- FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/10/14 - 00341/00342 TBE03167 ねずみ ぽんぽろりんのぴっぴろぴ^^ ( 5) 95/10/13 19:51 おれは社会のオチコボレだし、まぁ、いまさら世間並みになれるなんて 甘い幻想かもしれないし、要するにだめだめちゃんなんだが、 それでも、ま、いいさ、と思えるぐらいになったのは、ありがたい。 俺の延々としたグチにつきあってくれた人がここにいっぱいいてくれたのも ありがたい。 ありがたいありがたい。 と、思う。 何やら宗教くさいか。 まぁ、えじゃないか ^_^ 00342/00342 GGD02212 スウ AMAからの手紙 ( 5) 95/10/14 03:20  今朝 私の職場のデスクに一通の手紙が置かれており、その封筒には何と、 “AMA”と書かれており…よく見るとそれは“Ari**MedicalAssociation” 『有*市医師会』からの書状なのでした。ちょっとビックリ。なはは。(スウ) <解説>ARIONが語るところによると、紀元前の中央アジアに「AMA族」 (アメ・クモ族)という部族連合が存在し、彼らのあるグループは陸路、ある グループは海路を経由して古代伝承の知恵を携えて日本に移住したそうです。 - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/10/14 - 00161/00161 KFQ02761 しまうま RE^3:深い轍 ( 6) 95/10/14 00:06 00155へのコメント  自己レスどえす。  僕の思っていた「欲に向かおうとする水路」は、どっちかというと「可能性 の水路」と言った方が実感に近いなあ、と思い直しました。  つまり、「欲に向かおうとする水路」という特定の水路があるわけではなく、 「可能性の水路」という、なんに向けてでも心を流していける水路があるんじ ゃないかなあ、という気がするんです。その水路は、希望に向けて流すことも、 幸せに向けて流すことも、また欲望に向けて流すことも、怠惰に向けて流すこ ともできる。で、「希望に向かおうとする水路」を拡張しようとしたら、必然 的に「欲望」や「怠惰」に向かおうとする水路も広がっちゃうんじゃないかな あ、と思います。なんとなく。  あえて理由らしい理由を考えてみると……たとえば「希望に向かおうとする 水路を広げる」ということは、具体的に言えば自分の能力を磨いたり、周囲の 環境を整えたりして、自分自身を総合的に高めていくことに繋がると思います。 そうやって能力を身につけて、環境を整えた自分、というのは、以前に比べて いろんな「欲望」をも達成しやすい自分なんじゃないかなあ、と思うのです。  もし「欲望に向かおうとする水路」自体を狭めようとしてしまうと、なんと なく人間自体の活力が失せてしまいそうな気がします。(あ、こういうあたり の話が、あもりさんのおっしゃる「18番でのKAZEさんとの話から、どうしても 欲って切り離す事は出来ないんですよ。してもいいけど、人間では有り得なく なってしまう。」というところに繋がるのかなあ、と今思いました。)  ですから、「欲望に向かおうとする水路」が存分に広がったとしても、その 水門を理性なり良心なりで、きちんとコントロールしていく必要があるんだろ うと思います。そして、希望や幸福に向かおうとする水路についても、のべつ 幕無しに開けっぴろげ、というのではなく、タイミングや自分のコンディショ ンを見計らった上で、水門を開く、といった配慮が必要なのかも、とも思いま した。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自己対面鏡 ★ ARIONを鏡にして 95/10/14 - 06461/06462 JCF02051 めのう 妬み ( 7) 95/10/14 07:48 コメント数:1  このところやたら気持ちが落ち込んだりイライラすることが多かったのだが、  今週はそのピークだった。  初めは疲れているせいだと思った。 同僚に赤ちゃんができて会社を休みがちになり、彼女の分の仕事も私に回っ てきたため、自分の体調が悪くてもなかなか休めない状態だったから。 しかし、ただの疲れのせいじゃないことに気づいた。 同僚が休んで仕事が混み合うときよりも、彼女が出勤しているときのほうが ずっとイライラするのだ。 同僚から「赤ちゃんができた」と聞いたとき、私は心から祝福したと思う。 「仕事が増えるなあ」とも思ったけれどそれは彼女のせいじゃないし、繁忙 期を過ぎた今はたいした仕事量ではない。 彼女が出勤しているときは身体に無理がかからないようにと私も周囲も気を 遣う。気遣いながら私はひどく苛立ってしまう。 私の中で優しさと祝福と羨みと憎悪の感情が同時多発ゲリラのようにわき上 がって、それを悟られないようぎこちなく笑うのが精いっぱいだ。 私は、彼女を妬んでいる。 私は子供を産まない。 私自身の健康上の理由もあるが、自分で産まないと決めた。 このことに関して誰かに詮索や反対をされているわけではない。 ストレスもプレッシャーもない。 なのに、なぜか妬んでいる。 今週、彼女は木曜まで出勤し、昨日は休んだ。 木曜までの落ち込みや苛立ちと昨日の気持ちの軽さは何なんだろう。 昨日の夕方になってやっと私はこの「妬む心」と向き合う気になった。  自分の厭なところが露になるのを覚悟でしばらく格闘してみようと思う。                           ◆◆ めのう ◆◆ 06462/06462 SDI00635 みれ RE:妬み ( 7) 95/10/14 09:16 06461へのコメント  #06461 めのう さん  めのうさんの文章を読んでいて、これは女性なら思い当たる感情じゃないか なぁと思いました。それにしても正直な表現の仕方で、分かり易くていいです ね(^_^) 特に以下の部分は秀逸です。 | 私の中で優しさと祝福と羨みと憎悪の感情が同時多発ゲリラのようにわき上 | がって、それを悟られないようぎこちなく笑うのが精いっぱいだ。  私は既に子供を持っていますが、その子の父親とは離婚し、今結婚している 相手との間には子供は居ません。めのうさんと同じような感じを持ったのは、 隣の奥さんに二人めの子供が出来た時に、私の母親の言った一言が、私の中に 同時多発ゲリラを呼び込んだというか、もしかしたら既に居たのかも知れない けど気付かなかっただけなのかも知れないけど、とにかくそういう複雑な、そ して非常に不愉快な御し難い気分になったのを覚えています。でも、同じく近 所の友人に子供が出来た時には、このゲリラは出ませんでした。この違いは何 だろう?>私  これが何故起きるのかを考えてみるために、その時の母の何気ない一言を恥 ずかしながら書きます。それは隣の奥さんの赤ちゃんを見た後に「あんたには、 もう子供は産めないね」と言った一言でした。これを私は母がイヤミを言った と感じました。なにせ、普段からイヤミの多い人なんで(^_^;)  それで、もしかしたら私は自分自身の女性の機能にまつわる価値について馬 鹿にされた様な気分になったのか、否、私自身は子供を生むってことに女性の 価値が上下するなんて決して思ってはいない筈…なんだろう?(-_-;??…と考え 込んでしまったことを思い出しました。  めのうさんのケースとは全く違うかも知れないけど、この子供を生むことに まつわる色々な感情って御し難いものですよね(をいをい、同意を求めてどー する>私(^^;))  めのうさんのケースでは、もしかしたら出産ということで特別扱いにされて、 いい気になっている様に見える同僚への軽蔑みたいな気持ちもあるのかなとか 思いましたが、的外れだったらごめんなさい。  思わずRESつけちゃったけど、な〜んか外したかなという気もしないでも ない(^O^;) ・:*:・みれ・:・。,★ - FARION MES( 8):恋愛錬金術  ★ 愛と性を本音で語る 95/10/14 - 01129/01129 TBE03167 ねずみ RE:RE^4:結婚と宗教について ( 8) 95/10/14 11:01 01125へのコメント ま、そういうのはよくある話で^^ >バルーンさん ウチも御多聞にもれず、母親が宗教が好きで、息子のぼくにまでそれを無理矢 理やらているだけなんで、こっちははっきり言ってしんどいです(笑) でも、 母から見れば善意でやってくれてるんだから、むげに拒否するのもなぁ、チト あれかなぁ。とか思いつつ、でも最近は教会にも行かなくなってしまったけど。 さて、彼女の件ですけれども、宗教というのは結構ややこしい部分があります から、まず大事なのは急がないということです。自分はこれこれこう思うんだ、 これが正しいんだ、なんてやると彼女も疲れてしまいますから。彼女に必要な ことは、考えるための十分な時間と精神的余裕で、誰かがもっともらしい結論 を押しつけることじゃない。 もし、あなたが、彼女に宗教を捨てさせたいなら、その宗教の欠陥をむちゃく ちゃ言ってみて、論理的に、完膚無きまでにたたきのめす、というのもテなん ですが、それでは誰も救われない。アリガタメイワクというやつです。 うまい例じゃないかもしれないけど、一部の宗教団体とかインチキ商法の手口 というのは、相手に考えるスキを与えないことがポイントなんです。自分の信 じるところの正義なり価値観なりをまくしたて、相手がそれに反論しそうにな ると、怖い顔をしてみたり、同調しそうだと急に猫撫で声で機嫌をとってみた りして、相手を自分のペースにはめこんじゃう。その結果、相手はその人自身 の意識、主体を失ってしまい、あとはこっちのイイナリになると。ま、要約す ればそういうことです。こうやって洗脳するのね ^^; そうじゃなくって、相手が落ちついて十分納得できるまで考えさえてあげるよ うにすればいいんじゃないだろうか。 聞き役に徹するというのは、とてもいい方法だと思います。 で、おかしい部分があったら、それおかしいんじゃない?と聞いてみるとか。 もっとも、これがなかなか難しいんだが。 - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 95/10/14 - 00654/00654 GFB00026 一輝 消去のシミュレーション (12) 95/10/13 23:26 <消去のシミュレーション> まだ幼児のウチの子供が、触ってはイケナイものを手にとって 遊んでいて、そのことを注意すると、パッと手に持っているも のを放してしまい、何も触ってい「無かったこと」にする、と いうのを時々やっている。落ちたものは、床を虚しくコロコロ 転がってゆく。無言の間が何とも言えず、笑いがこみ上げてく る。 この消去のシミュレーションを、私たちは大人になっても忘れ たわけではない。放火や通り魔や痴漢や無言電話なども、やっ た瞬間に鬱積していた心の内圧を払拭させるためのシミュレー ションだ。この内圧の払拭を快楽と捉えて習慣化しようとする 心の動きについて考えてみよう。 彼ら共通の特徴に「自分が虐げられている・自分が被害に逢っ ている・自分が傷付けられている」という意識がある。自己イ メージの中に「自分が〜されている弱者であるにも関わらず、 それが認められていない」という固定観念が生まれ、そのこと が欲求不満としてやがて高じてくるというわけだ。 その不満のはけ口が、復讐行為となる。傷付けられている側と いう弱者の自分が、行為によって傷付ける側に逆転し、相手を 支配しようとするからだ。自分の不満を晴らすためには、例え どのようなトラブルが起ころうとも全て本人以外の者の理由に よるものであり、何事も「無かったこと」にしてしまう。 人によっては、自分の心の中で「無かったこと」にするのでは 飽き足らず、それを何度も周囲に言い募ることで「無かったこ と」の事実を人々の脳裏に焼き付けようと試みる。そこまでし ないと内圧から解放されないと、本人だけが思い込んでいる。 これは個人に於ける、情報操作やマインドコントロールとも言 えるのではないだろうか。 不満の本当の正体は、それが全て自分の責任で起きた心の内圧 であるにも関わらず、自分でそのことを認めたくないからとい うことがほとんどだ。 なぜなら、一度認めてしまうと、「自分が虐げられている・自 分が被害に逢っている・自分が傷付けられている」という意識 を撤回せねばならなくなる。そうなると、自分の問題は自分の 力で解決せねばならない。それが面倒(これもまた思い込みな のだが)でしょうがないのだ。おまけに面倒なことを避けられ るだけでも快楽だと、私たちは心のどこかで思い込んでいる。 消去のシミュレーション、またの名を、見て見ぬふり。私たち は、他者に対してだけでなく、自分自身に対してもやっている。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/10/14 - 03688/03694 GGA02514 KAZE RE:ドイツのベッカー、金メダル(^^) (13) 95/10/14 01:08 03672へのコメント TAOさん、どうも。 >私が特に感動したのは、世界選手権で優勝体験を持つボキンスカヤ選手が、 >22歳というこの世界では高齢(^^;なのにもかかわらず、現役を続けていた >ことでした。 そうですね、ボギンスカヤ選手がでてきたときには、 けっこううれしかったですね。 そういう意味で、ドイツのベッカーがまだがんばっているというのも、 日本では、西川選手ががんばっているというのもうれしいものです。 そういえば、最近では、相撲の霧島や小錦のように 長くがんばっている方などがでてきているのと時期を同じくして、 レスリングやバレーボールでも、もう一度現役に復帰という方もでてきたりして そういう傾向というのがふえてくるといいなと思っています。 なんだか、「歳だから」とかいう思いこみって、ちょっと寂しいですからね。 >しかし考えてみると、日本人選手では「大人の成熟」を感じさせるタイプ >というのはごく稀なのですね。「大人のダンディズム」と言い換えてもい >いのですが、やはり日本人は「野暮」なのかなとも思ったりします(^^;。 女子体操はたしかにそうですが、 男子体操では、ダンディズムではないですけど、 とても品のいいきれいな動きがけっこう魅力なのではないかと思います。 ま、女子の場合は、そもそもの文化的背景の違いというのがあって、 かなりむずかしい側面があるのかもしれませんね。 >(P.S. KAZEさんの奥様が体操選手だったとは初耳でした) うちの相棒はけっこういろんなことをしていまして、 小さい頃からずっとピアノをやっているのに平行して、 中学生から体操をはじめて、いろいろやっていたようで、 その後、獣医になろうとしたり、哲学者になろうとしたりもしまして、 そこらへんのことで、ま、話が尽きないというか何というか・・・^^;。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03686/03694 GGA02514 KAZE RE:シュタイナー:薔薇十字会の神智学●VI-3< 運命 (13) 95/10/14 01:07 03665へのコメント 諏訪みのるさん、どうも。 >やっぱり『様々な視点』を拝聴させていただけるというのは、 >とっても勉強になってありがたいですね。(^^) そうですね、ぼくもいろんな方のいろんな視点にふれることで、 それが自分の中にどう映し出されていくかということを見るのは とても楽しいことですし、またとても勉強になります(^^)。 そして、視点がたくさんできるということは選択肢がひろがるということでもあり そのたくさんの選択肢のなかから、あえて自分はこれを選ぶ!という視点を もつことができるようになります。 選択肢が一つっきりで、それしか選びようがないというのも貧しいですからね。 > 自分へ与えられた(自作の)問題を解くのは、正に自分自身な訳ですが、問題 >を解く為のヒントとか例題っていうのは、実は自分の身の回りに“いっぱい”あ >るわけですよね。他人の行動・行為も、社会の動きも、自然の姿にも、いろんな >所にヒントが提示されているように思えます(^^)。 そう、そうしたヒント、例題がたくさんあるということに気づけるようになったら、 それまでの閉鎖的な考え方、見方というのが、バカらしくなりますし、 答えが一義的である必要がないということも明らかになります。 そもそも「答えが一つ」というのって、おかしなことなんですよね。 そして、自分の回りにそうしたヒント、例題があるということは、 その答えを抽象化するのではなく、まさに実践を通じて答えていくという 豊かな可能性があるということでもあります。 > 「シュタイナー」を含めて、「参考書」となるべき書物もあれば、いわゆる宗 >教の教義というのも、是も非も含めて貴重な参考書になりますね。 そうですね、ぼくもそうした教義の比較などをいろいろ試みたことがあって、 そこから、反面教師もふくめて、ほんとうに多くを学ばせてもらったような気がしま す。 > 大切な事は、全てから学び・参考にして、自らが問題を解いて行くことであっ >て、決して“アンチョコ”を見て『解けた!』と勘違いしてはいけない…という >事なのでしょうね。ウン そもそもアンチョコがあるというのは幻想にすぎないんですよね。 御利益というようなわけのわからないのといっしょで。 「道」はあくまでも「未知」であって、 「ぼくの前に道はない、ぼくの後ろに道はできる」ということを 決してわすれてはならないのだと思います。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03687/03694 GGA02514 KAZE RE:太極と中 (13) 95/10/14 01:07 03670へのコメント ジョリーさん、どうも。 >喧嘩を買うように、苦難を積極的に買っている人って、凄いな〜 >と思います。僕はまだ、苦難というものを自分から積極的に買っ >ていける器ではないのですが、それができたらなあと、思ってい >ます。 ううむ、ぼくはやっぱり苦難ってやだなあと思いますね^^;。 ぼくは怠け者だし、臆病者なので、苦難は苦手です。 しかし、否応なく襲ってきた苦難の意味を、 ちゃんと認識し、実践的にそれをクリアしていこうという気概だけは 忘れないようにしたいなと思っています。 >やっぱり、現実のロールプレイング・ゲーム(現実の人生)でも、 >お金だけではなく、時間も一杯無駄にしていますね。・・・ >パチンコも、いい加減にやめなければ(^^;)。 そういうのもひとつの豊かさの土壌になるのではないでしょうか。 無駄だと思うのであればやめればいいし(^^)、 そうでもないのであれば、それも貴重なロールプレイングですしね。 肝心なのは、潔癖になることでは決してなくて、 どれだけ豊かな魂を育てていけるかということなのだと思うのです。 豊かな魂づくりのためには、一見無駄のように思えることって、 欠かすことのできない側面ではないかという気がします。 先の「苦難」についても同じで、別に苦難を趣味にしなくても、 それから逃避さえしなければ、 それをあえて呼び寄せることもないように思うのです。 >KAZEさんの「中道」という意味では、イエス・キリストもそういう >生き方をしてたのでしょうか? イエス・キリストは「愛に生きた」といえますし、 その「愛」は半端なものではありませんでしたし、 その「愛」はまさに矛盾を乗り越えながら、創造していくものでした。 そういう意味では「中道」であったと感じます。 しかし、「中道」を生きようとすれば、茨の道にもなります。 それは「なあなあ」の生き方でもありませんしね。 聖書のひとつひとつのイエス・キリストのシーンからは、 けっこう過激なイメージが伝わってくるのですが、 イエス・キリストにはほんとうにさまざまな側面があって、 そうしたさまざまな側面から得るものを総合的に見ていくと、 その生き方の綜合というのは、ほんとうに大きな「合」のように思います。 >「中道」は、命がけだ! そうですね、まさに命がけですけど、 何も死に急ぐことはないと思いますので^^;、 それぞれのテーマに応じた進歩と調和の「合」を生きるべく がんばればいいのではないでしょうか。 長く不屈の意志で続けていく中道もありますから。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03689/03694 QZE03111 こむ RE^2:霊と肉体 (13) 95/10/14 02:04 03661へのコメント  南天さん、こんにちは。  この発言へのレスを何度か試みましたがその度に挫折しています。このまま だと、なんだか一生できないような気がしています。  どうして言葉が通じないのでしょう。ぼくの方にこそその原因があるのでし ょうか?もう自分では判断できません。  もう少し時間が必要かもしれません。したがってしばらく「おあずけ」にし たいと思いますがよろしいでしょうか?  もちろん南天さんがさらに追加(補足)したいことがあれば、いつでも読ん でいますのでよろしくお願いします。  ちなみに、「しばらく」というのが1時間後か1週間後か、永遠になのかは 解りませんが。でわでわ。     *****こむ より***** 03690/03694 MXK03704 ゆきぼう 質問させて下さい (13) 95/10/14 02:40 コメント数:3 突然ですいません。初めまして、ゆきぼうです。今回KAZEさ んのお知恵を拝借いたしたく、乱入させていただきました。 早速ですが、KAZEさんの御意見を伺いたいことがあります。 それは、臓器移植です。KAZEさんのお立場からすると、この問 題は、どの様に考えるべきことになるのでしょうか。特に心臓移植 については、どの様にお考えでしょうか。 小生この問題については、考えあぐねています。突然のお願いで 申し訳ありません。 合 掌 ゆきぼうより 03691/03694 GGA02514 KAZE 臓器移植といのちの問題 (13) 95/10/14 11:06 03690へのコメント ゆきぼうさん、はじめまして、そしてようこそ。 >早速ですが、KAZEさんの御意見を伺いたいことがあります。 >それは、臓器移植です。KAZEさんのお立場からすると、この問 >題は、どの様に考えるべきことになるのでしょうか。特に心臓移植 >については、どの様にお考えでしょうか。 ぼくの立場というほどのものではありませんが^^;、 一応、そうしたことについていまどう考えているかを、 かいつまんでお話させていただくことにしたいと思います。 臓器移植という問題に関しては、さまざまな問題が、 かなり輻輳しているように思いますので、 できるだけ原則的な視点、広い視点からはじめて、 そのうえで、個々の問題に入っていきたいと思います。 まず、臓器移植について考える場合、それだけを問題にするのではなく、 「いのち」をどうとらえていくかということから考えていかなければならない。 そうぼくは考えています。 臓器移植だけを考えていくと見えてきにくい問題を もっと原点に立ち返ってとらえていく必要があるということです。 たとえば、いのちがほかのいのちを食べるという問題。 それは、自分が生きているということそのものが、 多くの犠牲で成り立っているということです。 臓器移植の問題も、そうした「犠牲」ということを抜きには考えられません。 で、そうした「いのち」の問題について、まずは神秘学云々はおいといて^^;、 現在一般に議論されているなかで、もっとも注目すべき議論をしているのが 森岡正博さんで、一年ほどまえに出された、 ●森岡正博「生命観を問いなおす」(ちくま選書) から、そこらへんの問題をいくつかピックアップしてみることにします。 森岡さんは、人間の生命には三つの本性があると考えているようです。   第一は「連なりの本性」。これは、人間の生命が、三〇億年以上かけて太古の   生命の母体」から分化してきたことに由来する本性です。人間以外の生物や、   森や海の生態系と一体となることを望み、それによってこころを癒されること   を望むという本性です。   第二は、「自己利益の本性」。これは、人間が生物個体として、他の生物を殺   して食べ、森を切り開いて住居を作り、そうやって自分たちのために他の生物   を利用することによってはじめて今日まで生き延びてきたという事実に由来す   る本性です。自分の利益のためならば、自然や、他の生命や、他の人間たちを   犠牲にし、利用し、搾取してもさしつかえないと考える本性です。   第三は、「ささえの本性」。これは、人間が生き延びてゆくためには、つねに   社会の人間関係の網の目のなかで、おたがいにささえあってゆかなければなら   なかったという事実に由来する本性です。困っている人間や、苦しんでいる人   間・動物などを見たときに、彼らを助けて力になってあげたいと思ってしまう   本性です。(P202-203)    人間の生命について考えていくためには、この三つの本性のあり方を見据えながら そのうえで、こうした本性に、現代の社会システムがどう関わっているのかを 「自然と技術」という問題をはじめとしたさまざまについて 考えていかなければならないというのです。 こうした前提に立って、「臓器移植」ということを見ていきますと、 キーになってくるのは、移植外科の発展が、 「他人の臓器をもらってまでも生き延びたい」という「生命の欲望」を 満足させることをどうとらえるかということです。   臓器移植とは、他人の臓器をもらってまでも自分が生き続けたいという「エゴ   イズム」を、みんなでサポートしてゆく行為です。そこには、生への執着、生   きたいという欲望への執着があります。そのような欲望追求を、基本的には肯   定し、他人には迷惑をかけないかぎり社会的にサポートしてゆこうというのが   臓器移植の思想です。   臓器移植は、提供者の人類愛を活かす行為だとよく言われます。たしかに、そ   ういう面はあります。しかし同時に、臓器を受ける側には、臓器をもらってま   でも自分が生き延びたいというエゴイズムと、生への執着があるのです。それ   があるからこそ、臓器移植のニーズが出てくるわけです。(P188)    生命と臓器移植とという問題に関しては、一般には、ここらへんをめぐる議論が さまざまに交わされている状況ですが、ほんとうはもっとつっこんで、 神秘学的に見ていかないと肝心な問題は見えてこないように思いますので、 ここらへんから、この会議室ならではの視点にシフトしていくことにします。 まず、「他人の臓器をもらってまでも自分が生き続けたいというエゴイズム」は 輪廻転生の考え方の欠如した「死んだら終わり」の発想がベースになっています。 そして、そのエゴイズムから逃れようとする倫理観などが提示されますが、 そういう議論にはいまひとつふっきれないものが残ります。 ですから、問題解決のためには、輪廻転生のなかでの生というとらえかたをし そのうえで、「いのち」を尊重することはどういうことなのかを 議論していく必要があると思うのです。 臓器移植をするということは、ほかのいのちを継承することです。 そしてそのことには、提供する側と受け取る側双方の問題があります。 提供する側に関しては、多くの場合、自分の死が前提になり、 その死の確認が「脳死」によってなされるという問題が絡んできます。 人の死とははたして脳死で判定されるのかどうか。 臓器は生きているのに、自分が死んでいるといえるのかどうか。 臓器が生きているといことは、まだ生命は残っているということであり、 霊的観点でいえば、まさにその人はまだ生命体を失ってはいませんし、 臓器を取り去れられるに際しては、場合によれば、 生きたまま取り去られるに等しい場合があるということが重要です。 ですから、提供者側としては、その痛みという犠牲を覚悟の上かどうか、 その犠牲を払ってでも受け取る方への愛に満ちてるかが問題になります。 また、臓器もひとつのいのちにほかなりませんから、そういう愛がなければ その臓器は浮かばれないということにもなります^^;。 受け取る側に関しては、そうした提供する側の犠牲ということを理解した上で、 その犠牲を受け取るに足るかどうかを問わなければなりません。 「そうまでして生きなければならないのか」ということです。 実際的な問題として、愛に満ちた臓器であり、また受け取る方もそれんい足る 感謝や祈りや愛に満ちていなければ、いのちといのちの共生は 困難になるというのもあります。 そうした感謝や祈りや愛は、「食べる」ということと基本的に同じ問題です。 「自分は犠牲の上に生かされているのだ」という自覚の必要性です。 そのことはいくら強調してもしすぎることはありません。 こうした観点でいえば、たとえば、親や兄弟が、腎臓のひとつを 「死」という犠牲なくして移植する場合などは、 感謝や祈りや愛に裏打ちされている場合が多いだけに、 否定すべきではないでしょう。 ですから、臓器移植という問題は、二者択一の問題ではなく、 自分の「いのち」、他の「いのち」をどうとらえていくか という問題にほかなりません。 そして、食べることも臓器移植にしても、 そこには生命の欲望、執着というエゴイズムがあり、 そのエゴイズムを自覚しながら、それに少しでも 感謝や祈りや愛で応えていこうとするのかどうかがキーになります。 また、特に、「心臓移植」ということを挙げておられましたが、 問題は基本的には同じで、「心臓」という場合、「犠牲」「供儀」という観点が 非常に高い臓器ですので、よほどの覚悟が必要ということでしょうか。 ちなみに、臓器は取り去られても、その臓器の生命体は移植しがたいですから^^; その部分での適合性ということが、特に心臓などになれば、 非常に困難な場合が多いのではないでしょうか。 では、このアーティクルの最後に、そもそも臓器移植などの問題の発生する 「病気」ということについての重要な視点を 浅野信「ハルマゲドンを超えて」(ビジネス社)からの引用で ご提示させていただくことにしたいと思います。   病気とは芸術作品です。人は病気を作るほど賢く、愛に満ちています。病気   は極めてシンボリックです。病気は語っています。病気は超意識からの「熱   きメッセージ」なのです。病気を診れば、「名を体を表わす」と言われる通   り、その極めてシンボリックな症状からメッセージを解読することができま   す。ちょうど夢を解釈するように、病気の形態や症状のあり方を通して神か   らのメッセージを解読し、その方向で自分の意識を変えていくことによって   病気の目的が遂げられます。   ・・・   病気になる人は、病気になった方がいいのです。病気になる必要があったの   です。何かを学ぶ機会なのです。病気は「お知らせ」なのです。病気の症状   から、自分の意識のどこにどのような欠陥や不足や歪みがあったのかを、洞   察することができるのです。病気は象徴的なあり方で出てきますので、原因   となる自分の意識の中のどこにどのような欠陥や不足や歪みがあるのかを見   て、それを正すこと。そして無理な生活や考え方を正すこと。そうすれば病   気をわざわざ作り出さないで済むようになるのです。   ・・・   人は成長するために病気になります。そしてまた病気を通してイニシエーシ   ョンを通過することができ、カルマを果たすことができるのです。これから   は病気をそのようにとらえてください。病気には教育的な目的があるという   こと。理由や訳があって病気になって「くれて」いること。それに感謝し、   肯定し、受け入れて、慰めてあげることを通して、病気になった目的を遂げ   させ、それによって成長し、もう病気を作らないようになるのです。                               (P180-181)    こうした問題に関しては詳しく語れば際限がありませんので、 今回は、とりあえずこのくらいにしておくことにします。 また、こうしたことについてはキャッチボールしていきましょう。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03693/03694 PXY03747 諏訪みのる RE:質問させて下さい (13) 95/10/14 16:46 03690へのコメント  ゆきぼうさん、こんにちは。(^^) ご無沙汰しております。(^^)ゞ ポリ そうですか、13番会議室は初めてなんですね。 こちらでも、どうぞよろしくお願い致します。m(_._)m 「臓器移植」の問題は、医学・倫理・社会的な方面だけでなく、 宗教的な面からも色々と考えさせられる問題ですよね。 自分も今のところ、KAZEさんのおっしゃる意見と同じなんですが、 やはり問題の根本が「他の生命」との遣り取りにありますだけに、 どの方面(分野)をも満足させられる答えを得るのは至難業のように思います。 望ましくは「人工臓器」云々をも含めた、さらなる医学の進歩を期待すると共に、 その医学の進歩と協調しながら、人類が「カルマ」的な「病気の受け止め方」が できるようになる事が必要なのではないかな…と考えています。 やはり、どちらもとても大切なことのように思います。 これは私個人の観方なのですが(^^;)、 現在は、上記の“望ましい姿”に到達する為の過渡期にあるのではないか… と感じています。 やはりこの問題は、他方面からの多くの意見や智恵を出し合って、 議論を尽くして対処すべき重大な問題だと思います。 「今!」必要とされる病気を抱えられた患者さんにとっては、とても酷な言い方 になるかも知れませんが、「自分」だけでなく「他人様」の生命との関わりのあ る問題でもある訳ですから、いたずらに結論を急ぐ事なく、慎重に“事”を運ぶ 必要があると考えています。 現在の段階で「是」と「非」とを明確にすることは、 今の私にはできそうにありません。(^^;)ゞ でわ、では。(^^)/                みのる♪デシタ。 P.S.   そうそう、この点に関しては、シュタイナーの読書会で、       以前少しだけ勉強させていただいた事がありました。       ♯2848 にありますので、よかったら覗いてみてください。(^^) 03694/03694 QZD02307 ジョリー RE:質問させて下さい (13) 95/10/14 18:27 03690へのコメント ゆきぼう さん、はじめまして。  ちょっと、興味あるテーマなので割りコメを・・・(^^;)。  僕は、条件が既にそろっているのなら(医療技術、臓器、金銭的な  問題など)、即やるべきだと思う。  実際に、目の前に苦しんでいる人間がいる時には、まず、助けるこ  とが第一だと思う。取りあえず治療できるものは治療して、理由な  んかは、あとからいくらでもつけられるんじゃないかな。  日本の医療の場合、二次的な要素で助かるものが助からなくなった  りする場合が、とても多いと思うんですよね。  救急車に乗せられたのはいいけど、空いているベッドがなくて、病  院をたらい回しにされたあげく、死んでしまった人の例とか、保険  の利かない手術のために、その治療を断られたりとか、今年なんか  では、これは病院とは関係ないんですけれども、阪神大震災では、  政治的な機関構造を理由に、自衛隊の出動が遅れたり、海外の援助  を拒否するような失態を犯したりと、例をあげれば限りないですが、  本来、命を助けるために動かなければいけないはずなのが、二次的  な理由が原因で、全く機能しなくなるケースって、多いと思うんで  す。  本当に、人の命が大切だと思うなら、まず助けること。     もちろん、臓器移植の場合は、倫理的な要素をあれこれ考えていけ  ば、容易ではない問題をたくさん抱えているのでしょうが、命あっ  ての物種ですから、臓器移植問題に直接関わる人たちには、それを  忘れずに考えてほしいな。  ジョリー - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/10/14 - 03238/03241 KFQ02761 しまうま RE^2:覚え書き (14) 95/10/14 00:06 03211へのコメント #03211 維/YUIさん  こんにちは(^^)。  うーん、見事に符合しちゃうんですね>かごめかごめの歌。  ひょうたんさんご指摘の「後ろの正面の顔」の十一面観音も合わせて考える と、本当におもしろいです。  ただ、まだよくわからないのは「鶴と亀」の意味です。「鶴」は一度だけ、 95/02/01 鶴の一飛び、狐の舞、苗木は埋まり、赤日の陽炎、果てしない疑惑  というHMで登場していますね。ここでは、鶴ってあまりいいイメージでは ないような気がします。  「鶴は千年、亀は万年」ということで、鶴の方は千年単位の終わりってこと かなあ、という風にも考えてみたりしましたが、どうでしょう。   しまうま(KFQ02761) 03239/03241 KFQ02761 しまうま RE:アリオンのヒント(獅子) (14) 95/10/14 00:06 03230へのコメント #03230 はなさん  こんにちは(^^)。  またまたご教示ありがとうございますm(__)m。 :・「獅子=4×4」と読むことができる。 :・また、「獅子=4+4」と読んでもよい。 :・4×4=16であり、1+6=7。また、4+4=8。 : つまり、獅子とは「7」と読んでもよいし「8」と読んでもよい。  なるほど〜。最後の行の『「7」と読んでもよいし「8」と読んでもよい』 というのは、やはりカバラ的な意味がメインなんでしょうね。  うーん……もし、カバラについてとりあえず初心者が勉強しようと思ったら、 どういう本がお勧めでしょうか。もし入門書的なので、はなさんご推薦のがあ ったら教えてくださいませんか?   しまうま(KFQ02761) 03240/03241 KFQ02761 しまうま RE:百合と言えば・・・・ (14) 95/10/14 00:07 03207へのコメント #03207 CHARANさん  毎度です(^^)。 :戸浦(トウラ) の百合(ユリ)・・逆矛(サカホコ)増して諫早(イサハヤ)に・・誘う  この戸浦ですが、「戸の裏=戸隠」と「十の裏=五」という両方の意味があ るんじゃないかなーなどと思っております。  まず、「戸隠の百合」だとすれば、やはり九頭龍を揺り起こす、という意味 になりそうです。  はなさんの#02956によれば、「5の裏の数字が10」「10は『最高神』で 5は『破壊』」ということでした。とすれば、「戸裏=十の裏=五」で、「戸 裏の百合=破壊の揺り」となって、なんとなくまた地震を思わせます。  後半の「逆矛」「諫早」は、いずれも九州に関連のある名前ですね。 ・逆矛=宮崎県の高千穂峰の頂上にたてられている金属製の矛。 ・諫早=長崎県南部の市。肥前半島から島原・長崎半島が分岐する平野にある。  「誘う」ということは、戸隠で揺り起こされた九頭龍が、さまざまなレベル での(物質的なモノばかりではない)「破壊」を行いながら、九州に向けて南 下していく、という感じでしょうか。「誘う」ということは、この九頭龍の南 下が先触れとなって、またその後を何かが追うような形になるのかもしれない、 とも思いました。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/10/14 - 00304/00304 MXK03704 ゆきぼう 組織行動の怖さ (15) 95/10/14 02:45  「組織行動の怖さ」 オウム真理教に関して少し考えてみたいと思います。全て新聞記事 等が正確であることを前提としております。 第一の疑問 何故、麻原彰晃さんは、一連の命令を下せたのか。 これについては、麻原さん自身が「実際の手を下していなかった」 ことが、坂本弁護士をはじめとした、犯罪行為を命令できた原因だろ うと思っております。 いかな麻原さんでも、幼稚園にも入園していない子を、自分の手で 殺せるものでしょうか。また、泣き叫ぶ人間を50度を超えるお湯に 漬けておけるものでしょうか。麻原さんが、意思決定だけでなく、自 分も実行行為に加わっていたならば、今回のような凶悪犯罪になって いなかったような気がいたします。 第二の疑問 何故、信者達は、一連の違法行為を実行出来たのか。 これについては、信者達が、自身の理性を「意識的に」鈍麻させて いた為であろうと思われます。人は、とかく錦(本人は正義だと思っ ている)の御旗がある時、とてつもなく他人に冷酷に当たることが出 来ます。小林多喜二を拷問死させた刑事にしても、国体の護持という 錦の御旗のために、自身の理性を意識的に鈍麻させていたのではない でしょうか。 以上が、量的なものばかりでなく、質的にも、決して個人では実行 出来ないであろうところの極悪非道な行為を、オウム真理教が実行し てしまった構造だろうと思われます。 衆生救済を目的として、入信された信者さん達は、勿論気の毒です。 しかし、麻原さんの目が普通に見えていたならば、また違った人生を 歩んでいたのかなぁと思うと、彼もまた気の毒な気がいたします(小 生が直接被害を受けていないので、この様なことを言っていられると いうことは十分承知しております)。 話は変わるのですが、少し前に小学校三年生の娘の運動会に行って 参りました。その折、「この子達は、本当に意味ある人生を送れるの だろうか」と思わずにはいられませんでした。今の教育、いまの社会 のもとでは、多くの子供達が、その貴重な人生時間を無駄に費やして しまうことが容易に予測され、元気にはしゃぐ子供達の顔が、かわい そうでなりませんでした。        合 掌 ゆきぼうより