- FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/09/29 - 00320/00320 KFQ02761 しまうま RE^2:預言とその実現について ( 5) 95/09/29 04:29 00315へのコメント #00315 コットンマウスさん  こんにちは(^^)。またまたご返事ありがとうございますm(__)m。 :(しまうまさんとはわずかに理解が異なりますが)  すみません……読解力不足のため、どのあたりの理解が異なるのか、よくわ かりませんでした。もしよろしければご説明いただけますでしょうか。 :>> 日本のような非キリスト教圏の国ならば、そのうねりを断ち切る役割を果た :>>すことができるのではないか、とも思いました。 : : とお考えになった、しまうまさんは前向きだなーと感心してしまいました(^^)  いや、お恥ずかしいです……(__;)。実はこの「うねりを断ち切る云々」とい うのは、ARIONさんの受け売りなのです。以下、同じく『I LOVE YOU 2』 から引用します。 :気を付けなさい、あなたがたは破滅への片棒を担ぐことになってしまう。 :ノストラダムスの予言を実現させない為には、 :ノストラダムスの宗教的な基盤とは異なるモノが必要だ。 :生まれながらにして、神道系の習慣を持つあなたがた日本人には、 :これを覆すだけの基盤があるのだ。 :神道という宗教にあるのではなく、あなた方の生まれ育った環境と :あなたがたの遠い祖先からの受け伝えであるところの「モノ」にある。 :これは宗教という『形』では決して実現はしない。 :しかし予言に振り回されていたのでは、この力も結集することは無理だ。 :この遠い祖先からの受け伝えの「モノ」は、ひとりひとりの内側からの力の :結集に外ならない。  という、このあたりから出てきた言葉です。まるで自分のオリジナルの考え みたいな言い方をしてしまって、どうもすみませんでしたm(__)m。  でも実際、考え方・感じ方・習慣など、欧米の人たちとはぜんぜん違う日本 人が、そういう予言を覆すのに一役買うかもしれない、というのは、十分あり 得る話だと思います。  たしか、虫の音なんかも、日本人は右脳で情緒的に感じるんだけど、外国の 人は左脳で論理的に聞くから騒音のように感じる、みたいな話を聞いた覚えが あります。よーするに、根本的なところに違いがあるんでしょうね(これはあ くまで差異がある、という話であって、人種による差別思想とはまったく関係 ありません。念の為)。                            しまうま(KFQ02761) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/09/29 - 03575/03587 GGA02514 KAZE 風遊戯63●わたしはひとり? (13) 95/09/28 17:29 わたしはひとり・・・? それともふたり それとももっとたくさん わたしに わたしではないわたしが訪れる わたしはこう思うというわたしが そう思わないわたしでもありうる不思議 わたしとわたしでないわたしが 矛盾しながらむすびあうそんな不思議 でもふたりとも正真正銘のわたし そしてそんなふたりのひとりの声をきく もうひとりのわたしがいる・・・ ☆☆☆by KAZE☆☆☆ - FARION MES(18):武道にありて ★ 道の実践 95/09/29 - 02573/02574 BYK00511 導 合気道草歌 (18) 95/09/28 23:06 欲は人間の本質にあらず。 腹が減れば食欲が沸き、満たされれば食欲は去る。 欲望は常に相対的である。 欲望を否定するものではない。しかし、容認するのではない。 欲を即ち相対的自己の去った後に普遍の自己を看るために修行するのである。 勝負という事がある。 勝も負けるも己自身であることを悟らんが為に命ギリギリに修行するのである。 けして容易い道ではない。 命がけの道である。しかし、何故そこまでして極める必要があるのか。 それは、この瞬間が生死の光芒であるからだ。 いま貴方の心臓を動かしているものは貴方の意志ですか。 いまもし貴方の心臓を止めるものがいるとしてそれはあなたの意志ですか。 己の生死一つ自由にならず何処に自由があろうか。 自由なくして何処に人生の価値があろうか。 淡々と生死の淵を望むには、普遍の自己を自覚する以外にはない。 それには必ず通らねばならない道がある、節欲である。欲をコントロール することではない。欲を省いた自己を自覚すること。その方法が欲をコントロ ールすると言うことなのである。 02574/02574 GCG01101 アマデウス 日常での「居付き」(2) (18) 95/09/28 23:51 02563へのコメント   他者との関わりにおいて、相手のちょっとした言動から、感情を固定させ  てしまうことがあります。これを「居付き」と呼べるなら、日常生活の中に  居付きのネタはゴロゴロころがっています。   僕の最近の経験では、自分の上司との関わりでそれがありました。僕の仕  事はハードウェアの研究開発ですが、上司の手違いが原因で、開発が大幅に  遅れてしまいました。手違いそのものは僕の担当範囲の前工程ですが、その  しわよせは当然後工程である僕に回って来ます。前工程を担当している別の  部下も大幅な手直しが必要となり、連夜の長時間残業で消耗していますが、  上司はフォローしようとしません。   ちょうど期末の報告書を書く時期なのですが、僕は遅れのため成果がなか  ったことを報告せざるを得ませんでした。 遅れの事情は明記しましたが、  成果は基本的に本人の責任とみなされます。この報告書は上司も目を通し、  人事考課にも直結します。   ところが上司は、自分の報告書にはその手違いを盛り込んでいないのです。  理不尽であると思いました。そしてその瞬間に、もうこれを固定させてしま  っていたようです。まさに「居付き」です。   「自分は上司から不当な不利益を蒙った」という観念が心の奥底に沈殿し、  上司のちょっとした言動が心をかき乱してその沈殿物を舞い上がらせます。  そういう状態では、事態に前向きに対処することが非常に難しくなります。  事態を好転させるために労力を払わなければならないとき、「上司のせいで  こんな目に遭わされているのだ」「なぜ自分がこんな事をしなければならな  いのか」と思ってしまうのです。   それだけならまだしも、問題はその労力を惜しむことはもちろん、本来の  仕事すらも上司のせいにしてさぼろうとしてしまうことです。(__;) 自分の  そのような傾向に気付いたとき、ちょっとショックでした。 こうなると、  表面上は不愉快と思いながら、その実そういう状態で居る方が自分に都合が  いいということ−−−何でも上司のせいにして責任逃れをしていること−−  が見えなくなってしまいます。無意識のうちにそういう状態に陥ってしまう  のですから、恐ろしいことです。ちょっとした感情の居付きが、このような  バケモノに育ってしまうのです。これが武道の実践の場だったら、それで終  わりでしょう。   勘違いしてはいけないのが、問題は理不尽だと考えること自体ではなくて、  そこに居付いてしまうことだと言うことですね。 居付きをいかに回避する  か…感情が動くその瞬間をしっかりと見据えなければ、容易にその陥穽に  はまってしまうようです。                   シリーズ化するかも(^^; アマデウス