- FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/09/21 - 00303/00306 JAG04260 Homeless 満天星 踏絵(2.2) 瞑想の目的と効果(2) ( 5) 95/09/20 04:44 ┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴ ┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬ ┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴ [踏み絵 (2.2)[瞑想の目的と効果 (2)]]┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬ ─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴ 人間には身体的側面と精神的側面とがあるのぅ 瞑想というのは そのどちらにも深い関係がある このまえは脳波のことを少し話したが 脳もまた まちがいなく身体の一部であり 大脳の活動がすなわち精神活動である という考え方には 抵抗があるの じゃが とはいえ 脳が身体の他の部分とは決定的に異なった地位にあることは 疑いない 身体の 主として呼吸・消化器系と循環器系とに 脳は 酸素とそのほかのエネルギー源の供給を依存しており 一方 脳と神経系とは 身体全体に対する管理機構の役割を担っておる (話が易しすぎるかの?) しかし このような分類のしかたでは議論のうえで不便であるので ここからは神経系だけに注目して 《中枢神経系 対 自律神経系》という分類を用いることにしよう 解剖学上は 中枢神経 とは 末梢神経 に対する分類・術語なのじゃが ここでは特に 運動神経・感覚神経を含めた系を 中枢神経系 と呼ぶこ とにする (学校で教えることとは違うぞよ) 中枢神経系とは動物的な活動を特徴づける 意志とか行動に対応した神 経系じゃ この見方によれば 精神活動の意識的な側面と無意識的な側面とは ど ちらも中枢神経系の為せるわざじゃと言えるの それに対して 自律神経系は植物的な神経系と言えるものじゃ 自律神経系は 意志のはたらきとは独立に 心臓・胃・腸などの内蔵器 官から さらには身体全体にわたって それら器官の機能を調節するは たらきを担っておるのじゃよ 動物は 食物を取得し食べるところまでは中枢神経系の指令に従って行 うわけじゃが 飲みこんだあとの食物の消化・吸収などの作業の管理は 植物的な自律 神経系にゆだねるわけじゃな 自律神経系が制御する器官の中で特に目立つ器官は 心臓と 胃などの 消化器官じゃ のう お若いの 腕や脚の筋肉は 意志 (中枢神経系) の指令がなければ動くことはない の それに対して 心臓の筋肉は 指令がなくとも 眠っている間にだって 活動しているのぅ また 人は意志によって 心臓の動きを速くしたり 遅くしたりするこ とはできぬの じゃが たとえば 大勢の人たちの前で話をしなければならないとき 心臓は強く速く打つじゃろう 純然たる精神の状態のみによっても 心臓の活動は強い影響を受けるわ けじゃ このときもまた 心臓の動きを静かにさせようと意志しても なぜか心 臓は命令を受けつけぬのぅ 自律神経系の作用 (動作) は自律的 (独立的) でありながら 中枢神経 系の影響を強く受け かつまた 意志のはたらきは自律神経系に影響を 与えることができないという 一見論理的に矛盾したような 複雑な地位・関係を 人体の内部にあっ て 有しておるわけじゃな (そのなかにあって ただ呼吸器の動作だけが意志によっても制御可能 じゃの) さて 人は精神的に非常に苦痛な状態 (精神的ストレス状態) にある時 たとえば 失恋であるとか 会社で非常に大きな失敗をして何とかしなければならない時とか 経営者であれば 資金繰りがつかない といったような時に 身体 特に 消化器官の状態が正常な範囲をはずれてしまうことがある のは知っておるじゃろう そんな状態が幾日か続くと 人は胃潰瘍になったりする 体質によっては心臓の方に より大きな変調が現れることもある 人が 頭脳のパワーを全開にして 理性的な思考力を最大に発揮するこ とをもっとも必要とするときというのは つねに 危機的な精神的ストレス状態にある時 わかり易い言葉でいうと まったく落ち着いてはいられない時じゃ と 言ってよい このような時 頭脳に対して最も効率的にエネルギー源を供給しつづけ なければならない身体の状態 自律神経系によって管理・制御されているところの 身体の機能の状態 はというと 実に 反-合目的 的なことじゃが その期待されているところの働きを最も悪しく果たすような状態にある のじゃ 顔色も青ざめ 動転し 緊張しきったような精神状態で しかも身体の 機能には赤信号が灯っているような状態では ただ頭脳の働きだけがうまくいくなどというはずがないの (生徒・学生諸君の場合には 時々めぐってくる小さな危機 学課試験 のときを考えてもらうとよいじゃろうかの) このような 人生の危機のような時 しょっちゅうあっては困る事態じゃが そのような事態に臨んでは 人はまったく無力で 危機に対処すべき自身の精神と身体の状態を制御することは 不可能な のじゃろうか?             (踏み絵 (2.2)[瞑想の目的と効果 (2)]) ☆☆☆☆☆  ☆☆  ☆  ☆☆☆  ☆☆  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆  ☆☆  この続きは 10 月 10 日ごろに書込みます.   ☆                              ☆  このシリーズは毎回ルートメッセージとして  書込みますから, まとめてお読みになる方は  RMN または RT JAG04260 などの コマンドに      ☆  より, 発言番号を検索してお読みください.                               ☆   [シリーズ 2 - 発言番号と副題]    ☆    #239 (1) 瞑想の目的と効果 (1/3) ☆                            ☆ - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/09/21 - 00134/00136 KFQ02761 しまうま 誇りと見栄 ( 6) 95/09/21 00:51 :恥を知る者は誇りを知る、恥知らずは誇りでは無く見栄を張る  先日、人と話していて、自尊心の話になった。詳細は忘れてしまったけど、 「自尊心というのは、内省的な努力によって得られる内面的な状態であって、 人に傷つけられたり、周囲から認めてもらいたがったりするモノじゃないよ。 人から傷つけられたり、周りが認めてくれないと感じられないようなものは、 自尊心じゃなくて“他尊心”だ」とかいう話だった。そのときは笑って聞いて いたけど、ホントにそうだなあと思う。  このHMで言えば、「誇り=自尊心」「見栄=他尊心」ということになるだ ろう。  つまり誇りというのは、認識の主体が自分であり、他者からの評価によって 高まったり低められたりするようなものではない。自律的な精神状態だ。  一方で見栄は、認識の主体が他者であり、他者の評価が行動の規範になって しまう。自分で自分を律するのとはまったく逆だ。  見栄は他者からの評価によって「傲慢」や「卑屈」といった態度になりやす い。誇りは人からの評価がどうであれ、影響はない。  誇りのある人は、一人の時間でも自分を見失わない。見栄を張る人は、人と いるときは立派な人格者だが、一人のときに卑しく低劣だ。そして、そういう 自分を人に見せたくないと思っている。人から見えなければ何をやってもいい とも思っている。  誇りを持っている人と見栄を張っている人は、パッと見よく似ていたりする。 でも、見栄張りは底が浅い。単調で、退屈だ。誇りを持ち、恥を知る人は、懐 が深く、なんとゆーか、滋味のようなものが感じられたりする。  とか偉そうに言っている自分はどうかというと、やっぱ見栄を張っていると ころが大いにある。人から見えないところでは何やってもいいと思っているフ シもある。でもそういうところは嫌いだ。大っ嫌いなのだ。ふん。   しまうま(KFQ02761) 00135/00136 KFQ02761 しまうま 人生の舵取り ( 6) 95/09/21 00:52 :己の人生の舵を取るのは自分だ…己を信じれない時、船は何処へ?  これ、前日のHMの誇りと見栄の話に通じるものがある。  結局、(本質的な意味で)自分の人生の舵を取ることができるのは、誇りの ある人だけなんじゃなかろうか。見栄で人生航路を決めている人というのは、 たとえ形としては自分で舵を取っているにしても、航路決定のための羅針盤を 他人に預けちゃってるようなものだ。情けないね。つまり舵を取っている自分 より、他人の差し出口(それは、ほんの思いつきだったり一時的な感情に左右 された意見だったりすることが多い)に信頼を置いている、ということだ。  僕は、自分の人生についていちばん真剣に考えているのは自分だと思ってい る。人にいろいろ言われると、気が大きくなったり、逆にふさぎ込んだりする こともあるけど、それでも最終的な価値判断は自分で下す。  「人があー言ったからこうした」「アイツがそうしたからこうなった」とは 言いたくない。自分のした糞の始末くらい自分でする。もちろん尻も自分で拭 く。当たり前だ。コドモじゃないんだから。  さて、自分を信じれないとき、船は何処へ行くんだろう。何処へ行けばいい のか、何処へ行きたいのか、船頭がわかってないんじゃどうしようもない。そ ういう船頭はどうせ海図も見ないし、潮の流れや風向きを自分で確かめること もしないだろうから、すぐに暗礁に乗り上げたり嵐に巻き込まれたりする。要 するに、どこへも行けないんだろうね。で、例えどこかに着いたとしても、そ れは必ず「思いも寄らなかったところ」であり、また「不本意な場所」である はずだ。そりゃそうだ。最初から目的地がないんだから。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/09/21 - 03486/03503 QZE03111 こむ 年長者の要件 (13) 95/09/19 17:09 03484へのコメント コメント数:1  諏訪みのるさん、こんにちは。  ただ「年長者」であればよいのかというとそうではなく、「年長者」に判断 を仰ぐべき理由として、以下のことがあげられています。    年長の人は人生の達人です。自然の作用のしかたや善悪の行為の   結果について、若い人よりもはるかに多くのことを知り、理解して   います。正しい行動によって栄え、自分自身にとっても他人にとっ   ても有益な人生を生きた人々の実例も見ています。逆に、邪な道に   入り込んで、悪賢い残酷な行為をしたり、人をだましたり、不正直   な振る舞いをする人たちのことも知っています。           (中略)   ですから、彼らの語ることには権威があり、その助言は、ある状況   において何が善く何が悪いかを判断する助けにもなるのです。                p299  こうしてみると我々も、若輩者でありながら、年長者でもあるわけですか ら、ただ漫然と暮らしているわけにはいきません。若い人の信頼を得るような 判断力が必要ですし、社会に起きる出来事から学び続けなくてはいけないでし ょう。いまではマスコミが「年長者」の役割を担っているようですが、それは 決して正しいこととはいえないと思います。  「年長者」には「年長者」としての自覚が必要ですし、学びを疎かにした 「年長者」が「年長者」として名乗りをあげることほど愚かしいこともありま せん。     *****こむ より***** 03487/03503 GGA02514 KAZE RE:シュタイナー:薔薇十字会の神智学●VI-1< 運命 (13) 95/09/19 17:46 03478へのコメント 諏訪みのるさん、どうも。 >読書会も第c章に入り、自前のファイルも3冊目になりました。 ファイルを作っていてくださるんですね、ありがたいです。 みのる♪さんの性格が想像されます(脱帽(._.))。 ぼくの場合、この会議室のログを50発言ずつ順番にファイルしてるだけで なかなか見返す機会が訪れないので、ちょっと時間がたつと 自分の言ったことさえ忘れてたりします(これではいけないですね^^;)。 そういえば、ぼくはファイリングなどがけっこう苦手で、 学生の頃は、全科目で1冊しかノートがなくて、適当でしたし、 今でも、山のように積まれた情報の整理が直観的にしかできなくて、 企画書を書きながら、「ちゃんと整理するくせをつけなくちゃ」の毎日です^^;。 >時々、以前の発言を読み返したりするのですが、ポツポツと忘れてしまっている >箇所を見つけては、自分の記憶力の無さに情けなくなってしまったりしています。 記憶力のなさでは、ぼくの右に出るものはない(エヘン・・・ではなくてショボン^^;)。 学校で同級生の名前さえ覚えられませんでしたし、 知能テストなどの記憶力テストなどは、言葉通りの全滅。 ちなみに、知能テストでいうと、足し算してるうちに混乱してきて挫折・・・など、 ぼくのテスト上の知能はかなり白痴に近い状態だったようです^^;。 ま、それでもなんとかこうやってあまり支障なく生きてますからねぇ^^;。 記憶力もそれはすぐれていたほうがいいことはいいのですが、 いちばん肝心なのは「魂の力」ですから、記憶した知識はそれだけのもの。 ですから、ま、お気になさらず、「これは魂の力にしなくちゃ!」というとこだけ 見直すくらいでいいんじゃないでしょうか(これ、半分ぼくの言い訳です^^;)。 > ただ、以前に比べると 何となくですが、シュタイナーの言わんとすることが、 >ファンタジーの域から「そうに違いない」という確信めいたものに自身が変わり >つつあるようにも感じられます。 ファンタジーというのは、日本語では空想というくらいにしかとられてませんが、 これは先頃なくなったミヒャエル・エンデが、「はてしない物語」で描いた 「ファンタージエン」ということからも理解できるように、 人間が人間らしくあるためにはなくてはならない豊かさの根本なんですよね。 それがないと、この世はまさにアーリマンの楽園になってしまい、 人間は機械のように、せかせかオートマチカルに動きまわっているだけ、 という状態になってしまうように思います。 ですから、ファンタジーの域は、そのまま生きた現実の域でもあるわけで、 あとは、そのファンタジーがどれだけ生きたものとなるかということです。 そういう意味で、みのる♪さんの確信は、そのファンタジーを生かし始めた ということなのだとぼくは想像しています(^^)。 > 「カルマ」はそれ自体がエネルギー(波動)そのものである…という解釈が有っ >て、・・・ そうですね、もっといえば、カルマというのは、一種のエネルギー変換装置とでも いえる側面ももっていると思います。 これは、次章でご説明するぶんですが、今世アストラル体でなしたことが、 来世ではエーテル体のあり方を規定するとかいうように、 時空を越えながら、エネルギーを変換するという法則性があるんです。 カルマの法則というのは、このように時空を越えたエネルギー変換ですが、 その前提となるのが、同じ種類の波動どうしが共鳴しあうという法則で、 これはラジオをチューニングするようなものなんですよね。 これは、時空を越えた性質であるというより、同一時空での共鳴です。 その同一時空での共鳴が、特定のカルマを増大させてゆき、 そしてそのカルマが時空を越えて、来世において次元変換されて発現されてゆく。 >「呪い」なんてのは執着(エゴ)の最たるものですから、その波動に同調する >部分と言えば、やはりエゴの部分でしょうね。 そうなんですよね、エゴ。 だれでにでもエゴはあるんですけど(なければおかしい)、 肝心なのは、そのエゴの部分を見据える勇気のように思います。 言葉を換えていえば、自分の弱さを見据える勇気とでもいいましょうか。 もちろん、自分が強さだと思っていることも間違えば傲慢さがまた弱さをつくります。 また、エゴをなくさなければならない!というのも ある意味では強力なエゴになります。 エゴを見据えることでそれを変容させていくことが大事なのであって、 間違ってとられた「無我の教え」というのは、とっても危険です。 それこそオウムさんのようになってしまう^^;。 そうそう、最近、パウロについていろいろ調べる機会をもっているのですが、 パウロの問いかけた最大の問題は、 「あなたとして感じ、考え、行動しているものは結局のところ何か」 「私という存在の真の主体とは何か」ということだったようです。 それでパウロは各人の真の主体について、 「私の中でキリストが生きている」というキリストこそが真の主体だという。 「悔い改めよ!」というのは、自分の主体を取り違えていることに対してであって 親鸞が悪人正機説で言っていることに関係していうとすれば、 「悪の自覚こそが、私の中のキリストを顕現させる」というわけです。 > さらに、攻撃の矢が「花」に変わる…という表現の裏には、「呪い」を受けな >いばかりか、その想念すらも明るい方へ昇華させてしまうだけの徳分を持ってお >られるという事を表現しているのかも知れませんね(^^)。 はい、ぼくもまさにそのことが言いたかったのです(^^)。 「愛は悪を解放する」ということもできます。 「解放」ということは、「変容」ということでもあります。 呪文で変身してしまっていたカエルが王子さまに戻るということです。 「大乗」だとか「キリスト衝動」だとかいうのは、 まさにそのことのためのあり方にほかなりません。 > 嘘の持つ破壊作用が、人類の進化を著しく阻害するということを知り、自分が >今までに いかに多くの破壊を行ってきてしまったかを考えると、恐ろしくなっ >てしまいました。(^^;)ゞ メンボクナイデス この嘘について、シュタイナーの説明はみあたりませんが^^;、 破壊の反対は創造であり、それは「生かすこと」ですから、 その「嘘」を単なる嘘−ホントというような 二項対立でとらえるべきではないでしょうね。 嘘が誠になり、誠が嘘になることもあるように、 その「嘘」をつくときに、どういう魂のあり方でいるかが重要だと思います。 しかし、その「嘘」は、非常に日常的なレベルでは そのなかに真実があることもあるでしょうが、 それがもっと魂の真実に関わるものであれば、 その「嘘」は破壊そのものになってしまうのではないでしょうか。 では。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03488/03503 HCB00374 DIRAC 行動のバランス(その1) (13) 95/09/19 22:00 コメント数:1 諏訪みのる さん。ご無沙汰しております。 DIRACであります。 > KAZEさんに紹介していただき、今読ませていただい >ている本に「ハルマゲドンを超えて」 >(浅野 信 − ビジネス社)というのがあるのですが、 > --------- > 『…。自分をよく見つめ、掘り下げていく過程で、 > 自分の中の様々な部分に出会っていきます。 > 一人ひとりが、ホロン的な原理から言いまして、全体 > を映し出しており、全体を包括しているために、 > 自分の中の一つひとつと出会い、それを知り、和解し、 > 受け入れ、癒していく作業を通して、外に反映された > 自分の周囲の人々や状況に、愛を浸透させていくことが > できるのです。そして一人ひとりがそのようなプロセス > を経て、癒され、覚醒し、愛が育っていくことに > よって、周りを明るく照らし出し------------- >  -- 。」 > 「一人ひとりが、自分を通して世界を変容させていく」。 > それが新しい時代の進み方です。  ううんなるほどです。そういうことが書かれている本が  存在しているだけでも嬉しいものです。ホロン的な原理  というのはよく解りませんが、ホログラフィックな現象  の比喩なのでしょうか?一部の中に全体が含まれている  ようなそういうことですよね?  クラインの壷とでもいいましょうか?個の存在である  自分が変化することは、同時に全体を変化させている  こであるということで、-----つまり、ちっぽけな  存在の自分であるかも知れないけれども、まるごと全体  に影響しているということ、自分の存在は小さいけれど  大きいということなのですね? > 「一人ひとりが、自分を通して世界を変容させていく」。 > それが新しい時代の進み方です。  本当にそうだと思います。全体の一部としてでなく、  ホロン的な原理?によるところの、全体への寄与と  いうこと。ちっぽけ?な自分の存在も案外小さく  ないということなんですね。  自分自身を過小評価しがちな我々であります。 > 「自分を通して世界(全体)を変容せしめる」 > ことと、「全体を通して個を見直していく」 > ことの両方を統合止揚しバランスさせていく > という姿勢が新しい時代に必要になってくる… > ということでしょうか。そしてこの過程におい > て個に愛が育ち、周りに愛を浸透させてゆく > ことが可能となり、地球(世界)を明るい方向 > へと変容させることができるということで > しょうね。 > そしてこの過程において個に愛が育ち、周り > に愛を浸透させてゆくことが可能となり、 > 地球(世界)を明るい方向へと変容させる > ことができるということでしょうね。  全くその通りだと思います。しかし、問題は  そこからで、このような新しい必要性をどの  ようにみなさんに解って戴くかということ  なのではないでしょうか?  その必要性が社会に円満に認められつつある  過程において、個に愛が育ち、周りに愛を  浸透させてゆくことが可能となり、  地球(世界)を明るい方向へと変容させる  ことができると思います。    私なりの言葉で言うと、「自分を通して世界  (全体)を変容せしめる」つまり、自分の  悟りが全体に影響するに違いないという小乗的な  実践方法と、「全体を通して個を見直していく」、  つまり他(全体)のために行う事が自分の向上に  つながるという大乗的な実践方法のバランスと  いいましょうか。  このバランスは難しいと感じるのですが、  それはまたそのうちにお願い致します。  有り難うございました。 03489/03503 PXP12545 南天 RE:遊戯の精神 (13) 95/09/20 00:55 03455へのコメント コメント数:1 KAZEさん、こんにちは。 >いえ、そういう観点ではなくて、「戦略」という言葉を >そのまま「宇宙がみずから生成発展していく喜び」と言ってもいいような、 >そういうとらえ方をしたほうがいいように思います(^^)。  それでは、そういう「戦略」として捉えるなら、 例えば、地震で多数の人々が死んだり、大洪水で都市が沈んでしまったりするのも 生成発展するためのプロセスとして、喜びとして受け取らなければならないの でしょうか。とうてい、尋常な人間の精神で為せることではないと思います。 >  そして、これらはいずれも混沌から秩序を形成し、秩序は更に偉大な秩序を形 >  成するため、再び混沌へと帰還してゆくのです。これが宇宙の創造戦略の根幹 >  を成すところの「遊戯戦略」であります。   どうも視点が飛躍してるなと思って、別のアーティクルを調べさせてもらったら このチャネリングって、異星人からの送信だったんですね。(^^;)  当事者じゃないから、こんな冷めた発想ができるんだと思います。 どんな生命体なのか知りませんが、 人間に襲いかかってくる災難も「遊戯戦略」だと思えと言うのですか。  もしも、このような視点を持つためには、人間は、 身体を超え、心を超えて、宇宙へ出なければならないでしょう。 なにもかも剥ぎ取って、何も無い素裸の「私」にならなければ、 この宇宙人の感覚は理解できないと思います。 >  「遊戯」にあっては、結果はあらかじめ分かってはいないのです。遊戯におい >  て大切にされるのは、「その過程における楽しみ」なのであって、「結果」が >  特に重要視されているわけではありません。宇宙の創造戦略もまた同様であり >  ます。そしてその遊戯の前提にあるのは「自由」の意識であります。   地球がどんなに緑豊かな水の惑星で生命に溢れていても、 人間は、創造主の“おぼっちゃま”や“おじょうさま”ではないはずです。  自由は、自らの責任に於いて行使されなければなりません。 心の自由は、心で責任を取れなければなりません。 身体の自由は、身体が元手です。痛みを感じるのは、その本人です。  自暴自棄におちいるわけではありませんが、 地球に住んで居る限り、地球の法則に拘束されるのです。 希望的観測をするのもイメージの世界では自由ですが、 物事には限界があります。  限界があるから、遊戯にもルールがあります。 決められたルールに基づいて、真剣に命懸けでやるところから 真の楽しさも生まれてくるというものです。楽しさも、度を越せば 命取りだということを忘れない限り。  このように地球人には、「遊戯」や「自由」の元にも 生命が懸かっているのです。 この地上は、バーチャルリアリティーではありません。 生身で行なう実際の現実なのです。切れば、赤い血が流れ出します。  たしかに「勝負は時の運」とも言われるように結果は時が来なければ 判りませんが、それでも結果を考慮に入れなければ、目標も立てられない のではないでしょうか。 結果を配慮しなければ、自由に基づく責任ある行動も取れないと思います。 >  あなたがたが自らの任務を果たすならば、宇宙の方も宇宙の仕事を遂行するの >  です。あなたがたは、ひたすら探求し、実験し、試行錯誤しながら前進するこ >  とです。   人間も日々仕事をし、生活を続けているように、宇宙も営みを 続けているのでしょう。その宇宙と人間の精神の波長があったとき 人間は、宇宙の意を得ることになるのだと思います。  人間は、「私」という自立の基に自由なのではありますが、同時に 「私」は、この宇宙を前に無力であります。私が私であるほど無力なのです。  ですから人間は、行動するときには、立て前や大義名分が必要なのでしょう。 実際にそうなのです。私の為、自分の為と思うと、行いが小さくなります。 公の為にやってるんだと思うと、胸を張って出来るのではありませんか。  自由は、個人に於いて確立されるわけですが、個人であればあるほど 無力な存在となり、私は宇宙の意志に従わざるを得なくなります。 このことから、自立即従属、従属即自立ということが言えるでしょう。  P.S.   KAZEさんに宛てたRESでありながら、書き進んで行くうちに  この引用文の発信元である宇宙存在「エラン」を意識した文章に  なってしまった感がありますので、その点をご了承いただきたい  と思います。                           ・・・南天・・・ 03492/03503 GGA02514 KAZE RE:遊戯の精神 (13) 95/09/20 02:07 03489へのコメント 南天さん、どうも。 どうも「戦略」だとか「遊戯」だとかいう言葉が、誤解含みだったようですね^^;。 「戦略」だとか「遊戯」だとかいうと軽そうに聞こえますが、 それは非常に重いものでもあります。 この会議室の名称の「神秘学遊戯団」の「遊戯」にしても、 これは一見、非常にいい加減で無責任のようにとれなくもありませんが^^;、 この「遊戯」という言葉には、深刻にならないで、真剣に人間を演じよう!という ぼくなりの人間学的な観点を集約してみたつもりなのです。 ですから、その「遊戯」はときにぼくにとって、大きな苦難と それを克服しようとするきわめて真剣な、でも決して深刻にはならず、 その事象の背後に隠されているであろう「意味」を 血まみれになってつかみとろうとすることでもあります^^;。 ですから、前回ご紹介した観点を別の観点から、 たとえば西田幾多郎のような哲学的営為からとらえることもできます。 それは「絶対無」(言ってみれば「神」)と私が、 絶対矛盾的自己同一的に逆対応しているというもので、 「神」を対象論理的に問題にしているわけではありません。 そのように、「戦略」だとか「遊戯」だとかいうのも、 「神」が遊び半分で「戦略」を立て、「遊戯」しているというのとは 発想が根本から異なっていることはご理解いただければと思います。 「自由」ということについても、ちょっと文脈が違っていまして、 それは対象論理的な自由のことが問題になっているのではないということを できましたらご理解いただければと思うのです。 >「私」は、この宇宙を前に無力であります。私が私であるほど無力なのです。 ですから、そういう意味においては「宇宙を前に」ということはいえません。 「神を前に」ということがいえないように。 先の西田幾多郎の最初の哲学書「善の研究」より少し。 もちろん、もっと詳細な論考はその後展開される西田の論を検討する必要があります が とりあえずはこういう表現のほうがわかりやすいと思いますので。   万物は神の表現であって神にも真実在であるとすれば、我々の個人性という如き   者は虚偽の仮相であって、泡沫の如く全く無意義の者と考えねばならぬであろう   か。余は必ずしもかく考うるには及ばぬと思う。固より神より離れて独立せる個   人性という者はなかろう。しかしこれが為に我々の個人性は全然虚幻とみるべき   ものではない、かえって神の発展の一部とみることもできる、即ちその分化作用   の一とみることもできる。凡ての人が各自神より与えられた使命をもって生まれ   てきたというように、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即   ち神の発展を完成するのである。この意味において我々の個人性は永久の生命を   有し、永遠の発展を成すということができるのである。神と我々の個人的意識と   の関係は意識の全体とその部分との関係である。凡て精神現象においては各部分   は全体の統一の下に立つと共に、各自が独立の意識でなければならぬ。万物は唯   一なる神の表現であるということは、必ずしも各人の自覚的独立を否定するに及   ばぬ。(P238-239/岩波文庫版より)    これはけっこう説明足らずだし、汎神論的な匂いが強くですぎてはいますが、 こういう考え方をもっとすすめれば、たとえばドイツの詩人シレジウスが 次のような詩編で表現したような観点も可能になります。   私とおまえのほかには、何もない。   もし、私たちがいなければ、神はもはや神ではなく、天は崩れ落ちる。      神は私なしには、一匹の虫をも創造できない。   神とともに私が育ててやらなければ、その虫はこなごなに砕けてしまう。      私なしには、神は一瞬たりとも存在しえないことを、私は知っている。   私なしには、神は苦難のうちに息を引き取らざるをえない。    もちろん、これも対象論理の観点ではありません。 ですから、できましたら、「戦略」や「遊戯」を 「上から」や「外から」という観点でなく、とらえていただければ幸いです。 そういう観点は、この会議室ではありえない観点ですので、 そのらあたりをご理解いただければと思います。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03490/03503 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●VI-2<運命 > (13) 95/09/20 01:11 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 <VI-2/運命2> --------------------------------------------------------------------------- さて、前節では、人間は物質的なレベルでの影響関係だけではなく、 それを越えたさまざまな影響関係のもとにあるということを認識しなければ、 「運命」ということをとらえることができないということについてお話しましたが、 ここでは、その「運命」というのがどのように形成されるのかについて 概観してみたいと思います。 まず、カルマ的連関の基本的な法則について整理しておきましょう。      歩いたり、手を動かしたりすることから、家を建てるような複雑な行為に至る   まで、物質界で行なわれたことすべて、物質界の事象すべてが現実の物質的作   用としてその行為をなした人に近づいてきます。私たちは内から外へと生きて   いるのです。アストラル体の中に喜び、痛み、苦しさとして生きているものは   エーテル体の中に現われ、永続的な衝動、情熱としてエーテル体に根づいたも   のは肉体の中に体質として現われます。そして、物質界で肉体を用いてなした   ことは外的な運命として来世に現われます。アストラル体のなしたことはエー   テル体の運命となり、エーテル体のなすことは肉体の運命になり、肉体が行な   ったことは来世において外部から物質的現実として行為者に返ってきます。                                (P85-86) このように、前世でのアストラル体のあり方が現世のエーテル体のあり方を規定し、 前世でのエーテル体のあり方が現世の肉体のあり方を規定し、 前世の肉体のあり方(その行為)が現世の物質的現実、環境を規定する、というのが 人間の基本的なカルマ的連関です。 この基本的な法則性を理解すれば、今の自分のあり方が、 どのような前世に基づくものかについても理解できますし、 また、来世の自分のあり方を方向づけるためには、 今世ではどのようなあり方をしなければならないかが明確なものとなります。 人間の運命の法則を理解するということは、今を嘆くためではなく(^^;)、 現状を深く認識するとともに、まさに自分の運命をみずからが形成するための 明確な指針を持つということに他なりません。 つまり、「宿命」的な運命観を持つのではなく、 「立命」的な運命観を持つということが重要だということです。 こうした基本的な法則を少し具体的に見ていくことにしましょう。      私たちの内面にとくに触れることなく、外界で体験したことはすべて、次の受   肉に際して、私たちのアストラル体に作用し、その体験に適った感情、知覚、   思考の特性を引き寄せます。善良な人生を送り、多くのことを観照し、豊かな   認識を得ると、来世においてこのような特別の天賦を与えられたアストラル体   を得ることになります。体験と経験は来世において、アストラル体に刻印され   ます。人間が知覚し、感じたもの、快と苦、魂の内的体験は再受肉に際してエ   ーテル体にまで作用し、永続的な性向を生み出します。多くの喜びを体験した   人のエーテル体は、喜びに向かう気質を有するようになります。善行を果たす   ことに尽力をした人は、その際に発展させた感情を通して、来世で善行の刻印   された才能を持つことになります。そして、入念に発達した良心を持ち、道徳   的な人物になります。(P82-83) 自分が望む感情、知覚、思考の傾向性がなかなか難しいとしたら、それは、 前世においてそれを養成するだけの体験、経験を欠いているということですよね^^;。 豊かな感情や繊細な知覚、着実で綿密な思考態度がとれるというのは、 それなりの体験、経験に裏打ちされているということですから、 ちょっとスパンは長いですが^^;、ちゃんとがんばれば それなりの魂の態度がとれるようになるということですよね。 また、良心に欠ける行動、道徳性に悖ることをしがちな方というのは、 前世では、それを用意するだけの感情、知覚、思考の傾向性が あったということになります。 しかし、こういうのって善循環か悪循環のどちらか という気がしないでもないですが^^;もし悪循環に自分がいると気づいたら、 どこかでその循環を断ち切らなければなりません。 そのためにも、こうした神秘学的なビジョンは気づきのきっかけになります。 ぼくなども、こうしたビジョンのおかげで、マイナス思考の危険性を悟り、 ほんの少しではありますが、プラス思考を日々心がけるようになっています(^^)。   現世においてエーテル体に担われているもの、継続的な性格、素質等は、来世   において肉体の中に現われます。邪悪な傾向や情欲を発展させた人は来世で、   不健康な肉体を持って生まれます。健康に恵まれ、忍耐力のある人は前世で善   良な特性を発達させてきました。病気がちの人は邪悪な衝動を培ってきたので   す。肉体的素質におけるかぎりの健康、病気はみずからつくり出したものなの   です。邪悪な性向を滅却し、来世のための良好で健全な体を用意しなければな   りません。(P83)    こうやってみてくると、人間ってほんとうに平等だなあと思います。 こういうのをまさに「神の前の平等」というんですよね。 しかし、気をつけなければならないのは、こうしたカルマの法則を、 人を非難、批判する道具にしてはならないということです。 こうしたビジョンは、あくまでも自己認識のためにあるということを 忘れないようにしなければなりません。 そうでないと、宗教団体などでよくある「脅し、すかし」の手段に堕してしまいます。 自己認識として必要なのは次のような観点です。   大勢の人が苦痛と苦悩を嘆いています。高次の視点から見れば、苦痛や苦悩を克   服することで、来世においてこの苦痛と苦悩が、叡智と思慮と洞見の源泉となる   のですから、嘆くのは正しくないのです。・・・   人生の苦悩から逃避し、苦痛に耐えようとしない人は、決して叡智の基盤を創造   することができません。事象を深く洞察すれば、病気を嘆くことはできなくなり   ます。より高い見地から、永遠の観点から観察すると、すべてはまったく別の様   相を呈してきます。(P84-85)    ただ気をつけなければならないのは、苦痛や苦悩は、 あくまでも、それを克服することによって叡智と思慮と洞見の源泉となるのであって、 苦痛や苦悩があるだけで、それが「カルマが解消された」とか、 それが叡智と思慮と洞見の種になるとか思いこんではならないということです。 某宗教団体で、そうした苦痛や苦悩をカルマの消えてゆく姿だと説いているような そんな非常に危険な考え方をしているところがありますが、とんでもないことです。 それを静かに耐えるということにしても、それはパッシブであってはならず、 あくまでもアクティブなものでなければならないからです。    ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/09/21 - 00283/00284 MXK03704 ゆきぼう 月歪むにあらず 波騒ぐなり 2 (15) 95/09/21 01:39  ヤッホー。ゆきぼうです。お久しぶりです。突然ですが、もし宜 しかったら一緒に考えていただけませんか。それは宇波源という言 葉です。 神仏の世界では、地球のことを宇波源と言うらしいのです。勿論 小生が、神仏から直接伺ったことではありません。また、修験道全 体がこの様な認識を持っているわけでもありません。しかし、何か 気に掛かるので、今この問題を考えております。 宇宙の波の源と言うからには、地球には、他の天体とは異なる何 かが存在するのでしょうが、それは何なのでしょうか。小生は、生 物の、特に人間の「祈り」かなと思っています。しかし、人間の祈 りが、それほど宇宙に大きな影響を与えるのか、ちょっと疑問です。 そこで、興味のある方、お知恵を貸して下さい。地球が宇波源か 否かという議論をしても検証しようがないので、「祈り」というも のが、どれほどの広がり、あるいは価値を持っているのかを検討し ていけたらと思うのですが・・・。   身を砕き 心通して 今ここに     築け大和の 暁の鐘            合 掌 ゆきぼうより 00284/00284 KHC01313 まるにちょん 大和魂を阻むもの(雑感) (15) 95/09/21 03:00  大和魂とは、簡単に言って大きく和することです。  一般に日本人は、一定の場において、他者との関わりによって、自己 の位置を確認すると言われています。自他ともに渾然一体となりながら、 しかも自己を失わないようにすることのできた民族であると思います。  そして、自他ともに活かし生きていくことが、大和魂の性質の一つで あると言えます。  しかしながら、現状をみるにつけ大和魂は喪失されて久しいのではな いかと思います。  では、なぜ大和魂は失われてしまったのか?いや抹殺されたのか?  これをしばらくの間考察して行きたいと思います。 大和魂の喪失の原因について (1)我と我が身内のみの利益を優先する欲    自分や自分の身内さえよければ、他人のことなどどうでもよいと   思う心、自分かわいさの欲が、他者と和すること(大和魂)を阻害   していると思います。大和魂は、個を活かすことによって集団を活   かし、その利益をも図るものであるはずなのに、今では多くの人々   が個の利益追求に血道をあげているありさまです。    これらの己の欲を最優先する人間は、他者や自分の所属する集団   (社会)がどうなろうと良心が痛まないかのようです。    こういった人間を観察すると、面白いことに常に自分は正しいん   だと声高に主張し、自己正当化を図ります。    酷い人間になると、むちゃくちゃな要求を他に対して突きつけ、   道理を引っ込めてでも、無理を通すことをやるのです。彼らは己の   甘えを権利にすり替え、自己正当化を平気でやります。    まったく、どうしようもい事がまかり通るのが現在の日本です。    いったいどうしてこうなってしまったんでしょうか?    私は、己の利益を優先する欲が原因とみましたが、実はそれを助   長しあるいは正当化することやってしまったのが、戦後教育である   と見ています。    戦後教育が、いかに大和魂を抹殺していったかを後述することに   しましょう。   つづく、                まるにちょん、○=ゝ - FARION MES(18):武道にありて ★ 道の実践 95/09/21 - 02559/02560 GGA02514 KAZE 組織なきネットワーク (18) 95/09/20 01:12 02558へのコメント アマデウスさん、どうも。 >言ってみれば、「満タンの器には水を入れることはできない」っていうこと >なんでしょうか。(^^; はい、そういうことでもあります(^^)。 自分を器にして、それを空っぽにすればするほど そこには豊かさが注ぎ込まれる可能性が生まれるということです。 > レンズを交換するという意識があるうちはまだダメで、それを際限なく短 >時間で行っていった果てに、「同時に使っている」状態になるのでしょうか。 >だとしたら、そこで「慎重なる瞬発力」の話につながって来るようですね。 「即」ということでしょうね、どちらかが先だとか後だとかいうのでなく。 すべてにピントが合っている状態であり、即、自分の視点でもある。 そうそう、たとえば西田幾多郎の「善の研究」では、 こういう認識に近いあり方を「知的直観」というふうに言っています。 岩波文庫版から少し。   知的直観ということは或人には一種特別の神秘的能力のように思われ、   また或人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかし   余はこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界   線を引くことはできないと信ずる。普通の知覚であっても、前にいった   ように、決して単純ではない、必ず構成的である、理想的要素を含んで   いる。余が現在に見ている物は現在の侭を見ているのではない、過去の   経験の力に由りて説明的に見ているのである。この理想的要素は単に外   より加えられた連想というようなものではなく、知覚其者を構成する要   素となっている、知覚其者がこれに由りて変化せられるのである。この   直覚の根底に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深淵となることがで   きる。各人の天賦により、また同一の人でもその経験の進歩に由りて異   なってくるのである。始は経験のできなかった事また弁証法的に漸くに   知り得た事も、経験の進むに従い直覚的事実として現われてくる。この   範囲は自己の現在の経験を標準として限定することはできぬ、自分がで   きぬから人もできぬということはない。モツアルトは楽譜を作る場合に、   長き譜にても、画や立像のように、その全体像を直視することができた   という、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるので   ある、たとえば我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができる宗   教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。(P51-52)    でもって、「慎重なる瞬発力」の場合は、そういう知的直観に加えて、 現在の点としての「瞬発力」からの働きが重要となるわけです。 > シンセシスとアナリシスですが、あの話を書いた後、KAZEさんが以前13番 >会議室で紹介されていた「宇宙の法」を思い出しました。 はい、つい最近でも、MES13では、そのことに関連した、 米谷智博「新文明の原理」(たま出版)をご紹介しているところです(^^)。 >  ここで目的意識→概念モデル、素材レベル→各要素と置き換えてみると、 >これはあの設計のプロセスとそっくりになるのですね。「宇宙の法」には、 >目的意識から出発して素材レベルを経験してまた目的意識に達するごとに進 >化の度合いが上がっていくが、素材レベルから上昇方向へ向かう所がもっと >も困難を伴うとか書かれていましたが、これってまさしくアナリシスばっか >の駆け出し設計者のことみたいです。(笑えない(__;)) ちなみに今の世界 >は、まさに素材レベルから後期形態レベルに向かおうとしている所らしいで >すが・・・・ そこで、登場するのが「組織なきネットワーク」(^^)。 まさに、こうしたパソ通が象徴し、 このFARIONが理想としていることですよね。 そこらへんのことを「宇宙の法」ではこう述べられています。   「素材」レベルの社会においては、分析主義・客観主義・合理主義に基づ   く「分割意識」が支配的でありました。個人主義やセクト主義もこの延長   線上に位置しています。   これに対して、ネットワーク型情報化社会においては、「結び付き」「相   互関連」「結合」「組み合わせ」といった意識や思考パターンが支配的に   なります。この社会では、いわば一つの神経細胞の働きが、高度のネット   ワークを通じて直ちに他の周辺の神経細胞にも影響をもたらすようなもの   となります。それは、各々の人や事象は互いに独立しながらも、周囲の環   境や存在と一体不可分であり、「一人は周囲の為に、周囲は一人の為に」   作用する「高シナジー社会」であります。即ち、相乗作用が高度に働く社   会なのです。(P63)    とまあ、おかげさまで、「慎重なる瞬発力」と「組織なきネットワーク」とが けっこうつながってきましたねぇ(^^)。 これもパソ通特有の「相乗作用」のおかげですよね。 では。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 02560/02560 HGB02122 あもり RE:無思慮な瞬発力・・・なんて(^^;) (18) 95/09/21 03:45 02557へのコメント  ##02557 KAZE さん >>そういう意味で、「自己否定」ということが必要なんだと思うんです。 >>いつもあまり適切な例とはいえませんが、パソ通で大量のレスを書く場合(^^;)、 >>相手の発言を一端「自己否定」して受け入れてしまい、 >>それを自分のなかで勝手に動きまわらせる。  こっ、これは(^_^;  遅筆な議長である私へのアドバイスではないですか(^_^; 「自己滅却」という言葉が禅にあります。あぐらをかいて無念無想というメソッ ドだと簡単に考えていますが....「目前に立てた線香の灰の落ちる音が聞こえる 」とかいった話を良く聞きますよね。 場を総合的に捉えるといった客観(こう表現したら乱暴かな?)を非日常的など と表現したりしますが、実はそれが日常であり、しっかり現実なわけですね。 主観の世界から脱却しないと、幻想の世界に終始してしまう....これは私の一番 の欠点であったりします(^_^; 例えば.... 私はまず他人に触れるとき、「自己否定」ではなくどうしても「他者否定」?か ら入ってしまっているようです。 自分が世界の中心にいてそこから回りを見ている、価値基準は当然自分が中心に なってしまいます。つまり、かっこよく言えば、他人を殺して自分を生かす的な ことに終始していたわけです。 会議室や友人などと議論をする機会の増えた私には、今まで自分の取ってきたス タンスが何か足りないような感覚を覚えるような時があります。友人の話を聞い ていると時にたまにどこか遠いところで聞いているような気分、長時間の話し合 いの後に感じる空疎感....これらの感情は、「自分さえ良ければ〜」的な自分中 心の視点から相手と向かい合っているのであって、そこから生じる相手との存在 の軋轢が自分の感覚を疲れさせているようなのです。なおかつ、話から得るもの は何もない。 これは一例ですが、自分の世界の外で起こっていることはすべて私の関知の外だ という癖がついてしまっているため、点の自己主張は止みません(^_^; 増してや、昂じた自己主張は外からの作用もブロックしてしまう結果になってし まいます。知識や力となるきっかけはすべて外界に存在しているのですが、それ を受け入れることも散漫になっていますね。 でも、これって、現代病だよなぁ.... その直後の#2559では「高シナジー社会」が扱われていますが、ご都合主義の人間 がネットワークのノードになってしまった場合、社会のベクトルはどこに向かう んだろう....ボソ 点はいつまでたっても点ですが、面に投射することによって初めて価値を持つ。 う〜ん、納得しているようなしていないような....(^_^; HGB02122 あもり