獅子の咆哮天地を揺るがし、新たなる龍の息吹は血と水に影響する - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 95/11/17 - 06534/06534 JCF00616 優位 RE:ARIONからの伝言 ( 7) 95/11/16 17:28 06532へのコメント  #06532 みれ さん |   あなたがたの生命の中に巣食う反剋から生じる虚無は、  反剋という単語が出てきましたが、はんこく、ほんこく、たんこく、はんかつ、  ほんかつ、たんかつ、のいづれで引いても(広辞苑&漢和辞典)見つかりませ  んでした(^^;)  ひょっとすると、これはARIONのタームなのでしょうか?  もし意味をご存じであれば、教えて下さい(。。)  あと、虚無ですが、こちらにも色々な意味があるようですね。  広辞苑第四版から該当部分を抜粋してみました。  きょむ【虚無】      1 何事もなく、むなしいこと。空虚。      2 虚空、大空。      3 老子の説。有無相対を超越した境地。天地万物は一と称する認識        を超越した本体より発生するが、それには形状がなく、見ようと        しても見えず、聞こうとしても聞えない。そこで虚無という。  ニヒリズム【nihilism】      1 ツルゲーネフが小説「父と子」の中で既成の秩序・価値を否定す        る主人公をニヒリストと呼んで以来、当時のロシアの革命的民主        主義者がこの名で呼ばれるようになり、後に一般化した。      2 真理や道徳的価値の客観的根拠を認めない立場。虚無主義ともい        う。古くは老荘の哲学、仏教の空観。近代ではニーチェ、二〇世        紀ではシェストフ等。      3 伝統的な既成の価値や秩序を否定し、生存は無意味とする態度。        これには無意味な生存に安住する逃避的な傾向と、既成の文化や        制度を破壊しようとする反抗的な傾向とがある。  たしか、「虚無傾向に陥るな」といったメッセージがあったように記憶してい  るのですが、そこから判断すると、ニヒリズムの3番目の意味に近いのでしょ  うか? 「虚無」は見るところ、肯定的に使われる言葉ではないようですし。  先程、反剋という言葉ともあわせて考えると、この広辞苑の中の定義では、  虚無=破壊しようとする反抗的な傾向をもつ態度。…となるのでしょうか。す  ると、反剋というのは、反抗と同じような意味になるんでしょうか(発音が似  ているだけだったりして(^^;))。そうすると、反剋は生命活動のひとつだと  書かれてあるので、破壊しようとする反抗的な傾向も、生命活動のひとつとし  て捉えていいことになりますね。  ととと、ここまで考えて更に見てみると、「冷徹」という言葉がありますね。  またまた辞書で引いてみると、「冷静で物事の本質を見通していること。」と  ありました。物事の本質を見通す、という点からすると、ニヒリズムの二番目  の語義である、虚無主義に近いものがあるような気がしてきます。【虚無】の  一番目の語義にもあったように、老子の説と物事の本質は似たものを感じます  から、この場合はこちらの虚無主義として捉えることになります。  さささ、更に思い出したことですが(^^;)、『光よりの光』には、「サトリと  ニヒリズムの関係」と題された文章が載っていますね。  「感動という言葉が出たついでに、少し触れてみたいことがある。それは、絵   画に限らず芸術一般にも、人々の生活にも浸透してきている、ある種のニヒ   リズム的傾向のことだが、以前のニヒリズムとはまったく違い、ニヒリズム   と呼ばれることさえも否定しているような動きのことだ。」  「何をしても頭で考えることしかできないタイプの文化人は、それでも自分た   ちを超越した人間、つまりある意味でのサトリに近い人間だと印象づけたい   ために、ポーズを考えだした。」  「生命力を感じさせない絵画がニューヨークで主流だと、それはまさにニヒリ   ズム的な傾向を押し進めるための計画の影響だと、我々は見ている。」  「このニヒリズム的傾向は、人々に「このままでいいじゃないか」という「い   かにも現状維持風、実は停滞」という夢を見させる。」  「新皮質にたくわえられた情報で旧皮質をいかに管理しようと、人体は生命維   持の方向で、日々向上しようとしている。その生命維持のエネルギーさえも   否定する方向の動きがオシャレであると感じさせる計画を、知らずと言えど   も荷担している文化人と呼ばれる人たちにも罪はある。」  …もうちょっと考えてみますね(^^;)                          優位(JCF00616) - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/11/17 - 03357/03359 KHC01313 まるにちょん 十種神宝は、王位継承の証 (14) 95/11/17 04:33 >はじかみの色立つ午後、酒匂(サカワ)の戒めが解かれる…十種神宝  防備録的に書いてみます。思いつきなので、分かり難いことは勘弁してけろ。  まず、数字で見てみます。 はじ=84、午後=55、5+5=10=十種 さかわ=3か8  はじかみ=山椒の古称、春に小さな花を咲かせる。実は、香辛料でピリリと辛い。      =恥噛む  午後=晩    =終焉近く  色立つ=色が際だつ     =緊張して色めき立つ、怒りなどで顔色が変わる。  酒匂=酒で酔わされている状態    =逆輪、または、逆鰐口(槍や小刀の柄、器物の柄を包む金属) 十種神宝=AMA族の王位(皇位)継承の証      スサノオが、その子オオトシ(後にニギハヤヒ)を大和入りさせると      きに授けた天璽(アマツシルシ)の瑞宝(ミズノタカラ)であった。      今どこにあるとも分からない。      詳しくは「神々が明かす日本古代史の秘密」中矢 伸一著を参照して      下さい。(この本の内容は、ARIONとの共著になっています。) 酒匂(サカワ)の戒めが解かれる。 3か8の戒めが解かれる。 3はニギハヤヒを、8はスサノオを表す数と考えます。 では、どちらかの封印が解かれて、本格化的に動き出すことなのでしょうか。 さて、解釈ですが、 はじかみ葉のの色が際だつ晩秋、もしくは、はじかみの花咲く晩春、 戒めを受けて、歴史から消された恥を噛んで怒りに燃えたときも終わ りに近づいた、 酒に酔わされたようにして催眠状態にあったニギハヤヒかスサノオの 神霊は、目覚める。 よって、十種神宝は開かれる。(国土(クニツチ)は甦る) 後半は、こうとも解釈できます。 逆さになった歴史(改竄された歴史、本来の日本の大王はアマテラス ではなく、スサノオ・ニギハヤヒであること)が明るみにでる。 よって、本来の皇位継承の十種神宝は、なんらかの自然現象で表に現 れ、歴史の真実を証す。 ぶっとび過ぎかな(^^; では、また。                   まるにちょん、○=ゝ 03359/03359 PAG03134 はな RE^4:星の誕生 (その2) (14) 95/11/17 10:59 03344へのコメント  先のコメントのつづきです。  ARIONは、こんなことを言ってます。 「 もし人間が努力をせずに、地球を死に至らしめたときに、地球と共に  死を迎えた人間の「霊」は、いったいどうなるのか?どこに転生するの  だろうか?もう一度転生できるのだろうか? 答えを話すのはつらいが  簡単に話しておこう。   我々宇宙神霊団はオリオン星系M42に新しい太陽系を用意している。  地球からの転生魂を受け入れる余地のある太陽系だが、全ての人の霊魂  を受け入れる余地はない。」 「我々は、あなたがたを恐怖させようとしているのではない。あなたがた  の方が地球を含む、この太陽系を恐怖させているのだ。」  最後の文章は、わたしには印象的した。というのは、私たちが恐怖させ ているのは、この地球だけでなく、「太陽系」までもを恐怖に陥れようと していると書かれてあるからです。  地球は単独で太陽の周りを回っているようにみえても、地球の汚染は、 太陽系全体の惑星に影響を及ぼしているのでしょうね。  人間が地球を汚染させても、たかだか「地球が滅びる(だけ)」という 意見もあるのですが、それは、ほかの惑星には「生物がいない」と思いこ んでいるから、そんな感じ方になるのでしょうか。  惑星自体が生命体なのにね。                         はな - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/11/17 - 00374/00377 KHC01313 まるにちょん RE:「サンクチュアリ」語録(1)’番外 編( (15) 95/11/17 04:29 00363へのコメント  #363 アマデウス さん RESどうもです(^_^) うーむ、実は、あの田代の言葉を読んだとき、思わず自分と同じことを言って いるって思っちゃいましたね。 >>   ただ、諏訪みのる♪さんへのレスにも書いたのですが、もはや原因分析を >>  して納得していればいい時期ではなくて、一人一人が一歩を踏み出さなけれ >>  ばいけない段階まで来ているような気がするのですよね。日本人に勇気を持 >>  って歩み出させるために、まず浅見と北条が自ら範を示しているのだとは言 >>  えないでしょうか。そのための「ヒーロー」なのですね。 うんうん、そうですね。ネムネムなぬるま湯につかって居眠りこいてる日本人 (おっと、そこまで言うか(^^;)は、ぼちぼち目を覚まさなければならないでし ょうね。  特に、欧米は、日本を孤立化させる意図をもっているかのように事を運んでい るかに見えます。徹底的に日本人を骨抜きにするために、さぞやGHQは苦心し、 今その成果を見てほくそ笑んでいるかも知れません。(該当者イシヤ(^^;)  ここいらで、日本人の意地というか、底力をみせなきゃいけないと思っていま す。  では、また。                   まるにちょん、○=ゝ 00375/00377 KHC01313 まるにちょん インドでわても考えた(^^; (15) 95/11/17 04:32 00366へのコメント  #366 CHARAN さん >> 僕がインドに行ったのはその後くらいかな、奇遇ですね>まるちょんさん  へ〜、奇遇ですね、ほんと。  結構物騒な目に遭われたんですね。(^^;  私は、旅行中インドの代表的な衣装クルタパジャマ(例えは悪いが、オウム 服に似ている)を着て、ネルーハットを被ってました。おまけに五分刈り頭で ロイドメガネ風の眼鏡をしていましたから、道行くインド人に「ガンヂィ」っ て言われました。一度は、買い物の途中多くのインド人に囲まれてしまいまし たよ(^^;(わて、ガンヂィに似てるんかな…)  私が現地で知ったインド人の特質に、議論好きと言うのがあります。  彼らは、2人以上寄ると議論を始めるといいますし、すぐに激しやすいとも 聞きました。でもって、棒切れでボコボコってのは大いにあると言えます。  それと、浮気した夫を妻がガソリンぶっかけて焼き殺すってのもよくあると 聞きました。(^^;コワイ  でも、彼らは「生きる」ってことと、「死ね」ってことを身近に知っている のでしょう。だって、道ばたで簡単に人が死んでしまうし、ガンジス川のほと りでは、常に死者が荼毘に付されているもんだから。いつも目にする一つの光 景でしょう。  だから「目」が輝いて、生きているんですよ。たぶん。  で、ここで、現代の日本の問題点をいっちゃいましょう(^^;。強引でんなぁ。  嫁さんの祖母が死んだ時に思ったことです。  今の日本の家庭では、死を身近に感じなくなってます。  大家族だったときは、じいさんやばあさんがある日ぽっくりと死んでしまう。 で、子ども達は、昨日までなんだかだとうるさかった年寄りが、動かなくなっ たのを見て、幼いながらも人間が死ぬと言うことを肌身で感じることができた んです。  しかし、今は、核家族化が大いに進んでしまって、年寄りを追い出してしま い、殆どは、病院のベットの上で死んじゃいますよね。 家の中から死を追い出してしまった。そして子ども達から「死」を学習する機 会を奪ってしまった。「死」を意識しない子供は、他者の生命がちょっとした ことで、失われるってことも気付かなくなってしまいます。だから、簡単にゲ ーム感覚で人を傷つけたり、殺したりしてしまうんじゃないでしょうか。  それともう一つ、現代人は「死」を忌むべきもの、隠すべきものと思ってい るのでしょう。自分が今死ぬってことなぞ誰も考えないし、考えたくないでし ょう。私は大阪にいて、阪神大震災をもろに経験しましたから、死がいつでも その顎をあけて隣に座っていることが分かります。  この「死」を意識しないことが、日本人をなんにつけても甘くさせているの ではないかとつくづく思います。  今、この瞬間に、死の顎にぱっくんちょされるかも知れないと思えば、なん でも覚悟して懸命に生きようとするでしょう。  より「生きる」には「死」が隣に居ることを認識することだと思います。  「死」を再認識することによって、日本人の目は輝きを取りも戻すことがで きるように思えてなりません。  CHARANさんのRESを借りて、この頃思うことを書いてしまいました。(^^;  ご容赦お願いね(^_^)  では、また。                  まるにちょん、○=ゝ 00377/00377 KHC01313 まるにちょん 日月神示 神は理(コトワリ) (15) 95/11/17 04:33  引き続き日月神示について、書こうと思います。  今回は神について、日月神示ではどのように捉えているのかを考えます。    「神は理窟ではない。理であるぞ。生きた自由自在の、検討とれん、     絶対であるぞ。只求めるより外に道はないぞ。親呼ぶ声で神を求め     よ。神に呼びかけよ。全てを投出せよ。まかせ切れよ。     神は喜びの光となって、そなたに現れて来るぞ。理窟の信仰に囚わ     れると邪道。赤児こころの理解は第一ぞ。」(黒鉄クロガネの巻 第26帖)  上記の言葉は、実に信仰について簡単にしかも正鵠を射たもので、私の好 きな言葉の一つです。  読んで感じていただければそれでいいのですが、私なりの感じたことを書 いてみます。  上記の言葉を読んで、モーゼの十戒を想起しました。  汝、神の名をみだりに口にするなかれ。  神の名を口にし、神を人間の浅知恵で理解したつもりになってはならない でしょう。神は論ずるものでもなく、ただただ求めるものであると思います。 求めるといっても、我欲に基づく私的な願い事は、謹んで言わないように しなければならないと思います。御利益信仰で神を求めるなぞもっての他で しょう。(かく言う私は、よく神社でお願いをしてしまいますが(^^;)  だから、願掛けして、叶わなかったからといって、神様なぞいるもんかな んて思ってはいけないんです。それは、人間の勝手なことだからです。  神は、おそらく人間にとっては悪魔的な働きをするかもしれません。  それは、人間に試練を与えて、成長を促すと観て良いと思います。  神のアイは、人間に計る由もないくらいに大きく深いものだと思います。  私にできることは、ただ神を求め、全てを任せ切ることでしょう。  「かみさまの言うとおりっ」ってやつです。  任せきり、人間として生きていくことで、神の喜びは光となって私たちに 降り注ぐのだと思います。  神を理窟で説こうとする宗教は、全てどこかがおかしんです。  なぜって?それは、神を人間の寸法に合わせて切り張りしてしまっている からに他なりません。  人間の理窟で分かるほど、神様はちっぽけじゃありませんわい。  人間が己の都合にあわせて理窟で神を論じることは、神を歪曲し、卑小に しているんですよ。全く不敬の至りじゃありませんか?  神が全ての理であり、ありありてあるものならば、世界はあまねく神の意 思というかエネルギーと言えばいいのか、に満たされているんだと思います。  生命潮流の流れのなかに、神の息吹があるのかもしれませんね。  冗長になりました。  再度、上記の日月神示言葉を読んで下さい。  何か感じたことがあれば、RESしてくださいね。  え?神を理窟で語るなといいながら、おまえがしてるじゃないかって?  (^O^;…NAHAHA  では、また。           カクリヨの使者まるにちょん、○=ゝ