曙色に染まる地平線、輝く雲の輪郭…朝が来た、新たな朝が。 - FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 95/10/26 - 04675/04680 JCF02051 めのう うちのベランダは狭い(^^; ( 2) 95/10/25 22:47 04658へのコメント  #4658 mikaさん  こんにちは(^^)    なんかカッコイイわぁ〜>ベランダでお酒    タイトル通りうちのベランダは狭いのですが、アパートのすぐ目の前がサイ  クリングロードの休憩スポットで、ベンチのまわりに薔薇がたくさん植えら  れています。(区の花だそうで>薔薇)  こちらは先週あたりから平年並みの寒さになってきましたが、まだ薔薇は咲  いています。  夜中にコンビニに行った帰りなど薔薇に囲まれたベンチに座って夜空を見上  げたりしています。すごく寒いけど(^^;                           ◆◆ めのう ◆◆ - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/10/26 - 00358/00360 KFQ02761 しまうま RE^4:預言とその実現について ( 5) 95/10/25 23:22 00335へのコメント #00335 コットンマウスさん  こんにちは(^^)。北海道はもうずいぶん冬が近づいてきているんでしょうね。 お体の具合などはいかがですか? : ただ、残念なことには、ノストラダムスがかの有名な詩編(諸世紀10 :巻の72)で終末の第1段階を予言した時まで、あと数年しか残されてい :ませんし、予言を成就することが可能な兵器システム(「恐怖の大王」 :として降ることのできる)の配備は、完了していると言っても過言では :ないでしょう。  そうですね。予言の成就がどのような形で遂行されようとしているのか、僕 にはわかりかねますが、いずれにしろその遂行に対して直接的な働きかけを僕 らがとること(たとえば物理的に阻止するとか)は、非常に難しいだろうと思 います。  しかし、たぶん人類の総体的な運命というのは、一人一人の小さな運命のう ねりの集大成として出てくるものだろうと思っています。ですから、人類の破 滅に対して自分ができる最大限の抵抗は「幸福な人生を送ること」だと思いま す。もちろんノホホーンとして手にはいるほど「幸福な人生」がたやすいもの だとは思いません。自分の人生を生ききるために、活かしきるために必要なも のは何か、そしてそれを阻むものは何か。活かすものを積極的に取り入れ、阻 むものを徹底して拒否することが、幸福への道であり、また破滅への抵抗に繋 がるんじゃないかと思います。  こちらこそ、これからも色々お教えいただければと思ってまーす(^^)。                            しまうま(KFQ02761) 00359/00360 KFQ02761 しまうま RE^5:預言とその実現について ( 5) 95/10/25 23:23 00343へのコメント #00343 YAHATAさん  こんにちは(^^)。お久しぶりです。 :なんで悪魔を信じる人が聖書の通りに動かなければならないのか?  うーん、なるほど。でも僕はぼんやりとですが、それほど単純なものではな いだろうと思いました。  別に聖書を信じていない人でも、いや、信じていない人たちこそ、「聖書を 信じている人たちを効率的に(本人たちに自覚させないままに)、思い通りに 動かす(誘導する)ために、聖書の預言に基づいた“破滅”なり“恐慌”なり を演出する」といったことを考えそうです。  逆に、本当に聖書を信じている人は、「聖書の通りの預言を実現しよう」と いう風には思わないでしょう。だって、聖書の預言は人間が自分たちの意志で 実行するものとして提示されているわけではありませんから。「人間の力で預 言を実現しよう」なんて、考えてみればずいぶん罰当たりな話だと思います。                            しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/10/26 - 00177/00179 KFQ02761 しまうま 糸の切れた凧 ( 6) 95/10/25 23:23 :糸の切れた凧は上昇気流に乗っている間は高く上がるが…  今日はこのHMの下の句(?)が出てくるのかな?と思っていたら、もう別 のテーマに移ってしまったようだ。そこで、このHMの後半部分がどうなるの か、ちょっと考えてみた。  まず、「糸の切れた凧」というのは何を意味するんだろう。  糸の切れた凧は、上昇気流に乗っている間は高く上がる。糸がないぶん、限 界もなく上昇気流のある限り果てしなく上がっていくだろう。しかし、風がお さまると、あとは落ちるよりほかにしようがない。  では、糸の切れていない凧はどうだろうか。上昇気流に乗れば、やはり高く 上がるだろう。しかし、糸が繋がっているために「際限なく舞い上がる」わけ にはいかない。「糸の切れた凧」ほど高くは上がれないかもしれない。では、 風が止んだあとはどうだろうか? 繋がっている糸の地上のほうの端は、誰か その凧をあげている人が握っているに違いない。風が止んだら止んだで、その 人が自走するなり、あるいは糸をうまく操るなりして、落ちてしまわないよう に工夫するだろう。  1つ考えられるのは「戦後の日本人の生活レベル」の比喩として、というパ ターンだ。物質的な不満足感が原動力となった戦後の経済成長は、とにかく 「(モノが)満ち足りている生活」「(収入が)豊かな生活」ばかりを追求し て、その満足感や豊かさを感じるべきココロをないがしろにしてきた。つまり、 繁栄を味わい、支え、あるいは必要に応じて方向修正を行うべきココロをもた ずに、あるいはあえて無視して、ひたすら「高度経済成長」だけを追い求めて きたがために、あれほどの成長率で(物質的に)豊かな一等国に成り上がるこ とができた、と言ってもいいのかもしれない。つまりあれは「糸の切れた凧」 (ココロに根ざさない日本経済)が上昇していた(驚異的な成長率を示してい た)だけであって、もしちゃんと糸がついていれば(経済を支えている人たち がココロの声に耳を傾けていれば)、あれほど急激な上昇は示さなかっただろ うし、また上昇気流を失った今もこれほどの急落はしなかったはず、というこ となのかもしれない。  もう1つ考えられるのは「人の心」特に「誇り」とか「プライド」とかいう、 そのあたりの心理について、だ。人は誉められたり祭り上げられたり権力を与 えられたりすると、普通はうれしくなってしまう。「心が弾む」とか「舞い上 がる」とかいう言葉が表すように、そういう心理というのは「高く上がった」 ような状態なんだろう、きっと。で、自分で自分をある程度客観的に評価でき ている人は、自分の価値ある部分は価値ある部分として、ダメなところはダメ なところとして、ちゃんと把握できている。だから、人からの評価によってう れしくて舞い上がってしまう、というときも、あるラインで抑制がきいてしま う。あるいは、自己評価よりも大げさに自分をほめあげる人がいると「おべん ちゃらかな?」とか「この人、おれのことあまりよくわかってないな」などと 思ってしまう。本当の誇りというのは、人のおだてや誉め言葉で舞い上がって しまうような手軽なものではないと思う。もし人のおだてや誉め言葉のままに 舞い上がってしまうとすれば、それは「見栄」であり「他社に依存した心」で あるといえる。そういう心は、他者からの肯定があればあるだけ果てしなく舞 い上がる。そのかわり、他者からの肯定がなければ(否定などがあればなおの こと)簡単に失墜してしまう。それが怖いから、ますます他者にしがみつき、 依存してしまう。一方、自分の中に誇りを抱いていれば、他者からの肯定を無 条件に受け入れてどこまでも浮かれまくる、という風にはなれない。また、他 者からの肯定がパタリと止んでも、自分で自分の誇りを保つことができる。例 え人がどんなに自分を否定的に見ても、自分だけは自分を信じてやることがで きる。本当の誇りは、人から傷つけられるようなものではないと思う。   しまうま(KFQ02761) 00178/00179 NBB01420 SUKE 輝く雲の輪郭 ( 6) 95/10/26 01:42 コメント数:1 >> 曙色に染まる地平線、輝く雲の輪郭…朝が来た、新たな朝が。 こういう雲、確かに今日(10/25)の午後3時前くらいに見ました。職場の窓 から丁度富士山の方に向けて。 晴れた空に雲があって、ちょうどその向こう側に太陽があったんですね。それ で雲の輪郭が強烈に光っていました。尋常ならぬ光り具合でしたので、何か意 味があるのかなと思いましたが、そのまま忘れていました(^^;) 朝が来た…うーみゅ、朝が来た… 新たな朝が来たと言うと何か新しい時代の幕開けみたいな気がしますが、実際 にはまだまだ不況の折り、世の中が変化するような感じは受けませんが(-_-;) さて、何が始まるのかな?                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 00179/00179 GHD00256 七穂 RE:輝く雲の輪郭 ( 6) 95/10/26 04:45 00178へのコメント >> 曙色に染まる地平線、輝く雲の輪郭…朝が来た、新たな朝が。  このハローを読んで、25日の朝の8時半過ぎ頃の出勤途中に、車の窓  から見上げて眺めた雲のことを思い出しました。   最初雲の切れ端に目がいって、なんだか今朝は雲がはち切れんばかりだなぁ  と思ったのですが、それから目を映すと、本当に良い位置と思えるところに  太陽を向こう側に透かして、雲が勢いよく立ち上っているように配置してい  たので、なんだかすごい光景だなぁと思ってしばしみとれました。   どういうタイミングでこういう微妙な美しい光景が創り出されるんだろう  かと感嘆の思いがありましたが、ハローを読んで、自然現象はただ起こるの  ではないんだなぁ...と感じ入りました。   新たな朝がきたといわれて、自分はその朝を迎える用意がちゃんとできて  いるだろうかと振り返ったりしてみると、..日常面で昨日一昨日の嫌な思い  なんかを引きずったりしながら次の日を迎えているところがあって、そうい  う気分を自分で選んでそうしているということを考えてみると、しかしそう  いうのは新しい朝を迎えるような心構えではないなぁ..と思えました(ーー;)                 明け方目覚めて書き込み GHD00256/ 七穂 - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 95/10/26 - 06480/06481 KFQ02761 しまうま RE:虚無感 ( 7) 95/10/25 23:24 06469へのコメント #06469 めのうさん  ちす(^^)。またしてもタイトル変更のチャンスを見逃してしまったか(^^;。 :「虚無」という言葉の使い方がはたして正しいのか自分でもちょっと怪しい :ところなんですが他に言葉を知らないので(^^; :避けて通れないところを「無価値な、どうでもよいこと」として避けようと :することを私はそのように呼んでいます。  そういう状況を「虚無」と呼ぶのは、別に不自然ではないと思いますよ。 「無力感」とか「あきらめ」とか、そういった感情ですよね。  ただ、そういう感情を「怖い」ものとして避けてしまうのはどうかなあ、と 思います。そういう感情にひたる必要はまったくないと思いますが、もしそう いう感情がわいてきたらそれを押さえ込んでしまわず、いったん「それがもた らす気分」を味わい、その感情が何を自分にもたらすのかを、感情を交えずに (これが難しいのですが)感じてみるのがいいのではないでしょうか。なぜな ら、押さえ込んでもそういう感情は決してなくならず、別の形で別のところか ら噴出してしまいがちですから。そうなると、それは原形をとどめていないた めに、対処の方法も一筋縄ではいかなくなってしまいます。  たとえば「楽なほうへ逃げようとしちゃう自分」があるならば、それは例え 自分の価値判断に合わないとしても「自分」であることは確かなのですから、 それを拒否してしまうと自分の中のどこかが歪んでしまいそうです。「自分」 を拒否し、否定したままで、そんな自分を人に受け入れてもらうことはできな いでしょうし、また人を本当の意味で受け入れることもできないだろうと思い ます。  肝心なのは、「楽なほうへ逃げようとしちゃう自分」が進もうとしている方 向が本当に「楽」なのか?とか、自分が本当に望むのは「楽なほう」なのか? といったことを、冷静に判断することだと思います。そして、それを実行する ためには「怖さ」といった感情はいったん回線を切って(なくす、というので はなくいったん無視して)、いわば「他人の行動や心理状態を見るように」自 分を見てみる必要があるでしょう。そして、冷静な判断を下したら、再び「自 分」としてその結果を受け入れることができるかどうか、実行に移せるかどう か、移せないとしたら何が問題なのか……とかいう部分をもう一度見つめ直し て……とまあ、なかなかスムーズには進まないでしょうが、押さえつけておい たものが噴出してから対処するよりは、ずっとやりやすいと思います。   しまうま(KFQ02761) 06481/06481 NBB01420 SUKE 生い立ちから気がつくこと ( 7) 95/10/25 23:31 06478へのコメント 前出の「『こだわり』の心理」を読んでいて、気がついた事です。 自分が完璧でなければ他人に受け入れて貰えないと言う思いこみ…これは私に とって今まで気がつかなかったものでした。 思い起こせば、これは私の生い立ちによって刷り込まれた自然な洗脳だったの かもしれません。 生まれてまもなく、私は理想を高く燃やした母から(^^;)非常な厳しい躾をさ れたそうです。話に聞くと、ノイローゼから来る頻尿症というのになったそう で、ここで初めて行き過ぎた躾に気がついた母は、突然優しくなったそうです。 このことは記憶には殆ど残っていないのですが、幼少時代から私は親にものを せがむことが罪悪であるかのように感じていましたから、恐らくこういう躾が 残っていたのでしょう。スーパーなどで駄菓子を買ってくれなければ嫌だと泣 きわめく子供がいますが、私の幼少時代には考えられないことだったのです。 親が「望んでも良い」と言う状況を作ってくれない限り、私は自らねだること がありませんでした。 こうした状況を加藤諦三氏は次のように表現します。 >> その子の存在そのものが問題なのではない。その子が母親にとって都合よく >>振る舞うかどうかがもんだいなのである。「この子がどのように振る舞っても >>私の子である」という感じ方、考え方が母親の側にあり、これが子供の心に伝 >>わっていたら、(…以下略) 加藤氏が挙げた例では非常な恥ずかしがり屋の女性でしたが、私も実は少年時 代に非常な内向型でした。 幼稚園時代には、その歳にして登校拒否ならぬ登園拒否(^^;)を起こすほどい じめられていましたが、これは嫌なことには嫌と言えない−即ち自分の望みを 他者に表すことが出来ない性格がいじめを助長したのだとも思えます。 誉められるような自分であらねばならない私は、自分の欲求を他人に表すこと が出来ず、成績は良かったものの常に友人はわずかでした。 このままではダメだと感じた私は、高校時代に自分より他人の気持ちを優先す る事で必死の努力を行いました。人当たりは良くなり友人も出来ました。母親 が私に与えたもう一つの「手のひらを返したような優しい躾」で得た「優しさ」 を、私はアンバランスな自分に対するカウンターウエイトとして伸ばしたので すね。 30代にもなって、今ようやく私は、自分の中に何も無かったことに気がつい たのでした。記憶にも無い程の幼少時代に刷り込まれた「完全でなければ受け 入れて貰えない」と言う思い、これに対する「他人の気持ちを優先しようとす る努力」。要するに私は刷り込まれた2つの両極端な性格を何とかバランスし て生きてきたのです。その真ん中にある筈の自分の姿は、実はバランスの中に 生まれた虚像に過ぎませんでした。 これが偽善の匂いがすると言われる自分の正体なのです。 >>これらの人々は、基本的に自分の存在の「望ましさ」について自信がないので >>ある。自分は基本的に望ましくない存在なのであろう。どうしても自分を他人 >>との関係で望ましい存在と感じることができないでいる。だからこそ、自分が >>相手にとって完璧でなければ、相手と一緒にいることが耐えられないのであり、 >>絶えず完璧な振舞いをしようと緊張するのである。 正に私の生き方はこうした生き方だったでしょう。なかなか良い恋人を作れな いと言うのは何か自分に落ち度があるのではないか?とか考えてしまうのも、 一見謙虚な考え方に見えますが、実は完璧でないから受け入れられないと言う 思いの裏返しなのです。 自分が優れていても優れていなくても、そんなことは自分の存在価値には何も 関係がない!と、そういう気持ちでありたい……実は最近ずっと割り切れない でいたもやもやは、そういう自分を望んでいたからでした。 それが今夜、職場から帰る途中ではっきりと解ったのです。      生い立ちを書くのはちょっと恥ずかしいな(^^;)…☆ッテナモンダ Suke. - FARION MES( 9):神々の曼陀羅 ★ 歴史と宗教を巡って 95/10/26 - 641/644 GBG02043 維/YUI RE^2:質問*神葬について。 ( 9) 95/10/25 19:55 637へのコメント コメント数:1 現在の神道の葬式が、古のものと同じかどうかは わからないのですが、8-9年程前にたまたま神道形式の葬式に お手伝いかたがた参加(?)したことがあります。 都内では、神道の葬式をやってくれるところは、意外と少ないようで、 お寺を借りての葬儀でした。 たしか幕は白黒はなく、白と水色または白と紫です。 (勝手な憶測ですが、やっぱり今の日本では一般的には黒白なんで、 赤白はできなかったのかもしれません。) ノリトが流れる中、一人一人参列者は榊の小枝を玉串として、両手で ささげ持ち、祭壇へ進み祭壇の前におかれた台に根もとの方を向けて おきます。(通常の参拝と一緒) 柏手を打ち、一礼して下がります。(柏手の前にも、一礼だった気がする) 清め塩とお神酒はあったと思います。 あっさりしていて、線香の独特の香りもないし、そういう意味で(^^;;) ヒタルことはないかな。 まあ、それでも葬式だから・・・(とかいいなが ら、昼すぎから仕事をさぼって酒を飲んでへらへらしていた同僚達)。 葬式といえば、私の父の葬儀は結構おもしろかったです。 浄土真宗大谷派なもんで、すぱっとしてました。(笑) お塩もないので、参列者にいちいち「大谷派は、これこれしかじかで お塩はないんです」と言わなきゃならなかったりして (^^;) ケッコゥタイヘン 白装束は一応あったけど、旅なんてしないから杖はない、銭を繋げたのも ないし、三角の頭につけるのもなし。なんにもいらないんだって。 人はその命を「まっとうした」後は、すぐ仏となるのであるから、 どちらかといえば喜ぶべきなのである・・って感じです。 (一歩間違うと、どこぞの殺人者の理屈になってしまいそうなんで 困っちゃうけど、殺していいってことじゃもちろんないですよね。) 経文も良く聞いていると、ちゃんと分かる言葉だったりして、 そのせいか辛気臭さも感じなかったな(私だけかもしれない)。 そこのお寺の住職さんは、いわゆる「葬式坊主」ではなくて、 かなり勉強もしている人らしく、話も結構楽しめるし前向きな ので、巷にあるいわゆる仏教を見直すいいきっかけとなりました。 ・・・ぅっ、本題からずれてしまった・・・・ 維/YUI。 642/644 MHD02672 TAO RE:RE^2:質問*神葬について。 ( 9) 95/10/25 23:08 641へのコメント  #641 維/YUIさん  神葬のご体験談をどうも有り難うございました(^^)。私自身は仏教とキリスト教の  葬式しか体験していないので、こういうお話を伺うのはとても興味深いです。  神葬は神社の中でやるのかな、しかし神社は一般に死の穢れを嫌うから、一体どこ  でやるのだろう、と思っていたのですが、お寺を借りて神葬をやるというのは、あ  る意味では、宗教儀式に対する日本人の融通無碍、言い換えればいい加減さ(^^;を  表していますね。もっともお寺でキリスト教の葬式をやるなんて絶対考えられない  から(^^;、そういう形で神葬を行うことが出来るのも、神仏習合が長かった歴史を  踏まえてのことでしょう。  白と水色、或いは白と紫という幕の色合わせは、爽やかな印象を抱かせますね。赤  白はどちらかというとめでたい場で使われる色合わせなので、葬式ではさすがに使  えないということなのでしょうが、水色は「穢れを禊ぐ」水の色なので、葬式には  ふさわしいと言えそうです。  神葬で唱えられる祝詞って、一体どの祝詞なのかな。  ▲▲▲  しかし例の抹香臭さが無くて、こういうあっさりした葬式も良さそうですね(^^;。  自分自身は大げさな葬式をやって欲しいとは思わないし、骨は海にでも撒いて貰え  ばいいという感覚ですから、こうゆうあまりジメジメしてない葬式も良いかななん  て思ってしまいます。その点、死者が天界へ旅立つ“祭り”としてのバリ島の華や  かな葬祭には、西欧世界における「死」の暗いイメージを覆すパワーがありますね。  火葬を公開で行うのは、世界中でバリ島だけとか。  バリ島の葬祭では、高さが数十メートルにもわたる「バデ(葬式塔)」が男達によ  って担がれ、葬列の中で一際目立ちますが、これが「博多山笠」にそっくりで、そ  こに何かしら共通の信仰意識が見え隠れするのは、興味深いですね。  TAO 644/644 KFQ02761 しまうま RE^2:質問*神葬について。 ( 9) 95/10/25 23:24 639へのコメント #639 一輝さん  こんにちは(^^)。ご返事ありがとうございますm(__)m。 :その昔バリの高貴な血筋では、死んだら奥さんも生きたまま燃やされたって :話もあるんです。本人は恐くも何ともない。当時はそういうのが一番カッチ :ョいかったんでしょうね。  ふむふむ、そういうのをカッチョいいと感じる美意識というのも、日本と相 通じるものがありそうですね。いや、もう日本にはあまりない、と言った方が いいんでしょうか……。 :ところで、しまうまの模様も「死の恐怖」の表現なのでしょうか。  まだ人生やり残しが多いのと、「死」についてそれほど現実味をもって考え られないせいで、今すぐ死ぬと仮定すれば「恐怖」よりは「悔い」とか「そり ゃないっすよ」とかに近いものを多く感じるような気がします(^^;。                           しまうま(KFQ02761) - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 95/10/26 - 00660/00660 JBH00712 桂 桂 戦争機械・1 (12) 95/10/25 23:38  *これから書きだされる話は、幾つかのの文献資料に基づくものである。  *特定個人の氏名を頻繁に書くが、それは誹謗中傷を意図する物でなく、   各個人の業績を明確に、そして客観的に評価する為である。  *時代を描く鏡となるため、大胆な推論も行う。  定義  「戦争機械は国家装置の外部に存在する」  (UPU発行・GS・第四号より)  まずは、以下の二人の名前を覚えておいて頂きたい。  *武田崇元  1950年、京都生まれ(神戸という話も有る)。  東大法学部卒業後、東京海上火災に入社、しかしすぐ退社する。  その後京都にて「フーリエ伯爵」の名でタロット占師に。  70年代中期よりオカルト雑誌編集者にて、「エニグマ」「UFOと宇宙」  の編集に携わり、「地球ロマン」「迷宮」等の雑誌も作る。  また、「武内裕」というペンネームで大陸書房(既に倒産)より幾つかの  超古代史ものの著作も現す。  80年代には、「失われた日本のオカルトの復権を目指す」八幡書店を興  し、社主となって今日に至る。  *武邑光裕  1954年生まれ。  日大の美学科を出て大学院に進む傍ら、「地球ロマン」「迷宮」の編集に  携わる。「迷宮」第三号より編集長をつとめ、同誌休刊後は、ミニコミ誌  「デコード」を発刊。  ポップアート・ビデオメディアの評論家として「ユリイカ」「現代思想」  などに執筆。ウイリアム・バロウズの日本における代理人でもある。  現在は京都美術大学助教授。 桂 桂(JBH00712) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/10/26 - 03815/03816 GGA02514 KAZE 半神でなく全人を (13) 95/10/26 10:32 03809へのコメント 柳 風男さん、どうも。 とても参考になるコメント、ありがとうございました。 > 身体的なものに関して、わたしたちはアントロポゾフィー(人智学)におい > て取り組みました。サイコソフィー(心智学)において、わたしたちは心魂 > のいとなみに取り組みます。そして、プネウマトソフィー(霊智学)におい > て、わたしたちは精神のいとなみに取り組むことになります。 実は、まだ「シュタイナー心理学講義」を読み終えてはいないのですが^^; おっしゃるように「人智学」という名称が非常に示唆的なんでうよね。 人智学というのは、アントロポゾフィーです。 それは、アントロポロギー(人類学)+フィロゾフィー(哲学)ですよね、。 人智学が、教育、医学、農学、芸術などの具体的な実践をしていくのは まさにそれが人間の人間による人間のための科学だからだと思います。 その点を忘れて、いわゆるオカルティックな方向に向いていくのは 人智学の本来のそうした方向性を本末転倒させることだと思います。 >          抽象的な神中心の学問ではなく、具体的な人間中心の学問 >をつくりましょうよとシュタイナーは願っていたと思います。神を賞賛しそれに帰 >依する事を説くのではなく人間を賞賛することが人間を作った神を賞賛することに >なるのです、それが今一番求められている思想なのだと・・・・。 そうですね、まさに人間は人間学を通じてもっとも人間らしく生きることを通じて 「神」を理解していく必要があるのだと思います。 先日から、19世紀末〜20世紀初頭のウィーンとその周辺の シュタイナーに関連した芸術運動などについて調べているのですが、 そのなかに、クレーやカンディンスキー、音楽家ではシェーンベルクなどがいました。 彼らは絵画、芸術とジャンルは違え、同じ目的を持っていたようです。 シェーンベルクはご存知のとおり12音音階を創始した方でもあるのですが、 そのシェーンベルクは、「半神になるよりも全人であることが重要」という 意味のことを強調していたようです。 人間が芸術を通して「全人」へと向かっていくこと。 そのことが重要だと。 シュタイナーも、運動の最初のころは、神智学という名称を使ってましたが、 それは通常の神智学とはちょっと意味あいが違ってるんですよね。 神智学協会は、クリシュナムルティという救世主を擁立しようとしましたし^^; そうした方向性を潜在させている神智学をシュタイナーは 決して認めるわけにはいきませんでした。 それに、アニーベサントとのやりとりのなかでもわかるように、 アニーベサントは、キリスト衝動が理解できなかったようなのです。 だからこそ、現実の人間を救世主化しようとする傾向になってしまう^^;。 現代でも、現実の人間が「我こそが救世主!」って言ってしまうような宗教は キリスト衝動を否定しているととらえていいんだと思います。 もちろん、「わたしも救世主、あなたも救世主、みんな救世主・・・にならなきゃ」 っていうのはそれとはまったく別のことなのはもちろんです。 さて、サイコソフィー(心智学)やプネウマトソフィー(霊智学)については、 あまりシュタイナーではポピュラーではなくて、 ぼくもほとんど不案内なので、今後の勉強課題にしたいと思ってます。 >いくつもの対極を駆け巡る、振幅の大きな人生がもっとも豊かな人生なのだとい >うことでしょうか。この豊かさはいくら考えても(もちろん考えなければいけな >い^^;)結論は出ない、一人一人の人間の生きざまとしか言い様の無い部分、人間 >という矛盾した存在そのものが答えとなっているという感じでしょうか。この >「人間という存在」=「矛盾した論理群に対する答え」=「人智学」なのかなと。 はい、そうなんだと思います。 そうした人間学としての人智学の道徳的ファンタジーにもっとも近いのが 東洋では「陽明学」だとぼくは思っています(^^)。 陽明学といえば、知行合一を唱った王陽明の創始した学問で、 実は、例の安岡正篤さんが、その代表的な人物でもあったんですよね。 その陽明学、安岡正篤さん、そしてシュタイナーをともに論じた著書も 数年前にだされていたようで、大いに共感したものです(^^)。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/10/26 - 03304/03307 GBG02043 維/YUI 読むとは・・・ (14) 95/10/25 19:55 03268へのコメント コメント数:1 ひょうたんさん、ますますの快進撃に頭がさがりますです。 このところの書き込みを読んでいて、考えているのは 読むとはどういうことか・・です。 亀甲の文字を”読む”のに 必要な目が、1、5、6、8、13ですよね。 その数字がひょうたんさんの書き込みのような意味(幾重にか 意味があるかもしれないので、それ以外でも)だとして、 それを使って亀甲の文字を読むんだろうか?? 亀甲の文字=亀甲に刻まれた年月ならば、二年っていうのが 出てくる解読は、どういうことを指しているんだろう? みそぎ終わるまであと二年ということだろか? ところで、龍の子が姿を変え、大いなる亀の文様は読みとられる というところで、龍の子=竜子なのかな? だとして、文様を 読み取るための目が知らされるってことは、竜子さんは姿を変え たのだろうか??? 竜子さんと同じくらい話題になった菊理媛さんは、白蛇の姿を していることが多いのだけれども、実は白い竜だという話があって、 (蛇は、竜になる前の姿)そのへんからすると、竜子さんって 菊理媛とイコ−ルなのかな??? *************************************** と、話がとんで・・・ それはそうと、 亀甲の割れ目ってんで思うのは、地球の活断層です。 1,5,6,8,13で、どこの活断層がどう動くか なんてのが分かったとしても、・・・しかし・・・ いったい何ができるんだろうか・・・(- -;;;)ワカラン また、思いついたら書いてくださいね〜。 維/YUI。 03307/03307 KFR02037 ひょうたん あの数字 (14) 95/10/25 23:56 03304へのコメント あの例の数字、この前のは、いささか強引な解釈でした。(^^;) 実は、なんとなく魔法陣っぽいものを感じていたのですが、数字を並べ変え ているうちにこんなことに気がつきました。  1〜13(トランプみたいですね)の数字を使って下図のような三角形を  作ります。                   大きな三角形の3辺の数字を足すと 1-----5-----6-----8-----13  1 + 5 + 6 + 8 + 13 = 33 \ / \ / 1 + 10 + 7 + 12 + 3 = 33 10 / \ 2 13 + 2 + 11 + 4 + 3 = 33 \ / 9 \ / 7-----------11 小さな三角形の頂点の数字を足すと \ / 12 4 6 + 7 + 11 = 24 \/ 3 ただし、真ん中の9を足し加えると                    6 + 7 + 11 + 9 = 33  つまり真ん中に9が入った時点で、二つの三角形のつりあいがとれます。  はぁ? それがどないしたん? と言われるとそれまでなんですが‥‥                              ひょうたん 03305/03307 KFQ02761 しまうま RE^5:仮宮から正宮へ (14) 95/10/25 23:24 03294へのコメント #03294 ゆきぼうさん  こんにちは(^^)。  なるほど、役之行者は八大龍王ともご縁がおありなんですね。この八大龍王 にも、僕は興味があります。九頭龍神と、何か関係があるんでしょうか? :ご迷惑をおかけいたしました。 :当分、拝見させて頂くだけにいたします。 :さようなら  えっ、そうなのですか。もしかして何か失礼がありましたでしょうか? ゆ きぼうさんが「迷惑」だなんて、誰も思っていないと思うのですが……。  また気が向いたら、ぜひお相手をお願いいたします(^^)。   しまうま(KFQ02761) 03306/03307 KFQ02761 しまうま RE:菊理媛=白菊大神 (14) 95/10/25 23:24 03303へのコメント #03303 TAOさん  こんにちは(^^)。  貴重な情報をどうもありがとうございますm(__)m。  なるほど、白山菊理媛は、伊奘諾尊、伊奘冉尊と並んで祀られることが多い のでしょうか? やはりそれほど日本と古いご縁があるということなんでしょ うね。   しまうま(KFQ02761)