- FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 95/09/23 - 04554/04562 GCG01101 アマデウス RE:半導体ってスゴイのね(^^; ( 2) 95/09/22 20:25 04553へのコメント #4553 ガッチャ さん   は〜、呼びましたぁ?   TTLねぇ、僕は機械&光学屋なので、回路のことは詳しくありまへん。(^^;   開発中の装置なんか見てると、リード線がぐちゃぐちゃに入り乱れていて、  線状生物が床を這い回っているようにも見えますね。(^O^;) これが製品化  されるとなると、P板(あ、プリント基板のことね)のカタマリだった装置  が、LSI化されて小さなサイズに収まってしまうわけですから、半導体の  技術ってスゲーな〜、と単純に感心してしまいます。  (ホンマに技術者か?>わし(^^;)   コンピュータの回路はデジタルですけど、昨今のようにクロックが100MHz  とか133MHzになると、周期が10nsとか7.5nsで、パルスの立ち上がり・立ち  下がりを1ns程度にせにゃならんということで、最近のデジタル設計はほと  んどアナログ設計と変わらん、と聞いています。   あ〜、話がだんだんマニアックに〜(^O^;)                             アマデウス - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/09/23 - 00312/00316 KFQ02761 しまうま 晩夏四題 ( 5) 95/09/22 23:11        眠   二   散   梨        い   年   髪   買        の   振   に   っ        に   り   行   て            く   こ            ベ   ら   う   む        ッ   い   か   い        ド   で       て        に       こ   食        入   煙   の   っ        る   草   ま   た        と       ま   ら            吸   伸            目   っ   ば   う    し   が   ち   そ   ま    ま   さ   ゃ   う   か    う   え   っ   か   っ    ま   る   た       た - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/09/23 - 00139/00139 KFQ02761 しまうま RE^2:「しがみつき」と「忍び寄り」 ( 6) 95/09/22 23:11 00136へのコメント #00136 S・Nさん  こんにちは(^^)。ご返事どうもありがとうございますm(__)m。 : 私は、目で活字を追う、という行為に「ふけり」「耽溺」することで、 :自身の「苦しみ」から目をそらしていたんですね。なぁんちゅうこった。  ふむふむ……。僕も「レッツ現実逃避」を合い言葉に(^^;、活字に逃げ場を 求めていた時期がありました。そういう時期に読んだのは、いわゆるニューエ イジ系といわれる「バシャール」だの「シャーリー・マクレーン」だの、ある いは三島由紀夫だの司馬遼太郎だの三浦綾子だの……共通点としては『読むこ とによって何らかの精神的な成長が得られそうな本』であったというのをあげ ることができると思います。  で、僕の場合「ワクワクすることを毎瞬毎瞬選択しよう。そうすれば宇宙が キミをぐんぐんサポートしてくれるはずさ」みたいな言葉を真に受けて「そう かぁ、おもしろくないことっつーのは基本的にする必要のないことなんだな」 と深くうなずき、学校の講義もクラブ活動も極めて適当にちゃらんぽらんに過 ごしているうちに、だんだん鬱状態になってきて、にっちもさっちもいかなく なったところで、まあ何とか社会復帰に向けて方向転換することができた、と いった次第でした。  あの時期の自分というのは、まさに「ふけり」「耽溺」することで自身の 「苦しみ」から目をそらしていたんだと思います。 :  私はあの時、大きなモノに包まれる「安心感」ではなく、自分自身 :  による「完全な納得」を選んだ。これは悪い選択ではなかったであ :  ろうと思う。  ホントにそうだと思います。「包み込まれることによる安心感」を抱かせて くれる存在、というのは、そもそもの役どころが“庇護者”であるために、つ いついその傘下の人たちを「甘えに基づく思考停止」や「絶対的な服従の快感」 に導いていってしまいがちです。  一方で「自分自身の信念に基づく完全な納得」というのは、荒野に一人立つ ような厳しさはあるでしょうが、そこには本当の意味での「自信」と「誇り」 があると思います。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 95/09/23 - 01769/01770 JBH00712 桂 桂 秋の夜長の感想文 (11) 95/09/23 03:38 01762へのコメント  #1762 SHIBA さん  SHIBAさん、どうも御無沙汰しております。ようやく「犬神 明・8」を 読み終えたところです。秋の夜長に読書をするにはもってこいの季節ですの で、おいおい感想を書いていくことにします。では早速、#1762の感想を書 いていきましょう(久々の書き込みですので(^^;)。  「人間らしい」それに対する絶対的な、あるいは模範的な解答と言うのは 確かにありえないと私も思えます。でも、だからといって例のカルト教団に いる信者達の行動を「彼らもまた人間らしく精一杯生きている」という事は 出来ないのでは、と私は思えるのです。 何故なら、自己の定義に従って「あれもこれも精一杯やっているのが是」と されるのならば、それは放縦と呼ばれるものになってしまうのではないのか、 そんな気がするのです。いわゆるミーイズムということですよね。  「犬神 明・8」には人間を模した亜人種、類猿人が出てきます。  彼らは人造種であるがためにまるで人間のカリチュアの様に「悪」を体現し ていて憎悪しか持たない、生命として本質的な要素である種を育む精神、慈愛 の精神を持ち合わせていません。彼ら類猿人に果たして生きる価値があるのか と問えば、その答えは明らかにnoと言えるでしょう。  これは良心とは何ぞや、という問いかけにも通じるものがあるではないのか、 としばし私も考えさせられることです。  人間には誰にでも人権がある。あるいはそれもこれも一生懸命になっている ことなのだから認められるべきことだ。これは極悪無比な振る舞いをする犯罪者に も巷間よく言われる台詞です。  しかし本当にそうであろうか?  もしSHIBAさんが自己の良心に某かの行いを問いかける機会があれば、問いか けてみてください。  自己の目的達成が果たしてそれが本当に素直な情念から発せられていることな のか、あるいは自己の欲望ゆえに発せられた見栄と野望の化身なのか。その見極 めがつけば、あるいは自己の行いをそれが善なるものと認識するかあるいは悪い ことと認識してやっているか、その判断できれば「自己の良心を鵜呑みにする」 ということは起きえないのではないのか、ふとそんな気がします。  あのオウム事件で言えば、事件にかかわった信者達が今後の裁判においてどん な供述をするか、あるいは自己の行動をどのように総括するかによって個人の 「人間らしさ」を問われると思います。そういう意味でこの事件に居合わせた我々 は、同じ様に個人の人間らしさを問われているものだと思います。それはあのよ うな行いをしたから「生きる価値が無い」と断罪をされるものではなく、「その 後の生き方」を問われるからです。  誰も彼も、失敗をしない人間なんてこの世にいる筈がありません。まして虫も 殺さぬ善良な人間なんて、本当にいるのでしょうか。ならばこそ、自己の誤りを 認め反省をしてその後の生き方に重い十字架を背負う、そんな厳しい生き方もあ るのではないのか、そのように思えます。  間違いは素直に間違いと認め、そしてその誤りを正す勇気を持つこと、これも また「人間らしさ」の一つかと思います。  さてSHIBAさんはこれについてどう思われるでしょうか。感想などありましたら RES下さいね。  でわでわ。 桂 桂(JBH00712) 01770/01770 JBH00712 桂 桂 思い出は何時も (11) 95/09/23 03:40 01766へのコメント  #1766 星也 さん  こんばんわ、星也さん。今書き込みをしているのが深夜ですので、こんば んわです。♯1766を読んで思った事を書きます。ちなみにさっき「犬神 明」 の第8巻を読み終えたところです。  最近ようやく「犬神 明・8」を読み終えた所です。  私がここで大変印象深く感じたところは、明が過去の思い出を振り切ると いう箇所です。  最愛の女性がホルマリン漬けで無気味な生きる屍と化している。姿形は昔 のままであるが、それは悪魔のようなテクノロジーを駆使した結果の抜け殻 にしかすぎない。それでも明は青鹿先生や虎4を愛しているといえるか?  それは自らの裡に潜む「思い出」との闘いであったのではないのか。そう 思えました。  人は何か苦しいことがあったり思い出したくない事があったりすると、そ れが過ぎ去った後にそうした事件を過去の記憶に封印して「奇麗な思い出」 として肝心な箇所を忘れがちになります。犬神明がアリゾナの荒野に自らを 閉じこめなければならなかった理由は、正にその苦しい、嫌な部分を直視す るのをためらい逃げまわったせいであった。このように思えます。  しかしドードーことジム・パットンは否応なくその現実に対して判断を下 すことを要求します。  お前の思いなど過去の幻想の記憶にしか過ぎないのだということを、あか らさまに認めることを要求します。それは過酷な試練だったのでしょうか。 これはそのような事態に直面した人間にしか分からない苦しみでしょう。  そして尚のこと現実に対して笑い飛ばせと喝破します。  それは半ば自暴自棄的な、捨て鉢な台詞でしょうか。  苦しみというのは人それぞれです。  誰も彼もが抱いているものに対して、他者が容喙する余地はないでしょう。  但し、その苦しみを何時までも後生大事に抱え込んでいるのであれば、そ れは正に自己憐憫そのものに他なりません。  我々は時として自らの過去に、自ら相対しなければならない時がきます。 それがどのような種類のものであれ、自らの足跡を再確認し、そして又まだ 見ぬ明日に向かって突き進むための勇気を養うために。その為にはいつまで も過ぎ去ったものに対して過度に感傷的になることは先に進むための足踏み を止めることになります。  如何なものでしょうか。  私としては星也さんの、「言葉が足らない」その先の言葉を聞いてみたいと いう気がします。 でわでわ今日はこの辺で。  でもたまには何ごとも笑い飛ばすことも大切ですよね!  いつも堅苦しい事ばかり書いていますが(^^;) 桂 桂(JBH00712) - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/09/23 - 03181/03181 KFQ02761 しまうま 奇術師の賭け (14) 95/09/22 23:12 MES( 6)#00137 めのうさん  こんにちは(^^)。レスを書いているうちに思いっきり解読系の話になってし まったので、こちらに書きます。 :奇術師は死に至る賭けをテーブルの下で行い、燭台をひっくり返す  94/02/04 闇にうごめく策謀の触手、傀儡は自らの論理の罠に気付かない…  94/05/05 3つに割れた亀甲、回転する燭台…炎を掲げ持つのは誰か?  94/12/29 万燈を掲げてゆけよ、そは出ずる国のため…そは流るる炎のため  95/04/13 開かずの扉、残るは3つ。萬灯を掲げて百鬼夜行の列は進む‥  95/06/15 亀甲に刻まれた年月、人の顔に刻まれた年月‥同じ年月だろうか?  「奇術師……」のHMは、上記の5つのHMに関連があるんじゃないかとい う気がします。あまり深く考えずにストーリーをつないでみると……。 −−奇術師(傀儡)は、自らの論理の罠に気づかないまま、テーブルの下(闇)   で策謀の触手をうごめかせ、死に至る賭を行う。で、結局うまくいかずに  燭台をひっくり返してしまう。テーブルから落ちて回転する燭台。落ちて  しまった燭台の炎を掲げ持つのは誰か? 出ずる国のため、流るる炎のた  めに、万燈を掲げてゆくのは百鬼夜行の列。開かずの扉は、あと3つ残っ  ている。  うーん、意味不明だ(^^;。特に亀甲の意味がよくわからないなあ。正六角形 の亀甲が3つに割れたら、正三角形が3つになるのかな?  要するに、この奇術師の賭けの失敗が、新しい展開のきっかけになる、とい うことなんじゃないかと思います。  94/07/11 左端から幕は閉じられようとしている、右端には松明灯る花瓶が。  94/07/12 幕の重みで松明の灯が消えるか、それとも幕に火が燃え移るか?  95/08/31 亀の甲、金銀を積んでも手に入らぬ夢。さて幕が開く‥準備良し  ついでに言ってしまうと、この3つも上記のストーリーに関係ありそうに思 えてきました。 −−奇術師がステージで失敗して、左端から幕が閉じられる。左端には、花瓶   に松明が灯されている(これって燭台では?)。「幕の重みで松明の火が   消え」てしまったら、百鬼夜行の列は進まなくなってしまう。「幕に火が   燃え移」ってこそ、萬灯を掲げた百鬼夜行の列は進むことができる。  となると、このステージは火の海と化してしまいそうですね。  で、3つ目のHMは「亀の甲」=「金銀を積んでも手に入らぬ夢」というこ とでしょうか。うーん。だとすれば、3つに割れた亀甲が、それぞれ「開かず の扉」に納められている、ということかもしれません。 −−開かずの扉には、金銀を積んでも手に入らぬ夢が収まっている。そして、   萬灯を掲げた百鬼夜行の列が、その扉をひとつひとつ開いてゆく。  ……という感じかな? 揃った亀甲を復元すると……刻まれた年月が復活す る? 「人の顔に刻まれた年月と同じだろうか?」というのは、何を意味して いるのだろう。「同じではない」という結論になるんだろうとは思うのですが。  人の顔に刻まれた年月、というのは皺のことでしょうか。皺=四八かな?  数字の意味とか全然わからないから、なんとも言えないけど。亀甲に刻まれた 年月は……文様? 年輪? それともヒビ割れ? よくわかりません。  「さて幕が開く‥準備よし」ということですから、もう役者は揃っているの でしょう。あとは奇術師が見事(?)賭けに失敗して、燭台の炎が幕に燃え移 るのを待つばかり、といったとところでしょうか。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/09/23 - 00286/00288 PXY03747 諏訪みのる 戦後教育の弊害について (15) 95/09/22 18:33 00284へのコメント コメント数:1  まるにちょんさん、こんにちは。 終戦後、連合国側が採った対日政策の基本柱が、 日本人に対する 徹底した「贖罪意識の植え付け」であったことは 当時の連合国側の資料からも明らかな事実に思われます。 厳しい言論統制と、恣意的な「贖罪キャンペーン」によって、 日本人は多方面において(言葉は悪いですが)、連合国側の都合の良いように マインドコントロールをされてしまったようですね(^^;)。 こうした対日政策は、当然のごとく 「戦後教育」にも大きく反映されて行きます。 そこでは「贖罪意識」の植え付けと共に、日本の「文化」とか「歴史」といった いわば「大和魂」の源とも言うべきものの記憶すらも 否定、歪曲、あるいは隠滅しようとする連合国側の思惑が入り込んでいます。 こうした手法は 決して珍しいものではなく、 植民地化政策には必ずと言ってよい程ついて回るポピュラーなものですが(^^;)、 問題なのは、そうした相手側の思惑に 大した抵抗も見せず、 あっさりと嵌まり込んでしまったという事実ではないでしょうか。 「戦争に負けた」という精神的なショックもあったのでしょうが、 一時とは言へ、事実上 他国の統治化に置かれるという経験を、 いまだかつて一度も経験したことのない 言わば無菌状態の日本人にしてみれば、 何が何だか解らないまま、 思惑の渦に巻き込まれて行ってしまったのかも知れません。 こうした運命の流れが、戦後の日本にとって、 幸いだったのか不幸だったのかを断じるのは、 白黒を別けるほど簡単には行かないと思いますが、 明らかに不幸な事は、自国の文化や伝統、また歴史や思想というものを、 大した検証もせず、 過去の遺物として捨て去り、顧みないという態度を取る事だと思います。 そういう意味で、戦後教育によって、「大和魂」なるものが いかなる方法で、どういう過程で解体されて行ったのかを見て行くことは、 とても意義のある試みであると思いますし、 個人的にも興味ある分野ですので、 今後のお話しの展開を楽しみにさせていただきたく思います(^^)。  でわ、では(^^)/ みのる♪デシタ。 P.S. >まるにちょん さん 最近 興味半分で「大東亜戦争」について勉強させてもらっていますが、 教科書に記されることのない“もう一つの真実”とも言うべき戦争前後 当時の日本と諸外国との国運を懸けた“せめぎ合い”と、「勝った側」 が「負けた側」を裁くという異様な裁判の真相を垣間見るにつけ、 『なんだかなぁ・・・』って言う“やる瀬ない”気持ちになっています。 「戦後教育」については、そうした関連から多少触れる機会があるので     すが、詳しい事は「あまり知らない」っていうのが私の今の現状です。     よって、「教えて戴く」という立場になろうかと思いますが、食い付け     そうな話題には遠慮なく(^^)食い付いて行きますので、その折りには     よろしくお願い致します。(^^)/ ヨロシク~ 00288/00288 MXK03704 ゆきぼう RE:戦後教育の弊害について (15) 95/09/23 04:21 00287へのコメント  まるにちょんさんのお考え、その通りだと思います。小生も、 現在教育の抱える問題は、「頭を養うが、心を養わない」ことだ と考えております。  知識集約型の社会である我が国では、特殊な知識・多くの知識 を持っている人間が、高く評価されます。医者や弁護士が、高い 社会的評価を受けるのがその例です。 勿論、小生は、医者や弁護士が高い社会的評価を受けることに 反対しているわけではありません。小生が首をかしげたくなるの は、「医者や弁護士は、人間としても優れている。」「一流企業 の社員は、人生の勝利者である。」というような錯覚です。社会 的な評価を、人間としての本当の価値を量る上で、極端に重要視 するというこの錯覚が社会に蔓延しているように思えてならない のですが・・・。 社会に蔓延しているこの様な錯覚が、子供の教育に影響を及ぼ していないでしょうか。「医者や弁護士は、云々」という発想は、 「勉強が出来る子は良い子」というような皮相的な判断に結びつ いていないでしょうか。こういった状況の中で、「人の痛みが分 かる人間になれ」とかという、本当に価値ある人間になるために 必須な部分が忘れられがちになったり、欠落しているような気が してならないのですが・・・。 「心を養う」にはどうしたら良いと、まるにちょんさんはお考 えですか。戦後教育という歴史的観点からの考察を試みる、まる にちょんさんとは議論が少し喰い違っているのかもしれませんが、 噛み合う部分も多いと思われますので、あえて書かせていただき ました。      合 掌 ゆきぼうより - FARION MES(18):武道にありて ★ 道の実践 95/09/23 - 02563/02566 GCG01101 アマデウス 日常での「居着き」 (18) 95/09/22 20:26   これまで、「慎重なる瞬発力」を武道を例にして考えてきました。また、  「居着き」という観点から、大地震のときの恐怖とか喧嘩のときの心理とか  も考えてみました。言ってみれば、これらは非日常的な状態におけるケース  スタディのようなものであったと思います。   しかし「慎重なる瞬発力」とは、本来非日常に限られたものではなく、広  く日常に当てはまるはずです。いや、「慎重なる瞬発力」の観点からすれば、  日常・非日常という捉え方そのものが必要ないのかも知れません。   自分の生活に活かせる要素とはどういうものなのか、最近のKAZEさんの話  「相互否定による相互成立」に触発されてぼんやりと考えているうちに、5月  5日未明のARIONとのRTを思い出しました。「慎重なる瞬発力」という  ものが僕に足りない、とARIONから言われた、あのRTです。   あのRTで、ARIONは僕に質問の暇も与えず、ある出来事を持ち出し  てきました。その出来事というのは、そのRTの直前に行った旅行先で、さ  さいなことがキッカケで僕と嫁さんがちょっと険悪な状態になったことでし  た。そのとき・・・・ | (2,アマデウス)あのときは「またやってしまった」と思いました>ARION | (2,ARION)いや、それを即、悪いことだと決めないで、何故、そうなった | のか?を二人で話し合って欲しい>アマデウス   「それを即、悪いことだと決めないで」との指摘は、僕がまさしく「即」  そう決めてしまっていたからに他なりません。ARIONがあの出来事を出  したとき、僕は「痛い所を突かれた」と感じました。それまでは、「そんな  こともあったなぁ」位の意識しかなかったのですが、言われた瞬間に「あ、  マズイ」と思ってしまったのです。後は、自分でも感知しないまま、意識が  「あれは失敗だった」という方向に一方的に流れて行ってしまったようです。   これはまさに「居着き」です。非日常の場面だけでなく、日常の中でも  「感情の居着き」というのは結構簡単に起こりうるのだと知りました。一旦  居着いてしまったら、もうしなやかな動きができなくなってしまうのは、武  道の実践の場合と同様なのでしょう。   ARIONが僕に足りないと言ったのは、おそらくこのような面での「慎  重なる瞬発力」なのだろうと思いました。                               アマデウス