- FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/07/01 - 03133/03135 GBG02043 維/YUI ちょいと拝借。 (14) 95/06/29 00:29 コメント数:1 9番会議室で#611,612の発言で預言解読関係をめっけたので、 もってきてしまいました。 >「大峰の亀岩」‥これが、ARIONの預言の中に >出てきた「亀石」だそうです。つーと、亀石の翁ってのは誰かしら‥ というのが、#612のみれさんの発言にあります。 *********** 亀石の翁っていうと、小角さんを思い浮かべてしまいました。 実際、ARIONさんの預言のなかでは、(詳しくは、データライブラリ とかで、みてねっ!) * 光の黙示録 第五部にある、45条の詩的メッセージから: 7より抜粋 山々の裾野に集えり人々は ただ ただ 空を仰ぎ 声なき声持て 叫ぶであろう こは如何にして この災いを避けるべきかは不二の高嶺を奉る 亀石の翁のみ知る事ぞ しかして この災いを転じて福と為すは そちらの志しひとつぞ 闇から闇へと葬るも良し 闇からサキツチの世に出すも良し 15より抜粋  龍宮よりの使いもの申す 我が幸賜る者よ 三丈の御柱を巡りて我が宮つ城へ急げ 亀石 導き給う 小湧き 清水流れ 花散る里 といった具合です。 亀石は、亀というところからも龍宮関係者って感じです。 不二の高嶺にいる方は、龍宮の長だったと記憶しています。 そこを奉るのが亀石の翁ですから、やっぱり関係者ですよね。 と、いうことで興味の湧いた方は、ぜひぜひ思いついたこと、 検証したこと ETC UPしてくださいまし。。。 m(_ _)m ヨロシク 維/YUI。 03134/03135 PXY03747 諏訪みのる RE:ちょいと拝借。 (14) 95/06/29 20:06 03133へのコメント コメント数:1  維/YUIさん、こんにちは。  はじめまして、みのる♪と申します。  ♯3133 を読ませていただき、僭越ながら少しばかり発言させていただきます。 >亀石の翁っていうと、小角さんを思い浮かべてしまいました。  実は私も、同じく役小角さんを思い浮かべました(^^;)マネッコ デス 役行者さんの経歴(といっても、後世の人の創作と言われていますが…)を本 で読ませていただいた折り、文武三年(699年)、小角65歳の時、朝廷側に よって彼は伊豆の大島へ流罪となった・・と書かれてありました。  この流罪の刑が、逆に小角の超能力のほどを世に知らしめることとなったよう なのですが、その超能力の一つに“空中飛行の術(飛天の術)”というのがあり、 彼はこの術を使って、富士山をはじめ国中の霊山を駆け巡り、多くの山林修行場 を開いていったらしいのです。  ARIONさんの言われる「不二の高嶺」が富士山だとすれば、「亀石の翁」 を役小角さんと想定しても別に不思議はなさそうですよね。  龍宮の「龍」も、修験の神様と少なからず関係がありそうですし、このあたり の関連にも興味深いものがあります(^^)。  預言解釈の参考にはならないかもしれませんが(^^;)、思い出したことをチョッ トだけ書かせていただきました。失礼いたしました。                みのる♪デシタ。 03135/03135 GBG02043 維/YUI いらっしゃい、みのるさん (14) 95/06/30 09:42 03134へのコメント どうぞよろしく。(^_^) たまたま今読んでいる本にでていたのですが、 小角さんが信仰していた不動明王は、倶利伽羅大龍不動明王というらしく、                      **** 大峰山より6年ほど前、小角さんが28歳のころに修行していた葛城山系の 山に龍が巻きついている利剣を持った不動明王の像を残しているとか。 不動明王というのは、龍と繋がりが深いのかもしれませんね。 そういえばオウムの事件で少し有名になった、富士宮の人穴というところには、 富士の溶岩でできた深い洞穴があり、そこで修行した者も多く、小角さん だか、空海さんだかも、その中にいたんではなかったかな・・・。 うわさ・・・ってことで言えば、江ノ島には竜宮への入口があるってのと、 江ノ島の洞くつと富士山の地下は繋がっているとかいうのも、結構聞きます。 ついでに、空海について、幼いころの名が龍頭だったという話は、 がさねたでしょうかね。。。 龍尾ってのにあたる人はいるのだろうか・・。 (中国に劉備って人がいたということは、話でしっているけど (^^;;) だんだんとゴミまきになってきたので、この辺で。 また、何か思いついたら、書いてくださいね! 維/YUI。 590/615 MHD02672 TAO 出口王仁三郎と北一輝(超長文注意) ( 9) 95/05/22 00:15 コメント数:2  ふと思うことがあって2・26事件に関する諸書籍に目を通していたら、  この会議室で何度も取り上げている大本教の出口王仁三郎と、2・26  事件の首魁とされ形死した革命思想家、北一輝の会談に関する一文を見  いだしたので、戦前最大の民間宗教家と革命思想家の間でいかなる対話  が交わされたのか、この不思議な印象を与える巨頭会談の顛末をここで  触れてみたいと思う。典拠は「検索!二・二六事件」(田々宮英太郎著  /雄山閣刊)の一章、『北一輝と出口王仁三郎 −隠された巨頭会談−』  と「北一輝伝説」(松本健一著/河出書房新社刊)、「出口王仁三郎」  (松本健一著/リブロポート刊)である。  ●●●  出口王仁三郎と北一輝の会談については、既に安丸良夫氏、梅棹忠夫氏  等が言及しているが、いずれも伝聞を元に取材していて、具体的な裏付  けが示されていない。田々宮氏は、王仁三郎の側近であった木庭次守氏  に取材し、木庭氏より「王仁三郎自身から、北一輝との会談についての  成り行きを、直接伺った」という証言を引き出している。王仁三郎が木  庭氏に語った内容とは、同氏の証言によれば下記の通りである。  …………聖師は、あの事件(注:大本教第二次弾圧事件)には感謝して     いるんだと言われるんです。これにはたまげましたね。もしあの     弾圧がなかったら、自分は殺されていたかも知れんと言われるん     です。北の要求した金額が二十万だったか二十五万(注:現在の     五億円)だったかは、はっきりとは記憶がありません。しかし、     それくらいの大金だったのは間違いありません。      昭和神聖会の若い人々を参加させてほしいと言ったのも本当で     す。仲間を数名、京都に置いてきたとも言って脅かしていますね。     聖師は神様に相談せんと即答する訳にはいかん。松江のお祭に行     く日程ができているので、帰ってくるまで返答は待って欲しいと     申されました。      すると北は、出口さん、こうして大事をうち明けた。もし要求     がきかれなければ、一命は頂くことになりますぞ、と凄んだと言     うのです。                 引用:「検索! 二・二六事件」 P211  2・26事件が勃発する前、北一輝が出口王仁三郎を訪ね、革命資金と  して25万円もの資金を要求したという風聞は、先述の安丸氏・梅棹氏  とも著書で触れている。しかし関係者による具体的な証言が示されたの  は、田々宮氏の著書が初めてだろう。  大本教第二次弾圧が起こったのは昭和10年12月8日、2・26事件  はその翌年である。王仁三郎と北一輝が会談した日は昭和10年12月  1日頃だろうと、木庭氏は推定している。  北一輝が王仁三郎に対して巨額の資金調達を迫ったという上記の文章を  読んだ時は、当初は意外な気がした。というのも、別の書籍で北一輝の  王仁三郎に対する辛辣な批判を目にしていたからである。田々宮氏も、  同記事で北一輝の王仁三郎批判を取り上げ、北一輝は王仁三郎を酷評し  ていたのにもかかわらず、何故資金調節を頼んだりしたのだろうかと疑  問を呈している。2・26事件が鎮圧された後の「警視庁聴取書」から  引用された北一輝による王仁三郎評を、「北一輝伝説」(松本健一著/  河出書房新社刊)から孫引きしてみよう。これは北一輝が大正8、9年  頃に王仁三郎と会談した時の感想である。  ……………私、大川周明、満川亀太郎の三人で始めて同人と会ひいまし      た。大川は私と出口との会談を見て、只一回で出口は下劣な取      るに足らぬやつであると断定しまして、私等に向つても再び会      見の必要なしと申した位で、私も変な姿の様な印象丈けを残し      て其の後は心に止めない様にして居りました。自分の信仰に因      る、神秘的体験から見ますと、大本教は神ではなく相当通力を      以て居る邪霊である事が判りました。                      引用:「北一輝伝説」 P104  このように評しているのにもかかわらず、その後も北一輝は王仁三郎と  再び会い、恐らくクーデター用の資金調達さえも申し出ているのである。  松本氏は、この北一輝の態度を「大本教がこの二・二六前年の昭和十年  十二月に第二次不敬事件をデッチあげられ大弾圧をこうむっていること  を配慮してのものだろう」とし、「首魁」の北一輝としては、2・26  事件が大本教に次ぐ不敬事件にさせられるのを恐れたからではないかと  している。  このことはすなわち、逆に見れば北一輝は王仁三郎と因縁浅からぬ間柄  だったからこそ、大本教弾圧と2・26事件の関係を否定すべく偽装と  して、上記のような王仁三郎への酷評に及んだのではないか。  田々宮氏は、北一輝と王仁三郎の資金関係はこの一回に限ったものでは  無く、以前から続いていたのではないかとし、大川周明の「北は2度目  の会見から王仁三郎に金を出させたのではないか」という主旨の文章を  引用し、木庭氏から再び次のような証言を引き出している。  …………大正九年、月日ははっきりしませんが、聖師が北さんに、当時     の金で千円(注:現在の二百万円)を渡しておられます。後に大     本本部の会計課長になった中村純也さんから、その事実を聞かさ     れました。      お土産をお客さんにと急に聖師から言われ、金策に苦労したこ     とを何度も愚痴られたものです。上京された聖師は、久迩宮家の     宮務監督で、のちに宮中顧問官になられた山田春三さんの邸に一     泊され、翌日は中野岩太さんの邸へ行かれました。中野さんは東     京商工会議所会頭の息子さんで信者ですが、北さんはそこへ来訪     され聖師と会われたのです。      北さんは、自分は立替えをやるから、立直しは出口さんに頼み     ますと言っておると、聖師は語っておられたそうです。                引用:「検索! 二・二六事件」 P231  このようにして王仁三郎と北一輝の緊密な関係がはっきりする訳だが、  北一輝の「自分は立替えをやるから、立直しは出口さんに頼みます」と  いう台詞に、両者の思想的な連携を窺わせる。北一輝は、すず子夫人を  霊媒として神仏と人霊を呼び寄せ、霊言を記録した「霊告日記」を著し  ており、また、人類はやがて神類に進化するというビジョンを主張した  神秘思想家でもあった。その北一輝が、王仁三郎の宗教活動に対してど  う見ていたかまでは窺い知れないが、少なくとも否定的には見ていなか  ったように思える。 王仁三郎にしても北一輝にしても、右翼とか皇国主義者というカテゴラ  イズからはみ出す存在である。北一輝は天皇制に対して一線を画してい  たし、王仁三郎も大本教弾圧事件で不敬罪に問われたこと自体が証明す  るように、明治維新から始まった近代天皇制を暗に覆すような「もう一  つの天皇制」…もう一つの国家…を打ち建てようとしていた感がある。  言い方を換えるならば、近代天皇制を換骨奪胎した「神の国」としての  日本を打ち建てようとしていた。王仁三郎にとっての「日本の王」とは、  天皇よりもまず「救世主」としての弥勒であり、素戔鳴命でもあったと  言えるかもしれない。  松本健一氏は「出口王仁三郎」(リブロポート刊)で、王仁三郎と北一  輝の類似性をこう評している。  ………北一輝と出口王仁三郎とは、似たもの同士だった。この似た物同     士の二人のカリスマは、天皇制国家のもとで結果としてその体制     を見做い、いわば「天皇」を「革命」と同義語とする変革の原理     に仕立て、「天皇=革命」の国家を造形しようとしたのだ。                     引用:「出口王仁三郎」 P206  ………「伝統にしばられた時代にあっては、カリスマは唯一の革命的勢     力である」というのは、マックス・ヴェーバー(『権力と支配』)     の規定であるが、北と王仁三郎はともに、天皇がこの「唯一の革     命的勢力」である「カリスマ」、つまり「真正カリスマ」である     ことを要請した。                     引用:「出口王仁三郎」 P207  二人にとっては現実の天皇制や天皇個人よりも、日本という国の極めて  霊的なカリスマとしての「天皇」の方が、念頭にあったのではないか、  という気がしてならない。  北一輝が王仁三郎に対し、資金を調達しないならば命を頂くと脅したの  は、それだけ覚悟していたということだろうが、王仁三郎との緊密な関  係、そして革命家同士としての王仁三郎に対するアンビレンツな感情を  窺わせる。相手が王仁三郎だったからこそ、そこまで迫り得たと言うか。  ●●●  当時の内務省がいかに、大本教と右翼、革新勢力の連携を恐れていたか、  大弾圧の元締めであった内務省警保局長・唐沢俊樹の手記に見ることが  出来る。以下は、田々宮氏の引用による。  …………新興宗教たる大本教そのものを弾圧しようなどという考えは毛     頭なかったことを明言するものである。二・二六事件勃発の前夜     ともいうべき時代的背景のなかで、京都綾部の大本教本部という     よりも、出口王仁三郎が右翼と気脈を通じて果たした役割は蓋し     想像を絶するものがあった。(中略)      統帥権の蔭にかくれてわれ等の手の及ばぬ所で勝手気儘に振る     舞い、武力革命を呼号する右翼軍人と王仁三郎とが結びついて、     大本教の豊かな資金が右翼に流れ、その陽動暗躍が重大事態を予     想させるに充分なものがあったので、ついに意を決して起たざる     を得なかった訳である。(『信濃往来』昭和30年2月号より)                引用:「検索! 二・二六事件」 P232  弾圧側の自己正当化と言えそうな内容であるが、大本教と右翼の関係を  示唆して興味深い証言である。  昭和史上最大の宗教弾圧である「大本教弾圧」と、これまた最大の軍事  クーデターと言える「2・26事件」は、二人の巨頭「出口王仁三郎」  と「北一輝」との奇縁を通じてつながっているのであり、一種の国家転  覆或いは内乱とも言える両事件が間を置かずに立て続けに起こったのは、  歴史の必然だったのかもしれない。  “内乱”“国家転覆”の契機を潰すべく、当局が鎮圧に動いたというの  は、かのオウム事件もそうだと言えるが、オウム事件の場合は対象集団  の犯罪性が日々に明らかにされて来ているだけに、不当な宗教弾圧とは  言いきれない。大本教の場合は、王仁三郎は結果的に2・26事件に直  接関わらなかっただけでなく、組織的な犯罪を犯していないだけに、逆  に弾圧そのものの犯罪性が際だつ。  大本教第二次弾圧が起こったのは1935年、その60年後にオウム事件が勃  発したのは奇妙な符合だが、事件の様相は全く逆と言える。これが何を  意味するのかについては、まだ何とも言い様が無い。  TAO 593/615 MHD02672 TAO 聖母と百合、天使 ( 9) 95/05/23 23:38 589へのコメント  イタリア旅行記、今回も有り難うございます(*^^*)。アマデウスさんの  臨場感溢れる報告を読んでいますと、イタリアまで出かけたくなってし  まいますね。  ボッティチェリを観られたとは、何とも羨ましい限りです。ボッティチ  ェリは私も好きな画家の一人で、あの典雅で清楚な女性像は正に「ルネ  ッサンスの真珠」とさえ形容したいぐらいです(*^^*)。それでいて、ア  マデウスさんも「甘いばかりのべとべとした感じはない」と評されたよ  うに、稟とした意志を感じさせる理知的な面差しも、ボッティチェリの  描く女性の魅力の一つですね。フランスにはジュリー・デルピーという  女優がいますが、これがまさにボッティチェリ風の容貌で、ご贔屓の女  優の一人です。「SWITCH」という月刊誌の最新号(6月号)でカ  バーストーリーを組んでいますので、ご興味がおありの方はご一見を。  あれ、話が横道にそれてしまった(^^;。  「聖母子像」「受胎告知」はキリスト教圏では、非常にポピュラーな題  材ですね。宗教史的な観点で見れば、マリア信仰というのは古代オリエ  ントの大地母神信仰から流れ込んでいるのではないかという説があるそ  うです。特に、子ホルスを抱くイシス(エジプトの女神)像は、まさに  聖母子像そっくりです。東洋でも観音信仰が有名ですが、観音も本来は  男子だったのにもかかわらず、母性的・女性的な優しさを持った存在と  してあがめられています。日本の隠れキリシタンも、聖母と観音を融和  させたような「マリア観音」を拝んでいました。  ガブリエルの持つ「百合」の花ですが、キリスト教絵画の伝統において  「白百合」は、常に聖母マリアの純潔の象徴として描かれているといい  ます。確か、花芯の無い百合を書き込んだ画家もいたと記憶しています  が、花芯が無いとは、多分性の不在を象徴しているのでしょうね(^^;。  マリアは処女懐妊とされていますから。  「受胎告知」を主題とした絵画では、大天使ガブリエルはその役割故に  か、美しい女性のようなイメージで描かれることが多いのですが、もう  一人の大天使ミカエルは対照的に、「剣か槍を持ち、鎧をまとった」厳  めしいイメージで出現することが多いですね。ミカエルは、死人の魂の  善悪を計る天秤を持っているといいますが、ガブリエルは誕生を、ミカ  エルは死を告げるという対照が面白いです。  報告はまだ続くのでしょうか。次を楽しみに待ってま〜す(*^^*)。  TAO MES9 611/615 MHD02672 TAO 吉野・熊野修験 ( 9) 95/06/27 22:13 610へのコメント コメント数:3  どうもです(^^)、諏訪みのるさん。  身重の奥さんと一緒に熊野詣に出かけられたとのこと、さぞかしお子さんには  良い胎教になったのではないでしょうか。地元の方に、熊野本宮の前に玉置神  社に赴くのが正しい順番だと教えて貰ったとのこと、それはご縁だったのでし  ょうね(^^)。  「大峰奥駆け修行」と呼ばれる、奈良の吉野から熊野三山まで連なる大峰山系  を駆け抜ける、大峰修験の修行があるのですが、熊野三山から吉野まで駆ける  のを「順峰」、吉野から熊野三山まで駆けるのを「逆峰」といいますが、現在  のコースは殆ど「逆峰」となっています。 「大峰奥駆け修行」は、峰中七十五ヵ所の行場を辿るのが習わしになっていま  すが、玉置神社もこの中に含まれています。面白いことに、玉置神社の境内に  御神体と目される大岩があり、大峰の亀岩とつながっているという伝承がある  そうです。そして大峰の岩は龍頭、玉置の岩は龍尾とされています。つまり、  山々自体が龍体という訳ですね。面白いでしょう。  吉野にはまだ行ったことは無いのですが、吉野から熊野まで活躍した、大峰修  験の山伏には興味を抱いていて、ちょこちょこ調べているところです。  それでは。  TAO 612/615 SDI00635 みれ RE:吉野・熊野修験 ( 9) 95/06/28 15:04 611へのコメント コメント数:1  #611 TAO さん  本論と全然関係ない話ですが、備忘録のつもりで書かせてくださいまし。  TAO さんの文中にある「大峰の亀岩」‥これが、ARIONの預言の中に 出てきた「亀石」だそうです。つーと、亀石の翁ってのは誰かしら‥(-_-;)ウウム こっから先は預言部屋の話題かも知れないので、この辺で‥。  突然の闖入、ごめんなさいでした(__;) ・:*:・みれ・:・。,★