00132/00137 PXH01650 英雄 友よ、時間を下さい.... ( 5) 95/07/10 23:19 コメント数:1   自らのコトバを失ったがために、ARIONのコトバで語ろうとする愚を  お許し下さい・・・・  「あなたがた、徒に文字を飾り連ねるよりも思いを伝える努力を…   左舷より呼ばわる声は、手垢にまみれた美辞麗句を伴い、誘う   そして右舷より呼ばわる声は、甘く優しく通りの良い言葉で誘う   船底から力強く呼ばわる声がする…雄々しく潔い誘いの言葉だ   右舷、左舷、船底…全ての言葉があなたがたの心を揺さぶるが…   どの言葉も「一つの船」を基盤に語られたものであるならば…   あなたがたの観るべきは船の全体像で、一部の誘い言葉では無い   船の全体像を観るには、右舷左舷船底等の言葉で結論しない事   …結論を早く出したいばかりに安易な結論に飛び付かない事…   結論が出ない時は、取り敢えず「ない」状態を受け入れる事…   「ない」状態を受け入れ、「ない」状態そのままにしておくこと…   「ない」状態のまま暫く観察していると、結論を焦る気持ちが薄れ   混乱を混乱にまかせる…自らは混乱の中に居ながら傍観者であれ   傍観者であるというのは、無気力に無関心でいることでは無い…   混乱の中に活きて存在し、混乱の一部でありながら…呑まれない事   混乱に呑まれない為には、その動き・流れに目を奪われない事   周囲の織り成す模様に心を奪われぬ様に注意しつつ、観察する…   鏡に映る像が歪んでいると責める前に、鏡の歪みに気付きなさい   歪んだ鏡は直せば良い。問題は歪みを恥とし、隠そうとすることだ   悲しみは、自らの歪みに気付かず不満の因を外部に探し求める時に   苦しみは、身近な者に自らの歪みの因を押し付けるときに始まり…   身近な者にその因がない時、曲解してでも押し付けようとし…怒る   怒りが的外れであるがために、心は虚しく悲しい思いに満たされ…   虚しい心を満たす為に更に外に目を向ける…寂しい回遊魚の世界   自らの歪みに気付かぬ、外部に不幸の因を求める回遊魚世界は…   同じ所をグルグルと回遊し続けるので、出てくる不満も似ている…    そんな状態の自分に気付いたら、先ず今の状態のまま止まってみる   自分が最も生き生きする時が分かったら、それを思い描いてみる   その状態へ向かう事を「前向き」とし、今はどちら向きか考える   向きが見えたら、混乱の中でその向きへ進むのに何が必要かを…   じっくりと見つけだす努力をすると、混乱の中に幽かな道が見える   点在する オブジェクト であれ、必要なものが見えた時混乱は消滅する   見えたものを、前向き人生の為に如何に取り入れるかを考えなさい   混乱の中でこそ出来る一連の事柄は、確実にあなたを成長させる   そして成長したあなたには、以前の混乱は既に混乱ではなくなる   混乱は丁度「学び舎」であるかの様に、あなたには感じられる…   そして、新たなる混乱に遭遇した途端に「学び舎」の事を忘れる…   これを繰り返す内に、混乱に遭遇した時「学び舎」を忘れない日が   必ず来る。たとえ辛くとも「学び舎」から学ぶことを諦めないこと   人生での学びの情熱は即「より良い生き方への情熱」なのだから…   ....このコトバを与えて下さったARIONに感謝します・・・・・・・☆英雄 00136/00137 GBG02043 維/YUI 思わず、拍手。 ( 5) 95/07/11 10:11 00132へのコメント タイトルオンリー。 維/YUI with a lot of thanks to them m(_ _)m >2689 02689/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●I-1 (13) 95/05/16 11:58 コメント数:2 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 この「薔薇十字会の神智学」という連続講義録は、1907年に行われたもので このときはまだ人智学協会は存在せず、神智学協会との関係をもっていたので、 「神智学」という表現がされているが、それはいわゆる「神智学」ではなく、 むしろ内容的には「人智学」という名称で呼ばれるのが適切だと思われる。 この連続講義の後、シュタイナーは一連の福音書講義を開始するが、 特にそのキリスト理解において、「神智学」とは別だととらえたほうがいい。 この連続講義で語られた内容については、 「神智学」「神智学概論」(ともにイザラ書房)という基本的著作の内容を そうした著作にくらべ非常に平易に語っているものとして、 「神智学の門前にて」とならび、比較的読みやすいのではないかと思われるので、 今回のテキストとして選択した。 そこに盛られている主な内容は、人間の本質、輪廻転生とカルマ、 生と死、宇宙と人間の進化などで、それらを「薔薇十字的叡智」として 開示しようとしたものである。 おそらく、これまでシュタイナーにふれたことのない方には、 とまどいも多いことが推察されるが、一見荒唐無稽にも思えるような内容を まずは「ファンタジー」として楽しむくらいにとらえ、 そうしたなかの「核」の部分である「精神科学」の考え方を理解され、 それらをそれぞれの魂の養成と、自己認識の深化に役立てていただければと思う。  <I-1/薔薇十字の歴史の概略> --------------------------------------------------------------------------- ここでは、あえて「薔薇十字会の歴史」についての詳細については言及されない。 というのも、文書として残っているそれからは知られるところは ごくわずかであるし、ここでは、「薔薇十字的叡智」を その歴史からではなく、その「薔薇十字的叡智」そのものとして解明する、 というのが主要テーマだからである。 ここでは、その歴史についてはその概略のみが言及される。 ある高次の霊的存在が一人の人間の中に受肉しました。彼はクリスティアン・ ローゼンクロイツと名乗り、一四五九年、小さな秘教的グループの師として 姿を現しました。一四五九年、クリスティアン・ローゼンクロイツは結束固 い秘密の霊的同胞団、薔薇十字会において黄金石の騎士になりました。(中 略) 薔薇十字の神智学という叡智は十八世紀に至るまで、強固な規則によって外 的、公教的社会から隔離されて、ごく少数に限定された同胞団の中で守られ てきました。 十八世紀に、この同胞団は、秘教的な霊統を中部ヨーロッパの文化の中に注 ぎ込むという使命を持ちました。ですから、公的な文化の中に、たしかに外 見上は公教的なものですが、公教的な表現をまとった秘教的叡智がさまざま な仕方で輝いているのを見ることができるのです。何世紀ににもわたって、 さまざまな人々がなんとかして薔薇十字の叡智を看破しようと骨を折りまし たが、その目的は果たせませんでした。(以下、ライプニッツ、レッシング、 などの例/KAZE注)(中略) けれども、薔薇十字の叡智がとりわけ雄大な形で反映しているのは、十八世 紀の転回期におけるヨーロッパ文化、ひいては世界文化に大きな役割を果た したヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(中略)においてです。ゲー テは比較的若い頃に、ある程度まで薔薇十字の源泉に達し、最高の秘儀のい くつかを伝授されました。(中略) そのような秘儀の光は、ゲーテの友人たちがゲーテの作品のうちで最も深い ものと呼んだ未完の長編詩『秘密』の中に見いだすことができます。事実、 ゲーテは個の断片を完成させる力を再び見いだすことはできませんでした。 当時の文化の潮流は、この詩の中に脈打つ生命の非常な深みに外的な力を与 えるだけの力をまだ有していませんでした。この詩はゲーテの魂の最も深い 泉として理解しなければなりません。この詩は、ゲーテにとって七つの封印 のある書物のような存在です。ゲーテは、しかし、この秘儀から脱していき、 この秘儀を意識化した後、ついに偉大な散文詩『百合姫と緑蛇の童話』を書 くことができました。この散文詩は世界文学の中でも最も意味深い作品の一 つです。この作品を正しく解釈できれば、薔薇十字的叡智について多くを知 ることができます。(P16-17) 「薔薇十字」というと、通常の歴史的文献では、 ビュルテムベルクのプロテスタント系神学者のJ・V・アンドレーエが公にした 1614年にドイツ語で書かれた小さな薔薇十字の宣言文である 「ファーマ・フラテルニタス−称讃すべきR・C会のの兄弟団」(1614) 「コンフェッシオ・フラテルニタティス−尊敬すべきローゼンクロイツの 兄弟団の信条」(1615)が 「クリスティアン・ローゼンクロイツの化学の結婚、1459」(1616) という三冊の文書が有名である。 後者については、少し前に種村季弘訳で紀伊国屋書店からでているほか、 教文館のキリスト教神秘主義著作集の16「近代の自然神秘思想」としても だされているし、 その他については、イエーツの「薔薇十字の覚醒」(工作舎)の巻末に 収められているが、 そういう資料はそれによってシュタイナーのいう「薔薇十字的叡智」を 理解するためにはあまり役に立ちそうもないので、あえてふれない。 それよりも、むしろ上記の引用のなかにもあるように、 ゲーテの『百合姫と緑蛇の童話』などについてふれるほうがいいように思う。 これについては、読書会の進行のなかでもふれることがあるかもしれない。 ちなみに、シュタイナーは、1889年、 はじまったばかりのワイマール版ゲーテ全集の編集に誘われ、 1890年新しくつくられたゲーテ文庫に共同研究者のひとりとして参加する。 その中で、シュタイナーはゲーテの自然科学に関する著作を校訂、刊行する。 それと平行して、「ショーペンハウアー全集」や「ジャン・パウル全集」のために 文学史的な解説と評伝を執筆するなどの業績を残している。 また「ニーチェ」に関する重要著作も書かれていたりもする。 シュタイナーのゲーテ研究については、邦訳においても、 「ゲーテ的世界観の認識要綱」「ゲーテの自然観」などがだされており、 それに関連するテーマとして、「自由の哲学」などの重要な哲学的著作も 見逃すことはできない。 話が「薔薇十字」からそれてしまったが、 薔薇十字についての歴史的な話は、 フランシス・ベーコンやデカルトなどとの関係などからみても、 けっこう面白いのではあるけれども、 そこらへんのことになると、この講義録の趣旨から離れすぎるので、 ここでは、クリスティアン・ローゼンクロイツという名前と、 「薔薇十字」という秘教的な流れが、いわゆる「公教」に対してあったのだな、 といった程度を覚えていただければと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 02721/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●I-2 (13) 95/05/20 14:42 コメント数:2 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会  <I-2/薔薇十字的叡智の特徴その1> --------------------------------------------------------------------------- いよいよ、「薔薇十字的叡智」とはいったいどのようなものかについて 具体的な話がはじまります。 まずは、その特徴と社会的使命についてですが、 それを、今回と次回の2回にわけてご説明することにします。 今回は「薔薇十字の叡智のさまざまな立場の人々に対する関わり方」についてですが それについて、二つのことが語られています。 ひとつめが「師に対する弟子のあり方」、 ふたつめが「霊的叡智の一般的な精神生活に対する関係」です。 ひとつめの「師に対する弟子のあり方」に関して、 「霊視」及び「権威への信頼」についてのことが語られます。 「霊視」に関しては、それは「霊聴」という意味も含んだもので、 それが「宇宙の隠れた叡智を私たちに伝える薔薇十字的叡智の源」とされます。 高次の霊的能力、つまり霊視霊聴能力を発達させることなしに高次の世界の 霊的真実を直接見いだすことは誰にもできません。霊的真実の発見には霊視 力という前提が不可欠です。けれども、この前提が不可欠なのは真理の発見 に関してのみです。今日まで、そしてこれからも、通常一般の論理的悟性に よって把握できないものを、真の薔薇十字会が公教的な形で教えることはあ りません。ここが肝心なところです。(中略)霊的知覚能力が問題なのでは ありません。薔薇十字の叡智を思考によって把握できない人は、論理的理解 力を十分に形成していないのです。今日の文化が提供し、人類が今日までに 到達したものを受容し、忍耐と持続力を持って学習を怠らなければ、薔薇十 字の導師の教えることを把握、理解することができます。薔薇十字の叡智に 何らかの疑念を抱き、「自分にはこのようなことは理解できない」というの は、超感覚的世界が洞察できないからではなく、日常生活での経験を通して の論理的理解力の育成が十分になされていないからです。(P18-19) ここで提示されているのは、 物事をちゃんと論理的に理解できるという能力の必要性ということで、 好き嫌いで理解をねじ曲げたり、論理を破綻させたりすることによっては、 薔薇十字的な叡智に近づくことはできないということです。 「嫌いでも理解、好きならもっと理解」ということは、ここに関わるものです(^^)。 ですから、こうした論理的理解力を身につけることなく、 超能力!的なものの獲得をめざすような方向性というのは論外なわけです。 「権威への信頼」についてですが、ここでは、薔薇十字的な師と弟子の関係は、 権威に対する信仰である東洋的なそれとは、 本質的に異なっていることが説明されています。 薔薇十字の師は弟子に対して、あたかも大数学者が生徒に対するのと同じよ うな対し方をしようとします。生徒は教師に、権威への信仰によって依存し ているのではありません。(中略) 教師が数学上の真理を生徒に伝えるとき、生徒は権威への信仰を必要とはし ません。生徒は正確に真理を理解しさえすればいいのです。(P20-21) さきの、論理的理解力の必要性ということは、ここにもあらわれています。 薔薇十字的叡智は、「教祖」を絶対視し拝むようなあり方とはまったく異なります。 「真理」は理解し認識するべきものであり、それを崇拝するものではないのです。 その意味でも、先の「論理的理解力」の有無が、 いわゆる宗教に傾斜するかそうでない叡智を求めるかの違いになってきます。 もちろん、この「論理的理解力」というのは、もっと深い洞察力を含んだもので、 単なる「お勉強ができる」というようなことを 意味しているのではないのはもちろんです。 さて、ふたつめが「霊的叡智の一般的な精神生活に対する関係」ですが、 ここでは、薔薇十字的叡智は単に論理的な体系づけのようなものをつくるのではなく 「現代の知の根底を認識しようとし、霊的真理を日常生活に流入させようとする ときに必要なもの」を提供するものとしてとらえられています。 薔薇十字の叡智は、日々の行為にまで行き渡るものなわけです。 薔薇十字会は人類の友愛のみを目的として創設された、人類の友愛を説くだけ の協会ではありません。薔薇十字会員は次のように語ります。「脚を折った人 が道に倒れているところに通りかかったと想像してみてください。十四人の人 々が骨折した人を囲んで温かい感情と同情を抱いたとしても、その中の一人も 骨折を治療する術を知らなかったなら、この十四人は感情豊かでなくとも骨折 を治療できる一人の人に本質的には劣るのです」−−このような考えが薔薇十 字会員を貫く精神なのです。 霊的認識の日常生活への関与の可能性を、薔薇十字的神智学は提供します。薔 薇十字の叡智にとって、同情心についての話は危険なものでもありうるのです。 同情心を絶えまなく強調するのは、一種のアストラル的歓楽と考えられるから です。アストラル界において、物質界における歓楽に相当するものは、いつま でもただ感じようとし、認識しようとしない傾向です。生活に関与しうる日常 的な認識−−もちろん、唯物論的な意味ではなく、霊界から下ってくる認識− −を通して私たちは実際的な働きができます。世界は進歩すべきであるという 認識からは、おのずから調和が流れ出ます。そして、この調和は認識するとき におのずから生じるだけに、いっそう確実なものになります。同情心は持たず とも骨折を治療しうる人たちについて、「もし彼が人類に友愛を抱く者でない ならば、骨を折って倒れている人を見ても、そのまま通り過ぎてしまうだろう」 といわれるかもしれません。−−このような考え方は、物質界における認識に おいては可能です。けれども、霊的な認識においてはそのような異論は可能で はありません。日常生活に流れ込まないような霊的認識は存在しません。                               (P22-23) この「日常生活に流れ込まないような霊的認識は存在しません」、 ということの関係で重要なのは、「知行合一」という陽明学的な認識様態です。 シュタイナーの神秘学と陽明学的との関係については、 林田明大「「真説・陽明学」入門」(三五館)が昨年でましたが、 そのテーマは、シュタイナーでは「自由の哲学」でも展開されるような 「道徳的ファンタジー」ということに集約されるように思います。 いわゆる、この世では、思考が道徳的なあり方と乖離することは可能ですが、 霊的認識としては、その乖離は不可能になります。 単純にいえば、いわゆる「思い」がそのまま展開する世界、 もっといえば、「思い」が自分の存在そのものになっている世界ですから 「思い」が邪悪であれば、その存在様態も邪悪になってしまうわけです。 ですから、薔薇十字的叡智は、そのまま日常生活に流れ込んできます。 わかりやすくいえば、その叡智が流れ込んでいるということを 日常生活において深く認識できるようになるということもできるでしょうか。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 02727/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●I-3 (13) 95/05/22 15:15 コメント数:3 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会  <I-2/薔薇十字的叡智の特徴その2> --------------------------------------------------------------------------- その特徴と社会的使命についての後半部分と この章全体でのいわんとしていることのについてご説明します。 これに関しては、#2684のジョリーさんへのレスでも 「精神科学の基本的な考え方」としてふれましたので、 できればそれもご参照願えたらと思うのですが、 薔薇十字の叡智はいわゆる「超感覚的な能力」がなくても、 通常の悟性による探求によって理解できるという非常に重要な側面です。 このことは、霊能力だとか超能力だとかうことについてのアンチテーゼとしても 重要な意味をもつものといえます。 ここで大事なのは、ものごとを論理的に考えていく能力などをはじめとした 人間の「魂の力」を綜合していくことなのであって、 幻視だとかチャネリングだとかいう類のものなのではないということです。 このことはいくら強調しても強調しすぎることはないくらいです。 もう一つの特徴は、一見奇妙なことですが、薔薇十字の叡智は霊視能力を通し てのみ見いだされるものでありながら、通常の悟性によって理解できるという ことです。霊界を体験するには霊視状態にある必要があります。けれども、霊 視者が見たものを理解するためには霊視力を必要とはしません。霊視者が霊界 から出てきて、今日の人類に必要な知識をもたらすために霊界で生起している ことを語るとき、一般の人々は理解しようと欲すれば、霊視者の語る言葉を理 解できるのです。人間は霊視者の言葉を理解できるという天性を賦与されてい るのです。 (P23) ここで気をつけなければいけないのは、 「理解しようと欲すれば」ということでうから、それなりの努力は必要になります。 「努力がいらない」とは言っていないわけです。 まずはシュタイナーの提示している世界観を 「仮説」としてとらえ、その仮説が「世界」をどれほど総合的に説明できるか。 そういうことを見ていく必要があると思います。 最初は、現在常識で説明されているそれとはその体系があまりに違うので、 それをどう理解してよいかわからないという方の方が多いと思われますが、 「部分」と「全体」というのは照らし合う関係にありますから、 最初の「部分」の荒唐無稽さに抵抗感を感じながらも^^;、 次第に現れてくる「全体」との関係でそれを見ていくのが 理解のためには適切ではないかと思います。 ある意味でいうと、薔薇十字の叡智はそれを理解しようとする魂の力に応じて その姿を現してくるということもいえるのではないかとぼくは思っていますし、 目的は「知識」を得ることではなく、 「魂の力」を育成するための認識力の養成ということなのですから、 できるだけ射程を長くとって、ともに学んでいければいいなと思います。 さて、最後にこの章の総括として次のように述べられています。 どのように物質界が創造されたかを知らなければ、世界を物質的に認識するこ とはできないということがおわかりになると思います。物質界から隠遁しない というのが薔薇十字会員の任務です。物質界を霊化することが任務なのですか ら、物質界から隠遁するのはよくないのです。薔薇十字会員は霊的生活の最高 の領域にまで上昇し、そこで得た認識をもって物質界、人間界の中で特別な働 きをしなければなりません。これが薔薇十字会の叡智から直接生じる精神です。 (P26) この総括に先立って、人間の本質(構成要素)に関する示唆や それに基づいた物質界の成り立ちについての話がでてきますが、 ここらへんについては、次章以降で詳しくとりあげられていますので、 その部分に譲りたいと思います。 ここでの重要ポイントは、 「物質界」は、それよりも高次の「界」を認識することによってしか 理解できないから、そうした視点がどうしても必要になるということと、 特にこれが重要なのですが、「物質界を霊化することが任務」ということです。 西洋の歴史は、現在優勢になっているような唯物論に至る歴史でもあり、 それは外的世界の認識という意味では、必要なことでもありました。 しかし、その唯物論的世界観は、物質界を成立させている「秘密」から 目をそらした結果生まれている世界観です。 ですから、その「秘密」を深く認識していくことを通じて、 「物質界を霊化」していかなければならない時期にきています。 昨今、世を騒がせているオウムやそれを擁護していた幾人かの学者たちが 陥っていたと思われるのは、現在の課題は「物質界の霊化」であるにもかかわらず その逆に「霊的世界の物質化」とでもいうあり方を推進するような そんな逆転した衝動があったように思われることです。 それが「コミューン化」という反社会的な形式を通じて、 日常生活に流れ込んでくるべき霊的認識を閉ざし、 特定の修行者だけのための超能力獲得やそれにかわるあり方の選択になります。 それは時代の流れに逆行したものだと、薔薇十字的視点からはいえるでしょう。 そういう意味で、「物質界の霊化」とは、社会に積極的に参加することであり その参加の際に、魂の科学とでもいうべき精神科学の衝動によって 「物質界」を内側から「解放」するべく霊的認識を注ぎ込むことです。 少しわかりにくい表現になったかもしれませんが、 この最初の「叡智の新しい型」という章では、 精神科学(霊学)がもっている意義とでもいうべきものについての 基本的な視点が提示されているといえるように思います。 (第1章「叡智の新しい型」の紹介終了) ☆☆☆KAZE☆☆☆ >2759 02759/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●II-1 (13) 95/05/25 17:18 コメント数:2 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会  <II-1/人間の本質1> --------------------------------------------------------------------------- この章では、人間の構成要素に関して基本的な概観がなされていますが、 まずシュタイナーは、「世界の真の形姿」についての説明をしています。 この「薔薇十字会の神智学」の一連の講義は、 ある程度神秘学を理解していることを前提に語られているようですので、 いきなり専門的な用語がでてきて面食らってしまうかもしれませんが、 その個々の用語にあまりとらわれないで、 この講義が何をいわんとしてるのかについて、 その骨子の部分をご理解いただくようにしたほうがいいかと思います。 では、早速、この章で説明されている内容に入ります。 唯物論的世界観では、世界はすべて物質のみから構成されているとされますが、 シュタイナーは、人間は、<物質界><魂界><霊界>という三つの世界に 関わっているというのです。 唯物論的世界観というのは「物質」だけの一元論です。 また、通常、デカルト的二元論というのは「心と体」というように分けられます。 キリスト教なども基本的に「体」と「魂」の二元論になっていますが、 これは最初からそうなのではなくて、ニケアの公会議で そういうふうに「公教」として定められてしまったのでした。 この二元論化の故に、西洋は現在のような物質文明への傾斜するための 「種」が用意されたということもできるでしょう。 この「三つの世界」という「三」というのは非常に重要な点で、 社会論においても「社会有機体三分節」がその考え方の核になっていますし 人体を教育的、医学的にみていくに際しても「三分節」です。 物質界を霊化していくという神秘学の役割というのは、「二」から「三」へ、 というふうに世界の原理を移行させるということでもあります。 ですから、シュタイナーは「三」ということを重視しているということを (テキストとは少し異なりますが)ご記憶いただければと思います。 テキストの中では、 ●物質界 ●アストラル界(魂界/元素界/イマジネーション界) ●インスピレーション界(低次の神(デーヴァ)界/形態界/色(ルーパ)界/天界) ●イントゥイション界(高次の神界/霊界/没形態神界/理性界) というように説明されていますが、 このなかの「低次の神界(インスピレーション界)」と 「高次の神界(イントゥイション界)」が「霊界」にあたります。 ちなみに、そのうちに、修行論関係のなかで、いくつかの高次の認識について ふれることもあるかと思いますが、そのなかにでてくる イマジネーション認識、インスピレーション認識、イントゥイション認識というのは それぞれアストラル界、低次の神界、高次の神界における 認識だということができます。 もちろん、この物質界における認識は五感を通じた物質的な認識です。 ちなみに、テキストの31ページには訳者の西川隆範さんの作成した 「シュタイナーの宇宙論1−空間」という図がありますが、 この図は、テキストの内容と異なっている部分がありますし、 ぼくの知る限りにおいて、シュタイナーの説明とは異なっている部分が あるようですので、無視するようにしてください^^;。 また、43ページの訳注の最後の記述も誤解されかねないので これについても無視してください。 さて、<魂界>及び<霊界>に関しては、 主に、第三章の「元素界と天界・目覚めと眠りと死」で説明されますので、 ここではそれについては第三章以降に譲り、この章の理解のために必要な、 「霊・魂・体」という三つの世界などについてご理解いただくために、 人間の本質に関して最も基本となるものを詳細に扱った「神智学」という基本書から テキストの補足説明として引用紹介しておこうと思います。  体を通して、人間は一時的に自分を事物と結びつけることができる。魂を 通して、人間は事物が与える印象を自分の中に保持する。そして霊を通して、 事物自身がみずから保持しているものが彼に啓示される。人間をこの三つの 側面から考察するとき、はじめて人間の本性の解明が期待できるようになる。 なぜならこの三つの側面は人間が三重の異なる仕方で世界と同質の存在であ ることを示しているからである。  体としての人間は、感覚に対して外から自己を現わすところの事物と同質 である。外界の素材がこの人間の体を構成している。外界の諸力がその中に も働いている。そして人間は、外界の事物を感覚によって観察するのと同じ 仕方で魂の存在を考察することはできない。私の体的事象のすべては身体的 諸感覚によっても知覚できる。私が好んでいるか、嫌っているかということ、 私の喜びと苦しみは、私も他人も身体的感覚によっては知覚できない。魂の 世界は体的な見方にとって手の届かぬ領域である。人間の体的存在は万人の 眼に明らかである。魂の存在は自分の世界として、人間自身の内部で担われ ている。しかし霊によって、外界は高次の仕方で人間に示される。外界の秘 密が明かされるのは人間の内部においてであるが、しかし人間は霊的存在と して自分の外へ出ていき、そして事物に事物自身のことを語らせるのである。 彼にとって意味のあることではなく、事物自身にとって意味のあることを。 人間は星空を見上げる。魂が受ける感動はその人間のものだ。しかし彼が思 想として霊において把握する星々の永遠の諸法則は、彼にではなく、星々自 身に属する。  かくして人間は三つの世界の市民である。その体を通して彼は身体が知覚 するところの世界に属し、その魂を通して、彼自身の世界を構築し、その霊 を通して、この両者の及ばぬ世界が彼に啓示される。 (シュタイナー「神智学」(高橋厳訳/イザラ書房)P33-34) この「神智学」というシュタイナーの基本書は、 この第2章の「人間の本質」から第五章の「死後の生命・物質界への再受肉」 までの内容をトータルに概説したものですし、 シュタイナーの著述したもののなかでは比較的読みやすいものだと思いますので 機会がありましたら、そのうちに一度は目を通されると、 より理解も深まるのではないかと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ >2779 02779/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●II-2 (13) 95/05/29 01:35 コメント数:1 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会  <II-2/人間の本質2> --------------------------------------------------------------------------- 前回は、「物質界」「魂界」「霊界」としての世界、 そして「霊・魂・体」としての人間について、 簡単にその概観をご紹介させていただきましたが、 ここでは、「霊・魂・体」としての人間の基本的な構成要素について、 さらに深く見ていくことにします。 この章では、最終的に人間の九つないし七つの構成要素について 説明がなされているのですが、これには今後の人間が進化していくなかで 形成されている構成要素をもふくんだ説明ですので、 その部分に関しては次のアーティクルに譲り、 ここでは、人間ならだれでも有している四つの構成要素に関してご説明します。 その四つの構成要素というのは以下のものです。 1)肉体 2)エーテル体(生命体) 3)アストラル体 4)自我 では、そのひとつひとつをとりあげていくことにします。 1)肉体 人間は、鉱物界といわれる物質の世界と共有している構成要素として 「肉体」をもっています。 この部分は、植物や動物ももちろん有しています。 この鉱物界の要素というのは、単なる物質であって意識がないと思われがちですが それはこの物質界において意識がないだけであって、 高次の世界に上昇するとそれが見いだされるといいます。 高次の世界へ昇っていくと、鉱物はもはや意識を持たないものではありま せん。もちろん、元素界に歩み行っても鉱物界の自我は見いだされません。 鉱物の自我は高次の世界に見いだされるのです。指は意識を持っていませ ん。意識するためには指から自我へと移行しなければなりません。鉱物の 意識を見出すには、宇宙存在の最も高次の領域へと上昇していく流れを通 して自我へと至る必要があります。(中略) 人間の肉体は鉱物と同じく、その意識を彼方の霊界に有しています。物質 的意識を賦与あれ、高次の霊界に意識を有する肉体を持つことによって、 人間は肉体において上方からの働きかけを受けているのです。肉体を形成 するものは肉体の中には存在しません。私たちが手を動かすとき、高次の 世界に存在する肉体の自我意識が、肉体の物質的過程を引き起こしている のです。(P33) ちなみに、鉱物のアストラル体は、低次の神界(インスピレーション界)にあり、 そのエーテル体は、アストラル界にあります。 2)エーテル体(生命体) このエーテル体を、人間は植物、動物と同じく構成要素として この物質界において有していますが、鉱物はこれを有していません。 つまり、いわゆる「生きている」という要因としての構成要素が このエーテル体なのです。 ですから、植物も、動物も、人間も、このエーテル体が物質体から離れると、 死んでしまうことになります。 このエーテル体は、習慣、記憶、気質の担い手であって、 体的には「腺組織」として表われています。 また、このエーテル体には太陽の性格が刻印されています。 エーテル体はほぼ肉体と同じ形姿のものとして霊眼に映じます。エーテル 体は力体です。肉体を消去すると、エーテル体は肉体を構築する力の線に 貫かれた力体として残ります。肉体に浸透するエーテル体の中に一つの心 臓がなければ、心臓が現にあるような形のものとして形成されることはな かったでしょう。エーテル心臓はある力と流れを有し、肉体の心臓の建築 者、形成者なのです。(中略) エーテル体は肉体に対して大きな相違点を有しています。つまり、男性の エーテル体は女性的であり、女性のエーテル体は男性的なのです。(中略) 肉体の場合のように、エーテル体を成り立たせている諸力は、インスピレ ーション界(形態界、天界)の中に見出されます。エーテル体を成立させ ている諸力は、肉体を成立させている諸力よりも一段下方に存在していま す。植物の自我意識はこのインスピレーション界(低次の神界)にあり、 植物界の自我意識が存在するこの天球の階調の世界に、エーテル体を貫き、 私たちの中に生きるエーテル体の自我意識があると考える必要があります。                             (p34-35) ちなみに、植物はその物質体とエーテル体をこの物質界に有しており、 そのアストラル体は、アストラル界にあります。 男性のエーテル体は女性であり、女性のエーテル体は男性であるということに 関しては、諏訪みのるさんへのレス#2736「男性と女性」をご参照ください。 アストラル体以上にはいわゆる性別はありませんので、 この性別ということに関しては、物質体及びエーテル体においてのみ 問題になります。 3)アストラル体 このアストラル体を、人間は動物と同じく構成要素として この物質界において有していますが、鉱物、植物はこれを有していません。 このアストラル体は、快・不快、喜び・苦しみ・悲しみ、怒り、激情といった 感情や感覚の担い手で、欲望などの根っこもここにあります。 アストラル体は、体的には「神経組織」に表われています。 また、このアストラル体には月の性格が刻印されています。 人間と動物のアストラル実体はアストラル界(イマジネーション界、薔薇 十字ふうにいえば元素界)に存在する諸力によって成り立っており、アス トラル体を成立させ、アストラル体に形姿を与えている諸力の真の姿はア ストラル界において知ることができるのです。ですから、動物の自我意識 はアストラル界にあるのです。人間の場合は個々の魂が問題になりますが、 動物の場合には集団の魂が問題になります。この集団の魂はアストラル界 に見出されます。動物界に生きている個々の動物ではなく、ライオンや虎 という属が集団の魂という一つの共有の自我をアストラル界に持っている のです。物質界において動物として生きているものの本質は、アストラル 界まで辿っていったときにのみ理解できます。(P35-36) ちなみに、動物はその物質体、エーテル体、このアストラル体を この物質界に有しており、 その自我は、上記の引用のようにアストラル界にあります。 この「集団の魂」というのは、通常、「集合魂」と訳されたりします。 その集合魂を、動物はアストラル界に有しており、 植物は低次の神界に有しており、鉱物は高次の神界に有しているわけです。 4)自我 「私」は「私」についてしか「私」ということができません。 そういう意味での自我は、鉱物にも植物にも、また動物にもありません。 もちろんここでいう自我というのは、わがまま、エゴという意味ではなく、 真の「私、高次の「私」であって、 ヤハウェが「ありてあるものである」と呼んだ「私」のことです。 鉱物の意識が没形態神界に、植物の意識が形態神界に、動物の意識がアス トラル界に存在するように、人間の自我意識は人間の第四の構成要素とし て物質界に存在しています。(P37) 動物がアストラル界において集合自我を有しているように、 この「自我」を人間はこの物質界において「個」として有しています。 そういう意味でも、人間は自由と責任を有した存在なのです。 以上、簡単に人間の構成要素である、肉体、エーテル体、アストラル体、自我 についてご説明してきましたが、次の<II-3>では、 人間がこれから進化の途上において有していくことになる構成要素である <霊我><生命霊><霊人>についてご説明することにします。 また、これらの高次の要素は、人間よりも高次の存在である 天使、大天使、権天使、能天使、力天使という存在の基本的構成要素でもあります。 テキストにはありませんが、<II-3>では、そこらへんのことに関しても その概略をご説明していきたいと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ >2788 02788/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●II-3 (13) 95/05/30 17:00 コメント数:1 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会  <II-3/人間の本質3> --------------------------------------------------------------------------- 前節で、人間は、<肉体><エーテル体><アストラル体><自我>という 四つの構成要素から成っているというご説明をしましたが、 人間はさらに新しい構成要素を形成していきながら、進化していくといいます。 つまり、<自我>が、<肉体><エーテル体><アストラル体>に働きかけ、 それを変化させることで新しい構成要素を形成するというのです。 <自我>が<アストラル体>に働きかけると<霊我(マナス)>に変容し、 <自我>が<エーテル体>に働きかけると<生命霊(ブッディ)>に変容し、 <自我>が<肉体>に働きかけると<霊人(アートマ)>に変容します。 この<霊我(マナス)><生命霊(ブッディ)><霊人(アートマ)>について テキストから簡単にご紹介することにしたいと思います。 まず、<霊我(マナス)>について。 人間は自らのアストラル体に働きかけることによって、一歩前進します。ア ストラル体の本来の性質が内面から支配あれるようになるという形で、この 働きかけは行なわれます。(中略)アストラル体の中に本来的に生きるもの を自我の支配下におくと、それが霊我です。(P38) この自我がアストラル体に働きかけるというのをわかりやすくいえば、 感情をコントロールするということです。 すぐに怒ったり、悲しんだり、というような感情に溺れた状態を 自我によって統御していくことが必要だということです。 それを仏教的な方法論でいえば、「反省行」ということになります。 八正道というのがありますが、これは自我がアストラル体に 正しく働きかけていくための方法論の集大成という位置づけも可能だと思います。 続いて、<生命霊(ブッディ)>について。 さらに進化すると、人間はアストラル体だけでなく、自我によってエーテル 体にも働きかける能力を獲得します。(中略)悪き記憶力を良い記憶力に、 短気を柔和に、憂鬱質を沈着さに変化させることは、多くのことを学ぶより も多大の効果があります。このような変化の中に内面の隠れた力の源泉があ るのです。このような変化が、自我が単にアストラル体だけでなく、エーテ ル体に働きかけられた徴です。               (P38-39) さらに、<霊人(アートマ)>について。 肉体は人間の本質の中で最も凝固した部分であり、肉体を構成している諸力 は最も高次の世界から発しています。自我がエーテル体のみならず、肉体を も変化させられるほどに強いものになると、人間は自らの内に、現在におい ては人間本性の最も高次の要素であるアートマ、本来の霊人を作りだすこと になります。肉体を変化させる諸力は最も高次の世界に存在します。呼吸の 過程を変化させることによって、肉体も変化しはじめます。アートマアート マという言葉は呼吸を意味しています。呼吸過程の変化によって血液の性質 が変わります。血液は肉体に働きかけ、このことを通して、人間は最も高次 の世界にまで上昇していきます。              (P39-40) ここで、重要な指摘があります。 今日の進化段階では、意識的に変化させられるのはアストラル体だけです。                                (P40) 現代における肉体行としてのヨーガやそれを応用した行が危険なのは、 途中の進化段階をすっとばして、いきなり性格改造をしようとしたり、 肉体そのものの改造を試みようとするところにあります。 その典型的な例が、最近注目を浴びましたよね^^;。 ですから、豊かな感情を育成しながら、しかも、日々、それををコントロールし しっかり意識的に生きていくというのが、現代人の最優先課題なのです。 さて、人間を<霊><魂><体>という三分節でとらえると、 人間の<体>は、<肉体><エーテル体><アストラル体>の三つであり、 <霊>は、上記のような<霊我><生命霊><霊人>の三つです。 では、<魂>はどうなのでしょうか。 それが、<感覚魂><悟性魂><意識魂>と呼ばれる三つなのです。 この三つの魂について、「神智学」(イザラ書房)からご紹介します。 まず、<感覚魂>について。 知覚を現実に体験させる働きは、本質的に、生命形成力の作用から区別され る。その働きは内的体験をこのような生命形成力の作用の中から取り出して くる。もしこの働きがなかったとすれば、植物に見られるような、単なる生 命過程だけしか存在しないだろう。あらゆる側から印象を受けとる人間のこ とを考えてみよう。その人はそこから印象を受けとるところのあらゆる方向 で印象の産みだし手となっている。あらゆる方向で感覚が印象に答えている。 この働きの源泉は、感覚魂と呼ばれる。(中略) 感覚魂の働きにおいて、人間は動物と同類である。動物の場合にも、感覚、 衝動、本能、情欲の存在が認められる。しかし動物はこれらに直接従ってお り、これらを独立した、直接的体験を超えた思考内容と結びつけはしない。                              (P47-51) 続いて、<悟性魂>について。 思考能力をもった、より高次の魂は悟性魂と名づけられる。この魂の別の側 面は心情魂もしくは心情とも呼びうるだろう。 悟性魂は感覚魂に浸透している。               (P51) それから、<意識魂>について。 魂の中で永遠の存在として輝くものは、(中略)意識魂と名づけられる。 低次の魂のいとなみの場合にも、意識について語ることができる。どんな日 常的な感覚も意識に属しているし、動物にも意識があるといえる。ここで意 識魂と呼ぶのは、人間意識の核心、つまり魂の中の魂のことである。(中略) 悟性魂はなお感覚、衝動、激情等の中に巻き込まれている。人は誰でも、は じめは自分の感覚や衝動の中から取り出してきたものを、真実だと思おうと する。しかし感覚等々に含まれた共感、反感の添え味をすべて取り去った真 理だけが永続的真理なのである。真理はたとえすべての個人的感情が反抗す るときにも、真理である。この真理が生きている魂の部分を意識魂と呼ぶの である。                          (P54) 以上、<霊><魂><体>それぞれ三つの構成要素があると見れば、 人間は可能性として次の9つの構成要素から成るといえます。 1)肉体 2)エーテル体 3)アストラル体 4)感覚魂 5)悟性魂 6)意識魂 7)霊我(変化したアストラル体) 8)生命霊(変化したエーテル体) 9)霊人(変化した肉体) しかし、実際は、感覚魂とアストラル体は重なっていますし、 意識魂と霊我は重なっていますので、 人間の構成要素は次の7つであるということもできます。 1)肉体 2)エーテル体 3)アストラル体/感覚魂 4)悟性魂 5)霊我/意識魂 6)生命霊 7)霊人 この7つの構成要素は、テキストの部分とは4)のところが異なっていますが、 ここでは「神智学」での記述を採用してみました。 7つの構成要素としての記述でも9つの構成要素としての記述でも あえて「自我」の部分が入っていません。 というのは、「自我」はまさにすべての構成要素の中核にあるからです。 そのことを理解しやすくするために、その「自我>について 「神智学」より、その位置づけ、意味づけを確認しておきたいと思います。 人間は自我意識を通して、自分を他の一切から区別された独自の存在であ り、「私」であると考える。人間は体と魂の存在として体験するすべてを 「私」の中で総括する。体と魂とは私の担い手であり、体と魂の中で「私」 は働く。肉体の中心が脳にあるように、魂の中心は「私」にある。(中略) 「私」は本当に「人間の隠れた至聖なる部分」に存在しているのである。 (中略) 人間は体と魂の諸体験を「私」において総括し、真と善との思考内容を「私」 の中へ流入させる。一方から感覚の諸現象が、他方からは霊が、「私」に 自己を打ち明ける。体と魂は「私」に奉仕し、「私」に自分を委ねるが、 「私」は自分の目的を霊が実現してくれるように霊に自分を委ねる。「私」 は体と魂の中に生き、霊は「私」の中に生きる。そして自我の中のこの霊 こそが、永遠なのである。それによって自我は自分と結びついているもの の本質と意味とを知る。自我は肉体の中に生きている限り鉱物の法則に、 エーテル体を通して生殖と成長の法則に、感覚魂、悟性魂によって魂界の 法則に従っている。そして霊的存在を自分の中に受け入れることによって 霊の法則に従う。鉱物の法則、生命の法則が形成するものは、生成し死滅 する。しかし霊は生成と滅亡には係わらない。        (P56-58) ということで、<自我>を人間の構成要素の中核においた区分では、 次のように表現することができます。 1)肉体 2)エーテル体 3)アストラル体 4)自我 5)霊我 6)生命霊 7)霊人 さて、以上、人間の構成要素についてご説明しましたが、 概略、ご理解いただけましたでしょうか。 その理解をさらに広いものにするために、次回では、「番外編」として、 「高次の霊的ヒエラルキー」及び「四大霊」に関して、 今回の「構成要素」の観点から少し見てみようと思います。 特に、この「四大霊」に関しては、まだほとんど邦訳のない部分ですし、 とてもファンタジックなところの多い部分ですので、少しだけご期待くださいね。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ >2812 02812/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●II-4 (13) 95/06/03 09:12 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 <II-4/番外編1●高次存在> --------------------------------------------------------------------------- この節では、前節までの内容から少し話を展開させてみることにします。 しかし残念ながら、この内容に関しては、テキストにはでてきませんので、 探してもありません^^;。 それから、ここらへんのことはかなりわかりにくいと思いますので、 ふ〜ん、そんなもんかぁ、って感じで受け取ってくださってけっこうです。 さて、人間の現在の構成要素は、 <肉体><エーテル体><アストラル体><自我>の四つでしたね。 そしてこの物質界は、人間の他に、鉱物、植物、動物といった 三種類の存在があるといいました。 では、人間より高次の存在たちとは、どういう存在なのでしょうか。 また、よく童話などででてくる妖精などの存在は、どうなのでしょうか。 ここではそれについて、主に構成要素の観点から見ていくことにします。 まず、この節では人間より高次の存在たちについて。 シュタイナーは、高次の霊的存在には、 9つのヒエラルキア(階層)があるといいます。 これを越えたヒエラルキアについては語っていないようなので分かりません。 おそらくこれを越えた存在もあるのだろうとは想定できますが、 それについては情報がないので残念ながらご説明できません。 シュタイナーは高次の霊的諸存在を三つのヒエラルキアで説明し、 それぞれのヒエラルキアには三つの霊的存在の階層があるといいます。 人間に近い方から順に挙げてみることにしましょう。 <第三ヒエラルキア> ●天使/アンゲロイ/生命の子/薄明の子/個人の守護霊 ●大天使/アルヒアンゲロイ/火の霊/民族霊 ●権天使/アルヒャイ/人格の霊/時の霊/時代霊 <第二ヒエラルキア> ●能天使/エクスシアイ/形態の霊 ●力天使/デュナメイス/動きの霊 ●主天使/キュリオテテス/叡智の霊 <第一ヒエラルキア> ●座天使/トローネ/意志の霊 ●智天使/ケルビーム/調和の霊 ●熾天使/セラフィム/愛の霊 これらの存在を構成要素の観点から見てみると、 人間より一つだけ高いヒエラルキーにあるのが<天使/アンゲロイ>で、 この存在は、<エーテル体>を最も低次の構成要素として持ち、 その他に<アストラル体><自我><霊我>をもっています。 人間が進化していくなかで、<霊我><生命霊><霊人>という構成要素を 獲得していくというご説明をしましたが、 この<天使/アンゲロイ>は、その<霊我>をもっているのです。 もちろん、この存在は<肉体>を有してはいません。 この<天使/アンゲロイ>は、個人の守護霊として働き、 その転生を見守り、進化の手助けをしている存在です。 また、<大天使/アルヒアンゲロイ>になりますと、 個人を越えた民族の指導をする<民族霊>としての働きをしています。 ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルなどがそうです。 それから<権天使/アルヒャイ>は<時代霊>といわれるように 時代の流れを導く存在です。 で、ヒエラルキーが上がるごとに、四つの構成要素のランクが上がっていきます。 それを以下に整理してみましょう。 ちなみに、<霊人+α>というのは、<霊人>よりも高次の構成要素という意味で これについては、理解の便宜のために想定されるあり方を ぼくなりに表現したものです。 <第三ヒエラルキア> ●天使/アンゲロイ <エーテル体/アストラル体/自我/霊我> ●大天使/アルヒアンゲロイ <アストラル体/自我/霊我/生命霊> ●権天使/アルヒャイ <自我/霊我/生命霊/霊人> <第二ヒエラルキア> ●能天使/エクスシアイ <霊我/生命霊/霊人/霊人+1> ●力天使/デュナメイス <生命霊/霊人/霊人+1/霊人+2> ●主天使/キュリオテテス/叡智の霊 <霊人/霊人+1/霊人+2/霊人+3> <第一ヒエラルキア> ●座天使/トローネ/意志の霊 <霊人+1/霊人+2/霊人+3/霊人+4> ●智天使/ケルビーム/調和の霊 <霊人+2/霊人+3/霊人+4/霊人+5> ●熾天使/セラフィム/愛の霊 <霊人+3/霊人+4/霊人+5/霊人+6> こうした高次存在は、宇宙進化のプロセスを見ていく上でも、 また人間の思考・感情・意志や また霊的、魂的、物質的なものを見ていく上でも、非常に重要です。 宇宙進化に関しては、第九章以降で扱いますので、 そのときにお話することにして、ここでは、高次存在の三つのヒエラルキアの 人間の思考・感情・意志や霊的、魂的、物質的なものへの影響について ルドルフ・シュタイナー「人智学指導原則」(水声社)からご紹介します。 まずは、人間の思考・感情・意志との関係について。 66 第三ヒエラルキアの諸存在は、人間の思考のなかで霊の背景として 展開する生命のなかで、みずからを開示する。この生命は人間の思考活動 のなかに隠れている。第三ヒエラルキアの諸存在が人間の思考活動のなか で固有の存在として作用し続けたなら、認識は自由を獲得することができ なかったであろう。宇宙の思考活動が停止するところから、人間の思考活 動が始まる。 67 第二ヒエラルキアの諸存在は、人間の感情に宇宙的−魂的事象とし て隠されている、人間外の個的なもののなかでみずからを開示する。この 宇宙的−魂的なものは、人間の感情の背景で創造する。宇宙的−魂的なも のは、感情有機体のなかに感情が生きるまえに、人間的−本質的なものを 感情有機体へと形成する。 68 第一ヒエラルキアの諸存在は、人間の意志に宇宙的−霊的存在とし て内在する、人間外の霊的創造のなかで自己を開示する。人間が意志する ことによって、この宇宙的−霊的なものはみずからを、創造するものとし て体験する。この宇宙的−霊的なものは、人間がみずからの意志有機体を とおして自由に意志する存在となるまえに、人間的−本質的なものと人間 外の世界との関連を形成する。 続いて、霊的、魂的、物質的なものへの作用について。 69 第三ヒエラルキアは純粋に霊的−魂的なものとしてみずからを開示 する。第三ヒエラルキアは、人間が魂的な仕方でまったく内的に体験する もののなかに活動する。ただ、このヒエラルキアが作用するとき、エーテ ル的なもののなかにも、物質的なもののなかにも、何の過程も生じえない であろう。魂的なもののみが存在しうるであろう。 70 第二ヒエラルキアは、エーテル的なもののなかに働く霊的−魂的な ものとしてみずからを開示する。エーテル的なものは、すべて第二ヒエラ ルキアの啓示である。しかし第二ヒエラルキアは、物質的なもののなかに 直接みずからを開示しはしない。第二ヒエラルキアの力はエーテル的諸事 象にまでしか達しない。第三ヒエラルキアと第二ヒエラルキアのみが働く とき、ただ魂的なものとエーテル的なものだけが発生するであろう。 71 最強の第一ヒエラルキアは、物質的なもののなかに霊的に作用する ものとして、みずからを開示する。第一ヒエラルキアは物質界を宇宙へと 形成する。その際、第三ヒエラルキアと第二ヒエラルキアは、第一ヒエラ ルキアに仕える存在である。 高次のヒエラルキアにある存在ほど霊的なことだけに関係していて、 物質的なものには直接はたらきかけないかのようにイメージされがちなのですが、 ここでご説明してありますように、 最も高次のヒエラルキアである第一ヒエラルキアは 物質的なものに働きかける存在でもあります。 むしろ、第二、第三ヒエラルキアは物質的なものに働きかけることができません。 これは後の章で宇宙進化の問題をとりあげる際にもお話しますが、 物質という構成要素は、人間の構成要素の中で もっとも古くから形成されてきた要素で、もっとも完成されています。 それに対して、もっとも新しくかつ不完全なのが自我なのです。 また、前の節でも、物質の自我は非常に高次の世界にあるとご説明したように 物質という現われは、自我やアストラル体などのあり方に比べ、 むしろ非常に高次の働きかけがなされているわけです。 こうしたことから類推できると思いますが、 物質的な現象という意味での森羅万象の形成や 自然現象や天変地異などのようなあり方には 第一ヒエラルキアが関わっていそうだということがいえます。 このように、思考、感情、意志においても、魂、生命、物質においても、 意志や物質というのは最も高次の現われとしてとらえることができます。 ☆☆KAZE☆☆☆ >2813 02813/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●II-5 (13) 95/06/03 09:13 コメント数:1 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会  <II-5/番外編2●四大霊> --------------------------------------------------------------------------- では、引き続いて「四大霊」について。 四大霊という四大とは地水火風で、自然霊(エレメンタル・ガイスト)、 またはファンタジックな表現では、妖精と呼ばれている存在です。 この四大霊はほとんど物質界に重なって存在しているエーテル界、 またはエレメンタル界と呼ばれる世界で活動しています。 古代の人々にとって、こうした自然霊というのは非常に身近な存在でした。 実際に見えていたといいますから、自明の存在だったのです。 ま、早い話がトトロのような存在なわけですが、 現在ではその存在に直接ふれているのは、 いわゆるあまり文明化されていない民族などにかぎられるようになりました。 トトロなどが子供だけにしか見えないというのもそういうことなのでしょう。 文化人類学者などのルポなどでさまざまにとりあげられてはいますが、 そうした存在から切り離されているわれわれには なかなか理解しがたいものになってきているかもしれません。 さて、四大霊について具体的にご説明することにしましょう。 四大霊とは次の四つです。 ●火の精/サラマンダー ●風の精/ジルフィー ●水の精/ウンディーネ ●地の精/グノーム まず、これらの存在を構成要素という観点から見てみましょう。 ●火の精/サラマンダー <不完全な自我/アストラル体/エーテル体/物質体> ●風の精/ジルフィー <アストラル体/エーテル体/物質体/物質体−1> ●水の精/ウンディーネ <エーテル体/物質体/物質体−1/物質体−2> ●地の精/グノーム <物質体/物質体−1/物質体−2/物質体−3> ヒエラルキーが下がるごとに、四つの構成要素のランクが下がっていきます。 ちなみに、<物質体−α>というのは、 <物質体>よりも低次の構成要素という意味で これについては、理解の便宜のために想定されるあり方を ぼくなりに表現したものです。 では、それぞれの存在について簡単にご説明しましょう。 まず、<火の精/サラマンダー>について。 <火の精>は、人間界と動物界の境界に現われます。 <火の精>は、人間と動物の間に生まれる感情を養分にしているからです。 羊飼と羊、騎手と馬、そんな間に存在しています。 この<火の精>は、非常に賢い存在で、自然の知恵も豊かなので 羊飼いにそっと知恵を授ける・・・なんていうこともあるのだそうです(^^)。 また、この存在は、植物の授精にも力を貸しているといいます。 ちなみに、植物の生長には、四大霊すべてが関わっています。 それについて簡単にご説明しますと、 <火の精>は花粉にのせて宇宙の熱エーテルを雌しべに運びます。 その熱エーテルを使って、<地の精>が地中で植物に活力を与えます。 <地の精>が生きている生命エーテルを根に与えるのです。 植物は、<地の精>がもっている大地に対する反感、嫌悪感から、 地上にその芽を伸ばしていくことになります。 さらに、<水の精>の出番になります。 <水の精>は、化学エーテルで葉や枝を成長させていきます。 そして、<風の精>が光エーテルを使って植物の原型つくっていきます。 なかなかファンタジックで面白いでしょう(^^)。 さて、<火の精>の大部分は、アストラル界にいる動物の集合魂が 分霊することによって生まれます。 死後、動物の魂のなかで、集合魂に戻れなくなってしまうものがあるのですが それが<火の精>になっていくのだといいます。 ちなみに、集合魂はどのようにしてできたのかというと、 能天使、力天使、主天使という高次存在が分霊して生まれたのだそうです。 続いて、<風の精/ジルフィー>について。 <風の精>は、太古の昔、天使から分霊して生まれたといいます。 <風の精>は、動物界と植物界の境界に現われます。 たとえば、蜂と花が接触するような場合です。 蜂と花の共生関係というのは<風の精>の働きでできたのです。 <風の精>は、人間の<意志>に似たものを発達させた存在で、 風と光の要素のなかに生きています。 ツバメが軒先をかすめたり、カモメが海上を渡るときなど、 その羽音の空気の流れを妙なる調べとして聞き取り、 その空気の振動の、風と光の要素に入り込んでそこを住処とするのです。 <風の精>は、鳥達と非常に相性がよくて、 鳥達はこの<風の精>に歌い方を教わるのだといいます。 <風の精>は、外界に自分の自我を見つけだします。 空に鳥が飛ぶときには自分と出会ったように感じ、 鳥がいない空にいるときには自分がいない寂しさを感じます。 こうして<風の精>は、宇宙に内在する愛の意志を運んでいるのだそうです。 <風の精>の使命は、植物に光を運ぶことです。 愛の思いにのせて光を運ぶのです。 それから、<水の精/ウンディーネ>について。 <水の精>は、大天使から分霊して生まれました。 岩と植物が接していて、そこにさらに水があるような場所に現われます。 <水の精>は、水の要素の中に生きていますが、水の表面にいることを好みます。 植物の生長に手を貸すというのもその大きな仕事です。 <水の精>は、いつも夢想しているような存在で、 そうした夢想のエーテル的素材がその姿をつくっているといいますが、 植物は、水の精が織りなす夢想の中へと枝葉を伸ばしていくのだそうです。 また、<水の精>は、人間の感受性をさらに繊細にし敏感にしたような 性質を持っています。 人間が赤い薔薇をみてきれいだと感じたり、 木立がざわめいているのに心騒がすようなとき、 樹液の中に入り込んで、その「赤」を実際に体験したり、 木立の枝の中で風のそよぎを感じたりしているといいます。 最後に<地の精/グノーム>について。 <地の精>は、権天使が分霊して生まれました。 鉱物、金属とふつうの岩石が接しているところに現われます。 たとえば、鉱山の地底などにいるのです。 ですから、鉱夫は地の精に会いやすいといえます。 <地の精>の高次の構成要素のは物質体もありますから、 目に見えるようにも思いますが、物質界以下の力の作用で不可視になっています。 <地の精>はある意味では人間より知能がすぐれていて、 非常な直観的理解力をもっているということで、 人間の理解力を不完全だとして見下しているといいます。 また、<地の精>には自我がありませんから、倫理観などはありません。 しかし最高度の機知をもっているので、 人間はこの存在によくからかわれるといいます。 また、これはちょっと意外なのですが、 <地の精>は、地上的なものを憎んでいます。 大地は地の精を常に両生類の姿に変える危険にさらしているからだといいます。 ですから、大地に慣れるということを非常に嫌い、超地上的な理念に没頭します。 <地の精>は、本来、大宇宙の理念の担い手でもあるからです。 続き (改行で表示 E:終了) > さて、簡単に四大霊についてご説明してきましたが、 ま、ここらへんは「番外編」ですから、 ファンタジックに想像の翼を自由に羽ばたかせてみてはいかがでしょうか。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 番号 (改行で次頁) >2815 02815/02985 GGD03030 《 隆 》 新無責任時代 (13) 95/06/03 10:57 02795へのコメント コメント数:1  KAZEさん、こんにちは。    >菜食云々ということが問題なのではなく、  >そうした姿勢で、食べ物になってくださった存在に対して  >感謝できるということが問題なわけです。  そうそう。そしてそうした感謝する気持ちは、食べることの意味を考えさせてくれ  るきっかけになり、ひいては現状の食の歪みを思い知らせてくれるタネになると思  います。逆に、センセーショナルな「菜食!」なんていう極論は、むしろマイナス  にしかならないのでしょうね。例えば、これから起こるであろう食糧不足の問題も、  大きな原因として肉食があると考えられますが、だからといって肉食を否定する必  要はないわけです。問題は量なのですから、摂取量(または回数)を控えれば問題  は緩和されるはずです(もちろん、農業そのもの改良もありますし)。世の中は、  「肉食」と「菜食」で対立するような方向に進みがちですが、そういう白黒はっき  り風潮はそろそろやめねばね。    そうそう、「肉食」で思い出しましたが、土曜日(だったかな?)にNHKの教育  TVで放送されている「恐竜家族」はなかなか面白いですよ。上の娘は「セーラー  ムーン」そっちのけで、ゲラゲラ笑いながら見ています。大人の目から見ると少々  皮肉がきついなぁとも思いますが、とりあえず笑えます。    >ぼくが大物とはほど遠いのは、そのように「うん」と元気よくは答えられない  >かなり内向的な性格だったからのように思います。  KAZEさんが内向的な性格だったというのは、ちょっと想像するのが難しいのです  が(^^;)、それはともかく、上の娘が内向的というのにも、疑いを持ち始めています。  内弁慶だなあとは思っていたのですが、歳を経るにつれて、その「内」の範囲がだ  んだん広がってくるに至って、「こいつは本当に内弁慶なのだろうか」と最近思い  ます。まあ、外向的とか内向的とかいって決めつけるのが、どだい間違いなのでし  ょうが、それにつけても人間は面白い生き物です(^^)。    >ですから、まずは「バチがあたった」ということを認めなくては、  >第一歩を踏み出すことができません。  そりゃあそうですね。「バチがあたった」事に気づかないのは、ちょっと羨ましい  気もしますが(もちろん、結局は不幸なのですけど)、「バチがあたった」事を認  めないというのは、愚かを通り越して、苦しい選択だと思いますけどねぇ(「早く  楽におなりなさい」なんて言ったら怒られるだろうか(^^;))。    >たとえば、不摂生をして病院にいって、医者から生活指導されたとき、  >「病気を治すのは医者のつとめだ。自分は生活を変えない。」というのであれば  >その病気はますますその「バチ」を顕現させるべく猛威をふるうでしょう。  それってバカ丸だしって気がしますが・・・。そういう人っているんだろうか。多  分いるんでしょうけど、最近人との接点が少ないものでよくわからない(これもか  んがえようによったら問題ですね)。    >しかし、なかなかひとつのシーソーから降りられなくて困ります^^;。  ほんとにねぇ。しかも、シーソーから降りられないどころか、ときどきおっこちた  りもして・・・慌てて這い登ったりもしなくちゃならなくて大変です(^^;)。    >流されて主体的になれず、その場の権威を鵜呑みにして  >自分でちゃんと理解しないから、「空気」というんですけど^^;、  そっかあ、そういえばそうですね。(^_^)ゞ ポリポリ  僕は「空気」に流されるというよりは、「空気」を察してその場をしのぐという方  なので(我ながらちょっと嫌な性格だなぁ(^^;))、そこまで考えがおよびませんで し  た。    >もちろん、その場の空気で選択したことでも、それに賛同した以上、  >それは自分の責任であると自覚できるのであればいいのですけどね。  僕は小さい頃から「無責任」と言われてきましたが、今になって考えてみると、僕  に「無責任」と言った連中の方がよっぽど無責任だったような気がします。日本人  は一体いつから無責任になってしまったんでしょうかね。政治家や官僚の事はもう  言う気もしませんが(^^;)、以前勤めていた某メーカーでも、責任逃れの上手い奴等 が  出世してゆくという構図がありまして、あきれかえったものです。しかし、こうし  て見ると、どこもかしこも大差なさそうですね。昔、植木等さんの映画に「無責任  シリーズ」というのがありましたが、あのC調な(懐かしい!)主人公でさえ、今  の大方のサラリーマンに比べたら、責任に対する認識はまともです。トホホ    責任の対極にあるものは、多分「うやむや」なのだろうと思います。僕は自身がい  い加減ですけど、この「うやむや」だけはどうも我慢できません。白黒をはっきり  しろと言うのではありません。せめて、わかったのかわからなかったのか、できる  のかできないのか、とにかく現状認識だけはしておきたいと思うのですよね。そう  いう意味では、主体性のない「なんとなく」というのは大問題で、さきほどの「空  気」も認識が欠如していると大変まずいなあと思うのでした。    >その尊敬すべき人のいうことを鵜呑みにして言うとおりにするということは  >決して尊敬するということではないんだと思います。  >むしろ、馬鹿にすることに等しいのではないか。  僕もそう思います。無礼ですよね。そもそも、鵜呑みでは尊敬している人のことを  きちんと理解することは不可能だと思います。自分自身の中で反芻して、それを相  手に何度もぶつけてみなければ、本当の理解はきっとないのだと。っで、それをし  ないで、わかった気になっているのは、どう考えても無礼です。    >つまり、鵜呑みにするということは、その鵜呑みにする人が  >自分をそこに投影してしまい、エゴを肥大させることに他ならないんです。  そうそう、それって、相手を利用して自己満足してるだけですよね。    >自立は責任をどれほど取る意志があるかということが鍵ですからね。  そうですね。凡人が背負う責任なんて、ある意味ではたかがしれているとも言えま  すが、それでも、自分の言動にはきちんと責任を持てる子になって欲しいと思いま  す。これはそのまま、自分に対する戒めでもありますが・・・。最近は責任をなす  りつけたり、責任から逃れたりするのが上手な人が得をする(結局は因果応報だと  思いますが)という風潮があるようですけど、そんなことでは未来がないから、自  分の責任についてだけは子供達にもしっかり言おうと思っています。                                by 隆ちゃん 02844/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●III-1 (13) 95/06/11 01:04 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 <III-1/人間の魂の三つの状態【目覚め・眠り・夢】> --------------------------------------------------------------------------- この第三章は「元素界と天界・目覚めと眠りと死」となっています。 この章では、人間の意識状態のいくつかについてと 死後の人間の状態について説明されていますが、 この節ではその前者についての概略をご紹介させていただきます。 人間は生まれてから死ぬまでの間に、現在の進化段階においては、 目覚め、眠り、夢という三つの魂の状態を生きています。 ちなみに、死の状態にある人間については、次の節で扱います。 また、高次の魂の状態に関しては、「秘儀参入」に関しての章で扱いますので ここでは詳しくはふれないことにします。 さて、人間は肉体、エーテル体、アストラル体、自我という 4つの構成要素を有しているということは以前にふれました。 そのことをふまえながら、人間の魂の三つの状態である 【目覚め・眠り・夢】について見ていくことにします。 目覚めの状態にある人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我という 4つの構成要素が合体している状態ですが、 眠った状態の人間は、アストラル体と自我が、 肉体とエーテル体から離された状態にあります。 また、夢を見ているときには、アストラル体は肉体から離れているものの エーテル体に結びついている状態にあります。 夢のない眠りの状態がまったく意識できないのは、 記憶の媒体でもあるエーテル体と意識の主体でもあるアストラル体と自我が 切り離されているからなのです。 そして夢を見るというのは、エーテル体とアストラル体が結びついているので アストラル的な形象として記憶のなかにそれがなにがしか刻印しているわけです。 ちなみに、人間が死ぬということは、生命体でもあるエーテル体をも 肉体から切り離された状態になるということです。 これについての詳細は次の節で扱います。 さて、肉体とエーテル体から切り離されたアストラル体と自我は、 いったいどこにいるのかというと、アストラル界にいます。 そこでいったいなにをしているのかというと、 昼間に消耗して失ってしまった霊的エネルギーを補充しているのです。 それをしないと人間は霊的エネルギーを失って枯渇してしまいます。 それは植物が太陽光を浴びる必要があるのと同じです。 夢見のない眠りの間に、アストラル界に出た自我とアストラル体から エーテル体と肉体にエネルギーが放射されているというのです。 肉体の成長や活性化にはその放射が不可欠です。 その後60年代の終わり頃になって、 夢見のない徐波睡眠といわれる時に人間の成長が起こることがわかっています。 眠って70分ほど経った徐波睡眠時に、 血液中の成長ホルモンの量が最高になるというとがわかったのです。 ちなみに、眠っている間、物質界では太陽の光ではなく、 月の光が降り注いでいますが、その作用が突きの満ち欠けで変化するといいます。 その作用は夢遊病を招くこともあるとシュタイナーは言っているようです。 では、この節の最後に、「神秘学概論」(イザラ書房)から 睡眠中のアストラル体の働きについて。 物質体が物質的な周囲の世界から食べ物を受け取るように、睡眠中、アストラ ル体はアストラル体を取り巻く世界から形象を受け取る。アストラル体は実際、 物質体とエーテル体の外で、宇宙のなかに生きる。この宇宙から、人間全体は 生まれたのである。この宇宙は形象の源であり、それらの形象から人間はみず からの形姿を受け取ったのである。人間は調和的にこの宇宙に組み込まれてい る。そして、起きているあいだ、人間はこの包括的な調和のなかから抜け出て、 外的な知覚にいたる。眠りのなかで、人間のアストラル体はこの宇宙の調和の なかに帰る。起きているとき、人間はこの宇宙から多くの力を自分の身体のな かに取り入れ、しばらくのあいだ調和のなかにいなくてもいいようにする。睡 眠中、アストラル体は故郷に帰り、起きるときに、新たに強めれれた力を人生 のなかに持ってくる。アストラル体が目覚めのときにたずさえてくるものを外 的に表現するのが、健康な眠りがもたらす爽快さである。アストラル体の故郷 は、物質的周囲という狭い意味で物質体が属する世界よりも広範なものである ことが、神秘学から明らかになる。つまり、物質的存在としての人間は、地球 の一部であるが、アストラル体が属する世界は、地球のほかに諸天体をも含む 世界である。のちの叙述によって明らかにされるが、地球以外の世界が属する 世界へと、睡眠中アストラル体は入っていくのである。(P89-90) ☆☆☆KAZE☆☆☆ >2848 02848/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●III-2 (13) 95/06/13 00:29 コメント数:2 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 <III-2/魂の世界における死後の魂> --------------------------------------------------------------------------- この節では、人が死んでからどういう経過を辿っていくのかを見ていきます。 人は眠っているときには、肉体とエーテル体からアストラル体と自我が 離れているのだということをご説明しましたが、 眠りと死の違いは、エーテル体も肉体から離れてしまうということです。 「死」ということに関しては、「死学(サナトロジー)」の創始者としても有名な アルフォンス・デーケンさんが有名で、曽野綾子さんとの往復書簡の 「旅立ちの朝に/愛と死を語る往復書簡」(新潮文庫)などでも、 「死」に関する深い洞察が語られているのは確かですが、 死後の在り方とその経過、そして転生ということについて、 明確なビジョンがないということは否めません。 ホスピスや終末期医療に関しても、いくら千万言費やしたところで、 「死」についての明確な認識を得るということなくしては、 気休めの域を出ないのではないでしょうか。 もちろん、ホスピスや終末期医療に関するキリスト教的なアプローチには、 深く感じ入るものはあるのですが、それがあまりに抽象的であるが故に、 神秘学的なアプローチをした後では、 そうした営為は半ば悲しみを伴わざるをえないのは確かです。 また、最近とみに有名になった「チベットの死者の書」なども 死後の世界を描いてはいますが、非常に不十分なうえに、 かなり不正確で間違っていると思われる部分もたくさんあります。 シュタイナーの描く死後のビジョンをご理解いただいた後、 比較していただくのも一興かと思ったりもします。 さて、ここではテキストに述べられているよりももっと詳しく 死後に辿る「魂の領域」について、 主に「神智学」(イザラ書房)をガイドにしながら見ていくことにしましょう。 また、「魂の領域」を通過した後の、霊界の領域に関しては、 次の節でご説明させていただきます。 先ほども述べましたように、人が死ぬと、 肉体から、エーテル体、アストラル体、自我が離れます。 死の直後には、エーテル体とアストラル体はまだ結びついていますが、 しばらく経つとアストラル体はエーテル体から離れていきます。 エーテル体は、記憶の担い手ですので、エーテル体と結びついている期間には、 生まれてから死んだ時点までの人生を流れ去る記憶の光景として見ることになります。 臨死体験などを体験された方の体験はこの時期の体験と酷似しているようですが その場合は、まだ肉体とエーテル体が完全に離れてはいないのだと思われます。 まだ「霊子線」が繋がっているということなのだと思います。 (シュタイナーがそういう表現をしているわけではありませんが) この時期はいわゆるお通夜の時期にあたります。 なぜすぐに焼いたりしないでしばらくおいておく習慣があるかといいますと、 もちろん死者との別れの時期というような意味もあるでしょうが、 本来は、その時期には、物質体とエーテル体がまだ完全には切り離されてなくて それを待つための時期を設けているのではないかと思われます。 つまり、すぐに焼いたりしていまうのは、まだ「痛い」わけです。 ということは、献体ということにおいても、同じことがいえるようです。 「脳死」を人の死だとしてしまうということの問題がここにでてきます。 もちろん、深い愛をもって献体しようというのは立派な行為ですが、 自分の死後の状態をちゃんと理解してそうしていない場合は、 非常な驚愕に襲われることになります。 つまりは、生きたまま解剖されて臓器を切り離されるのと同じなのです。 この問題は非常に重要ではありますが、ここではこれくらいにとどめておきます。 さて、シュタイナーの描く死後のプロセスを追っていきましょう。 死後の魂は、もっぱら自分が霊的、魂的な世界の法則に従うことで霊に、物質 存在への執着を一切絶つのに必要な一時期をもつ。魂が物質的なものに拘束さ れていればいるほど、勿論この期間は延長される。物質的生活への依存度の少 なかった人の場合は期間が短く、物質世界への関心が高く、死後もなお多くの 欲望、願望等が魂の中に残っている人の場合は長く続く。(P117) 人間は本来霊的な存在であって、この物質界で生活するために、 「魂」は霊と物質をつないでいて、重要な働きをしているのですが、 死後は、その成果の部分以外に関しては、速やかに魂的なものを 霊的なものから切り離していかなければなりません。 仏教で「執着はいけない」「煩悩を消しなさい」というのは、 そうした在り方を強めすぎると、魂が解放されがたくなるということです。 ですから、「反省」ということで、魂の純度を高める修行をするのです。 テキストでは、この時期を「感覚的情欲、欲望から遠ざかる」「欲界期」とし、 みずからの全人生を逆の形でもう一度生きることになります。 「他の人に対して与えた快や苦のすべてを自分の中で体験しなければ」なりません。 このことから考えると、わたしたちの人生のなかで、 自分と関わった存在にどういうものを与えてきたかということが 半ば戦慄をもって浮かび上がってこざるをえません。 反省を余儀なくされてきますし、できればプラスのものを与えることを 積極的におこなわざるをえなくなります。 しかし、そういうことを意識的には理解しないでも、 一生涯を通じて愛を与え続けてきた人の素晴らしさには頭が下がります。 上記の引用でもあるように、魂の世界を通過する仕方はひとそれぞれですが、 その通過する魂の世界は次の7つの領域に分かれています。 しかし、これらの領域は互いに切り離された領域なのではなくて、 互いに浸透し合っていますので、そのように理解しておいてください。 1)燃える欲望の領域 2)流動的感応性の領域 3)願望の領域 4)快と不快の領域 5)魂の光の領域 6)魂の活動力の領域 7)魂の生命の領域 最初の3つの領域では、魂の構成体の特質は共感と反感であり、 第4の領域では共感であり、高次の3つの領域ではその共感の力が強まっていきます。 少し長くなりますが、これらの領域について、引用紹介していきましょう。 1)燃える欲望の領域 魂界のもっとも低い領域は燃える欲望の領域である。死後この領域を通過する 間に、物質世界にかかわる粗野で利己的な欲望が消滅させられる。なぜならこ の欲望をまだ捨て去ることができずにいる魂は、まさにこの欲望を通して、こ の領域に力の或る作用をまともに受けざるをえないからである。この作用の起 点となるものは、物質生活への、まだ満たされぬままに残っている欲望である。 死後の世界では、もはや肉体はなく、それに関係したいかなる欲望も、 もはや満たすことはできないにも関わらず、それを欲するが故に、 その渇望感というのはかなり壮絶なものがあるようです^^;。 2)流動的感応性の領域 共感と反感が均衡を保っているのが、魂界の第二領域の状態である。死後、こ れと同じ状態にある人間の魂は、この第二領域の作用を受ける。人生の外的事 情に心を奪われたり、感覚の一時的な印象に喜びを求めたりすることがこの状 態を作り出す。このような状態にある魂の要求から自由になれない人は、この 領域の中に留まり続ける。このような人は日常の瑣事にいちいちこだわる。・ ・・完全に消滅するまで、魂を占めている欠乏感は勿論苦痛に充ちているが、 このような苦しい状況こそ、人間が地上生活を送っていたときにとらわれてい た幻想を打ち破るための道場なのである。(P120-121) 3)願望の領域 第三に、魂界の中には、共感と願望の支配する状況が観察される。魂は死後、 願望の雰囲気をもつすべてのものを通して、この第三の領域の作用を受ける。 この願望もまた成就させることが不可能なので、次第に消滅する。(P121) 4)快と不快の領域 魂界の第四領域である快と不快の領域は、魂に特別の試練を課す。肉体に宿っ ているとき、魂は体に関するすべての事柄に関与する。快と不快の働きは体と 結びついている。・・・人間は、地上生活において、自分の身体を自分の自我 と感じるのである。自己感情と呼ばれるものはこの事実に基づいている。・・ この第四領域の作用はしたがって、肉体即自我の幻想を打破することにある。                            (P122) この関係でいうと、自殺者というのは、非常な困難な状況に置かれるようです。 肉体に関する感情が魂に残されたまま死を迎えるが故の苦悩です。 5)魂の光の領域 この段階では、他のものに対する共感がすでに重要な意味をもつ。この世の生 活の中で低い欲求だけを満足させようとはせず、与えられた環境に対して喜び と愛情を感じることのできた魂は、この段階に親しみをもつことができる。た とえば自然に没入しようとする態度も、もしそれが感覚的性質のものであった ら、たとえばこの段階で浄化を受けるだろう。しかし自然体験には、もっと高 次の、霊的性格のものがある。・・・ 宗教活動を通して物質世界の向上を期待していた人々の魂も、この領域で浄化 を受けることになる。その人々の憧憬の対象が地上の楽園だったのか、それと も天上の楽園だったのかはどちらでもよい。(P123-124) 6)魂の活動力の領域 利己的性格をもたなくても、行為の動機が感覚の満足にあるような事業欲は、 この領域の中で浄化を受ける。・・・芸術的な人や面白いというだけの理由で 学問研究に没頭している人の多くは、この部類に属する。(P124) 7)魂の生命の領域 本来の魂の生活の領域である第七領域は、感覚的物質的世界への執着から最終 的に人間を解放する。これまでどの領域も、魂の中にあるその領域と同質の部 分を魂から取り上げてきた。最後に残された魂の部分は感覚的世界のためにす べてを捧げて働くべきだという考え方であって、これが霊を依然といて覆い包 んでいるのである。非常に優れた人物の中にも、物質界の事象以外にことはあ まり考慮しようとしない人がいる。そのような信念を唯物論信仰と呼ぶことが できるだろう。この信念は打破されねばならない。そしてそれはこの第七領域 において為される。・・・ 魂は今、彼本来の諸領域へ向かって飛翔する。それらの領域においてのみ、霊 は自己本来の環境の中にいる、ということができるのである。 (p124-125) こうして人間は死後、肉体、エーテル死骸、アストラル死骸を脱ぎ捨て、 ようやく本来の故郷である霊界へと歩みいることになります。 その霊界に関しては、次の節で。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ >2900 02900/02985 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●III-3 (13) 95/06/21 17:29 コメント数:2 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 <III-3/霊界の領域> --------------------------------------------------------------------------- では、「魂の世界」に続いて、「霊界」についてご説明させていただきます。 テキストでは「神界」という表現になっていますが、「霊界」と同じ意味です。 また、テキストでは「霊界(神界)」の低次領域である、 第一領域〜第四領域までしか説明されていませんが、 高次の領域である第五領域〜第七領域までふくめてご説明したいと思います。 以下の引用は「神智学」(イザラ書房)からです。 人間は、死後から再生するまでのあいだに、 前のアーティクルでご説明した「魂界」を経た後、「霊界」に至り、 また生まれるまでの間をこの領域で過ごすことになります。 この「霊界」に滞在することの意味を理解するためには、 輪廻転生の意味を正しく理解する必要があります。 人間はこの地上で、「物質界の霊的存在」として活動を行ないますが、 人間は霊界で意図したものを、物質界に刻印づけます。 人間は死ぬ度に、霊界で生き、その法則に従ってそこでいわゆる設計図を仕上げます。 そしてその設計図を具体化するため、物質の性質や力をこの世で学び、 さまざまな創造活動を繰り広げながら、経験を蓄積します。 この世というのは、まさにそういう意味での「学習の場」なのです。 さて、霊界の諸領域についてのご説明を始めることにします。 ●霊界の第一領域/  ・物質界における「地」に対応する  ・霊界の陸地   最初の領域には物質界の中の無生物の原像が存在している。・・・この領域が   「霊界」の土台をなしている。それは地球上の陸地と比較されうる「霊界」の   大陸部分なのである。(P131-132)      この世の生活においては、思考内容として捉えたこれらの原像の影だけを、人   間は知ることができた。地上では考えられるだけのものが、この領域では体験   されるものとなる。この領域で人間は思考内容の中を遍歴する。しかしその思   考内容というのは現実の生きた存在なのである。(P139)      人は自分の肉体を外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察する   ことを学ぶ。もはや、自分の体的本性を、自分の自我に親和したものとは考え   ず、したがってそれを外形の他の事物から区別しようとはしなくなる。(P140)      「霊界」のこの最下位の領域内で成果として実るものは、地上生活上のいわば   日常的状況である。そしてこの日常的状況にもっぱら没頭してきた霊的部分は   死から再生に至る霊界生活の主要期間中この領域に親近感を持ち続けるだろう。   この世でともに生きてきた人々には霊界でも再会する。・・・死後、霊界の中   においても、地上生活での魂と魂の係わりはすべて存続し続ける。(P142) ●霊界の第二領域/  ・物質界における「水」に対応する  ・霊界の海と河川の領域   「霊界」の第二領域には生命の原像が存在している。しかし生命はこの領域の   中ではひとつの完全な統一体をなしている。それは液体成分として、霊界のい   たるところに流れ込み、いわば血液のように脈打ちながら、あらゆるところに   まで及んでいる。それは地球にとっての海が湖沼や河川のような部分であると   もいえる。・・・思考内容を素材にした流動する生命、人は「霊界」のこの第   二段階をそう名づけることができよう。この流動する生命という活動領域の中   に、物質的現実の中で生命ある存在として現われるすべてのものの根源的想像   力が存している。(P132-133)      人間はここでは、地上で崇拝の対象だった統一性と本当にひとつになることが   できる。宗教生活やそれと関連したすべての事柄の成果がこの領域の中に現わ   れてくる。人間は自分の霊的経験から、個人の運命と個人の属する共同体とを   区別すべきでないと認識することを学ぶ。自分を全体の一員として認識する能   力はこの領域で形成される。宗教的な諸感情、高貴な道徳を求める純粋な努力   のすべては、霊界における中間状態の大半の時期に、力づけをこの領域から受   け取るであろう。・・・   第二の領域では、同じ崇拝対象、同じ信条等によってひとつに結ばれていると   感じられたすべての魂たちの領域に入る。(P143-144)    ●霊界の第三領域/  ・物質界における「風」に対応する  ・霊界の大気圏   「霊界」の第三領域としては、一切の魂あるものの原像が挙げられねばならな   い。・・・比喩的にそれを「霊界」の大気圏と名づけることができる。物質界   や魂界で魂がいとなむすべては、この領域にその霊的対応物をもっている。一   切の感情、本能、情念は霊的な在り方でこの領域内にもう一度現われる。この   霊界の大気圏における気象状況は物質界、魂界での生物の苦しみと喜びに相応   している。人間の憧れは微風のように現われる。激情の発作は暴風のようであ   る。(P133)      ここでは、人が地上で社会のため、隣人のために、没我的態度で奉仕したとき   の一切の行為が、実を結ぶのである。なぜならこのような奉仕によって人はす   でにこの世で「霊界」の第三領域の残照の中に生きていたからである。人類の   偉大な慈善家、献身的人物、共同体に大きな奉仕を為した人物は、かつて前世   においてこの領域と特別な親和関係を作ったのちに、この領域でこのような行   為のための能力を獲得した人々なのである。(p145) 以上、霊界の第一領域〜第三領域までについてご説明してきましたが、 魂をもっているものの原像である生きた思考存在は、 この低次の霊界に存在しています。 いわゆる「純粋の霊界」は、次の第四領域からはじめります。 しかし、その領域もまだ完全な意味でのそれではありません。    ●霊界の第四領域/  ・物質界における「火」に対応する  ・第一〜第三領域を貫く原像の世界   第四領域の原像は物質界、魂界とは直接関係をもたない。この原像は或る点で   は、以下の三領域の原像を統率し、相互の連繋を可能にする本性たちである。   したがって彼らは下位の三領域の原像に秩序を与え、組分けする仕事に従事し   ている。(P133-134)      この世で獲得した科学の成果、芸術の着想と形式、技術の思想はこの第四領域   でその成果を実らせていたのである。それ故芸術家、学者、大発明家は「霊界」   に滞在している間に、彼らの創造衝動をこの領域から受け取り、彼らの天分を   高めたからこそ、ふたたび地上に生を受けたときに、人類文化の発展に一層寄   与できるようになったのである。・・・   地上の生活中に、日常的な生活、願望、意欲の領分を超えて人間が努力したも   のはすべて、その源泉をこの領域にもっている。もし人が死から再生に至る間   にこの領域を通過しなかったとすれば、その後はもはや狭い個人的な生活空間   を超えて、普遍的=人間的なものへ向かおうとする興味をもたなくなるであろ   う。(p146) さて、第五、第六、第七領域は、以上の下位の諸領域とは本質的に区別されますが それは、そうした下位の領域の原像にその活動の原動力を提供するものです。 つまり、原像の創造力そのものが、こうした高次の諸領域に存在しているわけです。 この領域にまで至ると、わたしたちの世界の根底にある「意図」とでもいるものを 知ることができるといいます。 霊界が地上での生活のためにつくった目標や意図の真の意味を 体験することができるというのです。 ここには、思考存在の複雑な原像が「生きた胚種」として存在していて、 その胚種が下位の諸領域に移されることによって、 それが多様な形態を示すようになります。 この高次の霊界こそが「純粋の霊界」と呼ぶことができ、 ここではどんな地上的な束縛からも自由であるといえます。 ●霊界の第五領域   「霊界」における霊としての本来の人間の姿は、死と新生の中間状態にある人   間が「霊界」の第五領域にまで上昇したとき、はじめて現われる。この領域で   の人間こそが本来の自我の真の姿である。・・・常に新たにこの世に出生して   くるこの同じ自我は、生まれる前に必ず、「霊界」の下位の諸領域で獲得した   能力を伴って現われ、それによって前世で得た成果を次の人生の中へ持ち込む。   自我はこれまでの転生の諸成果の担い手なのである。   したがって「霊界」の第五領域を生きる自我は意図と目標の王国にいる。・・   明らかに、自我がこの領域から汲み取れる力は、自我が意図の世界の中に持ち   込むにふさわしい成果を、生前どれほど獲得することができかたかによって決   まる。(P147-148)    ●霊界の第六領域   「霊界」の第六領域の人間は、すべての行為を宇宙の真実在のもっとも適った   仕方で遂行するであろう。なぜなら彼は自分のためになるものではなく、宇宙   秩序に則って生起すべきものだけを求めるのだから。(P150)    ●霊界の第七領域      「霊界」の第七領域は人間を「三つの世界」の果てにまで導く。人間はこの領   域で、さらに一層高次の世界から上述してきた三つの世界の中で、宇宙的使命   の達成のために移植された「生命核」たちに向かい合う。こうして三つの世界   の果てに立つ人間は、それとともに自分自身の生命核を認識する。その結果、   三つの世界の謎が解決され、彼はこれらの世界のすべてのいとなみを見通す。   (P150) 以上、霊界の七つの領域についてご説明してきました。 これを超える世界に関しては、よくわかりませんが、 霊界の第五〜第六領域という純粋な霊界で「種」としてあったものが、 第四領域という統括領域を通して、 第一〜第三領域で、「原像」として、つまり「ネガ」として準備されたものが、 物質体、エーテル体、アストラル体として現像されるというイメージでしょうか。 (当然のごとく不案内な領域なので???の部分ばかりではありますが) この第三章では、目覚め、眠り、夢という 人間の意識の状態ということからはじまって、 さらに、「死」のテーマに入りました。 そして、死後、人間がどういう経過を辿っていくのかを この世との係わりのなかで見てきました。 次の第4章と第5章では、魂界、霊界を通って、 またふたたび生まれてくる過程を見てみることにします。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ >2976 02976/02985 GGD03030 《 隆 》 思いやりの少ないこの頃 (13) 95/07/11 10:42 02944へのコメント  みのる♪さん、こんにちは。    ドバーっと降り続いたかと思ったら、今度はドーっと暑くなってしまいました。  なんともわかりやすいというか、へんてこな天気です。ただし、東北地方は相変  わらずじとじと雨が降っているようで・・・お米が心配です。    >しかし、せめてお米だけでも、不況の風(^^;) に巻き  >込まれないで欲しいと切に願う私です。ゴハン ダイスキ!  ほんとにね。僕もご飯が大好きですから(ご飯とお漬け物があれば幸せ)、農家  の方々の上だけでも程良い日差しと、恵みの雨があることを祈りたいです。ちな  みに、貧乏な我が家ですが、4年ほど前から「お米だけは贅沢しよう」というこ  とで、新潟の農家(といっても地元のかたが集まって会社組織になってますが)  から直接コシヒカリを購入しています。いわゆる「特別栽培米」というやつです  が、一応無農薬(といっても年に1・2回はまくそうですが)&有機栽培で、す  んごい美味しいです(^^)。    でもって、それをもっと美味しくいただくために、玄米で購入して炊く直前に精  米するということをしています。精米器というのは便利なもので、その日の気分  で白米も五分づきも思いのままですし、新鮮な米糠も得られますので、一石二鳥  なのであります(なんだか精米器メーカーの回し者のようになってしまった(^^;))。    >もっと本質的なことを言えば、「いかに安価に仕上げ、いかに利潤を上げるか」  >という点で、「最低限の安全性」と「己の利益」とのバランスが、「己」側に  >傾き過ぎた結果なのではないかな…と思ったりして見ていました。  どうも役人という人たちは、どこの国でも同じようで、結局「己」の欲に目がく  らんで、感覚がバカになっているみたいですけど、韓国は日本以上にひどいんだ  そうで・・・。なんでも、都合が悪くなると逃げちゃうんだそうな(^^;)。っで、ほ  とぼりが冷めるまで雲隠れしていれば、おとがめなしになってしまうとか・・・  もう無茶苦茶でんがな、まんがな。シンジラレン     >でも、同じような“手抜きの構造”は日本でもしっかり生きているようです。  ですね、情けない話ですけど・・・。山陽新幹線の高架橋のコンクリートから、  廃材が出てきたりしましたし、コンクリートに混ぜる砂の問題も小さくありませ  ん。東京あたりでも、建築ブームにのって建てられたものは、塩分の多い海砂を  使ったために、鉄筋がさびたり、コンクリートそのものがもろくなったりしてい  るようです。ちなみに、建築関係の仕事をしていた叔父の話によりますと、かの  阪神高速も「倒れんほうが不思議や」なんだそうで、恐ろしくなっちゃいますよ  ね。っで、その阪神高速ですが・・・再建するんだとか・・・それも懲りずに橋  脚は一本です。道路公団は一体何を考えているんだか・・・(`_´)プンプン。    >モノを作る側と、そのモノを買う側との事情の差というものも、これと共通す  >る問題を内に含んでいるような気がするのですが・・・。  要するに「思いやり」の問題だと思います。作り手は使う人を、使う人を思いや  れば問題はどんどんなくなってゆくと思うのです。これは何も物づくりに関わら  ず、世の中全てに言えるのだと思いますが・・・。そして、他者を思いやること  は自分を大切にすることの裏返しなのですが、昨今はこういう事言ってると「甘  いやっちゃ」などと揶揄されてしまいます。スミニクイヨノナカデスジャ    >実は私も「日本刀」大好き人間なのでした。結婚する前に、一度「真剣」を所  >有していた(備前兼平ダッタカナ?)のですが・・・  おお!、そうでしたか。しかし、真剣をお持ちだったとは・・・すっ凄い(^^;)。  僕は昔、刀鍛冶にほのかなあこがれを抱いておりまして、十字手裏剣に似た金具  に焼きを入れてトンカントンカン金槌で叩いたりしてました(^^;)。しかし、いかん  せんガスの火では焼きは・・・入りませんでした。(^_^)ゞ ポリポリ    >真剣と言えば、妖刀“ムラマサ”がありますが、(と・と・突然ですが)隆さ  >んは「池上遼一」なる漫画家(劇画家)をご存じでしょうか?  はい、もちろん存じ上げております(^^)。「クライング フリーマン」は見た記憶  がありませんが、「男組」や「サンクチュアリー」は読んでおりました。たしか  「男大空」もそうであったような・・・。彼の描くキャラクターはカッコイイで  すよね。ちなみに「サンクチュアリー」(サンクチャリーも同じ)は聖域とかい  うような意味だったような気がします(僕はどうも語学がパーなので自信があり  ませんが(^^;))。    >私もブルース リーや、「燃えよカンフー」のディビッド キャラダインの影  >響をもろに受けた世代人ですので、拳法には殊更つよい興味を持っていました。  >(少林寺拳法部に入っていました^^;…ただし「訳」有りで長続きしませんでし  >たが)  おやま、そうだったんですか。ええ、ちなみに少林寺拳法は・・・やめて良かっ  たんじゃないかと思います(^^;)。別に少林寺拳法に恨みがあるわけじゃないのです  が、名前がねえ(少林拳とは全く違うのになんだか紛らわしい(^^;))。どうも出自  が明らかでないのが引っかかります。義和拳の流れのようですが、先代の宗道臣  さんもはっきりおっしゃらなかったようですね。    僕も武道が好きで、例の太極拳(正宗太極拳です。松田隆智氏の本には双辺太極  拳という名で紹介されている)と八卦掌をしばらく習っていましたが、実践では  使えないでしょう(^^;)。要するに2年や3年じゃあだめって事なんですよね。それ  よりも、ついでに教わった柔術の「手ほどき」とか、「関節取り」などのほうが  即効性がありそうです。ただ、どんなに弱くても(弱いからこそかな)根が好き  なもんで、その後も武術関係の本は随分読みました。結構楽しいものですよ。ち  なみに、娘達にはぜひ武道をと思っています。物騒な世の中ですから、女の子で  も護身くらいはできないとまずいと思いまして・・・。合気が良いかなあなんて  思っています(^^)。                               by 隆ちゃん >2981 02981/02985 GBB03425 Paper Birch ちょっと質問です (13) 95/07/11 13:01 02949へのコメント ノロガメさん、こんにちは。 | つまり生まれて生きて死んで行く訳が分からないために起きてくる問題だと思い |ます。 | ノロガメはそうした問題にぶつかって そういう自分とは何かを考え 答えを出 |した 自分とは物ではない 「無」であると言う答えを認めた結果今の姿になった |のです。  それで「自分とは物ではなく“無”である」という答えを得て、ノロガメさん には「生まれて生きて死んでいく」訳が分かったのでしょうか? それでしたら 教えて下さい。どうして「生まれて生きて死んで」行かねばならないのですか? それについてノロガメさんは、一度も書いてませんよね。  ノロガメさんが、“無”という答えを得て、どんな「この世に生まれてくる理 由」を見つけたのか、非常に興味があります。  僕も、一応の答えは持っていますが、今ここでは書きません。いままでに何度 も書いていますので、申し訳ないですけど会議室の過去ログをごらんになって下 さい。 続き (改行で表示 E:終了) > △▼△ Paper Birch △▼△ >2982 02982/02985 GBB03425 Paper Birch 人の話に聞く耳を持って下さい (13) 95/07/11 13:02 02951へのコメント ノロガメさん、どうも。  なんだか「こういうRESが帰ってくるだろうなぁ」と、予想していたとおりで した。ホントに分かり易い人ですねぇ。 |#2940の指摘を個々に取り上げてRESをつけても 平行線に成ると思います | ので 総括して述べて見ます。  こう言って逃げるしか無かったんでしょうね。答えては頂けないだろうと思っ ていました。  いえ、決してノロガメさんが不誠実で答えないのだと言っているわけではあり ませんよ。答えようにもノロガメさん自身が(自分で自分にマインドコントロー ルをしてしまっているために)考えることさえできなくなっているのだというこ とです。  そのことを前回も書いていたのですが、たぶん理解できないでしょうね。 | 先覚が残した言葉 宗教的にあるいは学会 協会と称する組織 そういう場所で |組み立てられた情報を元に求められた結論では事の本質は分からないと言うのがノ |ロガメの持論の一つです。  誤解があるといけませんから一言だけ。  僕はそういう団体が良いとは一言も書いていませんよ。もしもそういう風に読 めてしまったとしたら、もう一度読み直してみて下さい。文脈から、どういう意 味で書いているのか読み取って下さい。  僕は「いかなる組織も、必然的に堕落する」という持論を持っていまして、そ の事は会議室上でも最近書いたばかりです。団体という物には概ね批判的です し、『日本心霊科学協会』も、僕の持論を実証する一例だと思っているほどで す。 | 神についてそれは偶像であり 人間が肉眼で確認出来るものではなく 従って概 |念を固定することは出来無いと思います。  しかし、ノロガメさん自身が“神”について語っているではないですか。自分 に都合のいいときだけは、神について論じることができるんですか。勝手ですね。 |>しかし、この中でも誰一人「無」などと言う結論を出している人はいませんよ。 |その結果宗教と社会の接点に有る問題は何一つ解決されないままであります。  もう一度、僕の書いた物をよく読んで下さい。僕の書き方も悪かったかもしれ ませんが、あそこで挙げた人たちの事を素晴らしいとは一言も書いていません よ。ノロガメさんの書いた内容では、“無”という結論が出る説明にはならない という事を言っているだけです。  ところで、“無”という結論が出たことによって、社会の問題はどのように解 決されていくと思いますか? ノロガメさんの書かれた物をいくら読んでも、さ っぱり分からないんですが。  ノロガメさんご自身が、FARIONという社会の中で問題を引き起こしています し、説得力が全然無いんですよね。  あ、「パソ通は実体がないから」などという戯言は無しですよ。何ならオフ会 でも開いて、直接お会いしても良いわけですし。パソ通だからと言って、人間同 士が話し合っていることに変わりはないのですから。  たぶん、そういう事が分からない人だからこそ、“無”という結論に飛び付い てしまったんだと思いますが。  うん。でも、オフ会かぁ。良いアイディアかもしれないなぁ。....殴り合いの 喧嘩になったりして(^^;;;; |>“信じて実践する”ことが一番重要だと思いますか? | 自己の信じるままに突き進んで来たから今Paper BirchとのRESがこうして実現 |しているのです。  そんな風にしなくても、僕は皆さんとの対話(ノロガメさんが仰った、議論と いう言葉に置き換えても良いですが)を一年以上継続していますよ。より良い形 で。  ノロガメさんは大丈夫ですか。何時ここを除名されてもおかしくない状態だと 思いますが。僕は、そうなってしまう前にレスをアップしなければと思って、あ わててこれを書いているほどです。  以下、イロイロ書いておられますが、コメントの必要を感じませんでしたので 割愛します。ただ、「僕が書いたことを(やはり)全く理解でませんでしたね」 とだけ言っておきます。  よって、ノロガメさんの#2951の発言は却下します(^^;;;。 #2940-2942をもう 一度よく読んで、他の人たちからの指摘も真摯に受けとめて、出直して下さい。 ....と、思っていたら |ノロガメはそう言う指摘の交換RESは好みません。 という「逃げ」が入ってますね。これでは、自分の信者になってくれる人としか 話したくないと言っているのだと思われても仕方がありませんよ。(-_-メ;;コマッタモンダ  そんなに、本当の自分と向き合うのが恐いですか? ノロガメさん、真実と向 き合ってください。その日が一日も早く来ることを祈っていますし、できる限り の手助けをしますから。 では、また。 △▼△ Paper Birch △▼△ >2983 02983/02985 GBB03425 Paper Birch パソ通も人間社会です (13) 95/07/11 13:02 02967へのコメント ノロガメさん、ふたたびこんにちは。 | それは実体がないと言う事で出来るシステムと捕らえています。 | 人間同士実体が向き合ってのエゴのぶつかり合いはとても危険な要素を含んでい |ます。 | ところが パソ通では どちらかがRESを止めればそけで問題は回避されるの |です。ともかくパソコンの向こうにいる人間がどんな人かは何一つ分かっていない | 状態で 直接ではなく 時空を越えての体面であり 互いにとって今その体面相 |手がいない状態で常に言葉のやり取りが始まっているのです。  ちょっと引用が長くて申し訳ないですが....。  この偏った図式的思考方法も、ノロガメさんの抱える問題の一つでしょうね。  これは完全にノロガメさんの認識不足です。パソ通でも、電話回線と端末があ いだに挟まっているとはいえ、人間対人間の触れ合いであることは変わりありま せん。 RESを止めればそれで問題が回避されるようなものではないのです。事実、 パソ通の上で起きた問題のために裁判ざたになっている例もありますよね。  そういえば、以前にも、他の誰かから同じ事を指摘されていませんでした? 人に言われたことは、もっとまじめに考えるようにして下さいね。みんな真剣に ノロガメさんのために考えているのですから。 △▼△ Paper Birch △▼△ >2984 02984/02985 QZE03111 こむ RE:本当に他者と向かい合うには (13) 95/07/11 15:46 02979へのコメント コメント数:1  tenさん、こんにちは。お久し振りです。  何か変わったのかもしれないし、そうでないのかもしれません。無理やり言 葉にすると、それはまた違ったものになりそうなので、こういう時は何も言わ ない方が良いのかもしれません。  ただひとつ言えるのは、ノロガメさんの中に自分を発見した、だから出てこ ざるを得なくなったということでしょうか。自分の過ちを明らかにするために。  でわでわ。 *****こむ より***** >2985 02985/02985 KFH00666 ten RE:本当に他者と向かい合うには (13) 95/07/11 16:20 02984へのコメント ををっ。^^。            TEN