- FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/08/25 - 00235/00236 JCF00616 優位 「あなたならできる」 ( 5) 95/08/24 16:02  さっき、ワイドショーを観ていて、かの自転車少年、高橋龍君のことを  やっていた。彼は齢幼くして日本縦断を果たしたのだった。  …たしかに凄いことだ。貴重な体験をしたに違いない。  この体験を通して、彼自身の輝かしい未来が開かれてゆくことを願いたい。  しかし、彼の努力も凄いが、それと等しい程に、素晴らしい言葉があった。  それは彼の父親が出発前に言った、「龍ならできる、大丈夫」という言葉だ。  彼が辛い道中の中で、一言も疲れた、もう止めたい、と漏らさなかったのは、  この言葉があったからに他ならない、という。番組のぎりぎり最後で、  僅か数秒間に紹介された言葉であったが、これほど凝縮された時間は  他に見あたらなかった。本当に素晴らしい言葉だと思った。  「あなたなら必ずできる」  父親のたった一言が、彼に希望を与えたのだ。  そしてその希望は、彼の心から決して離れることなく、目的へ向けて、  大きな心の支えになったのだ。こんなに素晴らしいことがあるだろうか。  自転車少年を日本縦断へ向けて、決心させ、支えとなった言葉、  人間の秘められた、大いなる無限の可能性を引き出す言葉…  「あなたなら必ずできる」                  言葉のパワーって凄い… 優位(JCF00616) 00236/00236 QWC01550 コットンマウス 独り言 ( 5) 95/08/24 16:07  コットンマウス(cotton・mouth)= アメリカ南東部の湿地帯に住む蛇の意味  このハンドル名は、私が高校生の時に読んだ小説「15時間の核戦争」 (原作者=W・プロクノー、原書名=Trinity's Child、出版元=早川書房) に出てくる暗号コードに由来する。  B52戦略爆撃機が配備されている空軍基地において、爆撃機クルーに面会に来て いた子供が、突然、爆撃機(熱核兵器搭載済み)に向かって走り出し、追いかけた母 親と一緒に警備兵に射殺されかかった時に、父親であるクルーが警備兵に対して、投 げかけた暗号コードである。  当時は、この小説が言っているように、かつてはやりの限定核戦争論がナンセンス であるのは勿論だが、「何故、熱核兵器(叉は、生化学兵器)のような軍事的合理性 の範囲を越えた兵器が存在するのか?」という疑問を大きく感じたことを思い出す。  核戦争が始まれば、この小説の日本語名ではないが、約15時間を越えれば制御不 能に陥るし(もっと早いと思う)、相手そのものを消滅させてしまう危険が大きいの に・・・。  大学時代に、法律や政治の勉強の傍らに色々調べ考えたが、明確な回答はついに得 られなかった。  就職してしばらくして、聖書預言ついて書かれた本に出会う。直感的に明確な回答 を得たように思った。    「預言を実現させるためである」と。聖書の各預言(外伝含む)に書かれている状 況を実現するために欠かせない兵器なのだと。  「預言は当たるのではない、当てるのだ!」。  そこで、私の思索は終わり、漠然とした不安を抱えながら日々の生活を送るように なった。  学校で教わった近代合理主義と知識の集積では、この不安を対処することはできな かった。非合理的な目的のため、合理的で精緻なプログラムが組まれているように感 じた。  その後、FARIONに出会う。近代の悪しきプログラムから抜けでれそうな予感がして いる。            仕事し過ぎで、稼働不能状態に陥ったコットンマウスでした。 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/08/25 - 03296/03298 GGA02514 KAZE 聖杯 (13) 95/08/25 10:49 03287へのコメント 柳 風男さん、どうも。 まず、高橋厳さんのことですが、 高橋厳さんは、この日本にシュタイナーを紹介した先達として 非常に重要な方であるということはいくら強調してもしすぎることはないでしょう。 ぼくもまずは高橋厳さんの訳書や著作のおかげで多くを学ぶことができましたし、 講義を受けたり、お話をさせていただいたりしたことを忘れることはできません。 あくまでもそれを前提としたうえで、言いますと、 高橋厳さんが荒俣宏さんとの対談で確か言われていたことでもあるのですが、 ある種の権威というか組織の問題がどうしてもでてきたのだと思うのです。 高橋厳さんがものすごくがんばられたおかげの裏面といいますか、 あまりにも権威化しすぎてしまって、 高橋厳さんもそれにのっかってしまったというか。 それで、高橋厳さん流のシュタイナー解釈が少し暴走したといいますか。 詳しくは知らないのですが、かつて人智学出版社との確執のようなものも、 そういうことと無関係ではないと思うのです。 ぼくはそこらへんから学んだものというのはとても大きいのですが、 特にシュタイナーのように霊的な事象を扱う場合は、 自分のなかのちょっとしたエゴの部分というのが おそろしく肥大化してしまう傾向にあるように思います。 ですから、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のように、 つねに自分に厳しく誡めを持ち続けていないと危険な部分がどうしてもあります。 シュタイナーは、生前の講義などで、毎回毎回、口を酸っぱくして、 人生の生きる力にならないような人智学ではいけないとか、 人智学を権威化してはいけない、自分だけを正当化してはいけない、 そうした内容のことを繰り返し言っていたようです。 それはおそらくそうした霊的なものに関わる際の暴走を戒めるための 「反省」を忘れないようにするためだったのだと思っています。 そういうことを念頭に置くと、やはり権威やその上にのっかった組織というのは よほど自分に対する聖人に近いまでの謙虚さがないと、 小さな暴走くらいは避けられなくなってくるのではないかと思われます。 ぼくの知る限りでも、ドイツの人智学協会そのものがそういう温床のようですし ぼくの知ってる範囲で人智学から変な方向に行ってしまった方はけっこういます。 それは、人智学そのものというよりも、そのなかに好き勝手な霊的なネタを ぶちこんで、それを権威化するようなあり方から生じているようです。 一番多いのは、ユングなどの精神分析をかじった方が、 ひとの魂の問題をさも自分は権威であるかのようにふるまって かきまわしてしまったり、あげくはドラッグを使ったりという方向です。 シュタイナーの残している精神分析批判に関する講義でも、 そこらへんの危険性についてはかなり詳細にとりあげているのに、 そのまったく反対のことをシュタイナーを権威化してしてしまったりする。 そうそう、シュタイナーについてのまとまった文章を寄稿した方が、 「シュタイナーは輪廻転生を否定してたんですよね」なんて馬鹿を言ったりする。 そういう方はシュタイナーを読んだふりをして 自分の勝手な考えを吹聴しているだけにすぎないんですけどね。 シュタイナーを1冊でも読んだことのある方なら、 「輪廻転生を否定してた」なんて言うことはまったく不可能なはずなのに。 こうしたことはいまでも相変わらず続いているようで、 そういえば、高橋厳さんに続いてシュタイナー紹介者として活躍されてた 西川隆範さんとイザラ書房の関係にもどうも不穏な動きが感じられます(^^;)。 そういう意味で、ぼくは人智学協会とかに入会したいとは思わないんです。 で、一番いいのは解説書を読むよりも、丹念にシュタイナーの著作や 講義録を読んでいく作業を続けることだと思うわけです。 そうそう、もちろん、そういう意味で、ぼくがシュタイナーに関して あれこれ語っていることも十分ぼくのフィルターを通ってますから、 それをそのまんま鵜呑みにしないほうが得策かと思います(^^;)。 あれれ、前置きにしようと思ってたのがだらだらと長くなってしまいました(^^;)。 >われわれはルシファーにあずけられた存在なのかもしれません。迷うこと、さま >ようことで自由を獲得することが課題である。もっともいつまでもあずけられっ >ぱなしでは救いの届かないところまで迷いこんでしまう可能性がある。本当のル >シファーであるキリストと出会い、救済を受けるための準備をすることが、今、 >必要だと高橋さんも考えていらっしゃるようです。 自由についていうと、我々は自由であるのではなく、自由になるのです。 つまり、自由を獲得しようとすることによってしか自由であるとはいえません。 それから、「救済を受けるための準備」という表現はどうかなとは思いますが(^^;)、 意味あいとしてはよくわかります。 そこらへんのことは「聖杯」ということに関係づけて説明したほうが わかりやすいかもしれませんね。 「ハルマゲドンを超えて」のなかにもそれに類する箇所があって、 ぼくの理解と非常に近いものがありますので、またそれからご紹介します。   他者の認識が自己の認識に移ってくるということがおこなわれるようになり   ます。一人の悟りの力が、他者の覚醒を促していきます。そしてその覚醒の   度合いばかりでなく、覚醒の質や種類というものがあり、自己の覚醒が他に   インパクトを与えるばかりでなく、他者の覚醒が自己に帰ってきてインパク   トを及ぼします。そうすると「互いの覚醒」と一言でいっても、その質や内   容や方向が異なりますので、自己が覚醒した後でも他者の覚醒が自己を豊か   にし、奥行きをもたせるのです。そうしますと、自己の魂の枠組みが広がっ   てきます。この「聖杯」という魂の枠が広がってくるにつれて、その己の   「聖杯」−−すなわち心臓、ハートですが−−この「聖杯」というハートの   魂の容器が、地球大に広がってくるのです。   私たちはこのようなイメージを今見ています。すなわちグリーンの大きな聖   杯です。一つの大きな聖杯、そしてその聖杯の器の中には青い地球が盛られ   ています。この聖なる杯には、地球が乗っているのです。なぜならこの青い   惑星地球は愛なのです。愛の惑星である地球。それは一つの大きなグリーン   の聖杯に支えられた新しい血液なのです。これを人はワインとも呼ぶでしょ   う。「新しいワインは新しい杯に」。これが新しい時代のイメージです。   地球は新しいワインです。キリストの血液は新しいワインとして、大きな一   つの杯に盛られるようになるのです。青い地球をももし溶かすことができれ   ば、それは新しいワインとなるでしょう。地球生命体の血液は新しいワイン   です。人々の認識力が高まってきます。それによって、このような新しい聖   杯のイメージが浮上してきます。その時にそのワインは輝かしい愛のオーラ   を放つことでしょう。グリーンとブルーが混じり合った、それがこの地球の   オーラです。また他のさまざまな認識も、人々の間に確認できるようになっ   てくるでしょう。人々が己の魂を他の経験や他の覚醒を自己の中に受けとめ   ることによって、己のハートという容器の枠組みを広げ、それを育成してい   くことが可能なのです。(p107-108) えっと、「キーワード」をたくさん並べていただきましたが、 どのキーワードも今後読書会でもふれられていくものですので、 それらについては追ってということにさせていただきます。 ただ、「山川草木悉皆成仏」に関しましては、 みのる♪さんもコメントをつけられてましたので、少しだけ。 これは大乗仏教的、しかもそれが日本的に受容された受けとめ方であると 思うのですが、そこには非常に重要なことが盛られています。 これまでの読書会でもふれらてきたことと関係しているのですが、 「山川草木」というのも、それらは高次存在のひとつのあらわれとして とらえることができます。 つまり、高次存在が自ら供儀を捧げることで現象しているという考えです。 たとえば、シュタイナーは、鉱物存在は、個体化していることそもののが供儀で それは砕かれることによって大きな解放となるといいます。 しかし、そうした存在は個体化することで、 さまざまな存在たちの進化のための場を提供しているわけです。 あらゆる存在は、霊的な事象も含めて相互に関係しあっています。 そういう関係性のなかで、すべての存在が進化発展していくためには、 そしてその契機としての「成仏」をしていくためには、 そういう「縁起」を理解し、それを進化発展の方向に向けていくことが必要です。 ですから、先ほどの「聖杯」の話にありましたように、 すべてが地球という聖杯のなかで、キリスト衝動を受け入れるということの 可能性という意味での「山川草木悉皆成仏」ということがいえるわけです。 ちょっと説明足らずの感もありますが、こんな感じでしょうか。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03289/03298 PXY03747 諏訪みのる RE:RE^4:瞑想の効果など (13) 95/08/24 16:44 03282へのコメント コメント数:1  こむさん、こんにちは。 > なにせTMは理解するものではなく、実践するものですから^^;  どんな本 >でも紹介止まりなわけです。  はい(^^)、こむさんから何度となく御忠告いただいて(笑)おりますので、重 々承知致しております。  ・・・でも、もそっと関連本を読んでみたいという欲求がありますので、もう 少し読ませて下さいまし(^^;)。  で、とりあえずはマハリシ=ヨギの口述本を手に入れるべく手続き致しました ので、それを読ませていただいてから、こむさんにも質問させていただく事にな ろうかと思いますので、その時には なにとぞよろしくお願い致します。(^^)/  でわ、では。 みのる♪デシタ。  P.S. 昨日は遅ればせながら、家族・兄弟そろって、英田の祖父の所へ墓参り     に行ってきました。 あのあたりも、近所に「ドイツ村」なる施設が出来ていて、少しずつで     すが開けて来ているようでした(^^)。 03290/03298 QZE03111 こむ RE^6:瞑想の効果など (13) 95/08/24 21:01 03289へのコメント  諏訪みのるさん、こんにちは。  はいはい。ではこちらも勉強しておきましょう。       *****こむ より***** 03291/03298 GGA02514 KAZE 国を愛する内的衝動vs外的衝動など (13) 95/08/24 23:19 03268へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >机上のお勉強や抽象的な議論も必要なわけですが、実生活での学びがなければ、 >無駄になる場合の方が多そうです。 ぼくは、そもそもけっこう机上の空論や抽象的な話が好きな方なので、 自分のそういうところが災いしたのか、 実生活での学びという視点を痛切に感じ始めたのはかなり最近のことです。 今でも、生々しくないことのほうがずっと楽で、 すぐにそういう方に逃げたくなってしまうことが多いのですが、 自分に鞭を打ちながら、少しでも行動に転化できるようにしようとしています。 で、行動として転化できるような学びというのは、ほんとうに身に付くんですよね。 そのことを実感してしまうと、逃避は自滅だと否応なくわかってしまうので、 今は、そういうことを自分に言い聞かせながら、やっているところです。 >もうそろそろ3年になりますかぁ。なんかあっという間ですが・・・はた目から >見ると「飽きないジジイどもだ」って見えるんでしょうね(^^;)。タハハ はははは、確かにそうかもしれません(^^;)。 振り返ってみて思うのですが、こうして隆ちゃんと日々話しているように コンスタントに何でも話し合っている関係というのは、 相棒をのぞけばそんなにいないように思います。 そういう意味でも、なかなかに貴重な茶飲み話ですので、 これからも懲りずに続けていければいいですね(^^)。 >僕などはしっかり夏バテですけど(^^;)、まあ、幸いなことに日本は必ず冬にな >りますから、もう少しの辛抱です。 ぼくもまずは秋になるのを心待ちにしているのですが、 秋には今年もたくさん仕事のイベントを控えていまして、 なんだか恐いというかなんというか(^^;)。 しかし、いつもしつこく愚痴ってしまうのですが、 つかの間のお盆だったとおもったら、またかなり忙しくなってきまして、 いつになったら、まとまった時間がとれるのだろうとゼーゼーの毎日です(^^;)。 >規範や秩序があってこその自由であって、ただただめちゃくちゃでは、それこそ >単なる混沌で、なんだかわけがわからなくなります。 「守」「破」「離」ということを忘れてはいけないということですよね。 まずは、規範や秩序をちゃんと身につけていくことからはじめ、 その上で、それから自由な自分ということを模索していきながら、 単なる「守」でも「破」でもないような、ほんとうに自由なあり方を身につける。 それはおそらく、「己の欲するところに従いてその矩を超えず」というような そんなあり方なのではないかと思います。 >僕は、そのへんがKAZEさんの強みなんじゃないかと思います。もちろん、ひょっ >とすると弱みでもあるのかもしれませんけど(^^;)、 確かに、物心ついてからどこにも自分の規範とするものがずっと見つからず、 どこからも浮いたまんまでこれまで来てますので、けっこうつらい(^^;)。 先の「守」という部分が希薄なぶんだけ、 ある種の自由を疎外してるかもしれません。 でもって、最近になってなんとなく実感してきたことというのは、 ぼくは自分の中に自分の規範とする理念のようなものがかなり強固にあって、 それをまわりに探そうとしながら、少しも見つからなかったということのようです。 それで、まだ「外」には見つけられませんが、35年ほどかかってやっと、 その「守」の部分を自分なりに身につけ始めてるように思ってます。 ですから、これからやっとこさ「破」にも向かっていく可能性がありますので、 「狂ったおじさんは恐いぞ!」なんていうことになるかもしれません(^^;)。 変な禅坊主のようになったりしてね・・・(^^;)。 >ですから、その思想の色合いはともかく、その手法というか、考え方の在り方み >たいなもの(どうもうまく言えませんが)はとても参考になるだろうし、意義深 >いものだと思います。 はい、シュタイナーの思想は、その「考え方のあり方みたいなもの」こそが重要で それを学ぶことで、自分が世界のなかでとりうるスタンスのようなものを 自分なりのアレンジで獲得していくことができると思います。 だから、シュタイナーをまとまって読み始めてから、 日本の文化などをふくめて、それまで腑に落ちなかったようなことが、 次々とその意味あいを自分なりにとらえることができるようになったと思ってます。 だから、ぼくは「人智学協会」とかには関係のないスタンスでいるわけです。 >僕はどうも「しっくり」こないと力任せにゴソゴソ動く傾向がありますが(要す >るにせっかちなのですね)、こう我慢して「じっくり」見ないとわからないこと >がいっぱいありますから、心したいものです。 ぼくも実際のところ、どちらかというと「じっくり」タイプではなくて、 多血質的な要素を多分にもっています(ベースは憂鬱質ですけど)。 その点、相棒は粘液質的な「じっくり」の部分を多分にもっているようですので、 そこから学ぶものはとってもたくさんあります。 「じっくり」で得られる気づきというのは、ほんとうに豊かなものです。 >その「場」というのがやはりポイントだなと思います。民族の種類などはあんま >り関係なくて、重要なのは「日本」という環境であり、空気なんじゃないかと思 >います。 ぼくもそういうことは感じます。 特定の場にいると、その場は形成場として、そこにいる存在を ある「カタチ」にしようと働きかけるというか。 シュタイナーは、それを集合魂だとか民族魂だとか言ってるんですが。 さて、そうして形成されていくでろう「民族性」などに関して、 シュタイナーの興味深い次のような話を先日、 「天使と人間」(イザラ書房)に見つけました。(P101-103)。 「理想主義的な思想や、理想主義的な感情や、人間愛や、真の純粋な敬虔さに 属するもの」を持っているかもっていないかで、地上に生まれてくる場合、 民族や母国語への衝動が「内面的に植えつけられるか」、または 「より外面的に植えつけられるか」が決定されます。 「内的に、魂的に、そして愛情豊かに母国語への思慕の念に満たされている人は この母国語を内面的に受け入れます。」 しかし、「より機械的に」、つまりそういうものを内的に獲得していない人は、 「ただ本能的に、衝動的に言語を愛することを学ぶことになります。」 「衝動や本能の中から民族や言語に関する内的な愛を、いわば無理やり 生じさせるのです。」   前者は世に言うショービニズム、つまり民族性の外面的な主張として現われる   ことはありません。前生における理想主義的で敬虔な体験の中から実際に獲得   された、民族や言語の内的で霊的かつ魂的な愛はごく自然に姿を現わし、真の   普遍的な人間愛と一つになることができます。四海同胞主義(コスモポリタニ   ズム)的な、あるいは国際主義(インターナショナリズム)的な感覚が、言語   と民族性に向けられたこのゆおな霊的で魂的な愛によって歪められることは決   してありません。これに対して、人間がより機械的に言語に適合することによ   って、言語や民族性に対する過熱気味で、有機的で、動物的な愛を本能や衝動   と共に発達させる場合には、間違ったナショナリズムで、ショービニズム的な   考えや、外面的な方法で民族性を自慢しようとする傾向などが生じるのです。    真に国や民族を愛する気持ちと、それを外面的な熱狂として表わす傾向とは よく誤解されてしまうことがあるのですが、まったく違うわけです。 おそらくは、自分の国を貶めることを嬉々としてやっている方々は そうした「外面的な」熱狂の裏返しなんでしょうね。 そう考えると、なんだか合点がいってくるように思います。 >「東洋にはろくな文化がない」とか「東洋人は世界のことをわかっていない」と >いう西洋人&西洋かぶれの日本人がたくさんいるのが、なんだかとっても情けな >い。トホホ そういう「西洋かぶれの日本人」というのは、 先ほどのシュタイナーの言葉を借りると、「理想主義的な思想や、 理想主義的な感情や、人間愛や、真の純粋な敬虔さに属するもの」を 持っていないんでしょうね。 ほんとうに、とっても情けないことですが(^^;)。 >個としての確立なくして集合の要員足り得ないし、集合を経験せずして個の確立 >もあり得ないように思います。 はい、ぼくもまったくその通りだと思ってます(^^)。 そういう意味でも、最初にあったように、「実生活での学び」ということなくしては 個としても共同体の一員としても成り立たないんだと思います。 心しなければと思います。 >でも、それが本当に当たり前かどうかは・・・ちゃんと吟味しない >とわかりませんから、やっぱり自分をきちんと見る習慣の大切さを感じます。 はい、「当たり前」の吟味というのは、とっても重要ですね。 自分だけが「当たり前」だと思っていることってなんだろう。 そういう感じで、日々チェックしていくと、 自分の認識の限界を破る非常に有効なキーを得ることができることが多いです。 そういうのも、まさに「実生活での学び」が多くを提供してくれるわけです。 では。 ☆☆☆KAZE☆☆☆