- FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/09/12 - 00275/00275 PXP02610 孔雀 なんとなぁく ( 5) 95/09/12 13:24    波瀾万丈な生き方を、自分でもしていると思う。    心がけていることは、自分に正直でいること。    にっちもさっちも行かないこともある。    どうにも身動きが取れなくなっても、    どうするかは、結局自分の気持ちに元ずく判断。    『後悔』という言葉は、あまり好きじゃない。    そりゃあ、悔いが残ることはあるけれどもそれは仕方ない。    自分で選択したことだもの。    たとえ、どんな些細なことであってもね。    今は、ゆっくりと日々が過ぎている。    きっと力を蓄える時期なんだろうな。                               孔雀☆ - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/09/12 - 03436/03436 BYP00077 柳 風男 悪を見つめる (13) 95/09/12 02:35 KAZEさん、こんにちは、柳です。 >ですから、ぼくの視点で言いますと、そうしたことを、 >シュタイナー的な霊学の光に照らしていくということが >どうしても必要になってくると思うのです。 >フリーメーソン、イシヤについてのことにしても同じです。 >確かに、そういう働きはあるようですが、 >それだけでは、霊学を学んでいることにはなりません。 おっしゃる通りだと思います。特に固有名詞にとらわれると 本当に何を言おうとしているのかわからなくなると思います。 「この神事、八通りによめるのざぞ」 「裏の裏まで読みて下されよ」(P50) とくにイシヤ、フリーメーソン、日本、外国などはなにかの イメージというか、象徴というか、そういうものとして受け 取るのが妥当ではないでしょうか? ブラバツキーの著作には、彼女自身が嘘をわざと入れてあ るため主体的な読みをしないかぎり本当のことがわからない そうですが、シュタイナーの著作も本当に真剣に向き合わな ければわからないことがたくさんありますね。「日月神事」 も読む人が自分の世界観を投影する形で何通りでも読めてし まうのでしょう。まだ、原文を読んでいませんのでなんとも 言えない部分が多いのですが、シュタイナーの言っているこ とをベースにしてイマジネーション認識的に読むことが必要 になると思います。残念ながら、私にはこの認識ができませ んのであくまで推測の範囲ですが。 ただ、こういう文書が日本にあるということ自体が私には 驚きです。この神事が民族魂のレベルの話しなのか、そうで ないかは重要な問題ですが、私の日本観がかなり変わりそう な気がします。文体がすごくおどろおどろしくて、なんとな く鳥肌が立ちそうです。よくも悪くもリアリティがあります。 「まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ている ぞ、良くみわけなならんぞ、悪の大将は光輝いているのざ ぞ」(P213) 日本のおいしいとこ、にがいとこを味わいたいと言いました が、いきなりすごい下手物を出されたような気分です(もち ろんポジティブな意味でですが) 「シオンの議定書」は抜粋だけを読んでも、悪魔的に世の中 をみれば、これは、いちいち本当のことですね。この議定書 をフリーメーソンが作ったとかそうではないといった議論に はあまり興味がありませんが、その内容は非常に勉強になる と思います。 悪を否定するところに悪が芽生える。 ### 柳 風男 ### - FARION MES(18):武道にありて ★ 道の実践 95/09/12 - 02551/02551 BYK00511 導 合気道草歌4 (18) 95/09/11 23:49 あもりさん、引土先生、柳瀬先生≠ヘお元気でしょうか。柳瀬先生とは今も時々連絡 を取 らせて頂いているのですが、引土先生とは10年以上音信不通のままです。 そのようになった理由は一言ではいえません。しかし、何度も何度も引土先生の夢を 見ました。熊野塾で生活した日々は14年たった今も忘れがたく、いえ私の骨肉その もであり、命そのものです。引土先生を父と思った時もありました。 突然、熊野塾の名が出たとき、大きな温もりに再び巡り会った気がしました。 あもりさん、私の名は道淳、引土先生から道雄の道、合気道の道をやると言われ頂い た 名前、道淳と申します。 今、時代は大きく変わろうとしています。否、変わらなくてはならない。この命の全 て 足の先から髪の毛1っ本に至るまで、魂、精神、肉体の全てを以てこの道に当たらね ばならない。この道の道しるべは熊野の流れ、天の業雲九鬼さむはら竜王の大神の導 き、愛光命の言霊也。 今、私はおもて立つわけには行きません。しかし、近い将来引土先生の意志を実現す るときが来ます。この通信はその岩戸開きなのです。 ここで、神様の話をするつもりはありません。しかし、伝承された言葉は魂の中で力 となり、形として現れるとき、神の名でしか喩える事ができない事も事実です。 真は神であり、信によるものであり、心と身が一つである証なり、よって武は常に新 でなければならない。 あもりさん、ありがとう。