MRE - FARION MES( 1):【お知らせ 】--------運営からのお知らせ 94/11/01 - 034/034 HGC02325 ガッチャ データライブラリ登録のお知らせ 94/11/01 ( 1) 94/11/01 01:53   データライブラリに以下のデータを登録しました。どうぞご利用下さい。    ※LIB2    |番号 ID 登録日付 バイト 参照 データ名 |18 HGC02325 94/11/01 2168 T ハローメッセージ 1994年 10月分     FARIONハローメッセージ集 1994年 10月分をデータライブラリ  に登録しました。     登録先は LIB 2 【一 般】編集済ログ で、データ番号は18、検索キーは  「ハローメッセージ(全角)」です。     1日1行のハローメッセージですが、まとめてみると一連のARIONの言葉  になっているのがわかりやすいです。テキストデータの短い物ですから、ワープ  ロユーザの方でもOKです。                      FARION SUB-SYSOP HGC02325 ガッチャ - FARION MES( 4):【宴会/オフ】--------プランとレポート 94/11/01 - 804/804 PXH01650 英雄 RE:上京しま〜す(^_^) ( 4) 94/10/31 22:30 803へのコメント やっほう、めのうさん いよいよ上京ですかあ(^^)。 ええと、19,23なら空いているなあ。地元だったら、スグ幹事を引き 受けるけど、東京じゃあわからんしなあ。どなたか、いません? >依存モ―ド(^^; ときに、千歳烏山ってどこ? :英雄: - FARION MES( 6):∞・∞ 壁(カベ)・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞・∞ 94/11/01 - 03040/03041 NAG02033 EX RE:終わり ( 6) 94/10/31 22:01 03038へのコメント これは独り言です。 例えば無限のイメージ、永遠のイメージの中に何らかの具体的なも のがあるとき、そうではなくて、無限そのもの、永遠そのものとは 何かという方向に向かっている時、そこで何時か必ずジャンプする 時があるのだと思います。無限を、限られた記憶、条件付けられた 心で知ろうとする事の無意味さに、じっさいにそのまま、なんの防 御もなく、思い当たることが出来る時が。 逆に、我々は、自分をそこまで追い詰めていないと言う事なのでは ないかと思うのです。ジャンプするためには、身軽にならねばなら ないのにまだ、何か、自我のよろいのようなものをつけているのだ ろう、と。そんなものは贋者なんでしょうが、どんなちっぽけな贋 者でもそれを多く抱えていれば、十分な重荷でしょう。身動きでき なくなってしまう。十分に生きるためには、十分に死ななければな らない。とも言われます。今を十分に生ききって、そして放してい るでしょうか。 そしてそのように生きれば、過去は重荷にならない筈ですし、言葉 の意義は蓄積物に汚されることなく、常に新しく、限定されえない ものです。 言葉の意義そのものに、素直に入っていく時、何か特定の文字列そ のものに非難すべきものを見出すでしょうか? これは文字の問題ではなく、私を含め、いかに人は言葉にイメージ を被せ、記憶、古いものを蓄積させ、汚すのかという問題だと分る と思うのです。 そして、全体も、無限も、調和も、魂の目指すものすべて、古びて 汚れていくのでしょうか? それは、言葉の問題でしょうか? 感情というものによって、高められる事があります。 他人を傷つけ、人を離反させる感情もあります。 そのような時に、人はそこから学ぶでしょうか。 それとも同じことの繰り返しでしょうか。 人は全く無駄なことに何かを費やすでしょうか? 猫が牙を剥いてきた時に、本気で怒りを爆発させれば、 猫を殺してしまうかもしれません。 EX (NAG02033) 03041/03041 KFA05313 プラマタ キャベツと言葉と理解 ( 6) 94/11/01 11:00 私はおそらく、 言葉を知らない時分から ・・・・おそらく、父親を許せませんでした。 それは、「食べる」という事に、関係していたと、思います。 中学の頃には、同じ食卓に座る父親の口から 「食べなさい」・・・、 ニアンス的には、「ほら、食べな」と言うのを聞くのが、 耐えられなかったと、認識した記憶があります。 その周辺について、たまたま、尊いお方であらせられる 相棒様との間に、会話が起こった時の事ですが。 私はよく、母親につくってもらった弁当を、食べずに帰り おにぎりなどは、特に・机の奥から ミイラとなって発見されることも、しばしばだった、 と、話しました。 驚いたことに、そうした経験を、 なんと彼女も持っているのでした。 ・・・・何かしら、同じ質を持っているのだろうと、思ってしまう事と、 自分だけの特殊なケースと思った過去が ここにも、要因はわからないにしても 同じ事をした、同じ様な対応に身を置いた人が居ると知って、驚きました。 高校を出て、田舎を出て、ひとり暮らしを初めて2年目。 夜学に通いだして、充実を得た頃のある朝、 僕はとてもお腹が空いていました。 パン屋さんが近いせいと、支度の容易さから アパート内では主食はパンにしてました。けれど その日はたまたま一個の、キャベツがあるだけでした。 流しの前にちょこんと座ると、しげしげと・そのキャベツを見ていました。 そして、手に取ると、ゆっくりと口に運び 私はガブリと、葉っぱを口にして むしゃむしゃと・した所で それは、どこからともなく涙があふれて、来たのです。 ・・・・こんなに自由に、おいしいと思って食べられる事が うれしくて、涙があふれているのでした。 定かではないけど、 食べる・と言うことがどういうことなのか 初めてわかった様な・味わったような気がしていました。 そして、より正確に表現するなら 何かを理解したのは確かなのだけど、 どういう風にわかったのかは、まったく定かではありませんでした。 この一件以来、その瞬間を境に、私は何か、重荷から解放されたのを 感じたと思います。 そして、心底明るくなったなと・思える ひとつの転機となっている出来事の様に、思うのです。 それ以前には、お前には食べる資格はない・と、 無言の呪縛の中にでも居るように 友達との、お店の中で、自分のオーダーがとれませんでした。 次々と自分の飲みたい物、食べたい物をオーダーしていく友達たちが 恐いほど、とても大人に見えました。 以上は、・・・キャベツの向こう側と、こちら側・の話しでした。 ひとつの体験に、何度か時間をおいて訪れる時 全く別の事を、拾うことがあります。 今回の拾い物と、ここにUPしてみようと思ったことの要点は、 理解する、あるいは理解した、と呼ばれる瞬間の中には・・・ 理解は、言葉による返答としては、やってはこない 言語や思考という形をとっては、起きないな、 と私は思う、という事です。 ひとつの、理解が起きた・と呼ばれる空間から 言葉が涌いてくるのは、ずーと後の話だと 私は思ってしまいます。 たわいもない理解に於いての起こり様がそうなのだから、おそらく ・・・・・・・・・、 偶然か必然か、夢虹さんが言ってくれた一言・・・ 創世記の「初めに言葉ありき」・・・と聞いて、 以前、ここで、言及したいと思いながら、触れずにいたことに 発言の機会を得ているとも、思います。 単細胞的思考の所有者である私としては 聖書の一番の始まりの、その一言の為に ・・・・「初めに言葉ありき」の為に・・・・旧約は値いしない・という判断を ベーズに持ってしまった者の一人です。 この、最初の出だしは、 「そして 言葉ありき」・・・あるいは「それから 言葉ありき」と、 訂正すべきだったと いまだに思ってしまう私です。(笑い) 大きなお世話かアな。 プラマタ(KFA05313) - FARION MES( 7):★世紀末書込み寺★・・・・・・・・・・・・ARION 94/11/01 - 03789/03794 GDB00064 オリハル RE:意識 ( 7) 94/10/31 16:42 03781へのコメント ごとうくまおさん、こんにちは。 | 私の理屈は、事実を観、それを理解し、そこから生まれたものです。 ええ、そうだと思いますが、そこには創造性の欠如のようなものを感じました。 | 「どちらも選べる」という選択の余地を持った意識は自由ではないと思います。 ・に加えて、 |《 それは、否定的な思考法の結論です。肯定的な思考法の結論は「神の方向は内側 | 」です。 | | 神に、内側と外側というような区別はないとおもいます。 への返事ですが、あなたと私のスタンスの違いが現れていると思います。 私は「実践的観点」から発言してます。 あなたは、多分、人間と言う存在を無視して、その上で、論理の追及だけが行過ぎてい ると思います。たとえば、ごとえくまおさんは膝が反対側に曲らないからと言って不自 由だと言いますか? 目が後頭部についてないからと言ってそれをあなたは不自由だと 言ってるのと等しいのです。人間には人間としての自由の“範囲”があります。 さて、ごとうくまおさんは以前、次の様な提言を行ないました。 | <問い> | 人間として生きることの面白さを、十二分に引き出すことができるような生き方 | はあるだろうか? これは実践的観点からの言葉ですよね。あなたのスタンスの矛盾はどう説明しますか。 | 善を目指すというのは、社会道徳に汚染された偽善的な指向性だと思います。善は |、悪が「無い」状態であって、無いものを目指すことはできないと思います。 これもそうだと思います。物事は徐々に進むものです。その上で、例えば、少しでも破 壊的な結果を無くして行く事だと思いますが、どうですか。                                 オリハル 03790/03794 GDB00064 オリハル RE:一部つっこみ ( 7) 94/10/31 16:43 03782へのコメント どうも、ごとうくまおさん。 |私が否定しているのは、「愛を破壊するであろう全てのもの」です。おわかり |いただけますか? やっと目的を言ってくれましたね。 では、何故、最初にそのように答えなかったのですか。 その方向を全く示さないままで「安定願望は間違いだ」とか否定的言葉を連ねた時、 その言葉が“どこへ向うための言葉なのか”が分らないと思います。 なぜ最初にそのように言わなかったのですか。 今後はあなたに否定的に接する事はなるべく止める事にしましょう。 | 逆に質問しますが、なぜそうも軽々しく肯定してしまうのですか? 重々しく見せるつもりがないからです。 本当らしく見せない為です。 「事実」は単に事実として話せばいいから。 ところで、これはごとうくまおさんの口実ですか。 |#3757で「肯定的な思考法」と言っておられますが、思考がそれ自身を肯定するとき |、意識はますます思考の枠にはまってしまうと思うのですが。愛は思考の枠に収まる |ようなもんじゃないでしょ? 私は思考が自分だと思ってません。思考は道具だと思ってます。 その“使い方”について私は言ってました。 それと、英雄さんへの#3783で |めたようです。だからもう、今までの様なことは止めようと思います。私の中に溜ま |っていた言葉は全て吐き出されたので、ゼロからちゃんとした順序を踏んで、できる |だけゆっくり進もうと思います。 とおっしゃってますが、それでは、今までのあなたの言葉が嘘に見えます。 まぁ、私はちょっと物足りない感じですが。 私は宗教・哲学人間と議論するのが趣味の一つなのです。                                 オリハル 03791/03794 GDB00064 オリハル 今日のハローメッセージ ( 7) 94/10/31 16:44 03785へのコメント コメント数:1 |愚かなり、壷に手を入れかき回す者。己の足元には砂粒も残らない これは、私の事なのでしょうか。> ARION 何をどのようにするとどうなるのですか。 ARIONは個々の人間の心の中が解りますから、 私が何をどう発言しようとARIONは驚く事が全く無いはずです。 これは、最近私が自分が関わってきた宗教組織の話をしたからかな。 FARIONでは、そういう話を縦横無尽に話せる場であってほしいと個人的に思います。 今はARIONを恐れる気持は持っていません。 | 軽業師は盾琴の音に魅せられ、南の小箱は弧を描く宝を隠す。 の「軽業師」というのは私の事ではないとも思っています。 というのは、私は仕事を軽くするための道を追及している訳では無いからです。 だから、その道の「師」では無いわけで、従って「軽業師」ではないわけです。 この結論は正しいですか?  お返事が無い事を以てこの質問が正解であると判断します。 「軽業師」の言葉が当てはまるのは、一部の芸能人だと思います。 すると、その内容は全く違う事になる。 RTでの事を想起するに、多分、ARIONのRESを「誰に」つけるかは、 みれさんの判断なのだと結論しました。これは、全く有り得る話です。 だからどうした、というのではなく、「見方」の一つとして今後、 使用するという意味合いがあります。 でも、みれさんが黙っているのは、何故なんだろう。 毎日ハローメッセージが変化しているところを見ると、 関わっているのは確かだと思います。 それとも私と話すのを止めているのでしょうか。                         オリハル 03792/03794 NBB01420 SUKE 話が変わっている ( 7) 94/10/31 18:10 03784へのコメント  #3784 ごとうくまおさん、レスどうもです。  私としては自分と他人を同一視することが愛だとは思えません。  他人が自分と違う存在であろうと、その自由な可能性を束縛しないことが大切だ  と思います。  それはともかく、切り口が変わってきていると思います。  私が始めに書いたことは「単なる知識として得たものと、体験を通して得たもの  は、違うものではないか」ということでした。  色々な言い方をしてきましたが、一言で言えば「身に付いたものになるかどうか」  ということだと思います。  つまり「愛」の在り方についての議論ではありません。  そういう意味では、「ごとうさんはそうは考えていないのですね」で終わりです。  ごとうさんと私では捉え方が違うようですから、これ以上どういう言い方をして  も実りのない話にしかならないと思います。                =====  ところで、ごとうさんは他人と共有できないという発想そのものに執着されてい  ませんか?  ここで「共感」という言葉が私の語彙と同じ意味かどうか疑わしいと思いますが。  あるいは話を「愛」とか「共感」というものに変えますか?  私としてはごとうさんとどのような主題で話をしても、互いの違いの確認より先  には進まないだろうという気がしています。  それは主題の問題ではなく、   「ごとうさんにとって当たり前のことでも、他人にとっては当たり前でない    ことがあり得る」  という単純な事実を踏まえて頂けないのではないかと思うからです。                           (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 03793/03794 SDI00635 みれ RE:今日のハローメッセージ ( 7) 94/10/31 21:53 03791へのコメント  #03791 オリハル さん  私がRESしないのは、単純に時間が無いからです。  それから、ハロー・メッセージはオリハルさん個人の話では無く、FARIONにア クセスされる方々、つまり会員7000余人に向けて出されたものであり、そ の内容は会員さんのことに限らず、世間、世界のことを預言の一部として出し たものですので、オリハルさんが気にされている様なこと(個人的なこと)に は返答しかねます。  日常的な受け答えでOKである様なコメントは出来ますが、時間を掛けて相 手の言わんとするところを理解せねばならない様なコメントは、現在、あまり にも時間が無いために出来ない状態ですので、ご容赦ください。  ARIONが当会議室にコメントをしないのは、現状での彼等の方針の一つ だと聞いていますので、ご心配無きようお願いします。 ・:*:・みれ・:・。,★ 03794/03794 CXQ01347 YUKI 船井幸雄氏の著書について ( 7) 94/11/01 10:10 03715へのコメント  秀峰さん、ご無沙汰しています。たくさんのコメントにお忙しそうだったので 発言を控えていたのですが、そろそろ落ち着かれたようなので.........  さて、私の9月中旬頃の発言を覚えていて下さって、とても嬉しかったです。 確かにあの発言は、船井幸雄氏の『生き方の極意』を読んだすぐあとにUPしたも のでした。ここ数年、書店のビジネス書売り場に、船井氏の新刊が山積みしてある のに気付いてたのですが、何故か手が伸びませんでした。はじめて読んだのが、 この本でした。  私は、大前研一や堺屋太一タイプのビジネス本かと思い購入したのですが、読ん でビックリでした。まるで、精神世界本だったからです。今まで、私の精神世界関 連の知識は、もっぱら、人文科学系の書籍がソースになっていました。『とうとう、 社会科学と人文科学の境界がなくなってきたな』というのが、正直な感想でした。  さて、うちのダンナも同じ本を読んだのですが、彼は途中でアホらしくなったよ うでした。その理由を尋ねてみると、『これは、(中小企業の2世経営者や、親父が 医者で自分も医者というような、)いわゆる自分のことをインテリだと勘違いしてい る奴のための本だ』とのことでした。社会的、経済的に一通り揃った人が、『さて、 自分は何のために生きているのだろう?』と、自問自答を始めるに当たって、微妙に 知的好奇心をくすぐる本なんだそうです。 ちなみに、ダンナの好みは『中村天風の 心身統一道』です。マイナスからの出発が、自分にぴったりなんだそうです。  話を、私の感想に戻しますが.........私も秀峰さんがおっしゃるように、船井氏の ネットワークは、新しい一つの形態だと思いました。世界情勢を鑑みると、経済は、 新しい政治の誘因を作っていると思います。(中国の経済特区はその典型だと思いま す。)  古い慣習に囚われない新しい経済活動が、新しい政治を作ります。 そして、その政治が新しい国を作ります。 そしてその国が、新しい地球を作る大き なエネルギーの一要素ではないでしょうか? (ちょと話が飛躍しすぎたな〜(^_^; )                           YUKI - FARION MES(11):★平井和正/異界漂流★・・・・・・・・・・・・アキラ 94/11/01 - 826/827 MGH00465 アキラ 「神霊の山訪問記」削除しました (11) 94/10/31 14:01 813へのコメント  タイトルオンリー、です。                MGH00465 アキラ 827/827 GEH01636 おかもと NHK趣味百科 写経 (11) 94/10/31 22:17  なんかとんでもない題をつけてしまったけど、中身はまとも(のつもり)。  今日、本屋で「NHK趣味百科 写経」という本をみつけたのだよ。なんで も教育テレビで11月1日(ってことは明日)から「写経〜般若心経を書く〜」 という番組がはじまるんだそうで、そのテキストってわけだな。(放映時間は、 毎週火曜日の午後9:25〜9:55。再放送は毎週水曜日の午後2:30〜3:00)  ついふらふらと買ってしまったのは、けっして写経をしようという殊勝な心 からではなく、カラーページがいっぱいあってキレイだったから。いや、お経 ってFARIONでは実用品(??)だったけど、美術品という見方もあったのね。  それよりわらっちゃったのは、巻末の広告にあった“般若心経を唱える経本” こと「般若心経ひかり」。経本をひらくと、光センサーが反応して高野山の僧 侶が録音したお経がながれるしくみ。宣伝文句によると「経本には仮名が付い ているので初めての方でも、その日から高僧の読経に合わせてご唱和いただけ ます」だって。  ま、そんなおちゃめな広告もありますが、テキストにはちゃんと文字の手本 とか、般若心経の実物大見本もついていて、写経の入門書としては格好のもの になっているとおもいます。  さて、ここにこの文をUPしたことで、明日のNHK教育はどれくらい視聴 率があがるかな(あがらないって)。                             おかもと - FARION MES(13):★神秘学遊戯団★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・KAZE 94/11/01 - 01881/01884 GGA02514 KAZE シュタイナー●神秘学の記号と象徴●三講の1 (13) 94/11/01 01:03 ●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係 <第三講の1/シュトゥットガルト 1907年9月15日>  今日取り上げてみようと思いますのは、数の象徴学と呼ばれているものについて の考察です。神秘学の記号や象徴について語る時、数の中に表されている形象につ いて、簡単ではあっても言及しておかなくてはなりません。  一昨日お話ししたことを思い出してください。宇宙における数の関係、各惑星が 運行する速度についてお話しました。数と数の関係は宇宙空間を貫いて波打つ天球 の調和(ハーモニー)の中に表現されていること、それらは宇宙全体と宇宙の考察 にとってある特定の意味を持っていることを見てきました。  さて今日は、もっと内密な数の象徴学を取り上げてみましょう。もっとも、真に この象徴学に沈潜するには、もっと細心に取り扱うべきことがまだ他にたくさん必 要となりますので、ここではその意味を軽くなぞることができるだけですが…。と もかくも、例えば古代のピュタゴラスの秘教学院で宇宙への洞察力を得るためには、 数と数の性質に沈潜せねばならないと言われた時、少なくともこれが意味すること について見当はつくだろうと思います。数について熟考すべきだというと、味もそ っけもないように思われる方もおられるかもしれません。とりわけ、現代の唯物主 義的教養に毒された人々にとって、数の考察によって事物の本質に関する何かを探 求できるなどということは児戯にも等しいと思われています。しかしながら、偉大 なピュタゴラスが、数の性質について知ることは事物の奥深い本質へと導く、と弟 子たちに語ったことには、深い根拠があるのです。ただ、1ないし3ないし7とい った数について熟考すれば十分であると考えてはなりません。真の秘学の教えは、 魔法やおまじないなどではなく、何らかの数の意味についての迷信でもありません。 その知恵はもっとずっと深い事柄に基づいているのですから。今日皆さんに受け取 っていただきたい簡単な概略からおわかりになるとおもいますが、正しく数に沈潜 する手がかりを持つなら、数は瞑想とも呼ばれる沈潜のためのひとつの拠り所を与 えてくれるものなのです。  まず1という数、合一の数から始めなければなりません。この1という数が私が 申し上げますことをどれほど真に形象化しているかは、後ほど他の代数を考察する 際にもっと明らかになるでしょう。あらゆる神秘学(オカルティズム)において、 常に1という数により宇宙における神の分離できない元素が表されました。1で神 が表されるのです。けれども、単に数としての1に沈潜すれば世界認識のために何 らかのものを獲得できると考えてはなりません。どのようにしてこのような沈潜が 起こるべきかおわかりになると思います。でも、まずはその他の数に移った方がず っと実り多い考察になるでしょう。  神秘学では2は開示の数と呼ばれます。2という数でいわば私たちは両足の下に 何か基盤を得るのですが、一方、1という数の場合、まだ基盤のないまま手探りで 探し回っている状態です。私たちが2は開示の数であると言う時、これは、私たち が世界で出会うもの、ある意味で隠されたものではなく世界へ現れ出たもの、これ らすべては何らかの形で二元性の状態であるということに他なりません。  皆さんは自然の中のいたるところに、2という数が広がっているのを見いだされ ることでしょう。いかなるものも2という数に触れることなしには自らを開示する ということはできません。光も決してそれ自身だけで一元的に自らを開示すること はできません。光が開示される時、影あるいは闇もそのそばになければなりません。 つまり、二元性が存在せねばならないのです。開示された光に満ちた世界というも のは、もしそれに相応する影がないとしたら、決して存在することはできないでし ょう。これはすべてのものごとにあてはまります。善は、その影としての悪を持た ないなら決して自らを開示することはできないでしょう。善と悪の二元性は開示さ れた世界の中では必然的なものです。このような二元性は無限に存在します。二元 性は世界全体を満たしています。ただ、私たちはそれを正しい場所に探さなくては なりません。  人間が生きていく中でたびたび考慮することのできる重要な二元性は次のような ものです。昨日私たちは人間が今日の地球の住人となる前に経てきたさまざまな状 態を考察いたしました。人間は土星と太陽ではある種の不死性を保っていて、自ら の肉体を外から管理し、肉体の一部がくずれ落ちると新たな部分が再び付与された ため、人間は死や消滅については何も感ずることがなかったわけです。人間の意識 は当時、今日の意識とは違って、おぼろげな夢うつつの意識でした。この地球にな ってはじめて、人間は自己意識と結びついた意識を獲得したのです。ここではじめ て人間は自己自身について何かを知り、対象から自分を区別できる存在となったの です。そのためには、単に外から肉体を管理するだけでなく、この肉体の中に−− 交互に−−入り込んで、自らの内で「自我」が語りかけるのを感じとらねばなりま せんでした。人間はその肉体に完全に入り込むことによってのみ、完全な意識を獲 得できたのです。そして、今や人間はこの肉体と運命を共有します。以前、まだ上 方にいた時、人間はこういうことはしませんでした。人間がこの程度の意識を獲得 したことによってはじめて、彼は死と関係を結ぶようになったのです。肉体が崩壊 する瞬間、人間は自分の自我が停止するように感じます。自我と肉体を同一視して きたからです。少しずつ霊的な進化を経てようやく、人間は再び太古の不死性を取 り戻します。肉体は意識して不死性を獲得するための修行場として存在するのです。 人間が死によって不死性をあがなわないなら、生と死の二元性を認識しないなら、 決して高次の段階で不死性を獲得することはできないでしょう。人間が死を知らな かった間、まだ世界は人間に開示されませんでした。生と死の二元性は開示された 世界に属することだからです。このように至る所に生における二元性を指摘するこ とができるでしょう。物理学におけるプラスとマイナスの電流、磁気における引力 と反発力など、すべては二元性の中に現れています。2は現象の数、開示の数なの です。 (第三講続く) 01882/01884 GGA02514 KAZE シュタイナー●神秘学の記号と象徴●三講の2 (13) 94/11/01 01:04 ●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係 <第三講の2/シュトゥットガルト 1907年9月15日>  けれども背後で神的なものが働くことなしには、いかなる開示も存在しません。 従って、どんな二元性の背後にも一元性が隠されているのです。3という数は、そ れゆえ2と1、つまり開示とその背後に存る神性に他なりません。1は神の一元性 の数、3は自らを開示する神性の数です。神秘学(オカルティズム)には次のよう な原則があります。2は決して神性を表す数ではあり得ない、というものです。1 は神的なものを表す数、そして3は神的なものを表す数です。というのも、神的な ものが自らを開示するとき、それは2において顕現し、その背後に1があるからで す。世界を二元性において見る人は、世界を顕現において見ているのです。ですか ら、外的な諸現象においては二元性が存在すると言う人は正しいのです。しかしな がら、この二元性がすべてであると言う人は、常に正しくありません。このことを 少し例を挙げて明らかにしてみましょう。  神智学の話題となっているところでさえ、「2という数は単に顕現の数であって、 充溢の完全性の数ではない」という、この真の神秘学(オカルティズム)の原則は しばしば守られてはおりません。この原則を本当には知らない人々による通俗的オ カルティズムにおいて、しばしば皆さんは、進化発展はすべて退化と進化の中で起 こると言われているのを耳にされると思います。これは本当はどいうことなのかお わかりになるでしょう。けれども、まずは進化と退化とはどういう意味なのかを少 し調べておきたいと思います。ひとつ植物を観察してみましょう。根、葉、茎、花、 実、要するに植物が持つことのできる部分をすべて備えた完全に成長した植物です。 これがひとつです。今度は小さな種子、植物が再び生えてくる種子を観察してくだ さい。種を見つめる人は小さな粒を見ているだけですが、この小さな粒の中にはす でに植物全体が含まれています。いわば粒の中に閉じこめられているのです。なぜ その中に入っているのでしょうか。種子は植物から取られたから、植物はその力の すべてを種子の中に注ぎ込んだからです。ですから神秘学(オカルティズム)にお いては、この二つの過程、つまり、ひとつは、種子がほどけていって植物全体へと 展開する−「進化」と、もうひとつは、植物が収縮しその形態がいわば種子の中に もぐりこむ−「退化」とが区別されるのです。従って、たくさんの器官を持つ存在 が、これらの器官のどれももはや見えなくなり小さな部分に萎縮してしまうように 自らを形成するなら、これは退化と呼ばれ、分岐すること、自己展開することは進 化と呼ばれるのです。生命においては、至る所にこの二元性が交替しています。け れども、常に顕現においてのみそうなのです。単に植物の場合のみ、このことを追 求できるのではなく、生のより高次の領域においても事情は変わりません。  例えばアウグスティヌスから中世を経てカルヴァンに至るヨーロッパの精神生活 の発展を思い浮かべて追求してみてください。この時代の精神生活に視線を漂わせ てみるなら、アウグスティヌスの場合ですらある種の神秘的な親密さを見いだせる でしょう。この人物の感情生活がいかに深く親密であったか感じとることなしに、 誰も彼の著作、とりわけ「告白」を読むことはないでしょう。さらに時代を辿って いきますと、スコトゥス・エウリゲナのような驚くべき現象を見いだします。彼は スコットランド出身の修道士で、そのためスコットランドのヨハネスと呼ばれ、カ ール禿頭王の宮殿で生活していました。彼は不幸なことに教会で切りつけられまし た。伝説の語るところによれば、修道士仲間たちが彼を留め針で死に至るまで拷問 したということです。これはむろん言葉通りには受け取れませんが、彼が拷問によ り殺されたことは事実です。すばらしい書物が彼によって著されました。「デ・デ ヴィジオーネ・ナトゥラエ」、すなわち「自然の区分について」で、これは途方も ない深みを示している書物です。さらに私たちは、いわゆるドイツの坊さん横町、 ここではこの親密な感情が民衆全体をとらえたのですが、この坊さん横町の神秘家 たちを見いだします。彼らは、単に精神性の頂点にある人々であったばかりではな く、民衆でもありました。畑や鍛治場で働いていた人々、彼らは皆、このように時 代の傾向として生きていたあの親密な感情にとらえられていたのです。さらに私た ちは1400年から1464年に生きたニコラウス・クザーヌスを見いだします。このよう に私たちは中世の末期まで時代をたどることができますが、至る所にその環境全体 に広がっているあの深い感情、あの親密さが見いだされるのです。この時代を、後 のこれに替わる時代、つまり16世紀に始まり現代にまで入り込んでいる時代とを 比較してみるなら、決定的な相違に気づきます。出発点に、包括的な思考により精 神生活の革新を引き起こしたコペルニクスが立っています。彼はこの思考が人類と 一体化するほど注ぎ込んだので、今日、別のことを信じている人は馬鹿者とみなさ れるのです。それからガリレオ、彼はピサで教会のランプの揺れから振り子の法則 を発見します。このように一歩一歩時代の経過をたどっていきますと、至る所に中 世との厳しい対立が見いだせるでしょう。感情はどんどん衰えていき、親密さが消 えていきます。知性、理知がしだいに現れ出てきて、人間はますます利口に、分別 的になっていきます。このように、まったく正反対の性格を持つ二つの時代が前後 して続くのです。精神科学は私たちにこの二つの時代の説明を与えてくれます。こ れは、そのようにならなければならないという神秘学(オカルト)の法則があるの です。アウグスティヌスからカルヴァンまでの時代においては、神秘主義の進化と 理知の退化という時期であり、その後私たちは理知の進化と神秘主義の退化の時代 に生きているのです。これはどういうことなのでしょう?アウグスティヌスから 16世紀までは神秘的生の外的な展開の時代であり、それは外に現れていました。 けれどもその当時、別のものも萌芽として存在していたのです。つまり、理知的生 の萌芽があったのです。これは、いわば種子のように霊的な地中に隠されていて 16世紀以降少しずつ展開していくのです。このように理知的生は、当時ちょうど 植物が種子の中にあるように退化(内展)の状態だったのです。宇宙においては、 このような退化(内展)の状態が前もって存在しなければ何も生じてくることはで きません。16世紀以来、理知が進化(外展)の状態となり、神秘的生は退いて退 化(内展)の状態となります。そして今や、この神秘的生が再び現れて来なければ ならない時代が到来しました。神智学運動によってそれは再び展開と進化へと導か れねばなりません。  このように、生の至る所で進化と退化が顕現して交替しています。けれどもそこ にとどまる人は、ただ外面だけを見ているのです。全体を見ようとするなら、この 両者の背後にある第三のものをさらにつけ加えねばなりません。この第三のものと は何でしょうか?今あなた方が外界の現象に向かって立ち、それについて思索する と考えてみてください。あなた方が存在します。外界が存在します。そしてあなた 方の中に思考が生じます。この思考は以前には存在していませんでした。たとえば あなた方が薔薇について思考を形成する時、この思考はあなた方が薔薇と関係を結 ぶ瞬間に初めて生じるのです。あなた方が存在し薔薇が存在していました。そして 今、あなた方の中に薔薇についての思考、薔薇の像が現れでてくる時、何かまった く新しいもの、まだ存在していなかったものが生じるのです。これは生の他の領域 でも同様です。創造しているミケランジェロのことを思い浮かべてみてください。 ミケランジェロは、実際ほとんどモデルを使って製作したことはありませんでした。 けれどもちょっと彼が一群のモデルを集めたと想像してみてください。ミケランジ ェロが存在し、モデルたちが存在していました。けれどもミケランジェロがこのモ デルの一群から魂の中に得た像、この像は新しいものなのです。これは完全に新た な創造なのです。これは進化及び退化とは何の関係もありません。これは受け入れ ることのできる存在と与えることのできる存在との交流から生まれた完全に新しい ものなのです。このような新たな創造は、常に存在と存在との交通を通して生まれ ます。昨日、ここで考察したことを思い出してください。思考がいかに創造的で魂 を気高くすることができ、後には肉体の形成にも働きかけるのだということを。あ る存在が一度考えたこと、思考創造、表象創造は働き続け、作用を及ぼし続けるの です。それは新たな創造であると同時に始まりであり、しかも結果を導きます。今 日皆さんがよい考えを持つなら、この考えは遠い将来実りを結びます。皆さんの魂 は霊的世界で独自の道を歩むからです。皆さんの肉体は再び元素に帰り崩壊します。 けれども、思考を生み出したすべてのものが崩壊しても、思考の作用は残り、思考 は働き続けるのです。もう一度ミケランジェロの例を取り上げましょう。彼の卓越 しに絵画は何百人もの人々を高揚させてきました。しかし、これらの絵画もいつか は塵となって崩れ、もはや彼の創作物をまったく見ることができない世代も出てく ることでしょう。ミケランジェロの絵画が外的な形態を取る前に、彼の魂のうちに 生きていたもの、まず最初に新たな創造物として彼の魂のうちにあったもの、これ は生き続け、存続します。そして、未来の進化段階に出現し、形を得るでしょう。 どうして今日、雲や星が私たちに現れてくるのかおわかりでしょうか。なぜなら、 太古の昔に雲や星を思考していた存在がいたからです。すべては思考・創造活動か ら生まれ、思考は新たな創造なのです。思考からすべてが生まれ、宇宙の偉大なも のは神性の思考から出現したのです。  ここで私たちは第三のものを得るのです。顕現性においては事物は進化と退化の 間を交替しています。けれども、その背後に第三のもの、初めて充溢を与えるもの、 無から生じた完全に新たな創造たる創造が深く秘されているのです。このように三 つが互いに関係しています。無からの創造があり、それからこれが顕現して、時の 中で経過していくとき、顕現における形、つまり進化と退化という形をとるのです。  ある宗教的な体系が、宇宙は無から創造されたということについて語る時、それ は以上のような意味なのです。今日、それが嘲笑されるなら、それは人々がこれら の古文献にあることを理解してないからです。顕現においては−−もう一度まとめ てみますと−−すべては進化と退化の間を交替しています。その根底には、無から の創造が秘されていて、この二元性と一致して三元性となるのです。三元性は、神 的なものと顕現との結びつきです。  さて、このように、3という数についてどのように考えられるかおわかりになっ たと思います。ただ、ペダンティックに理屈をこね回してはいけません。至る所で 出会う二元性の背後に、三元性を探さなくてはなりません。2の背後に3を求める 時、ピュタゴラス的な意味における正しい仕方で、数の象徴が考察されるのです。 すべての二元性のために、隠された第三のものが見いだされ得るのです。 (第三講続く) 01883/01884 GGA02514 KAZE シュタイナー●神秘学の記号と象徴●三講の3 (13) 94/11/01 01:05 ●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係 <第三講の3/シュトゥットガルト 1907年9月15日>  今度は4という数です。4は宇宙(コスモス)ないし創造の記号です。すでに以 前お話したことですが、私たちの地球は−−追求しうる限りで−−第四の受肉状態 であるということを思い出していただければ、なぜ4が創造の数と呼ばれるのか、 ご理解いただけると思います。この地球上で私たちが出会うすべてのもの、人間に おける第四の原理も、この創造がその惑星進化の第四の状態にあるということを前 提にしています。これは出現しつつある創造のひとつの特別な例にすぎません。い かなる創造も四元性のの記号の下にあります。神秘学(オカルティズム)において、 「人間は今日鉱物界にある」と言われています。これはどういう意味なのでしょう? 今日人間は鉱物界だけを理解していて、鉱物界だけしか支配できないのです。人間 は、鉱物的なものを組み合わせて家を建てたり時計を作り上げたりできますが、そ れはこれらのものが鉱物的世界の法則に従っているからです。例えば、人間は自ら の思索から植物を形成することはできません。それができるためには、彼自身が植 物界にいなければならないのです。いつか後になってそうなるでしょうけれども、 今日、人間は鉱物界における創造者なのです。この鉱物界には、三つの元素界と呼 ばれる三つの領域が先行しています。鉱物界は第四の領域なのです。全体としては、 このような七つの自然領域があります。人間は今日その第四の領域にいて、そこで 外へ向かう自分の意識を獲得したのです。月では、人間はまだ第三の元素界、太陽 では第二の、土星では第一の元素界で活動していました。木星上で人間は植物界で 活動でいるようになり、今日時計を作るのと同じように植物を創造することができ るようになるでしょう。創造において可視的に現れでたものはすべて4という記号 (しるし)のものとにあります。皆さんが肉眼では見ることのできない惑星も数多 くあります。これらの第一、第二、第三の元素界にある惑星は物質的な眼では見え ないのです。惑星が第四の領域、つまり鉱物界に入った時はじめて、皆さんはそれ を見ることができるのです。それゆえ4は宇宙(コスモス)ないし創造の数なので す。第四の状態に入ることではじめて存在は目に見えるようになり、外的なものを 見ることができるようになります。  5は悪の数です。再び人間を考察すると、このことを一番はっきりさせることが できます。人間は四元性へと、創造性の存在へと進化してきましたが、地球上で彼 に第五の要素、霊我が現れます。人間が単に4にとどまっていたとしたら、彼はい つも上から、神々によって善へと統制されていたことでしょう。すなわち、決して 独立した存在へと進化することはなかったでしょう。人間は地球上で第五の要素、 霊我への萌芽を手に入れたことにより自由になったのです。これによって人間は悪 をなす可能性を得ましたが、しかしこれによって独立性も手に入れたのです。5に おいて現れない存在は、いかなるものも悪をなすことはできません。そして、私た ちが悪と出会う所ではいたるところで−−そして実際それはそれ自身から有害な作 用を及ぼすのですが−−、五元性が関わり合っています。これは至る所、外の世界 でもそうなのです。人間はただそれを見ないだけなのです。しかも、今日の唯物主 義的世界観は、世界をこのように見ることができるということについて、まったく 理解できません。ひとつの例で、5と出会うところではどこでも、何らかの意味で 阿育について語る正当性が出てくるということがわかります。医師がちょっとこの ことを採用して、病気の経過をこれに従って研究してみれば、たいへん実り多い結 果が得られるでしょう。つまり、病気がその発病から第五日までどのように進展す るか、一日の中であれば真夜中から五時間めに、さらには第五週めにどうであるか 調べるのです。というのも医師が最も効果的に介入できる時は、いつも5という数 字が支配しているからです。それ以前は自然の経過にまかせる以外はあまり多くの ことはできません。しかし、5という数の法則に気づくなら、助ける処置ができる のです。5という数の原理は事実の世界に流入しているからです。この原理が害を 与える、悪の原理と呼ばれるのももっともなことです。このように多くの領域で5 という数が外的な出来事にとって大きな意味を持つことを示すことができます。  人間の生には七つの時期があります。第一の時期は生まれる前の時期、第二の時 期は歯の生え替わる頃まで、第三は性的成熟まで、第四はおよそその7〜8年後ま で、第五はおよそ30歳頃と続いていきます。人々が、これらの時期に何が問題と なるの、ちょうど第五の時期に人間に何を近づけ、何を遠ざけるのか、知るように なれば、いかによい年齢を準備することができるようになるかについても、いろい ろとわかってくるでしょう。その時、残りの人生全体に対して善いことあるいは悪 いことの作用が及ぶでしょう。初めのいくらかの時期の場合、これらの法則に従っ て、教育を通して多くのことを行うことができます。けれどもそれから、人生の第 五期に、後の人生全体にとって決定的な転換点がやってきます。この人生の第五の 転換点は、少なくとも人間がいわば完全に確信をもって人生へと送り出される前に 超えられねばなりません。今日主流をなしている、人間をあまりに早く人生に送り 出してしまう原則は、たいへん害のあるものです。このような古い神秘学的原則に 注意を向けることには、大きな意味があります。ですから、以前は、そのことにつ いて知っていた人々の命により、人は親方と認められる前に、いわゆる修業時代と 遍歴時代を卒業しなければならなかったのです。  七は完全性の数です。このことをまた人間自身を手がかりに明らかにすることが できるでしょう。人間は被造物として四の数の中にいます。そして、善か悪の存在 でありうるという限りで、五の数の中にいるのです。人間が萌芽として自らのうち に有しているものをすべて造り上げてしまったら、色の世界、虹においても、音の 世界、音階においても、七という数が支配しています。生のあらゆる領域のいたる ところで皆さんは七という数を一種の完全性の数として示すことができます。七の 背後には迷信もおまじないもありません。 (第三講続く) 01884/01884 GGA02514 KAZE シュタイナー●神秘学の記号と象徴●三講の4 (13) 94/11/01 01:05 ●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係 <第三講の4/シュトゥットガルト 1907年9月15日>  さて、もう一度一元性に注目したいと思います。他の数も考察したことにより、 一元性について語るべきことが正しい光の中に現れるでしょう。一元性の本質的な ものは、不可分性です。実際のところ、むろん、一であることをさらに、例えば1/3 や1/2分というふうに、分けることはできません。けれども、皆さんが思考の中で 承認することのできる非常に意味深い重要なものがあります。つまり、霊的世界に おいては、2/3を除くと、1/3はあくまで一に属するものとしてあり続けるというこ とです。何かが神から開示として分割されても、残り全体はやはり神に属するもの としてあり続けるのです。ピュタゴラス的な意味で「一を分割せよ。ただし、ひと えにおまえの思いの底で、残りのものが一のためにあるように一を分割せよ」。  本来、一を分割するとはどういうことなのでしょうか。例えば、金の小板を考え てください。皆さんがこれを通して見ると、世界は緑色に見えます。つまり、金は、 その上に白い光が当たると黄色い光線を反射するという特性をもっているのです。 それではまだ白の中に含まれていた他の色はどこに行くのでしょう。それは、対象 の中に入り込み、それを通過します。赤い対象は、赤い光を反射し、他のものを自 らのうちに取り入れるから赤いのです。他のものを残しておくことなしに赤をしろ から取り出すことはできません。こうして、私たちは大いなる世界の秘密の緑に触 れるのです。皆さんはこのことをある特定のやり方で観ずることができます。例え ば、光がテーブルにかけられたテーブルクロスに当たると、私たちは赤い色を感受 します。太陽光線に含まれている他の色は「吸い込まれ」ます。例えば、緑色はテ ーブルクロスに吸収され反射されません。私たちが赤い色と緑色を同時に私たちの 意識の中に受け入れようと努めるならば、私たちは再び一を回復したわけです。私 たちはピュタゴラス的な意味で一を分割したのです。そうすると、残りのものは、 そのまま維持されます。分けられたものを常に再び一と結びつけるということを瞑 想的に成就すると、それは、人を高みへと進化させうる意味深い営みとなります。 数学においてもこれを表す式があります。秘密(オカルト)の学院ではどこでも通 用するものです。  1=(2+x)−(1+x)  これは、1をどのように分割するか、分けられた部分が再び1となるようにどの ように提示するかを表しているとされる秘密の公式なのです。神秘学(オカルティ スト)は、一の分割を、部分が常に再び一へと連結されるように考えねばなりませ ん。  以上のように、今日は、数の象徴学と呼ばれるものを考察に委ね、世界を瞑想的 に数の観点の下に動かすと世界の秘密の内奥に迫ることができるということを見て きました。  補足としてもう一度述べておきたいことは、第五週め、五日め、あるいは五時間 目においては、何かをしくじったり良くしたりできるということに気づくことが大 切であるということです。七週め、七日め、あるいは七時間めには−−あるいは相 応する特定の数の関係、たとえばその中に7もあるので、31/2においては−−常に 何かが、そのこと自体を通じて起こります。たとえば、熱はその病気の七日目に一 定の性格を示すでしょう。あるいは14日めにも、世界の構造を示す数の関係が常 に根底にあるのです。  ピュタゴラス的な意味で、「数を探求せよ」と言われることに、正しい仕方で沈 潜する人は、この数の象徴学から生と世界を理解することを学びます。このことに ついて、今日はみなさんに概略的にご理解いただけるようお話した次第です。 (第三講終了) - FARION MES(14):★Room 666/預言解読の部屋★・・・・・・・・はな 94/11/01 - 02587/02588 SDI00635 みれ 議長辞任と議長就任に向けて (14) 94/10/31 21:53 02580へのコメント  旧議長YHVH さん、新議長はなさん  時間が無いのでお二方に同時にご挨拶です(^_^;) ☆,。・:*:・゚'★ ,。・:*:・゚'☆,。・:*:・゚☆,。・:*:・゚'★ ,。・:*:・゚'☆,。・:*:・゚  長い間のご苦労様でした m(__)m>YHVHさん  今後も預言解読にご尽力頂ければ幸いです、よろしくね(*^^*) ☆,。・:*:・゚'★ ,。・:*:・゚'☆,。・:*:・゚☆,。・:*:・゚'★ ,。・:*:・゚'☆,。・:*:・゚  新議長就任おめでとうございます>はなさん  これから議長さんとして、更なるご活躍を期待しています(*^^*)  よろしくね。 ☆,。・:*:・゚'★ ,。・:*:・゚'☆,。・:*:・゚☆,。・:*:・゚'★ ,。・:*:・゚'☆,。・:*:・゚           ★世紀末フォーラム/SYSOP/SDI00635/みれ(北川恵子)★ 02588/02588 PXH01650 英雄 RE:議長辞任のご挨拶 (14) 94/10/31 22:31 02580へのコメント YHVHさん、長い間ごくろうさまでした(__)。お世話になりました。 はなさん、議長就任おめでとうございます(^^)/。今後ともよろしくお 願いいたします。 :英雄: >