う。  僧は、ゆうづつ(宵の明星)に尋ねよと言う。ゆうづつは彦星に尋ねよと言う。  そして七夕に出会い、北斗七星に出会い、虚空蔵菩薩、月光菩薩(大勢至菩薩)  日光菩薩(観世音菩薩)、地蔵菩薩と出会う。地蔵菩薩は、こがねの門の内に、  せんだんの木が在り、木の下につつ井があるから、その木に登って待つ様に言う。  木の上で待っていると、姫がつつ井にやってきて、その水面に写った太子に気が  付く。こうしてやっと出会った二人の姿に梵王もあわれに思い、若者の身をつつ  井の水ですすぎ、天の羽衣を着せるように言った。そして言われるままに梵天王  の前に出ると「太子は東の山に行って、毘沙門天王として、姫はその后の吉祥天  女として人々の幸せを願いなさい」と小さい箱と、ひきょうの珠を授けた。  これが毘沙門天と吉祥天女の由来である。  さて、この話を聞いてみて、思い出す話が在る。それがイザナギの黄泉の国から  帰ってみそぎをする話。近いからって即中国からの渡来伝承と言うのは、時期尚  早であると言うもの。  この中で姫は水辺(つつ井)で待っている。つまり水辺で神を待っていると言え  る。と折口氏は言う。神聖な暖かい常世の水が湧き出てくる事を「ゆかわ」と言  い「いずるゆ」とも言う。ここに処女(神の嫁)を置いて神を待つ。その場所を  「たな」と言い、たなづくりの場所で来る神の為に布を織る。たなで布を織るか  ら「たなばたつ女」とも言える。人しれず、その内に歳をとって「ばあさん」に  なり、谷底や滝壷の奥からカランカランと、不思議な場所から機を織る音が聞こ  えてくる。という伝承となって行く。  倭姫   天照大神を奉るためさすらっていたトヨスキイリヒメは姪の倭姫にその代わりを  頼み、やっとの事で伊勢に落ちついた。そこで倭姫は斎宮として留まり、機屋を  建て、天棚機姫の子孫、八千々姫に天照大神の衣装を織らせた。  どうも色々見ていると、機は神聖なものであり、その機を織るのは処女(貞操)  のある女)という感じですね。しかも、井戸(水)にとても縁が深い様です。水  という物を非常に大事に扱っている所は、やはり、コメの国だからでしょうか。  そうして見れば、あながち、中国から渡来した伝承が変化して残っているという  見方は、問題がありそうです。むしろ、もともと在った話が、近いので同じ様な  中に混同されて、いつか同化して行った。と言える面をも、持ち合わせて居るよ  うに思えます。  純然たるオリジナル。という部分は「たなばた」という姿ではないでしょうか。  「ほつま」もその巻物の数を数える時に、何本と数えず、綾という単位で呼びま  す。つまり基本的に機織りを意識してあるからです。                   蝶ンブレサリョ なえ 225/225 JBH02324 なえ 伝承の真偽と流れ3 ( 9) 94/05/26 16:29 139へのコメント  瓜の事、天のさぐめの事  瓜子姫の話  石上の村の中に子どもの居ない老夫婦が居た。寂しく暮らしていたが、信心深い  生活をしていた。そしてある日、瓜の中にでも子どもが出来ないものかと、言い  合っていたが、本当になって、瓜から子どもが生まれた。名前を瓜子と言う。美  しい姫になり、やがて宮中に迎えられる事になった。しかし、この話を聞いた「  天の探女」が某略を計り、うまくだまして姫を高い木の上に縛り付け、自分が  姫に成り変わり、迎えに来た宮中の輿に乗って行こうとした。所が夜になり道を  間違え迷ってしまった。すると木の上から「輿の中にはあまのざく」という声が  して、見上げると、木に吊るされた本物の姫が居て、輿の中には年老いたババが  居るのを見つけた。こうして姫は助かり、宮中で老夫婦と共に裕福に暮らした。  もう一つの瓜子姫  じさまは山に木を伐りに、ばさまは川に洗濯に行った。川の上から瓜が流れて来  た。切ると中から姫が出てきた。名前を瓜子姫子とつけて育てた。姫は機織りを  織りながら、じじさまとばばさまの出かけた留守を守っていた。現れた山母が瓜  子姫子を騙し、とって食らった。そこで瓜子姫子に成り変わり、機を織っていた  が、鶏が妙な鳴き方をする。嫁入り支度をして、馬に乗って出かける姫のそばに  いるババさまに烏が「山母乗ってる」と歌う。その歌に気が付いて、着飾ったの  は山母であると知り、まさかりを持ってくると、姫の仇と、切り殺した。  瓜の話  直会御歌 さごくしろ五十鈴の宮に御饌立つと 打つなるひさは宮もとどろに  舞 歌  ももしきの大宮人の愉しみと 打つなるひさは宮もとどろに                         (皇大神宮儀式帳)   夕顔や 秋は いろいろの 瓢(フクベ)かな 芭蕉   瓜食ば 子ども思ほゆ 栗食ば まして偲はる いずくより   来たりしものを まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ  山上憶良  その昔は「夕顔」は瓜の仲間、瓢箪の花の様です。いまは夕顔と言えば、朝顔の  様な花を咲かせるイメージですが、かつては、夕顔=瓢箪だった。とも言えるの  ですね。  遺跡から発掘される中に、古代のトイレと言うのが在りますが、発見される中に  瓜の種があります。夏の暑い時期から秋まで、喉を潤す、今で言うなら「ジュー  ス」か「コーラ」の様に清涼飲料水の役割を果たして居た様です。  つまり、「瓜」と言えば「水々しさ」「潤い」であり、水と隣接した、とても重  要な食物だったのです。そして、天上人(宮中)にとっても、大切な水分補給物  資だったと言えるのです。  しかし、瓜の中から子供が生まれるという夢想には、何が隠されているのでしょ  う。畑が天にある。空(天)は雨(水)をもたらし、水の塊が瓜となって、天か  らの贈り物の様に、瓜の空洞に水が溢れている。と古代では考えていたのでは?  ないかしら。と思えるのです。  子供は恵みであり、天の恵みの雨と同化して瓜の空洞に子供が宿る。そして、天  の事を「あめ」と言う様に、「あめのわかひこ」は天からの雨の使者とも解釈出  来ると言える。天からもたらされる水の恵みだから龍神とも同化して行く要素が  在る。ここには、天=空洞=瓢箪=瓜=水=子供=恵み=神 という混然一体と  した世界が内包されています。  しかし、ここに邪魔をする存在が有る様です。それを「天の探女」と言います。  天の何を探り、何をしようとしているのでしょうか。                   蝶ンブレサリョ なえ - FARION MES(10):★Dr.Sooの《夢酔い人の部屋》--------<01> 94/05/26 - 00437/00437 JAA02535 ミーモ RE:久しぶりの夢 (10) 94/05/25 23:58 00435へのコメント  はい、解釈ありがとうございます>スウさん  そうですかぁ、「水」ものですかぁ。余談ですが私は水瓶座です(^^;)  私もあのあと色々と解釈してみたのですが、「塔」というのが男性の象徴で、 破られた窓からでる水が・・・・・・・・・・かなぁ?つまり私は「欲求不満」かなぁ? などと思ったのですが・・・・・・・・・。  そういう見方もあるんだなぁと感心してしまいました。 その後夢は観るようなのですが、印象が薄くてメモにも残せないくらいです。                          ミーモ - FARION MES(13):★KAZEの神秘学遊戯団----------------<03> 94/05/26 - 01310/01311 JCF00616 優位 「個と集団」と波動 (13) 94/05/25 22:05 01308へのコメント RE:#1308/TO:KAZEさん  こんにちは、KAZEさん(^^)  共同の時間を生み出す、というお話、とても参考になりました。  ■転がる時計の円周が振幅(波動)に一致する状況  転がる時計は、観測の対象の移動距離を「どこからどこまで」と  指定することにより、円周の長さが決定し、よって時計の大きさは  決定されるという性質をもっていますが、  もしここにばらばらの大きさをもった時計が多数存在するとすれば、  その個々の大きさが次第に影響しあって大きさを一致させる状況は、  ある観測の対象の「移動距離」が一定である必要があります。  「移動距離」が一定である時、その対象は同一の物である、とみなして  よいことになりますから、  時計の大きさを一致させるという状況は、  即ち「統一」ということですね。  個々の大きさを次第に影響させるには、  ひとつの基準となる「時計」が必要ですが、  その時計によって何らかの影響を個々が受けるとすると、  「波動」という概念の導入が出来ます。  もし、波動という一種の関数のようなブラックボックスを通して、  個々の時計の大きさが次第に一致して行く、という状況が存在すれば、  「統一」という状態は、その基準となる時計が近ければ近いほど、  時間的に早く、同じ大きさの時計が生まれて来ます。  もちろん、波動ならではの性質ですね(^^)  近ければ近いほど、というのですから、  宗教的な儀式も個人の波動を、最大の振幅をもつ〈神〉に調整させるという  行為を、集団になってすればするほど、  相乗効果で調整が「しやすく」なってくるでしょう。  宗教が会員を集め、その多くの会員によって儀式をなすのには、  こういった根本的な理由があったのですね。  しかし、現在の実態をみるかぎり、宗教は「死人の葬儀」の手段、  もしくは新興宗教に見られる「ビジネス」となっているありさまですから、  悲しい限りです(;_;) P.S.東理論は、本の余白に図形を書き込んで理解しているのですが、   ああ、ホント、ここにその図が書き込めればよいのですけどね(^^;   そおすりゃ、もっと簡単に読書会ができるのになあ(と、嘆く)。 〓 YUI ⇔ TANAKA Masanori 〓 01311/01311 GGA02514 KAZE 気質の話など (13) 94/05/26 01:23 01309へのコメント 隆ちゃん、どうも。 血液型に拘りすぎるのもなんだけど、 シュタイナーが血液は「特性のジュース」で「自我」であるというように、 それなりの傾向性というのはやはりあるようですよね。 MRTの本を読んでたら、血液型が途中で変わってしまう方もいるようですし、 補正?されたらA型になるということらしいですから^^;、 ま、僕が補正されたら隆ちゃんや僕の相棒のようになって、 バターやマーガリンを端の方からきちんと取るようになるのでしょうね(^^)。 性格の違いということで面白いのが、 シュタイナーのいう「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」「多血質」という分け方で、 先日、シュタイナーの定期的な読書会で、 カルマや教育の話のなかでちょうどこのネタが登場したので、 みんなで、僕は○○質だ、僕は○○質と○○質の半々だ、 などといって遊んでました(^^)。 ご存知の通り、(わかりやすく誤解の多い説明をすると^^;)、 「胆汁質」は勇敢で大胆で指導的、「憂鬱質」は孤独癖があり隠遁的、 「粘液質」は不活発で空想的、「多血質」は気が多くて気が変わりやすい。 そんな分け方になります。 もちろん、僕は憂鬱質がベースで粘液質と多血質が分裂的にちらほらですが、 胆汁質の要素ってほとんどないんですよね。 ということは、僕の場合、その胆汁質的な部分を、 今世で少しなりと獲得しないといけないという課題があるのかもしれません。 でも、いったいいつになったらそれが獲得できるのだろうと考えると、 やれやれとうなだれるしかありません^^;。 ほっといたら隠遁してしまう傾向のある僕なのでした^^;。 >絶妙な関係というのであれば、KAZEさんご夫婦も絶妙ですよね。 ううむ、絶妙^^;。 つきあいはじめてからほとんど人生の半分ほどになりますし、 その間、ずっといっしょにライフワーク的な勉強してますから、 ま、お互い、いいとこと悪いとこを相補しながらやってるんでしょうね。 特に最近思うのですが、人間は長い間つきあってみないと、 その本当の肝心の部分はなかなか見えてこないようです。 出会ってすぐ結婚してすぐ離婚なんていうのは、(それなりの意味があるとしても) なんだかすごくせっかちすぎるように思います。 好きも嫌いも、理解へとたどり着くためには、 長い時間が必要なのではないでしょうかねぇ。 やっぱり、人間同士というのはだてに出会うわけではないわけで、 そこから何かを学びなさい!ということだと思うのです。 もちろん、つらいことだってあるのが当然です。 >「スズキのマー坊と呼んでくれ!」ってやつですね。 この「スズキのマー坊」に乗ってて、変な経験をしたことがあります。 街中で信号待ちをしてたとき、横に泊まったヤーサンが話しかけてきて、 「ニーチャン、おもしれー車のっとるな。なんつー車ぜ?」っていうのです。 ま、確かにちょっと妙な車だし、色も黒だったもので、 なんか気になったのかもしれませんが、そんときはちょっとびびった^^;。 >舗装道路の多さをなんとかしてもらいたいものです。どこもかしもこアスファル >トというのはどうもいただけません。 そうですね、住宅街の細い道にいたるまで舗装してるのって ちょっと行き過ぎなのではないかと日頃から思ってます。 今夜は、夜中になって近くのサンクスに相棒と散歩かたがた アイスクリームなどを買いにでかけたのですが、 その道中でも舗装道路のつまらなさを嘆いていたものです。 歩いていた道は人しか歩けないような細道なのに、 そのことごとくが舗装されているのです。 >本当は相手が僕を認めてくれなくても、僕の不得意分野に秀でた方へ敬意をもって >接する事ができれば、それで良い事なのですが、屁の突っ張りにもならん変なプラ >イドが邪魔する事がよくあって、いかんなぁと後から思う事がしばしばです(^^;)。 そうなんですよね、プライドというのは少し油断すると、 むくむくとこみ上げてきて、ヤーサンのようにインネンをつけにでてくるので とりあえずは、そういうことをちゃんと意識して 謙虚でいようと思うようにしなければね。 ま、ときには暴走してしまうことはやっぱりありますねぇ^^;。 >例によって、幾何学がミクロの世界で有機的に展開しているというイメージがどう >もわかないですが(マクロという観点であればなんとかわかります)、関連のある >所を少しづつお勉強してゆきたいと思っています。 僕もまだまだ偉そうなことはいえなくて、 幾何学的ビジョンについてはまだまだまともに説明できません^^;。 ほとんど直観的イメージだけで勝負してるような状態なのですから。 ですので、少しずつでもいっしょに勉強していくことにしましょう(^^)。 >ちなみに、やまだくんのお母さんとカミさんはほとんどイコールであります(^^;)。 ^^;^^;^^;、やっぱりあの底抜けに明るいけど、 本当はいろんなことが気にかかっているんだけど、 面倒なので普段はうっちゃっといているのだけれど、 あるとき突然スイッチが入ると猛然と行動してしまう、って感じですか?^^;。 しかし、あの家族はどのキャラクターもなかなか味がありますよね。 あのお父さんの哀愁っていうのもなかなかのものがあります^^;。 もちろん、ばーさんに生き写しの?犬もケッサクだし。 >言葉遣いに限っても最近の新聞はちょっと変です。 そうですね、見出しの付け方にしても、意図的な捏造に近いものもあるとして、 記事内容と合ってないようなものもよくありますよね。 記事の言葉遣いってけっこう適当なくせに、 広告表現なんかはけっこううるさいんですよね。 土地の面積表示は、坪ではだめでm2でなきゃだめとか。 ま、言葉への配慮が足りないのは、それを書いてる人を直にみれば 一目瞭然なんですよね。 要するに、コミュニケーションしようという意図がまるでない人が (僕の知ってる範囲でいえば)きわめて多いんです。 >僕は小沢さんが嫌いではありませんが、彼の考え方にはあまり同意できないところ >があります。 そうですね、僕もそういうところはあります。 でも人間としてはなかなか気骨があって好きなんです。 ま、どちらにしても、日本や世界の将来について、 もっとよりよいビジョンはいかに?なんていうレベルの議論がほしいですね。 おっしゃるように、「金権腐敗」やら「強権政治」やらというような議論は 立花隆さんなどといっしょにどっかにまとめて隔離しときたい感じがします。 >昨日、車の中でカミさんと「日本ってどういう国なんだろう」という話をしたので >すが、外国からわかりづらいのと同じように当の日本人にもわかりづらいなぁと思 >います。 昨今の日本人ほど日本人論の好きな国民はいないように思いますが、 的を得ているというか、外国の方が読んでも なるほどというのは僅かのように思います。 そうしたなかで、山本七平さん、渡辺昇一さん、司馬遼太郎さんといった方のそれは それなりのレベルをいっているのではないかなと思います。 僕もつい最近になって「いったい日本って?」という疑問から、 いいとこ悪いとこ含めて日本を見ていきたいなという気持ちが強くなってきています。 >日本人って忘れっぽいと思いませんか?。 ううむ、それは表面で迎合しやすいっていうのと通じるところがあると思います。 でも、芯では決して迎合してないんですよね。 日本人的根性っていうのはその根本のところで変わっていないようです。 で、日本人の忘れっぽさっていうのは、 悪くすると無責任、無自覚、無頓着につながりなねないものですから、 そこらへんのことも含めて見ていきたいものです。 だから、外国からすぐに誤解されるというか、 肝心なコミュニケーションが欠落することになりやすいのでしょう。 そういえば、僕もけっこう物忘れは激しいようです^^;。 これは記憶力がきわめて悪いというのと通じるところがあるようですが、 A型の相棒から見ると僕の脳天気さは腹立たしいくらいなのだそうです^^;。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):★YHVHの預言解読部屋------------<03> 94/05/26 - 02071/02071 GDB00064 オリハル 5/25の日替りメッセージ (14) 94/05/26 13:45 | 闇に光が無いのではなく、闇には「光でないもの」があるのだ。 ARIONにしてはめずらしくユーモアたっぷりのメッセージだと思う。 これはすごい解説だ。つまり、闇には光が無いのではなく、 わざわざ「」でくくった「光でないもの」が“ある”のだという。 つまり、言い換えれば闇には闇があるわけではなく、「光でないもの」があるのだ。 なかなか細かい。もっと他の事も解説してくれればいいのに。                                オリハル - FARION MES(15):★平成松川塾◎日本を考える----------<01> 94/05/26 - 555/555 GFD00204 松川 貴     反権力 (15) 94/05/26 13:21   残念ながら現代の民衆制(デモクラシーのこと。松川注)は、その根底に  民衆礼賛の固定観念を宿しているために、世論に過剰な発言権を許すという  方向にますます傾いてきている。  (『「成熟」とは何か』講談社 P48-P49)   世論はマスコミによって形成されている。それが日本をはじめとする先進  自由主義諸国の実情だといってよい。それをマスコミ世論とよぶなら、マス  コミ世論が民衆制の基礎権力を形づくっているわけだ。ところが、マスコミ  世論を包む雰囲気は、昔も今も、反権力のそれである。既成の権力に歯向か  うというマスコミ世論の反権力のポーズが大衆にたいして心地よい正義感を  保証することになる段取りである。(前掲書 P51-P52)  この西部氏の発言を裏書きするように、例えば、現在、朝日新聞社の〈事業開発本 部・本部長〉を務めている橘弘道氏は、氏の実弟の立花隆氏との対談時に、自分たち の立場をこのように表明しておりました。   権力を批判したり、反権力であるためには、権力側が恐れたり、権力側が  気にする存在でなければいかんわけでしょ。(『文藝春秋』4月号 P200)  (注:橘氏は野村秋介氏が朝日新聞本社で自決したとき、朝日新聞を代表して、  『朝日新聞』と『週刊朝日』(93.11.5号)に、野村氏と朝日新聞社代表連とのや  り取りの経緯を載せた人物です。当時の氏の肩書は、〈事業開発本部・本部長〉  ではなく、〈出版局長〉でした。)  橘氏がここで言っている「権力」とは、もちろん(文脈上から言って)「政府」と 同義です。つまり氏の主張している「反権力」とは「反政府」のことなのです。しか し、私たちはなぜ、橘氏のように、「いつも権力(政府)を批判したり、反権力(政 府)である必要がある」のでしょうか。  私たちが「権力を批判したり、反権力である」必要が実際に生ずるのは、「権力を 与えられた〈人間〉、あるいは〈人間集団〉が、その与えられた権力を〈不当〉に行 使したとき」です。しかし、氏は──氏だけではなく氏の〈仲間たち〉もまた──、 それを読んだ読者の〈内部〉に「権力(政府)はいつでも悪である」というような観 念連結が生じるような〈語り方〉をします。  (注:この場合「権力(政府)は悪である。なぜなら、半世紀前の日本を見よ、  いや、世界の歴史を見よ」などという論理は、「権力=悪」というような観念連  結の〈合理性〉を支える論拠にはなりません。〈彼ら〉は、自分たちが「〈異な  ったカテゴリー〉に属す〈概念〉を、〈不当に〉結びつけてしまっている」こと  に気がついていないのです。   さらに言えば、〈権力〉という言葉を、読み手に対する前もっての配慮なしに、  不用意に、〈抑圧する構造〉という意味で用いることで──彼らはそれを、心理  学的、社会学的な〈言い回し〉に転用しているのです──議論を混乱させている  一群の人々が存在します。これらの人々もまた、「権力=悪」という観念連結に  憑依されている人々です。)  「反権力」という〈表現〉は、私たちの精神生活を支える〈根底〉(前提)として ではなく、私たちを取り巻いている〈現実〉からそのたびごとに生じてくる、解決さ れるべき社会問題の〈表示〉としてのみ使用されるべきです。それはいつでも具体例 とセットになっていなければならないのです。  いつでも、何にでも、ただ読者への〈受け〉のために、あるいは「そのように〈言 う〉のが世間では正しいことだ」と思われているからという理由だけで、抽象的な意 味しか持たない〈反権力〉という言葉をわけも分からず吐いているとしたら、それは もはや〈不正行為〉ではないでしょうか。マスコミ人たちも、〈国民〉や〈市民〉に 対して、〈おおっぴらに〉そう言うべきなのです。そうすれば、誰も、橘氏のように 「権力を批判したり、反権力であるためには、権力側が恐れたり、権力側が気にする 存在でなければいかんわけでしょ」などと馬鹿なことは言わなくなります。代わりに このように言うでしょう。   〈権力〉とは本来、中立的価値を持った〈法概念〉である。だから我々がここ  で〈反政府〉というような意味で〈反権力〉という言葉を用いるとしたら、それ  はすでにして、〈権力〉という言葉が本来内包していた中立的価値を侵すことに  なる。これは明らかに、言葉の不正な使用である。   もちろん、我々は〈反政府〉という言葉なら唱えることができる。〈反政府〉  とは、「現在の国家基盤の上に載っている〈権力〉を、別な国家基盤に移しかえ  よう」ということである。もし、我々がそうしようと決断すれば、我々はいつで  もそうすることができる。しかし、その場合でも、我々は〈反権力〉と言うこと  はできない。   〈権力〉の存在が問題なのではない。そうではなく、〈権力〉を行使する能力  を与えられた〈人間〉や〈人間集団〉の行なう〈判断〉と〈行為〉の中に、何ら  かの『不合理』、あるいは『不正』、あるいは『不誠実』を認めた場合にのみ、  我々はその〈権力の使用〉を問題にすべきなのである。我々は、それを糾弾する。  しかしそれは、そもそも〈権力〉自体が悪だからなのではけっしてない。  なんという陳腐きわまる──というのは、ここには、少しも〈新しい、ものの考え 方〉などありませんから──〈表現〉でしょう。しかし、私たちを取り巻いている現 実は、まだこのような〈表現〉を本当に陳腐なものにはしていません。  すでに実際には「力(権力)を持っているのは、政府ばかり」ではなのです。私の 言う〈権力〉と、橘氏の言う〈権力〉は、言葉は同じであっても違うものです。上に 掲げた言葉は「マスコミ人としての橘氏」を含め、その〈仲間たち〉自身にも返って こざるを得ません。〈彼ら〉もまた、形を変えた〈権力者たち〉だからです。  さて、これから後の理路は、以下の西部邁氏の言葉に委ねたいと思います。   たしかに民衆制がまだ形成途上にあり、いわゆるアンシャン・レジームが  権力の中枢に居座っているという状況にあっては、反権力を標榜するマスコ  ミ世論は民衆を前進させるのに大きな貢献をしたと評価してもよい。しかし  すでに民衆制が制度として完成に近づいた段階でなおもそうするのは、民衆  制の自己破壊である。なぜなら、そこにおける政治権力は民衆の世論に根ざ  しているという意味で、民衆のものである。その民衆の権力にたいして民衆  の名において反対を唱えるのがマスコミ世論の常套ときている。だからマス  コミ世論は、民衆制は依然として未完成であり、何かしら悪しき権力が民衆  の外部から作用しているのだという作り話を不断に捏造せざるをえないので  ある。   なるほど、デモクラットには既成の権力に厳しい批判の言動をあびせると  いうやみがたい傾きがありはする。しかしマスコミ世論がすでに基礎権力に  なりおおせているのだとしたら、デモクラットの批判精神はマスコミ世論に  こそ向けられるべきであろう。世論を批判する世論というのは自己矛盾でも  何でもない。それこそが討論を内包する世論というものであり、こういう種  類の世論に支えられてこそ「討論の府」としての議会が成立するのである。  (前掲書 P51)  「民衆」は二重の視線を持たなければならないのです。                                   松川 貴