カイとしてカイである者、真珠の泡沫に乗り虹の光彩を得るだろう - FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 95/11/12 - 04809/04809 KFQ02761 しまうま RE:うわーパニックだー ( 2) 95/11/12 03:11 04779へのコメント #04786 めのうさん #04789 あもりさん #04801 たいきゅうさん  まとめレスで失礼しますm(__)m。(ワシも含めてひらがなばっかやのー(^^;) めのうさん :'96春夏は各メゾンでアニマルプリント、特にゼブラ模様を打ち出している :とかで、  いやー、そろそろブレイクするんじゃないかと思ってたのよ。ようやく時代 がオレに追いついてきたって感じかな(轟沈)。 あもりさん  正月もこのまんまだったりして……って、洒落になってないからなー(^^;。 たいきゅうさん  忙しいのはお互い様みたいですね(^^)。僕も以前ソフトハウスに勤めていま したが、そこでは「アルファ版」「ベータ版」「シルバー版」「ゴールデン版」 ときて、もうそろそろ打ち止めだろうと思っていたら、その後も「プラチナ版」 があって、さらに「ダイヤモンド版」「マスター版」と続いて、ようやく出荷 にこぎつけるのでした。ほとんど宇宙戦艦ヤマトの映画状態(^^;。「プラチナ」 あたりからもういい加減イヤになってました。うーん、今となっては懐かしい。 では、どうぞお体にお気をつけて(^^)/"。                           しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 95/11/12 - 00989/00989 HFB02065 天介 369の世が開かれる ( 3) 95/11/11 16:13   長谷章宏さんの3部作、最後の1巻を紹介します。 。。。この文は、人類史上初、 神の智を人間と言うフィルターを通して語った「真理」であるぞ。 すべてのすべての問題を解結する決定版であるぞ。 「日月神示」「火水伝文」というのもこのかたからの文であるぞ。 この本はその超訳であるぞ。 「神示」を難しいといって避けているものが多いから、 神のルールを体験した人間を通して改めて文を出したのであるぞ。。。。 西暦2000年ミロクの世が開かれる たま出版 1300円 - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/11/12 - 00215/00220 KFR02037 ひょうたん ぽんぽんぽんぽんぽぉんん ( 6) 95/11/11 13:12 コメント数:1 >「衣擦れの音鮮やかに独楽落し(コマオトシ)に沸き立つ家殿、鬼来たり」   うみゅぅ〜、なんか桃太郎侍の高橋英樹を連想してしまった…                     ザワザワ ひょうたん ザワザワ 00216/00220 JCF00616 優位 RE^2:あと一歩 ( 6) 95/11/11 22:36 00213へのコメント  #00213 しまうま さん  レスどうもれす(^^;) | そういや話は変わるけど、ハローメッセージをHMって略したのって優位く |んが最初だったっけ?(つまらん質問でゴメン(^^;)  実はそうなんです…(^^;) なにせタイプ不精なもので、ついついなんでも  略したくなるんですよ(笑)  ハローメッセージ、これだと13回キーを押さなければなりませんが(ローマ字)、  HMだと2回で済むものですから…。                      なははのは 優位(JCF00616) - FARION MES( 9):神々の曼陀羅 ★ 歴史と宗教を巡って 95/11/12 - 655/655 NBB01420 SUKE 【三輪山】山体空洞説と大和三山 ( 9) 95/11/11 21:46 653へのコメント 三輪山には諸説憶測多数あると思いますが、ここでは特に大和三山との関係か ら山体空洞説を紹介します。        ==================== <大和三山との関係について> 大和三山(畝傍山、天香久山、耳成山)との幾何学的位置関係は以下の通り。  畝傍山−三輪山 は 冬至線 で、延長先が 忌部山  耳成山−三輪山 は 夏至線 で、延長先が 風巻山  大和三山は畝傍山を頂点とする二等辺三角形位置にあり、上記冬至線はその  垂直二等分線にあたる。 <山体空洞説> 山頂の巨石群の内、注連縄を張ったもの同士を直線で結ぶと、大和三山の三角 形と相似形になる。そこで、この巨石配置が奈良盆地の山々を表す地図だと仮 定すると、三輪山を示す巨石だけが割れ、その隙間をなお拡げてある。 また、三輪山の古名「みもろ」は御室(みむろ)=空間 に通じる… 冬至線を示すメキシコのピラミッドには「太陽の抜け道」と言われる地下道が 東西に設置されている。三輪山にもそのような地下道があるのかもしれない?        ==================== と言うわけで、宗教的な禁制地区なんでしょうから、地下道を調べるなんてこ とはなかなか出来ないんでしょうね。 それにしても、山頂の巨石って本当に地図みたいな配置になっているんでしょ うか?                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 95/11/12 - 00691/00692 MXF01761 たけくま オタク論(1)ポジティブな「オタク」 (12) 95/11/12 09:33 00684へのコメント レスが遅れてすみません。気がついたら拙文に対する多くのコメントが寄せられ ていて、嬉しい悲鳴を上げています。「必ずレスする」と書いた手前、ひとつひ とつ返答差上げるべきところですが、現在「年末進行」という出版人特有の危機 に見舞われております関係上(笑)、当面はこのコメントで勘弁してください。 以下の文章は >>#684 桂 桂さん 宛てのコメントの形をとっておりますが、他の方々へのレスの意味合いも含まれ ています。ごめんなさい。 ★ さて…… #684を読む限り、桂さんは自らを含めた「オタク」に対して一種ネガティブ なとらえかたをされているようにお見うけします。が、僕の意見は少し違うんで す。僕は「オタク」というものを、高度成長以後の「豊かな社会」に適応しつつ ある新しい「大人」(の、少なくともプロトタイプ)なのだと認識していまして、 従ってその意味で、できるだけポジティブにとらえたいと考えています。 ちょっと長くなりますが、僕なりの考えを書いてみましょう。 現在私たちが「大人」と呼んでいる価値観は、物不足・低成長の時代に成立した 価値観なわけです。彼ら(我々の親たち)は、戦中戦後の「物不足」が身にしみ ている世代ですから、とにかくも「物質的な生産」が至上命題だったわけですね。 その意味では、物質的な「生産、生産」で突っ走っていけるうちは、その価値観 で生きることができる者が「大人」で、それ以外は「子供」か、ないしは社会不 適合者として切り捨てることができた。 しかしここ20年の我が国の状況は、そうした従来の「大人観」が根底から揺ら いできた時代だと言えるのではないでしょうか。つまり、「豊かになろう」とい う一心でこれまで走ってきたが、気がついたら本当に豊かになってしまった。こ れ以上生産を続けたとしても、資源の枯渇や公害などの弊害が起こるだけである と。 ★ ここで心ある「大人」は愕然としたわけですね。なぜなら「豊かになった後」の ことを何も考えていなかったからです。これはちょうど、子供の頃から東大入学 だけを目標に猛勉強を続けてきた人が、いざ東大に合格してしまって生きる目標 を見失うのと同じではないでしょうか。 70年代に入ってエコロジー運動が盛んになったり、あるいはヒッピー・カルチ ャーや、「現世利益」に重きを置かない新宗教が盛んになったりした背景には、 こうした危機感があるのでしょう。一方、社会性を切り離して個人の趣味に没頭 する「オタク」の発生もまた70年代に入ってからでした(命名されたのは80 年代ですけど)。これらはすべて「生産社会に対するアンチテーゼ」という意味 で、根は同一だと僕は見ています。 「豊かになった後」に生まれた我々の世代(30代以下)は、まさにこうしたジ レンマに直面していると思います。なんとなく親の価値観についていけないもの を感じているが、でもどうすればよいのかわからない。それでボーッとしている と、親や世間が「なにしている。もっと生産しろ!」とハッパをかけてくる。 もちろん親の世代にはそういうことを言う「必然」があるわけです。つまり、彼 らは本当の「飢え」を知っているから。しかし、それに立脚した価値観を無条件 に子供に押しつけるのは、はたしてどこまで有効なのでしょうか? 前提としてシビアな「飢え」を経験していない「子供」の側にすれば、これは戸 惑うしかないのではないでしょうか。 ★ ここで子供が取るべき道は限られます。ひとつは、現在の状況を「まだ豊かでは ない」と仮定して、より生産につき進むか……。しかしこれは無意味に無意味を 重ねる行為ですから、じきにバブル経済という形ではじけることになります。 もうひとつは「オタク」になって「趣味」の世界に埋没する。これ、僕は「豊か な時代」の立派な(?)適応行為だと思うのですが、こういうものは、親の価値 観ではまったく無意味にしか思われないのですね。 となると、最後には親が体験したような「飢え」をあえて追体験する道しか残さ れていないことになります。そのことによって親と同じ土俵に立とうとするわけ です。僕や一輝さんがかつて「家出」をしたことなんか、まさにこれですね。と ころが不思議にも、これが親の一番いやがる道なんですから、世の中うまくいき ません(笑)。 親にしてみれば、それは自分たちがこれまでやってきたことを一挙にチャラにす るような行為なのでしょう。「せっかく苦労してお前たちを育ててきたのに……」 というわけです。しかし子供の側にしてみれば、自ら「飢え」を体験しなければ、 永遠に親の言葉は理解できないわけだから、必死なんです。 ★ おそらくこの「飢え」と「豊かさ」をめぐる昭和ヒトケタ生まれとフタケタ生ま れの決定的断絶が、オウム問題を引き起こしたのだと僕は考えます。 オウムの連中は、ハルマゲドンを起こすことによって、「戦後」をもう一度やり 直そうとしたんでしょう。極めて好意的に解釈すれば、そのことで彼らはようや く「大人」としての「生きる目標」を見出すことができる。 と同時に、豊かな時代を本当の意味で直視せずに、自らの「飢餓体験」を担保に 子供に「豊かさ」を素直に享受させまいとする親の世代に対する「復讐」の意味 も込められている……といったら穿ち過ぎでしょうか(もちろんこれは麻原彰晃 そのものよりは、上祐や村井らの幹部によりあてはまることですが)。 しかしいずれにしても、その結果は「サリン事件」という、とんでもない悲劇を 生んでしまいました。これが悲劇であることは間違いがない。では、どこが間違 っていたのか? ★ 豊かになって、これ以上の「生産」は無意味となったときに、人間は何を目標に 生きればいいのか。……いま問われているのはこれなんですね。でも、それは決 して過去の人間の営為を「チャラ」にすることではないはずです。 人間カスミを食っては生きてはいけないわけです。その意味での物質的生産は絶 対に必要です。しかし「過剰な」生産はする必要はないわけですね。生きていく うえで充分な物質的生産が得られたら、そこで現状維持にとどめる。その上で、 物質的生産以外の何に価値をもとめるのか、ということです。 たとえばそれは物質的な豊かさではなく、心の豊かさだと言うこともできます。 おそらくそれはそうなのだと思いますが、ここで注意しなければならないのは、 現在我々が耳にする「心の豊かさ」なるものは、おうおうにして「物質的豊かさ」 の変形に過ぎないことが多い、というものです。ある種の宗教が標榜する「現世 利益」などというものは、僕にはそう思えます。 ここで僕が言いたいのは、ちょうど親の世代が「飢餓」を前提に価値観を築いた ように、「豊かさ」を前提にして新しい価値観を生み出すことはできないのか、 というものです。 それはおそらく「物質的生産」の先にある「精神的生産」ということになるので しょう。それは具体的にはある種の思想や宗教であったり、または芸術というこ とになるのかもしれません。 ★ 心ある「大人」の中には、早くも60年代からこうしたことを説く人がいました。 たとえば梅棹忠夫なんていう人が「情報産業論」を書く。きたるべき産業の主流 は物中心の産業から「かたちのないもの」を扱う産業が中心になるだろうと述べ、 その規範は宗教や教育産業、または芸術活動に求めるべきだ、なんて言ったわけ ですね。 現実に70年代から80年代にかけて、日本や先進国で生産される「商品」なる ものが「実質本位」から「イメージ本位」になっていきました。扱うものはまだ 「物」には違いないけど、イメージという「情報」が売れ行きを左右するという 点で、明らかに変わってきたわけですね。 おそらくこれを延長していけば、たとえば電子メディアにおけるデータの流通や その複製・改変・編集した結果できる「もの」が、情報社会の「生産物」という ことになるのでしょう。もちろんそれらは磁気記録媒体や電話回線といった「物 質」に依存することに違いはないわけですが、価値を置くべき比重がまったく違 う。あくまでも大事なのはソフトであり「内容」になると。 その意味での「情報産業社会」は、まだ来ていない。いや、現実的には“もう来 ているのだが、ほとんどの人はまだ気がついていない”のだと言えます。 ★ 気がついていないから、情報人間のプロトタイプたる「オタク」に対しても、旧 来の価値観で「役に立たない〓子供」として切り捨てようとする。ここに多くの 軋轢が生まれていることは、既に述べました。 また「オタク」の側も、「どうせ誰にもわかんなくていいんだ」とばかりに、世 をすねて自らの小さなアジールに閉じこもろうとする。(おそらく桂さんがオタ クに否定的な理由は、このことでしょう)。 しかし、従来の「物質生産社会」の価値観からすれば確かにオタクは非生産的に 見えるかもしれませんが、「情報生産社会」の価値観からすると、オタク的営為 をまったく否定することはできないと思います。 ここで「情報生産(知的生産)」はどういうものかと考えると、実はかなりの部 分が「物質生産」のアナロジーで考えることができるのですね。たとえば、物質 的商品を生産するためには「資源」が必要ですが、知的生産における「資源」は、 過去に生み出されたさまざまな「知識」や「イメージ」だと考えることができる。 オタクと呼ばれる人種にはコレクターが多いですよね。でも誰も「自分は紙や磁 気テープを集めているのだ」とは言わないでしょう。つまり彼らは知識やイメー ジを集めているわけです。そうした知識やイメージを「編集」すれば、それは立 派な知的生産物になります。 まあ現実には「アニパロ」とか「やおい」とか揶揄されるけど、作家だの芸術家 だのと呼ばれる連中だって似たようなことをやっているわけですよ。ただ彼らは 元ネタがわからないようにうまくやっているだけであって。物質世界で無から有 が生まれないように、イメージ世界においても無から有は生まれないと僕は考え ています。 で、そうして生まれた知的生産物は「流通」させることもできるわけです。たと えば僕がこうしてこの会議室に文章をアップさせることも、立派な流通です。ア ップされた文章(情報)に接して何かイメージが湧いた人がいたら、彼はそれを さらに「流通」させることもできる。こうしてイメージのキャッチ・ボールを続 けることで快感を感じることができれば、それが「利益」になるわけです。 こう考えると、「情報産業社会」なんてものはとっくの昔にやってきている。た だ物質に基盤を置いて「産業」や「利益」を考える人は、それに気づいていない だけのことです。うまく説明できたかどうかはわかりませんが、世間でいうとこ ろの「オタク的行為」なるものが、(彼らは無自覚かもしれないが)それはそれ で立派な情報産業であり、その適応形態だということがおわかりいただけました でしょうか。 たけくま 00692/00692 MXF01761 たけくま オタク論(2)竹熊流「旅人の論理」 (12) 95/11/12 09:35 00684へのコメント ★ 以上はかなり理想主義的に語った「オタク」像であって、現実はそうではないじ ゃないか、とお叱りを受けそうですね。最後にオタクのネガティブな側面と、そ の「対処法」を考えておしまいにしましょう。 ただしちょっと真面目な文章を書き過ぎたんで、ここからちょっとだけ「ふざけ た」ことを書くかもしれません。ただ本当にふざけているのかそうでないのかの 判断は、そちらにお任せします。ふふふふ…… ★ たとえば世間はオタクに対して「現実を直視せず、趣味に逃避している」といい ますよね。「生産社会が限界に来ている」という「現実」を直視してないのはど っちだ、と今の僕なら答えるところですが、確かに彼らの言うことにも一理はあ るわけですよ。 現実のオタクには「与えられた情報を、ただ享受(消費)している」といっただ けの人も多いわけですね。いや、ほとんどはそうだといっていいでしょう。それ は楽しいかもしれないけど、どこか虚しいですよね。たぶん、桂さんが > オタクというのは生産性を伴わないサロンという意味で「放浪者」です。 といってるのは、この虚しさを語っているのかと思います。 そりゃ生産性のない行為は虚しいですよ。それは物質的世界においても「消費」 だけでは虚しいのと同じです。しかし、たとえイメージの世界に住むオタクでも、 必ずしも「非生産」とは限らないことは、既に述べました。イメージをただ消費 するだけではなく、その「発信者」にもなりうる可能性が、オタクにはあるわけ ですね。 ★ でもね、僕はね、桂さんの「悩み」は、おそらくもう少し違うところにあるんじ ゃないかと思うんですね(間違ってたらごめんなさいですけど)。 世間から「逃避」するということは、世間というものがどこか「不自由」なもの だからでしょう。だからこそ、「自由」を求めて「逃避」するわけです。これは 僕、人間として自然な感情だと思いますよ。 問題は、逃避した先の「世界」が、思ったほど「自由」ではない、というところ にあるのだと思います。違いますか? たとえば僕自身胸に手を当てて見ると、たしかに世間のしがらみから「逃避」し ようとしてドロップアウトしたんですよね。 現実には僕は「受験」からも逃避したし「家庭」からも逃避した。とにかくその 場所にいるのが辛くてたまらなかったからです。ところがですね、そこから逃避 したにしても、相変わらず「辛い」わけなんですね(笑)。 まあ貧乏したとか社会的信用がなくてアパートを借りるのもままならないとか、 そういうこともあるけど、それはある程度覚悟していたからそんなに辛くはない。 何が辛いかと言ってね、たとえば僕は「受験コース」というものを拒否したわけ なんだけど、ところがそこから離脱してもまた似たような「コース」が待ち構え ているわけなんですね。 ★ 高校くらいまで僕は漫画家になりたかったわけです。それでそういう仲間とつき あい始めたら、まあ当たり前なんだけど、自分よりうまい奴がたくさんいるんで すね。で、ここでね、普通ならもっと努力してそいつよりうまい漫画を描こうと するものじゃないですか。 ところがね、ここが僕のしょうもないところなんだけども、目の前のライバルの 「先」を見ちゃうんですね。つまり、その「うまい奴」の先には「もっとうまい 奴」がいるわけなんですよ。漫画の世界でいうと手塚治虫とか白土三平とかね。 あるいは大友克洋でもいいけど、とにかくどんな世界にも超1流というのがいて、 そいつらにはどうあがいても「勝てない」ことが「見えてしまった」。 その時点で、僕は愕然としたわけです。ここで漫画を諦めてね、小説や映画の方 に行っても、結局は同じことなんですね。ドストエフスキーや黒沢明以上の作品 は「自分には絶対作れない」。 それじゃあってんで、作家になることは諦めて、たとえば「オタク」の道を究め ようとしますよね、ところがこの世界にも超1流はいて、コレクションひとつに しても、化け物みたいな連中がゴロゴロいる。 つまり、右を向いても左を見ても「受験戦争」と同じ原理がどの世界にも働いて いることに、ある日突然気がついてしまったんですね。 ★ で、自分がどうして「受験勉強」を拒否したのかが理解できたわけです。つまり 勉強するにしても、僕は東大に入るくらいじゃ満足できないわけですね。世界で 一番勉強のできる人間にならなきゃ満足できないんですよ。実際には3流大学も おぼつかない成績だったにもかかわらず(笑)。 そんなわけで、僕は20歳くらいのときに「自分は単なる凡人だ」という事実に おそまきながら気がついたんです。馬鹿でしょう(笑)。 凡人なら凡人らしく普通に学校通って普通に就職すればいいのに、それだけは嫌 だということで「逃避」したわけだけだから、いまさら後戻りしてもみじめにな るだけです。 ところがその逃避先で自分は凡人であるということを嫌というほど自覚してしま った。これはかなりこたえるジレンマで、しばらく僕は何をすることもできなく なってしまいました。 そんなある日、これは「私とハルマゲドン」でも書きましたけど、文化人類学者 の西江雅之さんの授業に出会ったんです。 ★ 僕は大学には行ってないんですけど、とにかくすることがないから、友達のいる 大学で勝手に授業を受けてた時期があるんですね。いわゆるニセ学生ってやつで す。東京芸大だったんですけど、その一般教養の授業で、たまたま西江さんの講 義を「自主聴講」したんです。 ここで僕はいきなり「旅人の論理」の話に触れたんです。目から鱗が落ちるとは、 ああいう体験を言うのでしょう。最初の授業で、西江さんは「文化とは何か」と いうテーマで、こういう話をしました。 「ここにいるみなさんは芸術家の卵なわけですね。おそらくみなさんは、みなさ んが暮らしているこの日常に不自由さを感じて、懸命にあがいていることでしょ う。日常にある種の疑問や違和感を感じて、そこから脱出しようとするのが芸術 家だから。  しかしですね、日常という檻を脱したら、その外には何があるのでしょうか。 実は、そこにはまた新しい檻があるんです。たとえばツッパリが学校という檻か ら脱出して暴走族に入るとする。すると、そこには暴走族のルールがあって、実 は校則より厳しかったりするわけですね。ヤクザになったら、さらに厳しい掟が あるわけです。  つまり、人間の世界は、さまざまなルールに支配された“檻”が、あたかもジ ャングルジムのように無限に連鎖している構造になっているんです。この“檻” が“文化”です。  人間が人間である限り、そうした檻から自由になることはできない。檻を脱出 しても新たな檻が待ち構えているだけだとすると、どうしたら人間は自由になれ るのでしょうか。  人間に、もし自由に至る道があるのだとすれば、それは檻を否定するのではな く、檻の間を往来すること以外にはありえません。檻そのものを壊すことはでき ませんが、移動することはできます。つまり、旅人になるのです」 この最初の授業を聞いて、僕はガーンと来たんですね(笑)。なんだ、そうだった のか、と。 ★ 西江さんは「才能」というテーマでこんな話もしました。たとえばここから百メ ートル先の看板にボールを投げて百発百中だったとすれば、その人の家にはアメ リカや日本のプロ野球界からスカウトが殺到するだろう。しかし、プロ野球が存 在しないフランスのような国では、せいぜいテレビのワイドショーに一回出演し てそれっきりだろうと。 これも「なるほど」でしたね。つまり、「才能」というものも「文化という檻」 に規定されているのであって、そこから外れた才能はどんなにすごいものでも 「無意味」なんだと。 だとすれば、反対にどんなに「無駄な才能」と見えるものでも、時代や地域が異 なれば「立派な才能」に変じる可能性も出てくることになります。これは、僕に とってはひとつの啓示でした。 こうした西江さんの影響もあって、僕なりに考えた「人生の指針」があります。 それは、もはや特定のジャンルで「プロ」になることをすっぱり諦めよう、とい うものです。つまり僕は一生「素人」のままでいいんだと。でも単なる素人では ない。「プロの素人」になろうと。 これはどういうことかというと、たとえばいかなる分野のプロでも、その分野を 離れてしまえば「素人」にすぎないわけです。ならば「素人」の勝負に持ち込め ば、僕にも「勝つ」チャンスがでてくるんですよ。 ★ たとえば曙と相撲をとったって僕は負けるに決まっている。しかし、漫画での勝 負なら、絶対に僕は勝つ自信がある(笑)。同様に、手塚治虫と漫画で勝負しても 勝てっこないけど、カラオケなら勝てるかもしれない。 なんだかずいぶん姑息な生き方に見えるかもしれませんが(笑)。でもね、何の取 柄もない凡人がラクに生きるには、この方法しかないんですよ。これを僕は名付 けて「全方位素人外交」または「人生60点主義」と呼んでいます。 ある分野で「プロ」を自称するには、おそらく80点はコンスタントにとらなき ゃ駄目でしょう。しかし60点なら素人でも取れる。でね、プロの60点は貶さ れても、素人の60点は誉められるんですよ。これがポイントです(笑)。 ★ さて「プロの素人」として、ここで問題になるのはいかにして60点のジャンル を増やすか、ということですね。たくさんあればそれにこしたことはないけど、 そうですね、5つもあればとりあえず充分ではないでしょうか。 あとは相手の得意な土俵(どのような“檻”の住人であるか)をすばやく見極め て、たくみに自分の得意な土俵にスイッチングする技術を磨くわけですね。これ さえ会得すれば、たいていの相手には「負ける」ことはありません。もちろん相 手の土俵は土俵として尊重するわけだから、「勝つ」というのとも違うんですけ どね、本当は。要するに、「勝ち負け」それ自体を無効にするわけなんです。 あえていうならば究極の「逃避」の技術。 これが僕なりの「旅人の論理」の実践編なんですよ。どうです、ふざけてるでし ょう(笑)。 いかん。これ書くのに徹夜してしまった。いかんいかん。今回はこのくらいで。 たけくま - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/11/12 - 03348/03350 HQK00566 S 「炎で書いた物語・番外編」 (14) 95/11/11 13:18 ** HQK00566/SOUND <11/10 12:20> ** 初めまして、SOUNDと申します。ぼくはコンピュータを買ってまだ日ガ浅い、通信 初心者です。五里霧中でソフトを動かしているうちにこのフォーラムの名前に惹かれ て入会しました。一通り過去ログを読ませてもらって内容の深さに驚きました。みな さんたいしたものですね。 「02010/03000 HGB03731 二木 聡 ちょっと、質問です。 94/04/26 02:19 」 で、二木聡しさんが童謡の謎に関する質問をされていたのを読んで以下のような文章 を書いてみました。ご本人が忘れてしまっているような化石化した過去ログのDNAか ら蘇ったジュラシック・RESとでも呼ぶのでしょうか。とすればぼくの書き込みはジ ュラシックRESばかりになりそうです。現在進行中の話題にたどり着くにはしばらく かかりそうですから。ソフトの使用法と首っ引きで何度も送信に失敗しているので今 度は うまく送信できますようにと祈りながらアクセスします、、、。 (注、初めての書き込みの割には少し長い文です。すみません) 「炎で書いた物語・番外編」 <とおりゃんせ>   わらべうたには意味がわかるようでわからないものがある。別に気にも留めずに歌い 遊んで大きくなって、いざ自分が子どもに教える立場になったとき、その意味を訊ね られても説明できないことにはじめて気がついて驚くことになる。 その代表が「かごめかごめ」と「とおりゃんせ」である。 このふたつのわらべ唄には時の封印がしてあった。そのために、だれもが知っている 唄でありながら説明を求められると、だれもが首をひねる、ということになった。  ぼくは以前、「かごめかごめ」は豊臣家再興の軍用金のありかをわらべ唄の暗号に して残してあって、それを解いた者が天下を取る、という伝説を聞いたことがある。 **************************************************************************** {かごめ、かごめ、かごの中の鳥はいついつ出やる 夜明けの晩にツルとカメがすべった うしろの正面 だあれ} **************************************************************************** 幼い頃の記憶の中に埋没していた、この一見、簡単そうで不可解な歌詞に秘められた ロマンに心惹かれて様々な暗号解読の方法を鍵に使ってトライした。だがどこにもピ ッタリの鍵はなかった。 「蔓と瓶が滑った」というのは、大阪城の篭の目のような形の井戸の底に鳥(財宝)を 蔓と瓶で沈めたのだ、と考えたりした。それは残念ながらあまりにも的外れな解釈だ った。出発点から外れていては目的地にたどり着くわけがない。どうどうめぐりをく りかえし、ついにはあきらめて、いつしかそんなことに興味をもったことさえも忘れ てしまった。  そして時は流れ、二十世紀も終ろうとする現在、様々な書籍やメディアで、かごめ 唄の謎の解明が進むのを目にする時代に入った。  時の封印がついに解けたのだ。しかし、ぼくはまだ「とおりゃんせ」の解読にはお 目にかかったことがない。こちらはまだ封印が解けていないのだろうか。  そんなことをあれこれ考えているうちに、ワープロの画面を見疲れた目が痛くなっ てきたのでしばらく瞼を閉じた。すると朝が早かったせいか、うとうとしてきた。  そのとき、丸い日の輪のようなまぶしい光が瞼の裏にまで射し込んで眠気が失せて しまった。  天気が良いので散歩に出ることにした。いつものコースより一足伸ばすと、お地蔵 様の堂のような小さな祠があった。お辞儀して、覗き込むと中に石が安置してある。 よく見ると表面に弁財天と彫ってあった。 「あれっ弁天さんだったんですか。お地蔵様かと思いました。これは失礼しました。 ところで弁天さんは何の神様なんですか」と訊ねた。 「智恵を授けています。英語でいえばインスピレーションという形で与えます。発明、 発見、学問、芸術を司っています」 「そうだったんですか。すみませんがぼくにも智恵をお分け下さい。今ちょっと財布 を持ってきてないんで、お賽銭は払えないんですが」 奉納と書かれた賽銭箱に気づいて、ぼくは空のポケットを叩いた。 「わたしは自動販売機ではありません。小銭で智恵のパックが転がり出るわけではな いのです。必要な人に必要な時、必要なだけ授けるのです」 ぼくは自分がどんな智恵を必要としているのか、すぐにはわからなかった。 「世界が動くような偉大なインスピレーションをいただけませんか」 とあつかましく頼んでみた。こんな機会はもう二度と来ない、と思ったのだ。 「それはあなたの分ではありません。あなたには荷が重すぎます。分不相応です。あ なたに今、必要なのは、(通りゃんせ)の謎解きでしょう」 「ああ、そうでした」 ぼくはその用事でここに来たのだ、と思った。 すると、辺りの小鳥の声が消えて車の騒音も途絶えた。どこからか歌声が聞こえる。 それは鼓膜がふるえて聞こえる音ではなかった。ぼくの内側から聴こえてくるのだ。 魂が共鳴している。 幼い頃、耳にした<通りゃんせ>とはまるでちがう澄んだ響きだった。  ぼくは頭を垂れてうっとりと立ち尽くしていた。 *************************************************************************** {とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの 細道じゃ ちょっと通して 下しゃんせ ご用のないもの通しゃせぬ この子の七つのお祝いに お札をおさめにまいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ通りゃんせ} **************************************************************************** 弁天様がその歌声の裏でゆったりと語り始めた。 「この唄はあなたがたが実在界から現象界(この世)へ降りる際に開かれるセレモニー の唄なのです。みんな生まれる前にこの唄を聴いているのです。まず、そのことを頭 に置いてください。そこから出発して考えれば、個々のことばの意味が自ずからほど けてきます」 と、弁天様は前置きした。  ぼくには実在界と現象界ということばの使い方がよくわからなかった。 弁天様の口ぶりでは、弁天様がいるのが実在界で、ぼくたち人間がいるのが現象界と いうことになる。ぼくたちは元々、弁天様と同じ世界に暮らしていてそこからこちら にやってきた、ということらしいのだ。その時、開かれる儀式の唄が(とおりゃんせ) である、という。  ぼくが一応、理解を示した様子を見届けて弁天様は続けた。 「かごめ唄もそうですがこの唄もほとんどの語が二重三重の意味をもっていて複雑に からみあっています。 (とおりゃんせ) ------ 表面上の意味は(お通りなさい)ですが陰意は(十理あんせ) です。 十理とは十の理、十は神を示す印、縦の棒をカと発し、横棒がミ、カミの理(ことわ り)ということです。 かごめ唄の(かごの中の鳥)、鳥(トリ)すなわち、十理も同じことです。 (十理あんせ)とは神の理がありますように、という祈言(のりごと)、すなわち祈りの ことばです。 (十降りやんせ、十居りやんせ)と書けば見えてくる、(神様、降りてください、居て ください)、という祈言でもあります。意味を知らない子どもたちでも<とおりゃんせ >をくりかえして歌えば、その音霊(おとだま)、言霊(ことだま)は力を発し、神の理 を実現するのです。神の理とは物理を超える神理(真理)です。 (ここはどこのほそみちじゃ) ----- (ほそみち)には多くの意味が隠されています。 まず、表面的には細い道、すなわち天神様への狭い参道ですが隠された文字は、臍道 (ホゾミチ)なのです。ホゾとはヘソ、ありとあらゆるものの中心、そこに天神様が座 します。 ミチは道、未知、霊智の意を含む深いことばです。 天神さまの参道とはだれもが通ってくる、母の産道であることを知れば、細道が臍道 であることが見えます。 現象界は物質界なので現象界で働くには物質としての肉体が必要となり、魂の一生の 乗り物として個々の肉体をいただいてこの世に下ってくるのです。 (ちょっと通して下しゃんせ) -------------天界から臍道を通して地上界へ下(くだ) しあんせ、と頼んでいるのです。 (ご用のないもの通しゃせぬ) ---------もちろん、だれでも用もないのにこの世に下 ろしてもらえるわけではなくそれぞれの役目、使命、ご用を授かった人だけが選ばれ て生まれてくるのです。 (行きはよいよい) -----行きは息、生き、意気、の意を含んで、この世に生まれるこ との希望、喜びを指しています。 (帰りはこわい) -----行きの反対、帰り、すなわち死への畏れと、現世で犯した罪に 対する死後の裁きの恐怖を顕しています。 (こわいながらも通りゃんせ) -----死や裁きがこわくとも覚悟を決めてお通りなさい、 と念を押しているのです。  すべての方は大切なご用を果たすために決心してこの現象界へ降りてきたのです。 この世にある間にそれぞれのご用を立派に全うしてください。  あなたがたが長い間、忘れてしまっていた、(とおりゃんせ)の様々な意味を時折、 思い出して気持ちを新たにしてください。神理(真理)達成の時代は間近です」  ぼくは椅子からずり落ちかけて、はっと目覚めた。うとうとしてからどれほどたっ たのだろうか。今のぼくの役目はこのことを書きとめておくことらしい。   ぼくは瞼をこすりこすり、ワープロのキイを一つずつ確かめながら打ち始めた。 「炎で書いた物語・番外編」と。 03349/03350 JCF00616 優位 めざめ (14) 95/11/11 22:57 03347へのコメント  #03347 平松 賢介 さん  こんにちは、はじめまして(^^) | はなさんは感じませんか。新しい価値観を持った人々が、ここ最近続々と社会の |表側に現れだしたことを。(改行編集)  これについてですけれど、最近は(94年終わり頃から始まって、95年の初頭か  ら急激に)現れてきたなぁ、と感じていました。平松さんも同じように感じてらっ  しゃったのですね。  特徴的なのは、宗教や、精神世界といった、ダイレクトにアプローチする分野から  ではなくて、むしろ、別な切り口からのアプローチが目立つような気がしています。  顕著なのは治療関係、現代医学、経済…からのもののようですが、どれも人間の生  命活動に関わるだけあってか、真剣な内容のものが多く、また論理もしっかりとし  ているので、世間一般に対しては胡散臭さを与えるような新興宗教の類よりも、一  般の人達にとっては馴染みやすいのでしょうね。  ですから僕はこの状況を好ましく受け取っています。  もっともっと橋渡しのできる人材が増えてくるといいと思います。                          優位(JCF00616) 03350/03350 KFQ02761 しまうま 独楽 (14) 95/11/12 03:38 :衣擦れの音鮮やかに独楽落し(コマオトシ)に沸き立つ家殿、鬼来たり  6番にもちょっと書きましたが、独楽=高麗(コマ)という関連は考えられるよ うな気がします。「独楽落し」とは「傀儡が政権の座から滑り落ちること」で しょうか。いや、「独楽」は「落とされる」わけだから、「傀儡が政権の座か ら引きずり下ろされること」かもしれません。また、政権に限らず今後傀儡系 の勢力は衰退していく、ということなのかもしれません。  また、ギリシア語で「coma」というと彗星の髪の部分を指すそうです。来年 春の彗星到来で沸き立つ頃に、鬼もくるのかな?とも思いました。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 95/11/12 - 708/708 QZY01267 猫の手 大切なこと (19) 95/11/12 08:29  分からなかった  どうしたらいいか分からなかった。  どうしたら安らげるか分からなかった。  どっちを向いても希望が見つからない。  そんな気分の中、  私はそこにいた。  意識を目覚めさせること。  ただ目覚めさせること。  自分がしているひとつひとつのことに  意識を集中し、  自分がしている総てのことに  注意を向けること。    ひとつひとつのことに細心の注意を集中させ、  注意深く注意深くやるのです。  他に気をそらせてはいけません。  自分のしている手順に全面的に注意を向けるのです。  手順を完璧にして、  細心の注意を払ってやるのです。    自分が信じていることを自分でやるのです。  意識の総てを完璧にこなすことに使うこと。  誰が何を言おうと、  誰が間違ったことをやっていようと  それは問題ではないのです。  大切なのは、  意識を集中させること。  意識を他に移したときに  不幸の扉が開かれる。  ただひたすら自分に意識を向け続けること、  他人のしていることが気になり出したとき  地獄の門が開かれる。    一心に祈ること  ひたすら祈ること。  ただひたすら。  自分の決めた手順に乗っ取り、  ただひたすら祈ること。    そのとき忘れてられる。  自分のやることに一心に注意を向けているとき  忘れてられる。  忘れてしまっているときがもっとも幸せ。  忘れてしまっているときがもっとも幸せ。  忘れてしまったことさえ忘れてしまっているとき、  一番幸せ。    誰かのしていることが気になり出したら苦しくなるだろう。  誰かのしていることが気に入らなくなったら不幸になるだろう。  大切なのは、自分自身に注意を向けてること。  大切なのは、集中していること。  自分の決めた手順に沿って、  ただひたすら祈ること。    祈り続け、  ただひたすら祈り続け、  深く深く自分に注意を向けていくこと    そして、  知るだろう。  そして、  出会うだろう。  そして必ず  感じることだろう。    大切なのは  『今ここに在ることだ。』って。