MRE - FARION MES( 2):【居酒屋1999】--------自己紹介・雑談 94/10/31 - 02886/02889 KFR04742 YUKO やっぱり… ( 2) 94/10/30 17:13 さっそくRTに参加したはいいものの、なすすべもなくぼーぜんとしたまま 終わってしまった… ふん、負けるもんか! 急に寒くなってきましたね。みなさん、かぜをひかないようにお互い気を付けましょう。 02887/02889 PXB01563 おみゃー RE^2:冬はいいが夏は(^^;) ( 2) 94/10/30 20:22 02884へのコメント コメント数:1 >>>>英雄さん その猫はめのうさんが上亰している間何處で寢るのでせう(^_^;) くりすさんの股の間ではない とは思つていますが(笑) どこで寝るかを麦酒壱本(大瓶)懸けませんか ちなみに私は「くりすさんの左脇腹のあたり」 おみゃー @名古屋 02888/02889 PFA03563 YAHATA 10月が終わる ( 2) 94/10/30 23:47  精神科通院中のYAHATAの月例報告。  先先週に会社へ手紙を出した。辞表ではない。いろいろ考えた結果、やはり 私はプログラマがよい、それがだめでもコンピュータに触れればいい、という 希望を述べたのである。それに対してどういう返答があるか待っていたが、1 週間音沙汰なし。思い余って電話をかけたら、翌日会おうという話になったが それも都合によりつぶれた。さて一方病院側は、私の言い方がまずかったのか 「会社は復職させる気がないみたいだ」という理解をし、母の職場に電話でそ のように伝えたようで、おかげで私はその日帰宅後1時間ほど母に説教される という目にあう。もうあんな病院に行くな、とまで言われた。自分の子供の頃 の話まで持ち出した。しかし自分は子供をテレビの前にほっぽって働きに出て いたことをもう忘れたのだろうか。  忙しいことは承知で、彼女の家に電話をかける。比較的早い時間でも留守電 になるからなぁ…とか思っていたが、意外なことに人が出た。彼女の母親であっ た。まだ帰っていないというので折り返し電話してもらうことにした。  久しぶりに彼女と話せて、気が楽になった。やはり持つべきは友である。  休職満了まで、あと1.5ヵ月。 YAHATA 02889/02889 PXA06646 樹 くりすサンの何処(^^;) ( 2) 94/10/31 00:01 02887へのコメント    ゔ〜ん、、、、「肩と首の間にとぐろを巻いて寝る」、、、かな(^^;)    ちなみにウチの猫はワタシと一緒の時は首にまたがって寝てるか足首を枕に   寝てますが、母と寝てる時はうで枕してもらって寝てて、、、父と寝てる時は   めのうサンと一緒で股の間に寝てるか、お腹の上でスフィンクスしてる(^^;)   たま〜に寝返りした時にツメが刺さるらしく夜中にぶきみな叫び声が聞える(^^;;;    猫ってホントに不思議な生き物だと思う。かって気ままに自分が機嫌がイイ   時にはいつまでも人間をかまってるクセにチョットでも機嫌が悪ければ、、、   「シャーッ、フー」の一言でタヌキに変身(毛を逆立てるとも言うが)して   自分の世界に入ってしまう(^^;)。ウチの猫と犬は性格が逆(犬が猫的な性格で   猫が犬的性格をしてる)だが(^^;;;;;      学生時代のあだ名が「ネコ」「テンちゃん」ワカルカナァ?だった(^^;) 樹 - FARION MES( 6):∞・∞ 壁(カベ)・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞ 94/10/31 - 03036/03039 PXH04471 夢虹 RE:言わないでいること ( 6) 94/10/31 01:11 03033へのコメント コメント数:1   プラマタさんへ    「甘言男」に、心を込めて・・ですか?!    嬉しいなあ。    まるで、あこがれの人に出したラブレターの返事が帰ってきて    それも、想ったよりも色よい返事だったので    瞳を、うるうるさせている少女のような感じ。    そう・・ここまで読んで、もう分かったでしょう?    私の甘言は、このようにして始まるのでした(笑)    そうそう・・この「笑」をいれておかないと    ただの「あぶない おっさん」になってしまうのですね。    この部分は笑えます。    プラマタさんの、その時の状況が、あまりにも分かりすぎるから。    私の「甘言男」が、いつやって来るのか、それは私にも分かりません。    私の甘言なんて、まだ「相手」に左右されるレベルでしかないので、    もしも会話といふものが、    言葉のキャッチボールのようなものだとしたら    投げかけた言葉を、相手が「上手」に返してくれないと    さすがの「甘言男」も、どうにもならないからです。    もしも、この世に「甘言道」と云うものがあって    それが、茶道や華道、あるいは宗教での求道のように、    その道を極めた、といふような境地があるとしたら    言葉というものを自由自在に操れるような、    そんな、完全無欠の「甘言」を吐いてみたいような気もしますが、    やはり、「甘言」といふものは、たまに吐くのが効果的のようですね(笑)。    「巧言令色、少なし仁」とか。    甘言と、巧言令色のどこが違うのでしょうか?    あくまで「真摯」な気持ちで吐くのが甘言。    相手に対する精いっぱいの思いやりが、    私に「甘言」を吐かせている、なんてね。ここで言い訳したりして。    たまには、文字どおり「あぶない下心」がある時もありますが。アッハハ。    プラマタさんから「話しの飛躍」の許可もでたことだし、    この「甘言」を話しのネタに話題を飛躍させて、    例えば、甘言を使う時の心理的な背景と、    今までの実践経験??を、ふまえ、人と言葉の関係、    あるいは人とのコミニュケーションの機微を解きあかしつつ、    最後には、創世記の「初めに言葉ありき」あたりまで    面白おかしく、徹底的に話しを飛躍させる、というのもいいかもしれません。    それこそ「頭が軽くなるような」会話の仕方を楽しみながら。    でも、本当にそうなるかは責任もてまへん。    それにしても・・    あのプラマタさんまでが「甘言」を使えるような人だとは、    ちょっと意外でした。    頼もしい限りです。    この「甘言」については、またいつか書くかもしれません。    さて・・今回のプラマタさんの文章を読みながら、    私なりに感じたことが沢山あります。    これから少しづつそれらを私なりに「飛躍」させながら、    思いついたままを書いていきたいと思います。    これは、ほんとうに思いついたままの形で書くと思います。 例えば、「原初の地点を内側にもっていながら、         そうした幻想の渦に飛び込んで・・・」あたりには    次から次へと想像が湧いて、あちらこちらへと思いが飛んで、    昔、ちょうど同じような事を考えた覚えがある、    あれは・・・        私が、プラマタさんを「趣しろい」と思った要因に、    「この人が相手なら、文章を上手にまとめなければならないと云う、     余計な労力が省けるかもしれない」     と、思ったからです。    感覚的な言葉だけを、無造作に投げかけても、    それを、適度に解釈してくれそうな感じ。    くどくどと説明しなくても    行間にある意味あいだけでも感じてくれる人のような気がして。    文字だけを媒体にした、このメディアでは、それが基本的に必要なこと。    でも、それは口で云うほど、やさしい事ではない。    それがよく分かるだけに。    詩人になれたらなあ・・と、時々 思ったりします。    散文を書くのが苦手な私が取れる方法としては、    詩のような書き方が一番に合うのかもしれないのにね。    この続きは、また。    おやすみなさい。        レスポンスを ありがとう。                     プラマタさんへ                           夢虹 03037/03039 GBE02650 ユ−リ RE:終わり ( 6) 94/10/31 01:19 03018へのコメント  自分と全く同じ人間は居ないんだなあ…  最近、つくづくそう感じます。  一人一人の人間が皆、自分なりのバックボ−ンを持っている訳ですか ら、一つの物事の捕え方にしても、全然違ってくる。  よく、「湯のみ」を例えに使うのですが、視点を変えることによって 「湯のみ」は丸くも見えるし、四角くも見える。  勿論、円筒にだって見える。  で、自分と相手との物事の捕えかたが違うことに気がついた時にどう したらいいのか…?  なかには、多少の無理をしてでも、極々まれには、力づくでも(^^;意 見の類似点を探し、統一を計ろうとする考えかたもあるみたいですけど、 やはり、それは違うんじゃないかと思いますね。  むしろ、自分と他人が違うことを確認する、そして、どこがどう違う のかを知ることのほうが、ずっと大切なのではないかと思います。  自分と他人が違う…という事実を知るということは、一見確かに悲し いことのように思えますが、逆に言えば、それだけ物の見方の幅が広が る訳ですから、それはそれで良いことなんじゃないだろうか?  逆に言うと、自分なりの物事の見方がハッキリとすればするほど、相 手の物事の見方との違いも明確になってきますから、「自分の視点をし っかり持つ」ということが、他人の視点を知ることにもつながる。  相手の視点を知ることによって、自分の視点を理解する。  自分の視点を理解することによって、相手の視点をより明確に理解する。  そう考えると、自分と他人の違いを認識することは、決して孤独なこ とでは無いんじゃないかと、僕は思うんですけどね。                      ユ−リ(GBE02650) 03038/03039 GBG02755 すまる RE:終わり ( 6) 94/10/31 02:10 03032へのコメント 呼吸するように生きると言うのは、少しおおげさですね。 意識することをしないでいられるような瞬間が少しあると言う程度ですから。 考えてみると、意識ってどうしてするんだろうって思います。 まだ、わからないのですが、「恐い」からじゃないかなって思います。 自分に不信感があって、しっかり自分の道を歩いているのか、確かめたくて、 不安だから、「見よう見ようとする」のではないかと思います。 答えを得ようと焦る、正しい答えであるかどうか不安である。そういった心の 動きがあるような感じがします。 もちろん、それだけではないと思いますが。 真我のイメージと言うのは、真我とはこれこれこういうものであると言うことでは なくて、真我と言う言葉がおびき寄せるイメージとでもいうのかしら・・・ 「神」「忘我」とか、真なるものとの融合とか・・・ 私は少なくとも、真我と言う言葉からそういうイメージが呼び起こされます。 だから、そういうイメージからも離れてみなければならないと思ったんです。 すまるのやっているものは、偶然でして、意図して出来るものでもないでしょう。 自分の生きた道を振り返ると、そういうことだったんだなと思い至っただけです。 すまるは、精神世界に疎く、ほとんどを知りません。 EXさんがここにあげてくれた名前を知りませんし、読んだこともありません。 Kだけは、たまたまその日記が手元にあり、その日記さえも数ページ目を通した だけです。 すまるはこれからもこの方法であるかどうか、わかりません。 自分の導くものに従って生きているだけですから・・・ いろいろ書いては見ましたが、私は特別な何かをやっていると言う気持ちはなく、 反対に、自分はなんてものを知らない、幼い、未熟な人間だろうと思っています。 世間の人の方が、どれだけ真剣に自分と渡り合っているか・・・・ 私はまだまだ、甘ちゃんで、子どもです。 「神」などという概念を持っていることすら、恥ずかしい。 なぜなら、「神」と言う概念がすでに「逃げ道」であるからなんです。 「神」などとほざく前に、人として、生ききって見ろってのがあります。 自分との真剣勝負に、「神」など持ち込むことがすでに、「守り」である。 自分に味方するものをはぎ取って、やっと、自分との会話が始まるのですもの。 「神」と言う概念がその人の励みになるときは、それでいいが、 本当に自立し、甘えを排除することを目的とするなら、捨て去るべき概念でしょう。 神を知るには、神を失うことかもしれません。 神を求めている限り、それから自由にはなれず、本質を失うだろうと思います。 夢を追い求める時は過ぎ、ひたすら、現実を、事実を、確かめる時なのかも しれませんね。夢を現実にしたいのならば、現実を生きることでしょう。 (わかんないけど、そう思うです)                            すまる 03039/03039 KFA05313 プラマタ RE^2:言わないでいること ( 6) 94/10/31 12:24 03036へのコメント 夢虹さん に 僕は「甘い」という言葉・そのものにも、興味と関心がありますの。で。 もっとも「甘い」と思う・詩には、 カリール・ジブラーンの「メサイヤ」・・・カーリル・なのか・カリールなのか 良くは知らないけど、想う時に私の中では「カリール」の方が 私にとっては甘く響くので、 こっちでいいや、なんていい加減に思ってしまいます。 カリール・ジブラーン・・・。ああ・なんて素敵な響き・・・。(笑い) 人はもっともっと自分を甘やかす事を、しても良いと思ってしまいます。 夢虹さんは、沈黙や静寂を感じたり、目の前に・・・触れられる・様な、 出会う・と表現される様な・静寂とか、どう思いますか? 包まれるような、染み渡るとか・・・・・・・甘さが加わる事も可能だなと 最近は思います。・・・いえ、実をいうならつい先ほどから、そう思います。 甘さのある沈黙。とか、静寂の中に広がる甘さ・とか。 ・・・・・・笑わないで下さいね、私は想像してみて・笑ってしまいましたけど。 ああ、どうかお話ししてください。 「甘言」ネタの飛躍ばなし・・・ コミニュケーションの機微・・・夢虹さんの話す「人と言葉の関係」なら 私も聞いてみたいと思います。 もっとも、どんな主題があるわけでもなく ただ、何かを話してみたいというだけの構成で、 そこに、読んでくれる人がいるのだと わかるだけで、じゅうぶんすぎることって、あるから・・・夢虹さん これからもよろしくね 好きな話しを、好きな様に話していいからね 嫌な話を、頭にきた様に、話していいからね 自慢したい話しは、自慢に自信を持って話していいからね 話す気にならない時には、話さなくていいからね。    ありがとう プラマタ(KFA05313) - FARION MES( 7):★世紀末書込み寺★・・・・・・・・・・・・ARION 94/10/31 - 03780/03788 GHB02532 ごとうくまお RE:ぼくはいつも信じていない?>ARIO ( 7) 94/10/30 17:23 03751へのコメント はじめまして、NORIさん。ごとうくまおと申します。 信じるっていうのは結構複雑な問題ですね。 《 レッテルを貼らなくなれば信じることが出来るかなあ。 レッテルを貼るってことは、信じることと信じないことと両方あるとおもいます。 「彼は〜だから、こんなことはしないだろう。」というふうに「信じる」ことと、「 彼は〜だからどうも信用できない」というふうに「信じない」ことと。 レッテルを貼ること・・・「彼はこういう人間だ」というふうに彼についてのイメ ージを固定させることは、彼のことを「いい人間だ」と思うのでも、「よくない人間 だ」と思うのでも、「実際の彼の姿」を見えなくさせてしまうと思うのです。 彼はいい人だと思っていたら、そのイメージを壊すようなことをした。そうすると 私は「裏切られた」とか「幻滅した」と感じます。それで私は彼のことをきらいにな ってしまう。でも、彼についてのイメージを勝手に作って、実際の彼に押し付けてい たのは私で、それが壊されたからって文句をいうのは、なんか筋が違うな、という気 がしますね。実際に生きてる人っていうのは、個人的なイメージに収まるようなもん じゃないと思います。人間て、いつどこでどんなふうに変わるか、わかったもんじゃ ないですからね。 次は、彼はよくない人だと思っていた場合。もし彼が本気でいいことをしても、「 どうせ彼は〜だから」という感じで、彼の良い面を認められなくなります。これはま すます悪循環にはまりそうな予感がしますね。ここで、「ほんとはいいやつだったん だ」となればまだいいんですが、ここでまた「いいやつ」というイメージを固定して 、次にそれが壊されると「やっぱり」ということになってしまいますね。 結局、彼が何をしようと、それは「その場限りの彼」と言うことで、いいイメージ も悪いイメージも作らないほうがいいと思うんですよ。「彼はこんなことをした」と いう記憶を引きずっていると、次に彼に会ったときに、どうしてもそれがかぶさって きますよね。でも前の彼とは違う彼になってるかもしれない。なってないかもしれな いけど。まあ、基本的には変わってなくても、機嫌のいいとき、悪いときってのはあ るしね。前にあんなことをしたのはたまたま機嫌が悪かった、または良かったのかも しれない。だから、「次もこうだろう」ということは、必ずしも言えないとおもいま すよ。 人間関係に、相手に関するイメージは持ち込まないほうがいい、というのが結論で しょうか。実際に目の前にいる彼が本物で、自分がイメージしている彼は偽物なんだ と思います。自分が覚えてる彼は過去の彼で、今目の前にいる彼はどんな彼なのか、 自分には知りようがないんですよ。だから、信じるとか信じないとかいうことはあま り考える必要はないんじゃないかなぁ。いつも新鮮な気持ちで人に会えばいいんじゃ ないですか?「新鮮な気持ちで」っていうと曖昧かな・・・。「コイツは、前はこう だったけど、今はどうなってるかわからないぞ」っていうふうに、用心深く相手を見 ると、その人の知らなかった面が見えてきたりして、面白いかもしれません。 ¥くまお 03781/03788 GHB02532 ごとうくまお RE:意識 ( 7) 94/10/30 17:24 03757へのコメント オリハルさん、こんばんわ。 《 はい、わかりました。それは、何か、「言葉だけ」という感覚です。 それは、実践して体得してきた、生きている内容ではなく、 単なる情報、言葉と関わっている、という感覚でした。 私の理屈は、事実を観、それを理解し、そこから生まれたものです。理屈を覚え、 それを理解し、それから事実を観たわけではありません。そんなことはあり得ません よね。私が今までしてきたこと、今もしていることは、「観る」ことと「聞く」こと だけです。「観る」ことや「聞く」ことは、実践とか体得という範疇に無いものだと 思っています。私は何も実践していないし、何も体得していません。 《 私の場合と逆の使い方なので、種々のマッチングの関係上、それを「精神」と言 いませんか。 了解しました。 《 私は人には中点=自分がある、と言ってます。中点を心得れば、どちらへも転べ るし、どちらも考慮できる自由が生れるという事です。それは、観点を変えれば 、「自分」ですが、もっと大きな観点からすれば、一つの自分にしか過ぎない、 ということはあります。それで、「“自分”は色々なポイントを移動します」と 言いました。 「どちらも選べる」という選択の余地を持った意識は自由ではないと思います。自 由な意識はそのあるがままに動き、あるがままは一つであるために、そこには選択と いうものはないと思うのです。人には中点=自分があり、そこに鎖でつながれていま す。その鎖の届く範囲内しか移動できません。中点は移動し、「自分」というキャラ クターの性質を変えることはできますが、それは移動と言うよりは変色と言ったほう がぴったりすると思います。そして変色しても、根本的な構造は全く変わらないと思 います。自由な意識は、中点を持たず、鎖につながれることもなく、範囲を持たない 、というのが私の実感ですが、どうでしょう。 《 それは、否定的な思考法の結論です。肯定的な思考法の結論は「神の方向は内側 」です。 神に、内側と外側というような区別はないとおもいます。 《 そういうグローバルな社会においては現在、善はないと思いますが、しかし、善 を目指すべきだろうという観点は気付きませんでしたか。私はそういう観点から 言いました。 善を目指すというのは、社会道徳に汚染された偽善的な指向性だと思います。善は 、悪が「無い」状態であって、無いものを目指すことはできないと思います。 ¥くまお 03782/03788 GHB02532 ごとうくまお RE:一部つっこみ ( 7) 94/10/30 17:26 03758へのコメント オリハルさん、どうも。 《 | なにも。何かを否定する代わりに答えを用意しているなら、否定とは言えま せん。 《 では、何の為の発言でしたか。(質問) なんの為の発言かということは、以前にも答えましたね。あまりはっきりとは答え てないけど。この質問は多分、なんの為に否定するのか、ということではないでしょ うか。私が否定しているのは、「愛を破壊するであろう全てのもの」です。おわかり いただけますか? 逆に質問しますが、なぜそうも軽々しく肯定してしまうのですか?オリハルさんは #3757で「肯定的な思考法」と言っておられますが、思考がそれ自身を肯定するとき 、意識はますます思考の枠にはまってしまうと思うのですが。愛は思考の枠に収まる ようなもんじゃないでしょ? ¥くまお 03783/03788 GHB02532 ごとうくまお RE:食ひ違ひ ( 7) 94/10/30 17:27 03759へのコメント 英雄さん、こんばんわ。 英雄さんの言われるとおり、私のやり方には無理があるとおもいます。私は、この 会議室に自分が入っていく場合に、どういう風にしようか考えました。礼儀正しくノ ックして入ろうか、それともいきなり入っていって言いたいことを言いまくろうか、 と。私は後者を取りました。おとなしく猫をかぶって、当たり障りのない議論をして も、何の意味もないと思ったからです。それで、はじめから自分の中のものを洗いざ らいぶちまけて、人のことにはお構いなく、丸ごとぶつけてしまおうと思いました。 その方が、みんなの反応もストレートに返ってくると思ったからです。 ここに入った当時自分の中にあったものは、全部吐き出されたらしく、最近は、自 分の中になかった新しいものが出てくるようになりました。だいぶ、ここの感じが掴 めたようです。だからもう、今までの様なことは止めようと思います。私の中に溜ま っていた言葉は全て吐き出されたので、ゼロからちゃんとした順序を踏んで、できる だけゆっくり進もうと思います。 @おまけ <ここからは独り言。 「わたしは愛がほしい!」か・・・なんて悲しい叫びだろう。 いくら欲しいと思っても、手に入らないものがある。 欲しいと思えば思うほど、遠ざかっていくものがある。 愛がそうだ。 手に入れようとしなければ、自分の思い通りにしようとしなければ、いつもそこに あるのに。とても暖かく、とても明るく、とても優しく、とても繊細で、とても強い のに傷つきやすい。手に入れた途端に愛は壊れ、熱も、光も、優しさも失われる。後 に残るのは火傷と虚しさ・・・。 「愛が欲しい」と言う人は、本当に愛が欲しいわけじゃない。彼は自分の孤独を癒 してくれる満足感を求めている。でも、愛は満足じゃない。満足だけで終わらない。 後から後から湧き出してきて、自分から溢れ出て、全てを満たしてしまう。それでも まだ終わらずに、溢れつづける。不思議なことに、人が手を出した途端、全て愛だっ たものが、全て愛でなくなる。 「愛が欲しい」と言う人の前に、もしも愛が現れたら、彼は恐ろしくなって逃げ出 すか、こんなことを言うだろう。「私が欲しいのはこんなものじゃない」。しかしそ れは紛れもなく愛だ。 愛・・・人が最も欲し、最も恐れるもの。 ¥くまお 03784/03788 GHB02532 ごとうくまお RE:自由の束縛と共感の愛 ( 7) 94/10/30 17:28 03765へのコメント Sukeさん、こんばんわ。 《 ごとうさんの考え方は概ね、 「自分だけのものという考え方を否定することで、自分勝手な発想に反対し、 他人と共感を持つことで互いを愛し合う気持ちを持とう」 ということでしょうか。 違います。 共感の中には「反対」というものはないと思います。共感があれば、自分勝手な発 想にも共感できます。愛があれば、自分勝手な発想も愛することができます。愛の中 には自他の分離はないとおもいます。他人を愛し、自分を愛さないということはあり 得ません。その逆も然りです。愛は全てです。愛には境界も限界もなく、自他の分離 もなく、内部と外部の区別もない、というのが本当ではないでしょうか。私はそれ以 外の愛を知りません。 私自身は、決して私を許しません。私を許すことができるのは、愛だけです。 ¥くまお 03785/03788 GDB00064 オリハル RE:私の道 ( 7) 94/10/30 19:12 03773へのコメント なぜ、みれさんは黙ってるんだろう… 何か明確なコメントを頂けませんか。             オリハル 03786/03788 QFG00772 秀峰 RE:発言目的など ( 7) 94/10/30 20:26 03739へのコメント みれさんへ どうもお久しぶりです。私ははるか昔にARIONに質問しただけで、 みれさんとは、会議室でははじめましてだと思います。よろしくお願いします。 また、お忙しい中、長文のレスをありがとうございます。 発言基盤や発言姿勢についてのお考え、すごく納得しました。 発言目的をわかるように説明すること、私もその必要を感じてまとめてみて 書いたのですが、内容がいけなかったです。それを含めて引用します。 >> 秀峰さんの発言の中で私の目を引いた部分が以下に転載する部分で、そ >>れについて私の意見をコメントします。 |私がこの場で最も言いたかったのは、特定の話題や内容を発言しにくくなること、 |つまりタブーみたいなものがあったり、ここだけが唯一の真実の場であるという偏 |狭から身内思想や排他性へとつながる風潮、これらを憂慮する、ということでした。 |ただ、現状の認識につき、私にも偏見や先入観があったかも知れません。 >> こういう言い回しの論理は何度か目にしたのですが、目にする度に、毎 >>回何とも言いがたい不快感を胃の辺りに感じるのです。それが何だろう? >>と考えていたんですが、どうもこの論理展開に納得が行かないことに気付 >>きました。 上記の私の発言は、なんとか自分の言いたいことを煮詰めて示したいと思っての 発言だったのですが、ご指摘の通り、どうも単に聞こえの悪い言葉を並べて繋い だだけという感じで、論理も現状把握もあったもんではないです。 以前は、もっと具体性のある状況で、個人的な意見を示すつもりで「〜と感じま した」「〜印象を受けました」という語尾にしよう、などと気をつけていたので すが、私の上記の発言部分は、客観的な事実と決めつけていますね。おまけに、 「ここの過ちを指摘してあげましょう」という思い上がった姿勢にも見えます。 自分でも、不愉快を覚えます。これは失言でした。みなさんに対して失敬な断定 をして、すみませんでした。 ここに書き込んで間もない頃、「ここがどういう場か」というテーマを持ちかけ られましたが、そういうことには口を出さないつもりでした。ところが、だんだ ん自分の方からハマってしまいました。 この所、自分でも、いったいここで何をしたいのか、解らなくなることもしばし ばです。それを、ムリヤリまとめて自分の意見を総括しようとすると、論拠もな いカラまわりになってしまった。 なかなか苦しいです。ここでまた結論めいたことでも書いて一区切りをつけたい 気分ですが、とりあえずこのまま、超スローペースですが、いろんな会話を続け てみるつもりです。             秀峰 < QFG00772 > 03787/03788 PAF02400 湖の鷹 途中経過・・・ ( 7) 94/10/30 22:00 つぅわけでもないんじゃないかなぁとか思わないでもないんだけど・・・、途 中経過です(う〜み)。 今日、千代田区の日本都市センターで行なわれていた岩手県のUターン・Iター ンフェアなるものに出向いて来ました。んで、ちょい時間を勘違いして早目に ついてしまったので、近くにあった天満宮まで時間潰しにあるってみたりしま した。んで、おみくじがあったんで50円玉と引き替えに一つとってみたんだ けど・・・。う〜み、大吉が出ましたねぇ。こういうところでは大吉以外はな いんじゃあなかろうかという疑いを持つのは根が曲がってる証拠だろうか?。 あん、そういや昔には小吉とか吉とか引いていたっけ?。  ★願い事 思うように運ぶ家屋敷田地売り買いともに吉 う〜ん、簡単に言ってくれるなぁ。ほんとだろうか(^_^;)?。 *********************************** え〜と、以前、長野県の常設Uターン・Iターン受け付けの事務所に行った時 もそうだったんですけど、結局、ここでは岩手県の企業紹介・人材誘致が主目 的のようでした。んで、福岡氏の本を見せて自給自足がしたいと言ったら、岩 手県農業会議所の連絡先を教えてくれましたね。んで、別の方に代々木公園で 岩手県フェア(?)に新規就農コーナーがあるよっ、て教えてくれたんで、早速 向かったのでした。なんかこの辺のいきさつがすっごーく偶然ぽくって・・・、 あぁ、信じるものわ救われる、汝、疑うなかれ、だべ。変に物言い付けるのわ 辞めとこ(-_-)。 ということで、新規就農コーナーの人としばらく話してきたりしました。どう でもいいことなんだけど、隣では私と同い年ぐらいの人が本格的に農業だか畜 業だかを始めたいらしく?ヘクタールが1千万円だなんだかんだ、という話し が聞こえて来ましたね。あたしの方はというと、自然農法で自給自足が目的だ から、法令上の最低専有農地面積の50アール(5000平方メートル・15 00坪ぐらい?)を手に入れるとするなら6万円位あれば足りるだろう、みた いな3桁ばかり違う次元のお話しをしてたりしたのだけど(^^;)。ありゃりゃ、 やっぱり安過ぎるような気がするな。もしかすると聞き間違いかもしれない。 勘違いかもしれない。っても、いまんところはまだ、そんなもんの心配をする 時期じゃあないか。 値段はともかくとして、農地を手に入れるための“資格”をとることのほうが かなり難しいと言っていましたね。まぁ、この“資格”の最重要な点が、『そ の地に永住する意思があること』だそうだから・・・、う〜ん、もしかすると 『行きて帰らぬ道』になるのかなぁ、う〜ん、だけど帰って来たいなんて全然 思ってないから、これだけならクリアーするのはそれほど難しくはないじゃな いかな、ってのは、あまりに楽観主義過ぎるかな?。どちらにしろ、あたしは パソ通を辞めたくないから、そちらの方の維持費をどうやって捻出するかを心 配しなきゃならないんだよな。 う〜ん、だけども、今回紹介してくれた場所は、あたしにとっては理想的なん だよな。北国(?)で、太平洋に面していて、海が近いってのはね。う〜ん、だけ ども冬は霧が多くなるなんて言ってたよなぁ。だからなんだっつぅわけでもな いんだけど。 *********************************** 余談だけども、一家4人が自給自足をするなら、10アール(1000平米・ 300坪?)の土地があればいいそうな。アカシヤモリヤマの種を毎年一粒蒔 くだけで、風流な山小屋位だったら一生の間に何回でも建て替えられるとか。 *********************************** んで、とりあえず来週は別な人の紹介で九州は阿蘇に出向くことになりました。 まぁ、なんだ、願い事の実現はどれだけリアルに、つまりどれだけ現実的に目 標を組みたてられるか?、にかかってくるわけだから、今回の旅行はそういう 意味でも期待しちゃいますね(^_^)。                             湖の鷹 03788/03788 JCF00616 優位 幸福になるには ( 7) 94/10/30 22:48 03751へのコメント 〔優位よりNORIさんへ〕  「信じる/信じない」について僕の経験から話してみますね。 | 僕の旧い友人の中に、S君という人がいる。彼は精神世界的な話を | 「胡散臭い『宗教』」と同一ライン上に捉えてしまう性質の持ち主で、 | たまに、精神世界臭のある話をしようとするだけで、僕を見る目を変える。 | | 態度が「キミの話は、聞きたくないよ。どこかに去ってくれ」と言わんばかり | に僕の言うことに対して曲解し、わざと他の話題へと方向転換しようとする。 | | そして彼は僕を信じない。信じようとしない…。  最初は僕も嘆いていたけれど、もう嘆いたり憂えたりするのは  やめました。なぜやめたかっていうと、相手に何かを期待していた自分が  居たのを発見して、「代償(見返り)を求めるのは間違ってるな」と  気付いたから。(←『光よりの光』p.44,45 が参考になります)  「また裏切られるな」とレッテルを貼ってしまう事で、無条件に  『信じる』という行為からかけ離れてしまっている自分がある。  心からは猜疑心が生まれ、良心がうまく機能しないので苦しむ。  そして他人の生命を活かし切れないので、幸福は掴めない…。  どうしても「裏切り」とか「騙される」とかの妄想を抱いてしまう  のが人間でもあるのだけれど、そういった感覚を一度捨て切ってみて、  「今度キミが〜しても、僕はキミを信じるよ」と何度も繰り返し唱えるとか。  なんとなく、自分の器が広がったようで、幸せな気分にならない(^^)? ∋- Tanaka 。◎ 。Masanori -∈ - FARION MES(10):★夢酔い人の部屋★・・・・・・・・・・・・・・・・・・スウ 94/10/31 - 00620/00620 QFH02012 アラミス 今朝の夢 (10) 94/10/30 23:31 久しぶりに見た夢の話し(10/31) 最近は寝不足が続き、睡眠時間帯のズレも酷く中々夢を見なかったり 見ても忘れている状態が多い毎日ですが・・ 某UFO特番的な超常現象的世界を巡る夢 世界各地で異常現象が多発、オカシナ物体やら生き物が続々と登場。 印象に残っているのは巨大なマンモスの幽霊?と河の底から上がって きた怪物達・・・TVでも見ている様な感じで素直に驚いている自分と映像 のちゃちさから作りモノっぽい胡散臭さを感じている自分の二人の感 覚が同居した夢。 - FARION MES(13):★神秘学遊戯団★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・KAZE 94/10/31 - 01879/01880 GGA02514 KAZE 喫煙家批判に拘ってしまった^^; (13) 94/10/31 11:44 01874へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >我が家は相変わらず溜め水してトイレを流していますが そういうのが隆ちゃんのスゴイところですね(^^)。 そういう意識を多くの方が共有できていれば、水の問題に限らず、 いろんな問題が解決の方向に向かいやすいと思うのですが、現状はなかなか^^;。 ぼくにしたところで、断水だから否応なくそうしているだけのことで、 断水が解除したら溜め水してトイレを流すことはなかなかしがたいことです。 その点、相棒のそうした点での意識はすすんでいて、 ずっと以前から「無駄」ということについての実践はかなりのもので、 ぼくはそれにほとんど引きずられる形で、そうせざるをえないわけです^^;。 >しかし、いまどき不摂生はやめないけど病気は直してほしいなんていう骨董品みた >いな人っているんでしょうかね???。 いえ、けっこうその骨董品というのは大勢いるようですよ。 もちろん、入院や手術をせざるをえない状態になれば少しは養生するようですが そうでない限り、まずタバコも酒もなかなかやめようとはしないようです。 タバコをやめろというのは死ねっていうのと同じだ、 なんていう大馬鹿者もまだ身近にいます。 でも、ここ数年、そういう方に限って入院せざるをえないような病気になったりして 反省を迫られているようですが、そういう方の多くは、 退院したらすぐにタバコや酒を復活させるからどうしようもないです。 そういう方は、ぼくのような人間をみると 「タバコも酒も(おまけに)パチンコもしないで何が楽しいんだ」なんて 半ば冗談、半ば本気で口にしたりもします。 >もちろん、同質の感性が重なる事による進化というのもあるんでしょうが、僕など >は「違い」に打のめされたり(^^;)、悩んだりしながらそれを認識して行く事が課 >題なんだろうなと思い知らされる事しばしばです。 ぼくの場合も、「同質の感性が重なる事」なんてのは相棒以外は皆無で、 「違い」をいやというほど実感させられながら、 かろうじてなんとか生きているって感じです^^;。 生まれてこの方、ここまでずれるとかなり戯画的な感じもしていて、 よく相棒と「とかくこの世は住み難い」なんて話しています。 昨夜も、「なぜ多くの人は地縁、血縁、学歴などをベースにした権威を 共有し、それをふりまくことだけで一生を過ごせるんだろうか」なんて 互いにため息をついていたものです。 もちろん、ぼくの場合には、ほんとんど「地縁、血縁、学歴」などの権威なんて 単なるアホだとしか思ってないような極端さはあるのですけどね^^;。 >道具として使役できれば良いのですが、そのためには確固たる日本語的思考が必要 >です。 それは、ナショナルからインターナショナルへという考え方にも共通しますよね。 バイリンガルなんていう方もいらっしゃって、そういう中には、 修得した言語すべてに通暁している優れたかたもいらっしゃいますが、 そうそうすぐれた方ばかりではないようで、 すべてに中途半端になってしまう危険性もはらんでいるという気がします。 もちろん、ひとつだけしか修得していなくて、しかもそれも中途半端な場合もあって それのほうがもう目も当てられませんけどね。 そう考えてみると、ぼくが果たして「確固たる日本語的思考」ができているか というと、なかなかにYESとはいいがたくて、困ってしまうのですが^^;。 ま、いろいろありますが、やっと最近、英語をはじめとして、 いろんな言語をアンチョコでも勉強して、 それぞれの言語による思考の形を学んでみようという気になっています。 まずは、英語とドイツ語をベースにしながら、ロシア語と中国語あたりを ちょこちょこつまんでみようかと思っていますが、挫折する可能性大かも^^;。 これからしばらくは、車の中では外国語会話のテープが鳴り続けることでしょう。 >日本人にはまだまだ英語ができる=優秀とかいう変 >な価値観が残っている人もいますしね。 ま、できないよりはできたほうがずっといいのは確かですが、 それを特別視しすぎる方や、日本語が英語化してしまう方なんかは、 ほとんど軽蔑の対象としてもいいのではないでしょうか^^;。 >そういう感覚って海外に出ると感じます。どこへ行っても「僕の居るところは僕の >居るところだ」という感じ。 ぼくはそもそも出不精なので、海外経験などは少ないですが、 どうもどこに行ってもけっこうなじんでしまって、違和感がない。 そもそも好き嫌いがないもんだから、たいていのものは美味しく食べられてしまう。 なんて感じで、そういうのは相棒に言わせれば「脳天気のお気楽」なんだそうですが ま、こういうのもいいかな、って感じですね。 でも、よく考えてみると、この地球上は同じ「場」だといってもよくて、 重力が驚くほど変化するとか、空間組成が異なっているわけでもないのだから ま、地球上はどこにいっても地球の上って感じなわけです。 もちろん、宇宙空間だとか他の星にでもいけば、違いは明かなんでしょうけどね。 ちなみに、来年あたりどこに行こうかという話ですが、 ベーシックなあたりでウィーンあたりが候補に挙がってますが、 はたしてどうなりますことやら。 >裁判でも心神こう弱状態かどうかで、無罪になったりしますが、プロの殺し屋でも >ない限り、殺人を犯すような時は心神こう弱状態なんじゃないんでしょうかねぇ。 それに、精神的に病んでいるのもやはり自分の責任だから、 それで無罪になるのはおかしいとぼくも思ってます。 それに、そういうのはその人の人権を認めないってことだから、 その罪を免除することは非常に失礼なことなんですよね。 「おまえは人間じゃない!」ってことと同じ意味をもっていることになる。 >自分が神経症だからかもしれませんが、最近の人は多かれ少なかれ精神を病んでい >るように思います。 そもそも「精神を病んでいる」かどうかをどう判断するのか疑問ですよね。 だれでも多かれ少なかれ、他の方と違った側面をもっているわけだし、 それを病んでいる部分とそうでない部分というふうにわける基準もよくわからない。 ぼくなんかは、車から平気で火のついたタバコを投げ捨てるヤツは 完全に精神病だと思うんですが、そういうのほど社会的にはまともとされてたりね^^; >確かに食後の一服はたいへん旨いのですが、周囲に気を配らなくてはね。 先週、会社関係の宴会があったのですが、 そのときに、食事の合間合間にタバコを吸ってる人がいましたし、 日頃からつきあいがかなりあって何でもいえる人だったので、問詰めてみたところ^^; たしかに食後の一服はうまいが、食間はまずい、 まずいけど、間がもたないから吸わざるを得ないのだそうです。 それとひとが迷惑することについては、 「そんなこと気にしていたらタバコなんか吸えない」のだそうです^^;。 ぼくのまわりの人間にマナーの悪いのが多いのかもしれませんが、 こういう方が非常に多いんですよ、現実には。 >誰だって苦しい事は嫌ですが、苦しみから逃げるばかりではどうしようもありませ >ん。場合によっては、あえて苦しみを受け入れなければならない事もあります。現 >世的には辛い事ですが、そういう事が進歩のかてになる事もまた事実のようです。 仏教では四諦といって生老病死という苦の認識がベースになっていますが、 仏教の限界というのは、それを「苦は苦だ」と絶対化してしまうところにあります。 もちろん、その後、中道だとか空仮中の三諦円融なんていう方はでてきますが、 本来の仏教というのは決して「中道」ではなく、「空」に執着するものです。 「空」に執着するからこそ、世間から逃げて坊さんの集団生活なんかしたりもする。 そういう意味で在家で悟るのがテーマの維摩経なんかのファンが 増えてくるのですけど、できれば、「苦はほんとうは苦ではない」、 「苦こそがあなたの糧なのだ、喜びなのだ」という認識を得るようにしなければね。 もちろん、マゾになってしまうのと話は別ですが^^;。 >同じ逃げるなら、言い訳しないで素直に「辛いから逃げるのだと」自覚しなければ >と思います。 確かに、言い訳すると二重の意味での逃避になってしまいますよね。 じつはぼくも、よく逃避的になるときには、よく言い訳したものですが、 最近ではけっこう素直に、「辛いから逃げる」とかいえるようになりました^^;。 でも、どちらにしても五十歩百歩かもしれないことは自覚したいと思います。 (しかし、やはりつらいことはつらいですよね、ううむ、むずかしい^^;) ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01880/01880 GGA02514 KAZE 否定は克服ではなく逃避である (13) 94/10/31 11:44 01875へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >とにかく当時の僕はバカの考え休むに似たり状態で、 おたがい、過去をこうやって反省できるのはいいかもしれませんね。 会社で、自分の過去を賛美し、今の自分を嘆いている人がけっこういますが、 そういう人は、ぼくからみててもほとんど進歩が止まっています。 やはり、バカなことを考えやろとして失敗して、そこから学べるというのは 感謝すべきことなのでしょう。 >同じコントロールするにしても、ダイナミックな感情をコントロールするの >と、ほとんど暴れない感情をコントロールするのとでは、その意味あいも違ってく >るのでしょう。っで、やはりダイナミックな感情をコントロールするのでなければ、 >その甲斐もないというものです。 ぼくはあまりダイナミックな感情をもってるとはいえませんが、 小さい頃は、感情を抑えきれなくてよく暴走していたのを思い出します^^;。 (けっこう、ひどいものだったんですよ、これが) そういう小さな問題集を解きながら、いまやっとその程度のものは 軽くいなせるようになってきたのではないかと思っています。 そういう意味で、日々少しずつ感情を飼い慣らすことを練習して、 来るべき感情の大浪にも対処できるようにしたいものです。 一気に津波がきたら、準備しとかないとひとたまりもありませんから。 >この背景にはセックスに対する異常なまでの拘りが感じられます。なんでああも否 >定するのか。ストイックである事がそれほど「聖」なる事なのかと首を傾げてしま >います。 もちろん、坊さんの修行には修行の意味があるのはわかりますが、 その拘りは解消する方向ではなく、 「隔離」することで増大させてしまうことになります。 ですから、そういう坊さんが生まれ変わってきたら、 小さな問題集をといてないものだから、 一気に女性問題が破局的になる可能性は大きいですよね^^;。 否定は決して克服ではなく、単なる逃避であることを知る必要があるのでしょう。 >差別に対して異常に敏感になっている方にも同様な疑問を感じます。 そうですね、これも否定は克服ではなく逃避であるということです。 それに拘るあまり逃避してしまうことで、問題解決を不可能にしてしまう。 差別を克服するためには、それぞれが自分のうちなる差別意識を深く見つめ、 「なぜ自分はそういう差別意識をもっているのだろう」と自問しながら、 その根源に迫っていくことがなによりも必要なのではないでしょうか。 >自分と同じ「型」の人間をたくさん作っても >面白くもなんともないと思うのですが・・・。 それを安心してしまう方がいるんですよね、これが。 前のアーティクルで地縁、血縁、学歴云々の権威の話をしましたが、 こういうのも決まった「型」を絶対化、権威化して喜んでいて、 それ以外の「型」を無視するか軽蔑したりする。 こういうのはやはり自分の価値観と違ったものに対する恐怖なんだろうなと思いますが こういう方は、自己満足してるからほとんど対話ができないわけです^^;。 >儀式もそれが好きな人にはそれなりの環境を残してあげなくてはと思いますが、嫌 >な人に押しつけてまでする事はないですよね。勿論、嫌な事・不必要な事は全部排 >除っていうのはまずいと思いますが、卒業式をするのに、わざわざ練習したり怒ら >れたりするのは、アホウとしか言いようがありません。 まず大事なのは、なぜその儀式をするのかをみんなで共有することだと思います。 ほとんどの儀式は「してあたりまえ」って感覚ですから、 そこに「なぜ」をぶつけると、秩序破壊の罪に問われてしまうわけです。 ほんとうに大切な儀式であれば、どんなひとも、それぞれの内には、 その儀式に対応した切実なものをもっているとぼくは思っているのですが、 それの切実なものを権威化しすぎたり強制したりするのは、 やはり間違っているとぼくは思うのです。 どんなひとでも、ほんとうに必要なことであれば、嫌なことでも 歯を食いしばってがんばるはずです。 そういう意味で、運動会っていうのは、ぼくにとっては何の必然性もないもので、 それを「あたりまえ」にされるとカチンときてしまうわけなのです。 そもそも、学校で、運動会実施にあたって、「なぜ」の部分を みんなで話し合おうっていう場なんてあるのでしょうか。 たぶん、ないのだと思いますが・・・。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):★Room 666/預言解読の部屋★・・・・YHVH 94/10/31 - 02585/02586 GBG02043 維/YUI ごくろうさまでした。 (14) 94/10/30 22:08 YHVHさん、世代交代の時期なんでしょうかね(^_^;)ホラ、モウミソジ・・・ダシ。 長いようで、短いような・・・妙な数年でした。 私なども、まさか・・・と思っていたようなことに出会ったり、やらかしたりで、 未だに”うっそー!”っていいたいような気分になることもあります。オイオイ・・・ とはいえ、そんな私らのちまちました日常とはうらはらに(?)、宇宙・・というか 時というか、自然はダイナミックに呼吸を続けているんでしょうね・・・・。 ちょっとまえに金沢に出掛けた時、なにげない他人様の一言が、その人にとっては なんでもないことがらが、旅人の心をやわらげてくれることに気づきました。 自分の住処にもどって、仕事をし家庭をつくっていく時、そういう、他人様に喜んで 受けとめてもらえるような言動行動・・・生き様っていうと、ちょっとおおげさ かな・・・、どれだけできているのか、この先どれだけ出来るような人に近づける かな・・って、そんなことをつらつら考えています。 議長職を離れて、仕事の方に力を注がれるのでしょうけれども、そのこともまた 誰かとのつながり、ひいては全体のことに繋がっていくのですから、そんなことに ときどき思いをはせながら、暇があるようでしたら”あやしい”書き込みをしていって くれるといいなぁーなんて思っています。 YHVHさんが議長を辞任されたのは淋しいですが、私の根本のスタンス(?)は 変わっていないので、新議長の許、これからも私のペースで参加していきますので、 どうぞよろしく。m(_ _)m ペコペコ 維/YUI。 02586/02586 GCC01413 YHVH 旗の行方。 (14) 94/10/31 01:04          *[緑のシンボルカラー]          きのう日本新党が解散しました。          ちょうど2年半になるそうです。          そう言えば、オープンした時に、          日本新党の話題も出ていました。          退任と重なったのは奇遇ですね。                    YHVH - FARION MES(18):★二人三脚ネットワーク実験室★・・・・あもり 94/10/31 - 01923/01923 QFH02012 アラミス 遅くなりました>>智美パパさん (18) 94/10/30 21:18 01897へのコメント どうも智美パパさん、返事が遅れましたが機械の調子はどうでしょうか? それでは1890ー1897まとめてですが色々と思う所を書いてみたいと思います。 まず、智美パパさんが過去色々と誤解や思い込みがあったけれども今は違う との話しはよく理解できました。それで細かい所にRESしてみると・・・ >>ある方から「自分が思っていることをすなおに全部話してみては」と >>アドバイスをいただきました。(MES.1891) その人って誰なんでしょう?みれさんとかARIONじゃないでしょうね(^^;) まさか「私」だとか?(苦笑)・・どういう形でのアドバイスであったかは 私には知る由も無いですが、不平不満や不快感も合わせたごった煮的発言 ではやはり読んでいる人は戸惑うでしょうね・・ >>あれ〜。そうでしたか・・・。知らなかった。私は「さとり」が強調されていると >>思ってました。自他の差異の明確化を書いたのは、「さとりなどとほざくまえにや >>って置くことがあるだろう」と思って、目的にすえたのです。(MES.1892) うーむ、ここ一つとってもお互いの差が感じられて成程と感じてしまいます。 もう少し補足すれば、この場で言う「さとり」とは仏教的な涅槃の境地(悟り) では無く「差取り」でしたよね、それで「差取り」の為には先ず自他の差を見 つめる事から始めよ・・と言うのがARIONの話していた事だったと記憶しています。 >>もう一つ。私はARIONは「自分を観るべきだ」なんて一言も言っていないと思 >>っていました(これは確認できません)。(MES.1892) ARIONもみれさんも一言も言ってないですよ、常々「やりたい人だけがやればいい」 と言っています>>「自分を観る事」 それで「自分を観る事」をしていないからと言って自分を卑下する必要も無いし、 しているからといって他人に強制するもんでも無いでしょう(これでは布教と変わ りません(^^;)お互い足の引っ張りあいなんかやっていたらそれこそ本末転倒です だいたい私自身「自分を観る事」なんて全然やっていない訳ですが、それに負い目 なんか感じませんよ。 ただ、今回の智美パパさんの場合の「自分を観る事」をすべきだ、と言われた事に ついて智美パパさんが相当拘っていたってのはよく分かりました。問題はその後に あったのだと私は思っているのです・・ >>これらが、かって私が言ったFARIONの根源的な問題だと分析していたんです >>が、これはFARIONの問題と言うよりは、個人個人の、しかもごく一部の方々 >>が直面している現象にすぎません。(MES.1893) 個人の問題をFARION全体の問題としてすり替える・・これもこのフォーラムではお馴 染みの現象かもしれません。しかし何時までもこの様な同じ事が繰り返されて良い 訳がありませんから、どうしたらよいのか考えてみなきゃなりませんね。 MES.1894では私の発言の在り方について賛成してもらえて嬉しく思っております。 前回の私のあの発言に一つ付け加えたいのは、「その発言が`誰’に向かって発せら れているのかハッキリする事」なのですが、これはこれで別に書いておきたいと思 います。 MES.1895には自己の科学的世界観が否定された事について話がありますが、 >>私は、こうした否定や強要に強い不満と怒りを感じました。許さないと思った。 これも智美パパさんが強く拘っている事だと思うのですが、どうでしょうか? 確かに意見の否定は人格の否定では無いでしょう、否定的意見を述べた人は人格 否定をしているのでは無いと私も思います。ですが自分が強く拘っている事、これ を馬鹿にされたら黙ってはいられない等、場合によっては徹底的にやり合うのも有 りだと私は思います。(それはそれで覚悟が要りますし、相手を潰す目的であって はならないでしょう) >>たまごさんは教祖を生み出す過程や他人の教化を試みる過程と共通の話法を使い >>ました。そして、私は「(たまごさんは)FARIONの宗教化した」と主張し >>               ・・・中略・・・ >>常に腹がたった。そして、強い疎外感を感じたわけです。その後、このことに関 >>して何度か発言しましたが、コメントはいただいていません。このことに関する >>他の方々の見解は不明です。(MES.1896) 智美パパさんがたまご氏の件について当時どう思っていたのか、ようやく分かった のがこの発言でした。逆に言えば今までの発言では何を言いたいのだかよく分から なかったのが正直な所でしょう。そうすると随分と遠回りをした事になりますが・・ 仕方がない事だったのでしょうか?内容自体については、なんでそれで強い疎外感 を感じたのだか今一つ不明なのですが・・ >>私は、FARIONではいかなる人の発言にも迎合しないと決めました。 >>(MES.1987) 「迎合」という言葉の持つ否定的意味合いからすれば確かに迎合する必要は無いと 私も思いますが、同意見の人に同意する時も「迎合」を考えて身構えてしまう・・な んて事はありませんよね? 「疎外感」の話しは別に書きたいと思います。 ・・続きます - FARION MES(19):※精神世界/見聞録/ぶっ飛び話/アレコレ・・・・ 94/10/31 - 373/375 TAB01276 ROマン #359へのRESに対する回答(長文です) (19) 94/10/30 12:37 コメント数:1  (#360 #361 #362 #364 #369 にお答えして...)   みれさん、月狼、アキラさん、優位さん、英雄さん、こんにちは  一度にコメントをいただいたので、失礼とは思いつつ、  まとめてお答えさせていただきます。  「受け売り」に関して ------------------------------------------   さて、私の発言が「受け売り」だとのことですが、その程度の印象し  か与えていなければ、それは事実として受けとめたいと思います。   私としましては、知識のなかのほんの一部、自分自身の経験や、他の  方の体験談から、自分の思想としてお話できる部分を紹介しているわけ  なのです。ですから「幸福の科学で言っていることでしょ?」と問われ  たら「そうです。幸福の科学ではこのようなことを学んでいます」と答  えるつもりです。「いや、これは自分だけの思想なんだ。俺の発見した  原理なんだよ」と主張することが素晴らしいとは思っていません。自分  より高い認識力を持った方に学んでいることを誇りに思っていますから。  憑依に対するアドバイスに関して --------------------------------   霊障に対する私のアドバイスというのは「まわりの人が明るい心で包  んであげてください」という1点です。それ自体きわめて常識的な行為  のお勧めであるし、危険性がない方法をあえて選んだのです。   「幸福の科学の講演会に来れば云々」の発言は「私の立場からこんな  ことも言えるけど、言わなかったでしょう? あえて即効性のない方法  をお話したんですよ」ということを知ってもらうために書いただけです。  私の経験 (*^o^*) ----------------------------------------------   アキラさんのコメントに対して書きましたように、私自身、幸福の科  学に入って以来、霊感体質になっています。それは別に素晴らしいこと  でもなんでもないし苦しみの原因でもありますが、お釈迦様が「心を統  御する」ことの大切さを繰り返し説かれていた理由が、体験を通してよ  くわかりました。みなさんの中には霊能者の方もいらっしゃるかもしれ  ないから、私の経験なんて些細なものに感じるかも知れませんが、憑依  という現象は毎日とは言わないまでも、自分でよく経験しています。   例えば、疲れているときに、何かにムカッとします。その瞬間「来た  っ」というのがわかります。この場合には頭にハチマチか何かをギュッ  と締めつけられたような感じがします。これをそのままにしておくと、  その怒りの感情がどんどん増幅していって、自分とは思えないような恐  ろしい言葉がどんどん頭に浮かんでくるのです。それをそのまま言葉に  出していたら、とんでもないことになるでしょう。そこで気持ちを切り  替えようと努力するわけです。   あと、私はよく自己否定の感情にとらわれるのですが、こんなときは  どんどん暗いほう暗いほうに考えが進んでいって、自己否定の極致まで  いっちゃうんですね (^^; 。そういうときは幸福の科学の本を読んで気  持ちを切り替えることにしています。15分も読んでいれば「あれっ、  さっきは何を考えていたんだろう」って、その否定的な感情が遠い昔の  出来事のように感じられます。   前にもちょこっと書きましたが、友達はひどかったです。会の活動に  も参加しないでいつも一人で悩んでいるタイプなんですが、もろに耳も  とで囁かれて、相手をしてしまったが最後、24時間ひっきりなしに声  が聞こえて眠れなくなってしまいました。本人は高級霊だと思っていた  そうなんですが、とうとう両親が心配して精神病院に入れられてしまい  ました。幸福の科学の指導員が会って「それは悪霊だよ」と指摘したら、  本人も多少は真理の知識がありましたから、納得したそうです。悪霊だ  と知ってからは声は聞こえなくなったそうで、とりあえず解決しました。   幸福の科学の初期の講演会では、突然暴れだして倒れる人をよく見ま  した。救護係を手伝っていた知り合いの人の話では、憑依していた悪霊  が苦しんで暴れているとのことで、ひどい人になると会場の入口で足が  動かなくなってしまう人もいたそうです。本人は中に入ろうとするので  すが足がいうことをきかなくて一人で入口で葛藤しているそうで、変な  人だなあと思ったそうです。講演会の光の強さをあらためて感じました。  なお、最近の講演会ではあぶない人は見かけなくなりましたので、安心  して一度いらしてください (^^)。  その他、コメントなど ------------------------------------------  (#361 月狼さん)  >宗教界に蔓延している「受け売り」と言う害悪についてどう思いますか??   「宗教とは危険なものである」という前提に立ったご質問に受け取れ  るのですが、正しい教えであれば、教えられたことをそのままの形で伝  えることは善であると思います。自分の体験をもとに解説できればさら  にいいのはもちろんですが、教えの中に不純物が混じることの害の大き  さを考えれば、まず、正しく伝えるということが、教えを学んでいる人  にとって、必要なことじゃないかなと思います。  (#362 アキラさん)  > ROマンさんは、私の見るところ、宗教という妖怪に完全に魂を売り渡すと  >ころまでは至っていないように思えますが、これ以上引き込まれないように願  >うばかりです。   現代の日本社会では「宗教=あやしい、危険」というレッテルがまだ  取れなくて、実際に宗教にまつわる事件が多々報道されています。しか  し、それは宗教界のイメージを損なうことはあっても、宗教そのものの  もつ素晴らしさを否定するだけの理由にはならないと思います。   私も幸福の科学に入るまでは宗教団体というものを恐れていました。  幸福の科学自体、私が入ったときは宗教法人ではなく、カルチャーセン  ターのような雰囲気でした。何らかの法人資格をとろうというときにも  「宗教法人だけはやめてほしい」という声がどうどうと語られるような  団体でした。しかし「宗教のイメージが悪ければ、それを変えていくの  も我々の使命ではないか」ということで宗教法人としての発展を開始し  たのです。私の宗教に対する認識の変化と、団体の発展はほとんど同時  進行でした。私たちの活動は、アキラさんのような考えをもつ方がいな  くなるような、宗教界の浄化の活動なのです。  (#362 アキラさん)  >その幸福の科学の教義ですら、GLAの教義の粗雑なコピーです。   こういう断定的な決めつけには首をかしげたくなります。この結論を  得るのにどれだけの検証をされたのでしょうか(それとも受け売り?)。   私も本屋で手に入るGLAの本は全部読んでいますが、なぜそのよう  な結論をもたれたのか不思議です。たしかに、初期の頃にはGLAの後  継団体だと思い、そこから流れてきた会員が多数いらっしゃいましたか  ら、用語などをそのまま引き継いだ部分もありました。しかし、そのよ  うな人たちも、やがて「GLAとは教えが違う」と言ってどんどん去っ  ていったことから見ても、違うものであることは明らかです。教えの幅、  質、量からみても、全く比較の対象になりません。  (#362 アキラさん)  >個性の尊重を言葉では唱えながら、その実、まったく同じ言葉しか喋   れないコピー人間を大量生産しているのが新興宗教というものです。   「個性」とは好き勝手なことを言って歩くことではありません。そこ  で学んだことを、自分の個性を最大限に発揮できる方法で生き方として  表現しなさい、という意味です。幸福の科学として大きな共通目的はあ  ります。真理を広めてユートピア世界をつくること。神仏の願われる方  向ですべての人が自己発揮できる社会をつくることです。ですから教え  を正しく伝えるというのは大切なことです。あとはどれだけ相手に合わ  せて話せるかということで、その実力が足りないことをもって「同じ言  葉しか喋れない」と言われるのであれば今後の修行課題ではあると思います。  (#364 優位さん)  >もしも、その判断に関して責任を持つことができないのであれば、  >予め「私は知識はあっても豊富な経験(体験)はありません」と明言し、  >「私の発言に責任を取る事が出来る/できない」ということを付記した上で、  >質問された方に確認を取るという手順を採用されてはいかが?と思います。   はい。相手に無責任だと思われるような書き方だったことは事実です  ので、今後気をつけたいと思います。アドバイスありがとうございます。  (#369 英雄さん)  >まさか、一晩でこれだけのRESがつくとは思わなかった(^^;。   ほんとに (^^) 。でも勉強になりました。ありがとうございます。  最近は週に1、2度読むだけでしたので、すぐにお答えできずに申し訳  なく思います。  最後に --------------------------------------------------------   いろいろ書かせていただきましたが、最後にお伝えしたいのは、みな  さんの質問やアドバイスを読んだ印象として、私に対する親切な気持ち  がとても感じられまして、ありがたく思ったことなのです。今後もよろ  しくおつき合いください (^_^)。                       ROマン 374/375 GGB03631 新村 篤史 はじめました。 (19) 94/10/30 20:40  △▼△ Paper Birch △▼△ さん有り難うございました。  この件につきまして、RES・討議頂きました皆さま有り難うございます。  早速(財)日本心霊科学協会関西支部に連絡をとりまして、具体的な内容についての 文書での連絡をとらせて頂きました。事後の結果につきましては、またご報告させて頂 きます。また、こちらのROGより占いのご専門の方にメールを出しアドバイスも頂き ました。本当に、助かりました。  解決に向かって動き出しましたことは、全て皆さまのご助力のおかげです。  一相談者に対して、真剣で実質的な討議がかわされること自体、感謝しかありませ ん。今後ともよろしくお願い致します。  GGB03631 新村 篤史(月の輪熊) @奈良市 375/375 MGH00465 アキラ RE:#359へのRESに対する回答(長文です) (19) 94/10/31 03:20 373へのコメント #373 ROマン さん  レス、ありがとうございます。  キツい書き方になっていますが、どうぞ御容赦くださいませ(^^;)  まず、一番肝心なこと。  今回のレスは、ひたすら幸福の科学を「弁護」する内容に終始していますね。 これではいけない。  あなたがするべきなのは、たとえば私の先のファイルの中で、あなたの発言 を引用して「そこに傲慢はなかったか?」と問うていますが、そうしたあなた 自身のことについて応えるべきなんです。幸福の科学がどういう団体であろう と、あなたはあなたでしかなく、この場でみんなと対話しているのはあなた自 身なんです。あなたは自らを主張するべきですし、皆もあなた「自身」との対 話を望んでいます。ところが、あなたは今回のレスで、誰でもあっても同じの 無個性な幸福の科学の単なる一会員になってしまっている。  あなたは、自らは自覚していないでしょうが、結果的に、幸福の科学を弁護 するために「使われて」いるのです。こうした会話の中で、自らのことを語る のではなく、自らの所属する団体のことばかり語ってしまうというのは、洗脳 教団に所属する者の顕著な特徴です。知らず知らずのうちに、そのように教育 されてしまうのです。  もし幸福の科学がきちんとした団体ならば、あなたなどに弁護されるまでも なく、その団体自らの行ないにより評価されるでしょう。しかし、なぜか幸福 の科学の信者は、必死になって教団を弁護し、教団の素晴らしさを唱え続ける。 信者がそうしなければ、教団の存立基盤すらも危うくなってしまうからこそ、 教団はそうした信者を拡大生産し続けるのです。  そこに所属するすべての者が、「教団」に隷属するだけの存在になってしま っている。それが幸福の科学の姿です。  GLAについてですが、一応高橋信次、佳子の著作についてはほとんど目を 通しています。そのほか、分派していった人たちの著作も。10数年前には、G LA本部での会合に遊びに行ったこともありますし、高橋佳子の講演も何度か 聞いたこともあります。高橋信次については亡くなった後にその存在を知った のですが、過去の講演テープはかなり聞いているつもりです。ただし、私はG LAの活動については賛同していませんし、会員であったことは一度もありま せん。いいことも言っている団体だとは思いますが、むしろ、特に高橋信次死 後の活動についてはかなり否定的です(高橋信次存命中については、直接は知 らないのですが、批判すべき点は多々あったという感想をもっています)。  なお、「GLAの粗雑なコピー」と決めつけた根拠については、それを始め ると長大な検証が必要になるので、その手間も時間もかけるつもりはありませ ん。あしからず。  ちなみに、質はともかく、教えの幅や量などというのは、なんの評価基準に もなりえません。あたりまえのことです。  とはいえ、ROマンさんの書き込みの中から、いくつかコメントしておきま す。 |「宗教のイメージが悪ければ、それを変えていくのも我々の使命ではな |いか」  これは、一見もっともらしいですが、その実、この台詞の動機は、「幸福の 科学はいい宗教を実践する団体だ」ということを自称したいにすぎません。こ れを、自己の利益のために唱える大義名分、といいます。  そんなことは、それを自称する団体の行ないを見れば明らかなのであって、 よりによって日本での宗教のイメージを決定的に貶めてくれた幸福の科学が、 いまだにそんなことを言っているとは驚きです。  加えていうならば、ROマンさんの、この書き込み自体が、ますます宗教に 対するイメージを悪化させていることにお気づきになりませんか? 少なくと も、幸福の科学が洗脳教団であることを確信させるに足るものであることは確 かです。  ちなみに、残念ながら、私は宗教自体については、特に悪いイメージはもっ ていません。神の存在には確信がありますし、実感しています。  また、ROマンさんがコピーを肯定している、また幸福の科学もそれを推奨 していることは危険、です。これをファシズムといいますが、「絶対的な真理 を布教するファシズムは正しい」、とする態度は著しく危険です。そのファシ ズム思想を鵜呑みにして、「自らの頭で考える」ことを放棄し、その安楽さに 浸っている信者は救いようがありません。  言葉にできる「絶対的真理」などありません。この現実世界がユートピアに なることなど、金輪際ありえません。それを「ある」と言い切り、その幻想を 振りまいているのが幸福の科学です。この一点をもってしてだけで、幸福の科 学は危険だ、と言い切れるのです。  そもそも、真理を言葉による知識として伝えられるものだと思い込ませてい るところが、その邪悪さの最たるものです。  絶対的な真理が存在し、幸福の科学がそれを唱えているのだ、ということが 確認されるならば、「その真理を個人のバイアスなく伝える」という意見も検 討の余地がありますが、そもそもそんな前提など存在しないのですから、RO マンさんがおっしゃることは無意味です。  なぜ絶対的真理などありえないのか。なぜユートピアは実現されえないのか。 それを自分の頭で考えることが、ROマンさんが真になすべきことではないか と思うのですが、いかがですか?  最後になりますが、ROマンさんの文章を拝見すると、幸福の科学が「霊感」 について非常に安易に扱っているようなのが気になります。なんでもかんでも 霊感に結びつけるように幸福の科学が推奨しているのであれば、それは非常に 危険です。おまけに、ROマンさん自身の体験の部分ですが、それを憑依、す なわち自分以外の何者かのせいにして、しかもその対処法は心を光で満たして 追い出せばよい、というように幸福の科学が指導しているのだとしたら、これ って、すんごくマズいですぜ。心配です。  霊感というのは、そっちに意識を集中していると、うっかり本当に開いてし まうことがあるのですが、そんな指導のもとで開いてしまったらとんでもない ことになります。気をつけてください。  おそらくROマンさんは、これまでの文章を読んで、反論の意欲を再度ムラ ムラと湧かせていることでしょう。もちろん、幸福の科学を捨てようなどとは 思いもしないに違いありません。当然のことです。宗教に憑依されてしまった ら、容易に振り切れるものではありません。  ただし、幸福の科学を弁護する発言については、それをするのは自由ですが、 以後私はコメントをしないことにします。無意味なことに時間をとられたくは ありませんから。  将来ROマンさんが幸福の科学に幻滅したときに、この一文を再度読み返し ていただけたら、これ以上の幸せはありません。宗教放浪の堂々巡りにだけは 落ちこまないように祈っています。  私は、ROマンさんが「ご自分を語る」ことに期待しています。                            MGH00465 アキラ >