- FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/09/11 - 00268/00274 SDI00635 みれ RE:みれにゃ〜 ( 5) 95/09/10 16:37 00267へのコメント コメント数:1  #00267 スウ さん  をを、なんとミレーニア!!  なんか凄いなぁ…ペルソナのキーなんか、もろARIONマークだったり したんで驚いたけど、ミレーニアとは…(^^;) まだその車見てないけど、き っと奇麗なんだろうなぁ…(^O^;)他意は無し。  うちのペルちゃんは、まだ頑張ってるんだけど、買いかえの時にはミレー ニアを当然、意識しちゃうだろうなぁ(笑)  頭の中でワンフレーズがリフレインしてしまうのって、よくありますよね。  ぼのぼのの何巻だっけかで、しまりす君の頭の中でのリフレインをどうしよ うかってな話があって、あれは思いっきり同調しちゃいました>私  ちょっと前の話ですが、私の頭には、かの「のぞみ」のコマーシャル「のぞ みで行くからね〜」がリフレインしてしまい困ったもんでした。その後、偶然 にも「のぞみ」に乗れたので、一人旅でしたが至極満悦した私は思わず声を出 して歌ってしまったのでした。それもちょうど検札に車掌さんが来た時だった ので、恥ずかしいったら無かったです(笑)  ファイブミニプラスにもリフレインされてしまったことのある私です(^^;) ・:*:・みれ・:・。,★ 00272/00274 GGD02212 スウ RE:みれにゃ〜 ( 5) 95/09/11 06:06 00268へのコメント コメント数:1  ミレーニアは高級車ということで、¥260万以上したと 思いますが…新車で買い替えは辛いかも…  >みれにゃ〜 00274/00274 SDI00635 みれ RE:みれにゃ〜 ( 5) 95/09/11 07:42 00272へのコメント  #00272 スウ さん  (^。^;)ウウッ…260万以上…あはは、そっかぁ〜安いんだねぇ〜(^-^;)  あ、嘘ついたら閻魔さまに舌ぬかれるんだった(笑)  高級車なのね…ウチのペルちゃんも中古市場に捨てられてたのを拾った んで、きっとミレーニアちゃんも中古市場に落ちてるのを拾うことになる んだろうなぁ…(^^;)  車の中古屋さんに行くと、なんか動物愛護協会主宰のワンニャン里親探 し大会を思い出してしまうのですよ>あたし  なんかこう寂しげな車も居たりしてね、隅っこに…。  ペルちゃんもそんな車でしたね、拾ってからもう二年にならんとしてる けど…実に、よく働いてくれてますので、未だ買いかえしないつもりなん だよね…ダンパーがへたってきてるようだけど。ミレーニアが中古市場に 出てくる辺りでしょ、きっと買いかえは(笑)  みれにゃ〜かぁ、なんか猫と仲良しのみれって感じでいいねぇ(^_^)ニッ  ハンドルをみれにゃ〜に変えたろかな(笑)ジョウダンデスケド ・:*:・みれ・:・。,★ 00270/00274 KFQ02761 しまうま 預言とその実現について ( 5) 95/09/11 00:27 00264へのコメント コットンマウスさん  こんにちは(^_^)。  僕の一言の質問に、丁寧にお答えいただいて、恐縮しています。どうもあり がとうございますm(__)m。  コットンマウスさんの最初のご発言を読んで思い出したのは、『I LOVE YOU 2』の最後にある『「予言」についての緊急メッセージ』でした。そこにはこう 書いてあります。 :この世にノストラダムスの予言の通り活動している多くの者が居るというこ :と、そして一見彼らと異なるが、やはり予言の片棒を担ごうとしている者が :いることを、あなた方は知らねばならない。  この“予言の通り活動している多くの者”や“予言の片棒を担ごうとしてい る者”は、実際にはノストラダムスの予言を信じていないんだと思います。予 言として信じているのではなく、“大衆を幻惑し迷妄させる方便としての、一 種の計画書”程度にしか思ってないのでしょう。要するに、ノストラダムスの 予言を利用して、時局を自分に都合のいいように展開しようとしているのだと 思います。  コットンマウスさんが指摘されているのは、聖書中の預言書の実現に対して “片棒を担ごうとしている者”が存在するのではないか、ということですね。 こういう片棒担ぎに人たちもまた、実際には神様の存在を信じていない人たち に違いないと思います。神、という観念や、預言というテキストをベースに、 自分たちに都合のいいシナリオを仕立て上げようとしているだけではないでし ょうか。 (意識的に片棒を担がなくても、) :少なくとも無意識の世界では、信者として、「預言」の成就を望むでしょう :し、狂信的な信者の努力を間接的に支援すると思われます。  というご指摘は、たいへん鋭いと思いました。たしかに、そういう意識は働 くでしょうし、またその潜在的な意識は一種の時流のうねりみたいなものにな っていくのかもしれません(少なくともキリスト教圏では)。  日本のような非キリスト教圏の国ならば、そのうねりを断ち切る役割を果た すことができるのではないか、とも思いました。  93/08/22 流砂に留まる磐は、「何も生み出さず何も破壊しない」力に抵抗し  94/04/22 三つ叉の矛が深海から、流砂の磐に留まる所を揺さぶるだろう  この2つのメッセージにある“流砂に留まる盤”とは、そのような破滅に向 かう意識のうねりに抵抗する国のことを表しているようにも思えます。  と、とりあえずそのようなことを考えました。また何か気づいたら、コメン トさせていただきますね。  労作のアップ、本当にありがとうございましたm(__)m。  これからもよろしくお願いします(^^)/。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/09/11 - 00118/00121 KHC01313 まるにちょん 祖土万歳\(^0^)/ ( 6) 95/09/10 14:29 コメント数:1 >祖土(オヤツチ)の蘇りを祝い、夫々のツチに働きなさい…時は来た  ついにやった!って感じで、感無量です。>ARION  国津御祖(クニツミオヤ)のカミが、ついに本格的にご活動をされものと 推察しています。  ほんとうにうれしく思います。  静かに腐っていくこの日本という国の黄泉帰りを、心から希求します。  さて、神様の方では、もう準備万端であると思いますが、では、我々日本 人はどうなんだ?思ってしまいました。  ヒトゴト(人事)を尽くしているのだろうかと。  私の観るかぎり、懸命にヒトゴトを尽くしている人は少ない。  自分を振り返ってみても、やはり人事を尽くして天命を待つとまでは、懸 命に生きてはいなんじゃないかと思ってしまいます。  どこかで楽をしたい気持ちがあって、怠けたい欲に負けそうになります。  ヒトゴトが準備ができているとはいえない現状では、我々日本人が緊急に しなければならないのは、自分の生きている「場」での役割を懸命に果たす ことではないでしょうか。  簡単に言えば、家庭では夫婦や子どもとの人間関係で、なにごともなおざ りにせず、お互いにできるだけ甘えを抑えて切磋琢磨していくこと。  会社では、どんなつまらないと思う仕事でも、自分に与えられたならとに かく一生懸命にこなしていくことではないでしょうか。  それが、夫々のツチに働かなきゃいけない、ということだと思います。  では、また。                 まるにちょん、○=ゝ 00121/00121 KFQ02761 しまうま RE:祖土万歳\(^0^)/ ( 6) 95/09/11 00:28 00118へのコメント まるにちょんさん  こんにちは(^_^)。 :どこかで楽をしたい気持ちがあって、怠けたい欲に負けそうになります。  うわぁ〜、耳に激痛がぁぁ(^o^;)。  ただ、僕は「楽をしたい気持ち」自体は悪いことではないと思います。少し でも生活が楽になるように、楽しくなるように、いろいろ工夫することは必要 なんじゃないか、と個人的には思います。  ただ、それが「怠けたい欲」と連動しちゃうと、まずいんですよねぇ(僕は よくやってしまうのですが(^^;)。  仕事でいえば、合理的にてきぱき片づけて、短い時間で終わらせる、という のは「楽をしたい気持ち」がベースになっていても全然かまわないと思います。 しかしそれが、他に影響を及ぼすほど仕事のクオリティを落としてでも早い時 間に切り上げる、となると「怠けたい欲」が絡んでいることになるのでしょう。  自戒せねば(^^;;;。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自己対面鏡 ★ ARIONを鏡にして 95/09/11 - 06404/06408 KFQ02761 しまうま RE:自分の気持ちを信じてもいいの? ( 7) 95/09/11 00:31 06399へのコメント AKIさん  どうもはじめまして(^^)。しまうまと申します。以後何卒お見知りおきをm(__)m。 :本当に自分の好きなことをはじめるとき、宇宙はぼくを :サポートしてくれるのでしょうか?  うーん、何となく思うのは、ことをはじめるときに「宇宙のサポート」をあ てにしたり期待したりしていると、うまくいくこともいかなくなっちゃうので は……ということです。最初から何かに頼る気持ちになっていると、何か困難 に遭遇したとき、地力を出し切れないのではないか、という気がするのです。 もしかすると、「宇宙のサポートがあろうとなかろうと、自分はこれが好きだ から断固として決行する。石にかじりついてでもやり抜いてみせる」という人 にこそ「宇宙のサポート」なり「神の助け」なりがあるのかもしれませんね。  以上、あくまで僕の個人的な感想として……ということですので、もし意見 の相違などございましたら、ぜひお聞かせくださいね(^^)。  人生の転機に際してのARIONさんからのアドバイス、ということでした ら、この会議室の#6237のARIONさんの発言が参考になるのではないかと思 います。  ではでは、これからもどうぞよろしくお願いしますね(^^)/。 しまうま(KFQ02761) 06400/06408 HQH01145 蜥蜴 RE:自分の存在理由の把握 ( 7) 95/09/10 22:56 06396へのコメント コメント数:1 はじめまして、VOL DE NUIT さん。 蜥蜴が#06359で申し上げた結論は、「自由=人間の存在理由」とは「実存」 の意味である、ということでした。そして、「実存」とは人間が常に自分の有 り様を了解し、その上、新しい有り様で生き得るという可能性を手放さないこ とだ、と要約したはずです。 * VOL DE NUIT さんは、蜥蜴の説明から「未来時制の自由」しか読み取れませ んでしたか? 「自分の有り様を了解し、その上、」というところを読み飛ばさ れたのかな、と感じました。つまり、蜥蜴のいうこととVOL DE NUIT さんのい われていることとは、全く同じ事ですよ。 * 話は飛びますが、ハイデガーは「実存」を以下の2つに区別しました。 1)日常的実存(非本来性) 2)死を自覚した実存(本来性) * 1)は社会で流通している価値観に身を浸し、そのなかで与えられるそのつど の「やるべき仕事」に向かっているような在り方のことです。 2)は「自分がいつ死ぬともわからない」という根源的事実を自覚した在り方 です。つまり、社会の価値観に従って生きるのではなく、自分で選び取って生き る、という生き方です。 * 蜥蜴は、ハイデガーのいう「本来性」がARIONのいう「自己存在理由」に近い気 がします。死は確実にやってきます、そしてこれは他人と代わってもらうことがで きないものです。しかし、私達は「平均寿命は○○才だから、、、」と考え、当分 はまだやってこないもの、として死に直面せず逃避した見方をしています。 こうした見方からは、「自由」は希求できないような気がします。 * ただ、死と直面し「現在を充足しなければ」という切羽詰まったような生き方を しろ、というのではありません。むしろ、今生きていることを味わう態度が必要な のではないかな。どんなに大事なものであっても、失われてしまうことがある、と いうことを理解した上で、人と話したり、花を見たりといったこと、ひとつひとつ を慈しむような感覚が「自由」につながってくるように思えます。 蜥蜴 06407/06408 VED01575 VOL DE NUIT 「了解」や「可能性の選択」へのまなざ し ( 7) 95/09/11 05:44 06400へのコメント どうも、蜥蜴さん。 「自由」とはすなわち「実存」のことである、という言い方には賛成できませ ん。実際に言われている「実存」なるものが、果たして人間の「自由」、ある いは「自分の存在理由」を十分に語ることができるかどうか。それは疑わしい と、私は思います。「実存」は、「自由」の断片的で特殊な形態の一種にすぎ ないのではないか、と私は思います。 >そして、「実存」とは人間が常に自分の有り様を了解し、その上、新しい有り >様で生き得るという可能性を手放さないことだ、と要約したはずです。 「自分の有り様を見つめる」ということは、「了解すること」だけに留まるも のではありません。「了解すること」、「可能性を手放さないこと」は、「自 分の有り様を見つめる」過程における要点であり、その過程において働くもの だと思います。「自分の有り様を見つめる」過程が前提とされなければなりま せん。 「了解する」こと、「可能性を手放さない」こと自体は「自由」を保証しませ ん。何を「了解する」のか、何の「可能性を手放さない」のかということが重 要なのです。「了解」と「可能性」から「自由」が生まれるのではなく、「了 解」と「可能性」の内容となっているものが「自由」を規定するのです。 「自分の有り様を見つめる」過程においては、「了解」したり、「可能性」に 対して決定する行為だけでなく、自分が「何を」了解するのか、「何の」可能 性を手放さないのかを見つめる行為が必要不可欠だと思います。 「実存」という言葉は、自分の「了解」や「可能性」の内容が個別的で、特殊 で、自分だけのものであり、一度きりしかないという性格であることを示して いる言葉です。「実存」は事実です。しかし、常に重要な事実でしょうか。 個別的であり、特殊であり、自分だけのものであり、一度きりしかないという こと。この事は「自由」につながることもあり、つながらないこともある、と いうのも事実です。「自由」を規定するものは、「実存」を規定するものとは 別のものなのです。 むしろ、「実存」とは「了解」ずみの何かであり、選ばれてしまっている「可 能性」だと言えます。そして、「実存」の「自由」とは、「了解」ずみの何か を「了解」し続け、自分であらかじめ選んでいる「可能性」を選び続けること にすぎません。この場合、「了解の上で見出される新しい可能性」なるものの 「新しさ」とは、じつのところ、自分で了解ずみの同じことを未来においても なしうる、という意味の「新しさ」にすぎません。人は「新しいこと」と切り 離されながら、「新しさ」というものを誤解し続けることになります。「新し さ」の誤解に基づく「自由」が、「未来時制の自由」であり、「自分の有り様 を見つめる」ことから切り離された「自由」です。何かを「了解」すること、 何かの「可能性」を選ぶことの、「了解される何か」や「選択される何らかの 可能性」の内容こそが、ほんとうに「自分」に関るものであり、自分の「自由」 を規定します。「了解」や「可能性」の内容を見つめることが、自分の「自由」 を見つめることです。 重要なのは、「了解」や「可能性の選択」というものを「自分の有り様を見つ める過程」から決して切り離さないことです。「自分の有り様を見つめる過程」 は「実存」より先にあります。「自分」の有り様を見つめることは、必然的に、 「他人」をも、「自分」として、あるいは「自分」ではないものとして、見つ めることであり、また、「自分」に未だ与えられていないこと、時間的区別を 超えて自分にとってほんとうに「新しいこと」について考えることだからです。 そして、その過程において、「実存」とは別に、「自分の存在理由」として、 「自由」が示されると思います。了解は、決して「実存」だけではなされては いけません。新しい可能性は、決して「実存」だけにとって新しいものであっ てはいけません。 > ただ、死と直面し「現在を充足しなければ」という切羽詰まったような生き >方をしろ、というのではありません。むしろ、今生きていることを味わう態度 >が必要なのではないかな。どんなに大事なものであっても、失われてしまうこ >とがある、ということを理解した上で、人と話したり、花を見たりといったこ >と、ひとつひとつを慈しむような感覚が「自由」につながってくるように思え >ます。 そうですね。「見つめること」、「学ぶこと」、それに「問いなおすこと」が 人間の自由には欠かせないと思います。 長くなってごめんなさい。でも、はっきりしておきたいことだったので。 これからも、どうぞよろしく。 VED01575, VOL DE NUIT - FARION MES( 9):神々の曼陀羅 ★ 歴史と宗教を巡って 95/09/11 - 627/627 MHD02672 TAO 白山菊理媛幻想 その壱 ( 9) 95/09/10 22:56      イモ ヨモツヒラサカ イザナミノミコト ノタマ      ウガラ  ………其の妹と泉平坂に相闘ふに及りて、伊奘冉尊の曰はく、「始め族の          マタシ ノ      コレ ア ヲヂナ    為に悲しび及思哀ひけるは、是吾が怯きなりけり」とのたまふ。時に、 ヨモツチモリヒト マ ヲ     ミコトア  ノタマ    アレイマシ スデ     泉守道者が白云さく、「言有り。曰はく、『吾汝と已に国を生みき。 イカ ニ  マタ イ           ア トドマ     イ     奈何かぞ更生かむことを求めむや。吾は此の国に留らむ。共に去ぬ                         ククリヒメノカミ マヲ      べからず』とのたまふ」とまをす。是の時に菊理媛神も白す事有り。     イナザキノミコト     ホ      ア ラ    ^^^^^^^^     伊奘諾尊聞しめして善めて、乃ち散去けたまふ。  ………妻伊奘冉尊と泉平坂で相戦うに及んで、伊奘諾尊は、「初め親族の     お前のために悲しみ、また慕ったのは、私が弱かったのだ」と仰せ     られた。その時、泉守道者が、「伊奘冉尊のお言葉があります。そ     のお言葉に、『私はあなたとすっかり国を生み終えました。どうし     てさらに生きることを求めましょうか。私はこの国に留まりましょ     う。』と仰せられました」と申し上げた。この時、菊理媛神も申し     あげることがあった。伊奘諾尊はそれをお聞きになってお褒めにな     り、こうして伊奘諾尊は去って行かれた。           新編日本古典文学全集「日本書紀」1(小学館)より  ◆◇◆  以上は、「日本書紀」より引用した記事である。  火の神・軻遇突智を産んだ際に焼け死んだ妻の伊奘冉尊を、黄泉の国まで  追いかけて来た夫の伊奘諾尊は、妻の腐乱した身体を目撃してしまう。逃  げ出した伊奘諾尊と、怒って追いかけた伊奘冉尊が、泉津平坂で言い争う  のを「菊理媛神」が仲裁する場面である。  この神、菊理媛が登場して来るのは、この記事の一箇所だけであり、しか  も何を言って仲裁したのか、全く記されていない。 全く正体不明なこの謎めいた女神は、「白山比v神」の別名を持ち、白山 神社のご祭神として広範囲な信仰を集めており、全国で三千社を超えると いう。その総本社が加賀の白山比v神社であり、奥宮は白山頂上に鎮座し ている。  朝廷官製の史書である「日本書紀」にたった一度しか出てこないこの女神  が、何故こうも広範囲な信仰を集め得たのか? 一説によれば、白山権現  と菊理媛が同一視されるようになったのは、江戸時代以降だという。では、  その以前はどうだったのか。  ◆◇◆  白山を開山したのは、修験道の祖・役小角に次ぐ行者と称され、「越の大  徳」と讃えられた泰澄とされる。泰澄の白山開山にまつわる伝承によれば、  私度僧(政府未公認の僧)として越知山で修行を重ねていた泰澄が、白山  神よりの霊感を受けて、養老元年(717) に36歳にして初めて白山頂上に至  り、そこで白山妙理権現(本地十一面観世音菩薩)を感得したのが、白山  信仰の始まりだとされる。  泰澄の感得伝承によると、泰澄は白山頂上の転法輪の窟において結跏趺坐  し、一心に祈念誦経しているうちに、足元の翠ヶ池より九つの頭を持った  九頭龍権現という巨大な龍が現れた。泰澄は「これは本身にあらず」と満  足せず、さらに祈念すると、龍の姿は白衣綾羅の唐女の如き女神の姿に変  わり、最後には十一面観世音菩薩の姿になったと伝えられる。  この白山妙理権現が、いつ頃から「菊理媛」と同一視されるようになった  かは定かでないが、菊理媛その女神自体については、学者によって様々な  解釈がなされている。  宗教学者の五来 重は「死霊の託宣(口寄せ)をかたった、イタコのごとき  神」(『白山・立山と北陸修験道』)としており、折口信夫は「くくりは  水を潜(クグ) る事である」と言い、禊ぎに関連した神であろうとしている。  いずれにしても、黄泉の国に座し、生と死の狭間に立つ女神であることは  確かであり、よって両方の世界を“ククル”神だと見ることも可能ではな  いだろうか。ここより、白山菊理媛を「霊の言葉を取り次ぐ」巫女が神格  化された女神だ、とする意見もある。  ◆◇◆  また、白山信仰は、古代朝鮮における山岳信仰とも結び付けられて考えら  れている。越の国は、いにしえより対馬海流に運ばれて、朝鮮半島・中国  大陸からの文化が流れ着く、いわば国際的な舞台であった。船で日本海を  突き進む異国の人々からは、一年中頂きより白き雪が絶えることがなく、  しかも裾野がなだらかに広がる優雅な山容を見せる白山が、神の座に見え  たとしても不思議はなかろう。  朝鮮半島においては、古代より「白」は聖なる色、しかも霊威を秘めた色  として崇められているという。実際、朝鮮半島の北部には「白」が付く山  の名、地名がかなり見られるそうである。また、「白」は単なる色では無  く、「生まれ変わる」「生まれ清まる」聖性を備えているともされる。そ  のような古代朝鮮における「白」への独特な宗教観念が、越の国ばかりか  白山を仰ぐ加賀・越前・美濃の国々の人達の信仰にも、深く静かな影響を  与えているのかもしれない。  ◆◇◆  白山の主峰である大汝峰の山頂下には、「青石」と呼ばれる青黒い色調を  持った巨岩が横たわっている。この青石は、現世と黄泉の境目に立つと言  われており、白山登拝の信仰登山の人々は、この巨岩の下の窪みに米や塩  を供え、蝋燭も灯したりするそうである。  この巨岩が現世と黄泉の境目にあるということは、この青石より山頂にか  けてが、いよいよ聖なる地域であるという意味だろう。宗教学者の久保田  展弘は、この青石に触れて「…この青石が、天上界と地上界を結ぶ宇宙軸  のような役割を果たしていて、ここに天上界より神が降臨することも暗示  されているかもしれない」(『山岳霊場巡礼』)と言及している。  このように、白山には益々「生と死を司る霊域」としての性格が色濃く現  れてくるのを見ると、ここに何故、黄泉の女神である菊理媛が奉られてい  るのか、その理由が自ずから見えてくるような気がする。  ◆◇◆  このように様々な要素をはらみながらも、謎の部分をなお多く秘めている  白山菊理媛であるが、近代神道オカルティズムにおいては、白山信仰にお  ける菊理媛の立場は独特な解釈を施されるようになり、金井南龍という神  道オカルティストは「白山王朝」という説を打ち出している。次回はこれ  について詳細に触れたいと思う。  TAO - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 95/09/11 - 01757/01759 QFG03622 小桜 RE:まだ買ってないの(゚゚) (11) 95/09/10 20:17 01756へのコメント 初めて書き込みさせていただきます。 桂桂さんの分析される「人間らしさ」、全く同感です。   あるいは自分自身に問い掛けて見るのもいいでしょう。  何か卑怯な事をしていないか。悪い事をしていないか。こんなにも世の中が悪くな っ ているのに「悪を見逃す」義を忘れていないか。    でも人間にはその己の愚かさを痛感出来る「恥」という感性を持っているんですよ ね(^^) そして自らの行いを反省し、明日の肥やしとして行かす徳性もまた持ってい るのです。 私も、自分自身に問いかけて見ました 「悪を見逃すべきか、否や」 そして心の声に耳を澄ましてみました。 答えは「自分自身がいかなる被害を被ろうと、とことん追及せよ」  でした。そして人間の持つ「恥」という感性を忘れている人々に喚起させねばなら ない、のではないのでしょうか。「恥」 を忘れてしまった人間こそ、自分自身を常 に正当化し、他人に対しては、神のごとくに振舞いたがるのではないでしょうか 本来、人間には他人を裁く権利は持ち合わせないにも関わらず、神のスカートのした に隠れる事により、神の力を得、他人に説教を垂れる。  この終末の時代、こうした人間が私の周りにも跳梁しています。 「恥」を知らぬ人間、神のごとく他人を裁く人間、こうした人々に対して私も桂桂さ んのように、少しでも開明させていきたいと思っています。 これからもご教示よろしくお願いします。                            小桜 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/09/11 - 03427/03434 GGA02514 KAZE RE:述語的 (13) 95/09/10 23:05 03418へのコメント 南天さん、どうも。 >この米谷氏の、「究極の理念」そのものについての論述は、あるのでしょうか。 >私に独白させていただければ、究極の理念とは、ひとことで言えば、 >「私は、私である。」ということです。これは、ミクロからマクロまで、 >すべての自我にとっての真理です。 米谷氏の『新文明の基本原理』に述べられている考え方は、 もともとは「宇宙の法」(新地球出版社)という チャネリングの記録から来ているようですので、 その中から南天さんの考え方を別の発想から代弁し、 それに基づいて展開しているのかもしれないと思われる 考え方を少しだけひろいだしてみることにします。   この宇宙とはそもそも各種レベル意識による「進化戦略の展開過程」なのです。   各レベルの意識は、それらを統括する「目的意識」の最も中心的なテーマです。   各種の意識は、宇宙を映し出す「鏡」でもある一方で、同時に宇宙の「創造主」   でもあるという二面性を有しています。意識は宇宙を自らに反映しながら、その   反面で、意識の創化力により、創発的に宇宙を構築しているのです。すなわちこ   の宇宙は、「意識を内包しつつ、意識に内包されている」といった状態なのです。   あなたがたが自己のレベルにおいて意識を洗練させ、強化させてゆくならば、や   がてどんなレベルにある意識とも「相互作用」し合うことが可能となるのです。   それは、一切の存在が本来的につながっており、一体であるからなのです。全て   の存在は、バイブレーションとしての意識の展開なのであります。そして、目的   意識とは、一切のバイブレーションの根源なのです。宇宙とは実は「バイブレー   ション」そのものなのです。すべては振動なのです。   (中略)   宇宙には多くの意識のレベル−−意識の階層あるいはスペクトルといったもの−   −が存在しておりますが、各々の領域内には、それぞれのレベルに対応する「住   人」が存在しています。そして、各レベルの住人にとっての「実在」とは、各住   人が反応しうる周波数の領域に他ならないのです。反応し得ない周波数の領域に   おいては、仮に実在したとしても、その存在を感じることが出来ないのでありま   す。意識は、反応し得るものの存在のみを認識し得るからです。   そしてそのレベルの領域内においては、「存在」や「住人」は相互に影響を及ぼ   し合うことが可能となります。認識できる周波数の範囲においては、その世界を   変革し、または創造してゆくことが出来るのです。認識力と変革力、あるいは認   識力と創造力は比例関係にあります。そのことによって、各レベルの意識は、宇   宙を主体的にそうぞうしてゆく行為に参画するわけなのです。すなわち意識は    「鏡」であると同時に「創造主」でもあるのです。(P13-15)    つまり、「私は、私である。」という意識が多次元的に展開しながら 自らを映し出す「鏡」とし、また自らを自らの「創造主」とすることで 進化していくということになるでしょうか。 では、なぜ宇宙はそういう進化プロセスを辿っていくのでしょうか。 それに関して、「進化戦略」という観点から次のような興味深い視点があります。   宇宙は「戦略自体」であります。私達がその中に生きているところの宇宙とは、   「究極の上位戦略」であり、その内に無数の段階の下位戦略、ミクロ戦略を包含   していると考えるのです。つまり宇宙とは、生命や知性、物質あるいは精神、等   々が、多様な展開を為してゆく「大戦略」であり、「戦略の体系」として捉えら   れるべきなのであります。   私達の根源的な力や潜在的能力、あるいは創造力といったものは、宇宙に普遍的   に作用しているこの「戦略」と密接な関係があるのです。いわば、宇宙は大戦略   の自己展開せる姿であります。(P145)    ですから、「私は、私である。」という「究極の理念」が作用そのものとなり 大戦略を展開しているのがこの宇宙の姿であるということになります。 なかなか面白いビジョンでしょう(^^)。 こうしたビジョンを「意識」の側から、哲学的に表現しえているのが、 西田哲学だとぼくは考えています。 その関係については、今後「独白」していきたいと思っていますので、よろしく。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03429/03434 BYP00077 柳 風男 変わるぞパラダイム (13) 95/09/10 23:44 KAZEさん。ども、柳です。 今、船井幸雄さんの「プラス発想で生きる・プレジデント社」を読んでいるのですが、 これもかなりすごい本ですね。読んでいてすごく自分にエネルギーが出てくるのがわ かるんです。前に「ハルマゲドンを超えて」について楽観的すぎるのが気になるとお 話ししました。しかし、船井さんの今までの業績というか、生き方を前提にすると、 これはかなり本物(船井氏の愛好語)の楽観論ではないかと思います。特に、今読ん でいる本に出てくる人は皆この世で経営という現実世界にどっぷりつかってそこから 逃げずに戦い、その結果なにかが見えようとしている気がします。 現実の悲哀を味わったものだけが本物の理想を掲げることができる。 やっぱ、いろんなところで目立たないながらもパラダイムが変わりつつあるんだなー と実感しました。就職するときはかなり真剣に悩みましたが、船井さんのような人が 頑張っているのを知るとなかなか物質世界も捨てたもんじゃないなと思います(かな り傲慢ですが)。経営というものは人間を磨いてくれるいい機会ですね(現実を知ら ないからとおっしゃる方もいらっしゃると思いますが・・・・)。 ### 柳 風男 ### - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/09/11 - 00278/00281 KHC01313 まるにちょん 仲秋の名月 (15) 95/09/10 14:32  9月10は仲秋の満月である。  大阪堺では、百舌鳥八幡でふとん太鼓の御神輿をくりだして、月を祝う。  日本とは面白い国であると思う。  なにせ月を愛で、カミとしてお祭りまでしてしまうからだ。  せっかくだから、月見団子を頬張って、月に想いを巡らせてみよう。(^^)  古来から日本人は、月を特別な想いで観てきたことだろう。  古事記によれば、月のカミさまは、ツクヨミノミコト(月読命)であり、 イザナギが禊ぎを行ったときに、左の目から生まれたとされている。  ツクヨミノミコトは、夜を支配するカミである。    ツクヨミは、月黄泉とも解釈でき、月は黄泉の国への出入口であるとも言 えるのではないだろうか。  つまり、ツクヨミは、黄泉の世界をも支配するカミと言えるだろう。  古事記では、マイナーな存在で、誕生のくだりの事ぐらいしか出てこない。  しかし私の考えでは、それは、ツクヨミが重要な存在ではないということ ではなく、カクリミだからだ。    カクリミとは、隠れる身であり、見えないが厳然として存在し、陰のよう にもしくは引力のように現象界に影響を与える存在のことを指すと考えられ る。  現に、月は、引力によって地球やひいては人間に多くの影響を与えている。  満月や新月には大きな事故や地震が多いという報告まである。  また、潮の満ち引きによって、人間の誕生や死の刻が決定付けされている のは良く知られていることだ。  古代の日本人は、月の本質を見抜いていたのかも知れない。  その神秘的な力を、カミとの顕現として受け、讃えたのだろう…。  今宵は、月の輪が、幾重にも広がって、うっすらとした雲にその月影を滲 ませている。  今までに観たこともない美しい月夜である。  月には竹が良く似合う…。  近くの竹林に月影が跳ねる…。  では、また。         カクリヨの使者 まるにちょん、○=ゝ (この文章は、9月10日の真夜中に書いたものです。) 00279/00281 KFQ02761 しまうま RE^3:聖なる虐殺 (15) 95/09/11 00:28 00268へのコメント コメント数:1  みなさんこんにちは(^^)。  ちょっと割りコメさせてくださいませ。  今日の朝日新聞の第12面(主張・解説面)に掲載されていた、深田祐介氏 の「私の紙面批評」の見方は、的を得ているように思えましたので、一部抜粋 してみます。 『五十年前のアジアの戦争は、(1)全アジアの満州国化を図って暴走する軍部(2) 戦後の世界情勢を予見して、戦争目的に「アジア解放」の理念を与えようとす る重光葵以下の外務官僚(3)そしてなによりアジア諸民族の民族自決への激しい エネルギーが三つどもえになって斬り結んだ政治力学の場であった。クラウゼ ビッツが「戦争論」で説くごとく「戦争も政治の一手段」だったのである。』 『戦後元ビルマ首相のバー・モウは「日本ほどアジアを白人支配から離脱させ ることに貢献した国はない。しかし解放した諸国民から日本ほど誤解されてい る国はない」と書いたが、最大の誤解者はこういう発言を受容できぬ戦後日本 のマスコミではないのか。』 しまうま(KFQ02761) 00281/00281 PXY03747 諏訪みのる RE:RE^3:聖なる虐殺 (15) 95/09/11 13:26 00279へのコメント  しまうまさん、こんにちは。  ご紹介いただいた深田氏の「私の紙面批評」の抜粋を読ませていただき、 『え? 朝日新聞で?』と多少驚きながらも(笑)、氏の意見には「なるほど」 と共感いたしました。  「白人支配からのアジアの解放」という結果が、開戦当初からの真の目的であっ たのか、それとも いわゆる“大義名分”であったのか、あるいは“たまたま” そういう事になったのかは、今後の勉強を深めて行く過程で自分なりの判断を求 めてみたいと考えているのですが、マスコミの伝える情報の多くには 相当精度 の良い「偏向フィルター」(偏光ではない^^;)がかかっているようで、受け取る 側にも かなりの補正能力^^;)が要求されるようですね。 >『戦後元ビルマ首相のバー・モウは「日本ほどアジアを白人支配から離脱させ >ることに貢献した国はない。しかし解放した諸国民から日本ほど誤解されてい >る国はない」と書いたが、最大の誤解者はこういう発言を受容できぬ戦後日本 >のマスコミではないのか。』  同種の指摘は多くありますが、ごく最近読んだ本の中にも このような指摘が なされていました。   『    (前略)     その晩、最後の行事が知事公邸で開かれた。スラバヤ戦争の関係者、    各国の総領事、スラバヤ州政府関係者などが出席した席でルスラン・    アブドルガニ元副総理は、独立戦争を援助してくれた宮元参謀ありがとう、 と日本語で謝辞を述べた。参集者からの拍手はしばしなりやまなかった。     翌日の新聞でもこれらは掲載され、首都ジャカルタに戻ると宮元参謀は、    いたるところから声をかけられた。このときちょうど平岩経団連会長を代    表とする経済ミッションがインドネシアを訪れていたけれど、宮元参謀と 経済ミッションに対するインドネシアの関心度には雲泥の差があった。  インドネシアでこのような経験をした私は、それから一週間ほどして    日本に戻った。日本に戻った私は、これでインドネシアに対する日本人    の感情はさらによくなるだろうと思いながら留守の間の新聞を広げた。    しかし、何度繰っても、経済ミッションのことが報道されているだけで、    宮元参謀の歓迎ぶりは紹介されていなかった。     このように、日本が海外で評価されていることは日本に紹介されない。    特に戦前の日本の評価についてはそうで、日本のマス・コミは知ってい    ても報道しようとしない。      (後略)           』 (「正論」9月号 “アジアの「親日」と日本の「反日」”:阿羅健一)  これは、平成四年のインドネシアに於ける「英雄の日」(11月10日)と呼 ばれる国民の祝日の三日前に、宮元静雄 日本軍元中佐の講演が その「英雄の 日」の一行事として組まれ、「スラバヤ戦争と日本軍のかかわり」について話さ れたそうなのですが、その講演はインドネシア人に強い感銘と衝撃を与えたよう で、その後 宮元氏は至る所で歓待を受け、特に式典当日のセレモニー会場では、 当人も予想だにしなかった待遇でもって(最前列に席を用意されるなど)歓迎を 受けられたのだそうです。    この引用部の後にも、別例を挙げて マス・コミの偏向報道を強く批判してお られるのですが、私は、こういったマス・コミからは伝わって来ない「知らされ ていない事実」というものも数多くあるのだ…という事も承知した上で、でき得 る限りの公平な判断が必要なのだと心して、今後も学んでゆこうと思っています。  でわ、では(^^)/               みのる♪デシタ。 00280/00281 KHC01313 まるにちょん お節介は日本を救う!? (15) 95/09/11 02:02  この頃、つくづく思うこと。  あまりにプライバシーを権利として主張しすぎた結果、遠慮が高じたせい なのか?  はたまた、自分の事のみにしか、あるいは自分の周囲50センチ位にしか 興味を持たない人間が増えたせいなのか?  他人のすることや社会の出来事に対して、あまりに無関心に成り過ぎては いないだろうか?  あなたは、ひとりぼっちで居る子どもに声を掛けたことがあるだろうか?  満員電車で行儀の悪い者に注意したことはあるだろうか?  面白いことに、ここ大阪では、お節介が多くてなかなか楽しい (^^)  特に、大阪のおばちゃんはおもろいし、すっごくお節介だ。  (私は、中年の女性を愛情をもって、おばちゃんと呼んでいる。決して蔑 称として使用はしない。)  子どもを連れて歩いていると、必ず声を掛けてくるのはおばちゃんだ。  「嬢ちゃんいくつ?お名前は?どこいくのん?」とか  「お菓子こうてもろたんか、ええなぁ」とか(こうてもらう=買ってもらう)、  娘の事をきっかけに、いろいろ声を掛けられる。  こう言うことが意外と、地域でのコミュニケーションに成ったりしている。  おばちゃんのお節介な質問が、実は、人間関係の潤滑油の代わりをしてい るといったら大袈裟だろうか?  おばちゃんのお節介は、対話のきっかけを与えてくれ、その上ほほえまし い気分にさせてくれるのだ。  こうしたおばちゃんと会話する自分を改めて意識してみると、生活の場に しっかりと根を下ろし、地域の一員として生きてるんやなと認識できる。  自分が生きてるって思うことは、簡単でいてしかも大切なことじゃないか と思う。それだけ生活にハリを持っているってことだと思う。    こうして観てみると、お節介は人間関係を形成する源じゃないかと思って しまう。  人がお節介を止めた時に、社会生活が薄っぺらで希薄なものに変わってし まうんじゃないだろうか?  お節介は、普通してはいけないもののように扱われがちであるが、私は、 どんどんお節介になる必要があると思う。  どんどんお節介になって、みんながお互いに関心を持てば、地域の結びつ きは強くなり、そこに「和」としての場ができるだろう。  そうすれば、その場が広がって国民としての連帯感をも強くさせることが できるじゃないかな。    つまり、お節介は、人間関係を煩わしく思い、人の結びつきが稀薄になっ てしまった日本人、 それによって、国民の持つ力も弱くなってしまった日本を救うのではないだ ろうか。  真のまほろばを蘇らせるには、人間関係を再構築する必要がある…。  場を形成し、維持し、お互いに位置づけを確認するために干渉し合うこと が、大和魂の効果なのだろう…。  いろんな事を気付かせてくれた、お節介なおばちゃん達に感謝と愛情を込 めて  では。また。                 まるにちょん、○=ゝ - FARION MES(18):武道にありて ★ 道の実践 95/09/11 - 02546/02550 BYK00511 導 合気道草歌3 (18) 95/09/10 23:27 何かを1とすることは自らを1とすることである。 我を規定するものは全てである。 1は全てを常に包括し、且つ規定するものである。 言葉で譬えることは出来ない故に武を通して学ぶべき道也。 集中も拡散も意識の譬えにすぎず、精神の本質ではない。 我々は精神の本質を愛によってのみ知ることが出来る。 自他合一、普遍の真実。けして遠い道ではない。 誰もが知り得るもの。 ただ気がつかないだけなのである。 愛は男女の恋愛に発し、夫婦となり、子供を育てる過程の中で 当たり前に知ることが出来る。ただ、その愛を万人へ向けるだけでよい。 この当たり前の道が武なのである。 言葉で捉えることは道ではない。 道とは味わう事なのだ。 剣を見て囚われぬ心は死を 受け入れる心。死を受け入れる心とは、生きることの真実を受け止めること。 剣を受け止めるのは、命の本質を受け止めること。 武道は棒きれで叩き合う道ではない。 命と命が正面でぶつかり合う道なのだ。 故に愛でなければならない。 打たれにゆけ。一歩進んで1となる道を入り身という。 そのまま万に当たる道、即ち四方投げ、以て真実は武を通して容易に知ることが 出来る。 武道に強くなるため精神を鍛える。精神を学ぶ。みな小手先也。 精神の本質に出逢うために歩む道が武道なのである。 私が何者であるかは一九九八年二月一四日に明らかにします。 この会議室のルールに反するかもしれませんが、それまではメッセージのみ 送らせて頂きます。故に導という也 時代は大きな転換期に来ている。 この時代に武道の果たさねばならない使命は大きい、宗教、科学、哲学様々な 価値の基準を新しい角度でとらえ、実現するために武道という教育システム は不可欠なのである。その武道は既存の武道ではなく新しい観点に立つもので ならない。それはけして遠い道ではない武道に秘めるその価値をただ認識すれば よいだけなのである。その価値とは現在の世界が求めているもの、 必要なもの、それを感じ取ればよい。 愛は身近な真理であることを悟れ。