はじかみの色立つ午後、酒匂(サカワ)の戒めが解かれる…十種神宝 - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 95/11/09 - 00987/00988 GGA02514 KAZE 風の本棚●大和古流の躾と為来 ( 3) 95/11/07 22:28 ■友常貴仁「大和古流の躾と為来(しきたり)」(三五館) 聖徳太子以来の精神を一子相伝で守り続ける橘氏の家門を継いだ 大和古流廿一世の当主、友常貴仁氏の「大和的」「千年の四季」に続く著書です。 本来は門外不出とされていた世界がこうして書籍のかたちにせよ 紹介されていくということは喜ばしいことでもあるがまた 現代のように日本文化が崩壊しかかっているなかでの叫びのようにも感じます。 最初の著書の「大和的」は、最初であるだけに硬いところもあったようですが、 この三冊目に至って、言葉もこなれてきて、また、さりげない言葉づかいに、 奥行きがでてきたような印象があります。 そもそも、こうした日本文化の継承的なあり方に縁遠い者ではあるものの、 こうして、継承されてきた日本文化の魂にわずかなりとも理解が及び、 読み進めるにつけて、心が豊かになっていくような気がしてきました。 今回の著書には、その名の通り、日本古来から継承され発展してきた 為来や躾、礼節、そうした、ちょっと目には堅苦しく感じてしまうことが、 奥行き深く語られていて、日本文化を学ぼうとする者には必読書かもしれない。 そう思えるような素晴らしい本、しかも気軽に読み進められる本です。 「大和的」「千年の四季」ともに三五館からでていますので、ぜひ。 では、「品」について語られているところを少しだけ。   先代はよく私に言いました。   「品位というのがいちばんむずかしい。どんな技術も、うまいへたの世界に   いたらなんにもならない。品のある使い方こそ命である。品位というのは教   えられるものではない。当家で教えられるのは、礼譲のみ。品位は、各人が   自ら学ぶものである。礼譲とは、礼を尽くし人にへりくだる心だ。礼譲を学   べば、自らその所作は端正となる。端正な人間は、はたから見ていても気持   ちのよいものじゃ。きっとそのような端正な人間が年齢とともに枯れてくれ   ば、自然と品位というものも生じてくるであろう。当家を守るものは、常々   このようなことを心に夢して暮らさねばならない。背筋正しく襟を正し、潤   いある姿で人間社会を生き抜けるよう心がけたいものだ。」(P87)    この本には、随所に、はっとするようなことが述べられているのですが、 この「品」についての箇所もそのひとつでした。 以前より、品位ということと誇りということがぼくの目標のひとつで、 この世にいる間にそれがほんのわずかなとりも、歳を経て、身につけられれば。 そう深く感じているのですが、果たして・・・^^;。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/11/09 - 00203/00203 PAG03134 はな RE^2:人工衛星の役割 ( 6) 95/11/08 00:44 00200へのコメント SUKE さん >> そのARIONの話ってどの辺だか分かります?  そのメッセージは93/07/15 02:25にみれさんがアップさ れています。(mes #519) タイトルは「ARION預言(A)」です。  ちなみに当該部分を引用しますと、 「通信衛星は3つの目的のためにある。一つは本来の通信のために、もう  一つは相互監視のために。そして、最後の目的は、太陽系第3惑星地球  外からの訪問者のため。」                       はな - FARION MES( 9):神々の曼陀羅 ★ 歴史と宗教を巡って 95/11/09 - 653/653 NBB01420 SUKE 【三輪山】 ( 9) 95/11/09 02:27 桂 桂さんが皆神山と並んで人工山の代表と挙げられた三輪山を次に取り上げ たいと思います。 なお、ここに書く内容は、私個人が今まで関連図書から得た知識であって、皆 さんも部分的にはご存じの事が出てくるのではないかと思います。 出来れば実際に自分で踏査してみられれば良いのですが(^^;)        ==================== 【三輪山】 (みわやま) 奈良盆地東方の神山 標高400m 古名「三諸山」(みもろやま) はんれい岩の美しい円錐形の山。 山麓の大神神社を拝殿として、山全体がご神体として祀られている。 祀神は大物主神(おおものぬしのかみ)と言う蛇体の神で、古代出雲文化圏の 中心地と推定できる。 登山制限:通れるのは一本の登山道だけで、反れてはいけない。      頂上の巨石には鉄条網が張られている。      巨石の撮影禁止。      登山目的は信仰登山に限られている。 奥津磐座:(おくついわくら)      山頂の台地の奥にある巨石遺構で、神聖視されている。      楕円形(30m×10m)に巨石が並ぶ。 箸墓の石:(はしはかのいし)      山麓の遺構。日本書紀の依れば30km程離れた大阪山から運ばれ      たものとされ、石質は大阪山と同じである。 <祀神と太陽神についての一説> 大物主神は蛇の化身である。「三輪」は「蛇輪」とも書き、古代民族の英知の 象徴と言われる「己の尾を飲み込む蛇」=「ウロボロス」を暗示する。これは 「太陽の紋章」ともされ、また、錬金術でも最重要視されたと言う。 従って、大物主神は太陽神であり、三輪山は太陽神を崇めた古代先住民族と目 される「三輪族」の聖山であったのであろう…。 ※三輪山一帯には滅び去った太古の磯城帝国の王宮伝説がある。 ※三輪山付近の古名を登美と言う。        ==================== この大神神社についてはTAOさんも色々興味あるところではないですか?(^^)                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/11/09 - 03891/03902 GGA02514 KAZE シュタイナー:薔薇十字会の神智学●VII-2:カ ルマ (13) 95/11/07 18:03 コメント数:2 ●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 <VII-2/カルマ2> --------------------------------------------------------------------------- さて、続けましょう。   人間はいつでも自由に、カルマの帳簿に新たな計算の内訳を記入できるのです。   ですから、人生は人間の手では変えることのできない運命の法則に支配されて   いると思うべきではありません。カルマの法則によって自由が妨害されること   はありません。過去からのカルマを考えるのと同様、未来へのカルマを考えね   ばなりません。私たちは過去の行為の作用を受け、過去の奴隷なのですが、未   来の主人、支配者でもあるのです。良い未来を創造しようと思うなら、可能な   限り良い内訳を人生の帳簿に記入していかねばなりません。(P97)    自分を商人であるとしてみましょう。 帳簿に貸借を記していきます。 これまでにたくさん儲かったのなら、黒字経営でしょう。 しかし、借金をたくさん抱えているとしたら、そのままでは倒産してしまいます。 借金がたくさんあるからということで、それからも借金をし続けると、 その倒産の時期はますます早まります。 不当たりをだす前に、なんとかしなければなりません。 その不当たりを出すかどうかは、今、そしてこれからの自分次第であって、 不当たりをだすのを宿命的にとらえるというのは、正しい考え方だとはいえません。 また、今黒字だとしても、それがこれからも続くとは限りません。 帳簿を黒字にしつづけるためには、それなりの努力が必要になります。 過去の自分の行ないによって赤字になっているのも黒字になっているのも自由であり これからの自分をどうしていきたいかによって、 自分の行ないをどうしていくのかもまた自由です。 しかし、どのようにすれば、帳簿が黒字になるのかを知らなければ、 黒字にするための具体的な実践方法がわからなければ、 そのせかっくの自由を生かすことができなくなってしまいます。 だからこそ、「カルマ論」が必要になります。 自分の望む家を建てるのは、それなりの設計が必要になります。 設計図に基づいて具体的な建築を考えていかなければなりません。 そしてなによりも、実際に家を建てなければ、それは家ではありません。 つまり、実践なきカルマ論は無益であるということです。 また、そうしたカルマについての考え方をさらに展開させることが必要です。   誰かが苦しんでいるのを見て、「彼は苦しむに値する。彼は自らのカルマに耐   えねばならない。もし、私が彼を助ければ、彼のカルマに干渉することになる。   それは愚かなことだ。彼の貧困、不幸は前世からの結果だ。もし、私が彼を助   ければ、彼のカルマの帳簿に新しい内訳を記入することになる」というのは愚   かなことです。助けることで、その人を進歩させることができるのです。千マ   ルクないし、一万マルク貸せばその商人の破産を救えるのに、「いや、そうす   ればあなたの帳簿が変わることになる」というのは愚かなことです。−−カル   マの関係においてはどのようなことも作用を及ぼさずに消え去ることはないと   知っているために、その人を助けようとするのです。カルマの法則は私たちを   行為に駆り立てるものでもあるべきなのです。(P98)    この考え方は非常に重要なことです。 カルマの考え方は、人を非難するためのものではないのです。 それは、「愛」の思想にほかならないからです。 もちろん、それが甘やかしになってはいけませんが、 それは「キリスト衝動」であり「大乗」の実践でもありますから、 自分の未来に向かうプラスのカルマの創造を実践することと同様に、 人の未来創造のためのカルマ形成に寄与できるという視点を 決して忘れてはならないわけです。 シュタイナーの教育についての考え方も、 そうしたカルマへの干渉を恐れないということを前提にしたものです。   誰かが悲惨な境遇にいて、自分が恵まれた境遇にいるとすれば、その人を助け   ることができます。その行為を通して、その人の人生に新たな条項を記入する   のです。力のある人は二人の人を助け、その二人のカルマに働きかけます。も   っと有力な人は十人、百人の人を、非常に偉大な人は無数の人を救済すること   ができます。このことは、カルマ的な関係の原理に矛盾するものではありませ   ん。カルマの法則を信頼することによって、このような救済行為が人間の運命   に関与することがわかります。(P98-99)    ここで大事な視点を忘れてはならないと思います。 そうした救済する行為は、救済した人の宝物にもなるということです。 ただただ困っている人を、困っている人のために救うというのだけではないのです。 それは、自利が即、利他であるということにほかなりません。 そうした視点を持たないと、自分の慈善行為に溺れかねません。 「わたしは、人のためにというのだけではなく、 そうしたいから、自分のためにも、そうしているだ」 そうした視点を忘れてはならないわけです。 人のカルマへの干渉という行為は、 まさにそうした自利即利他としての愛であってはじめて意味をもちます。 お布施というのも同じです。 「お布施をしてあげた」というのではなく、 「お布施をさせていただいた」というのが本来の視点です。 托鉢というのは、物乞いではありません。 感謝すべきなのは、お布施をさせていただいたほうなのです。   キリスト存在が地上に下ったとき、人類は救済を必要としていました。救世主   の十字架上での死は、無数の人々のカルマに関わる救済行為でした。キリスト   教的秘教と神智学、霊学との間には矛盾は一つも存在しません。両者を正しく   理解することが大事なのです。カルマと救済の原理との間には深い一致が見ら   れます。(P99)    「郵便ポストが赤いのもみんなわたしのせい」という冗談がかつてありましたが^^; まさに、どれだけのことを自分の責任であるととらえるかによって、 その人の器がわかります。 キリストは、全人類のことを自分の責任としてとらえたわけです。 ですから、明らかに自分の責任であるにもかかわらず、 責任を回避するどころか、人に責任をなすりつけるような人物の器は、 推して知るべしといえるでしょう^^;。 「どれだけを自分の責任としてとらえることができるか」 そのことを、自分の魂の成長の度合いとして理解するのもいいかもしれません。 そいえば、自分が悪いのに、自分にはまったく責任がない、とか言い張り、 そのうえに、弁護士事件などまで起こして騒がしている人がいますよね^^;。    (第7章・第二節終了/以下、続く) ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03897/03902 GGA02514 KAZE もてなしの心、来ぬ客を待つ (13) 95/11/08 14:48 03860へのコメント ジョリーさん、少し、レスが遅くなりました^^;。 >やっぱり、どのような状態においても、相手の可能性をこちらから >潰すようなことは、自分の可能性も潰すことになりかねませんから。 >でも、その相手が、自分で自分の可能性を潰しているとなると(^^;)、 >どうしていいものか・・・。 本人のことは本人しか責任がとれないないので、仕方ないわけですが、 性急にならないで、相手の可能性と同時に自分の可能性を見いだそうとする試みは できるだけ続けていきたいものですね。 少なくとも、「何からでも学べる」という貪欲さがあれば、 何らかの問題が起こるということは、ひとつの宝物でもあります。 その宝物を、ゴミとして片づけるか宝物として見るかというのは それに関わった人の姿勢次第ですから、環境にやさしくできるように(^^)、 ゴミはできるだけ出さないようにするのがいいと思うのです。 もちろん、ただただ楽天的でいることはできませんけど、 少なくとも「待つ」ということの可能性だけは見逃したくないものです。 >人の心というのは、本当に通じにくいですね。でも、それで対話を >諦めてしまえば、何も残らないのではと思うんです。 ほんとうにそうだと思います。 参加された方がこの会議室に愛想づかしをするのだとしたら、 それを引き留めるような無粋なことはするつもりはありませんが^^;、 少なくとも、この会議室で発言しようという姿勢さえあれば、 あきらめないでいようと思うのです。 そうそう、会議室を続けていくにあたって、 「ああ、こういう姿勢が理想だなあ」という話を読みました。 MES3のメディア会議室で、先日から「風の本棚」というシリーズをはじめたのです が そこでご紹介した友常貴仁「大和古流の躾と為来」(三五館)のなかに、 「もてなしの心」として述べられていることです。   "もてなす"というのは、人と人との付き合いにとってたいへん重要なことです。   日本の代表的文化でもある香道、茶道というのも、その作法の源は、もてなし   の心といっても過言ではありません。そして、もてなしの心の集大成とは、そ   こにはただもてなせばよいというのではなく、上品にという格が備わっている   のです。   ・・・   来客がある時は三〇分前には、すべて準備を整えて終わり、十五分前には香をた   き、打ち水をなし、玄関の戸が手取り一寸ほど開けられます。ですから客は、打   ち水がされ香のかおりが漂う世界へ訪問することになり、もうその家の当主に会   う前から、   「お待ちしておりました」   と言う声が聞こえてくるように感じられるのです。      (P38)    さらに、「来ぬ客を待つ」という話を。   来る約束をして待つのは当たり前です。"来ぬ客を待つ"−−茶人と自負するから   には、日々毎日、庵の炉辺に火を入れて、いつ客の訪問があっても一服の茶がふ   るまえるように心せよというのです。   その昔、利休居士が侘び茶人と自負する者と連れだって、京の都は東山の花見に   いった折りのことです。   利休居士「そなた、庵に、釜をしかけておいたか」と問うたのです。   侘び茶人「今日じゃ、朝方よりあなた様とのお約束にてしかけてはまいりませな        んだ」   利休居士「いや、いや、そのようなたしなみで侘び茶の茶の湯ができような。夕        暮れに誰ぞ立ち寄らぬとは限らぬ。」   と言って諭し、庵へ返したというのです。         (P42-43) こんなもてなしの心、来ぬ客さえも待つ心で、 会議室をお店開きしていければいいなあと感じた次第です。 茶の世界とこういうパソ通の世界を比べるのはおこがましいのですが^^;、 どちらも「一期一会」という意味では同じ事。 心したいな、と思っています(^^)。 >今年もあと二月を残すのみとなりましたね。今年の僕の重大ニュー >スの一つは、この会議室に巡り会えたことかな(^^)。 そう言っていただけると、ほんとうにうれしいです(^^)。 これからも、じっくりとこの庵でお付き合いいただければ幸いです。 ☆☆☆KAZE☆☆☆