- FARION MES( 7):自己対面鏡 ★ ARIONを鏡にして 95/09/28 - 06436/06437 SDI00635 みれ RE:ちょ〜遅れRESですが ( 7) 95/09/27 23:19 06432へのコメント  #06432 維/YUI ちゃん  どうも、こんばんわ(^_^)  「全力で生きることは、なんでもかでも無理をすることではない」その通り だと思います。忙しいは心を亡ぼすと書くなんて説明があるくらいだから、実 に全力で何かを一生懸命にやっている忙しい時って、気付かなくても心を削っ てしまっているのかも知れないですよね。  休む時には堂々と休む、これが大事なんだけど中々、そう思うように休めな い状況ってのが、日常にはありますよね(^^;) それでも維/YUIちゃんの 言うように「一息分のゆとり」は、注意してもっていられるようにしたいな、 と思います。  身体の不調は心の不調と連動してる様に、私も思います。  どちらが先かってのは、その時々であるけれど、私の場合は大体が心が萎え てると不調になり易いってのはあるなぁ。  心がどうも萎えて仕方が無い時には、反対に身体を動かすとちょっと気が晴 れたりするんですよね。自分で考えられるあらゆる事をして心の萎えを解決し ようとしても、問題が自分一人だけのものでは無い場合には、迅速解決は無理 です。心が萎える時って、自分がその問題に関して何も出来ない様な時に多い ので(私の場合ね)、そんな時は思いきって買い物の道を変えて別な方向へお 散歩しちゃったりすると、ちょっとだけ心の萎えに意識が向かないで楽になる という様なことがあります。  身体の不調がウイルスとかの病気に依るもので無ければ、案外、心の力の消 耗であったりするから、心を元気付ける様なことを考えてみるのもいいですね。  無理せず、マイペースで頑張ってね(^_-)-☆  無理は、理に適っていないんだから、どっかで歪みになって出てくるものね。 ・:*:・みれ・:・。,★ - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/09/28 - 03563/03572 HCB00374 DIRAC こんにちは (13) 95/09/27 22:20 諏訪みのるさん、kazeさん。こんにちは。 出張先では、装置的な問題もありますし、時間的な問題もあり ますし、Nifへのアクセスは難しいものがあります。 でも、なるべく目を通すようにしています。 いろいろ、学ばせて戴けますから。 >でも案ずることはないんですよね。たとえ自分には解らなくと >も、自分の内には神仏と同じ「無限なる叡知と力」を宿してい >て、それが自分を形作り・生かしているということを、言葉は >違えど、太古の昔から今に至るまで 偉大なる先人・先輩方 >(あるいは違う星の同胞の方々まで)が『その通り!』と >太鼓判を押して下さっている訳ですから(^^)。  自分の内には神仏と同じ「無限なる叡知と力」を宿しているの だけれども、いろいろな”とらわれ”がそれをとりまいていてそ れを自分自身で気づけない??という別表現になるのでしょう か。 仏典の示すところの無明という我々人間の状態ですね。 とらわれを離れる”空”の状態。その仏性を自覚できるよう になった空の状態が、悟りといいますかそんなことなのかな あと想像しています。 ですから、すべては”自分の内には神仏と同じ「無限なる 叡知と力」を宿している”と”信じる”ところから始まると 思います。 それを信じるということは、”自分を信じる”ことであり、 同時に”無限なる叡知と力”を信じることになります。 ----------------。 それを信じきって初めて、希望がわき、自分の心の内部の 探求が、力強く行えるのであって、困難にあっても、継続 していける強さになるのではないでしょうか? 疑問をど こかに持ちながら心配しながらも、最終的に自分の未来を 信じる、または信じたい気持ちがその人を努力に向かわせ ていくのだと思うのです。信じて、努力なのですね。 そしてそれは、理想的な理屈によるものでなく、 疑問を持ち、葛藤し、あらゆる人の意見を聞き、相談し、 悩みながらも努力するそういう実存的人間的努力にな るのではないでしょうか。----ところで、”努力” とは、心を”空”に、つまり”とらわれ”をなくす          努力--------------------。 > たとえ僅かな人数であっても、持続的に「愛」を捧げ続け >ていれば、おそらくそれに感応される人が現れて下さるで >しょう。 >そうして思いを同じくする方々の人の輪を広げて行くとい >う形もあろうかと思います。  そのように形成された団体も、世間的には”宗教団体”とみ なされることがあるのではないかと想像します。 ”宗教団体”と見られれば、私たちが一般的に持っている イメージで今度は逆に我々自身が見られることに なります。 きっと、持続的に「無私の愛」を捧げ続けさせて戴くことが 容易ではなくなっていくでしょう??ん?? 常識では理解に苦しむ考え方と、異常な行動、スキャンダル 、問題ある団体の事件があまりに多く、”宗教”という言葉 を現代人々は汚してきたと思います。イメージを悪くしてき たと思います。 その結果、科学の時代というのもあって、世間一般の人々は 宗教から遠ざかってしまいました。本来必要なはずの ”人の道”を”宗教”で説くことが困難になってしまった ようです。きっと偶然?、私の偏見?でしょうが、 宗教心の破壊とともに時代が悪くなって きてはいませんでしょうか。 とはいっても、問題ある団体の事件が依然多いのも事実 のようですから、 宗教の問題は難しいのです。-----------。 03564/03572 GGA02514 KAZE 爺になったころには魂の達人になってた いな (13) 95/09/27 22:57 03543へのコメント 隆ちゃん、どうも。 おやおや、またお引越でしたか、大変でしたね^^;。 こんどは長く落ちつけるといいですね。 そういえば、ぼくのほうは、今のマンションはもう8年目になりますが、 引越が面倒なのとお金がないのとで今のところ動く予定はありません。 もう少し機能的で広いところのほうがいいのですが、なかなかね^^;。 >スポーツもそのトレーニングの過程で、魂の力を鍛えられるようなら良いのです >が、そういうのってかなりの部分で個人の資質に依存するように思います。 そうですね、スポーツに限らず、すべてはプロセスが重要なんですが、 そのプロセスそのものに喜びを見出すか、それを目的のみに奉仕させるかが 分かれ目になるのかもしれません。 結果を出そうと躍起になるやりかたが多くて、それだから第一線のスポーツマンは 若くしてすぐに「引退」してしまうようなあり方になってしまうのですが、 その「引退」という意味こそが、「結果至上主義」なんですよね。 もちろん、スポーツの多くは「競う」ということで その存在目的をわかりやすいものにする傾向がありますし、 スポーツを生業としようとすれば、 それなりの結果を出さないといけないのも確かです。 そしてそうしたことで、魂のある部分は確かに鍛えられるのも事実でしょう。 しかし、できれば、スポーツそのものを楽しめるような、 そのプロセスそのものを充実させられるような、 そんなあり方をも模索していければいいのではないかなとそう思ったりもします。 >僕が昔、太極拳を教わっていた先生も小さなお爺さんでしたが、とても強かった >ですし、植芝盛平さんなどもそうですよね。武術も「気」を意識した内家拳など >は、フィジカルな力はほとんど重視しませんから、年齢は関係ないようです。 武道でも、最初はしゃにむに修行したりしながら、 その結果としてある境地になれるというようなイメージがありますが、 武道のいいのは、やはりその境地がそのまま魂の力となって 引退などというようなこととは違った側面で一生成長し続けられるということですね。 ですから、お爺さんになった達人の至った境地というのは、測り知れません。 でもやはり、最初のうちの必死で修行するようなあり方がないと、 最初の関門さえ潜れないのでしょうね。 しかし、スポーツにかぎらず、ぼくはどうもトレーニングというのが苦手で、 いわゆる野良(怠け者)ですから、外からいろんな問題に取り巻かれることで、 魂の最初のトレーニングを受けさせられていたのかもしれませんね^^;。 まだまだあまり進歩していませんが、お爺さんになったころには、 少しは抜けた境地に至っていたいものですが、どうなることやら。 >そうですね。僕にはまだまだ難しいですが、苦しみも楽しみも、魂の糧にできる >ような形にしてやることが大切なのだと思います。でないと生きている甲斐がな >いですものねぇ。そして、そうあるためには、おっしゃるように自分の内的な意 >志で行動しないとダメなのでしょう。 外から来るものにあたふたしているうちはまだまだなのでしょうね。 外からの刺激−反応で仕方なく、魂が鍛えられてゆく。 でも、ほんとうは自発的な内的な意志で魂を成長させていくようにならなければ だめなんでしょうね(いつになったらそういう境地になれるのでしょうかねぇ(^^))。 >やはり目指すは本当の意味での「中道」ですよね。 はい、それはぼくの目指す最高の境地です(^^)。 そういうあり方ができるように日々を送るというのが、 数年前からのぼくの行動と認識の指針になっています。 ま、ときには、偏りながらも、自発的な内的な意志の自動制御装置によって その偏りをも養分として取り込みながら、成長していきたいものですが、 まだまだ「修行が足りん!」というのが現状ですね。 やはり、お相撲さんではないけれど、「稽古!」というのが大事ですね。   >どんな事にも「遊び」は必要です。車のハンドルも適度の「遊び」がないと危険 >だし、思索もスポーツや武道も「遊び」があります(ないと本物にはならない)。 遊びがあるということは、芸術的でもあるんですよね。 遊びそのものが人生の芸術になっていくというか。 オウムさんの例を出されていましたが、彼らこそ芸術が欠如している^^;。 あのダサさに気づかないほど、無粋だったんですよね、あの信徒たちは。 もちろん、なぜか、非常に感覚的な意味で芸術を愛好していた方々も オウムさんを擁護したいたくちですから(中沢新一氏など)、 ここでも、「中道」ということが大事だということがわかりますよね。 考えてみれば、感覚的な意味でのみ芸術を愛好するというのは、 遊びそのものを人生の芸術としているんではないようで、 そこに「精神」というものが欠けているようです。 >原子力発電所なんか作るお金があったら、もっと有効なエネルギー開発にお金を >回せば良いのにと思います。もっと言うと、日頃からぼやいているように、電気 >を使う家庭毎に電気を作る方法を考えるべきです。世の中には無駄になっている >エネルギーが山ほどあるのですから・・・。 みのる♪さん宛でのアーティクルでもありましたが、 やはり一家ごとに太陽熱を中心とした自家発電装置を常備すべきでしょう。 そういえば、先日、住宅関連の広告の打ち合わせのときに、 省エネ住宅のことについて、クライアントの社長さんから、 そうしたこれからの住宅のあり方についていろいろ教わってきたのですが、 そのなかでも、その自家発電のことを力説されていました。 補助が降りるからこれからとっても注目しなければ、とも。 >子供のいるいないに関わらず、未来に禍根を残すのは失礼です。まあ、未来に対す >る責任を回避している人たちは未来に転生しない(あるいはできない?)おつもり >なのかもしれませんが・・・(^^;)。 転生するにせよ、しない(できない)にせよ、 自分を生かすも殺すも自分次第というのが、 いまやっている読書会の「運命」「カルマ」の眼目ですから、 それがわかれば、未来を作るというのは、自分を作るというのと同義だということが わかってくると思うのですが、わからないとやはりそれなりというか^^;。 では、お互い、自分の未来づくりのためにもがんばりましょう(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03568/03572 GGA02514 KAZE 視点の固定した正義感の危険性 (13) 95/09/28 01:23 03544へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >はい。せっかく「何故なんだ」と思っているのですから、この「何故」を突き詰 >めるのが良かろうと僕も思うのですが、そのためには感情の暴走を抑えなければ >なりません。でもって、感情の暴走が起こる原因というのが、まさに視点の固定 >化に他ならないのですよね。 視点の固定化云々に関しては、先日、MES18で、武道がらみのことで、 「慎重なる瞬発力」ということに関して、ぼくなりの視点を提示してみたのですが、 それは、「点」としての認識を同時に「面」としての認識とするというのものです。 早い話が、自分という主体のみではなく相手の主体も考慮するということでもあり そうしたこと全体の視点を内包した「個」とするということなわけです。 ま、自分の感情を最優先させるのではなく、ちょっと踏みとどまって、 相手はどう感じてるのかな?といこともちゃんと考え、感じてみるということで、 そういうふうにちょっとでも踏みとどまることさえできれば、 そこから「何故」を自分と相手の立場からシミュレーションしてみればいいんです。 >この視点を固定化しないというのと、感情に振り回されないというのは、鶏と卵 >みたいなところがあって(少なくとも僕は)、どちらが原因とも言えないみたい >です。 感情に振り回されないためには、感情を貫く反省的意識作用が必要ですが、 反省的意識作用というのは、意識の反射ですから、視点が固定しては成立しません。 ですから、局面は異なっていますが、同じ事の両面であるともいえそうです。 >そうですね。正義感はきちんと持って、なおかつ傲慢に陥らないことが大切だと >思います。本当の正義感というものは、その大部分が自分自身に向けられている >ものですから・・・。 そうですね、相手を叩きのめすのを正義感だと思いこんでいると大間違いで、 それは本来自分の良心に則って行動しようとする意志とでもいえるものですから、 あくまでもそこに良心を裏付ける「反省」というのが 内包されてしかるべきなのだと思うのです。 ですから、それは「白−黒」をはっきりつけるのを目的としてしまうと、 肝心なところが見落とされて、視点が外的に固定され、 傲慢になる危険性をはらんでいます。 >ふうむ、考えてみると昔の僕は怒りはあっても悲しみはなかったですねぇ。 怒りというのは、それが「義」からでているものだとすると、 自分の良心に反するようなあり方に対するもので、 その状態を悲しむことがそこにはふくまれていると思うんですよね。 つまり、悲しみのない怒りは、自分の良心を外的に投影して、 それを内的に反省することがないというか。 もちろん、内的な反省ばかりだと単に落ち込むだけになりかねませんから^^;、 その両者のバランスが大事ということなのでしょう。 >強い人の悲しみを弱い人はわかりませんし、逆もまた同じです。でも本当はその >両方をわからないといけないんじゃないかと思うのです。少なくともわかる努力 >はしなくてはと。そして、この「わかる」はやっぱりそれだけではダメで、愛に >昇華させることが大切だと思います。 確かに、そうですね。 そのためにも、どんな小さなことからでも、自分の弱さを見据える勇気と同時に 自分が強さだと思い込んでいることも弱さだと見据える勇気も必要だと思います。 強い人−弱い人というわけ方は、特定の観点ではそういうこともできますが、 そうでなければ、どんな人も、強さと弱さの両方を抱えているはずです。 ですから、まずは自分のなかの強さと弱さを見つめてみることからはじめれば、 強さが弱さになったり弱さが強さになったりすることもあることがわかります。 そこに他者の同じ側面に対する共感として「わかる」ということが可能になります。 そして、「愛」とはそのように他者の気持ちになって、 感じ考えられるということなのだとも思うのです。 >かつての嘘つきの報いが今になって来ているのかも・・・なんて思います。 だれでも多かれ少なかれ嘘はやまのようについているのではないでしょうか。 (なんて、自分の嘘の歴史を正当化しようとしていますが^^;) 報いは報いとしてかみしめるとして^^;、 これからはできるだけ裏表のない生活をしなくちゃなと切実に思います。 >その宝物を見つけられるのが、いつになるのかはわかりませんが、希望を失わず >に淡々と生きて行きたいと思います。 煩悩即菩提というのは、煩悩礼讃ということではなく、 煩悩を変容させることではじめて宝物になるのですから、 はやくその錬金術的変換を修得したいものだと思っています。 しかし、煩悩というのは、けっこう大きな顔してなかなか回心しませんから、 たまにはその煩悩故の鉄槌が下ることもあるのでしょうね。 そして、それが回心するまで、無明がぐるぐると回る^^;。 ぼくも希望だけは失わないで、淡々と行くことにしたいと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆