- FARION MES( 7):★世紀末書込み寺★・・・・・・・・・・・・ARION 95/02/02 - 05014/05026 GDB00064 オリハル RE:私の意図した事 ( 7) 95/01/31 18:24 05000へのコメント ごとうくまおさんへ。 2/1(水)、24:00までにRESがないときには、 これで終りにさせてもらいます。                     オリハル 05015/05026 JCF00616 優位 RE:ARIONより ( 7) 95/01/31 18:39 04991へのコメント   『ノアはもう居ない。方舟は無い。』  (考察)  ノアのような、天変地変から種の保存をしてくれるいわば「救世主」は居ない。  したがって、方舟も無いのだから、人類という種は救わ「れる」ことも無い。  物質的な肉体をもった者に、救って貰う事ができない、とも言える。  となると、人間は最終的に高次の存在(神など)に縋る方向へ傾くが、  数多の地震・洪水・火山の噴火・竜巻・津波などの、余りにも残酷な天変地変に  見舞われるにつれ、人類の殆どは「神の不在」を叫ぶようになるだろう。  しかしノアが存在したら、どうなるのか?人類は、幾度もこのような「救い」を  経験して来たと聞いているから、例え今回一時的に保存されたとしても、  再度同じことを繰り返す羽目になるのではないか?ただ、これは「地球がまだ  耐えられたら」という条件が常に付随しており、その条件が無い「今回」は  ノアが存在しようが、しまいが地球生命と地球生物の運命は、我々人間の  決断に掛かっていると言えるのではないだろうか。  (意見)  人類に「救世主」は必要無いのだ、と思います。もし、存在したとしても  その期待とは裏腹に人類を「自堕落な動物」へと導くでしょう。そういえば、  ARIONのHMにも、「楽をして楽しむ事ができると思っているのか?」と  いうメッセージがあったのを思い出しますね。  僕は14番会議室で預言解読をしていた関係もあって、地震とか、  世紀末的な自然災害の対策という観点で、テーマ文に相対してしまうようです。  こういうシュミレーションが良いことか、悪いことかは解らないけれど、  「大地震が起きて、死に追いやられる危険があるような状態」を想定し、  そんな時自分がどう行動するのかを、シュミレーションしてみました。  ‥‥でも、結局は自分が死ぬような「極限」の状態を想像することは、  困難を極めました。多分、自分は死なないと信じてるのかも…なんて思いが  脳裏をかすめます。そして、(恐らく将来、必ず起るであろう)そういった  事態に直面した時、「自分は何ができて、何をするべきなのか?」がすぐに  思い浮かべ、そしてそれを「実行することができるのだろうか?」‥‥と、  少し不安になります。  だけど、偶然というかなんというか、今日久しぶりにARIONの  メッセージを読み返していたら、(アリオン語録(01)より)  「これからの世界は、白黒の決着の速い世界になってゆくだろうから  長時間思考したり熟考したりしないと、行動する決断の出来ない人は、  困る場面が増えてゆくだろう。」  というメッセージがあって、更に対処法(?)として、  「いつも、自分にとって何が一番大切なのかを考えていれば、自分が  行動に移す時に迅速に処理できるようになるだろう。」  という言葉がありました。  結論ですが、僕は「明日死ぬとしたら、何が一番大事なのか」を常に  念頭に置くように心掛けたいと思います。まだそれはモヤモヤしていて、  言葉にもならないし、自信を持って言える訳じゃないけれど、その時その時の  出る答えが精一杯の答えだと思うので、それを大事に念頭に置いておこうと  思います(やってみて分かりましたが、まさに一瞬一瞬が『戦』ですね)。  (結局は、直観力を磨くってことだから、自分を観るに繋がるのかな^^;?) ● Tanaka Yui (JCF00616@niftyserve.or.jp) ● 05016/05026 GHB02532 ごとうくまお RE:私の意図した事 ( 7) 95/01/31 22:06 05000へのコメント オリハルさん、こんばんわ。 ・・・なるほど。このあたりのオリハルさんの考え方は大体分かります。 さて、また少し別の面で、オリハルさんの考えを聞きたいのですが、 #4957のSUKE さんへのRESの中で、 《 #4816のような書込みをした最も大きな要因は、私の自由意志が保証されない 《 のかと感じたところにあります。付随して過去の#523とか思い出された訳でし 《 た。炎とか言い出したのも、自分の自由意志を確認するために取った行動(発 《 言)です。 (*改行更新) ということですが、オリハルさんの「自由意志を保証」しているのは何、あるいは 誰ですか? くまお 05017/05026 SDI00635 みれ ノアは居ない。方舟は無い。 ( 7) 95/01/31 23:27 04991へのコメント  (考察)  ノアの居た時代と違って、現代にはノアの様に神様の言葉を代表し率先して 行なうべき者は要らない。  方舟という形で、これまた代表(?)の様な救いの形を示す必要も無い。  強引な解釈かなぁ(^O^;)  (意見)  現代には教祖は要らない。  宗教組織を超える、組織無きネットワークとして個人個人の魂の繋がりが 必要で、その為には一人一人が心身共に自立し、真の自由である「自分の由」 を見つめなければならない。                 ジブン ヨシ  ノアは居ないけれど、一人一人が現代のノアになり方舟では無く円環の魂 の舟が出来るといい。  魂の言葉を聞くためには、先ず、己の生活基盤(他者との関りの中での) と己の存在意義とを分けて考え、先ず独り立つ個体としての己の確立をこそ、 成さねばならないことに気付くべきだ。  独り立つことの出来ない個体同士の生活基盤は、それ自体が夫々の存在意 義と重なりやすく、それが為に相手あってこその人生、或は相手が何かをし てくれるからこその人生という風に転化しやすくなる。  こうなったら魂の声を聞くなどもってのほか、人として自立も覚束ない状 態となる。  心身共に自立するために、先ず己の何であるかを知るべきで、そのために こそ自分を観ることをする必要があると私は考える。  日常的には、先ず「全てを自ら選んだ結果として観る」こと。そして、そ の結果に対して好悪の感情を抜いて、先ず事実を観ること。そして次に好悪 の感情を付して観ること‥などの事実と感情的事実との分離、更に自らの欲 する結果との差異について、これまた事実と感情事実とを分離して見つめる、 という、一見複雑、慣れれば簡単(!?)なことを面倒がらずにやってゆこうと 思う。  やや、まとまりを欠いた文章になってしまった‥が、時間が足りない為に 未完の色合い濃いままにUPする。  いずれ更なる考察を加え、ファイルの再構築を目論見つつ‥ ・:*:・みれ・:・。,★ 05018/05026 GCG01101 アマデウス 苺一枝 (^O^;) ( 7) 95/01/31 23:32 04998へのコメント    #4998 みれさん    コメントありがとうございます。 神の味噌汁ですかぁ…(^^;ナルホド    みれさんは、幼い頃から「死」と直面する体験をされていたんですね。   僕は30を過ぎた今まで、本当にノホホンと生きてきました。生きている   のが当たり前、自分に死が訪れるなんて非現実的な虚構のような気でいま   した。大馬鹿野郎ですね。    先日の体験すら、病気等で死線をさまようような文字通りの「死の一歩   手前」からすれば、きっと全然取るに足りない程度のものでしかないので   しょう。そう考えると、普段いかに緊張感のない生活を送ってきたか思い   知らされます。 >>  −−− 人は「良く死ぬ」為に生き、「良く生きる」為に死ぬ −−−    人はなぜ生まれ、生きるのか。    魂のレベルアップのための修行の場が人生だ…という説明がありますが、   今いちピンと来ません。なぜかはわからないけど、生を与えられた以上は   死ぬ瞬間に「いい人生だった」と思えるように生きておきたいと考えた方   が、僕は気持ちいいです。霊学に長けた方には思考停止だと叱られるかも   知れませんけど。(-_-) >>  生き切る為には、毎日、普通に見ていることを当たり前にしてしまわない >> で、日々新たな気持ちで接することも大事だね。 >> >>  一期一会だね。    これは、先日言い出したした「プロジェクト・アイ」そのものです。   地震騒ぎで「プロジェクト・アイ」が頭からすっかり飛んでいました(^^;   ここに結び付けて考えてはいませんでしたが、一瞬一瞬を「生き切って」   いれば、次の毎瞬間はつねに新しい筈ですね。まさに苺一枝ですね。                           イチゴイチエ (^^; カナリ クルシイ    年末から考えていた「心を掃除して澄んだ眼差しを取り戻す」ことと、   「生き切ること」が、頭の中でしっかり結びつきました。   ありがとうございます。                                アマデウス 05019/05026 JCF02051 めのう RE:ARIONより ( 7) 95/02/01 00:28 04991へのコメント 》 「ノアはもう居ない。方舟は無い。」  ああ、ビックリした!  ちょうど思うところがあって聖書を創世記から読み直しているところでした。  私が最初に思いついたのは「自立」です。  神に庇護される者も逃げ込む方舟もないのだから、自分たちの力でなんとか  しなければならないと思いました。  次に思いついたのは「契約の無効」。  敬虔なノアのような人はもういないので、神がノアと結んだ契約も無効にな  るのではないかと思いました。  「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや   洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らな   いであろう」(創世記9-11)    ノアの時の洪水は人が地を暴虐で満たしたため神によって起りました。  今もまた地は人による暴虐があふれ、乱れています。  自分の行いがやがて自分に返ってくることを自覚して、自らを律することが  できたら、滅びることも滅ぼされることもないのではないかと思います。  私は「良心に沿うこと」と「嘘をつかないこと」と基本姿勢に毎日を懸命に  思いっきり生きることが明日に繋がることだと思い、またそうしていこうと  思っています。                         ◆◆ めのう ◆◆ 05020/05026 HGC02325 ガッチャ RE:ARIONより ( 7) 95/02/01 00:30 04991へのコメント  #04991 ARION    | 「ノアはもう居ない。方舟は無い。」  |  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^    ※ノアはもう居ない。     1、大災害から種を保存してくれた(くれる)人として解釈する。   2、カミの言葉を理解し、信じ、実行した人として解釈する。   3、魂の転生地の準備という話を思い出し、そのような用意は無くなった事     として解釈する。     どの捉え方でも、全てそれは無効となったという事なのでしょう。    ※方舟は無い。     上の3つの捉え方から、以下の3つの事になると思います。     1、大災害から種を保存する方法は無い。   2、カミの言葉は実行されていない。   3、転生は出来ない。     種を保存出来ないような大災害なら、その災害を回避しなければ。それとも  大災害の為の準備をするか。取りあえず、阪神大震災の教訓もあって水や保存  食などは用意していますが、なんか違うかな?   基本は自分で自分をどうにかする以外にないという事です。     ノアのようにカミの言葉を理解し、信じ、実行するにはどうすれば良いのだ  ろう? 自分を良く知る事から始めるのが最初だと思います。  ここでも基本は自分で自分をどうにかする以外にないという事です。     転生出来ないのなら、というより転生等と他からのコンビニエンスをにより  かからないで、ここでどうにかするしかないのでしょう。  解ったと思って実行しても、それが甘かったりする事に気が付く事があります  から、「これこれこうしたらどうだ」等と頭の中でシミュレーションするより  まず実行していく事が一番勉強になる事だと思います。  やっぱりここでも、基本は自分で自分をどうにかする以外にないという事です。                              HGC02325 ガッチャ 05021/05026 GFH02347 ゾウリムシ RE:ARIONより ( 7) 95/02/01 00:47  「ノアはもう居ない。方舟は無い。」 私は、この言葉から、次のように連想する。 ノア一族のように、特定して助かるものは、いないし、助かるための方法も無い。 全ては、地球と一蓮托生である。  かつて、創造主は、宇宙の活性化のために、意識の分断化をはかった。 このために、環境と自分が分離され、個が大きく前面に出ることになった。 かくして、自我と、多種の生命が豊かな地球となった。 もし、私が絶大な権力を持ったら、みんなをひざまづかして、世界を私色に 染めてしまおうか。 いやいや、それでは、単一色になってしまう。もったいない。 豊かな種と、汚染されてない自然を子孫に残してやりたい。 私は、地球と共に生きる。              ・・・・・ゾウリムシ・・・・・ 05022/05026 SGW00342 エスペラント エスペラントよりARIONへ ( 7) 95/02/01 01:27  このままの成り行きで結果が出てしまう前に、  私の気持ちから、ARIONにお願いしたいことがあります。  オリハルさんの望む、明確なRESを私からもお願いしたいと思います。  それは私にとっては、オリハルさんの内面の問題よりむしろ、  オリハルさんが、このFARIONにおいて一貫して実践してきた態度があり、  そのことで得られた結果のことについて意味があると感じているからです。  私の目から見て、そのオリハルさんの実践の方向性は、  人の可能性を生かすものであったと確信しています。  最近のこの状況があっても、そのことは失われて欲しくないと思います。  たとえ、このままの形で終わることが理にかなっているとしても、  オリハルさんから大きな恩恵を受けた一人として、  この気持ちを会議室に残しておきたいと思います。                       □ エスペラント (○ 05023/05026 SGW00342 エスペラント オリハルさんに質問です。 ( 7) 95/02/01 10:53 04816へのコメント  12月のHMについて、質問します。 > 12/14 空を切り裂く稲妻はツチとアメの交流と反発、浄化‥ヒトを活かせ > 12/15 覚めた獅子は夜陰に紛れ彷徨す‥印を求め‥井戸の奥は空か水か?  この2つの預言は明らかに関連性があると思われます。  12/15 がオリハルさんを指し示す預言なら、12/14 もそうですか(質問1)。  とすれば、オリハルさんが炎であることとつじつまが合います。  ツチと交流し、アメと反発するのは当然のことでしょうから。  その時、ヒトを活かせ、と言っています。  ツチとは誰で、アメとは誰のことを指しますか(質問2)。  それから、先日までの会議室での混乱状況を見て思うのですが、  本当に今のオリハルさんは「覚めた獅子」なのでしょうか(質問3)。  それで、オリハルさんが炎であり、ツチとアメとのつながりがあって、  浄化が終わって、覚めた獅子だとしますが、  その場合、井戸の奥にあるのは「空」なのではと思いますが、  なぜ、「空の訳がない(#4816) 」のですか(質問4)。                       □ エスペラント (○   05024/05026 PXH01650 英雄 RE:サムライ・スピリッツ ( 7) 95/02/01 21:25 05007へのコメント 「常に、死に対峙して生きていくということ」 うんうん、これは去年の頃からよく考えるようになったよ。特に「 明日死ぬとしたら、何が一番大事なのか?」というハロ―があった 時にここにも書いたなあ。 今は仕事で東京にいる。通勤は電車なのだけれど、人気路線なんで どの時間も超満員。もし電車内でM7以上の地震が来れば、恐らく 助からないだろうなあ、と思う(^^;。そうすると、いつでも「今、 死ぬとしたら悔いはないか?」と問うようになりました。 人間は死んでも別の階層で生き続けて行くけれど、やはりこの世界 で悔いを残すとまた戻って来なければならなくなる。てなわけで、 どんな時に問いかけても「うん、今死んでも悔いがないな」と思え るよう行動しよう――と心がけてます。 社長からよくこう言われる――「今できることならば、スグやれ!」 これぞ極意かもしれない。正に社長の言葉は神の言葉、なんてね(^^;。 ”いかによく死ぬか”☆英雄 05025/05026 JBH02324 なえ RE:ARIONより ( 7) 95/02/01 21:44 04991へのコメント コメント数:1 >  ノアはもう居ない。方舟は無い。  久々にARIONから宿題を頂きましたね。  ノアは聖書に出てくるノアの洪水の事でしょうね。  でも、この事はもう過去なのであって、現在では存在しないのでしょうね。  また、その折りに使用されたアイテム(方舟)も無い。  ノアはもう居ないのですから、見つける事は出来ないのでしょう。探す価値  は無いという事でしょうか。すると、無い物ねだりはするな。という事かし  ら。いつまでも過去に拘っているよりも、もっと現実を見なさい。という事  ですね。  ノアの様な夢物語に希望を託して、今の今をいい加減に過ごす様な生き方の  時代は既に終わった。これからは、そんな都合の良い時に都合良く現れる、  貴方だけを助ける様な物は無いのだから、もっとしっかり現実を見なさい。  と、言われた様に感じます。  あたし達、まだ、心の何処かで、いまの世界が潰れてしまっても、何処かか  ら救世主の様に「何」かが現れて、助けてくれる。という都合の良い「夢」  を持って、現在を無駄に過ごしていやしないか。良く確かめてみた事がある  のかしら。  夢の様な事ばかり考えて、時間やお金や好きな事をして、多くを浪費してば  かり。本当にそれで良いの?って。自分に問いかける。そんな時間を持って  みることで、その眼に何が見えるの?。って問われた様に思います。  自然は今の今も、あたし達のイノチを大きく支えてくれるけど、その支えが  揺らぎ、危なくなってしまったとしても、誰もその声に耳を貸さないとした  ら、とても悲しい事だと思う。  山の木々はこれまでの酸性の雨に枯れ、天からは恵みの雨が降らず、地はひ  び割れ、水は枯れかけ、日本はまるで、砂漠になってしまう様な気がする。  今まで枯れた事のない井戸が枯れた。そんな話を聞きながら、あたしは水と  いう事の、アタリマエに与えられ得た事を再認識する事が、もしかすると望  まれているのかも知れないって。そう思います。  空気も水も、そしてサンソだって、ありがたいねぇ。って感謝して使ってい  たのかしら…今まで。 05026/05026 PBB00456 FLYING V RE^2:ARIONより ( 7) 95/02/01 23:36 05025へのコメント なえ様 初めまして。 >>いつまでも過去に拘っているよりも、もっと現実を見なさい。という事 >> ですね。 私も同じようなことを感じました。 適切な例といえるかどうかわかりませんが、 欧米圏では、こんな慣用句っぽい表現があります。 Today is the first day for the rest of your life . (今日と言う日は、あなたの人生の残りの最初の日なんですよ) 特にお正月(?)や旅立ちの時などの贈る言葉として有名です。 映画のローマの休日の中にも出てきた(と思うんだけど・・)らしいです。 日本語にも似たような言い回しで 元旦は冥土の旅の一里塚 と言うのがありますよね。 どちらも、死という瞬間を迎えるまでの 自分の一生を過ごしていく上で、 すぎていく瞬間瞬間をきっちりと 見届けて心に刻むことを教えられている気がいたします。 >>夢の様な事ばかり考えて、時間やお金や好きな事をして、多くを浪費してば >>かり。本当にそれで良いの?って。自分に問いかける。そんな時間を持って >>みることで、その眼に何が見えるの?。って問われた様に思います。 事実から目を背けないこと、当たり前のことを 当たり前のことだとして見過ごすことが とんでもない悲しみや苦しみをまき散らす原因となって いることがどれほど多いことでしょう・・・。 今こうしている間にも 一瞬一瞬が積み重なってすぎていく 以前、知人から教えられたのですが 「一瞬一生」ということばを思い出しました。 漠然とした発言ですみませんでした。 今後ともよろしくお願い申し上げます。 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード >RX 13 −会議室13 ★神秘学遊戯団★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・KAZE 発言数 :2110 未読 :5− 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード >MRE - FARION MES(13):★神秘学遊戯団★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・KAZE 95/02/02 - 02106/02110 GGA02514 KAZE 悪人正機説、病人健康説 (13) 95/01/31 11:55 02103へのコメント コメント数:1 隆ちゃん、どうも。 >地震のストレスなのかまたもやインフルエンザの前触れなのか、少々偏頭痛に悩ま >されています(^^;)。 こうした地震のある前後というのは、 地震というのはやはり「大地性」に深く拘わることでしょうから、 その大地と身体でつながっている人間には、少なからぬ影響があると思います。 正直いって、ぼくも、体調が悪いっていうほどではありませんが、 このところどうも吐き気のような感じがずっと続いてたりします^^;。 あの地震の前の日の夕方なんかはかなりひどくて、 どうしたんだろう、なんて思ってましたら、なんと・・・^^;。 こういう感じというのはやはり、多くの方が体験されてるんでしょうね。 実はここ数日もなんだかどうも吐き気も含めて気分がしゃきっとしない。 地球さんがいろいろ「うずうず、いらいら」してるのかもしれませんが、 いつ何事が襲ってきても、あわせずさわがず自分なりの心構えがもてるように 自分なりに覚悟してしておきたいと思っています。 >あるコラムニストが「日本は現場の人たちによって支えられている」とおっしゃっ >ていましたが、まさにそういう事で、何か事が起ってもかなりの頑丈さを持って耐 >える力を持っているようです。そういう意味では、僕なんかは非常に弱い部類に入 >るので反省させられるのですが・・・(^^;)。 ううむ、ぼくはどうなんだろう。 できれば、そういう「頑丈さ」としなやかさをもっていたいと思っています。 仕事がらイベントなどのディレクターやプロデューサーをすることがあって いろんな修羅場にはそれなりに慣れているとは思いますが、 やはり実際にそういう現場にいないとどう行動するかわかりませんね。 ひょっとして、いつまでも枕をかかえて右往左往してるだけだったりして^^;。 >それを節操がないとみるか、柔軟性があるとみるかはわかれるところでしょが・・。 >問題は信念があるのかないのかだと思います。それさえあれば、少々コロっと変わ >っても良いと思います。 少なくとも、自分の変化に対する責任が負えるかどうかが大切だと思います。 節操なく変化することそのものは、必要があればしなくちゃいけないわけですが、 そのとき、「なぜ変化する必要があったのか」ということに、 常に意識的であるということが大切なのだと思います。 そして、もし誰かにその変化を指摘されても、胸をはって説明できるようにね。 もし自分が間違っていたり流されたりした部分があったとしたら、 その部分は謙虚に反省し、逃げないで責任を負うということでしょう。 そういう心構えさえあれば、たとえそれが理解されないとしても、 それはそれで仕方ないのだと思います。 理解してもらう努力はもちろん必要ですが、 理解されないからといって日和見するというのは避けたいものです。 でも、そこらへんにはけっこう精神力や胆力が要りますけどね^^;。 >人間の視点でみれば、やはりもう悲惨以外のなにものでもないのですが、視点をずら >すとそれは浄化であるかもしれません。 人間にとっては今回のような逆境のときもあり、また順境のときもありますが、 そのどちらのときもそれぞれ学ぶべきことはたくさんあると思います。 もちろん、「死」をはじめとした部分についてはとりわけ カルマ論的な、タイムスパンの長い観点が必要な部分はあるでしょうが、 すべては自分にとって必要なことであり、 いかなることも「破壊」へ向かうものではなく、 みずからを高次の方向にむけて「変容」を促すものであるという視点だけは もっていなければいけないのではないかと思います。 それは、現実的な問題を絶望ではなく希望で立ち向かう意志の必要性でもあります。 つまり、「宿命」ではなく「立命」ということです。 ぼくもそういうメンタリティをもてるように心がけたいものだと思っていますが、 現実のさまざまな問題に直面すると挫けがちな部分もありますので、 まだまだ修行が足りないということですね^^;。 >体調が悪いという事は、身体が歪みを矯正しようと働いている証拠だともいえるか >らです。世の中には、身体が変調をきたしているのに気づかないかたも多いそうで >す。最初はそういう人が羨ましくも思えましたが、気づける方が良いのかも・・・ >っと最近は思い直しています。 身体の歪みは、おっしゃるように、体調が悪いというか 病気のような症状のおかげでそれに気づき、矯正することができますし、 また、心の歪みは、「良心」のおかげで、それに気づき矯正することができます。 身体も心の部分も同じで、その歪みに気づくことができるということは 非常に幸せなことのように思います。 親鸞の悪人正機説の「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」というのも 悪人がみずからの悪に気づき、それを悔い改めてそれを矯正することで、 大いなる救いがそこに訪れるという幸いについて言わんとしているのだと思うのです。 最悪なのは、みずからの身体の歪みにも心の歪みにも まったく気づかずにいることで、救いようがないのかもしれません。 >子供を持ったが故に子供を自分の分身と勘違いしてしまう向きも多いようですから、 >なんとも言えないところなのですけども・・・。 要は、子供をもつか持たないかということが肝心なのではなく、 子供、いや人間に対してどういう認識をもてるかということなのだと思います。 子供を持つにしろ持たないにしろ、学ばねばならないことは確実にありますから、 その形だけを云々しても仕方ないじゃないかと思います。 ぼくの場合は、「教育が嫌いだ」というトラウマのようなものを踏み台にして^^; シュタイナーや、最近では林竹二さんのような素晴らしい方の視点から 言葉では到底言い表わすことのできないものを得ることができたように思います。 それは、結局、深い人間学を学ぶという必要性、 ひいては「なぜこの宇宙があるのか」という宇宙論の必要性に至るのだと思います。 子供を持つとか持たないとかいうのは、そうしたことに至る ひとつの通過点にすぎないのですから、その形を云々しても仕方ないと思うのです。 >自分が責任を持てて、他人に害をなさなければ、基本的には問題はないと僕は思っ >ていますが、どうも倫理観を振りかざす方々の心底には「やっかみ」があるように >思えてなりません。 日本人って、平等主義的なところが濃厚で、 それは悪くすると悪平等や、おっしゃるような「やっかみ」になるようですね。 「不純だ!」とか平気で言ってのける人の多くは、 自分のなかでそれをとらえかえすことを怠っているからこそ 平気でそれが言えるように思えてなりません。 真の倫理観というのは、みずからを内的にとらえかすべきものであって、 ひとのことをとやかくレッテルをはる類のものではないように思うのです。 また、「不純だ!」というのは、「純粋でなければならない」という価値観があり それを絶対化しているが故に発することのできる言葉です。 その場合は、やはり「なぜ純粋でなければならないのか」ということに対して 自分なりに、人に説得できるだけの根拠づけが欠かせません。 「だってそうよねぇ」とか「そういうのは常識だ」というのは根拠になりません。 >「差」がないと思うところから「差別」は始まる。 それこそが「悪平等」の結果であり、 「やっかみ」の逆転した「差別」に他なりませんよね。 >思春期の子供の中には夫婦を見ても「いやらしい〜」と思う子がいるんだそうです。 しかし、その子供はそれなりに一貫した姿勢をもっているわけですから、 結婚したとたんにその人に「がんばらなくっちゃ」とか 平気で言えたりする人よりは、ずっといいと思うんですけどね。 「Hがいやらしい」と感じるのは、それはそれでひとつの視点ですから^^;。 >片岡千恵蔵じゃないですが、人間って「ある時は○○、またある時は××・・・」 >というものなのに、それを一元的に見てしまうと言うのは、その人自身が極めて幅 >の狭い人間性しか持ち合わせていないという事の現れとも言えます。 ほんとうにはちゃめちゃに矛盾している無責任な人というのは確かにいますが、 矛盾していないのにそれが分からないからというだけで、 その表面上の変化に対して批判をしてしまうことというのは多いようです。 シュタイナーなんかその極致のような人のひとりなんですよね。 ひとは、自分がわからない=相手が悪い、というというふうにとらえがちで、 それは完全に認識の怠惰なんですが、それが罷り通っている。 マスコミなんかそれを日常化しているとろろが多いのですが、 やはり、自分がわからない=自分の認識不足である、と反省し、 積極的に学ぶことを心がけたいものですね。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 02107/02110 GGA02514 KAZE やはり、自己教育 (13) 95/01/31 11:55 02104へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >安岡正篤さんの「人生の大則」からの抜粋、考えさせられるものがありました。そ >うでなくても、子供を前にして「いかんいかん」と思う事が多いのですが、自分自 >身にもあてはまる事(自分が子供時代に受けた影響)もあったりして少々複雑な心 >境です(^^;)。 これは、教育について得たぼくの基本的な視点でもあるのですが、 やはり、「教育はすべからく自己教育でなくてはならない」ということでしょう。 教育をする教師や親は、みずからを自己教育すべきであるし、 子供が自己教育できるような環境づくり、働きかけをしなくちゃならない。 子供が何を受け取るのかということについてもっと真剣に考えなければならない。 教育というのは、ドイツ語では「引き出す」という意味の言葉ですが、 その言葉の通り、子供のなかに埋もれている宝を探り当て掘り出すということを 教師や親はみずからの言動などを自己教育することからはじめなければならない。 おそらく、子供の中にある宝は、教師や親がみずからの中にある宝を掘り起すことで 子供みずからがそれを掘り出すようになるのだと思うのです。 その子供のなかにある宝を掘り起こすということについて 林竹二さんは「教育の再生を求めて/湊川でおこったこと」(筑摩書房)のなかで こう述べています。 授業というものは、本来、子どもがもっているそれぞれの個性的な、固有のた から(可能性)を、引き出す作業である。そのための「道具」が教材である。 その道具をつかうには方法があり、技術があるだろうが、何よりも大事な、教 師の条件は子供の心の見えること−−子供のうちにかすかに動いているものや ことばにならないおもいを感じとる人間的な資質であるだろう。それが感受性 であるわけだが、それはやさしさと別のものではない。教師がそれを欠けば、 子供のうちにある、表面には姿を見せない大事なたから(可能性)は切りすて られる外ない。子供のもっている豊かな可能性の貴重な愛惜すべき部分は、遠 慮会釈なく学校教育の中で無惨に切り捨てられてゆく、この「切りすて」に抵 抗すると、今度は子供自身が容赦なく切り捨てられるのである。(P12) >日本人の感覚の中にはどうも「人間を人間と思っていない」ふしがあります。戦前 >の「お前らは赤紙一枚でいくらでも都合がつく云々・・・」と同じメンタリティー >が今でもまかり通っているんじゃないでしょうか。 だから、日本人というのは一種の蟻塚であって、 そこには明確な個人というのではなく集合化したシステムがあるという傾向がある。 そのシステムはおそらく世界でもまれにみる高度なシステムなのですが、 現代ではやはりそのシステムを個人が内的に獲得しなかれば たちいかなくなってしまいかねない部分があります。 つまり、集合的な自我の部分を個人の自我のほうまで降ろして 個の自覚の方向にもっていくということです。 その意味でも「差」ということをなくすのではなく、 それを認め合っていくというのがまずは大事なのですが、 どうにもその方向性はまだあまりないように思います。 >官僚に関しては「まるっきりダメだ」と思いました。 >もし彼らが優秀だとしたら、その優秀さと言うのは「機械的」な事だけだと思いま >す。 確かに、問題はその「機械的」だということにありますね。 先に述べたように「集合化したシステム」としては有効なのだけれども 「個」のそれぞれが自覚していることが求められる状況では無能だということ。 官僚というのは、いってみればその象徴のようなものなのでしょう。 そして何か前代未聞のことが起こってしまうと、 決まりきった「集合化したシステム」は重すぎて身動きがとれないし、 そのシステムを臨機応変に変えていくような「個」がいない。 これは「官僚が無能だ」というよりも、日本人そのものの行動パターンを 根本から変えていかなくてはどうしようもないことかもしれません。 >彼らがこうなってしまったのは、教育制度に大いなる欠陥があったからで、そうい >う意味では彼らも被害者と言えなくもありません そのためにも、「自己教育」がテーマにならなくてはならないように思うのですが、 政府など批判する向きも、自分が変わろうという前提で言っている場合は ほとんど見受けられません。 マスコミもその象徴のようなもので、自分は無責任なくせに、 ターゲットを見つけると執拗に攻撃をしかけて、ネタにしようとします。 やはり、「自分で考える力」というのは 「自己教育」でしかでてこないように思うのです。 >「声だけが大きい進歩的文化人」を相手にしたくはないですが、そうでない善良な >人々に「ほんとうにそうなのか」と言えるような自分でありたいです。 「声だけが大きい進歩的文化人」は明らかに大馬鹿ものではありますが、 もっと悪いのは「善良な人々」なのかもしれません。 右を向けと言われれば右を向き、左を向けと言われれば左を向く。 そこには「なぜそうしなければならないというのか」という自覚が欠如しています。 やはりそこにも「自分で考える力」がないということがいえます。 そういう意味では「善良」は「最悪」なのかもしれないとも思います。 結局は、その「善良」が「そういうものだ」をつくりだすのですから。 >26日に元関脇の蔵間さんが急死されました。 残念ですね。 そんなに強い!って人ではありませんでしたが、 とっても品のいい関取のひとりでしたね。 亡くなったといえば、そんなに知名度はないかもしれませんが、 ぼくの尊敬していた下村寅太郎さんもなくなってしまいました。 ライプニッツやルネサンス、科学論などを専門にされていて、 西田幾多郎さんの弟子筋にあたる方でもありました。 併せて、ご冥福を祈りたいと思います。 >最近、地震報道に関する苦言をよく目にしますが、こちらでTV放送を見ていると >ある1局を除いて、TVの放送は視点が完全に「物見遊山」です。 その通りで、まったく頭が溶けているとしか思えない報道ばかりでしたね。 必要なのは、おっしゃるように「正しい情報」ですし、 またこの震災でひとりひとりが何を学ぶことができるかということのはずです。 それなのに、被災者にマイクを突きつけて「今何がほしいですか?」なんてのには 「大馬鹿者!」なんて怒鳴りつけてやりたい感じでした^^;。 >地震は土が動く事によって、いろんなものを顕現させるといったような言葉が占い >用語にあります。かくしていた死体が出てきたりとか・・・。今回の地震もいろん >な事をさらけ出させてくれたような気がします。 そうですね、その「さらけ出す」ことによって、 我々が何を学べるかということをじっくりと考えていきたいものです。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 02108/02110 GGA02514 KAZE 魂の応用力 (13) 95/01/31 15:56 02105へのコメント YUKIさん、どうも。 >最近感じ始めたのですが、魂が進化すればするほど、その法則や本質は単純 >になって行くのではないか思います。 そうぼくも感じています(^^)。 しかし、そういう意味で単純になればなるほど 多くのものを包み込むことができるようになるようです。 ですから、「法則や本質」のシンプルさは、 それがとらえることのできる現象の ますますの多様性ということでもあります。 魂が高度になればなるほど応用力がつくとでもいいますか。 物理学などでも、高次の理論というか包括的な理論になればなるほど それを表現する形はシンプルになっていくき、 それが包み込む諸現象の多様性も幅広くなっていきます。 それも案外同じようなことなのかもしれませんね。 だから、ぼくらも、そういうシンプルな原理にみあうだけの 応用力のある、包括的な魂になれるよう がんばらないといけないということなのだと思います。 その応用力のために、幾度も転生を重ねているのだともいえますし。 >『現世絶対と現世否定』のバランスのとり方に興味があります。スピリチュ >アリストを気違い扱いする方々がおられます。これらの方々とスピリチュア >リストの違いは、この『現世絶対と現世否定』のバランス感覚の差だとお思 >います。柔軟なバランス感覚こそ、今の私の最重要課題のように感じていま >す。 ぼくにとってもそれは大きな課題で、 そのことを「中道」「中」という統合の原理として ずっと考えてきたようにも思います。 仏教では、「空」つまり霊的世界にもとらわれず 「仮」つまり現世にもとらわれないようなあり方を「中道」と言いますが (最初は、苦楽中道という苦行でも快楽でもないような修行を 「中道」というふうにいっていたようですが) どちらにもとらわれすぎないで、しかもどちらも軽視しないような、 そんな姿勢で生きられたらいいのになと思っています。 (もちろん、仏教はいわゆる出家するわけで 実際は「中道」とはちょっと違って、矛盾はしているのですけどね^^;。 ま、認識的にはそいうのが理想だということなのでしょう。) ☆☆☆KAZE☆☆☆ 02109/02110 PXB01563 おみゃー 人間原理 (13) 95/02/01 07:15 02106へのコメント コメント数:1 >>>>KAZEさん はじめまして。横槍RESです >>ひいては「なぜこの宇宙があるのか」という宇宙論の必要性に至るのだと思います。 御存知かも知れませんが「人間原理」という言葉がありますね。 〜宇宙のことを考えているあなたや私が存在しているということが、とりもなおさず 宇宙の年齢や大きさを(いまあるように)きめたのだ、ということです。〜 「ゆらぎ」の不思議な物語(副題:宇宙は考える) PHP研究所 佐治晴夫著 より 「花は人間に『美しい』と言ってもらうために咲いている」 僕はこの言葉が大好きです。 もっと進展させれば「食べ物は『おいしい』と言ってもらうために存在している」 「地球は『ありがとう』と言ってもらうために存在している」etcetc あくまでも「人間」を中心に捉えているのですが、「人間」が生かされている観点 からのアプローチであることが「宇宙論」であるにもかかわらず、感動をおぼえま す。もっと発展させれば「僕らが望めば宇宙の姿さえも変えることが出来る「と言 えるのでしょう。 >>いかなることも「破壊」へ向かうものではなく、 >>みずからを高次の方向にむけて「変容」を促すものであるという視点だけは >>もっていなければいけないのではないかと思います。 >>それは、現実的な問題を絶望ではなく希望で立ち向かう意志の必要性でもあります。 宇宙論など実生活になんの役にたつのだろうととらえるかたが大半でしょうが、実 際には「人を観る眼」を養うための学問なのです。また「未来への希望」を証明す るための学問でもあります。 以上 何かの参考になれば ここからは蛇足 我々は何処から来たのか、我々は何処へ行くのか、我々は何物なのか。 我々の望む未来にあなたは(私は)常にポジティブであるか。 と自分に問いかけています。 おみゃー @名古屋 02110/02110 GGA02514 KAZE ありがとう (13) 95/02/01 11:27 02109へのコメント おみゃーさん、はじめまして。 「横槍RES」、大歓迎です(^^)。 ぼくも「人間原理」って大好きなので、非常に共感しました。 >「花は人間に『美しい』と言ってもらうために咲いている」 >僕はこの言葉が大好きです。 >もっと進展させれば「食べ物は『おいしい』と言ってもらうために存在している」 >「地球は『ありがとう』と言ってもらうために存在している」etcetc そういう見方って、(意外かもしれませんが) シュタイナーの見方と非常に近いんです。 シュタイナーは「人智学」の運動をさまざまに展開したのですが、 「人智学」が「神智学」ではなく、あくまで「『人』智学」であったように、 その視点はその「人間原理」で貫かれているように思います。 シュタイナーは「四大霊の解放」ということをいいます。 「四大」とは「地水火風」で、 それぞれ「グノーム」「ウンディーネ」「サラマンダー」「ジルフィー」と そうしたいわゆる妖精的な存在が、この自然界を成り立たせているというのです。 そして、それらの存在は、人間に「私たちを解放してください!」と願っている。 固体、液体、気体というような物質の状態がありますが、 そうした自然霊たちは、固体から気体に向かうほど解放されたと感じます。 そういう意味では、地球という生命体は、人間のために みずからを犠牲にささげて、今のような固体の状態になってくださっている。 そうとらえることができるんです。 シュタイナーは、地球は、人間がさまざまな構成要素に別れているように、 いくつもの層にわかれていて、その深層にいけばいくほど、 人間の深い無意識がどろどろしているようにどろどろしていて、 その地球の深層の部分を解放するというのは、人間の使命でもあるといいます。 人間がみずからのエゴを克服していきながら、しかも感謝を忘れないということが 地球を高次の存在へと解放し、同時に人間が進化していくことだというのです。 こういう見方に非常に近いのが、意外や意外、我々日本人の感じ方で、 たとえば、日本では「供養」というのがありますが、 「針供養」だとかいうように、いわゆる「モノ」に至るまで、 その存在とその「供儀」に対して、感謝をささげます。 ご飯を食べるときに、「いただきます」というのも、 「お針」だとか「お琴」だとかいうように、 モノに「お」という敬語をつけて慈しむのも、 すべてに対して「ありがとう」と感謝することで、 自然界そのものを解放しているのだということができます。 たとえば、柳宗悦さんという民芸復興をされた方がいらっしゃいますが、 この方の試みこそが、人間のつくったものに「美」を発見し、それを解放し 人間も「モノ」も幸せにしていくことだったのではないかと思います。 また、イエス・キリストについて残っている有名な逸話にこういうのがあります。 弟子たちといっしょにあるところを通っていて、そこに腐敗した犬の死骸があった。 弟子たちはそれをいやがって避けて通ろうとしたのですが、 イエス・キリストは、その犬を見て、 「なんときれいな歯をしているんだろう」と言った。 こういう、一見醜いものとされていることのなかに、 積極的に美しさを発見していくこともまた同じことなのではないかと思います。 ぼくも、こうしたいわゆる「人間原理」的な見方をはじめとして 「人間」というものを積極的にとらえることができるようになってから まさにそういう意味での「人間学」を学ぼうと真剣に考えるようになりました。 >宇宙論など実生活になんの役にたつのだろうととらえるかたが大半でしょうが、 >実際には「人を観る眼」を養うための学問なのです。また「未来への希望」を >証明するための学問でもあります。 その通りだと思います。 確かに、歴史を見ても、また現在の世界を見ても、 人間のエゴの醜さというのは目を覆わんばかりのことが多いですが、 それを「砥石」のようにとらえ、人間が素晴らしくなるためのプロセスだと考え 人間であるがゆえの意味を発見していくことこそが大切で、 「宇宙論」というのは、まさに、 >我々は何処から来たのか、我々は何処へ行くのか、我々は何物なのか。 という問いに答えていくものであるのだと思います。 そして、 >我々の望む未来にあなたは(私は)常にポジティブであるか。 その問いかけこそが、人間学の根幹なのだと思います。 ぼくがシュタイナーを主に勉強したりしているのは、 ぼくの知る限りその問いかけにもっとも総合的で真摯だと思っているからです。 今回のおみゃーさんのレスで、 いちばん大切な部分をあらためて考えることができました。 ありがとう(^^)。 これからもよろしくお願いします。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 電子会議 (1:発言 改行のみ: 読む) 通常モード >