- FARION MES( 7):自己対面鏡 ★ ARIONを鏡にして 95/09/26 - 06427/06430 QZR07771 サーバス 初めまして サーバスです。 ( 7) 95/09/25 21:01 コメント数:1 初めまして、サーバスと申します。よろしくお願いします。  さて、心のあり方として様々な勉強をさせて頂いているわけですが、勉強不足の折 少々の疑問を感じましたのでUPします。  それは、様々な出来事の中での判断基準すなわち照らし合わせる基本の部分で、私 は次のようなスケール(物差し)で考えております。 (1)そのアクションをするにあたり、愛情の物理的なスケール(広さ)を考えます。   即ち誰のためを思って考えたのか? の“誰”のスケール(広さ)です。自分の   ため?家族のため? 町のため? 日本のため? 世界のため? それとも、宇   宙のため?と。そして、判断に迷うと広い方に従います。 (2)そのアクションの集中性と言いますか、“一生懸命さ”を程度でもって考えま   す。すなわち、曖昧さを嫌います。人間というのは曖昧さがあるから人間と言う   人がいますが、上記(1)の高次に至るゆえの曖昧さ以外は問題です。 (3)宇宙はバランスにあるのですから、そのアクションのバランス性を大切にしま   す。上記(1)に通じることですが、生命(特に人間の)の釣り合いこそ大切で   す。    私の知っているARIONさんの言葉の中には、同じ様な記述があるのですが   まとまったものがない様に思えます。よろしくお願いします。    また、最近はオウムの醜態があったことから「宗教への信頼感」が極端に低下   していると感じています。その前には「政治不信」があったことから、一般的に   何を信じて生きて行けばいいのか不安感が募るばかりであります。    ARIONさんまたは会議室のみなさんは、今後いったい何をこの社会に実行   されるのか具体例を知りたいと思います。             以上、生意気な質問をしてしまいました。 サーバス 06429/06430 NBB01420 SUKE RE:初めまして サーバスです。 ( 7) 95/09/26 03:00 06427へのコメント #6427 サーバスさん、はじめまして。 SUKEと申します、よろしく。 3つに分けて疑問を述べられているので、その順でコメントをして行きますね。 (1)より広いスケールのもののために… 最近のハローメッセージに次のようなものがありました。 >>09/21 他人の為を叫ぶ前に、自分のことは自分で出来るようになりなさい これは、他人の為に何かをする為には、まず自分がちゃんと出来ていなければ ならない、という意味でしょう。サーバスさんの言では自分のためよりも町の ため、という事になりますから、下手をすると「町のためには自分を捨てる」 という事になりかねない危なさを感じました。 他人の為に頑張っているような人でも、以外と自身の事がちゃんと出来ていな くて、そのはけ口として他人の為になる事に打ち込んでしまう例があると聞き ました。 つまり、より広いスケールの為という理由付けが、自分の言い訳になってはな らないことを充分に気を付けて取捨選択して行くのが肝要ではないかと思うの です。 (2)「曖昧」さについて サーバスさんの文章から、「曖昧」=「なまくら」という様なニュアンスに感 じられているのだなぁと思いました。 ちなみにARIONが述べている曖昧さについては、その著書「光よりの光…」 に以下のように述べられています。 >>「あいまい」が「ごまかし」と同義語になってから久しい。「あいまい」は「ごま か >>し」では決してない。「あいまい」には愛他精神があるが「ごまかし」にはない。 >>    (「光よりの光、オリオンの神の座より来たりて伝える。」P25より) この節では、日本人が古来から文化的に持っていた会話の中でのあいまいさに ついて語られているのですが、もともと「曖昧」というものは「なまくらな、 いい加減で、毅然としない…」と言うような意味では無かったのではないかと 言う風に拡げて考えてもおかしくないと思います。 心の中でははっきりと考えを持っている必要がありましょうが、しかしそれを アクションとして表す段階では、他人を傷つける可能性を加味して、そこに思 いやりの精神から曖昧さを取り入れて行く、そんな風習がもともと「曖昧さ」 だったのではないでしょうか。 そう考えてみると、「曖昧さ」は決して「真剣さ」の対義語ではないし、「不 誠実」の同義語でもない。この辺りを深く認識した上で、真剣さを発揮して行 ければと思います。 (3)バランスについて サーバスさんの言われる通り、バランス感覚というのは大切ですね。 私達はともすれば二者択一に陥りがちで、結果的にどちらかに偏った強引な結 論にしがみついてしまう事が多々ありますが、本当はそのどちらでもない、あ るいはどちらにも通じるような第3の状態があるのかも知れません。それがバ ランスの取れた道なのでしょうか。 しかし私達は苦しいときにはすぐに結論を出したくなって、ついついそのバラ ンスを崩してでも結論を出そうとしてしまう。どうやら忍耐力も必要なのかも 知れませんね。 ところで、もう一つ最後に質問が書いてありましたね。 (4)一般的に何を信じて生きて行けば良いのか? これは「自分の良心」とか…(^^;) 良心という言葉は奥が深くて、実は自分の良心のシグナルに気付くためには結 構自分に突っ込んで行かなければならない所でもあると思います。 身の回りの何を指標にしても、結局それは相対評価にしかならない。しかし自 分の中に基準を持つことが出来れば、どんなに不安な世の中であっても、着実 に歩みを進める指標になります。 勿論勝手な指標を自分の内部に作っても失敗に至るだけで、案外苦しむかも知 れませんが、実は私達の持っている「良心」というのは、案外上手に指標を示 してくれるのではないかと感じています。 さて、サーバスさんのお話は結構一般的でしたが、身の回りに何かそういう事 に悩む事柄でもあったのでしょうか? 具体的に何かあれば、色々な人が色々な角度から話し合い出来ると思います。 今後ともよろしくお願いします。                          (^^)…☆ッテナモンダ Suke. PS:改行が全角40文字を越えておられるようで、文字の幾つかがちゃんと   アップロードされていないようです。37〜38文字目くらいで改行を   入れられると、次回から文字落ちが無くなると思いますよ。(^^) 06428/06430 KHE02065 メルク 不完全復活ですけど(^_^; ( 7) 95/09/25 21:43  こんにちわ。ひさしぶりにアクセスしたメルクです。  最近感じてること。  カルマって考え方あるでしょ? 罪、そして良心。  たとえば「盗む」ってわるいこと?  でも、たとえば、誰もが自由に盗み、誰もが自由に盗まれる、  誰もがそれを自然に肯定している世界があったら?  それって、所有ってゆう概念がないってこと。  それでも畜生道に落ちるの?  その世界の住人にこう聞かれたら、なんて答える?  「ねえ? それってわるいこと? どうして?」  え? こっちの世界では、みんな困るし嫌がるから?  じゃあ、相手に嫌な思いをさせるから、わるいことなの?  そっか、それじゃあ、気づかれないように、騙すかこっそりやればいいの?  でも、それって良心が痛まない?  つづく。(時間がないから ^_^;)                              メ ル ク 06430/06430 QZG02773 ウルヴィー 確からしさと個性 ( 7) 95/09/26 04:11 「東京の噂」を読んで思ったことがあった。 噂と称して載せているということは、この本に載せられている情報は 本当らしくは思えるが嘘だったとしても怒らないでね、という前提の もとに書かれているということだ。 ところがその中に私は本当だと知っている情報が含まれていたのであ る。噂と称している情報の中に確かな情報があったのである。 その瞬間思い当たったことがあった。この本に載せられている情報の うち、私はただの噂としか思ってなくても別の人間には真実である情 報があるのではないかということだ。いや、きっとそれはあるに違い ない。 ということはどういうことかというと、情報の確からしさは個々人に よって大きく違うということだ。同じ情報を聞いても「なるほど、そ れは気をつけなきゃ」と思う人と「何口からでまかせいってんだよ」 という人がいるということだ。情報を取り入れる段階ですでに個人差 があるのである。 そして大多数の人間はそこに個人差が存在するということを忘れてい るような気がする。よく事実の認識に違いがあっては議論が出来ない というが、事実に関して同じ情報を聞いても、それに張り付ける確か らしさが人によって違っていては同じ認識は出来ようがない。意識し ない癖は直しようがない。この確からしさの個人差、意識しなければ ならないのではなかろうか。 そして個性とは、実は個人の行動の仕方にあるというよりはこの情報 の取捨選択の段階にあるのではないだろうか。情報の確からしさを決 めるところに個々人によって大きな差があるのは明かである。そして それは自分の行動や考えを左右する大きな要素でありながらたいてい 忘れられている。だからこそそこになかなか変化しない個性が眠って いるような気がするのである。 私はたいていのモノは疑ってかかる。情報を鵜呑みにするよりもその 方が面白いからだ。否定してかかるとは違うことに留意されたし。疑 うということはより多くの可能性を考えるということ。否定してかか るというのは可能性の芽を摘むことであろう。 みなさん、自分の確からしさに目を向けてみてはいかがかな?       季節の変わり目で着るものの判断に困るよなウルヴィー - FARION MES( 9):神々の曼陀羅 ★ 歴史と宗教を巡って 95/09/26 - 633/633 MHD02672 TAO RE:良渚遺跡 ( 9) 95/09/25 23:50 632へのコメント  #632 ぴのさん  レスポンスがちょっと遅れて失礼致しました。  この度の北陸旅行は、白山比v神社参拝だけで無く白山にも登拝して、頂上の  奥宮へ赴く予定だったのですが、生憎の悪天候で白山登拝は参拝せざるを得な  くなりました。残念な限りですが、次の機会を待ちたいと思います。  白山比v神社の本殿に礼した後、同行者とお籤を引いたら、二人とも同一の卦  で、しかも「火水未済」という最後(64番目)の卦だったので、ちょっと驚か  されました。というのも、後で「白山菊理媛幻想」シリーズで触れる予定です  が、近代神道オカルティズムにおいて、菊理媛はこの世の終わりを締めくくる  女神だとされているからです。白山比v神社のお籤は易経を引用しているよう  ですが、その中で最後の卦に当たる「火水未済」は、終局の後の再生や新生を  意味するそうなので、菊理媛らしい卦だとは思いますね。  今回は車で行ったので、駅弁を食べる機会は無かったのですが、旅館で頂いた  山菜食事は美味しかったですね。  ▲▲▲  >> それから、梅原猛氏の最近の発言を読むと、梅原先生は、良渚遺跡の  >> 翡翠製の玉器と、日本の縄文遺跡の翡翠から、共通の東アジア文化圏  >> のようなものを想定されているようです。ただ、翡翠だけが伝わって、  >> 何故、同じ時期に稲作が伝わらなかったのかは、謎ですが。夢のある  >> 話なので、これも今後に期待したいと思います。  「共通の東アジア文化圏」については、今年に入ってから、縄文時代における  大陸との交流を示唆する遺跡が次々と発掘されていますが、山形県羽黒町の中  川代遺跡から見つかった有孔石斧(ユウコウセキフ) 等は、縄文中期とほぼ同時代の中  国製の石斧と形状と特徴が一致するので、縄文時代から既に中国との交流が行  われていた可能性が強いとのことです。しかもこの有孔石斧には、甲骨文字以  前に有ったらしい符号が刻まれており、中国の考古学の定説にも影響を及ぼし  そうです。  現代に到るまで、稲作や翡翠に限らず、大陸から伝播されて行ったものは数限  りなく有ったでしょうが、大陸→日本列島という一方的な流れだけで無く、日  本列島→大陸という流れも有ったことでしょう。縄文時代においても日本列島  は決して孤立していたのではなく、想像される以上の人と物の交流があったと  思われます。  遺跡発掘は今後も続くことでしょうが、その成果より歴史像の絶えざる修正を  怠らないようにしたいものです。  TAO - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/09/26 - 03183/03183 KHE02065 メルク 通りすがりにちょっと (14) 95/09/25 21:44 :「奇術師は死に至る賭けをテーブルの下で行い、燭台をひっくり返す」  死とは第四の封印、3つの開かずの扉とは、残りの3つの封印のことかな?  死に至る賭けとは、封印を解くための行為であり、それはたぶん、  百鬼夜行と関係あるような気がする。  燭台をひっくり返すってのは、  「日月神示」の天地がひっくり返るってのを思わず思い出したけど、  正三角形を逆三角形にするってことかな? 価値観の逆転。  ん〜と、こんなもんです。では。                           メ ル ク - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/09/26 - 00291/00291 KHC01313 まるにちょん RE:大和魂を阻むもの(雑感) (15) 95/09/26 03:25 00284へのコメント 大和魂を阻むもの (2)戦後教育の問題点    ・第二次大戦を反省すると言う主旨から、徹底して戦中に関係す     る言葉を排除するような教育を行って来ました。     その為に、多くの古き良きものが抹殺されてしまいました。     その最たるものが、大和魂という言葉であると言えましょう。    ・抹殺されたのは、言葉だけではありません。実生活での実践の     場からも大和魂の意味するものは抹殺されたといって過言では     ないと思います。     大和魂は、個を活かし、個の所属する全体を活かす心であると     言えます。全体の利益を計りつつ、個の権利が調整されるもの     です。言い換えれば、個の権利は全体にとって有益であるかによ     って制約もされ、あるいは拡大もされうるものだと思います。      そこには、個の権利を行使するがゆえに、全体に対する大きな     義務や責任が存在します。         ・ところで、戦後教育は、ある意味で権利教育であると言えます。     曰く、表現の自由を行使する権利、憲法第二十四条に規定する     生存権、教育を受ける権利、などなど。     戦後教育では、多くの権利について子ども達に教え込みます。      ところが、不思議なことに、権利について敏感な教育も、こと     義務や責任と言うとあまり熱心ではないようです。(^^;          ・何度も言いますが、権利にはそれを行使する為に、当然に義務や     責任が付随するものなのです。      それだけ権利を行使することとは重大なことなのです。         ・あえて極論しますが、重たくもしんどい義務や責任をなおざりに     してしまった戦後教育が、大和魂の命を衰退させました。      そのことが現代日本の社会の歪みを作ってしまったといって良     いでしょう。        なんだか纏まりがつきませんが、ぼちぼちと持論を展開して行きたいと 思います(^^;。  余談ですが、私のかってな解釈ですが、大和魂のかけらが未だ生きている 法律の条文があります。  民法第三条 「私権ハ公共ノ福祉ニ遵(シタガ)フ」  つづく…かもね(^^;             まるにちょん、○=ゝ