苦境から脱したいと思っても苦境に居ることを認識せねば脱せない - FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 95/10/30 - 04710/04710 BYL00120 たいきゅう お邪魔します>めのうさん ( 2) 95/10/30 08:45 04684へのコメント  #4684 めのうさん  いやあ、おいしかったです。  ウェルカムドリンク、本当にごちそうさまでした。  最近は、 「会社で仕事」→「帰って過去ログを読む」→「仕事」→「過去ログ」→ ..  という、毎日です。(他に何もしていないような..生活は別として。)  自分でぱそ通をするのは、これが生まれて初めてなのですが、実は FMISTYでアリオンの会議室がスタートした時、人がやっているのを 横で見ていたのです。初めの1ヵ月位でしょうか。そして、それが出来なく なって以降は、ずっと気になりつつも、ARIONについて知る手段は 本しかありませんでした。(こういうと、完璧に読みこなしているような 印象を与えそうで、怖いです。)  ですから、自分がこうやってFARIONという場にいるという事は、 4年半前の願いがやっとかなったとも言えます。その間、ちゃんと実現の 努力をしたかと言うと怪しいものですが..(おっと、ダブルミーニング) それはともかくとして、人生のこの時期というのは、あとから見て、自分に とって最も重要な転換点になりそうな予感がしています。  今、ざっとFMISTY部分を読んでみて、(う〜ん、【弐の巻】が 出なかった理由がやっと分かったような..)読む視点をしぼった方が 良さそうだなあと思いました。でも、どうしぼり込むのかは思案中です。 ともかく、ちゃんとした感想は、何回か読んでみて、自分の中でこなれて 来てから、書こうと思います。なんせ、自分にとってこれほど面白くて 味わい深い読み物は、他にありませんし。  今まで読んだところで、一番心に残っているのは、 >馬鹿なのではなく、ずる賢いのです。 >そしてずる賢い人ほど救われがたいのだと思います。  という、しまうまさん(なぜか、またしまうまさんなのです)の 一言です。「こりゃ、まさに自分のことだ」と思いました。でも、それを 認識したところから、(僕の場合は、読んでやっと気付く愚か者ですが) 何かが変わって行って解決に向かったり、人間的に成長したりするのでは、 とも思います。そういう意味で、自分に希望を与えてくれた言葉でした。  ひょっとして、こういうのって2番で書くには重すぎるのでは?  ともかく今後ともよろしくお願いいたします。        場末のバーで身の上話を聞いてもらってる気分の、                        たいきゅうでした。 - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 95/10/30 - 00970/00970 PFA03563 YAHATA NHK「新・電子立国」 ( 3) 95/10/29 23:29  ついにあの「電子立国」が帰ってきた!大袈裟か。(^_^;)  通しのテーマは「ソフトウェア」で、今回のテーマはデジタル画像。  相田ディレクターの動きを取り込んでエイリアンにラジオ体操をさせるとい う衝撃の映像(笑)から始まって、「アポロ13」のロケット打ち上げシーン に使われたデジタル映像技術を公開。ここまで精巧にできると、ファンダメンタリスト たちが「NASAの宇宙飛行は全部特撮だ」と言うのも信じたくなる。(^_^;) その他には、「バットマンフォーエバー」で使われ損なった「ビル屋上から降 下して軟着陸した後『すたすたと歩く』」というシーン。ここまでが全部CG なのだが、歩く部分だけがあえなくカットとなったその理由は…「CGがここ まで素直に動いちゃったら、俳優の立場は?」という製作側の懸念であった。  前回のハード編と違ってことがソフトとなると…日本の出る幕ないのでは? と感じるのであった。 YAHATA - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 95/10/30 - 01809/01809 BYI05560 SHIBA :大人に成長した犬神明 (11) 95/10/30 00:02  遂に、ウルフガイ・シリーズが完結してしまいましたね。個人的には、私は アダルト・ウルフガイ・シリーズの方が贔屓で、小生意気な犬神明少年はあま り好きではなかったのですが、やはり気になる存在であるらしく、とうとう最 後までつきあてしまいました。  完結、とはいっても、めでたしめでたし、というものではなく、まるでプロ ローグが終わったかの様な感じを受けました。母親ロイス、青鹿晶子、虎4と いった愛するものをことごとく失い、孤独を余儀なくされていた犬神明。しか し、今度ばかりは違っていました。そう、マーの再三のマインドコントロール をかわすことの出来たエリー・ハンターの存在。そして、生涯の伴侶となるで あろう、キム・アラーヤ。遂に、犬神明は、孤独から解放されたのです。  砂漠にいる時はどうなることかと思いましたが、いやいや、成長しましたね。 もう、犬神明「少年」とは呼べなくなりましたね。すなわち、私が「プロロー グが終わったかの様だ」と感じたのは、そういうことなのですよ。「狼のレク イエム」の頃は、不死鳥グループとの戦いが主に描かれていて、虎4が死んだ あたりから何となく殺伐とした感じで、面白味に欠けていたのですが(今思え ば、きっと犬神明の心を投影していたのかもしれませんが)、「犬神明」になっ てから、大分様子が変わって来ましたね。そう、描く対象が、題名の通り犬神 明そのものにスイッチしたのです。彼が少年から大人へと成長していく過程が、 このシリーズのテーマとなっていた様に思えるのです。そして、どの様に成長 していったかは、皆さんが読んだ通りです。これから、大人の「犬神明」とし ての戦いが恐らくは始まっていくのでしょうが、それを見ることが出来ないの は、ちょっと残念ですね。  彼は遂に、マーにうち勝つことが出来ました。それは、彼が大人に成長して いたのに対し、マーが子供の様な幼稚な存在であったからで、既に、彼の敵で はなっかたのです。対決のシーンがやけにあっけなかったので、物足りない様 に思われた方も多いかと思いますが、それだけ、二人の差が歴然としていたか らではないでしょうか。  それにしても、あの最後のシーンは、一体何を意味しているのでしょうかね。 皆さんのご意見を、是非とも伺いたいと思います。  あまり纏まりのないことを羅列してしまった様なので、この辺で終わりにし たいと思います。次回は、「ボヘミアンガラス・ストリート」について書きた いと思っております。ではでは。  11月に、やっと「夏休み」(半分だけど)をとれそうな雲行きで、ほっと 胸を撫で下ろしている今日この頃です。                        BYI05560 SHIBA - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/10/30 - 03837/03840 GGA02514 KAZE 芳香と悪臭との境目 (13) 95/10/29 22:27 03810へのコメント 隆ちゃん、どうも。 >「わかりやすさ」というのは、科学の持っている長所なのですが、それ故の曖昧 >さをいつもはらんでいます。まあ、おおよそ、人間ごときが考えることなど、す >べからく曖昧であるとも言えますが、科学の場合、わかりやすさ=正しさに置き >換えてしまうかたがいるのというが、なんとも困った事なのですよね。わかりや >すい信仰対象、これって一番たちが悪い。 科学信仰というのと宗教的な盲信というのはほとんどいっしょですよね。 わかりやすい、もしくは、そう思いこみやすいというところが落とし穴です。 ともすれば、いちばん大切なはずのプロセスというのが抜け落ちてしまいます。 それと、ひとつのものを「正しい」と思いこんでしまうと、 そのシンプルさということによって、「正しくない」という「反」が生まれ、 そういう二項対立的なアホ意識で世界を見てしまうようになって、 世界が豊かな、多義性をふくなだものだということがわからなくなります。 ほんとうに、「一番たちが悪い」ですね。   >民主主義って、科学と妙に重なりませんか?。僕は最近どうも、いわゆる「科学」 >(本当の意味での科学ではなく、信仰対象のそれです)って、民主主義という宗 >教の教義に思えてなりません。 はい、ほとんど似てますねぇ^^;。 もちろん、ここで気をつけなければならないのは、 民主主義も科学もそれが信仰の対象とさえならなければ、有効だということです。 でも、自分で理解できないくせに「実験したらそうなった」と言われれば信じ、 自分で考えたわけでもないくせに「みんなそうだ」といわれればそんな気になる。 こう表現すれば、馬鹿げたことなんですが、こういうのにすぐはまってしまう。 大事なのは、まず、自分で考え、判断する努力をするということで、 それがなくて、「ありがたや!ありがたや!」というのは、 やはりどうかしているとしか思えないんです。 >3Sっつうのも、なんか、科学信仰とべったりくっついているような・・・。 >まあ、3つとも嫌いじゃない僕は・・・あんまり偉そうなことは言えませんけ >ど・・・。(^_^)ゞ ポリポリ 3Sにしても、3Sが悪いというわけではなくて、 それを、無批判に「ありがたや!ありがたや!」にすることなのであって、 ちゃんと自分で考え、判断できる人にとっては、別に信仰対象ではないわけです。 でも、非常に感覚的、快楽的な方向に流れやすいのは確かですけどね。 >黒か白か、善か悪か、はたまた正しいか間違っているかなどなど、へんてこな二 >元論に振り回されると、どんどん自分を削ってしまって、果てはなくなってしま >うような気がします。 0か1かでしか判断のできないデジタルマシーンになってしまうと、 人間というのはほんとうに情けないというか何というか。 そうそう、何か自分にわからないものを人がしていると、 「それ、儲かるんか?」としか言えない、マネーモンキーがよくいますが、 これも、「金になるか金にならないか」以外の判断力がなくなっている典型です。 しかし、こういう人に限って、「あの女はええ女やと思わんか?今度口説いたろ!」 とかいいながら、その女性の二元的でないところに翻弄されてお金を巻き上げられ 憔悴したりするゲームを飽きずに繰り返したりするんですよね^^;(アアオモシロ)。 >切り捨てるのは愚かしい事で、全ては変容させてこその進化でありダイナミズム >だと思います。 破壊のための創造だとかいうのも、そういう意味では危険な発想なんですよね。 一見破壊と見えているとしても、それがほんとうに破壊なのか、 変容なのかということを注意深く見るようにしなければなりません。 「死」にしても、「破壊」としてとらえるのではなく、 あくまでも「変容」としてとらえないと、ただそれを否定的にしか見えなくなる。 蛹が蝶に変容して飛び立つというのは、蛹の破壊ではなく、変容なわけです。 病院でただただ延命治療にあけくれる機械的なシステムも、 死を「終わり」「破壊」としてしか見ていないから どうしてもそうなってしまうんだと思います。 >ちなみに、重力からの解放という観点から見ると、バレーは逆に重力の存在を際 >だたせるような気がするのですが、どういう所にその「自在な身体性」がみられ >るのでしょう。柔軟性とかからでしょうか?。 これは、とくにモダンバレーなどに見られるのですが、 いわゆる「身体の零度」ということが追求されているようです。 つまり、哲学では、「タブララサ」という「白紙」の状態のことがいわれますが、 バレーというのも、身体性においてそうした「タブララサ」が追求され、 その「だれでもない身体」によって演じられる動きが問題になります。 その実際に関してはぼくも不案内なのですが、 少なくとも、そうした身体性の自由度への憧れのようなものが、 バレーにはあるのではないかとぼくは考えるようになっていて、 そういう観点で、見るようになれば、けっこう興味深いものなのです(^^)。 >先ほどの「芳醇」ではありませんが、肥大しない豊かさがいいですよね。奥の深 >〜いシンプルとか・・・。「粋」と「豊かさ」はほとんど同義だと思うのですが、 >昨今は「粋」を「無機」と、「豊かさ」を「肥大」と勘違いしてしまっているみ >たいで、「粋」も「豊かさ」もなんかピントはずれになってしまいました。 そうですね、いつも音楽がなっていないと落ち着かない方というのもいますし、 いつもテレビかなにかがないと落ち着かない方もめずらしくありませんが、 そういうメンタリティには、そうした「粋」「豊かさ」はわからないでしょうね。 「粋」「豊かさ」というのは、こちらの準備ができたときに、 何気ないところで、「訪れる」「音連れる」ものなのではないでしょうか。 それなのに、待てないものだから、こちらからどかどか押し掛けていって、 「おい!これが豊かさか。これをくれ!」ってな感じで無粋になる^^;。 ピントはずれも甚だしいです、ほんと。 >僕はそもそも肝がすわっていないので、他人を意識すると気になってしまうし、 >それをやめるためには、他人の存在に目をつぶることがままあります。他人を理 >解することからして大変難しいわけですから、僕の場合は、他人を気にするとか >しないとか言う前に、理解する努力がまず必要なわけですが・・・ ぼくも、他人を意識すると気になってしまうことがよくあります。 仕事で、広告のプレゼンテーションなどをよくしていますが、 最初のころは、クライアントを意識しすぎると、はちゃめちゃになるので^^;、 その「存在に目をつぶる」ことをよくしていました。 でも、そんなことをしていたら、なかなか理解してはもらえません。 理解してもらうには、クライアントを理解することからはじめる必要があります。 そのジレンマにはけっこう苦しめられたものです^^;。 ですから、まずは、発想として、何かを理解してもらうためには、 相手にどのように伝えるのがベターなのかをあれこれ模索する必要があり、 そのために、情報を集めたり、相手の認識や感情をシミュレーションしたりして とにもかくにも、相手にどう伝わるかを苦心惨憺してつかまなければなりません。 こういうのは、非常に難しい作業なのですが、 一歩一歩積み重ねていくしか、仕方のないことかもしれませんね。 >こう考えると、「悪人正機」は自覚を促す場面で、色々応用できそうですね(^^)。 はい、ぼくはよくこの発想をして、自分に自覚を促すようにしています。 もちろん、これを自分を甘やかす方向に誤用する愚は避けなければなりませんけど。 >臭い・いい匂いとかいうのも、陳腐な二元論の延長ではあります。しかし・・・ >それがわかっていても・・・やっぱり・・・臭い(^^;)。 八岩まどか「匂いの力」(青弓社)という、おもしろい本がありますので、 そのなかから、興味深い部分を最後に少しご紹介してみることにします。   芳香と悪臭との境目について。ドブの匂いや糞尿の匂い、汗の匂い、食物の   腐敗臭などは、一般的に人間に不快感を催させる匂いである。しかし、こう   した悪臭の基になっている化学成分は、花や草木の香りを引き立てる重要な   役割をも果たしているのである。糞尿臭の基であるインドールは、ジャスミ   ンにも含まれて香りにアクセントをつけている。温泉特有の硫黄臭は、バラ   の花やペパーミントの香りの要素にもなっているのである。   この点では、子供と大人の匂いに対する好みの違いについての興味深い実験   がある。『匂いの世界』(菊地俊英)のなかで、ドイツのシュタインという   研究者によって糞便や汗の匂いに対する反応を調べた実験が紹介されている。   二歳半から三十歳までの実験結果によると、二歳半から四歳の幼児において   は、六〇〜八〇%が汗や糞に匂いを好ましい匂いと受け取っていることを示   したというのである。これが五歳を境にして、嫌な匂いに逆転する。五歳児   で匂いの好みが逆転するのは、「糞便が不潔でいやな匂いがすることを親が   繰り返し教え込むことが直接の原因ではないか」とみられるのである。   「反対に性的倒錯者が糞便の匂いを好むことが知られ、また耳あかの匂いを   無意識に嗅ぐ人があると言われているのも、匂いの好みが多分に快感と結び   つきやすいことを示している。おそらく幼児の好みの変化についても、匂い   自体いわゆる快感・不快感の条件刺激として振舞っている可能性は否定でき   ないであろう。」   糞便や汗の匂いは快感を呼び起こす匂いだからこそ、共同生活においては野   生の感覚は排斥され、社会規範のなかに組み込まれるにしたがって不快感と   して条件づけがされていくともいえるだろう。しかし、匂いが自己中心に評   価される感覚である限り、それを社会的・文化的に統制していくことには限   界がある。女性においてみられる「相対的嗅覚過敏」という現象も、そのひ   とつであろう。例えば動物性香料のひとつである麝香は、麝香鹿の雄が雌を   魅きつけるために発するフェロモンの一種であるが、この匂いは人間の男性   や未成年の女性には弱くしか感じられない。ところが成長した女性には非常   に強く感じられるようになる。この匂いの感受性は月経周期と相関関係にあ   り、排卵期前後には通常の五万倍にも強く感じられるようになるという。そ   して排卵が終わった後の、月経中には低下する。(P189-190)    人間の感覚のなかでも、嗅覚というのはもっとも原初的なもののようで、 それだけにとっても興味深い部分はたくさんありそうです。 上記の引用のなかの「糞便や汗の匂いは快感を呼び起こす匂い」というのは、 犬が人間の汗くさいものなどにこだわるのを思い出せば、 ほんらいは、ひょっとしたらそういうのかもしれないなあ!とか いろんなことを想像させられてとっても面白いです。 でも、やっぱり、社会規範に組み込まれたぼくには、糞便はやはり臭いですね^^;。 では。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03840/03840 GGA02514 KAZE 人間関数論から縁起へ (13) 95/10/30 07:04 03821へのコメント 隆ちゃん、どうも。 > あはは、確かに「KAZEさん、恐るべし!」ですね(^^;)。でも、就職したくない >と思っている学生は似たり寄ったりなのでしょう。 そうなのかもしれませんね。 しかし、世の中には、いいところに就職しようと思って、早くから、 場合によっては、小さい頃から、そのためにがんばっている人もいるようで、 それを思うと、自分の計画性のなさに、自分でも驚かざるをえません^^;。 自分でも、将来どうしたいのかというビジョンがまるでありませんでした。 大学の終わり頃は、家を出て、バーテンしながら、日々を送っていまして、 「どうなるんだろうか」と思いながら、「ま、どうにかなるだろ」って感じで その末に、わけもわからず今の仕事に就いてしまったわけで、 自分ながら、自分のことを「ははは、変なやつ」としか思えませんね。 もちろん、いろんなことを勉強したいというのはあって、 いろんなことを片っ端から勉強してはいたのですが、 それはほとんど非実用的なことばかりで(今、パソ通で話してるようなこと^^;) それでどうなるというものでもなく、ほとんどビジョンもありませんでした。 もちろん、今でもとくにそう何かがあるわけでもないのですが^^;、 少なくとも、30歳を越えたあたりから、自分の生きる姿勢だけは、 少しずつやっとこさはっきりしてきた感じはあります。 >しかし、自分の思惑通りに人生を送っているかたって・・・やっぱりいるんでし >ょうね。僕はどうも人生設計がままならぬというか、思い描いた未来と現実のギ >ャップが大きいです。 先のことはわからないほうが、冒険的でいいようにも思いますが、 あまりに先のことを考えなさすぎるのもまたけっこう大変ですから、 そこらへんは適当なあたりがいいのかもしれませんね。 (なんだか、とっても優柔不断な言い方ですけど^^;) 先ほど言いましたように、ぼくには、ほんとに人生設計がなくて^^;、 思い描いてない未来ばかりですから、そういう意味では、 「現実とのギャップ」というのは生まれようもないのですけど、 ま、こういう行き当たりばったりなのは、 やはり、かなり問題のある生き方なのでしょうね。 さて、これからどうしたものか、と思ったりもしてますが、 あいかわらず、世の常識でいえるような「成功」などというのは???で、 ほんとうに、どうなるんでしょうね。 お互い、爺になったころに、どうなっているか楽しみですね^^;。 >関数という表現は、言い得て妙というか、ぴったりの表現ですね(^^)。 思いつきでそう表現してみたのですが、 たしかにけっこうイケル譬喩かもしれませんね(^^)。 間の存在としての人間を「人間関数論」とかでとらえるのもおもしろそうですね。 人間を実体として固定的にとらえるのではなく、関係性としてとらえていけば、 もっとダイナミックに人間−世間を見ることができるかもしれません。 それに、自分という存在を見るときにも、そういう発想で見ていくと、 自分の可能性を固定的に見るような偏狭な考え方を去って、 「自分がこういう場に置かれるとどうなるだろう」 「こういう場で、こういうあり方をしたいから、こういう風な関数になろう」 「あの人との関係をこういうふうにしていくためには、どんな変換が必要か」 こうした発想で、可能性を広げていく人間工学的な発想もできるのではないかなど、 そんなことがいろいろ考えられますね。 >KAZEさんの職場(広告代理店)なんて、多様化の先端を走っていても良さそうな >ものなのになぁと素人は思うのですが、想像と現実のギャップは・・・大きいで >しょうね。しかし、価値観の多様化を受容できない人たちが、広告業界で生きて >行けるのが、僕にはとっても不思議です。 広告業界というのは、流行には敏感だけど、 非常に泥臭くて、古くさい世界ですよ^^;。 ぼくは、制作部でプランニング系の仕事をしてますから、 まだ「価値観の多様化」などに対応したり、カッコつけたりが必要ですが^^; 営業担当などは、ほんとうに浪花節の世界に近い人が多いです。 >ちなみに、僕はゴルフもしないし、酒も飲まないですが、いわゆる「レジャー」 >や「遊興」の類は結構なんでもします。 ぼくは、いわゆる「レジャー」というのが、鬱陶しくてだめなんですよね^^;。 放っておくと、隠遁してしまうタイプだから、レジャーは似合わない。 どうしてもレジャーっての、人が多いでしょ。疲れるんですよね。 否応なく仕事にしてる広告の仕事では、 いろんな人といっしょに共同作業していくことが求められますし、 なまじディレクターの立場なので、たくさんの人を使わないといけません。 ぼくにはそんなのどうしても似合わないんだけど、仕方がない。 せめて、仕事でないときくらいは、そうでない環境がいいと切に思っています。 >僕は常々、「仕事にしてしまったら、とたんにつまらなくなる」と思っていまし >たが、我々を「変なヤツだ」と言う人は、遊びも仕事にしちゃってるんじゃない >のでしょうか。できることなら、仕事を遊びにする方が楽しいと思うのですが 遊びを仕事にするというのは、むしろけっこうキツイでしょうね。 遊びがあるから息がぬけるのに、息がぬけなくなってしまいます。 確かに、仕事を遊びにできたほうがいいかもしれませんね。 しかし、むずかしいなあ^^;。 でも、なかなか遊びにならないから、仕事が砥石になって、磨かれるのかも。 ぼくの仕事も遊びっぽくみられたりもしますけど、そんなもんじゃないですよね。 もちろん、それなりに楽しみながらする仕事もありますけどね。 >今の日本の社会(特に企業)は何故か同じ価値観、同じ資質を求める傾向があり >ます。これって、人間性の無視だと思うんですが、どうしてこういう事になって >しまうのやら・・・なんともかなわん事です。ヤレヤレ 日本の社会は、ほとんどが「家」でできていますから、 その「家」からはなれたら成り立たないんだと思います。 明治維新以降、特に、日清・日露戦争以降、日本は急速に、 その「家」で、足並みを揃えて同じ価値観を歩むことになってきました。 栗本慎一郎「自由大学」講義録のシリーズが、カッパサイエンスからでてますが、 そのシリーズの最新のものに「日本人が『こうなった』のはなぜか」という とても興味深いものがあります。 その上巻の「入口を間違えた日本」に収録されている、三戸公さんの 「家なくして日本なし」という講義録から少し。   日本の企業は「家」なんですね。いま、日本社会が抱えている大きな問題の   ほとんどは家に関係していると言っていい。貿易摩擦を起こす真因も、行政   改革、規制緩和、そして政治改革、教育問題、老人問題等々の根底に横たわ   るものは家であると言っても過言ではない。(P226)      プロテスタンティズムの禁欲・勤勉と同じように儒教も禁欲・勤勉の思想を   内包し、プロテスタンティズムの天職意識と同じように儒教もまた家のため   には己をつくすという強烈な倫理を持っています。なのに、なぜ数ある儒教   国のなかで日本だけがさきがけて近代化し資本主義化したのか。   それは、儒教の本場中国や中国以上の儒教国である朝鮮の家と日本の家とが   同じ家でありながら、相異なる要因を持っていたからです。   ・・・   日本では家の発展のためには血縁にこだわらず非血縁者を自由に入れる。血   縁者でも家のためにならんとなれば、勘当して家族からはずし、長男でも家   督相続させない。家の成員として血縁を第一に考えるか、それとも家という   組織の維持存続のためには血縁にこだわらずに家族構成をつくりあげるか、   という大きな違いがあるんです。(P244)    このように、血縁を越えて広がっている「家」というコンセプトによって 非常に緊密なシステムをつくりあげるということを行なっていることと いくつかの戦争を契機としてそれを国家全体をまさに国という家として 位置づける方向性を持ってしまったこととが相まって、 そうした均質的な価値観体質ができあがってきたのではないでしょうか。    >闇の部分を見つめることができても、それを変容させる事は難しいです。たとえ >切り捨てなくても、闇に拘ってしまうと闇に呑み込まれてしまいますし(このへ >んは感情と同じですね)、闇の部分と付き合ってゆく「かねあい」みたいなもの >が、とっても大変です。 やはりそこらへんが魂の力というか、その変換の力というかを 「稽古」によって日々鍛えながら、アベレージを高めていくしかなさそうですね。 そういうのは、カヌーを乗りこなすことにも似ているのかもしれません。 >そしてその「縁起」は、きっと「場の概念」そのもので、我々にとって最 >も重要な考え方を示唆しているのだろうと思います。 そうですね、今自分はなぜここにいるのかという答えが、その「縁起」ですから、 あるがままの自分を許しながら、しかもその自分を甘やかすのではなく、 自分がどういう関数でありたいのかを明確にしながら、 その「縁起」そのものの変容にむけて、その「場」を形成していく。 それは世界を受け入れながら、世界形成の自覚的な原動力にもなるという そんなイメージでもあります。 どんな存在も全体を映し出していますし、全体はすべての部分を映し出しています。 だから、「無駄」とか「いらない存在」というのはありえません。 しかし、そのなかで、全体を生かす部分であるかどうかは重要です。 全体を生かすということは、まさに、 「世界を受け入れながら、世界形成の自覚的な原動力にもなる」ということです。 そして、それが「悪人正機説」の「悪の自覚」というような「自覚」が 必要とされるということと深く関係しているように思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03839/03840 MXK03704 ゆきぼう RE:人智学的認識様態 (13) 95/10/30 02:09 03804へのコメント  重要な部分に間違いがあったため、直前のレス削除させていただき ました。記憶力のなさには、自分でも嫌になってしまいます。以下が 訂正レスです。 どうもです。ゆきぼうです。小生にまた発言の機会を与えていただき 有り難うございます。 *それから、「若干の違い」というあたりが少し気になりますので、 *そこらへんの視点の違いをお教えいただければ幸いです。 コップを真上から見た者は、「コップは丸い」と言うでしょうし、 真横から見た者は、「コップは四角だ」と言うでしょう。それを止揚 するために、色々議論がされるわけですが、どちらか一方を正論とす る必要がない場合もあるように思われます。小生と、KAZEさんの 「若干の違い」というのは、まさにこれに該当するのではないかと思 われます。したがって、小生 少しも、KAZEさんの思想等を批判 する者でないことを、予め断らせていただきます。 小生とKAZEさんとの違いの大部分は、「人は、予め人生の設計 図を描いた上で、この世に出て来ているか」に関する意見の違いから、 流出しているように思われます。 このことを肯定されているKAZEさんの考え方は、苦しみを抱え た人間に、「そうか、俺が選んだ道ならば、もう少し頑張ってみよう 」という気にさせることでしょう。したがって、人がより良く生きる ために役に立つという意味で、妥当だと思われます。  しかし、今 二つのことが疑問です。 1 受肉前のシュミレーションの段階でする決断は、かなり不確定の 要素を含んだ決断だと思われますので、その時の決断が、はたして本 当の決断と言えるのかということ。 2 KAZEさんの仰る考え方を十分に理解していない者は、どんな ことを考えるでしょうか。殺人犯は、「たしかに、俺が殺したけれど、 そうなったのは、其の人間が、予めその様な設計図を描いていたから だ。自分は其の設計図に沿った行為をしただけだ。」と自己を正当化 しないでしょうか。また、これから他人に対して、マイナスの行動を 起こそうとしている者にも、同様な結論をもたらさないでしょうか。  これが、小生が、KAZEさんの立場を、全面的には採り得ない所 以です。 ひょっとすると、シュタイナーさんは、虐げられている者達に対し て、説教されたのではないでしようか?もしそうだとすれば、このこ とが、シュタイナーさんの構成された思想に影響しているように思わ れるのですが・・・。 「人を見て法を説く」という言葉もあるように、自然的真実として ならいざ知らず、この様な「よりよく生きるにはどうすれば良いか」 に対する答えは、複数併存しうるものですから、KAZEさんのお考 え今後も勉強させて頂きます。 レス有り難うございました。 合 掌 ゆきぼうより - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/10/30 - 00338/00338 KHC01313 まるにちょん 日月神示(○にゝの心) (15) 95/10/30 02:08  日月神示によく出てくる○にゝを入れるあるいは、○にゝの心について、 思うところを述べていきたいと思います。 <○にゝとは、○の中にゝが入っている図形「以下「○ゝ」と記す>   「 親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、苦に負け    てよくもここまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、    臣民は一寸先さへ分からぬほどに、よう曇りなされたな、…    …早く○ゝ(モト)<本文では○の中にゝが入っている図形、以下「○ゝ」と    記す>の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うモト    ○ゝ心になりて呉よ、神頼むぞ…」(第1巻上つ巻 第二帖より)  神示を伝えた神霊は、人間の心が曇ってしまったのを大変嘆かれている様子 が窺えます。このままで行けば、世界をいったん泥の海にまでもどさなければ ならないとまで言っています。しかし、○ゝ心になってくれと頼んでさえいま す。  神霊としても、子(非創造物)である人間がこのままダメになって仕舞うの は大変忍びないことなのでしょう。  それと、神が世界をリセットしなくても、人間自身がリセットボタンを押し て仕舞いかねませんね。世の中を見渡せば、オウム真理教による国家転覆のハ ルマゲドン演出、中国及びフランスなどの核実験、さらに旧ユーゴ地域やアフ リカの内線と人間世界は自らの招いた末期的な様相を呈しています。  また、人間の我欲の追求の為、自然環境は破壊され、地球は今も傷つき続け ています。(;_;)  最近の世界的規模の地震の連続は、恐らくは、人間によって傷つけられた地 球の自浄作用なのではないかと思います。(そういえば、中国とフランスの核 実験の後ぐらいから、環太平洋で地震が続発しているなぁ…(^^;)  では、○ゝ心とは、なんでしょうか?  私なりに考えをまとめてみます。  日月神示のなかで「まことの神の入れものになりて呉よ」とあります。  ○を人間、ゝを神に例えると分かり易いと思いますが、人間に神がかかれる ようになる事。つまり人間が神(あるいは自然)の意思(法則)に従って生き ることではないでしょうか。これは、人間が自由意思を持つ必要はないと言う ことではなくって、ARIONの言う、宇宙の生命潮流の流れに従うというこ とだと思います。  これを古神道で言えば、神人合一ということでしょうか。  また、○を物質あるいは体、ゝを魂あるいは霊とすれば、人間は本質的には 物質面のみならず、霊的存在であって、体主霊従ではなく、霊主体従であると いうことでしょう。しかも霊的なものにも偏らないのです。  日月神示では、偽善的宗教のように物質や金銭を否定することはありません。  むしろ、    「生活が豊かになってくるのが正しき道ぞ。」    「金よければ金拝め、人よければ人拝めよ。神がよければ神拝め」    「金が好きなら金を拝んでもよいのじゃ。区別と順序さえ心得ておれば何様     を拝んでもよいぞ。金拝めば金が流れてくるぞ、金を拝み得ぬイコヂさが、     そなたを貧しくしたのじゃ。赤貧は自慢にならん。無神論も自慢にならん。     清貧は負け惜しみ。清富になれよと申してあろうが。清富こそ弥栄の道、     神の道」  と言っています。  人間の生活のあり方は、霊も物質もともに清く富み栄えてこそ、正しいもの と言えるでしょう。  さらに、○ゝは、「大和魂」のことです。  これは、なかなか説明が難しいのですが、日月神示の底流にあるものは、 「大和魂」を復活させることなのです。  全ては、本来「嬉し、嬉し」で喜びであり、人と人、人と神ともに弥栄えて いくものなのです。人間が全てに大きく融和し、宇宙の生命潮流とともにある ことが、「大和魂」の本来像なのだと思います。  では、また。              カクリヨの使者まるにちょん、○=ゝ