MRE - FARION MES( 2):【居酒屋1999】--------自己紹介・雑談 94/10/07 - 02776/02781 GBG02043 維/YUI RE:地震見舞い ( 2) 94/10/06 22:14 02774へのコメント こんにちわ、めのうさん。 九州と北海道で一緒に揺れるなんて・・・と、私も思いました。 うちの旦那さんいわく、日本の地下の岩盤って結構硬いんじゃないか・・・。 けど、九州と北海道で同時に揺れるってことは、どこか繋がりがあるわけで・・。 って、考えはじめたら、もしかして日本ってしっかりしているくせに、流動性の ある土台の上にある島なのかもしれないなぁ・・などと思い始めて、北海道を 揺らしたのと、鹿児島を揺らしたのが繋がっていて、本当は日本列島が揺り篭に乗って いるかのようになっているだったりして・・・・っと、だんだん怖くなってきてしまい ました。 英雄さんが、地震の被害ができるだけひどくならないように、手をつくしている人が いるようなことを書いていたと思うのだけれど、そういう努力に甘え切ってしまわな いように気をひきしめておこう・・と思います。 ん〜、しかし・・・地震で避難するっていっても、8階のマンションから うちの旦那さんを下ろすのは、やはりエレベータ技がないとなぁ・・・・(^^;) となりの消防署のおに〜〜さんに、たすけてくれるかきいておこうかな。                              維/YUI。 02777/02781 PXH01650 英雄 RE:旅行記 その2 ( 2) 94/10/07 00:02 02760へのコメント ホウ、おみゃ―さんは「人間」ではなくて「さぁふぁ」だったんです かあ(^^;。ってことは、普段は普通の足だけれど、水につけると、サ ―フボ―ドになるってネ(これじゃあ、スプラッシュか、ふえるワカ メぢゃな)。 しかし、ツ―リングつうのはハ―ドですねエ。朝の散歩が出雲大社と は...(・_・; ときに、ここにはけっこうバイク好きな人が多いようなので、この旅 行記にはウンウンとうなづけるものが多かったのではないでしょうか。 マスタ―もいなくなって、この所閑古鳥のお店ですが、ツ―リングの 途中にでも寄って頂けるとありがたいですネ。 この次は、波乗りばなしを期待しています。 :英雄: 02778/02781 PXH01650 英雄 RE:地震の続報 ( 2) 94/10/07 00:03 02771へのコメント どうやら、被害が大きかったのは国内では根室、そして北方四島が 一番だったようですね。 今回の地震の特徴は、時間が長かったことが挙げられます。マグニ チュ―ドの規模では、関東大震災に匹敵するものらしかったのです が、被害は相対的に軽微でした。 以前「ゆっくり地震」についての記事がありましたが、どうも今回 は、エネルギ―を分散してできるだけ軽い形で済むように図られた ようです。 :英雄: 02779/02781 PXH01650 英雄 シリキレトンボ?の西遊記 ( 2) 94/10/07 00:03 02758へのコメント YAHATAさん え、「西遊記」終わっちゃったんですか?しかもゴ―ルインまでして しまったとは.... 堺正明、故夏目雅子の「西遊記」は、偽の天竺到着で、まだまだ先は 遠い....というところだったのにねえ。 常々思うけれど、日本人ってのは冒険活劇映画ってのは苦手なのかな。 ああ、SFXもののほとんどは、子供向けで、大人が十分に見て楽しめ るっていうのはほとんどないと思うけど。 アニメじゃなくて、大河ドラマ「ヤマトタケル」「産霊山秘録」とか、 土曜ドラマ「岬一郎の抵抗」だとか、やればいいのに(^^;。 :英雄: 02780/02781 GBE02650 ユ−リ RE:地震続報 ( 2) 94/10/07 00:12 02772へのコメント  >英雄さん  実際、僕も北海道に来るまで知らなかったのですが、北海道というの は「温泉天国」なんですね。  とにかく、どこへ行っても温泉が湧いている。  温泉めぐりをするだけで、ちょっとしたツア−ができてしまいます。  僕の友人なんか、「北海道って、温泉の上に乗っているんだよ」なん て言っていましたっけ。  温泉が多いということは、逆に言えば、それだけ地下の地熱が高い。 決して噴火こそしていないものの、火山活動は激しいってことなんですね。  また、さまざまなプレ−トの分岐点にもなっているので、地震も多い。  そうやって考えると、北海道って、まるでアジアのアイスランドみたい ですね。(そういう問題じゃないって…(^^;)                 ユ−リ(GBE02650)  追伸  今回の地震で、根室が40センチ、釧路でも10センチ東に動 いたのだそうで、日本の寝相が悪いってのは、あまり洒落になってはい ないような気がする。(^^;>スウさん  でも、あの地震の時に、知らないうちに10センチ動いていたのね。(^^;  あんまり得をした気はしないけど…(^^; 02781/02781 GBE02650 ユ−リ RE:地震お見舞 ( 2) 94/10/07 00:13 02770へのコメント  >めのう さん  お見舞い、ありがとうございます。  おかげさまで、家も学校も大した被害も無くて助かりました。  いつも思うのですが、もし今度この規模の地震が、学校が生徒で溢れ ている時間帯に起こったら…と思うと、ぞっとしてしまいます。  ところで、来月か再来月には少し体の自由がききそうですので、札幌 に出てみようかと思っています。  その時には、是非めのう さん御夫妻ともお会いして、親交を深めた いと思っております。  日が近づきましたら、改めてご連絡いたしますので、是非御一孝をお 願いします。                 ユ−リ(GBE02650) - FARION MES( 6):∞・∞ 壁(カベ)・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞ 94/10/07 - 02973/02974 GBE02650 ユ−リ RE:久しぶりに地震が・・・・・>札幌 ( 6) 94/10/07 00:14 02970へのコメント コメント数:1  >月狼さん  お見舞い、ありがとう。  おかげさまで、元気にしています。  今回の地震は、とにかく長かったですね。2分くらい続いたんだそう で、恐かったですね。本当に。  ところで、来月か再来月には少し時間に余裕ができそうなので、札幌 に出てみようと思っています。  その時には遊んでくださいね。                  ユ−リ(GBE02650) 02974/02974 CXK03125 月狼 Re*2:久しぶりに地震が・・・・・>札幌 ( 6) 94/10/07 10:19 02973へのコメント   ユーリさん   あ、札幌にこられるんですか(^^) 実はくりすさんとオフの話しも   持ち上がっていたりしましたので、なんとも間のいいことです。   来月か再来月ですね?わかりました。お待ちしてまーす(^〇^)    月狼 - FARION MES( 7):★世紀末書込み寺★・・・・・・・・・・・・ARION 94/10/07 - 03602/03606 CXE02430 プレアデス 森と沈黙の美 ( 7) 94/10/06 17:35 森の思索者という、エスペラントさんのご発言に刺激 されて、森について少し書きます。 森は沈黙している。深い沈黙の中に時をまたいで 存在している。 私たち人間は、多くの森を切開いた。多くの 森が現在も破壊されている。森を食いつぶす経済社会が、 自分の命を長らえるために次から次へと不要なものを作り出し、 あたかもそれらが必要であるかのように宣伝している。経済は 止まってはならない。森は動かない。 マルティメディアにお金が流れるといえば、通信が社会 を変えるだの何だのと騒ぎたてる。だが、モノはココロを変え る力がない。それがあるように見えるのは、私たちがモノにそ れだけ力を与えているからだ。自分で力を与えたオモチャが、 自分を変えるのではないかと怪しんでいるというのは、滑稽なこ とではないだろうか!? もう無闇にうろついたりしないで、黙ろう。一体何を 探しているのか。もう探すのはやめて、静かにしよう。森の詩 に聞き入ろう。それは、私たちを内側の輝きへ導くから。 森が無くなることを心配しているのではない。私たちが 動き過ぎて、我を忘れるのを心配しているのである。時を越えて 生きる森は、人間の悪夢で消されるようなことはない。それは、 いつか何でもなかったかのように再生するだろう。その時も、 人間は妖怪のようにして森に絡み付くのだろうか? わけが 解らず動きまわる私たちは、正に亡霊のようなものである。亡霊 のようにか弱く、移ろい、恐れとうらみのドラマを描き続ける。 亡霊よ、去れ。ここは光と愛と永遠の賛歌が流れる神聖な 舞台だから。亡霊の長か、私たちの内なる光か、どちらか一つを 選ばなくてはならない。どちらかに従うことは、もう一方に従わな いことである。森と沈黙を通じて新しいコミュニケーションの モードを築くか、光通信で本当のコミュニケーションを一切排した 便利な生活を望むか、これも二つに一つを選ばなくてはならない のかも知れない。 あるいは、光の杖を持って亡霊の核心部に潜入することを 夢見るのか? まるでスターウォーズのような話しだ。 ーープレアデス 03603/03606 GDB00064 オリハル RE:ARIONへ ( 7) 94/10/06 18:43 03597へのコメント スブドについてARIONに質問しましたが、 特にお答えして頂かなくても結構ではあります。 勿論、ARIONはお分りだと思いますが。 一応、何かそれに関してあるかな、と思ったもので。                 オリハル 03604/03606 GHB02532 ごとうくまお RE:ごとうくまおさんへ ( 7) 94/10/07 00:24 03594へのコメント エスペラントさん、こんにちは。くまおです。 あの話は面白かったですよ。いや、ほんと。コメントとして感想を書きましたから 、もしまだ読んでなかったら、ご一読を。 さて、言葉を疑う、言葉を否定的に捉える、というあたりでなんとなくすれ違いが あるようです。で、エスペラントさんが取り出しました赤いリンゴについて考えてみ ます。 目の前に赤いリンゴがあります。私はそれを見ます。次の瞬間、私は「あ、赤いリ ンゴだ。」と思います。私はここで、赤いリンゴの存在を言語化しました。なぜ、赤 いリンゴだと思ったのでしょうか?それは、日本語を教わったからです。もし私がア メリカ人なら、「OH!RED APPLE」とかなんとかいったでしょう。私は、 目の前にある「それ」を、リンゴ、それが発する色を赤と呼ぶんですよ、と教えられ ているので、そのように言語化したのです。同じように英語圏の人はアップルとかレ ッドとか教えられています。フランス人やインド人も同じようにそれぞれの言葉で考 えます。もし私がそれを「ほにゃ」その色を「ふへ」と教えられていれば、「あ、ふ へなほにゃだ。」と思ったことでしょう。しかしどのような言葉を使おうと、それは そこにあるとおりのものですし、そのとおりの色でしかないでしょう?そして、もし 私が赤いリンゴを見て「あ、黄色いリンゴだ」と思ったら、その色は黄色になるんで しょうか?なりませんよね。さらに、赤いリンゴを目の前にして「こんなものあるは ずがない」といったらリンゴは消えてしまうでしょうか?消えません。 つまり、言葉が変わっても存在は変わらず、言葉を否定しても存在を否定すること はできません。このように、言葉に左右されない絶対的な事実、あるいは存在のこと を私は「あるがまま」と呼んでいます。このへんが違ってるんですかねぇ。 私達は、自分が見たものにすぐ名前をつけ、言語化します。ものを見ると同時に思 考のメカニズムが働きだし、記憶の倉庫にある画像と目の前のものを照合し、それが 一致すると次にはその画像に関連づけられた言葉を引き出します。その結果「あ、赤 いリンゴだ」と考えるわけです。説明すると長いですが、ご存じのようにこれらは一 瞬にして処理されます。ふつうはこんなことまで意識されませんが、思考の動きを受 動的に見守ることによって、この「認知」「認識」と呼ばれるメカニズムが明らかに なります。このメカニズム、思考・精神の動きはとてもすばやいので、精神、つまり 私達の意識は、なかなかそれを見抜けません。しかし、精神が自分自身を、その思考 の動きを静かに注意して見守るとき、精神はその速度をゆるめ、自らの動きを明らか にします。 このように、自分自身に静かに「気づく」とき、「観る」ことと「言語化」の間に ある「すきま」が見えてきます。このすきま、空間に気づき、さらにこれが広がると 、その「空間」には言葉が存在しないことがわかります。そこにあるのは「観る」こ とだけであり、「認知」「判断」「評価」「比較」といった精神の活動はありません 。そこにこそ、「あるがままの存在」があり、それを見ている「私」という意識はあ りません。そこには「無」が「有」ります。矛盾した言い方ですが、私にはそうとし かいえません。その精神状態は、「祝福」とか「無量感」という風に表現できるかも しれませんが、しかしどんな言葉も、あの状態を的確に言い表すことはできません。 次に、「私達のこの世界にたいする素朴な確信」ということですが、この「確信」 という言葉の意味がエスペラントさんと私では微妙に食い違っているかもしれません ので、ここは私の側の意味での「確信」ということで話を進めます。 さて、真実を見極めるための自由な思索は、確信によって始まるのでしょうか。確 信とは、確固として動かない信念のことではないでしょうか?固定された信念の枠内 にいる精神が、それ自身の枠を越えた真理を発見することができるでしょうか?真理 は常に精神の領域を越えたところにあります。真理に出会うためには、精神はそれ自 身の作り出す言葉の枠を打ち破り、自由に動きまわることができなければならないの ではないでしょうか。 たとえば、精神が真理に出会い、それを体験したとします。そして、これは素晴ら しい体験だと言って、それを言葉に変換し、その時の感覚を記憶するかもしれません 。しかし、精神が真理を捉え、それを記憶し、これこそが真理だと言った途端に、そ れは真理であることをやめます。真理は「存在」です。精神は、リンゴの画像や、そ の名前、におい、味といった感覚を記憶することはできても、リンゴの存在そのもの を脳内に記憶することはできません。記憶されたリンゴは食べられません。そのよう に、真理は記憶することができません。記憶されたものは過去のものであり、真理「 だった」ものです。しかし、真理があるのは「いま」だけであり、過去にはありませ ん。真理は常に新しいものです。したがって、「私は真理を知っている」という人は 知らない人なのです。 《 〈魂〉の存在こそ、すべての確信を支える根本だからです。 これは、私にはわかりません。私は魂とはどんなものか知りません。小さいころか ら魂についていろんなことを聞いてきましたが、私は実物に出会ったことがないので 、ほんとのところはどうなのかわかりません。人々が、自己の存続への願望や、死の 恐怖を覆い隠し、自分を慰めるために考えだした、魂についての観念は知っています 。しかし、事実として存在する魂は知りません。「魂」という言葉は知っていても、 その意味するものがなんなのかを知らないのです。私は、魂など存在しないといい張 るつもりはありませんが、存在するに違いないと信じるつもりもありません。ただ、 知らないのです。ですから、それについては何とも言えない、というところでしょう か。 さらに確信についてですが、確信とは「これはこうだ」というような結論であり、 結論は固定したものです。しかし、真理は固定したものではなく、強烈に生き生きと しているものです。真理は生きたものです。それは決して言葉によって釘付けにして おくことはできません。言葉の枠内に収められた真理はすでに死んでいます。しかし 、言葉という抜け殻を残して、なお生きるものが真理なのです。真理は不死のもので す。それは常に新しく、常に形を変え、固定した居場所を持ちません。にもかかわら ず、それがもたらすものは普遍です。 精神は常に、確固とした安定所を求めています。安定所とは、信念であり、観念で あり、すなわち言葉です。ある確信がぐらつくと、精神はとても不安になり、いまま でよりもさらに確固とした安定所を求めます。そして確信から確信へと移りゆき、最 終的に「これが絶対だ」という確信に落ち着いたときには、すでに探求を止めてしま っているのではないでしょうか?そして確信によって動こうとしない精神が、常に生 き生きと動いている真理に出会うことができるでしょうか? 自由な精神は常に不安定な状態にあります。鳥が地面をはなれ、空を自由に飛び回 ろうと、大地は確固として動きません。鳥から見れば地面は動いていて、不安定に見 えますが、地上に降り立つと、それが確固としたものであるのがわかります。それと 同じように、自由に飛翔する精神は確固として動かない「存在」を知ります。そして 、その上に降り立つことのできる「存在」があるからこそ、たとえ飛ぶことが危険で 、不安定なものであろうと、恐れずに飛ぶことができるのです。しかし、確信という 家に閉じこもり、不安定を、すなわち自由を恐れている精神は、大地の確かさも、飛 翔の素晴らしさも知ることができません。自由に飛ぶためには確信の外へ出なければ なりません。その時初めて、確信でない「確かさ」を知ることができるのです。 以上、確信からの自由について考えてみましたが、どうでしょう?くどいようです が、私は確信というものがいいとか悪いとか、正しい、間違っているというわけでは なく、「確信」という言葉の意味するものを検証し、その事実をありのままに述べた だけです。どこか、おかしいところがありましたら、ご指摘ください。正直に言って 、ほとんどひらめきで書いてます。自分で読み返して、頭の中で咀嚼したぶんには、 それほど矛盾したことは書いてないつもりですが、人の見方は違いますからね。私自 身気付いてないところがあるかもしれません。 それでは、よろしく。 ¥くまお 03605/03606 GHB02532 ごとうくまお RE:否定の極み ( 7) 94/10/07 00:28 03595へのコメント コメント数:1 英雄さん、こんにちは。くまおです。 なんとなく、言葉の食い違いが見えてきました。 たぶん「条件」という言葉に与えている意味が、英雄さんと私とでは違っているの ではないかと思います。私は「条件」という言葉を使いましたが、これは「精神的な 条件」、別の言い方をすると「条件づけ」または「プログラム」となります。ここで 少し、英雄さんの「条件」と私の「条件」の意味合いの違いが見えてきませんか? 英雄さんの言う「条件」とはおそらく、人間を取り巻く環境と、それらが人間に与 える影響のことをさしているのではないかとおもいます。だとすれば、もちろん環境 を取り除くことはできません。環境が無ければ私達は存在できないからです。しかし 、環境が私達の精神に与える影響についてはどうでしょう。環境が与える影響から精 神が自由でありうるかどうかということについては、また論点が違うので、別の機会 にお話しましょう。 さて、私の言う「条件づけ」「プログラム」にはどんな意味が含まれているのかを 少し詳しく説明します。 私達は、常に環境に接しています。ものを見、音を聞き、ものに触れる・・・。こ うして、外の世界を、肉体的な五感を通して知覚するのが精神です。そして精神は、 それに触れるものを絶えず情報に変換しています。情報とはすなわち言葉であり、知 識であり、過去の記憶です。「あそこに歩いているのは猫だ」というとき、その生き 物を「猫」、それがしている動作を「歩く」というのだ、といった知識があるのでそ のように考えるのです。これが、精神がほとんど四六時中おこなっている「現象の情 報化」です。また、精神は外の世界だけでなく、内側の世界、私達の心に沸き起こる 感情をも情報化します。「うれしい」「くやしい」「憎らしい」「悲しい」等々とい って、感情に名前をつけます。情報化することは、現象を思考の領域に引き込み、思 考が理解できるように、現象を言語化することです。このような思考のシステム、つ まり「考えること」がなければ、私達は現象を判断したり、比較、評価することはで きません。そして思考は、言葉、知識、記憶・・・すなわち過去によって成り立って います。当然のことですが、言葉を知らなければ考えることはできません。 私達は、幼いころから精神に「プログラム」を植え付けられます。「こういう場面 にであったら、このようにしなさい」または「このように考えなさい」というものや 、「これはいいことで、これは悪いことです」「これをしなさい、あれをしてはいけ ません」等々・・・数えきれないほどのプログラムが、私達の精神に刻まれていきま す。このような「プログラミング」の過程は、一般的に「教育」と呼ばれています。 教育だけではなく、私達は経験によって、私達自身をプログラミングしていきます。 「これをしたら痛い目に会ったので、もうしないようにしよう」とか「これは気分が いいから、またやろう」とか「こうしたらうまくいったから、次からはもう大丈夫」 とか・・・。プログラムとは決まった手順であり、固定した道筋を示したものです。 このようなプログラムは、知識を必要とする生活領域では、不可欠なものです。車を 運転する手順や、仕事の手順を覚えられなければ、生活に困ってしまいます。しかし 、私達はこのプログラムを、それ以外の領域・・・心理的な世界や、人生全体にまで 適用してしまいます。これが、おそらく人間の不幸の根本的原因であると考えられま す。 プログラムは固定したものである、ということは、まったく柔軟性に欠けるもので あるということです。しかし人生は・・・生きることは決して固定したものではなく 、常に流転の状態にあります。私達の身の上に起こる問題は、常に新しい状況によっ て作り出されます。問題は常に新しい、しかし私達はその新しいものにたいして、過 去によって作られたプログラムでもって対処するのです。しかし、過去である思考は 、決して新しいものを取り扱うことはできません。そして問題は長引き、思考によっ て解決しようとすればするほど、複雑になっていくのです。私達人間がこれほど多く の問題を抱えているのは、新しいものにたいして古いものを用いるためではないでし ょうか。 私達のまわりにおきる現象は、常に更新されていきます。今現在には、何一つ古い ものなど存在しません。何百年という歳を経た老木も、何千年という歴史を持つピラ ミッドすらも、「いま」という瞬間においては完全に「新しい」ものなのです。この 新しいものを古いもの、以前と同じものにするのは、過去に根差した精神の、現象の 情報化であり、思考なのです。私達は、ものごとを新鮮な目で観ることがほとんどあ りません。何かを見れば「これは〇〇だ」といい、何かを聞けば「これは〇〇の音だ 」というように、すぐさま過去の記憶が反応します。しかし、精神が過去によって曇 らされている限り、決して新しいものを直接知覚することはできません。新しいもの を知覚するためには、一切の過去・・・記憶、知識、言葉は、完全にその動きを停止 しなければなりません。その時にのみ、私達は「いま」に出会うことができるのです 。 《 自由とは、あらゆる囚われから放たれた状態ではないでしょうか。 《 否定の極みには、全肯定が待っています。 これは私にもわかります。あの「全肯定感」は、私も過去に味わったことがありま す。そしてあの「自由」も・・・あれは、何といったらいいのか、あのときに浮かん だ言葉はこうでした。「自分はもう、何をしてもいい、でも、何もしなくていい」・ ・・要するに、どんな抑圧も、どんな強制もない状態といったらいいんでしょうか。 しかし、こうした体験も、すでに過去の記憶でしかなく、あの瞬間にあった「生き 」というようなものは、記憶の中にはありません。それゆえ私は、「真理は生きたも のであり、固定した居場所を持たない」と考えるのです。あの体験には、言葉やイメ ージ、感覚といったものを越えた何か・・・生きることの「意味」がありました。私 の中に根本的な変革を引き起こしたのはその「意味」なのです。記憶の中にあるのは 、その時に思いついた言葉や、その時の状況だけであって、肝心の「意味」が欠けて います。ですから私は、それらの体験に関する記憶をさして重要視しません。重要な のは、あの瞬間に存在する「意味」、すなわち真理であって、その記憶ではありませ ん。 そして、そういった記憶に囚われ、その記憶を真理と呼んだり、それをまた味わい たいと思うのは、思考に占有された不自由な精神です。体験は体験としてほおってお くことです。過去にすがる精神は自由ではありません。また、自由になろうとして過 去を否定する精神も同様です。自由に「なる」のではなく、自由で「ある」ためには 、精神・思考・自我・・・すなわち自分自身を、言葉によらずに理解しなければなり ません。そして理解するためには、静かで、受動的な自己観察、つまり「自分を観る 」ことが必要なのです。 そういえば、ここの議長はARIONという人(?)でしたね。うわさによると宇 宙心霊さんだそうですが、私はそういう方には会ったことがないので何ともいえませ ん。でもまあ、ARIONさんがどんな存在形態を取ろうと、彼に愛があるなら、そ れでいいんじゃないですか。愛さえあれば、何も問題はありませんよね。 それでは。 ¥くまお 03606/03606 CXK03125 月狼 Re*2:否定の極み ( 7) 94/10/07 10:18 03605へのコメント   初めまして(^。^)>ごとうくまおさん > そういえば、ここの議長はARIONという人(?)でしたね。うわさによると宇 >宙心霊さんだそうですが、   えっと、ARIONについては、「PROF MHD02502」とコマンドを入れて、PROF   を見られることをお薦めします。あと著書もでてますし、この会議室の過去の   LOGもお読みになられるといいですよ(^^)   お節介ながら                           月狼 - FARION MES( 8):☆恋愛玉手箱/風まかせ編☆・・・・・・・・・・・・・・ 94/10/07 - 00534/00534 PXH01650 英雄 GOorCOME ( 8) 94/10/07 00:04 00528へのコメント GO「イク」――やっぱ、肉体と幽体が分離しますから、「あの世に 逝く」んでしょうね。時にはオ―ガズムの時、「死ぬんじゃないか」 って感じる時があるくらいだから。男なんか「腹上死」するものねえ(^^;。 イッた時失神してしまう女性がいますが、男性でも極く稀にあるそう です。現状、男の性ってのは枠にはめられているから、そこまでの解 放ってのは少ないんですが。 COME「来る」――東洋と西洋の違いなんでしょうか。これは某マ ジシャンの「来てマス、来てマス」とは違うかな。けれど別に「絶頂 の時が来る」という意味なのかもしれません。 「来るゾ、来るぞ、来るゾ、来るゾ、キ〜モオチ〜イイゾ〜♪ イクよ、イクよ、イクよ、イクよ、やあめるなアよ〜♪」 (based upon "サスケ") ↑ (これを最中に思い出してしまって、達しなかったとしても筆者は感 知しませんのでご了承下さい) 「アノ人は、イッちゃってるよ」というのと同じかなあ、やっぱし。 :英雄: - FARION MES(10):★夢酔い人の部屋★・・・・・・・・・・・・・・・・・・スウ 94/10/07 - 00608/00608 JAA02535 ミーモ 気持ち悪い夢(^^; (10) 94/10/06 22:48  いやぁ〜、久しぶりに、初めてのタイプの夢をみましたわ。 「悪夢」というのはああいうものだろうなぁという典型的な(私の独断ですが)夢 だった。 --------------------------- キリトリセン -------------------------------  部屋でゴロゴロしていると、タムラマサカズ風の男がいきなり入ってくる。  ガバッと起きあがって、アンタはダレや?と誰何する。  男、フッフッフッと笑い(ニヒルな)私はあなたの考えている事をかなえましょう、  と言う。(ここでコイツはうさんくさいと感じる)  机の上にあった錆びて曲がっているスクールペンを取り上げ、みるみるうちに  新品に変えてゆく。私はここでこいつは堕天使に違いないとかんぐる。  いったいなにを私にさせたいんだ!?と問いかけると  どうやら私の電話番号を知りたがっている。しかしそれは私の最後の砦だという事を  知っているので言わないが、まるで心の中を読んだかのようで、又ふっふっふっと  にやけながら部屋を出る。私は彼を追いかけた「ヤバい。知られてしまった」  場面変わる  コーヒーショップのカウンターに座るとマスターがさっきの男だった。  あんたってなにもんだよ?と問いかける。おもむろにその男、胸から手帳を取り出す  なにやら名前と電話番号を書き始める。とんでもなく早い。しかしそこにはなぜか  私の名前と電話番号は現れなかった。まるでその男が知っているようでいて知らない  ふうだった。男は満足げにその手帳をしまう。  その後はまるで又私の心で考えている事を横取りしていちいちそれを言い変えす。  コイツやっぱり堕天使だ。まちがえない。そう思っているうちに急にゲロが吐きたく  なった(お食事中の方すみません)あわてて吐きだそうとするが男が手をかざして  (私の後ろで)それを絶対に吐かせないつもりでいる。  私はあわててそこを立ち去る事にして外へ出た。で、おもいっきり吐こうとするが  さっきの術がかかっていてはきだせない。ここままでは私が崩壊してしまう。  と思ってウロウロ見渡すと、街路樹があってその根元に不思議な色合いの立方体が  落ちている。なぜか中身も知っている。水晶珠がはいっているのを。  それを見た途端頭の中で歌が響きわたる。「アリオーン アアーリオーン」と  (MIDIやっている人へ>MMLだとD8D8G4R8G8G8G8F#4R8というメロディーです)  それを聞いた途端ゲロを吐きだし始める。  すっかり吐いてしまって、ポッケ(左)を探ると、ある神社で買った水晶玉のお守り  (びーだま位の大きさなんだが)がグニョグニョに曲がっている。  ・・・・・そうかぁ、さっきあの男が手帳に私の名前と電話番号が書けなかったのも、  その水晶玉が守ってくれたんだ、と。でもパワーを使いきってしまったのでこんな  姿になってしまったのね、と。  ドアを開けるとその男は別なカウンターにいた。懲りもせずニヤニヤしている。  「チェシャなやつだ」  そしてさっきのグニャグニャの水晶珠をみせるとそれを取り上げ、  隠したと思うと、どんぶりにのせて、いくらだい?と店員らしき男にいっている。  おいおいそれは私の・・・・・、とみると確かに形は同じだけど、違う。(違いがわかる)  そしてそのどんぶりごと私に渡す。そこで、私はわめく。  「いったいなんなんだよ〜。おれにだって自由があるじゃないかぁ!」 --------------------------- キリトリセン ---------------------------------------  ここで目がさめた。汗びっしょりで布団もびちょびちょ。時計をみると 午前2時28分。本当に夢見が悪いなぁ、最近は・・・・。                          ミーモ --------------------------- ノリシロ ------------------------------------------ - FARION MES(13):★神秘学遊戯団★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・KAZE 94/10/07 - 01793/01804 KFH00666 ten 暫く書き込めなくてごめんなさいのご挨拶 (13) 94/10/06 13:59 コメント数:1  KAZEさん、皆さんこんにちわ。  TENは公演準備のため一寸書き込めずにいます。(そう、TENは ダンスをやっているのでした。)10月8日の公演は「東の龍」、12月 10、11日の公演は「夜、子供はどこへ行くか」というタイトルです。 明後日の公演は、横浜STスポットというところで夜7時から。(舞踏フェステ ィバルというイベントの中だけど、例の舞踏ではありません^^;;)ご近所の方 はよろしければいらしてください。  PaperBirchさん、類魂の話、読んでます。丁度最近ホリスティック医学の人 によく似た話を聞きました。人の霊体というのは二倍身、三倍身というように より精妙さが増していく体がビルみたいに何段重ねにもなっていて、上層の精 妙体達はもう個人がなくて互いに解け合いにコレスポンダンスしているという ような、話でした。  Beehiveさん、富士見にストーンヘンジがあるとは知りませんでした。どの 遺跡のことかしらん。それから奥さんによろしく^^。女の人にナイスといわ れたことがあまりないのでうれしいです。 ああ、まだ色々書きたいんだけど、そろそろ稽古に行かねばならないのでし た。そうそう、天河曼陀羅でもお会いできる方は、おあいしましょうね^^。 でわ。とばたばた立ち去るTEN。 01794/01804 GGA02514 KAZE 心の井戸掘りと祈り (13) 94/10/06 15:21 01787へのコメント DIRACさん、どうも。 >末那識を7識、阿頼耶識を8識としまして、意識までが6識。 唯識については、実は非常にアバウトにしかわかってなかったりするんですが^^;、 ま、意識の表面からどんどん深いところにいくと、 如来蔵があるということでしょう。 >7識の無意識に因縁の根本があるといえることになります。 >汚いものには蝿がよってくる−−という具合い。 >7識が8識の存在を認めようとしない。感じられない−−−−。 >そして、7識がいろいろな現象を呼び起こす。 >キリスト教的にいうと、迷える子羊ちゃんなのであります。 >7識を破る知恵が「空」を知ること、感じていくことだと思います。 阿頼耶識へと井戸を掘るというかコネクションするというかのために 仏教では反省行のような心の汚れを磨いてきれいにする方法論が 八正道を中心にして「行」として提示されているのでしょうね。 阿弥陀様にすがるというか南無阿弥陀仏と唱えるというかするのは 反省行とは方向性が違っているようですが、 それも結局は逆のベクトルをもった井戸掘りの作業なのだと思います。 妙好人なんていうのは、迷いなんか寄せつけないような光がありますよね。 もちろん、認識的かというとそこらへんは欠落してるところが多いのですが。 >でも、本を読んで「理解した!」的なものでは、きっとないでしょうね??。 そういうことだと思います。 南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経なんか唱えながらも、 少しも実践行をしないという方が見受けられますが、 唱えるということはある意味で「誓う」ということで、 そうである以上は、阿弥陀様に帰依して、愛に生きないと 何の意味もないことになるどろこら、契約違反になってしまいます。 ま、真の実践が必要だということで、 そのためには、心の井戸掘り的な深層心理の探求とその浄化という方向性と それを逆ベクトル化した祈りの方向で実践的に生きるという方向性とがあって どちらも最終的には如来蔵を掘り当てるということに他ならないのでしょうね。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01795/01804 GGA02514 KAZE 13日からバリへ行きます(^^) (13) 94/10/06 15:22 01788へのコメント 隆ちゃん、どうも。 渇水、台風、今度は地震と、けっこう物騒な世の中になってきていますが^^;、 しっかし、こちらは19時間断水が以前継続中でずっと続きそうな気配です。 個人的には、相変わらず仕事が銃弾のようにやってきて、 満足にレスを書いたりしにくい状態が続いていたり、 周囲でもいろいろ騒がしい状態になってきつつあったりで、 なかなか大変そうな秋の夕暮れであります。 ちなみに、突然なのですが、13日から17日まで、 仕事がらみでバリに行くことになりました。 いくら仕事が忙しくても、煩雑な仕事はバリまでは追いかけてこないでしょうから 少しはのんびりしながら仕事はちゃんとしてきたいと思います。 >僕はセイヤングが聞きたくて色々努力しましたが結局ほとんど聞こえませんでし >た(^^;)。落合恵子さんが全盛の頃です。 けっこうチューニングは困難をきわめたのですが、なんとか聞いてました。 セイヤングで思い出に残っているのは、バンバンのセイヤングで、 そこで谷村しんじといっしょに天才バカ云々のコーナーがあったりしましたが その番組で、ノストラダムスの大予言の本が出るということを聞き、 次の日、あの五島勉の最初の「ノストラダムスの大予言」を放課後本屋に走って買い求 めその夜読みながら、なんだか説明のつかない恐怖を感じたことです。 そのころは、その類のことにそんなに関心があったわけではなかったので なおさらインパクトが強かったのでしょうね。 あれはたぶん高校2年の頃だったように記憶しています。 ま、今から考えるとあほらしい気もするのですが、いい思い出かもしれませんね(^^)。 >結構、多感な時期でしたから、確かに貴重な時間だったかもしれませんね。 ぼくの場合、半ば自閉的に過ごしていましたから、 ラジオから聞こえてくる声というのは、真夜中に闇から響いてくるのもあって、 そこから何か大切なものがやってくるようなそんな気持ちの毎日でした。 やはり、夜の時間というのは、昼とは違った意味で、 深いイマジネーションをともなったものを育ててくれるのでしょう >僕は今でも「勉強しなくちゃ」とか「大学におっこちた」とか「会社に行かねば」 >なんていう夢を時々見ます。あんまり自覚してませんでしたが、そういう事って案 >外強い脅迫観念になっていたんですね。 ぼくは、学校嫌いだったせいか、今でもときおり 「おまえはまだ学校を卒業してない。もう一度学校に来い!」って感じの夢をみます。 それが夢の中では否応ない苦しみとして起こります。 やはりこれは確実に、「学校はいやだ!」という強迫観念なんでしょう。 >せめて、CRTじゃなくて液晶のモニターにでもしないと眼も頭もパーになってし >まうかもしれませんから、ちょっと考えなければ・・・(^^;)。 ぼくもそう思って、パソコンはダイナブックから液晶をメインで使ってます。 今もパワーブックなので比較的長時間の作業が楽にできます。 しかし、先日来、会社の21インチのモニターを使ったマックの作業を 数日に渡って長時間続けていたところ、 疲れ具合は比較にならないくらい大きかったです。 夜中にマックから離れると体中が脱力した感じになってしまうんです。 やはりこれはCRTの電磁波の影響ではないかと思います。 でも、マックの作業効率を考えるとついつい使ってしまうのが怖い^^;。 >僕はどちらかと言うと若ノ花の方が好みですし、貴ノ花は個人的に好きではないで >すが、あの状況には同情してしまいます。 ぼくも同じく若ノ花が好みだったのですが、先日の場所での貴ノ花をみて、 ちょっとばかし貴ノ花ファンになってしまいました。 瞬発力や速攻だけではない、あのバランス感覚の絶妙さがすごいんですよね。 もちろん、ぼくも舞の海は好きで、先日あった舞の海のテレビもしっかり見ました。 あと、濱の嶋や旭道山、霧島といった方も好きですね(^^)。 >「出世はお給料をたくさんもらうため、お給料をたくさんもらうのは○○のため」 >っていうのは理解できますが、最後の○○がないのはよくわからないです。 ぼくなんかは、お給料をたくさんもらうために出世すると 自分の時間がなくなってくるから、それくらいなら出世なんかいらない。 そういう考えです。 毎年のようにぼくは出世拒否症のようなものになっていまして、 いまも否応なくなまじプランニングを統括させられていますが、 それに伴う指導や報告書や会議やのことを考えるとうんざりします。 >この危険な場所を未然になくしてしまおうという姿勢は、実は大人の怠慢なのです >よね。 そう、それに、子供はいわゆる社会から切りはなされた存在で そうした隔離された場所で教育するというのが習慣になっているようですが、 それがそもそもの間違いなんですよね。 おそらく子供が社会から切り離されがちなのは、 教師たちが世間知らずであるということの影響なのではないかとさえ思います。 「子供たちが危険だからこうせねばならない」という表現の裏には、 教師たち、親たちの怠慢と、教育への根本的な認識不足が隠されているのでしょう。 >体主霊従と言いますが、身体の事ばっかり心配して精神の方は放りっぱなしという >感じです。 身体のことを心配するなら、食べるものひとつひとつのことをちゃんと心配して その食べられる存在たちへの理解を深めるようにすべきであるのに、 おそろしいほどの無自覚が横行しているのは、 身体のことさえ考えてないということです。 先日、鳥山敏子さんの本を読んでましたら、自分たちが食べている鳥や豚などを 自分の手で絞めたり肉を解体したりする授業をしているそうですが、 「食べる」ということがどういうことなのかを理解するには、 自分が食べているものがどういうふうに得られているのかを ごまかしているわけにはいかないのでしょう。 やはり、たとえば「肉を食べる」ということは、 少なくとも、自分でその命を奪う覚悟があるかどうかが前提になるべきで、 そうできないならば食べるべきではないんだと思います。 生の魚を前にして「いやあ、生臭い、気持ち悪い」とかいうひとが、 料理としてでてきたものを「これ、おいしい」といって食べるのは、 ほんとうは根本的に間違っていることなのだと思うのです。 そしてそれは子供でも同じ事なのです。 >自分が正しいと思う事を自信を持って行うためには、正しくないと思われる事をこ >そしっかり見つめなければなりません。そのためには、その正しくないと思われる >事も、その存在はちゃんと認める必要があります。正しくないからといって、その >存在すら否定してしまうのは本末転倒ですよね。 「正しい」ということは、 そのことで同時に「正しくないこと」をつくっているということでもあります。 子供でも「いい子」をつくってしまったとたんに「悪い子」ができます。 「優等生」が「非行少年」というのをつくっているということなんです。 法律が犯罪をつくり、医療行為が病気を生み・・・ということで、 すべてはあるものごとを決めたとたんに、「反」が生まれます。 つまりそれは「二元論」的な世界観なんです。 もちろんそれはそれで大いなる方便ということもいえるかもしれませんが、 大事なのは、「二」を超える「三」ということだと思うんです。 弁証法というのは本来そういう考え方だと思うのですが、 現実社会にはなかなかその「三」というのは見いだすことは難しいようですね。 >僕はおもいっきり懐古趣味だけど、昔の事を懐かしく思い出して楽しめるのは、現 >在が幸せだからなのですよね。今が不幸せで、昔を懐かしむなんてなんだか哀れで >嫌なものです。 やはりぼくは過去に対してすごく不幸感覚が強くて^^;、 そのぶん、今は苦しくても、わりと今の幸福感覚は強いです。 ま、本来、時間は「今」この瞬間しかありませんから、 こういうぼくこそ、けっこうなしあわせ者かもしれません(^^)。 もちろん、未来はもっともっと幸せのはずだという感じも強くあります。 でも、今死んでも、ま、それはそれでいいんだろうなという感じもあったりします。 勉強したいことは山のようにあって、少なくともこれくらいはしておきたいな、 というのはありますが、死ぬときはそれはそれで悔いなく死ぬのがいいですから。 でも、それにしては、毎日かなり怠けてるなあ、と やはり反省すべき毎日を送っているのでした^^;。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01796/01804 GGA02514 KAZE 知識偏重教育の自然瓦解のために (13) 94/10/06 18:31 01789へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >僕にとって仕事はお金を稼ぐ手段でしかないので(これもちょっと問題があるかも >しれない)、仕事以外の部分でボーっとしているのは理解し難いのですけどね。 ぼくにとっても仕事はかろうじて生活の資を得る手段なのですが、 そのとらえかたについては自分でもちょっと問題かなと反省してます^^;。 でもやはりあまりに時間がとられすぎるというのは、ちょと苦しい。 ここまで働いてこの給料か、とぼやくことしきりですが、 ま、それもそれでぼくを驕らせないための温かい措置なのだと思いこんで そうしたなかで、少しでも時間をつくって勉強していきたいなと思っています。 >ところで日教組、あれは一体なんなんでしょうか。僕は断じて右翼じゃないけど、 >日教組大会などを見ていると右翼じゃなくてもロケット砲打ち込んでやろうかと思 >います(^^;)。 同感です。 教職員が子供のことをそっちのけにして、 自分の権利ばかりを云々するのはあまりのことで それくらいなら教師になるな!と言いたいところですが、 そういうひとたちだから教師になったともいえるわけで、 恐ろしい現代社会の象徴ともいえるのかもしれません。 「でもしか先生」というのが以前よくいわれましたが、 大学のころ、教職をとるべくつとめていたひとを見ても、 こういう人たちが先生と言われて一生過ごすのかあ、と 驚きあきれていた記憶があります。 ま、大学生の就職の安定したところの筆頭がこの教職だというのが ある種の常識なのでしょうから、困ったことです。 ちなみに、ぼくは結局教職なんかとりませんでした^^;。 あんなばかばかしい授業に出られるか!というのが主な理由でした。 >きゃつらは「事勿れ主義」のくせに、どうでも良い場面でスタンドプレーという >かええかっこするんですよね。 だから、企業なんかと同じなんですよね。 スタンドプレーでも表向きのポイントがかせげればそれでいい。 企業の場合はまだ実績が明確でそれで判断されますからまだいいですけど 先生の場合、「実績」っていってもよくわかりませんから、 よけいにスタンドプレーがすべて、ってことになるのかもしれません。 >今は昔の村八分と違って、孤立しても十分生きて行ける環境があるのにどうしてあ >あベタベタくっつきたいのかなぁと思いますが・・・。必要なときはくっついて、 >後は離れているというのが理想だと思いますけどねぇ。 あの「いつでもベタベタ現象」とでもいえるのは醜悪で、 「ひとりでいると寂しくて不安」なのだそうですが、 それがなくては人間は一切成長しませんから、成長拒否現象ともいえるかもしれませ ん。 最近では、学校でずっといっしょにいて、そのいっしょにいた子と 今度は家に帰ってから電話で長く話したりする人が多いのだそうですが、 もちろんそのテーマは感情の共有以上のものではないようです。 ぼくからみればほとんど病気以外のなにものでもありませんが、 あちからかみれば、ぼくなんかのほうがおかしく見えるのかもしれません。 >僕は「おっと、いかんいかん」と思うときは外側からの神様を意識し、辛い事があ >って頑張らねばならないとき「分け御霊を頂いているはずだから・・・」などと内 >側の神様を意識していたようです。 ぼくはやっと最近になって「神はみておる」というのを意識するようになりましたが^^ ; どうもそういう宗教的な感じに対する拒否感は根強く残ってまして、いけません。 で、少しましになった自分なりのスタンスとして、 「誰が見ていなくても自分は見てるぞ!」というのをとってまして、 これは結局「内なる神が見ている」ということではあるのですが、 やはりそれを宗教的な臭いがなくて意識したいと思っています。 これは、ほとんど意味のない拘りなのですが、ま、感覚的なものは消えにくいようで ^^;。 >役人=ノータリンだなどという差別をなくすためにも(って、こんな事思っているの は >僕くらいだろうが)ぜひお願いしたいですよね。 ぼくの認識は、「役人のなかには多くのたわけものがいる」というくらいですが、 これはたぶん多くの人に共有されているんじゃないでしょうか。 こういう認識を共有なんかしないためにも、 やはり経営がうまくいかない役所は倒産して、 役人たちが職を失ってがんばりはじめるという風景をみたいものです。 >素晴らしいはずの人間がとんでもない事をしているとき、人は怒るのだと思います。 >っで、どうでもいい事でギャーギャー騒いでいる人たち(ジャーナリストやパネリス >トのおじさんやおばさん達)のは、実は怒りではなくて単なるヒステリーなんじゃな >いかと・・・。 言葉をかえると、期待しているから怒る、というのが本来の怒り方ですよね。 期待してなければ、冷たく対処するだけで済みますから。 ぼくなんかが以前じぶんながらひどかったなあと思うのは、 ぼくはかなりの場合、怒らずに冷たくあしらう傾向が強かったことで^^; やはりそれは愛の欠如なのだろうと反省してます。 反省したからといって今よく怒るというのではないけど、 少なくとも「このひと、こうすればよくなるのになあ」と思うことは増えてきました。 もちろん、ジャーナリスティックなヒステリーは 集団ヒステリー現象以外の何ものでもないのは確かでしょう。 あれはレミングの暴走&集団自滅的なあり方ですよね。 >「自分はほんとうはどうしたいのか」を真剣に考える事はとても大切だと思います。 この「自分はほんとうはどうしたいのか」が、 悪しきジャーナリストやゴシップおばさんの場合、 「ひとの足を引っ張りたかった」とか 「あいつを引きずりおろしたかった」的なものであれば困りもので、 「なぜ足を引っ張りたかったのか」「なぜ引きずりおろしたかったのか」を問い さらにそこにみずからのコンプレックスを認識し、 そのコンプレックスを解消させるためのもっと有意義な営為を 各自が模索していってはじめて「真剣に考え」たということになるのでしょう。 >子供は子供なりに「違い」を学ぼうとするのに一番低次元の「排除」「批判」を大人 >がしているのはなんとも情けない話です。 「排除」「批判」のおおともは「保身」ということにあるのでしょうから、 大人は「保身してまで守りたいものはいったいなにか」を問わねばなりません。 「村八分」というのも共同体を守らんがための手段だったのでしょうが、 その共同体が守ろうとするものの内容がからっぽだったとしたら、 ということを考えるひとは少ないようですね。 ほんと、そうまでして守りたいほども大切なことっていったい何なんでしょうか。 >知識を得る部分と「学び」の部分を分けたらとも思いましたが、知識を詰め込む部 >分というのはとうの昔に進学塾という形で独立しているんですよね。まあ、こうい >う所の知識と言うのはそうとうレベルの低いものですが・・・。 最近は松下電器なんかでも、学歴や知識的な試験の成績で入社試験をするのではなく そのひとの信念や特技でその基準とする方向性にきているようですから、 今の知識中心主義を就職の際、無効にしてしまうのが、 今の受験産業や詰め込み教育をやめさせる最大の要因になるだろうという気がします。 最後の牙城は、お役人方になるための試験で、 それさえなくなれば、そのうちいまのばかばかしい詰め込み教育は 自然消滅していくんではないでしょうか。 そのためにも、まずは企業が人間そのものを見る入社試験への転換をしていくことが 急務のような気がしています。 >これまた先立つものがないので夢物語のようなものですが、僕はいつか塾をやりた >いと思っています。子供が好きな事を好きなように学べる塾です。そこには教師は >いなくて、環境を整える大人がいるだけで、その大人も子供たちと一緒に学べれば >非常に楽しかろうなぁと思います。 そうですね、ぼくもそういう学校があればなあということはいつも考えています。 もしかしたら、近い?将来、そういう学校づくりにいしょに取り組んでいたり しているかもしれませんね。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01797/01804 GGA02514 KAZE シュタイナー「神秘学の記号と象徴」の翻訳紹介 (13) 94/10/07 00:24 これから数回に渡って、不定期でシュタイナーの1907年にあった講義「神秘 学の記号と象徴」全八章分(未訳)を翻訳紹介してみようと思います。これはシ ュタイナーがまだ神智学協会のドイツ支部長のころのもので、かなり理解しやす いものですから、これまでシュタイナーがわかりにくいと感じられていた方でも、 比較的読みやすいのではないかと思います。最初に、その八章分の概要をご紹介 し、続いてまず第1章を4回に分けてUPさせていただきます。 今回の翻訳は、実はぼくのものではなく、相棒が現在取り組んでいるものですか ら、以前ぼくが紹介したはちゃめちゃな訳にくらべ、非常に理解しやすいと思い ます。で、今回はその最初の試みということですが、とにもかくにも、シュタイ ナーのまだあまり紹介されてない部分を中心にご紹介していきますので、「シュ タイナー研究室」として発足したこの会議室の本来のテーマを具体的に少しは進 めることができるのではないかと思います。で、ぼくも少し時間がとれ次第、翻 訳にも取り組みたいと思っていますので、少しは貴重なデータとなるのではない かと思います。 なお、関心のない方は、スキップしてとばしてください。 けっこうデータ量が多いですので。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01798/01804 GGA02514 KAZE シュタイナー「神秘学の記号と象徴」概要 (13) 94/10/07 00:24 ●ルドルフ・シュタイナー  「神秘学の記号と象徴/そのアストラル界と霊界との関係」 <第一講〜第八講の概要> ■第一講 シュトゥットガルト 1907年 9月13日 秘密(オカルト)の記号とアストラル界・霊界との関係。人間の記号としての五 芒星(ペンタグラム)。叡智の像としての光。「叡智の働きかけ」によるアスト ラル体の変成と高貴化。地球の未来の進化。内的な光を獲得するための修練。叡 智の光と天球の音楽。天球の調和(ハーモニー)と惑星運動。アトランティス人 の知覚。人体の比率としての箱船。 ■第二講 シュトゥットガルト 1907年 9月14日 建築物と形式(フォルム)の人間に及ぼす作用。秘儀参入者の創造としてのゴシ ック建築。それは現代の人間の周囲の形式世界とは逆。アトランティスから後ア トランティスへと移る人間の形態の改造とノアの箱舟の寸法比。地・存在として の蛇、水・存在としての魚、空気・存在としての蝶、熱・存在としての蜂の象 徴。 ■第三講 シュトゥットガルト 1907年 9月15日 数の象徴論。分割不可能な神性の像としての1。開示の数としての2、3。自然 と歴史の例のなかに見られる退化と進化−−無からの創造。神的なものと開示的 なものを結びつけるものとしての三性。宇宙あるいは創造の記号としての4。悪 の数としての5。人間の本性の第五の構成要素の進化とともに、人間は独立と自 由を得る。しかし、同時に悪をなす可能性も得る。人間の病気と生涯に関連する 5の数の意味。完全数としての7。ピュタゴラスの意味における一性の分割不可 能性。 ■第四講 シュトゥットガルト 1907年 9月16日 黙示録の封印。(1907年3月の)ミュンヘン会議の祝賀ホールにおける封印 の説明。人類進化の像としての黙示録の七つの封印。薔薇十字のシンボル。封印 が人間に及ぼすことのできる生気を与え啓発する影響について。さらに、霊的な ものが世俗化されるときの破壊的な作用について。 ■第五講 ケルン 1907年 12月26日 人間の環境への態度。事物の背後にある魂的・霊的なものの開示としての世界。 動物、植物、鉱物の魂的・霊的なもの。アストラル界にある動物の集合自我、そ の基本要素は叡智。人間・自我の根本要素としての愛の養成。植物界、鉱物界の 苦痛と喜びの感情。秘学の修練においては単に形象を観照するだけでなく、内的 に体験せねばならない。卍と五芒星の隠された意味。 ■第六講 ケルン 1907年 12月27日 集合自我と個の自我。人間の本質的構成要素の完成度の違い。未来における生き た法則の支配のための必要条件:秘蹟主義(サクラメンタリズム)の秘密。物質 体における本質的構成要素の表出(感覚器官、腺、神経、血液)とエーテル体に おける表出(人、獅子、牛、鷲)。人間の各種族におけるこれらのさまざまな表 出。人間の集合魂(諸民族)。その存続と変容。不死鳥(フェニックス)。秘学 (オカルティズム)における言葉の象徴学と霊的な修練にとっての意味。 ■第七講 ケルン 1907年 12月28日 霊的な意味における形と数。以前の時代と今日における人間の物質体への表象力 と感受力の作用。建築様式の体験と以後の受肉における人間の肉体形成に及ぼす 影響(ゴシック様式、ノアの箱舟、ソロモンの神殿)。像の世界と音の世界。惑 星の運動における数の割合と天球の音楽。メルクリウスの杖(カドゥケラス)の 瞑想。 ■第八講 ケルン 1907年 12月29日 霊の修練のために必要な教育手段としての形象的表象。感覚性から自由な思考。 アストラル界での反対物としての形式と生命。腐朽と病気。魂における人間の高 次の性質。低次の性質の反映。十字形の力の方向の意味。聖杯。未来の器官とし ての心臓と喉頭。反復(エーテル体)の原理と遮断(アストラル体)の原理。薔 薇十字。数のシンボルの内的力。数の比率の霊的音楽。人間の本質的構成要素の 比率としての1:3:7:12。鏡のシンボル。 01799/01804 GGA02514 KAZE シュタイナー●神秘学の記号と象徴●第1講の1 (13) 94/10/07 00:25 ●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係 <第一講/シュトゥットガルト 1907年9月13日>その1  ここシュトゥットガルトでこれから行います四回の講演は、いくらか内密な性格 を持つことと思います。何といっても聴衆の皆様の大部分が神智学協会に属され、 すでに長年に渡って神智学の根本理念に親しみ、従ってこの分野のより内密な題材 に精通したいとお望みでしょうから。これらの講演で扱いますのは、アストラル界 及び霊界と関連する秘密(オカルト)の形象と記号です。一連の秘密の象徴と形象 のより深い意味を述べるつもりです。その際、初めの二回の講義で、いくらか奇妙 に聞こえることがあっても、三回、四回と進みますと、完全な説明が得られるとい うことにご注意いただきたいと思います。事の性質上、そういうことになるのです。 神智学の講演は、いわば唯物主義的なやり方で単純な要素の上に組み立てられたそ の他の講演とは違うのですから。最初はどうしても不明確な点があり、それが次第 に明確に理解できるようになっていきます。  形象や記号は、通常の世界のみならず、神智学的な世界においても、しばしばた だひとつの「意味」を表す、多かれ少なかれ恣意的な何かという形象を与えますが、 これはまったく正しくありません。皆様もすでにそのような形象や記号について聞 かれたことがおありでしょう。例えば、宇宙のさまざまな惑星が記号で示されるこ となどです。また、神智学のアレゴリーにおいてよく知られた記号は、いわゆる五 芒星(ペンタグラム)ですね。さらに、ご存知のように、さまざまな宗教において、 光というものは、叡智の、霊的な明澄さの意味で言及されています。さて、このよ うな事柄の意味を問えば、これは、これを表すあれを表すといったことを聞いたり 読んだりなさるでしょう。例えば三角形は高次の三性を表す云々。神智学の著作や 講演でも、たびたび神話や伝説が解釈され、「これはこれを表す」と言われていま す。感覚の背後、この意味の本質の背後に至ること、このような形象の真実を認識 すること、まさにこのことを、この連続講演の課題といたします。これがどういう ことか、ひとつ例を挙げて説明してみましょう。  五芒星(ペンタグラム)を考察してみましょう。五芒星についてはあれこれ詮索 され解釈されておりますが、神秘学においては問題になりません。神秘学者が五芒 星について語ることを理解するためには、まず人間の本質の七つの基本要素を思い 起こさなくてはなりません。ご存知のように、人間の本質は、七つの基本要素−− 物質体、エーテル体、アストラル体、自我、さらに霊我、生命霊、霊人(神智学文 献では後三者はマナス、ブッディ、アートマ)−−から成ります。手で触ることの できる物質的なものである物質体は除外しましょう。ここでとりわけ考察の対象に なるのは、エーテル体です。エーテル体はすでに物質的な感覚にとっては隠された もの、いわゆる「オカルト的なもの」に属します。通常の目ではエーテル体を見る ことはできないからです。エーテル体を知覚するには霊視的な方法が必要です。実 際にエーテル体を見ることができたら、むろん物質体とは全然違うものです。エー テル体はたいていの人が想像するような希薄な物質的な身体、一種の霧の固まりと いったものではありません。エーテル体の特徴は、浸透してくるさまざまな流れか ら構成されているということです。エーテル体は実に物質体の建築家、形成者なの です。氷が水から形成されるように、物質体はエーテル体から形成されます。この エーテル体はあらゆる面に向かって、海のように流れに貫かれているのです。それ らのうち主な流れが五つあります。両手両足を開いたまま立ってごらんなさい。人 間の身体はこの絵のように表されます。 (図示/五芒星が描かれている(KAZE注)/五芒星−エーテル体の『動く骨格』− 『人間の図形』/エーテル体を貫く五つの主要な流れ/眉間から発する)  この五つの流れを人間はひとりひとり自らの内に隠し持っているのです。これら の流れが矢印に示された(図参照)方向にエーテル体を貫き、いわば人間のエーテ ル体の骨格を形成しているのです。絶え間なくこれらの流れはエーテル体を通過し、 これはその人が動いているときも変わりません。どんな姿勢をとっていようと、常 にひとつの流れが、額の中心、眉間の一点から発して右足へ下り、そこから左手へ、 さらに右手へ、それから左足、そこから再び額へもどります。五芒星と呼ばれるも のは、エーテル体の中で人間の物質体そのもののように内的に動いているのです。 それで神秘学者(オカルティスト)が五芒星について、人間の図形として語るとき、 それはあれこれ考えて作り出された何かのことを言っているのではなく、解剖学者 が骨格について語るのと同じです。この図形は、現にエーテル体の中に存在してい て、ひとつの事実なのですから。こうしたわずかのことからも、ある記号の実際の 意味がどのようなものであるかおわかりでしょう。神秘学においてあなたがたが出 会う記号や形象はすべてこのような真実に導いてくれるものです。五芒星は、エー テル体の動く『骨格』であり、それゆえ人間の図形なのです。これがこうした記号 の本当の意味なのです。  図形や記号を用いる正しい指針を少しずつ獲得すると、それらは人間をしだいに 霊的世界の認識に導き、霊視力を獲得させる手段となります。瞑想において五芒星 に沈潜する人にはこれらのエーテル体内の流れの道筋が見いだされます。これらの 記号の恣意的な意味をあれこれ考え出すのが目的ではありません。瞑想においてこ れらの記号と関わるとき、−−ただ忍耐強く行わねばなりませんが−−秘められた 真実に導かれます。あらゆる形象や記号と同じく、皆さんがさまざまな宗教的古文 献の中に見いだすことのできるのもそうです。これらの形象は、深く神秘学に根ざ しているものですから。預言者や宗教家が光について語り、光によって叡智を表そ うとするとき、このことを単に彼が思いついたとか、才気煥発であろうとしてこの ような表現を用いたとか考えるには及びません。神秘学者は事実に立脚しているの であり、才知に富んでいる必要はないのです。ただ真実であろうとするのみです。 神秘学者として人は、無秩序な思考をする習慣を捨てねばなりません。すなわち、 恣意的に結論を引き出したり、判断を下してはならず、一歩一歩霊的な事実を手が かりに、正しい思考を発達させていかねばなりません。 01800/01804 GGA02514 KAZE シュタイナー●神秘学の記号と象徴●第1講の2 (13) 94/10/07 00:26 ●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係 <第一講/シュトゥットガルト 1907年9月13日>その2  こうした光についての形象にもきわめて深い意味があり、ひとつの霊的な事実で す。このことを認識するために、再び人間の本質に目を向けてみましょう。ご存じ のように人間の本質の第三の構成要素はアストラル体であり、喜びと悲しみ、歓喜 と苦悩、衝動、熱望と激情といった人間の内的魂的な体験が有するすべての担い手 です。植物にはアストラル体がなく、従って人間や動物のような喜びや悲しみは感 じません。今日、自然研究者が植物の感受性について語るとき、そもそも感受性の 本質について完全な誤解に基づいています。このアストラル体の正しい表象は、時 代の経過とともにアストラル体の遂げてきた進化を追求するときにのみ得られます。 すでに以前、大宇宙での進化との関連における人間の進化を考察いたしました。そ の際、人間の物質体が人間本性の素も古く最も複雑な構成要素であること、エーテ ル体はそれほど古くなく、アストラル体はもっと若く、自我にいたっては人間本性 のうち最も若いものであることを見てきました。その根拠は、物質体はその進化に おいてすでに地球の四つの惑星状態を経てきたからです。私たちの地球が以前、土 星状態と呼ばれる受肉状態にあったとき、すでに物質体は原基の状態で存在しました。 その当時、はるか昔ですが、地球はまだ固体ではなく、人間はまだ今日の形態 をとっていませんでした。ただ、その土星上には物質体の原基があったのです。け れどもエーテル体、アストラル体といった他の体はまだありませんでした。地球の 第二の受肉状態、太陽上ではじめて人間にエーテル体が付与されました。当時、人 間のエーテル体はきわめて明白に五芒星の形態を有していました。後にこの星の第 三の受肉状態、月上でアストラル体が付加されることにより、これはいくらか修正 されました。さらに月は、地球へと変わり、以上の三体に加えて自我が登場します。  さて、次のように問うことができます。「これらの体は人間本性に受肉化する前 にはいったいどこにあったのか。例えば、太陽上でエーテル体として物質体の中に 組み込まれられたものは、古い土星上ではどこにあったのか。エーテル体というも のもどこからかやってきたのに違いないのだから。」と。エーテル体は、土星の周 囲にあったのです。ちょうど今日、地球の周囲に大気があるように。後になって人 間に組み入れられたものは、すべて古い土星の周囲に、気圏内にすでにあったので す。同様に、太陽においては、月上ではじめて組み入れられるアストラル体が周囲 にありました。古い太陽を次のように表象することができます。太陽は今日の地球 のような岩石、植物、動物から成り立っているのではなく、太陽上には二つの領域 がありました。太陽上に見いだせる存在、人間は、どうにか人間的な植物といった ところで、こうした存在とともに、古い太陽上には、一種の鉱物もありました。け れどもこの古い太陽を現在の太陽と混同してはなりません。古い太陽は厚いアスト ラル的な流れの膜に囲まれていました。いわば、古い太陽はアストラル的な光の膜 に囲まれていて、このアストラル膜は光輝いていました。古い太陽上の舞台はこん なぐあいだったのです。  今度は再び、物質体、エーテル体。アストラル体と自我を有する今日の人間を考 察してみましょう。さてこの自我がアストラル体へと働きかけて、これをよりいっ そう知的、道徳的、霊的な関連において浄化すると、このアストラル体から霊我な いしマナスが生じます。はるかな未来、今日ほとんど始まっていないこのことが完 了されたときには、このアストラル体が「物質的」に輝きを発することでしょう。 植物がすでに自らの内に新しい生命の萌芽を宿しているように、アストラル体もす でに光の萌芽を宿しています。いつか人間が自らのアストラル体をもっともっと純 化し、浄化しきったあかつきには、この萌芽が宇宙空間へと光を発することでしょ う。私たちのこの地球は、別の惑星へと変容するでしょう。今日の地球自体は暗い のです。外部から観察することができたとしたら、地球はただ太陽の光を反射して 明るく見えるだけだということがわかります。けれども、いつか地球自体が輝くよ うになるでしょう。そのときには、自らのアストラル体全体を変化させてしまって いる人間によって輝くのです。すべてのアストラル体の総計が光となって、宇宙空 間に光を放つことでしょう。  古い太陽の場合もそもような状態でした。古い太陽の住人は、現在の人間たちよ りも高次の存在たちで、これらの存在は光輝くアストラル体を持っていました。聖 書において大変正確に光の霊あるいはエロヒムと呼ばれたこれらの存在は、そのア ストラル本性を宇宙空間に放射していたのです。  さて、「人間が自らのアストラル体にくみ入れたものは何なのか」と問うならば、 答えは「それは私たちが善、聡明さと呼ぶものだ。それを通して人間は自らのアス トラル体を高貴にする」ということです。私たちがまだ食人種の段階にあり、すべ ての激情に盲目的に従う未開の人を観察するとき、そしてその人は何によってより 発達した人間と区別されるのかと問うとき、「文明人はすでに自らのアストラル体 に働きかけてきたが、未開の人はまだそうしていないという点で区別される」と言 わねばなりません。自らの激情や衝動を、これには従ってよい、別のはいけないと 自らに言えるように把握している人は、道徳的な概念や理念を形成しています。つ まりこれがアストラル体を変化させ高貴にするということなのです。人間は受肉を 重ねつつアストラル体に働きかけることにより、ますますいっそう先に述べました 光輝く存在へと自らを高めていきます。これは「叡智の働きかけ」と呼ばれます。 アストラル体の中に叡智が増せば増すほどアストラル体は光輝を増します。あの太 陽上に住んだ存在、エロヒムたちは全き叡智に貫かれていました。私たちの魂と肉 体との関係がちょうどこの光と叡智の関係なのです。光と叡智の関係は考案された イメージではないということがお分かりいただけたでしょう。これはひとつの事実 に基づいており、ひとつの真実なのです。光は実際に叡智の身体なのです。ですか ら、宗教的な古文献が光について叡智の感覚化として語っていることを理解できる ようになります。  学びつつある人、高次の視力、霊視力を発達させつつある人にとって、たとえば 次のような修行をすることは大きな意味があります。すなわち、真っ暗な空間に身 を置き、外からの光を完全に遮断して−−夜の暗闇で両目を閉じることでもよろし いですが−−、それから徐々に自分自身の内的な力によって、光の表象に突き進も うとするのです。人間がその表象を十分な強度をもって形成できるようになると、 彼は次第に明敏になり、そして光を見るようになります。物質的な光ではありませ ん。彼が今や自ら創造し、内的な力によって自らの内に生み出した力です。  これは叡智に貫かれた光です。この光の中で彼に創造する叡智が現れます。これ がアストラル光と呼ばれる光なのです。瞑想を通じて人間は内的な光を生み出すこ とができるよういなります。この光は、人間がいつの日か−−物質的な目ではなく、 もっと精妙な感覚器官によって−−見るであろうものの前兆なのです。それはエロ ヒムたちのような実際に存在する霊存在たちの外被となるのです。人間がこの修行 を正しいやり方で行うと、それはこれからの高次の存在と関係を結ぶ手段となりま す。自らの経験から霊的世界について何かを知るひとたちは、このように行ってき たのです。  後でお話しします別の方法によって人間は、自らの内的な力により、空間が光に 照らされ、叡智に取り巻かれるのみならず、空間がいわば音をたて始めるという事 態にまで到達することができます。ご存知のように、古代ピタゴラス哲学では、天 球の音楽について語られていました。この「天球」という言葉で、ここでは宇宙空 間、つまり星々が運行する空間が意味されています。これはあれこれ考えたあげく 作り上げられたイメージなどではなく、詩的な比喩でもない、ひとつの真実なので す。人間が秘密の道士の指示に従って十分に修行を積むと、明澄に光輝に満たされ た空間、叡智の顕現である空間を内的に観るだけでなく、宇宙空間にみなぎる天球 の音楽を聞き取ることを学びます。空間が鳴り響き始めるこの時、人間は天上的な 世界、デヴァチャンにあると言われるのです。まさしく空間が鳴り響くのですが、 これは物質的な音ではありません。霊的な音響、空気中では生きられず、ずっと高 次の精妙な実質、アーカーシャ実質の中に生きる音なのです。空間は絶え間なくこ のような音楽に満たされています。この天球の中にある種の基調音があるのです。 01801/01804 GGA02514 KAZE シュタイナー●神秘学の記号と象徴●第1講の3 (13) 94/10/07 00:27 ●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係 <第一講/シュトゥットガルト 1907年9月13日>その3  さて、ここでもう一度天球の音楽というものにおいて理解したことを考察してみ ましょう。私には今日の数学的天文学者たちが、神秘学において惑星について語ら れていることを明らかな妄想と見なすであろうことはよく分かっております。けれ どもそれは問題になりません。何といってもこれは真実なのですから。  お話してきたように、私たちの地球はだんだんと進化してきました。地球のさま ざまな受肉について語ってきたのです。地球は最初、土星、それから太陽、さらに は月、そして現在は地球であり、後に木星、金星、ヴルカンとなっています。さて、 次のように問うことができます。「そうは言っても今も空に土星というものがある ではないか。この今日の土星は地球の最初の受肉状態であった土星とどういう関係 にあるのか」と。今日、星空を観察すると、私たちが公によく知っている諸惑星が 見えます。これらの惑星の名称は恣意的に選ばれた、つまり近年、慣習になってい るように、特定の人物、例えばその星の発見者の名前にちなんでつけられたという ようなものではありません。星々の本質に関する深遠な知から与えられた意味深い 名前なのです。今日人々はもはやそのようなこととは関わりなく、例えばウラヌス (天王星)は後になってはじめて発見されたためこのような正しい名前を持ってお りません。今日皆さんが天に土星として観ているものは、私たちの地球がまだ土星 の状態にあったときと同じ段階にあるのです。公の土星は地球に対していわば少年 が老人に対するような関係にあります。老人がそのかたわらに立つ少年から発達し てきたのではないように−−老人自身もかつては少年だったわけですから−−、こ の地球も今日ある土星から進化してきたものではありません。今日空にある土星も またいつか「地球」となってゆくのであり、現在はある種、青年期の段階にあるわ けです。他の天体の場合もこれと同様です。太陽はかつて地球がそうであったよう な天体ですが、ただそれがいわば「前進した」状態なのです。人間の場合、老人の かたわらに少年がいるといった具合に、さまざまな年齢層がともにあるように、天 においてもさまざまな惑星がさまざまな進化段階にあって並存しているのです。そ の一部は、現在その第四の受肉状態にあるこの地球がすでに完了した進化段階であ り、また一部はこれからとることになる進化段階です。これらの惑星は、お互い正 確に一定の関係をとっています。神秘学者はこうした関係を今日の天文学者が行う のとは別のやり方で表現するのです。  ご存知のように、諸惑星は一定の速度で太陽の回りを運動しております。けれど もこれらの惑星は神秘学的天文学者たちによって精確に探求されている惑星運動で もある、また別の運動もしているのです。その探求によって明らかにされたのは、 太陽はある霊的な中心点の回りを運動しており、従って諸惑星の軌道はその正中線 が太陽の軌道となる螺旋を描くということです。各惑星がその軌道を運行する速度 は、お互いに全く一定の調和した比例関係にあり、この音響としての比例関係が聞 く者にとって、ひとつのシンフォニーへと構成されるのです。これがピタゴラス学 徒によって天球の音楽とみなされていたのです。この共鳴、この音楽は、宇宙的な 出来事の模像であり、ピタゴラスの学院で教授されたものは、何ら頭をひねって考 案されたものではないのです。古代の神秘学的天文学者たちはこう語りました。一 見静止しているように見えるこの星天は実際は動いている。霊的な中心点の回りを、 百年に一度ほど前にずれていく速度で回転しているのだ、と。  さて、各惑星の速度は、お互い次のような関係になっています。   土星の速度=木星の速度の21/2倍   木星の速度=火星の速度の5倍   火星の速度=太陽・水星・金星の速度の2倍   太陽の速度=月の速度の12倍  この場合、土星の速度は金星天の速度より1200倍早く、年に12度前進しま す。  物理学上の音楽的調和が成立するとき、これは、例えばさまざまな弦が、あるも のは速く、あるものは遅く、異なって振動することに基づいています。一本一本の 弦が振動する速度に従って、高い音や低い音が響き、こうしたさまざまな音の共鳴 が音楽として鳴り、調和を生むわけです。皆さんが弦の振動から、この物理学的な ものの中に、音楽的印象を得るのと全く同じように、デヴァチャン界の霊聴の段階 にまで上昇した人は、天体の運動を天球の音楽として聴き取るのです。さらに、諸 惑星のそれぞれ異なる運動速度の比例関係により、宇宙空間全体に響きわたる天球 のハーモニーの基調音が生じます。ピタゴラスの学院では、まさしく天球の音楽に ついて語られているのであり、それは霊的な耳で聞くことができます。  こういった考察では、また別の現象も暗示できます。例えば、薄い真鍮板に微細 な粉末をできるだけ均等にまき散らし、ヴァイオリンの弓でこの板をこするとしま す。すると音が聞こえるばかりでなく、粉末の粒子が一定の線上にきちんと並びま す。音に従ってあらゆる図形が形成されます。音が作用して物質、素材が配置され るのです。これが有名なクラドニの音響図形です。  霊的な音が宇宙空間を貫いて響いたとき、音は互いに比例関係にある諸惑星を天 球のハーモニーへと組織したのです。宇宙空間に広がって見えるものを、この創造 する神性の音が配列させるのです。このような音が、宇宙空間の内部へと響きわた ったことにより、物質が、ひとつの系が、太陽系、惑星系へと形成されたのです。 このように「天球の音楽」という表現も、才気に満ちた比喩などではありません。 これは現にある事実なのです。 01802/01804 GGA02514 KAZE シュタイナー●神秘学の記号と象徴●第1講の4 (13) 94/10/07 00:28 ●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係 <第一講/シュトゥットガルト 1907年9月13日>その4  さて、また別のことがらに移りましょう。私たちの地球が常に現在のようであっ たわけではないことはお分かりですね。相当長い間神智学に携わってきた方は、現 在の受肉状態にある地球がさまざまな進化段階を経たことをご存知でしょう。はる かに遠い過去、地球は火で溶融したような状態でした。今日の石や金属であるもの は、かつてはこの火で溶けた状態の地球に溶けこんでいました。そのような熱の中 では、人間もその他の存在も生存できたはずはないという非難に対しては、次のよ うに答えねばならないでしょう。当時の人間の肉体は当時の諸条件に適合したもの であったのだ、と。当時の肉体は、今日の溶鉱炉よりも高い温度でも生存できたの です。この地球の火−時代に続いて、私たちがアトランティス時代と呼ぶ水の時代 がやってきます。ちょっとこのアトランティス時代を考察してみましょう。アトラ ンティス大陸は、今日のヨーロッパとアメリカの間の大西洋の中心に広がり、私た ちの先祖が住んでいました。むろん彼らは今日の人間とは全く異なった状態にあり ました。彼らはある意味で霊視を行っていたのです。アトランティス人の進化にお いては、この視力にさまざまな段階がありました。アトランティス末期の最終段階 は、はるかに高次の段階の一種の余韻のようなものでした。例えば、アトランティ ス人は外的な対象をアトランティス末期になってようやく見ることができるように なったのです。それ以前、アトランティスには厚い水を含んだ霧の固まりが充満し ていたので、対象物は空間的にはっきりとした輪郭で分けられていませんでした。 こうしたアトランティス進化の初期においては、知覚の種類が全く異なっていまし た。古代アトランティス人がある物や存在に近づくとき、最初に見たのはある人物 や対象の輪郭や骨格ではありませんでした。むしろ、外界とは何の関係もなくある 内的な魂の状態を再現するような色彩像が、彼らの内に浮かび上がったのです。色 彩像は、こちらに向かってくる存在が彼にとって有益なのか危険なのかを語ったの です。例えば、こちらにやってくる者が他に対して抱いているのが復讐の感情であ ったなら、それに応じた色彩像が彼に示され、彼はそこから走り去りました。野生 の獣が近づいたら、彼は同様に識別し、それから逃れることができたのです。アト ランティス人は、自分の周囲の魂の状態をこの霊視の最終段階で知覚していました。 その状態から今日の視力が徐々に発達してきたのです。霧の日のことを考えてみて ください。対象はそういうとき、ぼやけています。こんな日には、街頭も点のよう に浮かび上がっているだけでしょう。それからだんだんと輪郭が判別できるように なってきます。このように少しずつ少しずつアトランティス人は見ることを学んだ のです。人間が以前に見ていたものは、一種のアストラル的な色彩でした。最初の うち、この色彩はまだ自由に漂っているように見え、それからいわば事物の上に置 かれたのです。  もちろん、こうした別種の知覚は、当時の人間とは全く違った様相をしていたこ とと結びついています。例えば、アトランティス時代の末期には、人間の額はずっ と後退していて、その上方にエーテル体が大きな球のようにせりだしていました。 額の後ろ側の点、両眼の間を少し後退したあたりで、物質体とエーテル体はまだ一 致していませんでした。それから物質体とエーテル体が収縮し、物質体とエーテル 体両者の点が一致したのは、人間進化において、重要な瞬間でありました。今日で は肉体の頭部はエーテル体の頭部にほぼぴったりと合っています。馬の場合は、ま た事情が異なります。けれども人間の場合、この頭部が変化してきたように、四肢 も変化してきたのです。徐々に現在の肉体の形態が形成されてきたのです。アトラ ンティス時代末期へと思いを馳せてみてください。そもそも当時はどんな状態だっ たのでしょうか。人間はある種の霊視力で自分の周囲の魂的状態を知覚していまし た。もう一度この厚い霧の大気、水蒸気をたっぷり含んでずっしりと重い空気を思 い浮かべてください。太陽や星々、あなたの周囲のあらゆる対象物は当時、この厚 い水を含んだ空気の中ではよく見えなかったことでしょう。虹は当時はまだありま せん。虹はまだ形成されなかったのです。すべては厚く重い霧の固まりにおおわれ ていました。それゆえ、伝説はニヴルヘイム、ネーベルヘイム(霧の国)について 語っているのです。徐々に、広く空気の中に拡がっていた水が凝縮しています。 「かくて大洪水の水が地上に降り注いだ」これは厚い霧の固まりが水へと凝縮し。 降水、雨となって落下したということに他なりません。水が空気と分離されたこと により、空気は透明になり、それに伴って、今日のような視力が形成されてきたの です。人間は、周囲の対象物を見ることができるようになって初めて自分自身を見 ることができるようになりました。  さて、人間の物質体は深い意味を持つ多くの規則性を示しています。そのうちの ひとつは次のようなものです。あなた方が高さ、幅、長さが、3:5:30の割合 となる箱をこしらえるとします。そうすると、これと同じ割合が人間の肉体にも見 せるのです。換言すれば、これによって人間の肉体の規則的な構成の割合が示され ているわけです。人間がアトランティスの洪水から出てきたその当時、人間の肉体 は3:5:30という割合に従って形成されていました。このことは、聖書におい ては次のような言葉でたいへん美しく表現されています。「そこで神はノアに命じ て、長さは三百エレ」、幅は五十エレ、高さは三重エレの箱(舟)を作らせた」。 人体の調和的な寸法比は、このノアの箱船の寸法比とぴったり適合しています。秘 教の記号や形象は、事物の寸法比とぴったり適合しています。  秘教の記号や形象は、事物の本質そのものから取り出されたものです。従って、 それらによって、私たちがいかにして霊的世界の関係を目の当たりにすることがで きるかが示されているのです。 (第1講・終了) 01803/01804 GGA02514 KAZE 「ダンスがスンダ」ら、なんてね^^; (13) 94/10/07 00:59 01793へのコメント tenさん、どうも。 >TENは公演準備のため一寸書き込めずにいます。(そう、TENは >ダンスをやっているのでした。)10月8日の公演は「東の龍」、12月 >10、11日の公演は「夜、子供はどこへ行くか」というタイトルです。 そうですか、TENさんはダンスをされているのですか。 一度拝見してみたいですね。 こういうときに田舎ぐらしはちょとつらい^^;。 でも、こんど上京したときにでも機会があればぜひに(^^)。 ダンスといえば、ダンスマガジンの編集長は今三浦雅士さんでしたよね。 三浦雅士さNはず〜っと前、現代思想の編集長をされてましたから、 そのからみで、ダンスマガジンの編集長をすると聞いて、 折りにふれ、ちょいちょいダンスマガジンを見たりしているのでした。 三浦雅士さんは「アートエクスプレス」の編集長もされてて、 このあいだの秋の号での特集は「宮沢賢治と現代芸術」でしたね。 その号のなかに「風の又三郎と勅使河原三郎」という記事がありましたが ぼくはその勅使河原三郎さんが好きなんです。 なんか、ゾクゾクさせられてしまう魅力がありますよね。 そのくせ、実践的にはダンス関係がからきしダメで困ります^^;。 もっとしなやかな身体にならなくちゃと思っているのですが、なかなか。 身体ががちがちで、心がしなやかなんてことは難しいですからね。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01804/01804 GBB03425 Paper Birch 怪傑ズバットって知ってます?(^^) (13) 94/10/07 01:23 01790へのコメント 隆さん、こんにちは。 >ところで、「サンダーマスク」の件、フォローをどうもでした。m(_._)m ペッコリ それにしても、「ちょっとロケットが速すぎて」 一万年も速く着いてしまった。という設定は、 凄いスケールのでかさとゆ〜か、荒唐無稽とゆ〜か(^^;; >なりメジャーな番組の裏だったんです。ちなみにマイナーといえば、「ジャンボー >グA」なんかもバカバカしくて面白かったなぁ。 ううむ。 ジャンボーグAもマイナーでしたか。しかし、確かにそうかも知れませんね。 僕は、その頃まだ3〜4歳ぐらいだったので、 結構真剣に視ていたと思います(^^) 今考えると「ジャンボーグ9」の操縦方法 (なんとハンドルで操縦していた。車が変身するロボットだったので。) とか、ほんとメチャクチャですよねぇ。 しっかし、僕が好きだったヒーローって、結構マイナーなのが多いです。 「アイアンキング」とか「グリーンマン」とか「変身忍者・嵐」とか.... しかし、なんと言っても一番好きだったのが「怪傑ズバット」でした。 こんなの知ってる人、いるかなぁ? ところで、「MO」買いましたよ(^_^) 128MBでシークタイムは30msの物です。 本当は120msの低速・低価格タイプの物を考えていたのですが そういうやつよりも安く広告に載っていたので、 ほとんど衝動的に買ってしまいました。(^_^;ゞ 一世代前の形なんですけどね。 で、あんまり嬉しいので、いろいろなアプリケーションを 用もないのにMOから動かしたりして、ひとり悦に入ってます。(^^;; この前システムがクラッシュしたときは、 フロッピーにデータをバックアップするのに、 ほとんど丸一日かかってしまったものでしたが 同じ作業をMOでやったら、ホンの十数分で終わってしまいました。(*o*)オオー! お金というのは、こういうことに使わなければいけないんですねぇ。 「時は金なり」と言いますしね(^^)                     △▼△ Paper Birch △▼△ >