明星は暁と夕闇の双方を照らす…帯を解く時期が来た、微笑みを… - FARION MES( 9):神々の曼陀羅 ★ 歴史と宗教を巡って 95/10/19 - 636/638 GFB00026 一輝 質問*神葬について。 ( 9) 95/10/18 15:06 コメント数:2 >TAOさん 自分の年齢が上がってくると、親も一緒に老けていることを忘れて、 久しぶりに会ったら浦島太郎のような親に再会して、「あれまーどー しちゃったのー、こんなに白くなっちゃってー」なんてことが、ある もんですが、自分が老けてくると、親の介護や医療費の先にある葬式 や墓の問題も含め、自分や親の病と死の問題に直面せざるを得なくな ってきます。「気持ちが大事なんだよね」ということは分かっていて も、手続き上の現実は避けられないものです。 墓の問題など住宅難と同じようで、中央高速で東京を離れると、こん な山の仲間に住宅があるのかーと思ってよく目を凝らすと、右見ても 左見ても全部墓場だったりする。また、墓の核家族化も進んでいるよ うで、50年も経つと誰も墓参に来なくなる墓も多いとか。このまま 行けば、日本は宅地並みに墓場が増えてゆくんでしょうかね。 いま宗教法人法改正で紛糾している大型宗教団体では、仏壇だけでは なく墓も、信者にだけ特別価格(と言っても数百万円)でローンを組 ませて売っている。先祖の墓を放棄させ、そうして売られる墓地は、 自分の故郷とは何ら関係の無い、はるか遠く離れた場所。宗教団体は、 人々を育んできた土地から魂の根を絶ち、教団に都合良く信者の死を 換金しようとしています。 あるとき、何かのメディアで「自分の宗派は何か、葬式はどんな形に するか」という話がありました。戦後50年の劇的変化に埋没して、 私たちが自分の宗派を忘れてしまった民族になったのは確かです。そ れでも、誰の目前にも死は情け容赦なくやってくる。出産の方法に、 ラマーズ法やら水中出産やら、いろんなのがあって、ひとりひとりが メディアで調べて各々選べるように、葬儀や墓も予め選んでおく時代 が来ているのでしょうか。出産雑誌『たまごクラブ』や育児雑誌『ひ よこクラブ』の次は、葬儀雑誌『やすらぎクラブ』かも知れません。 さて、そこで質問です。 死の穢れを祓う呪術として、神道の禊ぎの部分を引き受けて日本に浸 透したのが仏教ですが、「仏葬」の他に戦前までは「神葬」がよく見 かけられたと聞きます。私は「神葬」には一度もお目に掛かったこと がありません。この国で仏教渡来以前には日常だったと思われる「神 葬」について、何か知っていたら教えて下さいませ。                                     一輝 637/638 KFQ02761 しまうま RE:質問*神葬について。 ( 9) 95/10/18 19:22 636へのコメント #636 一輝さん  こんにちは(^^)。この会議室にお邪魔するのははじめてですね。どうぞよろ しくお願いします。  神葬について、僕もほとんど知らないのですが、唯一聞いたことがあるのは、 こんな話です。  神道では、人が死ぬと神様になると言われているので、基本的に悲しいもの ではない。だから、葬儀場の幕も、黒白の弔事用ではなく、紅白の慶事用のも のを使う。  また、雰囲気もそれほど重苦しいものではなく、仏式などに比べて幾分明る い感じがする。  ずいぶん前に、塾の先生から聞いた(と記憶している)話なので、細かいと ころは忘れてしまいました。  明るい葬式、というと、なんとなくバリに近いものを感じたりしました。  と、こんな程度の情報で申し訳在りませんが、これからもよろしくお願いし ますm(__)m。                    しまうま(KFQ02761) 638/638 MHD02672 TAO 葬制・殯と神葬 ( 9) 95/10/19 00:08 636へのコメント  #636 一輝さん  どうも。私は一輝さんと同年生まれですが、確かにこの年齢(30代半ば)に  なってくると、人生の折り返し点が近づいて来る訳で、折り返した後は己の  死というゴールに近づいて行くだけ…ということを自覚せざるを得なくなり  ますね。  数年前に父が死に、郊外にあるキリスト教墓地に骨を埋めましたが(父は死  ぬ少し前に洗礼を受けていました)、死体を燃やして骨を壷に納めるという  火葬という葬制は今では当たり前のように受け止められていますが、今だに  土葬する地方もあるという話を聞いたことがあります。  さて、神葬と言えるかどうかは分かりませんが、仏教的葬制としての火葬が  7〜8世紀に普及して来る以前は、風葬・土葬が主だったと思います。古事  記には、伊奘冉尊の死体が膨れ上がり、膿みやうじ虫が湧いていたという描  写がありますね。古事記ばかりで無く古代の文献には「殯(モガリ)」という言  葉が何度も出て来ますが、これは、死体を土の中に埋めないで数ヶ月から数  年間も置いておく葬送儀式のことです。日本書紀には、古代の歴代天皇の殯  についての詳細な記述が残されています。  例えば天武天皇の殯は二年二ヶ月に及び、敏達天皇のはさらに五年八ヶ月に  及んだといいます。殯が長引く背景には、首長の死後の後継者を巡っての政  治的な駆け引きも絡んでいたことでしょう。また、崇峻天皇のように臣下に  殺された天皇には、殯がありません。  殯−モガリという言葉の由来については色々説がありますが、例えば四国地  方の方言では非常に頑固でどうしようも無いものを「もがる」と言うし、ま  た近畿地方に多く見られ、竹を円錐形に編んで魚を捕らえるのに使われたモ  ガリというものもあります。いずれにしろ、古代では霊が外に出ると恐ろし  いことが起こると恐れられていたので、霊を鎮め封じ込めようという封鎖呪  術が葬式の始まりでもあったと言えそうです。  神葬ですが、この葬制の歴史にはどうも二重の流れがあるようです。という  のも、明治政府の墓地対策において神葬が推し進められて来たという経過が  認められるからです。元々、水戸藩や会津藩においては神式の葬祭が営まれ  ていましたが、これは公式には儒祭として認められたものであり、神葬祭は  吉田家(吉田神道)の裁可を受けた神官だけに認められていたといいます。  この神葬祭がどういうものであったかは、生憎資料不足で良く分かりません  が、徳川幕府によって殆ど仏式となっていた葬制が、国家神道イデオロギー  強化の為の神葬祭運動を明治政府が推し進めて行ったことにより、明治維新  以後は、一般に到るまで神葬が広まったということです。葬制というのは、  時の政府権力によって体勢が次々と変えられて行った趣がありますね。  このような社会的状況との絡み合いのみならず、死と穢れを封じ込める呪術  としての葬制については、色々テーマが尽きませんが、今回はこれぐらいで。  ▲▲▲  : 出産雑誌『たまごクラブ』や育児雑誌『ひよこクラブ』の次は、葬儀雑  : 誌『やすらぎクラブ』かも知れません。  笑えないジョークですね(^^;。  TAO - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 95/10/19 - 00658/00659 GFB00026 一輝 アムウェイの影にあるもの。 (12) 95/10/18 15:08 00655へのコメント コメント数:1 >#0655 諏訪みのるさん > どなたか、この「アムウェイ」なる会社(組織)について ご存じの方はいらっ >しゃいませんでしょうか?。何らかの情報をいただきたいのですが・・・(^^;)。 …………以前BBSやFSHIMINかどこかでアムウェイの問題について会話が、     盛んになされていたのを読んだことがあります。この天然洗剤売り     にハマる人と精神世界にハマる人の心に、共通したものを感じてい     ます。     それは「自分がとても良いことをしていて気持ちいいので、他の人     にも薦めることも良いことだし気持ちいい」と思い込んでいる点で     す。この価値観の押しつけが、本人をあきらかに周囲から浮いた感     じにしています。     価値観の押しつけもさることながら、本当に良い商品なんでしょう     か。アムウェイはヤシから採って作った洗剤ですが、手にやさしく     生活排水として海に流れても天然なので安全だ、と言われてきまし     た。しかし、実際は分解しないで海に流れてゆくという話がありま     す。また、アムウェイの原料となるヤシはフィリピンで伐採されて     いますが、大量に伐採しているので自然環境を著しく破壊している     という話も、忘れてしまったんですが何かで読みました。また確認     の取りようもありませんが、アムウェイの上層部をコントロールし     ている人々と、自己啓発セミナーの上層部をコントロールしている     人々が同じ、という話も聞いたことがあります。そう考えると、な     るほどなーという気がしてきます。     環境保護もチャネリングも霊能も、人々にとってそんなに良いもの     なら、何で無料で配らないのかなーと、単純に思います。たいした     答えになっていませんが、こんなところです。これからもよろしく     お願いします。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/10/19 - 03753/03756 GGA02514 KAZE 臆病正機説 (13) 95/10/19 10:29 03720へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >そうですねぇ、どうしても勝ち負けに拘ってしまいますよねぇ。国威発揚なんて >時代ではないのですから、そういう無粋な感覚はそろそろ捨ててもよさそうなも >のですが・・・難しいのでしょうかね。 難しいと思います。 黒か白かしか判断のできない人がたくさんいる限り、 それ以外の要素を重視するような傾向はクローズアップされがたい。 人はわかやすい方向に流れるんですよね、どうしても。 そういうのを精神の怠惰というのですが、 民主主義の弊害というのもそこらへんにあるように思います。 3S、つまり、スポーツ、セックス、スクリーンという戦後の占領政策も、 精神の怠惰を加速させるための武器になっているようです。 ですから、国威発揚というようなあり方と 安易な快楽至上主義的な民主主義というのは、 同じベクトルの極にあるとってもいいのではないでしょうか。 >結局は僕自身が勝ち負けに拘っていたのでしょうが、勝負の客観性というのが乏 >しく思えたのです。今は、勝負なんて考えずに、楽しむ事とにしています(^^)。 勝負の客観性と科学の客観性というの、似てるように思いませんか^^;。 「誰にでもわかる」という落とし穴。 「誰にでもわかる」ということは、黒か白かという二分法でわからないものは、 存在を許されなくなるということにほかなりませんよね。 そうした存在を許されなくなったものたちこそが、豊かさだというのに。 豊かさを切り捨てないためには、やはり勝負も、あくまでも一要素として 遊戯的に味わうのでいいのではないでしょうか。 >ういう「解説者」と一緒に見られると、楽しいでしょうね。僕なんか「凄い」 >と思うだけですから・・・(^_^)ゞ。 そうですね、そうした体操やフィギュアスケートを 楽しく見られるようになったのは、「解説」があったからのようですね。 そうそう、最近では、その流れで、これまで少し抵抗のあったバレーも けっこう見るようになりました。 バレーなんて身体からすると不自然の極みでもあるのですが、 それはそれでその理想とするあり方を垣間みることができるような気がするんです。 つまり、重力から解放されて、自在な身体性を追求するというか。 >そうして、その美学も極まるときっと良い意味での遊戯性を帯びるように思いま >す。余裕というか、それこそ「粋」の世界です。 はい、その通りだと思います。 そういう遊戯性を追求することこそが、この生の意味だともいえそうです。 ですから、シンプルさを追求するという傾向も、 それを単なる単純さというふうにとらえる馬鹿げたあり方ではなく、 事象の複雑さ、綾を通り越した上でのシンプルさとしてとらえてこそ、 そこに遊戯性を内包した豊かさとして現われるのだと思います。 子供のプレとしての純粋さではなく、 成熟の極みとしてのポストの純粋さということと同じです。 老子が無為自然というシンプルさに無限の豊かさを内包しているようにね。 >「試行錯誤も悪くないな」などと、最近は思えるようになりましたから、それ >なりにというか僕なりにやれればいいかなぁなんて思います。 「珠も磨かずば」ということで、 珠も、試行錯誤という磨きがあってはじめてその光を獲得しますから、 その磨くということを、どれだけ先の「遊戯性」をもって楽しめるかどうかが 「人生の達人」になれるかどうかを決めるのだと思います。 >あっ、それそれ、そうです、まさしく「ブザマ」ですね。結局、他人の目を気に >して生きて行くって事は、さまにならないということなのですよね。 他人のことを無視するのではなく、それにとらわれないということが 「サマになる」ための条件なのかもしれませんね。 他人のことを無視するというのは、単なる理解の拒否ですから、 他人のことを深く理解したうえで、それを気にしないでいたいものです。 >臆病なのに卑怯にはならないというのは、結構大変です。卑劣なことをしないの >は割と簡単なのですが、卑怯者にならないというのは難しいです。 卑怯者というのは、自分の責任から逃避するということですよね。 責任を逃避するということは、自由を放棄することになります。 自由は責任をとったぶんだけ得られるのですから、 たとえ臆病でも、責任をとる勇気されあれば、卑怯にならないですみますし、 「悪人正機」のように、「臆病正機」ということも可能です。 「勇気ある人さえ自由になれる。 まして、臆病者が自由になれないわけがあろうか」ということです(^^)。 つまり、そこに必要なのは、「臆病の自覚」ということなわけです。 >今度は抗酸化についてもっと考える必要なあるんでしょうね。 まずは抗酸化作用ということについて、それをさまざまな角度から 理解していくことを通じて、トータルな理解に行き着くことでしょう。 ぼくも、そこらへんへのアプローチがまだまだ欠如していますから、 怠けないでもっと調べてみることにしたいと思います。 >しかし、くみ取り便所になって初めてわかったことですけど、人間の糞尿ってい >うのは・・・実に臭い(^^;)。馬小屋や養鶏場を臭いなんて言う資格はありませ >んね、我々には。 ま、臭いっていうのも、非常に人為的な感覚ですから、 その臭いということはなぜそう感じるのか ということにもアプローチしたいですね。 そういえば、少し前に「匂い」についての本を少し読みましたので、 もう一度そこらへんを調べて、ご報告させていただくことにします。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03754/03756 GGA02514 KAZE 闇を内包した光へ (13) 95/10/19 11:24 03721へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >修行になるような仕事を選ぶというのが、凄いというか不思議というか・・・。 いえ、おっしゃるように、「選ばされている」のでしょう^^;。 そもそも、就職なんてしたかねぇぞ!という気持ちのままに、 バーテンするのも飽きたときに、なんとなく横文字風の職業がかっこよさそうで、 電通も電電公社の親戚だと思い、コピーライターが何なのかもしらないままに、 広告会社に就職してしまった^^;(恐るべき無知!)。 ほんとうに運命の不思議というのは恐ろしいですね^^;。 そういえば、高校の頃は、医者になろうとなんとなく思ってたのが、 勉強しないのと、科学的実験などというもののつまらなさゆえに、ドロップアウト。 文章を書くのが嫌いなぼくが、なぜか語学を専攻することになり、 それもフランス語にしようと思ったのが、なぜかドイツ語。 でもって、やっぱり文章を書くのが苦手なのに、 コピーなどを大量生産しなければらなない広告の仕事に就き、 さらにパソ通で文章のお稽古を続けて、現在に・・・。 なんだか、わけわかんないといえば、ほんとうにわけのわからない成りゆきです^^;。 >どうも最近、自分の性格がよくわからなくなっています。何というか、昔と今の >ギャップだけでなく、どうもつかみきれないというか・・・。 自分を顧みない人ほど、自分のことは自分が一番よくわかっていると思いこんで、 「医者の不養生」的な状態になってしまうことが多いようですね。 ですから、「自分の性格がよくわからなくなっています」というのは、 むしろ、自分をちゃんと見るようになったきたということなのではないでしょうか。 なんだか、逆説的な言い方だけど、そういうものだと思うのです。 人間って、「間」、つまり「相互」の存在だから、 自分だけで自分のことを分かった気になるのはけっこうおそまつで、 自分のダイナミックな関係性を見ながら、自分を関数としてとらえていくと、 自分という関係性の存在が少しずつ見えてくるのではないでしょうか。 >確かに、変容はしているのですが、これでほんとに良いのだろうかとよく思いま >す。変容と言えば聞こえはよいですが、単にグズグズになってるだけってことも >ありますから・・・。 おそらく、固定的な関係性が多様化したおかげで、 自分という関数の応用が進んできたのではないでしょうか。 最初の話ですが、運命の不思議ゆえに、変な環境に置かれると、 自分の思いがけない側面が見えてくるというのはあるように思います。 >まだ子供頃、「社交的な方が良い」とか「明るくはきはきしろ」などというへん >てこな価値観がはびこっていました(今でもそうかもしれませんが)。 ありました、ありました、そしてそれは常に???でした^^;。 学校で授業のときに「わかった人は手をあげなければならない」というのも ぜんぜん理解できずに、ぼーっとしてたのですが、 それが先生の気に障ったらしく、「はきがない」と言われ続けました^^;。 >この変な価値観の矛盾をKAZEさんは、きっと子供の頃から見つめたいたんですよね。 そういわれれば、ずっと矛盾のなかにいたというか。 会社に入ってからも、「ゴルフをしない」「酒にあまりつきあわない」 「麻雀をしない」・・・というビジネスマンの風上にもおけない態度を貫いて、 いまだにそういう側面では「変なヤツだ」と思われているようです。 ただたんに、ほかにもっと面白いことがありすぎて、 そんな暇はないというだけなのですけどね。 そういえば、船井幸雄さんの「エゴからエヴァへ」という新刊にも、 そういうことが書かれてあって、少しほっとしたのですが。 学校でも会社でもそうですが、ぼくはどうも「明るくハキハキ、指導的」というのが どうも嘘っぽくて苦手で、今も会社ではかなり仕事をこなすほうだと思うのですが、 そのこととつきあいの悪さの矛盾を、特に広告会社ゆえに、 実感する日々を送っています。 そういえば、このフォーラムでも、ぼくはけっこうこうしてよく書き込みますが、 どうも運営だとか云々ということがどうも苦手なんですよね^^;。 >物事をネガにネガに考えるのは、つまらない事だと思うのだけど、自分が鬱にな >っているときは、それをそのまま受けとめないと、決して自分にとってプラスに >は働かない。ところが、そう思いながらも、その鬱をなんとか排除しようとして >いる自分がいるのです。自分自身の嫌な部分(闇の部分)を見つめる努力を惜し >んではならないと思いながら、どこかで逃げてしまう自分がちょっと口惜しい今 >日この頃です(それこそ、鬱状態なのかもしれませんが・・・(^^;))。 そうなんですよね、ネガはそれを排除しようとすれば増長する。 そのネガという闇は、それをまず認めてあげないと解放されないわけです。 そのネガを見つめるという作業は、かなりキツイ作業だけど、それは不可欠です。 でも、それができた分だけ、闇の力は「光−闇」という二項対立ではなく、 「闇を内包した光」へと変容することができるように思います。 その変容させる魂の力を、自分という存在の関数として得意技にするというのが、 魂のE難度なんでしょうね(^^)。 >もっと贅沢を言えば、できる→もっとわかる→もっと必要だと思う・・・なんて >いうように、スパイラル的に循環して行ければとも思います。 そうですね、そういうスパイラル的な循環という発想はとても重要だと思います。 しかし、その逆循環というのはけっこう悲惨でしょうね^^;。 できない→わからない→必要だと思わない→もっとできない→もっと分からない こういうようにならないようにがんばっていきたいものですね。 >どうも、お話が進むといつも「自己教育」と「中道」に行き着くみたいです >が(^^;)、それだけ重要で、なおかつ難しい事なのでしょうね。 はい、これはぼくにとっては、永遠の課題なのです。 「これがベスト」ということはありえない、永遠のスパイラル的循環です(^^)。 >はい、感情をスポイルするという事は、感情に呑み込まれるのと大差ありません。 感情というのはエネルギーですから、それがないと走れません。 しかし、それをコントロールする運転技術がないと暴走してしまいます。 それに、燃費の計算も必要ですしね。 >しかしながら、「世の中に無駄なモノなどないのだ!」とわかった今は、あるも >の全てをバランスよく使って行きたいと思います(^^)。 「世の中に無駄なモノなどないのだ!」という発想は、「縁起」に繋がります。 すべてのものは関係しあって生きていて、すべてが必要とされています。 部分は全体を照らし出し、全体は部分を照らし出す。 ですから、無駄を無駄としてしか見えない発想は、全体を無駄と見ることになり、 そういう発想は結局、自分を無駄にしてしまうことになります。 つまり、「あいつは要らないヤツだ」という発想は、 「自分は要らない存在だ」ということを結論づけていることになるわけです。 >いつの日にか、「私は実践しています!」と胸を張って言える日が来る事を信じ >て(^^;)、頑張りたいものです。 はい、そう信じて頑張りましょう。 信じる者は救われる^^;。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/10/19 - 03283/03287 KFQ02761 しまうま RE^2:仮宮から正宮へ (14) 95/10/18 19:22 03264へのコメント #03264 まるにちょんさん  こんにちは(^^)。コメントありがとうございました。  うーん、なるほど。「龍=日本列島」「龍=天皇」いずれも重い意味をもつ 解釈ですね。  百合と書いてユリと読ませるというのは、やや不自然なので何かきっと由来 というか意味があると思うのですが、まだ「これ!」という解釈には行き当た っていません。  そんな中でうかがった、まるにちょんさんの百合についてのお話は、たいへ ん興味深かったです。「50柱の神様+50柱の神様=合わせて百の神様=百 合」ということですよね。ふむふむ。  まるにちょんさんのお話に出てくる麒麟のイメージも、僕としてはけっこう しっくりくる感じでした。昔読んだマンガに「新月時の月の裏側に、地球のエ ネルギーが凝集して、麒麟の姿をとり、地球に向かう」というような話があっ たせいでしょうか(^^;(このマンガはフィクションでしたが)。  すると、「麒麟=地球のエネルギー体の象徴」「龍=日本列島のエネルギー 体の象徴」という感じで対になるのかもしれませんね。  また何かありましたら、ぜひ教えてくださいませ。ありがとうございました m(__)m。 しまうま(KFQ02761) 03284/03287 KFQ02761 しまうま RE:つづら開け (14) 95/10/18 19:22 03248へのコメント #03248 ひょうたんさん  こんにちは(^^)。 :ほしたら、例の百鬼夜行の絵が載っていて、しかも行進の最中に見つけた大きな :つづらの紐を鬼(つくも神)達が必死で解こうとしている絵ではありませんか。 :(真珠庵蔵「百鬼夜行絵巻」)  な、なるほど。この1枚の絵の中で、 ・百鬼夜行 ・九十九(つくも)神 ・葛籠  の3つがセットになっているんですね。すごい。  百鬼夜行の目的が葛籠開けだとすれば、それが滞りなく進みつつある今、 「葛籠」すなわち(?)「九頭龍」が仮宮から正宮に移ろうとしているのも、 納得できますね。   しまうま(KFQ02761) 03285/03287 KFQ02761 しまうま RE:投げられた壷 (14) 95/10/18 19:22 03261へのコメント #03261 ひょうたんさん  続けてどうもです(^^)。 :琵琶湖の竹生島から葛篭尾崎の湖底に沈められた壷のことをTAOさんが9 :番会議室で書いてらっしゃいました。  このログ、探してみたのですが手元にどうしても見つかりませんでした(管 理能力のないやつ(^^;)。悲しい……。  竹生島と言えば、あそこも龍神様が祀られていました。龍が竹を被ると「籠」 というのも、「葛篭尾崎」という地名と関係あるのかもしれませんね。   しまうま(KFQ02761) 03286/03287 KFR02037 ひょうたん RE:百合について(68L) (14) 95/10/18 21:57 03270へのコメント しまうまさん,「百合」=「宝珠」説はさすがですネ! (^^) そう言えば「長崎くんち」の蛇踊りなんかでは竜が玉を追っかけますもんね。 「くんち」というのは「くにち=九日」で、元はといえば九月九日の重陽の お祭りだったようです。どうして長崎の竜が玉を追いかけてるのかは知りま せんが、どーも、竜にはあの玉が必要なんでしょうね…。 ところで、宝珠の形っていうのは、隠れたベストセラーで、観音さんを始め 仏教のみ仏さんは持ってはるし、六角堂や八角堂の屋根にはのっかってるし、 ロシア正教の教会や、イスラム寺院、ヒンズー寺院の屋根だってあんな形だ し、五十鈴川の橋の欄干にもついてるし、稲荷のお狐さんかてくわえている。 でも、古代において、球根が、魂の誕生や再生の根元力のシンボルとして、 信仰されていたとするのならば、どんな宗教に使われていたとしても不思議 はないですね。なにしろ、このマジカルな球体は土に植える(封印=埋葬) と、厳しい冬に耐えた後、春の訪れと共に、芽をふき、葉を出し、ついには 花を咲かせて(封印開け=再生)しまうのですから…。                             ひょうたん 03287/03287 KFR02037 ひょうたん RE:RE^2:国栖のことなど (14) 95/10/19 00:39 03280へのコメント 葛と藤とは、どっちも紫色の花をつける蔓性の植物なんですが、、、 龍の珠を盗った分、藤原氏が優勢になって、天下をとっちゃいました。 (ナンンコッチャ?) (@@)? 実は、藤原氏が龍の珠を得て、隆盛を得たとの伝説があるそうですが、 どなたか御存知でしょうか? 教えてください。 m(__)m 龍の珠が帰って来るとなるとAMA族の復活に関係あるやも知れません。                        ひょうたん - FARION MES(18):武道にありて ★ 道の実践 95/10/19 - 02614/02615 BYK00511 導 合気道草歌 (18) 95/10/19 00:04 もう少し先に宣言しようと考えていました。 しかし、私の中でもういいだろうという結論が出ました。今まで私の中に 躊躇がありました。踏み出したら後に引けぬぞという思い。 本当に私に責任を以て最後まで成し遂げることが出来るのか。 それだけの力があるのか。 結論は踏み出す他になしという信念に基づき、今から実行すべしでした。 私がこうしてパソコンに慣れぬ手でキーボードをたたき始めたのも、数多く のフォーラムの中でこのフォーラムを選んだのも、これから始める私の仕事 の第1歩なのです。 いままで私の発言を読まれた方は、違和感を感じたり、妙に変な昔言葉をつ かったり、高説ぶったりして、何なんだと思われた方も多いと思います。 しかし、これまで私がこの場で語った事は私が私の経験の中で自得したものであり これから始める仕事の骨子となるものなのです。これからは私のすべてをさ らけ出し今まで語った事の背景を示したいと考えます。 その前に、私がいったい何を始めたいと考えているのかを話さねばなりませ ん。 私は武道というものを、単なる格闘技ではなく、日本文化の集大成であると かんがえております。そしてそれは、宗教に変わる、また科学を裏付けるほ ど大きな意味、つまり価値観の混迷した現代に一つの指針を与え得るもので あると考えています。 つまり、現代が求めているもの、世界が真に一つとなること。そのための共 通した価値です。しかし、暮らしも環境も歴史も文化の基準も違う者が共通 の価値観を持てるでしょうか。故に絶えぬ争い、奪い合い、経済の原理すら 奪い合いの原理ではないですか。 武道は争いという原点に立ち究極的に和を生み出しました。 合気道創始者植芝盛平先生は武は愛也と言い切りました。 実際、敵対する者に対して、価値観がどうのなどと話している内に切られて しまいます。しかし単なる技術ではなく高い精神性の上に立ち心体気が一体 となって始めて、無刀で立ち向かう事も出来ます。本当の武の意味を噛みしめ 真に心を造らぬ限り、合気道は単なるたこ踊りです。他の武道もしかり、人 を殴り倒してどんな意味があるのか。 相対するものを和に導く道を武道という。と私は信じます。故に武道を通し て道を語るこの場で私は合気道改め愛機導を創始する事を宣言します。 今後私が何者であり、どの様なプロフィールを持ち、なぜここに至ったのか を話して行きたいと思います。そしてこれは決して組織の勧誘でも、思想の 押し売りでもないことを述べておきます。ただ人は志を持つべしと私は思う 。志とは自分の命を自分以外の平たく言えば世の中の為に使うということ。 右翼的発想であると思われるかもしれません。しかし右左などではなく。 かけがえのない命です。ただ自らの殻に閉じこもらず、自らの意志で価値の ある使い方があるはずです。命とは使う物であると思います。 志、私は植芝盛平先生の志を継ぎます。志同じく思う人が在れば幸いです。 本日はまず私の本名を明かします。私は立石 淳です。では後日また。e 02615/02615 GCG01101 アマデウス 幼児を救った高校生 (18) 95/10/19 00:42   今朝のニュースで知ったのですが、昨日、福岡でマンション5階だか6階  だかのバルコニーから落下した2歳の幼児を、高校生がバルコニー下の貯水  タンクに乗ってキャッチし、幼児は一命を取り止めるという出来事があった  ようです。   その高校生は、マンションに隣接する高校のグランドで部活動(空手部)  の練習中で、幼児がバルコニーの手摺によじ登っているのを見て、急いで柵  を乗り越えて受け止めようとしました。衝撃の強さのため(200kgの重さの  ものが1m上から落下したのと同じエネルギーだそうです)、完全に受け止め  ることができず、幼児は貯水タンクから地面に落ちたそうですが、もし直接  地面に叩きつけられていたら、間違いなく助からなかったでしょう。   手摺の上の幼児を見つけたときの、その高校生の心の動きはどのようなも  のだったのでしょう。「ここぞ」という場面を前に、何も思考が働かずに、  身体が動いていたのではないでしょうか?   もし自分がその高校生の立場だったら、同じことができただろうか?でき  ないとしたら、何がそれを邪魔するのか? を想像してみると....   おそらく「受け止められるかな?」とか「親はどうしたんだ?」とか状況  を判断するために思考が発動していたでしょう。 それが瞬間であったとし  ても、「間」が空きますから出足が一瞬遅れ、その間に地面に激突してしま  っているでしょう。(もちろん動作が鈍いと言うのも否定しませんが(^^;)   あえて「武道」「道」と結びつけるつもりはありませんが、いらぬことを  考えないで動けるのは、空手の修行の賜物でしょうか。   「もし自分が○○の立場だったら」を考えて○○との違いを探してみると、  今の自分に欠けているものが見えてくるようです。                               アマデウス