- FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/08/08 - 03160/03171 QZE03111 こむ う〜ん。そうですね。 (13) 95/08/07 13:35 03159へのコメント  KAZEさん、こんにちは。  ノロガメさんの存在は、ここには必要だと思いますので、できれば残って欲 しいと思います。  これまでぼくの採った方法では、これが限界です。もしまたノロガメさんに コメントすることがあれば、今度は「野茂」のようにやりたいですね。野球に は興味ありませんが。  ぼくは、自分の内にも種を蒔いたのだということを忘れず、水をやり続ける ことにします。「学び」という「光」を浴びながら。     *****こむ より***** 03161/03171 PXY03747 諏訪みのる RE:理解と実践について。 (13) 95/08/07 13:49 03145へのコメント コメント数:1  こむさん、こんにちは。  ここんとこ日中は相変わらず暑いですね。 昨日は娘を連れて近くの河原へ水遊びにでかけました。私自身も川へ入るのは実 に久しぶりだったのですが、思わず童心に戻って娘といっしょに遊んでしまいま した(^^)。ただそれだけの事だったのですが、とても充実した一日に感じました。 > 良い想念と共に瞑想を行えば、その想念が、全ての精妙なレベルの底にある、 >静寂と共に存在する「存在」へと、自然に導きます。 >       ( 略 ) > つまり行動が、頭で理解したものに立脚するのではなく、もっと深い部分か >ら、思考を超えての行動へと移行することになります。  私は、釈尊の悟りというものは深い「瞑想」から得られたものだと思っていま すので、こむさんのこの考えには共感を覚えます(^^)。  そして、実践としての「菩薩行」は、この「存在」から自ら発露したものであ り、また逆に、弟子(行者)達が この菩薩行を学ぶ(真似ぶ)ことによって、 その行為が自ずと内なる「存在」に働きかけ・取り込まれ、次なる行為に「存在」 が働きかけるという“循環”を繰り返すことにより、自分を次第に「存在」へと 導く(つまり、悟りへ導く)ということになるのでは?…と考えています。  釈尊の瞑想が、いかなる形で今に伝えられているのかは定かではありませんが、 現在仏教に「禅」という形で残されているものも、その根本精神は同じ物である のではと考えております。  仏教用語に「三昧(サマーディ)」ってのがありますが、これは広く精神統一 行為を指しておりまして、仏教では重要な修行の一つとされています。  この「三昧」の境地が、自身の内側の「存在」へ導くのだそうですが、この三 昧は、「〜しながら」というのではダメでして、集中していなければ得られない ものなのだそうです。つまり、食事をしている時には「食事三昧」、遊んでいる 時には「遊び三昧」、寝る時には「寝三昧」、同様に「仕事三昧」「読書三昧」、 「排便三昧^^;」ってな具合に・・・。  で、こむさんの今回のお話しをお聞きして、“ながら族”の私としては大いに 反省を促された訳でして^^;、早速今日から“集中”する態度を身につけようと努 力したいと思った次第です(^^)。 でわ、では(^^)/               みのる♪デシタ。 03170/03171 GGA02514 KAZE RE:お久しぶり〜(^^) (13) 95/08/08 07:45 03169へのコメント ジョリーさん、どうも。 かなり大変そうですが、がんばってくださいね。 >今ある問題は、僕にとって試練なのでありますが、とにかく頑張らな >くちゃ、ということです(^^)。  試練は試練のための試練では決してなくて、 それは何かを学ぶための試練ですから、 その何かを豊かにすることを心がけたいものですね。 ぼくがこういう考え方をするようになったのはそう昔のことではないのですが、 そうとらえるようになってから、何かを体験することそのものの質が 根本的に変わってしまったように感じています。 もちろん、辛いことは相変わらず辛いことに変わりはないのですが(^^;)、 受け入れるふところを広くして余裕をもつことで、 同じことでもまったく違ったものになる可能性ができるというか・・・。 言ってみれば、自分という関数を変えれば、 その答えが異なってくる感じでしょうか。 >この会議室で、自分なりの「雛形」を作り上げれればいいなと、 >最近思うようになりました。 そうしてくだされば幸いです。 振り返ってみれば、ぼくもこの会議室という「場」を、 自分なりの「雛形」にしながら、自分を励ましつつ、 日々を送るようになってきたように思います。 自分がこうありたいなということを、実践することを踏まえながら、 あれこれと話していくことで、それが指針になっていくといいますか。 では、時間の余裕ができれば、またいろいろ楽しくお話しましょう。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/08/08 - 03153/03153 PXH01650 英雄 RE:「雪」のイメージ、お聞かせください (14) 95/08/07 23:22 03149へのコメント 雪:行き:往き:倖:幸:逝き  雪は”降る”もの、上から下へ、絶え間なく降りしきる.....  雪は”積もる”もの、白く冷たく・・・・地上の汚れを覆い隠して.....  雪は白黒の対象を鮮やかにする・・・・色景色はすべて白と黒の景色に  黄泉雪、43(ヨミ)逝き、、、、  雪の結晶、水分子の配列、触れれば融ける、しかし氷ではない  雪は融けて水となる、雪は眠りの象徴、雪解けは目覚めのシグナル・・・・・  「雪は、大気中の水がある温度下で結晶化したものです」    ☆英雄 1995.8.7 - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/08/08 - 00225/00225 KHC01313 まるにちょん RE:日本は新世紀に何を失うか (15) 95/08/08 02:59 00224へのコメント #224 しまうま さん  こんにちは(^^)   >>  これを読んで思ったのは、「日本と日本人がどうなろうとも、どうであろう >> とも、とりあえず“新世紀”は来るんだろう」ということだ。 日本人がその血の中に伝えてきたもの、敢えて言えば、血のモノリスかな?を新 世紀が到来する前に発揮できなければ、日本人及び日本の存続は危ういにではない でしょうか?  私の思う日本人の血に中に伝えたて来たものの一つは、大和魂なのではないかと 思っています。  自分と自分の周囲のみの利益にしか目を向けなくなってしまったときから、日本 人は大和魂を喪失してしまったのでしょう。  したがって、現代日本人(おしなべてひっくくるのは、いささか雑ですが)の 「自分の周囲」観は、極めて狭小なものです。  大和魂の捉え方は色々あるとは思いますが、「大きく和する」と書くことから、 大和魂の観点から観た「自分の周囲」観は、大変大きなものだといえるでしょう。  「自分の周囲」とは、村であり、町であり、国であったことと考えます。  自分のいるこの世界が「自分の周囲」であると感じていたのかもしれませんね。  だから、自分の利益を目指すときには、周囲に対する責任とその利益をも考慮に いれた行動をしたものと推察しています。 新世紀を日本人が迎える準備運動として、「自分の周囲」の範囲を徐々に広げる ことから始めていかなきゃならないと思ってます。  まずは、自分の回りの人間を観る、次に自分の生活に関わってくる人間をみる、 自分の住んでいる家の周りを観る、次に自治会単位の範囲で観るっていう具合にね。  ちょっと、外れたRESでしたね。(^^;  では、また。                    まるにちょん、○=ゝ   - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 95/08/08 - 650/650 JCF00616 優位 瞳から心を読む (19) 95/08/07 23:18  昨日のRTで、唐突に?ジャンケンの話題が持ち上がった。この時ジャンケンで  勝つ確率についてちょっと思うところがあるので取り上げてみようと思う。  それは、『相手の出す手が読める』能力のことだ。能力と書いてしまったが、  そんなに大袈裟なものではない。この一種の変梃な能力は、高校1年生の頃から  自覚し始めたのだが、弓術部の合宿先で、良心の痛むような「使い方」を  してしまったためなのか、その時以来、消失してしまったかのように見えた。  ところが、これがまた最近になって復活したようだ。今度は、どうやったら、  相手の出す手が読めるか、という方法が明らかになった。高校1年の時のは、  大体、相手の出す「雰囲気」という、かなり大雑把な読みとり方であった  のに対して、今度は「相手の瞳」をじーっと見つめるという、身体の局所的な  部位から読みとる方法へと進歩した。これで、ずいぶん確実性が増したよう  に思われる。  まず、相手の瞳を見つめていると、思念の動き(迷い)が分かるのだ。  「グーにしようかな…うーん、それともチョキにしようか…。えーい!  パーで決まり、うん、これにしよう」みたいな心の動きが、瞳を見つめることで、  ピッと伝わってくる。で、その最終決定した手に対して、勝つ手を出せば  必ず勝てるという訳だ。ただもちろん、相手の出す手が読める訳だから、  負けようと考えれば、負けることだって可能だったりする。  ジャンケンの場合、3つの場合しかないので、人の心を読むというのには  そぐわない表現かもしれない。が、実はこの『読む』能力は、ジャンケンに  限らないということも判ってきた。その昔、中学生の頃はよく苦手な数学の  問題を直感を駆使して解いたりしていた。ある時などは、普通の人なら何分  もかかる試験問題(偏差値86相当)を「ええいっ、わからん」というこ  とで、ものの10秒で当ててしまったことがあった。他には、相手の誕生日  をピタリと当ててしまったこともあった(365分の1の確率)。  そういえば昨日などはある方から「兎」のイメージが伝わって来たのだが、  帰ってからRTで聞くところによると、その方は兎歳生まれだという。  これらの場合は、瞳から読める訳ではないので、確実性は極端に落ちる。  だが、その問題から発している数値や、相手の思念といったものが、パッと  伝わってくるのだ。いわゆるこれは『閃く』という言葉に属するのだろう。  他にも、食べ物を買ったり、衣服を購入したり、食事を摂取する時なども、  そのものから発する波動を読みとり、自分の今の状態に適しているか、  いないか?を考えてから行動に移すようにしている。  だからある程度、自分の心身の健康状態をコントロールできるように  なったきた。これは進歩だと思うし、感謝したいと思う。  * * *  ここまではよく聞くような並大抵の話だと思う。  僕はここでARIONの言っていたこととの接点を書いてみたい。  『光よりの光』の155頁の図には、情報と欲望、心と瞳、眼球と魂との  関係(これらは=で結ばれている)等が示されている。これはこれで、  かなり参考になる話だが、それ以上にこの図を見ると、情報といったものが  △や×、○や■といった『記号』で表現されていることに気づく。  僕が前々から思っていたことに、『記号』というものの根本性がある。  例えば自己分析や心理解析なども言葉による『記号』に変換して行う  もののように見えるし、『自分を観る』ことも極めて記号(論)的だと  思うのだ。自分を観る場合は、様々な記号が多種多様な角度や反射率を  もった数々の鏡の空間を飛び交う様子と似ているかもしれない。  記号…は突き詰めれば総て言葉と数値の2種類に分かれるものだ。  宇宙はその2種類の要素が十字交叉することで出来上がっていると聞いた  ことがあるが、実にその通りだと体でわかるようになった。  これは言い換えれば精神と物質の2種類の波動…ということなのだが、  ここで言いたいのは、物事は突き詰めれば総て「科学的」ということだ。  そういえばかの日月神示はほぼ総て、数字で構成されているし、  「ARIONの世界は数字だらけ」(←表現は違うと思う)といった  ことを聞いたこともある。  ここから導かれる結論は、物事の根本は実は単純であり、解決できない問題と  いうものは存在しない、ということだ。如何なる困難な問題であっても、  問題に対する自分自身の「解決プログラム」がきちんと認識できさえすれば  良いことだということ。ただ、その潜在的に眠っているプログラムを、  滞り無く、正常に実行する為に、ちきんと『自分を観る』ことが必要に  なるのだと思う。そんな意味で、『自分を観る』ことは、自ら隠してしまった  秘宝(魂)を見出して行く、画期的な方法論なのだと思う。            ほんとにブッ飛び話になってしまった…優位(JCF00616)