永劫流転の円錐は大気圏突入し命を終わる。海洋からの応答無し。 - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/10/28 - 00184/00184 GBG02043 維/YUI 新たな朝 ( 6) 95/10/28 09:09 10/27の朝、まさに日が昇るときだったんですが、起きてみると外が 紅なので、窓を開けてみました。 >> 曙色に染まる地平線、輝く雲の輪郭…朝が来た、新たな朝が。 私のうちからは、地平線はほとんどみえないのだけれど、 空の一番端っこからきれいな曙色のグラデ−ションになっていて、 そこから先、今度は空色に変わっていくんです。 そして、その空には白いうろこ雲がくっきりと列び、太陽の光を浴びて 輪郭から金色に染まっていました。 自然界は、新たな夜明け、朝を迎えているようですね。 はたして私達は、その流れにちゃんとのって生きていけるのでしょうか。 きっと何の変化も感じずに、過ごして行く人も在れば、 その変化を味わいながら、自らも変わっていく人もいるのかな。 どっちにしろ、あとにひけるようなことではなし、 やるっきゃない! んですけどね。 (何をとかいわないように^^;) 維/YUI。 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/10/28 - 03825/03830 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●VII-1<カ ルマ (13) 95/10/27 16:29 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 <VII-1/カルマ1> --------------------------------------------------------------------------- さて、この章は前章の「運命」の章の展開部分であるともいえます。 テキストに沿って、いきましょう。 まず、死んですぐ後、体験する現象について説明されています。 死後のプロセスについては、これまでの章でいろいろご説明しましたので、 必要に応じて、ご参照いただければ幸いです。 人間は、死後、肉体から離れて、アストラル界を通過していく前に 記憶像が現われますが、そのとき、自分が外へと広がっていく感情を持ちます。 それは自分が送った人生のパノラマのようだといいます。 そして、「この像のすべてが私なのだ」という感情を持ち、 自分のエーテル体が拡大し、太陽まで包み込んだような感じをもつのです。 肉体は、地上領域のものですが、エーテル体は太陽領域のものだからです。    その後、エーテル体が捨てられると、 宇宙のはるかかなたまで広がっていくような感情をもちますが、 それは宇宙空間のすべてを満たしているというのではなく、 自分のなかのパーツが宇宙のいろんな場所になるように感じます。 このように、空間的な拡大感はあるものの、その空間を満たしているのではない。 そういう感覚が、自分をアストラル的に感じるときの特徴です。 そして、こうした感情は、人生を逆方向に誕生まで遡っていく欲界期でのもので その後、他の欲界の生命全体と結合していきます。 ここが重要です。   死者はまず、最後に関係した人の中に入っていくと感じ、その後、生きている   間に関係を持った人々、存在すべての中に戻っていきます。(P93)    つまり、自分が相手に与えたものを、相手の身になって体験していくのです。   たとえば、マインツである人を殴ったことがあるとしますと、死後、その人に   与えた痛みを自分が体験することになります。もし、自分の殴った人がまだマ   インツにいれば、死後、アストラル体の一部はマインツにあって、その痛みを   体験します。もし、殴られた人がすでに死んでいれば、欲界の、その人がいる   ところにいくことになります。一人の人に対してだけでなく、地上の、そして   欲界の多くの人々に対してこのような体験をします。自分は分断された存在と   して欲界のいたるところにいて、身体性を消去していきます。生涯のうちで関   係あった人すべての中に入り込んで、それらの人々に対して行なったことを相   手の側から体験し、それらの人々と永続的な結びつきを作るのです。自分が殴   った人と欲界でともに生きることを通して、その人と結びつきます。その後、   神界へと上昇し、また再び欲界へと戻ります。そして、アストラル体の形成に   際して、ともに生きてきた人と築いたものを見いだすのです。そのような結び   つきは数多くあり、自分と関わりのあったものすべてが網のように網みあわさ   っています。(P93-94)    自分が自分の感情を体験していればそれで済むのはこの世のこと。 死後は、自分が関係のあったすべての存在に与えたものを、 相手の側からすべて体験しなければらないわけです。 自分が苦痛を与えた相手、悲しませた相手、苦しめた相手、いじめた相手・・・ そんなすべての人のことをその人自身として体験するのです。 それをイメージすると、背筋が寒くなってくるのはぼくだけではないと思います^^;。 もちろん、例に挙げたようなマイナス的な側面だけではなく、 プラスの側面についても相手の体験即自分の体験として味わうわけですから、 きわめて平等なあり方だといえますよね。 ですから、自分が日々生きていく中で、それだけ相手の痛みを我が痛みとして 感じられるかという魂の能力が重要だということがわかります。 相手の痛みがわかれば、無闇に自分のエゴを相手に振りかざすことは 非常に難しくなりるからです。 しかし、厳しさもまた愛であるように、ただただ相手を甘やかすのでは、 自分も甘やかされたことになってしまいますので、 「相手になにを与えているか」という観点を、 相手をどれだけ生かすことができているかという視点から とらえていくことが重要ではないかと思います。 さて、続いて、カルマと外的な遺伝の関係についても説明されています。 ここには、J.S.バッハの例が挙げられています。 バッハの家系には、250年の間に29人の音楽家が生まれていますが、 優れた音楽家になるには、単なる「内的な音楽的才能」だけではだめで、 「ある一定の形の耳」を必要とします。 こうした聴覚器官の形が遺伝してきます。 音楽的才能のある人が受肉しようとするときには、 それにふさわしい音楽的な耳をしている家系に生まれようとします。 音楽的才能にふさわしい肉体期間がなければ、才能が発揮できないからです。 数学的才能も耳のなかの三半規管の特別は発達が必要とされます。 それから、これも興味深いことなのですが、 「道徳」にもそれに適した肉体が必要であり、 それを遺伝を通して伝えてくれる両親が必要です。 道徳家は、そうした両親を探し出すというのです。 (第7章・第一節終了・以下続く) ☆☆☆KAZE☆☆☆