- FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 95/08/22 - 00904/00904 PXH01650 英雄 13は勝利の数字 ( 3) 95/08/22 00:44   先日、映画「アポロ13」を観てきた。僕は、アポロ11号の月面着陸の  瞬間をリアルタイムで観た世代だ。しかし、これほどエキサイティングなサ  ターンロケットの発射シーンはなかった。   この「事件」はもう20数年前に起きたものだ。映画はほぼ忠実にその有  様を伝えている。この時アポロ13号は、考えられる最悪のパターンに見舞  われた。しかし、そのすべてに打ち勝ち、見事に生還を果たしたのである。   13という数字は、この「事件」以後、どんな困難も乗り越えようとする  不屈の闘志と勇気、そして人間の英知の結集のすばらしさを示すものになっ  たと確信している。ここにこそ真理がある、と思った。   この映画からはあらゆる事が学べるだろう。全世界の若者に是非観て欲し  いものである。   サターンVのプラモを買おうかな(^^;☆英雄 - FARION MES( 7):自己対面鏡 ★ ARIONを鏡にして 95/08/22 - 06359/06359 HQH01145 蜥蜴 ARIONのいう「自由」 ( 7) 95/08/22 01:19 こんばんは、蜥蜴です。 蜥蜴はARIONの言う「自由」について、「それって、おかしいんじゃないの?」 という立場から「自由って何?」「自由再考」をUPしてきました。 ここにきて、これは、ARIONのいう「自由」を本当に理解しようという立場に 立ってないんじゃないか?と自問自答するような気持ちに変化してきました。 そこで、「光よりの光」と、みれさんからいただいた「光の黙示録」を何度も読み 返し、また、皆さんの意見を読み返し、ひとつの結論に至りました。その結論はまさ にヒラメキのようなものからひきだされました。以下にその過程、及び結論をUPし たいと思います。 * 1.結論に至る過程 (1)蜥蜴は「自由」という言葉ばかりに囚われて、「人間の存在理由」という方 向から考えてみなかったのではないか? (2)それでは「人間の存在理由」って何だろう? (3)うーん、欲望を実現することかな? (4)ん、待てよ! ・・・・・ここで突如として、蜥蜴が高校生時代「倫理社会」    という授業 でK先生(この先生は片足が不自由で杖をついていた)に、キル    ケゴールの説明を聞いている 場面が映像として浮かぶ。・・・・・・ (5)キルケゴール? えーと、なにした人だっけ? 「絶望」が何とやらとかいって たなあ。あ!「実存」だ! うっ!確か文庫本でこいつの本読んで最初のページ から理解できなくて、親父の本棚にいれておいたなあ。 (6)蜥蜴は御盆休みで実家に子供を連れて遊びに行き、親父の本棚を見てみる。 (7)その本は蜥蜴の親父の本棚に20年前入れた状態のまま置かれていた。 (8)蜥蜴はその本「死に至る病」を20年ぶりに読むこととなった。 * 2.キルケゴール「死に至る病」(蜥蜴流要約ー自由を観点にして) (1)人間は精神的な存在であり、そのため絶望は精神を持つ人間特有の病である。 (2)人間はその生がもはやどんな新しい可能性も持たないと感じる時、もっとも 絶望する。反対に可能性さえあれば、どんな苦境も乗り越えて、自由な人間的 存在であると言うことができる。新たな欲望とその実現可能性が生じる限り、 人は生きる理由を生々しいかたちでつかむことができる。 (3)人間の存在理由は、幸福や理想の実現ではなく、ただ、「実存」し得るとい うことにある。「実存」とは人間が常に自分の有り様を了解し、その上、新し い有り様で生き得るという可能性を手放さないことだ。 (4)この意味で自由と実存とは、同じ事の別の表現にすぎない。 * 3.結論 ARIONの説く「自由=人間の存在理由」とは「実存」の意味である。 * 4.付け足し (1)キルケゴールの蜥蜴流解釈は、その後の思想家であるハイデガーの「実存」    概念も入り込んでいます。 (2)蜥蜴はARIONの「自由」概念は「実存」だとの結論に至りましたが、こ    れは蜥蜴の結論であって、皆さんの「自由」概念を否定するものではありません。 (3)「死に至る病」を読むなかで、ARIONの「光よりの光」の自由に関する    例え話し(男女間の)と非常に似た箇所を発見しました。ARIONは哲学者と    も交信していたのかも知れませんね。 蜥蜴 - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 95/08/22 - 00614/00614 GFB00026 一輝 「つまらない」のは、誰なのか。 (12) 95/08/21 21:14 00608へのコメント >#608 KUNIさん、初めまして。興味深い話に感謝しています。 サイコパスの遺伝的な資質、つまり一次的要因というのは、誰もが抱えているものだ と思います。それが解消するのか助長するのかは、親元に居る時の躾けで、ある程度 は決まってくるのではないかと思います。原因の多くは「親に甘やかされ、欲望にど う歯止めを付けたらよいのか分からないままに育ったこと」です。これが二次的要因 です。 そして、最後に自分が身に付けてきた躾けや教育を振り返り、検討し見直すべき点を 改革するのですが、この部分は根気強く自覚を伴って対処してゆかねばならず、挑戦 経験者にとっては何度も挫折を味わった想い出があることでしょう。しかし、「大人 になっても欲望に歯止めが付かないままに、自分自身をいつまでも甘やかし続けてい る」と、これが三次的要因になります。いよいよサイコパスが発現しやすい状態です ね。そしてこの経験を助長した者の子孫が、サイコパスの一次的要因を色濃く後世に 継承してゆきます。 KUNIさんのお話にもありましたが、私と同じように甘やかされて育った私の母も、人 格的に尋常でない資質があり、サイコパスに該当する部分を持つ人でした。彼女の場 合は、「甘やかす」と「虐待する」という正反対の態度を頻繁に繰り返し、幼いなが らも私は人間不信・女性不信に陥り、小学校入学の前には母への殺意を持っていまし た。その殺意は学年が上昇するにつれて、様々な小動物への殺意と実行へと変貌して ゆきました。 特に昆虫を殺すときの身体を駆け抜ける興奮を思い出すと、サイコパスが殺人を行う 時の興奮に近いものがあったのではと思います。これは、痣だらけの幼い私を包丁や 鋏を持って追いかけた母の興奮にも通じていたように思います。私はやがて、喧嘩を しても相手が半殺し状態になるまで止めない暴力少年になっていました。母も私も脳 内で「汁」を出しては酔っていたのです。 一次的要因や二次的要因は、その頃の本人にはどうにもならないものです。問題は親 元を離れてから、自分自身の問題点に「どう気づくか」です。ここが一番大切です。 自分の手でサイコパスを解決できるチャンスは、三次的要因を絶つ以外ありません。 私の体験の範囲から言えば、気づく前の自分のイメージ世界では、他のサイコパス同 様に「私は完璧である。問題点はない」と思い込んでいました。やっと気づいたのは 問題点を周囲の人々に何度も注意され、多くの自分の失敗に特定のパターンを見出し てからです。 しかし自分の問題点にせっかく気づいても、自分の親や生まれ育った環境を悔やんで しまっては意味がありません。「親の躾けが悪かったからだ」と問題点を放置したと しても、自分はすでに一人前の大人であり無力な幼児ではないのですから、惰眠を貪 る理由は全く無いのです。現在の自分が問題点を分かっていながら改革しようと努力 しない、その心を正当化しようと責任を親や環境に押しつけても、意味を成し得ませ ん。「いつまでも責任の不要な幼児でいたいんだ」と言っているようなものです。 「社会そのものがつまらなすぎるのではないか」という意見にも、同様のことが言え ると思います。「社会そのものがつまらなすぎるのではないか」というのは、「自分 の外部の環境に問題点がある」という心に起因しています。その心の背景には、「自 分も、その”つまらない社会”を作っている一人なのである」という責任感が欠如し ているのです。 なぜなら、あくまでも問題は自分の外部にあり、自分自身には無いと日頃から思って いるからです。このように外部環境に依存し甘える傾向の人々は、たとえいかなる環 境に置かれようとも、「自己は完璧であり、つまらないのは社会である」と思い込ん でゆきましょう。それでいて自分からは何もしない。これでは自分の人生は、困難を 克服した充実感も無く、いつまでも空っぽのままです。その空っぽさに我慢できない からと「社会をつまらない」と言うのでは身勝手です。 「日本が管理社会」というのは、メディアの風潮によって作られたものです。管理社 会というのが本当ならば、阪神大震災やサリン事件で、多くの政府自治体機関のズサ ンさが、あのように露呈することはなかったはずです。一人一人が自己管理すらでき ない状態であるのに管理社会がどう実現出来ているというのだろうか、と考える方が 自然だと思います。 かつて、この国を管理していたものがあったというならば、それは一人一人のモラル です。江戸時代、世界一の大都市だった江戸に、現在の警官にあたる同心という武士 は、僅か50人にも満たなかったそうです。江戸の治安は同心だけではなく、人々の モラルによって保たれていました。モラルとはこの場合、欲望の自己抑圧としての道 徳ではなく、責任の自覚から生じた自己管理という意味での道徳のことです。日本人 がモラルを失った今、これから日本はいったいどうなるのでしょうか。 社会を「つまらない」と言ってしまうのは簡単なことです。また「つまらない」こと に耐えられず、ドラッグやテロに走ってしまうことも、欲望の自己抑圧からの解放と いう意味では簡単なことなのかもしれません。しかし問題は、”なぜ自分が「社会を つまらない」と感じてしまうのか”ではないでしょうか。このことにこそ、もっとい ろいろな意見の交換があっていいはずです。 アメリカでのサイコパス300万人が、日本の未来にあってはなりません。だからこ そもう一度、”戦後世代という名のニューエイジ”について、皆さんと私的体験を持 ち寄り合って考えてみたいと思います。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/08/22 - 03273/03278 BYP00077 柳 風男 ご挨拶申し上げます (13) 95/08/21 23:36 コメント数:1 みなさんこんにちわ。柳 風男と申します。 しばらくROMをしておりましたが、シュタイナーについて自由に話しができ るこの場の雰囲気に魅せられてぜひ参加させて頂きたく初めてUP致します。 KAZEさんの包容力の大きさと、現実から何かを学びとろうという姿勢はなん だかシュタイナーの生き方そのものを見ているようであこがれを感じます。シ ュタイナーも20世紀末に、日本で、パソ通という形で自分の思想が語られ、 そしてそれを大切にしながら生きている人がいるとは想像しなかったのではな いでしょうか?充分驚くに値することだと思います。 初めてだというのにもう言葉に詰まりまして、なにを書けばいいのかわかりま せんが(自己紹介というものが苦手なもので・・・・)わたくしもみなさんと の会話のなかでなにがしか学ばせて頂こうと思いますのでよろしくお願い致し ます。(KAZEさんの読書会を心待ちにしております。) 柳 風男 03274/03278 GGA02514 KAZE ウェルカム、柳 風男さん(^^) (13) 95/08/22 00:39 03273へのコメント 柳 風男さん、はじめまして&ようこそ。 当会議室の議長をしておりますKAZEと申します。 「柳 風男」というハンドルネームに「風」が入っていますね。 なんだか、とっても親近感を感じてしまいます(^^)。 柳 風男さんは、シュタイナーの思想についてご関心があるのですね。 この会議室は、シュタイナーにかぎらず、自分なりのテーマを持ち寄りながら それを通じて、それぞれがよりよく生きるための手がかりを得ようとする そんな場所にしていければと願っています。 ですから、シュタイナーだけではなく、身近なところから なんでも書き込んでいただければと思います。 ちなみに、シュタイナーの読書会・・・滞ってますが(^^;)、 やっとお盆前までほどの忙しさからは解放されつつあるようですので、 近々、「薔薇十字会の神智学」の第五章の2回目をアップしようと 思っていますので、よろしくお願いします。 そうそう、先日みのる♪さんにはご紹介したのですが、 ●浅野信:ハルマゲドンを越えて/リーディングで読む21世紀(ビジネス社) という本が最近出ていますが、シュタイナーと表現形態は違いますが、 この本に盛られている内容は、シュタイナーと重なる部分や、 シュタイナーの思想が前提になっている部分が多くありますし、 このなかには、ぼくが話したいと思っていたことが山のように詰まってますので 機会がありましたら、ぜひお手にとってくだされば幸いです。 歓迎の意味を込めまして、この本の最初の「総論」の部分から、 キリストと反キリストについての部分を引用させていただきます。   新しい時代におきましては、キリストというものを外に見出すのではなく、   自分の中に探す、そして確認するということが必要です。各人が自分の中   にキリスト意識を担っているということを確認しあうということです。自   分の中に見出されたならば、他者の中にも見出すことができ、さらに自然、   万物の中にもうかがい知ることができ、神の普遍性、つまり光の普遍性、   一体性、共通性が見えてくるのです。これからの世界に、誰か特定の一人   のキリスト、メシアが登場するわけではないのです。(P27)      自分の中に反キリストが存在し、それと和解した結果として、外なるあな   たの反キリストとも和解し、受け入れられるということが起こりうるので   す。反キリストはあなたの味方となるでしょう。悪魔はあなたの友達です。   悪魔はあなたの敵ではありません。味方です。悪の働きは、神の外にでは   なく、中にあります。(P32)      結局反キリストはあなたの中にいたのです。自分の中の本物の正体である   反キリストをよく見ていって下さい。そして逃げずに、そのことと向かい   合いそれが自分の一部に他ならなかったことを認識し、受け入れるのです。   そしてそれと和解し、手を結び、そこを慰め、癒すのです。(P30)    なんだか、唐突な引用ではありましたが、 このキリスト−反キリストの視点というのは、 何からでも学んでいこうとするときの重要な視点でもありますので、 歓迎のあいさつにかこつけて、紹介させていただきました。 だれでも、自分の中に、キリストと反キリストを持っています。 そしてその部分を発見し、それを見据えていくことが とても大切なことだと思います。 では、今後ともよろしくお願いします(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆