花が咲いた時、散る事を惜しむか咲いた現実を喜ぶかで評価が変る - FARION MES( 1):お知らせ ◆ 必ず読んでね 95/12/04 - 075/075 HGC02325 ガッチャ データライブラリ登録のお知らせ 95/12/0 4 ( 1) 95/12/04 01:45   データライブラリに以下のデータを登録しました。どうぞご利用下さい。    ※LIB6【★通信お助けソフト、便利ソフト, etc.】    |番号 ID 登録日付 バイト データ名  |27 HGC02325 95/12/01 591178 B HOMEPAGE.LZH インターネット FARION HomePage     補足説明を転載します。    |-----------------------------------------------------------------------  | NIFTY-Serve では12月中旬からインターネットダイヤルアップIP接  |続サービスを提供します。  | これは、そのNIFTY-Serve のホームページ内に掲載予定のFARION  |のホームページです。  |  | 原稿はHTML形式で記述されていますので、表示させるにはMacかWindows  |環境が必要で、さらにNetscapeやMosaic等のWWWブラウザソフトが必要です。  |  | ダウンロードしたLZHファイルは、解凍して全て同じディレクトリに置い  |て下さい。WWWブラウザでダウンロードしたファイルを観るには、「ローカ  |ルファイル」として「INDEX.HTM」をオープンして下さい。漢字が表示され  |ない場合は、WWWブラウザで使用する全てのフォント(10種類)の設定を  |日本語のフォントに変更して下さい。  |-----------------------------------------------------------------------    ※LIB6【★通信お助けソフト、便利ソフト, etc.】    |番号 ID 登録日付 バイト データ名  |70 KFQ02761 95/12/02 2152 T HM9511 .TXT ハローメッセージ 1995年 11月分     補足説明を転載します。    |-----------------------------------------------------------------------  | ハローメッセージは、「世紀末フォーラム(FARION)」にアクセスしたとき  |最初に画面に表示される日替わりメッセージのことです。ごく短いメッセージ  |ですが、続けて読むことで別の意味が隠されていることがわかったり、あるい  |は読み返してみることでほんの1行のメッセージに深い意味が込められている  |ことに気づいたりします。  | 毎日のハローメッセージは、宇宙神霊であり、FARION7番会議室の議長でも  |あるARIONが書いています。ハローメッセージに関するご質問・ご感想は、  |6番会議室にお気軽にお寄せください。  |-----------------------------------------------------------------------                      FARION SUB-SYSOP HGC02325 ガッチャ - FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 95/12/04 - 05024/05027 KHC05253 メビウス みれさんへのメールは・・・ ( 2) 95/12/04 00:01 04687へのコメント #04687 みれさん カメRESですが、どうかお許しを・・・。 そもそも、あんな変なメールを出してしまいましたが、あの時は「どうしても 伝えたい」という気持ちで一杯だったんです。 なるべく自分の気持ちには、忠実に従うことを優先して来ましたので、送らずに いられなかったのですよ。(^^;) 内なる衝動とでもいいますか、心がそうするようにと、行動を示してくるんですね。 それを実行に移さないでいると、モヤモヤが増してきて、不安でどうにかなって しまいそうになるんです。(かなり苦しいんですよ、これが) そうして、止むをえずにそれらをする訳ですが・・・ああ、みれさんへのメールは 仕方なくと言うよりも、どうしても世紀末フォーラムまでのプロセスを聞いて 欲しかったのと、ARIONに直接送る勇気が無かったんです、はい。(^^;;) で、もう一度みれさんに送ったメールを読んでみて、何を言いたいのかあの文面では 自分にしか分からない表現をしていますよね、言葉が足りないと言うか・・・。 それに、みれさんに同意を求めているといいますか、聞くべきことでは無かったです ね、どんなことも自分が受け止められるものしか入ってこないんですもんね。 他に答えを委ねると言うことは、既に自信が無い証拠ですもんね。(-_-;;) >>メビウスさんのメール、結構難しいです(^^;) 返答に未だに困っている私です(笑) そうでしたか、私のメールの内容が、悪かったのでしょうか(笑)。 言葉がいろいろと足りないと言いますか、表現が下手なんですよね〜(^^;;) もういいんです、あのメールには返事を頂けないと思って送ったものですから。 今までもそうだったように、これからも心の衝動には、従っていくつもりでいます。 でも、自分が一体何を求めているのかや、目的をはっきりさせないといけないとは、 思っておりますが・・・未だによくわからないんですよ、これが。 かなり大変ですよ、心の衝動に従おうとするとかなり思い切った勇気が必要になる し、それこそ命懸けでやらないと自分を変えられない時がありましたもの・・・。 何だか、旨い言葉が見つかりませんので、取り合えずここまでで、終わらさせて 頂きます。(まとまらないくなってしまって) 私のメールに答えてくれようとした、そのお気持ちだけで充分ですから、 みれさんに読んで頂けたと分かった今ではそれだけでホッとしておりますよ。 では、この辺でどうも有り難うございました。 ∞メビウス∞ - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 95/12/04 - 01020/01020 PFA03563 YAHATA あんなとこにジャングル ( 3) 95/12/02 23:29  と言っても密林のことではなく、音楽におけるジャングルスタイルのこと。 ドラムがちょっと甲高く高速でツクツクタカタカとビートを刻む、あれである。歌謡曲 にジャングルを持ち込んだ小室哲哉をして「あれは危険なんですよ」と言わし めたあのスタイルが、なんと ピカッとピカッとプリントゴッコ〜♪ のCMでこっそり使われていた。それだけではない。アコムのCMで銀座カン カン娘のメロディーを拝借して歌っているのがあるが、これも伴奏がジャング ルしている。  そう言えば最近、古い歌の替え歌みたいなCMが多いのはどういうことなの だろう。 酒井法子の「電気上手」にはぶっ飛んだ YAHATA - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/12/04 - 00324/00325 KFQ02761 しまうま 夢を夢と気付くこと ( 6) 95/12/03 06:28 :夢を夢と気付くことを拒否する心は、夢を幽閉し殺してしまう心だ  友人たちと話したばかりのことなのでとってもよくわかる(気がする(^^;)。  ここでいう「夢」とは「将来こんな風になれるといいなあ」という夢のこと だろう。つまり、今現在はまだ実現されていない「夢想の中の楼閣」のことだ。  しかし、人は得てして「こうなればいいな、こうなったら嬉しいな」という 方に向かって希望的観測を押し進めてしまい、実際はまだ「夢想の中の楼閣」 にすぎない夢を「すでに実現されたこと」のように思い込んでしまいがちだ。 なぜなら、その方がとりあえず嬉しいし、お手軽に達成感を味わうことができ るからだ(理由は他にもいろいろありそうだが)。  では、本当に「夢を実現した」のか?というと、そこらへんがどうも怪しい。 現実を直視すると、自分が思い描いていた夢と微妙にあちこちズレがあったり 隙間が目についたりする。  それでもなおかつ「いや、自分は夢を実現したのだ。自分の中にあった夢は、 すでに夢ではなく現実なのだ」と思い込む(夢を夢と気付くことを拒否する) ことは、「現実から目を背ける」ことに繋がる。  夢の実現は、目の前にある現実から1歩1歩着実に道のりを踏みしめていき、 その結果としてようやく可能になる(それでも実現できない夢というのももち ろんあるだろうが)。  「夢と現実は違う。自分の中にある夢はまだ単なる夢にすぎないのだ」とい う事実に気付くことが、夢と現実のギャップを埋めていく作業、すなわち「夢 の実現」に向かうステップの最初の一歩なわけだ。  逆に言えば、「夢と現実のギャップ」に目をつむることは、夢を夢のままで 心の中に閉じこめておいてひからびさせてしまうことに繋がってしまう。  夢を夢だと気付いてしまうと、それが現実でなくなってしまう……それはイ ヤだ。というのが「夢を夢と気付くことを拒否する心」なのかもしれない。  それじゃあ、目の前の現実に対処することはできんわなあ、と思ってしまう。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 95/12/04 - 06624/06635 HGE02116 MAKOTO RE:本当にいいの? ( 7) 95/12/02 21:33 06620へのコメント #6620>ARIONへ  はい分かります。私は、自分の事を一般論のごとくに語ってしまいます。その方が わかりやすいと思って、そういう表現を選んでいたのですが、逆の働きしかしなかっ た。これでは、個人的な問題点がぼやけてしまいますよね。そして、無意識のうちに、 問題をすり替えてしまおうとしていたのかも知れませんし… 確かに、同時にはでき ないのかも知れない。自分では話しに加わらず、人がやっているのを見るだけという 事にしたとしても、私はそれに引きずられてしまうでしょうから(^^;)  在り方といった部分について、どうなさるかは、議長としてのARIONの判断に お任せします。 ☆不満について  貴方から不満を話せと促されて、まず、他者に対する不満が浮かびました。ぱっと そこに繋がった事で、不満のみでなく、解消されぬままに淀んで沸騰しているものも 呼び覚ましてしまいました。どうやらそれは誤りだったようですね(^^;)  はからずも、それだけ私が不満というものの原因を、他者の中に求めているという 事がはっきりしてしまった。不満を話す前に、まずここから始めなければならないよ うです。  私自身の中に不満の種の原因が潜んでいる事に、まるで無自覚でいたわけではあり ません。自分の書いたRESを読み返していて「これは誰に向けてのものだ?」と、 迷い始める事が、頻繁にありました。「なんの事はない、これは自分に向いているも のではないか」と、情けなくなる事もしょっちゅうでした。でも、そんな事はすぐに 忘れて、また他者の中に原因を求めてしまう… 私は、そんな事を繰り返していたよ うに思います。そして、今も、そうしようとしていたのかも知れません。  まだ、はっきり分かったとはいいがたいのだけれど、仰っている事の意味はわかる ような気がします。誰にも手出しはできない部分です。他人に解消できるものではな い。私が向き合うしか解決の道はない。それでよろしいのですね…?  せっかくこの場でチャンスを与えていただきながら、大回りばかりしていてもうし わけありません。                                 MAKOTO 06630/06635 QFH02012 アラミス RE:意見、ありがとう(^^) ( 7) 95/12/03 15:55 06608へのコメント コメント数:1 どうも、MAKOTOさん 話としてはよく分かります。 例えば会話でも何でも何かをするにあたって、一発で上手くいくとか完璧にでき るなんて事はそうそうあるもんじゃありませんよね。それで自分で色々と考えて 試行錯誤を繰り返す。それでもどうにも上手く行かない、行き詰まる・・ こういう時は人に相談して助言やアドバイスをもらうのは普通の事ですよ、後は それをやるかやらないかだけですから。私が思うに本当に自分で何とかしたいと 思うなら(他人任せで無い解決の意思があるなら)助言は有難く受け入れて試し てみるでしょう、駄目で元々と思えば気も楽です(^^;) それから場の問題については既にARIONからRESがあった様に私も違う話だと 思っています。 一つだけ言いますと、今この会議室はやっと落ち着いて「自分を観る」事ができる 環境が整ったと思っています。過去色々ありましたが今ようやくSTART台に立った という所でしょうか。ですから私は逆に今は良くなったと思っているのです。 06635/06635 HGE02116 MAKOTO RE:意見、ありがとう(^^) ( 7) 95/12/04 00:43 06630へのコメント #6630>アラミスさん、RESどうも(^^) >こういう時は人に相談して助言やアドバイスをもらうのは普通の事ですよ、後は  どうしてもこれが出来なかったんです。他人に救いを求める事に罪悪感のような ものを感じていたし、こんな事で人の手など借りたくないという、見栄というか、 気負いのようなものもあります。  結局の所、他人が信じきれないのね。今でもけして、信じきっているとは言えな いしね。まだ、誰にも分かるものかといった反発が私の中にはある。話す前に諦め るというルートも、かなり強固なものとしてできあがっていますし…  なぁ〜んでこんなものにしがみついてるんだ? …と、思いながら、そこから離 れようとしない。変えたいのに、変えられないのは、ほんとは変えたくないんだろ うなぁ〜と、変な納得もしてたりして…(^^;)  ま、それだけじゃすまなくなって しまったんだけど…(^^;)  場については、ARIONの指示に従います。個人的には、さほど変な事を言っ たという気持ちはないんだけど、ARIONからいただいたRESを読んで、個人 的な問題と分ける必要性があるという話しには納得しましたから。 >一つだけ言いますと、今この会議室はやっと落ち着いて「自分を観る」事ができる >環境が整ったと思っています。過去色々ありましたが今ようやくSTART台に立った >という所でしょうか。ですから私は逆に今は良くなったと思っているのです。  私もそれを感じています。で、あぁ、やっと書けるなと思ったから、今こうして ここにいるの。一頃は本気で、ここではARIONの言葉そのものの実行は無理な のだと、諦めきっていましたもの… それが、こんな事になるなんてね。今ちょっ と、変な気分です(^^;)                           MAKOTO でした☆ 06625/06635 QZE00326 白道 RE:自分の存在価値 ( 7) 95/12/02 22:01 06595へのコメント  SUKEさん、RESをどうも。いい題を付けてくださって感謝しま す。 >白道さんは日々、ご自分の存在価値について何か思ったことがありま すか?  話は過去に遡りますが、今(現在36歳)から15年ほど前、私が学 生の頃読んで感動を受けた書物がたくさんありました。そして、自分も 命が刻み込まれた作品を世の中に提供して生活していけたならどれほど 幸せだろうかと思っていたものでした。しかし、皮肉なことに、その作 品に感服すればするほどあえて自分が表現する必要がないのではないの かと思えてもくるのでした。人にはこんなに素敵な本があるよと勧めれ ばよいのですから。しかし、当然のことながらそう思って納得できるも のではありませんでした。そのころ私は唯何となく過ごす時間があまり に勿体なくて、友達ととりとめのない雑談をしているときなどはいても たってもいられなくなったものでした。常に自分の力でどこかに向かっ ていると思いたかったのかもしれません。  そのころ自分の胸の中にあった思いは、「自分の人生の可能性の隅か ら隅まで経験し尽くしたい」「人生を完全燃焼して生きて行きたい」と いうものでした。そして今まで人に言えない恥ずかしいことも沢山して きたようにも思います。  あ、「存在価値」についてでしたね。  端的に言って、唯自分が今ここに存在しているということで十全であ り、そこになにも付け加える必要がないと言えるときが「自分の存在価 値」を見いだせたときではないだろうかと思っています。まだうまく表 現できなくて申し訳ないのですが。つっこみを入れていただければと思 います。ただ、現在の自分の状況については、社会的な制約やその他の 様々な制約をほとんどノーチェックで受け入れてしまい、ありのままの 自分について考えることを怠っていることは否めないところです。  私は、ありのままの自分を自由に羽ばたかせてあげたいと思っていま す。  これからじっくりと考察してみたいと思いますのでよろしくお願いし ます。                            白道 06626/06635 NBB01420 SUKE 誰でもそうだったんか… ( 7) 95/12/02 23:46 06613へのコメント コメント数:1 #6613 KAZEさん、レスありがとうございました。 これは結構響きました(^^;) あれから自分の名前についてときどき「私は…」と呼んで見るんですが、どう も気分的に自己嫌悪状態だと「嫌い」になるだけで、普段は「嫌い」とまで行 かずに、KAZEさんの言われるように「名前と自分とが一致しない」と言う時も ありますね。 こういう思いが誰にでもあるかも知れないと言うのは気が付きませんでした。 まして「自分を認めて欲しい」と言う気持ちは確かに誰にでもありそうな気が します。それが「自分は受け入れられない存在なんだ」とひねくれて書いてみ ると、誰でもそうだとは思えなくなってしまう。 今回のKAZEさんのレスを読んで、しばらくCRTの前で動けませんでした。 そして他の発言を読む事もできずに、やおらパソコンから離れて 「そうかぁ。誰でもそうだってことには気が付かなかった!」 としきりに唸っていました。 「認めて欲しい」と言うのは、自分の存在価値を追求することなんだろうと思 います。 黙っていても他人が価値を認めてくれることはなかなか無くて、やはりある程 度自分を表現して行かないと、自分の価値を創出して行くことは出来ないでしょ うね。だからこそ、それは「欲」であっても人間として生活して行くためには やはり必要なのだろうと思います。 私の場合はそう言う欲なんだとさえ気付かずに、この「自分不必要症候群」に はまった自分は珍しい例なんだとばかり思っていました。 >>人は、だれでもが「自分がほんとうに必要とされている」と感じとりたい。 >>そう心のそこでは叫んでいるんだなと、これを読んで感じました。 >>そしてそれさえ実感できれば、ほかに何もいらないのかもしれない、とも。 これ、がつーんと来ました。 そうだったのかって。 何だか言葉にならないんですが(^^;)とにかく。                        (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 06628/06635 GGA02514 KAZE RE:誰でもそうだったんか… ( 7) 95/12/03 11:53 06626へのコメント コメント数:2 SUKEさん、どうも。 マザーテレサの話は、雑誌で記事を見て、立ち読みしながら、 身体がふるえてくるような、なにかがこみ上げてくるような、 そんな感情におそわれたことがあるのを今でも思い出します。 なぜマザーテレサはああいう行動に駆り立てられたのだろうか。 しばらくはそのことを自分なりにあれこれ考えてみることになりました。 そのことを考えながら、ある一つの結論というか、 「ああ、これなんだなあ」というものがやっとわかった気がしたのが、 「人はみんな自分をほんとうに必要だと思ってもらいたがっている」 というものでした。 だから、「ぼくなんかいらない子なんだ、死んじゃったってだれも困らないんだ」 そういう自虐的なあり方から、「自分は特別な人間なんだ」「俺は偉い」 「我を崇めよ」「全世界を征服してやる」・・・・そういうあり方まで、 すべてが、「自分を認めてほしい」のバリエーションなんだと気づいたわけです。 この発想で、自分をふくめていろんな方々の言動を観察してみると、 ほとんどが「愛情乞食現象」とでもいうべき 恐るべき現象だらけだということがわかるようになりました。 そこでまた一つの問いが浮かんできました。 「では、いったいだれがその愛情乞食に愛を与えるんだろう」 「世界中すべての人が愛情乞食になったらどうするんだろう」 そして、「愛情乞食はいったい何によって満たされるんだろうか」と。 おそらくそれは一種の餓鬼地獄的な世界で、食べても食べてもお腹が空いて、 「愛情をくれ〜」「愛しているといってくれ〜」とさまよい続けるしかない。 マザーテレサは、おそらく、インドの地で、 ほんとうにだれからも省みられることなく死んでいく多くの人々に、 「あなたも神の子、大事な子、ほんとうに必要な子なんですよ。」ということを 告げるためにああいう行動を取り続けているんだと思うんです。 「与える人がいないなら、私が神の道具として、与える役割を引き受けよう」 現代文明を謳歌しているような我々は、一見 少なくともインドの行路で死んでいく人たちのようではないように見えます。 しかし、見る視点を変えてみると、この日本も「愛情砂漠」(ナンダカカヨウキョクミタイ^^;) そのものなのかもしれません。 環境としてはほんとうに恵まれているにもかかわらず、です。 だから、一人一人が発想を変えるしかないわけです。 「奪う」「乞う」のではなく「与える」という方向に。 そのためには、しっかりと自分を見つめていく以外にないとぼくは思っています。 そして、それが本当の自由への道であると。 シュタイナーはこんなことを言っています。 「細部にわたるまで自己観察に貫かれた行為のみが、自由な行為なのである。」 「奪う」「乞う」ことばかり続けていれば、自由を放棄したことになります。 内的な自由意志というのがほんとうに必要な時代になっているんじゃないか。 ぼくはそんなことをここ数年ずっと感じて過ごしています。 ・・・少しは、「自分を観る」というテーマに結びついてきたでしょ(^^)。 さて、2カ月ほど前、MES13でこうしたテーマをふと思いだしたことがあって、 それについて「風遊戯」というシリーズのなかで、 少し書き記したことがありますので参考までに転載しておきます。    風遊戯64●気づき あなたがいるからわたしが存在できる そのことに気づいたことこそ大いなる祝福 あなたがいるからわたしが必要とされる 必要とされているというほかに わたしには何が必要だというのだろう だから激しい言葉がわたしを襲ったとしても わたしはその言葉で傷つくことはない わたしは必要とされているのだから たとえわたしがほめたたえられたとしても そのことで驕ることはない わたしはただ必要とされているのだから だれひとり必要とされていない人はいない だれひとり愛されてない人はいない ただそれに気づいているかそうでないか それだけの それだけの違いのために 耐え難い悲しみが襲い大いなる祝福が訪れる ☆☆☆KAZE☆☆☆ 06632/06635 JCF00616 優位 RE^2:誰でもそうだったんか… ( 7) 95/12/03 18:53 06628へのコメント  #06628 KAZE さん  こんにちは、割り込めさせてください(^^)  KAZEさんの仰ること、よくわかります。ちょっとマザーテレサの話からは遠ざ  かるかもしれませんが、『自分を観る』ということで思い当たることが、最近  ありました。  これはKAZEさんにも大いに関係があることなのですが、ARIONに、シュタ  イナーの修行法?に関する質問を個人的にしていましたところ、ARIONか  らの返答の中に、何を始めるにせよ、「特別意識」が醸造されなければ問題な  い、という文章が入っていました。  もちろん、それだけでは無いのですが、わざわざ意図的に指摘してくれたんだ  なぁ、と感じます。そういった行法を自己の外部のものとして、つまり、依存  するものとして捉え、実践しようとしているのではないかと。また、それに加  えて「誰かに必要とされる人間になりたい」という意識に昇らない意識もあっ  たように思うのです。  シュタイナーの方法とは違いますが、僕の親しい友人にも、ある方法で霊的な  能力を得たいという欲求を満たそうとしている者がいるんですが、やはり根本  の所にあるのは「みんなの注目を浴びたい、必要とされたい」という思いだと  思うのです。それこそ、KAZEさんのおっしゃるように、 |すべてが、「自分を認めてほしい」のバリエーションなんだと気づいたわけです。  何か、物質的価値観のある「モノ」を見せびらかしたい、という欲求と違って  やっかいなのはそこに「精神的向上」という名目があって、僕は精神的向上を  目指しているんだ、その為に一生懸命なんだ、という変形した情熱が介入して  しまい、ありのままの自分を自分の目から隠蔽してしまうことなんじゃないか  な、と今では考えています。  自分を認める、自分の才能を認める…ということで思い出したのが、つい最近  読み終えたばかりの『ミュータントメッセージ(原題:MUTANT MESSAGE DOWN U-  NDER) 』で、これはアボリジニの生き様を克明に描いたドキュメンタリーなの  ですが、その中に、名前と才能に関するアボリジニの興味深い慣習が載せられ  ています。ちょっと引用してみると、(邦訳:角川書店より)   赤ん坊は生まれた時に名前をつけられるが、成長するにつれて子供の   ときの呼び名が変わる。それぞれが自分にふさわしい名前を選んでつ   けるのだ。その人の知恵や創造性、目的がはっきりするにつれて幾つ   か呼び名が変わることになる。私たちのグループには〈語りべ〉〈道   具の作り手〉〈秘密の守り手〉〈裁縫の名人〉〈音楽の達人〉などが   いた。  とあります。これ、果てして日本を含めた近現代文明社会において、実現可能  なのだろうか?と思いました。今、僕に彼らの慣習に従って名前をつけるとし  たら…?果たしてつけられるのだろうか。なにより、自分の特化した才能を見  つけることができるだろうか。…と。そんな風に考えてみると、今シュタイナ  ーの方法で「身につけよう」としている才能というのは、そういう自分にぽっ  かり空いてしまった「穴」をただ埋め合わせるだけのものに過ぎなくなってし  まうんじゃないかと思うのです。本来の目的からズレちゃう訳ですね。  自分を観ると、それに繋がる全体の問題が見えてくる、と言いますが、まさに  それで、その親しい友人や僕だけでなく、愛されたい、必要とされたいが為に  何らかの「特化した才能」を見出そうとしている人は大勢いると思います。  でも、そこで大勢の人が考えているのは、「ありのままの自分」だけでは、現  代社会に適合できないんじゃないか、ということではないかと。能動的な愛や  意志を具現する為の場の在り方が、個人の問題と同時に問われるべき問題なの  でもあるのだと思います。例えば僕の学校では、どんなにパソコンやネットワ  ーク通信を使用して情報を収集し、厳選する能力があったとしても、その才能  を発見される場が与えられていないわけです(^^;)  それで、折角自分に才能があるにも関わらず、認められないからといって、別  な方面で認めて欲しいと、何か別のものを求め始めたのが今の自分の姿なんだ  と思います。ありのままの自分を活かせない訳ですから、社会的な人間に対し  て認められるような才能へと偏向してしまうのも無理は無いといえばそれまで  ですが、僕は無理だから、と言い訳をするよりも(^^;)、 場を変えて行かなけ  れば…と思います。場を変える最小単位として、存在できるだけ、存在意義が  あるってものかもしれませんし(笑)>僕  お久しぶりにも関わらず、長くなってしまいました。  ただ、どうしても書きたかったので、書かせて貰いました。  ありがとうございます。                          優位(JCF00616) 06634/06635 HGE02116 MAKOTO ちょっとだけ…(^^) ( 7) 95/12/04 00:43 06628へのコメント #6628>KAZEさん、お久し振りです。…っと、会議室では始めまして(^^) SUKEさ んとの間で交わされているお話し、興味深く拝見しています。  私も、愛情というものに激しく飢えている一人。親から与えられなかったって 感覚を今だに引きずっててね、何かしら飢餓感と言うか、乾きというか、そんな ものに付き動かされている事が多いです。  …でも、それだけじゃ無かった。心の深い部分にね、与える事を望んでいる一 面がある事に気がついた一瞬があったの。そんなものが、愛する事なんて知らな いって、いつも思ってる私の中にも潜んでいる事に気がついたとき、自分の事に も関わらず、びっくりした記憶があるの。  でも、すぐにまた飢えの方にとらわれて、周りの事にも気を取られて、そんな 気持ちを見つけた事さえ忘れてしまっていた。なんか、変な気分です。大切な事 なにのに、なんであっさりと、忘れてしまう事ができるのか…? KAZEさんの文 を読んで、折角思い出せたのに、またすぐに忘れそうだしね。  それでも、ここに書いてみる事で、少しは身体に刻み込めるかも知れない。そ んな気持ちで、今これを書いています。お話の邪魔してごめんなさいね(^^;)                          MAKOTO でした☆ 06627/06635 QZG02773 ウルヴィー MAKOTOさんへ(長文注意) ( 7) 95/12/03 00:04 ども。おまたせしてすみません。 これからの発言はMAKOTOさんの特定の発言を指しているものではないと いうことを前もって言っておきます。これまで目にしたMAKOTOさんの発言 全体から受ける私のイメージにしかすぎません。その点ご了解を。 まず感じたのはMAKOTOさんは「情」で生きている人間なんだな、という ことでした。 私は、前にアップしたことがあると思いますが、「理」の人間なんです。 余談ですが世間の人の多くは情で生きていると「知った」のは最近のこと。 おそらくMAKOTOさんと私とではおおいに違うところがあるんだろうなと 思いました。 そしてその情の部分を必死に言葉にしようとして苦労しているように見え ました。本来「書き言葉」という道具は、感情や情動を他人に伝えるとい うことに関してはあまり得手ではないと思います。他人と、厳密に同じ感情 の動きを持とうとすれば、同じ経験を共有するしかないはずです。言葉で 感情を伝えるということは、実は言葉という約束事によって相手の中にある 似たような感情を引き起こすということであって、言葉自体が直接感情を 伝えるのではないと思います。そして感情・情動を伝えるには書き言葉と いうのはあまりに情報量が少ない。「話し言葉」でならアクセントや声の ニュアンス、手振り身振りや目の動き、そして言葉のやりとりの即時性など 話し言葉に比べて山ほどの情報量を持っているため感情の動きを伝えるのに まだ適していると言えるでしょうが。 あと、そこは議論するポイントではないのでは?と思ったことが何回かあ りました。 たとえて言うならば「宇宙に果てはあるか」ということを議論しようとし ているのに、MAKOTOさんは躍起になってその前提である「宇宙」について 議論しようとしていると見えることがあるということです。そしてそのこと についてMAKOTOさん自身が気がついてないのでは?と思えることが多々 ありました。MAKOTOさんにとっては宇宙を論じることと宇宙に果てはあるか ということを論じることが同じになっていることが良くあるのでは?そう 思えるのです。もちろん厳密に言うと両者は分かたれるものではありませんが。 何について語ろうとしているかか、語り合おうとしているかかということに ついて「自分を見る」ことを考えてみては?そう思いました。 (生意気ですね。すみません。) 逆に言えばわたしはそういうことが苦手です。物事を全体的にとらまえる ことですね。分割して分析して細かなところから理詰めでやっつけないと ダメなんです。パソコンソフト買ってきて説明書を良く読んですみからすみ まで機能を理解して使えるように(本当に使うわけではないのですが)して おかないとなんか気持ち悪いたちなんですな。最近はそれやってるときりが ないので意識的にサスペンデッドにしていますが(笑) こんな感じで参考になりましたか?何となくぼやっと感じてることを文章に するのはむずかしいですね。 では。              クイック&デッドはかっこよかったけど              もう少しライミライミしてても良かったな              ってわかんないか(笑)ウルヴィー 06629/06635 CXK03125 月影 今後の舵取りについて ( 7) 95/12/03 14:01   ARIONへ   今現在の会議室の進路とは少し違いますが、自分の今後の進路について思 うことを書いてみました。   今のところ、来年の2月に大学受験をしようと考えていますが、自分は本 当に大学に行きたいのか?否か、少し迷っています。   自分がいままで大学に行こうと思っていた動機は、   1社会に出て何をしたいのか?を探すための時間稼ぎとして   2新しい人間関係が欲しいから   3大学生としての枠の中でこそ体験できる何か?(漠然)を得たいと思ったから 4受けようとしている学科の内容に興味があるから   でも、この動機に対して納得している自分の他に、なぜか熱くなれない自 分。胸のおくから沸きだす「希求」の気持ちが出てこない自分もまた感じ ていたのでした。   しかし、熱くなれない自分を認めることはできませんでした。   何故、認められなかったのか?、おそらくは、 『親や親族、周りの人間からの目や期待』『このままの状態で社会に出る ことへの不安』『2年間の浪費を成果無しとみなさなくてはならないこと』    『甘え』   と向き合わなくてはならなくなるあたりが、怖かったんだとみています。   だから、熱くなれないのは、たんに勉強がしたくない気持ちを弁護する都 合のいい理屈だ、と自分に言い聞かせることで、現状を維持しようとして いたのだと。それに、苦労をしたくないという怠け心があったのは確かで   したから尚更です。   ある話しでARIONに、自分の『したいこと』をみつけなさいといわれ ました。   自分のしたいことを選んでいないから目的に邁進出来ないんだよ。とも。   これについて、いろいろ考えてみました。   でも、浮かんでこない。   あるにはあるんですが、凄く漠然としていて、現実感が薄い物(具体性が ないという意味で)ばかりで。   そして、その『したいこと』を素直に思い浮かべる際に、邪魔となる物が あって、これは以前から問題にしていたことでもありますが、自分の『し たいこと』に当然絡んでくる『人間関係』に対する不安のようなもの。   と、先行きの見えない今現在の身体状況に関する不安です。   まず最初の『人間関係』についてですが、これがいかなる性質のものであ   るのか明確に言い表せないのですが、とにかく僕は人間に対して恐怖を抱 いているようです。   自分の分析では、『うまく対応してゆく自信の欠如が生む恐怖』『自分は 決して受け入れられない人間だ』という気持ちからくるもの。と見ていま すが、これは他者視線恐怖症とでもいうべき肉体的反応(主に、緊張、表 情の硬直)として、追い打ちをかけてきます。理屈で抑えても、体がいう   ことをきかないというか。   それと、上とは別の話しですが、未だ病院での結果は出ていない上に今週 の金曜日に両親同伴で再来してくださいといわれた、健康状態。   『これからどうなるのだろう』という思いが寝ても覚めてもこびりついて   て、『したいこと』(欲も含めて)が、素直に出てきません。   でも、全く『したいこと』が浮かばないわけではなく、上にも書きました   が、漠然とした衝動みたいなものが、か細いながらも身内に存在している のは確かなので、それを書き連ねることから始めてみます。   とにかく、これほど一日一日が貴重な時間であると実感したのは、始めて   です。焦りばかりですが、できることから実行します。                                  月影 - FARION MES( 9):神々の曼陀羅 ★ 歴史と宗教を巡って 95/12/04 - 681/682 NBB01420 SUKE 【位山】両面宿儺の伝承 ( 9) 95/12/02 23:45 680へのコメント #680 TAOさん、こんばんは。 彫像の写真のコピーはもっているんですが(^^;)やはり実際に見たことはありま せん。天皇に位を授けたと言う伝説から位山と言うらしいですね。 ご指摘の話ですが、私のノートには次のような伝説が書き写されてあります。 「仁徳天皇(4世紀)の時代、斐陀国(ひだのくに)に宿儺という者がいて、 一つの身体に顔が二つと四手四足を持ち、怪力早業で皇命に従わず、人々を苦 しめた。そこで天皇は難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)をさしむ けてこれを討たせた」(日本書紀) 「昔、丹生川村の出羽ヶ平の岩穴から両面すくなと言う怪人が現れた。身の丈 一丈、村人大いに驚き恐れて逃げ回ったが、怪人は『我は魔性にあらず観世音 の使現なり。汝等恐れる無かれ』と美しい声で告げた。そこで人々はようやく 安心し、深く怪人を崇敬した」(飛騨の伝説) 「位山の主は神武天皇へ位を授くべき神なり。身体一つにして顔二面、手足四 つの両面四手の姿なりという。天の叢雲をかき分け、天空浮船に乗りてこの山 のいなだきに降臨し給いき。この山におきて神武天皇に位を授け給ふ。故に位 山という。船の着きたる山おば船山とはいへり」 (飛騨の国守、姉小路基綱の「飛騨八所和歌集」裏書) 伝説では神武天皇が皇位につくに当たって飛騨の山に登拝し、「叢雲をかきわ けて光輝く船が降りきたり、身が一つに顔が二つ、さらに手が四本という異形 の神が現れて、即位のための笏(しゃく)を授けた」と言うことで、この伝説 以後「位山」と呼ばれるようになったということですね。 この伝説の出典はよくわからないのですが、上記の飛騨八所和歌集なのでしょ うか。 この「すくな」は古代飛騨にあった朝廷の分派勢力の象徴で、景行天皇(1世 紀)の子でありながら後に父から疎まれた大碓・小碓の双子の兄弟が立てたの が飛騨の勢力と推理されているそうです。朝廷はこの勢力を水無神社の地で討 ち、後のこの勢力を抹殺するためにこうした伝説をすり替えたのではないかと 言うことでした。 今の世の中にこんな怪人が現れたら…特撮の着ぐるみだと思ってしまうでしょ うか(^^;)                        (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 682/682 MHD02672 TAO 位山の神秘 ( 9) 95/12/03 00:25 677へのコメント #677 SUKEさん  亀レスになってしまいましたが(^^;。  位山は元々、飛騨国一之宮水無神社のご神体として崇られていたともいいますね。  この水無神社は歴史が古く、延喜式神明帳でも飛騨国式内八社の筆頭に挙げられて  いるほどです。位山は飛騨の流水を南北に分ける分水嶺ですが、水無神社のご祭神  は元来、水神(蛇神)だったという説もあるようです。  さて位山頂上の巨石遺構 −磐座− ですが、これは「天の岩屋戸」と呼ばれ、位山  の東南側にある御嶽山に向けて造られていて、御嶽山を遥拝する様になっていると  か。私も位山に登ったことがまだ無いので、資料を参照するしか無いのですが、位  山と御嶽山は冬至の日の線で結ばれているそうで、また位山から望む夏至の日の出  線には「日ノ観ヶ岳」があるし、位山山頂の磐座は太陽信仰の名残なのだろうと思  われますね。 そして水無神社は、位山の東北、鬼門に当たる位置にあります。ちょっと話が広が  りますが、井本英一氏は『境界 祭祀空間』(平河出版社刊)で弥勒菩薩と鬼門の  関係についてこう触れています。  ……… 弥勒はアジアでは古くから鬼門とされた東北の岩から下生するとされた。     胎蔵曼陀羅では弥勒は東北に配してある。平城京や東大寺(華厳宗)の鬼門     の方向に当る笠置山から弥勒が下生するとされたのである。弥勒信仰が強か     った法相宗ではこの方位を重視したらしい。                                同書 p172より  また、東北の隅は古来「日之少宮」と称されていて、侵すことが出来ないという古  い伝承があり、『日本書紀』でも、この「日之少宮」は伊弉諾尊(イザナギノミコト)の鎮  座する天上の宮ともされています。  陰陽道で鬼門とされる東北が、弥勒菩薩の下生する場所であり、また日本の生みの  神である伊弉諾尊の住処がある方向ともされているのは、実に興味深いことですね。  大本教に見られる「艮の金神」=「弥勒菩薩」信仰とも関連して来そうです。  話を戻してと(^^;。 位山の数々の巨岩遺構群は、想像力を逞しく羽ばたかせると「飛騨太古文明圏」の  中心地だったのだと思わせてしまうような雰囲気を醸し出しているようで、新興宗  教の「宗教法人・崇教真光」は位山を霊山でありピラミッドでもあると唱え、高山  市内に約三百億円もの巨費を投じ「世界総本山」を建立したそうです。位山の一角  に建っているそうで(高山市上岡本町)、位山に登山するついでに見ておくのも一  興かもしれません(^^;。  それにしても位山は奇妙に不思議な山で、歴代の天皇が持つ笏(シャク) は、位山のイ チイの木を素材にしていたと言われますし、中曽根元総理が就任前に位山へ登って いるというエピソードまである(^^;。また小説家の島崎藤村の父、島崎正樹が水無  神社の宮司を務めていたことは旅行ガイドブックにも載っているほど知られていま  すが、藤村の代表作「夜明け前」でも位山が主要な舞台となっているそうです(実  はまだ読んだことは無い ^^;)。  異端の古史古伝書『竹内文献』でも、飛騨は太古日本の神都であったと主張されて  いますし、確かに奇妙な山だなぁと思わされますね。「両面宿儺」の謎についても  話題は尽きないのですが、今回はこれぐらいで(^^)。 TAO - FARION MES(10):夢鏡/幻紀行 ★ 夢解釈/カスタネダ研 95/12/04 - 01031/01033 MHA01114 シュメ−ル RE:「夢を生きる」 (10) 95/12/03 12:40 01023へのコメント おっと。始めましてのシュメ−ルです。 オフ以降、スウさんとの縁が浮上してました。やっとこさ10番をながしよみして たどりついたたら、明恵ですか。まいったな。明恵って和歌山出身だったんだ。1 5年くらい前に明恵にのめり込んでいた時期があって、河合さんの本も当時読んで ました。ちょい本だなを探しましたが、見付からない。ま、必要があれば出てくる でしょう。  妄想の世界になりますが、ここは専夢もありみたいなんで、書いてみます。明恵 って私はどうも他人に思えない節があって、私が属している記憶系列のなかに明恵 も属している気がしてます。現実の血縁関係においては、明恵が昔修行してた寺 (神護寺?だっけか。記憶不確か)の責任者(?かなりいい加減な表現)に文覚上 人がいるんですが、彼が脂ぎった坊主だったんで寺の増改築をしょっちゅうやって て、勉強好きの明恵はうるさくて仕方がなかったらしい。その文覚といま私が属し ている血族とは因縁が深くって、ま、彼との縁で京都あたりから岩手まで移動する ことになったみたい。(因みに、先日のオフに遅れていった訳がたまたま仕事の宴 会で同席した方がうちのご先祖さんがむかし居た場所に勤めている人だったもんで、 つい話し込んでしまったいう事情もあった。)で、まったく縁が無いわけではない 見たい。  さて、明恵ですが、彼はある意味ではここに相応しい人だ。明恵関連で、私が一 番感動したのは、明恵と春日明神とのチャネリング場面。『明恵上人神現伝記(別 名『春日明神神託宣記』)』という古文書に載ってます。(高山寺資料叢書第1冊  明恵上人資料第1  東京大学出版会 で読めます。漢文と漢文読み下だしにな っているので、読みやすい。スウさんにエールのつもりで蛇足しちゃうとこの本も カスボンです。)バクテイヨーガでしたっけか、信仰を通じての解脱志向のある人 にはお勧めの本。明恵が釈迦に近付こうと、インドへの旅を決意したときに、春日 明神がわざわざ巫女を通じて明恵に日本に止まるよう、説得する。そのやり取りが 実に泣ける。(あるいは私だけかもしれない)  ちょい読み替えしてみると、春日さん、弥勒に言及してたんだっけ。明恵が春日 明神をどうおまつりすればいいのか尋ねたのに対して、春日明神は丁重に自身への 信仰の不要と弥勒菩薩へのまつりを提示している。明恵はそれを受け。そして弥勒 を中央にして、春日明神と住吉明神を両脇におかせてほしい、と応じている。この やり取りもいいですね。因みに、私のへやにも弥勒菩薩の半伽思惟の写真が張って ある。弥勒プロジェクトはどう展開するんだろうか。今回弥勒は覚醒するんだろう か。最近イメージが掴めてきたんですが、ここの時空の未来って誰もわかんないみ たいだ。未来も過去も流動的。ちょいと跨げば、明恵が生きている。ここで明恵を 復興させた影響は明恵にも及ぶはず。今頃(いつごろだろ?)明恵さんスウさんの 夢を見てるかもしれないよ。  さて、メールネタっぽくなりますが、なんかスウさんとの縁には明恵も絡んでる 可能性が出てきますね。800年前。オフが11月24日。スウさんが明恵の本買った のはいつですか。 01032/01033 MHA01114 シュメ−ル 明恵と春日明神 (10) 95/12/04 00:33  以下、『明恵上人神現伝記』の主要部分を訳してみます。9割方は原文表現 のままです。 明恵は釈迦への思い断ちがたく、インド行きを決意する。 建仁3年、正月26日牛の刻に、一人の女房あり。橘氏新しきむしろを乞い出 させて、鴨居の上にうちかけると、たちまちにその上に登りて告げて曰く、 「我は春日明神なり。御房(*明恵のこと)西天の修業をおもいたちしめたま う。この事をとどめたてまつらむがために降れるなり」と言い終りて去りたま いぬ。(託宣をうけた人はその前7日間一口の食事もなし。しかれどもあえて 気力を整えず常のごとし。心に不善をいとい、潔斎精進して仏前に詣で、礼仏 読経のほか他事なし) その後實否わきまえがたきによりて、上人自ら善財五十五の善知識の御前にし てその嘘実を知らむことを祈請す。同行等はまた不断の華厳経の輪読をし、も し實に春日大明神のご託宣ならば、かさねて霊告をたれたまうべし。もし天魔 悪鬼の障難ならば必ず眼前の治討をくわえたまえ。すると開白の始めに壇上の 中央に燈光があらわれた。そのご、同29日の酉の刻、また御降託あり。その 形普通にあらず。面「?」奇異にして世間にならいなし。その色精白にして水 精のごとし。内外すきとおりて水精の中の糸筋をみるがごとし。いちいちの起 居動転の威儀、大人の相あり。顧視するに面をめぐらせず、挙身ことごとく動 す。出すところの言音哀雅なり。きくものことごとく涙にむせばずということ なし。また遍身より不思議の異香をいたす。−中略− 威儀端正にしてその形 善神降臨の相を説く聖教の説相と符号せり。およそいちいちの威儀進止言葉の およぶろところにあらず。端座して挙身動ぜず。その眼さらにましろかず。左 右の御手左右の膝のうえに仰て置けり。上人に対して告げて曰く。 「御房、知恵第一にして世間にならびなし。もし余人御房の知恵を判じて下品 とすとも、我と相対してこの翁が知り奉りたるほどにはだれかはしりそうろう べき。御房も我は知恵第一なりとおおせられるべし。この翁が前にて少分の知 恵なんとおおせられることあるべからず。御房もし上代に御ましまさましかば、 賢聖向果の道をも証し、不思議の通力をも成就すべき人なり。御房の御過は末 代にぞくす。あえて御房の身にはあずけざるなり。しかれば我いとおしくおも いまいらすること、一子を思うがごとし。わが哀愍したてまつるがごとく、三 世の諸仏またこの思いに同ずべし。しかるに、疎学の条、我きわめて痛み思う。 他事なく聖教に思いかけて、余事を雑することなかれ。我が思うところはこの 参見の間、今日の学問欠けて聖教に向かわいめざることをなお痛む。いわんや 余事をや。必ず我罷去なむ後、今日の学問そうろうべきなり。たとえ名聞利養 に住して学問せんと申すものなりとも、百千人をもいとわずとりおきてすすめ たうべきなり。ただし、御寿命きわめて短命にに御ます。四十をなをあやうく みえさせたまうなり。有縁衆生待ちもうけまいらせてそうろうなり。王城辺に 近く御ますべしをおぼしめしあわすることなり。 −中略− 我思うところは 今一二生も人間におきたてまつりて、人間の導師とせむおと思う。しかれば天 竺の御遊行は我きわめて歎思そうろうなり。たとい天竺へわたりたまうとも、 それも我等こそ守護してその大願をもたすけたてまつらんすることにてとそう らえども、ただこの日本国に置きたてまつりてこの国の導師とせんと思う。御 房有縁の衆生いくらもまちもうけてそうらわば、彼に対して仏道修行のこと。 −中略−このゆえに我が真相をあらわして降れるなり。」 明恵上人申して曰く。 「今かたじけなく降臨をたれて、慇懃の教訓をうける、いちいちさらに違越あ るべからず。ただし御形像を[?]したてまつりて還去ののち、御形見とあおぎ たてまつり、また講演の本尊に懸けまいらせむと思いそうろうなり」 春日明神おおせいはく 「かえすがえすこのこと本意にそうろう。御懐ニモ御ヲロシヲモタフヘク候う。 ただし講演の本尊にはきわめて恐れおもいたまいそうろう。我等がごとき類は 三世諸仏に給仕したてまつるを勤めとするものにてそうろうなり。講演の本尊 にて中央に懸けられんことはあるべからざることなり。便なくそうろう。その 本尊には弥勒菩薩なんとにて御しますべく候う。」 明恵もうしていはく 「中央には弥勒菩薩等を懸けたてまつりてその左右に両明神の御形像を懸けた てまつらんと思う。」 春日明神おおせいはく 「もっともしからるべく候う。中央にはかえすがえす便なく候うなり。」 −中略− 春日明神仰せ曰く 「御房釈迦如来の御事恋慕したてまつらしめたまうこと、実に哀れに尊く思い 奉り候う。我も釈迦如来の御事を思い奉るものなり。しかるにこの日本国には 御房の御志を友として心慰みてそうろうなり。御房も必ず我を釈尊の御形見と おぼしめすべし。今は時刻久しくなり候いぬ。罷去なん。」 とて、左右の御手をもって上人を横抱きて御面を合わせて、いとおしくおもい たてまつりそうろうなりとて、雙眼より涙を流したまう。「必ず必ずわが詞に 違越あるべからざるなりと幾度も仰せられたり。この時上人音を放ちて悲泣し て曰く 「この夜今はいこうとそうろわじ。今暫く住せし給え」 また諸人この事を見るに、哀傷にたえずしてなきさけぶ。春日明神仰せいはく 「なにかは我が降れる故に諸人これほど泣きたまうべき。世末代になりて日も 漸くみじかく、衆生の信もうすくなり。良き人も皆失せぬ。これによりて仏法 悉く陵遲せり。このことをなげくべし。このことをなげくべし。」 とて御顔をうつぶせて雨の如くに涙をながしそうろう。凡哀傷たとうるかたな し。諸人弥よ悲泣す。その後去りたまうところに、上人ほとんど失心のごとし。 そののち又降りたまえり。仰せ曰く  「ここに候うぞ。ここに候うぞ。我罷去るところに悲泣哀傷の緒と耳にどどま りて、ひきとどめらるるがことくして、まとのまえより又降れるなり。必ず、 春山の社に来らしめたまえ。待ちまいらせてこれほどにて見参をとぐべくそう ろう。その御心えてそうろへし。」 上人申して曰く   「我幼少の昔より慈父釈尊に捨てられたてまつりて、滅後数百年のこの辺地に 生まれて、在世の説法をも聞かず、西天處々の遺跡をも拝せず。悲しきかな。 かの諸経の序分をひらくごとに、いずれの生にか明恵房という名字経文に列り て、親り四弁八音のみのりを聞く生あらむ。この歎き肝を摧き、この恨みはる ることなし。またかの無量義経のなかに『我起樹王詣波羅奈鹿野薗中、爲阿若 拘隣等五人転四諦法輪時、亦説諸法本来空寂、代謝不住念々生滅等という文を みるに、弥悲しく羨ましく覚えて年を積めり。何生にか慈父釈尊にまいりあい て、我樹王より起きく起波羅奈鹿野薗等に趣て、明恵房がために四諦法輪を轉 すということを聞えき。この事を歎思て、たとえ在世の真容をこそ拝したてま つらずといえども、遺跡西天にとどまれり。それを拝して滅後の恨みをやすむ べしと思いて、雲遊を思い企てるところに、今大明神春山よりたちてここに御 降臨ありて、慇懃の御教訓を垂れたまえり。これをもって釈迦如来の御形見と して昔の恨みをやすむべくそうろうなり。」 春日明神仰せ曰く 「必ず必ず釈尊の御形見と憑ましめたもうべくそうろう。云々」 上人申して曰く 「幼少の当初より、如来滅後に生まる悲しみ深しといえども、我等ことごとく 遺法の仏子なり。しかればかりに仏はにくしとおぼしめすとも、我は愛子と名 のらむと思いそうらいて、如来滅後の愛子となずけそうらうに、近年宝積経を ひらくところに、『我之所愛子、謂諸善比丘、見仏所遊方、昔曾安止處、京行 宴坐地、若石及空閑、集巳咨嗟、為之數啼泣等』という文を見るに、歓喜の心 骨髄に徹して、この文をもてより我如来の授記をこうむれりとおもいて、心を やすめそうろうなり。」 このときにあたりて春日明神の御面たちまちに哀れにおぼしめせる色外にあら われて、上人の左右の手をとりあいて、右手をのべて頂をなでて告げて曰く 「その文は御房の事を説ける文なり云々」 仰せ曰く 「なおなお王城辺に居住せしめたまへ。また南京に居住あるべし。また必ず必 ず春山へ来らしめたまえし、待ちまいらせそうろうべきなり」 その後去りたまいぬ。 −後略−    『高山寺資料叢書第一冊  明恵上人資料 第一  東京大学出版会      四 明恵上人神現伝記 一巻   上山勘太郎氏臓 』    を出典として一部訳  冷静沈着な明恵にもこれほどに強く深い愛と飢えがあった。知・ジュニア− ナとして神を追及したかに見える明恵を支えていたのは、神を二人称として愛 するバクティの道であった。明恵はインドのラーマクリシュナに匹敵するバク ティの人だった。これは中世ヨーロッパの神学者トマスアキナスとても同じ。 孤独の根にあるのも神への渇きである。  春日の翁は元気だろうか……… 01033/01033 MHA01114 シュメ−ル 明恵関連 (10) 95/12/04 01:38 カスタネダの勉強中、つづけて明恵関連で恐縮ですが、スウさんの読んだ本、 結局私はたち読みだったかもしれない。いま、シュタイナーの本を引っ張り出 そうとおもったら、明恵の本が出てきました。『明恵上人伝記』(講談社学術 文庫 平泉あきら 訳 )で、明恵について関心がある方はこれが便利でしょ う。 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/12/04 - 03997/04002 GGA02514 KAZE 世界を呼吸すること (13) 95/12/03 00:29 03993へのコメント しまうまさん、どうも。 コメントしていただいたので、このとても重要な問題について、 ご説明するきっかけをいただいたように思いますし、 ちょうどMES6でHMの、 >95/12/01 己の内側に篭りながら外を徘徊する欲を批判しても何も変らない についてコメントしたこととも関係してくるかもしれませんので、 ちょっと難しくなるかもしれませんが、 そこらへんのことについて少し詳しくご説明してみることにしたいと思います。 古代においては「呼吸」ということが重要な意味をもっていたというのは、 いわゆるヨーガの道で、それは呼吸のなかに創造的霊性を体験するものでした。 そして、その呼吸と思索とを結合させることが重要な意味をもっていたのです。 そこらへんのことについて、シュタイナーはこういう話をしています。 (「教育の根底を支える精神的心意的な諸力」(人智学出版社)より)   生まれてから死ぬまで私達は、絶え間なく呼吸しております。空気を吸入し   保持し、排出しております。私達が息を吸い込む時、吸入された空気は、私   達の全有機体構造の中へと浸透していきます。呼吸脈動は、脊髄溝を通って   脳の中へと伝えられます。私達は、肺で呼吸しているばかりではありません。   脳でも呼吸しているのであります。私達の脳は、絶えず運動しております。   肺呼吸、すなわち吸気・保持・排気は波となって伝わり、私達の脳の中で生   きているのです。これは−−今日では私達に全く意識されませんが、常に生   起してるのです。ヨガ行者は、こう言いました。「人間の中には、ここで何   かが起こっているのだ。自分は、それを意識化したいのだ。」そうして彼は   普通やるような無意識の呼吸をせず、異常な方法で呼吸したのでした。彼は   異常な吸気の仕方をし、異常な保持の仕方をし、異常な排気の仕方をしたの   でした。こうして彼は、呼吸過程を意識化しました。そして私達にとっては   全く意識されないものが、彼がこれを認識し感じとったことによって、全く   明瞭な意識の中で行なわれることになったのでした。このようにして彼は次   第に、いかに脳の中で呼吸が、思考や、知的活動の物質的作用の根底をなす   ものと結合しているかを、感じとったのでした。彼は、思考と呼吸との間の   結びつきを探求し、ついに私達にとっては抽象的なものである思索というも   のが、呼吸の波動に乗って肉体全体を隈なく運動している、という事実をつ   きとめたのでした。(P33)    かつて古代では、このように呼吸過程と思考過程とを、 極めて意識的な呼吸法によって関係づけていくヨガ行者の行為というのは、 非常に重要なことだっといいます。 そのことで、ヨガ行者は、思索を全身で感じとり、 自分という人間存在を霊性の創造物であると感じることができたのでした。 その名残が、なんだかわけのわからないポーズをして修行しているヨガで、 かつては意味のあったことが、今では形だけが堕落した形で残っているわけです。 しかし、シュタイナーは、その古代のあり方を そのまま現代にもってくることは、むしろ危険性があると言っています。   私達の肉体構成は、太古のそれと違っておりますので、私達は今日、このヨ   ガの修行を模倣することはもはや出来ませんし、またそれをしてはならない   のであります。それはなぜかと申しますと、一体何をヨガ行者は目的として   いたのかを考えてみましょう。彼が目指したのは、自分の思索過程がどのよ   うに呼吸過程と結びついているかを、感じとることでありました。そしてこ   の呼吸過程の中に、自分が、人間であるゆえんを感じとることでありました。   こうして彼は、これを認識にまで高めたのでありました。・・・しかしなが   ら私達の人間としての進歩は、私達がヨガ法の栄えていた頃よりは、はるか   に高度に、思索をそれ自体として解き放ち、はるかに知的なものに高めたこ   とによっております。(中略)私達は、古代インドにおいて人々が行なった   のとは全く違う行為をすべきであり、むしろ彼らよりは、ずっと霊的な行動   を取らねばならないのであります。・・・霊の世界へと入る道を見つけるた   めには、ヨガ呼吸法を修める方が、今日では手軽なのであります。少なくと   も手軽なように見えるのであります。これはしかしながら、現代の人間が、   霊的な世界に入って行くべき道ではありません。今日の人間は、まず始めに   徹底した知性主義の中で、単に像として非実体的に知覚され得るすべてのも   のを、体験しつくさねばなりません。・・・すべての思索が知的な活動の内   でのみ生じれば、それは非実在的なものであり、単なる映像にすぎないのだ   という事実を体験することは、重大なのであります。すべての思索が知的な   活動の内でのみ生じれば、それは肉体の上で失神(無力)状態を体験するの   と全く同じことを、心性の中で体験することなのであります。それは実在に   対しての失神なのであります。・・・   ヨガ道は、自分の人間を呼吸の中に求めました。私達現代の人間は、思索と   いう映像、すなわち知性主義的なるものに相対して感じる失神状態の中に、   私達の人間を見失わなければなりません。そしてその後に自らに、こう言う   ことが出来なければならないのです。「今は我々は、ヨガ行者が進んだよう   に、内部に向かって呼吸過程に従って進んで行くのではない。今は我々は、   外界に向かって進むのだ。一本一本の植物を眺め、一つ一つの動物を眺め、   一人一人の人間を眺め、そして外界を共に生きるのだ。」(P44-46)    かなり長々と引用してしまいましたが^^;、 つまり、かつては呼吸過程と思考過程をシンクロさせて そのことで思考能力を高めていくことが重要だったのですが、 現代の人間にとっては、思索などの知的な作業をするということは 単なる映像の中に生きているにすぎなくなってしまっているというのです。 もちろん、思考することに意味がないということではなく、 かつてのようには思考過程そのものが実在に近づく道であるということは もはやなくなっているということで、思考過程そのものを通じて、 そのことで実在から遠ざかってしまったという状態を体験し、 そこを通り抜けていく必要があるのです。 つまり、そこで体験せざるをないのが、 思索という映像に対して感じる失神状態であるというわけです。 現代では思考ということが非常に重要になっています。 古代のヨガでは、その思考を高めるという目的で 意識的な呼吸ということをさまざまな技法で追求していました。 呼吸過程を思考過程そのものとしていたのです。 そして、そのことで霊的実在を把握しようとしていました。 しかし、現代ではかつての状態とは大きく異なっているということで、 呼吸過程を思考過程とすることはできなくなっています。 呼吸過程によって霊界に歩み入ることは非常に容易ではありますが、 そのことは、むしろ退歩を意味するようになっているのです。 変な例ですが、ただ答えを引きうつしているだけの試験のようなもので、 その上に、その答えと試験の問題とが異なっているのに気づかない。 そんな状態に比すことができるでしょうか。 現代では、あくまでも思考というプロセスを通っていく必要があって、 しかもそれらが単なる映像にすぎなくなっているということを 深く体験し尽くさねばならないというわけです。 そして、そのことで実在から遠ざかってしまったという状態を 通り抜けて、むしろ外界の生を共に生き、 事物のなかに入り込んでいかなければなりません。 ヨガの行者は、自己の内部に入り込んでいったわけですが、 現代の我々は、外界に出ていかなければならないというのです。 かつての呼吸過程にあたるものが、現代では知覚にあたるといえます。 ですから、かつては呼吸を取り込むことが実在を取り込むことになったように 現代では、世界を知覚することそのものが実在に近づくことになる。 かなり端折って分かりやすく説明するとこうなるでしょうか。   『いかにしてより高き諸世界の認識に達するか』という私の本の中で、私は   どのようにこのことをなすかを述べました。どのようにして植物を、単に外   側から眺めるのではなく、そのすべての活動と生起とを、残らず追跡し、そ   の結果として、思索が単なる映像という性格を完全に脱し、外界の真の生を   共に生きることになるか、それをこの本の中で述べたのであります。私達は   植物の中へ自分自身を沈めていきます。そして重力が根の中で大地に向かっ   て進んで行き、花を咲かせる力が上に向かって展開してくるのを感じます。   私達は花が咲く営みを共に体験し、実が生じる営みを共に体験します。私達   は外界の中へすっかり浸り込んでしまうのです。この時に私達は、外界から   受け入れてもらえるのです。ちょうど失神状態から目ざめるように、再び目   ざめます。(中略)   このとうに私達は事物の中へ入り込んでいかなければなりません。ヨガ行者   が自己の内部へ入り込んでいったように、私達は外へ出ていき、すべての事   物と自分とをこのように結びつけるよう試みます。そして、そうすることに   よって事実上ヨガ行者と同じ所に達するのでありますが、ただ彼等よりもよ   り一層心的に、より一層霊的にこれを得るのであります。私達が私達の持っ   ている概念や理念、すなわち単なる知性が描き出すものの一切を、実体をも   って浸しきった時、私達は再び、いかに霊性が私達の内部で創造的に活動し   ているかを、感じとるのであります。(P47-48) 現代に生きる我々は、意識的な思考をもちながら、その上で、 我々が五感いやそれに意識を加えた色声香味触法でとらえるすべての事物を (ちょと変な言い方ですが)呼吸しなければならないのです。 「世界」はその色声香味触法を通じた「界」によって我々にとりいれられます。 それをいかにみずからの心性のなかに浸すかということこそが重要なのです。 そのためには、その色声香味触法をいかにしていくかということが課題になります。 さて、HMについてですが、 >95/12/01 己の内側に篭りながら外を徘徊する欲を批判しても何も変らない このメッセージも、このこととの関係でとらえることもできるように思います。 色声香味触法の「窓」を閉じて瞑想三昧するということによっては、 世界をみずからの心性に浸すことはできないのは当然です。 ですから、色声香味触法の「窓」から世界を積極的にとりいれること、 そのあり方を実践的に日々試みていくことなくしては、 みずからの内には霊性のきらめきは期待すべくもないということなのでしょう。 その課題についての、ひとつの解答が柳宗悦さんの「美の法門」で 非常に示唆的に描かれていることではないかとぼくは考えているのです。 最後に、その「美の法門」(岩波文庫)の「仏教美学の彼岸」から。   「来来山河草木悉是仏性」と経にはいうが、一切の人間にかかる仏性が用意   されているのである。自然の美はいうも更なり。人間の創作する品々、かか   るものを美しいと感じるのは、人間の心それ自身に、美しさを受け取る性情   が備わっている証拠であろう。人は美しさを悦ぶ。美しさで幸福を味わう。   これは内に既に美仏性が備わっている所以ではないか。花を美しいというが、   かくいう人の心にもまた美しさがあるともいえる。もしこれがなかったら、   花と人間とには縁がなくなる。一切の人々は本来美と深い宿縁をもって、こ   の世に生まれているのである。美の世界で衆生済度が出来ないなら、それは   何かがその幸を妨げているからである。その支障が、自他の二元論m美醜の   二元等によって起こっている事を、反省せなばならない。(P23-24) では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03999/04002 MHD02672 TAO シュタイナーのシャーマニズム論について (13) 95/12/03 12:36  >KAZEさん  こちらには久々の書き込みです。(^^ゞ さてさて、今度は質問があって来ました。  シャーマニズムについてですが、まずは、 ・シュタイナーはシャーマニズムというものをどう理解していたか? ・シュタイナーは人類史におけるシャーマニズムの役割と功罪をどう見ていたか? の二点についてお伺いしたいと思います。  かなり以前、こういう内容に関わる発言はあったかと思うのですが、記憶がどうも  曖昧で、どの発言だったか思い出せません(^^;。お手数かと思いますが、どうぞ宜  しくお願い致します。m(_ _)m ペコ  TAO - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/12/04 - 03385/03385 JBH00712 桂 桂 7・5・3 (14) 95/12/02 18:05  三月三日は祝日、お雛様とお内裏様が仲良く鎮座している。  5月5日は子供の日。  イザナミの死後、黄泉国からの離別劇で、イザナミはヨモツヒラサカを 駆け抜け、最後に桃を投げ棄てイザナミの呪いの言葉を聞く。それに比し てイザナギは尚のこと言葉を返す。  7月7日は七夕。  離れ離れになっていた若い男女が二度睦みあい再会を祝う日。  神の和解を括る神が、白山菊理姫でしたか。 桂 桂(JBH00712) - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/12/04 - 00399/00399 GCG01101 アマデウス 「サンクチュアリ」語録(4) (15) 95/12/02 23:41 00353へのコメント   高校時代から北条と共に「日本人を創る」ことを目標としていた浅見は、  東大に入って自ら政治研究会を主催し、将来のブレーン・リーダー候補の  養成を始めます。その研究会の精神を、浅見はこう表現しています。 | [2巻 P214] | |   浅見  政治ってのは戦いなんですよ。 |       ネズミが吠えても猫には鳴いているとしか聞こえない。 |       猫が吠えてもライオンには鳴いているとしか聞こえない。 |       まず一人一人が獅子(ライオン)になる事! |       それがこの政治研究会の最大の目標なんですよ!!   「一人一人が獅子(ライオン)になる」…これは、魑魅魍魎が跳梁ばっこ  する(言い過ぎかな?(^^;)政界で強力に目標に向かって邁進して行ける強い  精神力を持つことを表しているのでしょう。劇画の舞台が政界であるために  「獅子」という大仰な表現になっていますが、これを「自立すること」と読み  変えれば、僕たち自身の生き方の心構えとしても言えることなのではないで  しょうか。   さて、政界の魑魅魍魎と言えば、その頂点に君臨するのが、前回にもご紹介  しました民主自由党の黒幕・伊佐岡幹事長です。伊佐岡は、今でこそ権力の  権化となって浅見や北条の前に立ちふさがりますが、かつては伊佐岡も日本  の戦後再建に奔走する若き熱血漢でした。戦後の焼け跡から今日の民自党政権  を築いたこのしたたかな老雄は、単なる権力にしがみつく小野心家とは違い、  それなりの信念を持っているようです。   伊佐岡の下で権力にありつこうとこざかしい動きをする、まさに「小野心家」  である原口に向かって、伊佐岡はこう叱り飛ばします。 | [8巻 P57] | |   伊佐岡 世界の現状を見ろ!これからの日本は、今までの様に |       誰が首相になっても安穏としていられる情勢ではない… |       近い将来、必ずや世界的な不況の嵐に日本も巻き込まれる! |       その中でおまえに何が出来る!? |       日本という国家、日本という民族を存続させる明確な |       意志、方針を持っているのか!? |       政権を握る者として、この日本を導いていく強固な |       自信、理念があるのか!? | |   原口  … | |   伊佐岡 わしなら国民に対し、胸を張ってこう言う… |       貧乏人は麦を喰え!米を喰いたきゃ努力しろ! | |   原口  !!   浅見や北条らの、新しい日本人を創ろうとする若い変革の芽を摘んで自らの  権力の温存しようとする伊佐岡ですが、その腹の中は、あろうことか前回ご紹  介した浅見の「できねえなら…そんな日本なぞ潰れちまえばいい…」と同じで  あったのです。   もちろん、終戦直後とは時代が違う、現政権のトップがそんなことを言った  ら大混乱を招く…というような現実の事情というのはあるでしょう。しかし、  そういう信念を持っている伊佐岡が、表に出ると大衆に媚びて保身を優先させ  てしまう…ここに現在の日本人が内包する矛盾の雛形が表現されているように  思います。ちょっと強引かもしれませんが、「わかっちゃいるけどやめられな  い」という…(^^;   今の日本の風潮では、「米を喰いたきゃ努力しろ!」と言われたら、他人を  押しのけて姑息な手段を使ってでも、少しでも自分優位になるように立ち回っ  てしまう方向に走りかねません。阪神大震災の折り、便乗値上げする小売り業  者や被災者を騙す建築業者がいたことは、記憶に新しいところです。そういう  ことではなくて、他者の立場をも自分と同様に尊重して上での努力が求められ  るのでしょう。                               アマデウス - FARION MES(16):■特設会議室 ■ シルバーバーチを語る 95/12/04 - 141/148 GBB03425 Paper Birch 影響を受けたマンガ(^^) (16) 95/12/02 21:54 126へのコメント ジョリーさん、どうも。  バーチャ2で遊びたい気持ちを抑えつつ、ひたすらレス書きにいそしむ。これ も議長のつとめってヤツよ。く〜、泣かせるねぇ。……と、ワケのワカラン事を 言うのはほどほどにして、さっそく始めましょう(^^)。 | Paper Birchさんは、どんなマンガに影響を受けられました?  「愛と誠」も「キャンディ・キャンディ」も「生徒諸君」も、読んだこと無い んですよね、残念ながら。僕の影響を受けたマンガと言えば、やっぱり「男おい どん」ですねぇ、松本零士の……。知ってます?  あれの主人公は、ふられてばかりのモテナイ君でしたから、「愛」とは全く関 係ない話でした。でも、「“男”ってなぁ、こういう魂を持って生きてなきゃぁ いけないんだぜ」みたいな部分で、子供の頃の僕の人格形成に大きな影響を与え たのは確か(^^)。  その傾向に、更にダメ押ししたのが、同じく松本零士の「キャプテンハーロッ ク」や「銀河鉄道999」ですね。それと、「戦場マンガシリーズ」「ザ・コッ クピットシリーズ」も忘れてはなるまい(^^;。  何故か松本零士のマンガしか思い浮かばないということは、それだけ好きだっ たということなんでしょうねぇ。もちろん、松本零士ファンになったきっかけが 「宇宙戦艦ヤマト」であったことは、言うまでもありません。 (....雑談モードになってしまったf^_^;) | ロミオとジュリエットだって、お互いの親同士の確執がなければ、あれほ | ど燃える恋にはならなかったでしょうね(^^;)。キャンディ・キャンディだ  ロミオとジュリエットの家(と言われている所)を、新婚旅行の時に見ました よ。....と、それはともかく(^^;、現実には燃え上がって駆け落ちした二人が、 いざ一緒に暮らし始めるとあっと言う間に仲違いして、離婚してしまう事も多い ようです。現実はキビシイ(^^;。  平穏に暮らしていても、深い絆で結ばれているのが、本当の愛なのかも知れま せんけど、それでは物語にならないですものね(^^)。 |>....だれですか、 |>「愛してるなんて、SEXしてる時しか言ったこと無いなぁ。」 |>なんて言ってるのは……(-_-;;; | | あなたですっ、Paper Birchさん!!  いや、ぼくは、何時でも何処でも誰にでも、言ってますから。(@_@)キッパリ では、また。 △▼△ Paper Birch △▼△ 142/148 GBB03425 Paper Birch シルバーバーチ感想会、再アップのお知らせ (16) 95/12/02 22:01  シルバーバーチ感想会も、ようやく7章がアップできました。それで、8章に 入る前に、13番会議室で行われていた頃のレジュメと、章毎の議論の内容のダ イジェストをアップしたいと思います。  今日は取りあえず1章だけですが、まとめ次第順次6章まで登録して行くつも りです。過去に参加し損ねた方など、コメントは歓迎いたします。よろしくおね がいします(^^)。  二回読まされることになる方。ゴメンナサイ(_ _)。 △▼△ Paper Birch △▼△ 143/148 GBB03425 Paper Birch シルバーバーチ感想会・一章 (16) 95/12/02 22:01 コメント数:1 ■「シルバー・バーチの霊訓.(5)」感想会■ ■一章 シルバーバーチとは何者か■   「私は荒野に呼ばわる声です。神の使徒以外の何者でもありません。私が   誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の   霊であるかは私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、   私の誠意が、私の判断が、要するにあなた方人間世界における私の仕事が   暗闇に迷える人々の心の灯となり慰めとなったら、それだけで私はしあわ   せなのです。」                       (P.14)  一章は「シルバーバーチとは何者か」というテーマでまとめられていますが、 結局、上のシルバーバーチ本人の言葉に尽きるのかもしれませんね。  シルバーバーチと言うと、インディアンの姿の肖像画が有名です。しかし、実 はシルバーバーチの正体はインディアンではありません。あの肖像画に描かれた 霊は、霊媒(モーリス・バーバネル)とシルバーバーチの間をつなぐ、霊界側の 霊媒です。シルバーバーチの本体(?)のバイブレーションがあまりにも高すぎ て、直接現世とコンタクトできないために、霊界側でも霊媒を使って中継しなけ ればいけないのだそうです。  その交霊の方法は非常に難しいもので、霊媒が生まれる前から準備を進めてい たにもかかわらず、はじめの頃の交霊会では普通に話すこともおぼつかなかった ようです。  シルバーバーチは本当は何者なのか? 分からないとなると知りたくなるのが 人情というもの(^^;。事実、翻訳されている霊言集の中でも、サークルのメンバー から何度も質問されています。しかし、初めての出現から霊媒の死までの60年間、 とうとう一度も自分の地上時代の名前をあかしませんでした。  「名前ぐらい言えばいいじゃないか。」....そう思う人もいるかもしれません。 しかし、本名をあかさないということにも、実は重要な意味があるのです。  少しだけ考えてみて下さい。もしもシルバーバーチの正体が.... ・・・歴史上の著名人だったとしたら、その言葉に箔が付くのでしょうか? ・・・無名の人物だとしたら、その言葉のありがたみは減じるのでしょうか?  歴史上の人物の名前を騙る霊言集が、ちまたに氾濫しています。が、本当に進 化した霊であれば、霊的な学びの段階でいえばせいぜい幼稚園レベルのこの世で の名前など、名乗る気にもならない(と言うより、恥ずかしくて名乗れない?) というのが本当の所でしょう(←近藤千雄さんの本からのウケウリ。(^_^;ゞ)  それに、「あの有名な○○の霊が仰せられたことだから....」などという幼稚 な権威主義は、真理とはもっとも遠いものだと思います。  ですから、地上時代の名前を名乗る霊は、まだまだこの世の人間のレベルに止 まっている程度の存在だということなのです。   「私は一介の神の僕(しもべ)に過ぎません。今まさに黎明を迎えんとし   ている新しい世界の一役を担うものとして、これまで忘れ去られてきた霊   的法則を蘇らせるために私を地上へ遣わした一団の【通訳】にすぎません。   私のことをいつもマウスピース(代弁者)としてお考えください。地上に   根づこうとしている霊力、刻一刻と力を増しつつある霊の声を代弁してい   るにすぎません。」                     (P.14)  シルバーバーチの特徴の一つに「謙虚さ」が有ります。自分への称讃は、決し て受けようとはしません。自分への感謝の言葉にも必ず、感謝は自分にではなく 大霊(神のこと)にするように求めます。  シルバーバーチへの感謝が、いつしか崇拝に変わり、メッセージが二の次になっ てしまう恐れがあるというのです。   ----でも私たちにとって、あなたは単なる代弁者の声ではなく実在の人物     です。   「私は別に私には個性がないと言っているわけではありません。私にもちゃ   んと個性はあります。ただ、こちらの世界では“協調”ということが大原   則なのです。一つの大きなプランがあり、それに従って共通の利益のため   に各自が持てるものを貢献し合うということです。身分の高いも低いもあ   りません。あるのはそれまでに各自が積み上げてきた霊的成就の差だけで   す。開発した霊的資質と能力を自分より恵まれない人のために惜しみなく   活用し、代わってその人達も自分より恵まれない人のために持てるものを   提供する。かくして地上の最低界から天界の最高界に至るまで連綿として   強力な霊的影響力の輪がつながっているのです。」       (P.15)  つまりそれが、シルバーバーチの良く言う「他人のために自らを役立てる。」 ということなのでしょう。しかし、そのような「強力な霊的影響力の輪」をつな げるもの。人間のために貢献したいという、シルバーバーチの強烈な想いは、ど こから出ているのでしょうか。   「私たち霊団の者は功績も礼も感謝もいっさい求めません。お役に立ちさ   えすれば良いのです。争いに代わって平和を見ることができれば、涙にぬ   れた顔に代わって幸せな笑顔を見ることができれば、病と痛みに苦しむ身   体に代わって健康な身体を見ることができれば、悲劇を無くすことができ   れば、意気消沈した魂に巣くう絶望感を拭い去ってあげることができれば、   それだけで私たちは託された使命が達成されつつあることを知って喜びを   覚えるのです。    願わくは神の祝福のあらん事を。願わくは神の御光があなた方の行く手   を照らし給い、神の愛があなた方の心を満たし給い、その力を得て代って   あなた方がこれまで以上に同胞のために貢献されんことを切に祈ります。」                                 (P.18)  人間としてかくありたいものですが、私たちは果たしてシルバーバーチの祈り に答えることができているのでしょうか。  さて。一章の概略を紹介しました。あらかじめ考えていた構想とは裏腹に「解 説」のようになってしまいましたが、こんな感じでもよろしいでしょうか?チョットシンパイ  もちろんここで紹介した以外にも感動的な言葉はたくさんありますから、是非 とも皆さんの心に残った一節を紹介いただいて、感想を聞かせて下さいね。僕も、 もう少し何か書くつもりです。(^^) △▼△ Paper Birch △▼△ (元発言のタイムスタンプ:mes(13) 94/12/08 23:22) 144/148 GBB03425 Paper Birch RE:シルバーバーチ感想会・一章 (16) 95/12/02 22:07 143へのコメント  13番会議室にアップされた、シルバーバーチ感想会の一章に付けられたコメ ントからの抜粋です。完全ではありませんが、おおよその議論の流れは把握でき ると思います。発言番号は全て13番会議室でのものです。  コメントのつながりは、次のようになっています。├と└は、機種によって文 字化けするかも知れませんが、ご容赦下さい。(_ _)ペコリ 02001 Paper Birch シルバーバーチ感想会・一章 ├02003 YUKI RE:シルバーバーチ感想会・一章 ├02007 KAZE いよいよ「感想会」のはじまりですね(^^) │├02018 YUKI RE:いよいよ「感想会」のはじまりですね(^^ ││└02047 Paper Birch RE:いよいよ「感想会」のはじまりですね(^^ ││ └02063 YUKI 新年の挨拶+感想会の続き ││  └02072 Paper Birch 背後霊の交代 │02027 Paper Birch RE:いよいよ「感想会」のはじまりですね(^^ │└02032 KAZE 認識の深みからの共感・共苦・共同 └02014 《 隆 》 RE:シルバーバーチ感想会・一章  └02037 Paper Birch RE:シルバーバーチ感想会・一章 ■02007 KAZE いよいよ「感想会」のはじまりですね(^^) |霊言に限らず、その人の「名前」とそれに関連したさまざまな肩書きで |その人の言ってることを鵜呑みにしてしまう方というのは多いですから、 |そういう意味でも、権威化しないというのはいいですね。 |ぼくらのような地上的存在は、あまりにも目が曇ってしまっているので、 |その「お役に立つ」ということこそが糧であり喜びであるということが |ぜんぜん分からなくなってしまっています。 |つまりは、「与えたものが返ってくる」というカルマ的連関なのですが、 |そういうのが直接はわからないにも関わらず、 |そういうあり方ができるというのが人間の理想ですね。 |そして、それこそが人間の最高の進化に寄与することでもあるのでしょう。 ■02018 YUKI RE:いよいよ「感想会」のはじまりですね(^^ |きすれば、やはり、その権威に溺れてしまうかもしれません。他人からチヤ |ホヤされると、やはりニタニタしてしまいます。 |仮に、シルバーバーチが自分の地球上での前世を告白したとしましょう。 |(1)シルバーバーチは、イエス.キリストであった。 |(2)シルバーバーチは、乞食だった。 |(1)or(2)の、どちらのシルバーバーチを愛読しますか? 私は、理性 |では「内容で選択する」と思いますが、悲しいかな、(1)の方から読んで |しまいそうです。(;_;) ナサケナイ ■02047 Paper Birch RE:いよいよ「感想会」のはじまりですね(^^ |「何故シルバーバーチは、本名を言わなかったのか?」 |それを理解できるかどうかというのは、一つの重要なポイントだと思うんですが、 |残念ながら、かなりシルバーバーチを読み込んでいる人でさえ |「シルバーバーチの前世は○○だ。」と言いたがる人が居るようです。 |情けないことです。 (「〜の神から通信を受けている」と吹聴する人を指して) |それが本当だったら(そういう事が本当に起きるほどの人ならば)、 |その事は自分の心の中にそっとしまっておくんじゃないかと思うんですが、 |どうも、言いたくて仕方がないようで、ナンとも困ったモンです。 |自分の虚栄心もコントロールできない人間が、 |天だの神だの、片腹痛いわ!....と、言いたいところですが、 ■02063 YUKI 新年の挨拶+感想会の続き | 偽物からの護衛策として、私は次のように考えています。 |「一人の人間(=霊媒士、霊能者、霊覚者)だけを、信じてはいけない」 |「一つの<天>だけを、信じてはいけない。」 |つまり、たくさんの情報源の中からたくさんの情報を入手して、保留にしておく。 |その後、自分の心に実に自然に受け入れられる部分だけ、取り入れれば良いのです。 |気に入らなければ、どんどん捨ててゆけば良いのです。自分が気に入らないから |といって、公に非難する必要もないと思います。この世にはホントいろいろな人が |いるので、他人にとってはそれが真実かもしれないのですから。 ■02072 Paper Birch 背後霊の交代 | 但し、ガチガチの唯物論者だった時から現在まで、一貫して「懐疑的姿勢」を |持って、すべての物を見てきたのは事実ですし、その姿勢はこれからも変わるこ |とはないでしょう。なぜなら、どんなに疑ってかかっても、その懐疑的姿勢が理 |性的な物である限り「事実は事実で在り続ける」と信じているからです。 | |「事実は頑固な物である。」という名言もあることですしね。 (#2063の、上で引用した部分に対するコメント) | 実はスピリチュアリズムが、当にこれなんですね。数え切れないほどの霊言・ |霊能者を比較検討できるわけですから。で、都合のいいことにスピリチュアリズ |ムの定義と言うのはわりとルーズですから、一人一人が好きなように霊的世界観 |を追求できるんじゃないかと思うわけです。ですから僕にとっては、シュタイナー |も、ケイシーも、出口なおや中山みきの「お筆先」も、そしてもちろんARION |だって、スピリチュアリズムに含まれてしまうんですねぇ(^^;。 ■02027 Paper Birch RE:いよいよ「感想会」のはじまりですね(^^ |ただ、そういう高次の霊的存在が高次の存在であるゆえんは、 |(地上的存在が)恋人や、我が子に向けるのと同じ「無私の愛情」を |赤の他人に対しても、無条件で持つことが出来るという事なのかもしれませんね。 |愛情の懐の深さが違うというか.... |で、役に立つとか、与えるとか言うと、 |ボランティアの活動でもしなければいけないと思いがちですが、 |(勿論、そういう事も良いですが、そればかりではなくて) |普段の生活や、仕事の中で実践できるのが本当でしょうね。 |宗教団体などが、よく団体でやっている奉仕活動のようなものも、 |それに参加している人達が、自分の家庭をなおざりにしていることも多いようで |どこか勘違いしているように感じます。 ■02032 KAZE 認識の深みからの共感・共苦・共同 |それが自分の感情の満足のためにばかりそれをするのはどうかと思います。 |やはり、そこにちゃんとした認識が必要なんですよね。 | |たとえば、シュタイナー的な薔薇十字の立場では、 |同情心ばかりを強調しすぎるのは「アストラル的歓楽」にすぎません。 (シュタイナー「薔薇十字会の神智学」からの引用) | のです。同情心を絶え間なく強調するのは、一種のアストラル的歓楽と考 | えられるからです。アストラル界において物質界における歓楽に相当する | ものは、いつまでもただ感じようとし、認識しようとしない傾向です。生 | 活に関与しうる日常的な認識−−もちろん、唯物論的な意味ではなく、霊 | 界から下ってくる認識−−を通して私たちは実際的な働きができます。世 | 界は進歩すべきであるという認識からは、おのずから調和が流れ出ます。 ■02014 《 隆 》 RE:シルバーバーチ感想会・一章 | 僕は常々、自分は(というよりみ〜んなですが)神様(ここでは天之御中主神とし | ておきましょう)の分御霊を頂いていると思っています。だから、魂を磨けばちゃ | んと神様の意志は伝わる。たとえ声や文章にならなくてもね。っで、シルバーバー | チのような存在は、その事をわからせようとしてくれているのではないのかしらと | 思ったのでした。 ■02037 Paper Birch RE:シルバーバーチ感想会・一章 (#2037の、上で引用した部分に対するコメント) | で、せっかくですから、「霊界から見守っている」ということに関して、テキス |ト(『シルバー・バーチの霊訓』5)の一章から紹介しましょう。 | |  私たちはふだんは物質というベールによって隔てられておりますが、いつ |  いかなる時も身近にいて、情愛をもって力になってあげていることを知っ |  て下さい。私たちがお持ちする力は、宇宙最高の霊力であることを心強く |  思って下さい。私たちはもっとも身近にして、もっとも親密な存在である、 |  あなた方のために尽くすことによって、神に仕えんとする僕にすぎません。 |   私のことを、ほんの一、二時間のあいだ薄明かりの中でしゃべる声では |  なく、いつもあなた方の身の回りにいて、あなた方の能力の開発と霊的進 |  化のために役立つものならなんでもお持ちしようとしている、躍動する生 |  命に溢れた生きた存在とお考え下さい。語るときはこうして物的感覚(聴 |  覚)に訴える方法しかないのはまどろこしい限りですが、私はいつも身近 |  に存在しております。必要な時はいつでも私をお呼びください。私にでき |  ることであれば喜んで援助しましょう。            (P.19) | | もちろん「援助する」と言っても、頼んだことを何でもやってくれるわけでは無 |いことは、言うまでもありません。 以上です。 △▼△ Paper Birch △▼△ 145/148 GBB03425 Paper Birch RE:まとめてレスです (16) 95/12/03 17:21 130へのコメント 矢口さん、こんにちは。 | 今の現状を見る限り特にルールは必要ないようですね。 ご理解頂けたようで、嬉しく思います。 今は、こういう良い雰囲気でお話し出来ることを、 ご参加いただいている皆さんに感謝しています。 これからも、皆さんが気持ちよく議論できる場を提供できるよう 頑張りたいと思っています。 今後ともよろしく。(^^) △▼△ Paper Birch △▼△ 146/148 GBB03425 Paper Birch RE:インディビジュアリティとは.... (16) 95/12/03 17:22 131へのコメント みのるさん、こんにちは。 インディビジュアリティ関連の話はご理解頂けたようですね。ヨカッタヨカッタ |最近皆さんのおかげでパソコンに異様なほど興味を持ちまして、 |寸暇を惜しんで読み耽っております。  うふふ、夢が膨らみますね(^^)。パソコンの購入計画ほど楽しいものはありま せんものね。僕も、MAC LIFEとかの雑誌を買ってきても、記事を読む時間より広 告を眺める時間の方が長い位です(^^;  読書会の方は気になさらずに、悔いのない購入計画を立てられますように(^^) 6章までのおさらいをしてから8章に入るつもりですから、しばらくFMACBG辺り で遊んでてくださって結構ですよ(^^; では、また。 △▼△ Paper Birch △▼△ 147/148 GBB03425 Paper Birch RE:発言状況 (16) 95/12/03 17:22 132へのコメント こむさん、どうも。 大変な集計、ご苦労様でした。 こうして観ると、なるほど、1/3が挨拶ですか。 そういえば最初の何日かは、挨拶ばかり沢山書いてました(^^)。 パソコン関連が全発言の1割あるのは、みのるさんの説得工作ですね(^^; みのるさんもいよいよマックの購入を決意されたようですし、 この傾向はしばらく続くかもしれませんね。 △▼△ Paper Birch △▼△ 148/148 GBB03425 Paper Birch お医者さんも大変なのかもね (16) 95/12/03 17:22 133へのコメント ジョリーさん、こんにちは。  「ジョリー」も「ラリー」も、大して変わりませんよ。もうジョリーさんはジ ョリーさんですから、いまさら変えられませんね〜(^^)。 | 医療技術が大変な進歩をしたといっても、その殆どは検査技術の発達で、具体的 | な治療法は、戦前からほとんど変わっていないということを聞いたことがありま | す。   へぇ、そうなんですか。まぁ、医学のことは詳しくないですが、新薬としても てはやされて、日本中でかなり使われた薬でも、何年か後に効力がなかったこと が判明したりすることもあるらしいです。そういうことを考えると、動物実験や 人体実験を繰り返してきても、犠牲の大きさのわりに、医学の進歩は微々たるも のなのかもしれませんね。  しかし、何もしないわけにはいきませんし、難しい所です。 △▼△ Paper Birch △▼△ - FARION MES(18):武道とは?  ★ 自分に勝つ! 95/12/04 - 02699/02700 HGE01437 鷹 コメントが付けれん (18) 95/12/02 15:15 コメント数:1 本当はコメントにしたかったんだけど、やり方を忘れた(^^;)ので、取りあえず前回の 続き(にはならないかも) 無意識の動き   反射的な動作や慣れてしまって何も考えずにしている作業など、結構日常の中に  無意識の動きはあります。もしこれが、今までに何となく身に付いてしまっている  ものならば、その合理性や柔軟性に一度着目してみると良いと思います。   どのように着目するか?それは、取りあえずゆっっっくりやってみると良いので  はないかと思ってます。例えば、意識してゆっくりキーボードを打ってみる。そう  すると、「この指よりこっちの指で打った方が打ち易いな」というのに気づいたり  します。そして、そこを何度も練習して習慣による無意識の動作を組み替える。   そうして練習しているうちに、今までの習慣通りに指が行こうとするのを意識し  つつ新しい打ち方を強引に割り込ませる、何てことが起こります。この辺、慎重な  る瞬発力と似てません?→アマデウスさん   反射的なものの場合もうちょっと厄介で、身に危険があるから本能として反射運  動を起こす。「ゆっくりやってみよう」なんてやってると命に係わる。そこで多く  の武術の稽古の場合、その危険な状況を疑似的に作ってみる。その状況下で意識的  に合理的な動作を身に付けて行く。これが形稽古ですね。   稽古とは言うなれば「無意識の動きを合理的、効果的な動きに組み替え、意識さ  れた状況下でその無意識の動きを有機的に連続させる」ためのものでしょう(書い  ている本人にすら分かりにくい表現になってしまった(^^;))。   そして、その動きの中で「意識の対象」や「間合い」「目付け」という問題が浮  上してくるのであり、それぞれが独立した問題として有るのではないと私は考えて  ます。 導さん   「空とは何か」とのことですが、私としては「拘りのない」ことだと解釈してい  ます。ただ、ぼーーーーっとしている状態と違うのは、全てを認識し、理解した上  で、何に対しても拘らないということで、非常に難しいですよね。   まぁ、本題に入る前に私の考える武道というのを話しておきますと、武道と武術  というのを分けて考えているということ。武術というのがいわば「車」で、武道と  いうのが「道路」ですね。技を覚えるというのは車の運転を覚えるのと同じ。  そうして乗り方を覚えたその車で、「武道」という道路を走る。どこへ行くかは本  人次第。使い道を誤れば無為に人を殺める。技量が足りなきゃ自滅する。   たどり着く先に何が見えるのか?正にドライブ気分で稽古してます。(かれこれ  10数年。いやー、遠いわ) あもり議長   武蔵ですか?いいですね。実は私「隠れ武蔵ファン」でして。五輪の書はもう何  度読んだ事か。あれって抽象的な部分の少ない「マニュアル」みたいな書だと思い  ます。   本当に尊敬に値する人だと思いますが、もし同時代に生きていたらきっと友達に  なりたくないタイプの人だろーなー(^^;)     文章書くのって本当に時間がかかる。ちっとも仕事が進まないブツブツ      (だから仕事中は仕事をしなさいって(@_@))                        GNP逆成長の先鋒  鷹 02700/02700 BYK00511 導 RE:コメントが付けれん (18) 95/12/03 12:14 02699へのコメント 鷹さん、いつも分かりやすく非常に明快な発言に眼を見張る思いで 読ませて頂いております。 武術と武道の違いも分かりやすい譬えでであると思いました。 確かに武術は技術です。 車の運転も技術が前提です。 しかし、車の運転技術の半分以上は道路の走り方、即ち交通ルール を学びます。又ベテランドライバー程交通ルールの枠を超えた、道路 のマナーを経験的に学んでいると言えます。 スピードを出してコーナーを曲がれる。ハンドルテクニックが器用で 渋滞もすり抜けられる。等を自慢して道路を走り回る人がいますが、 この様な人が事故を引き起こしている確率が非常に高い事は言うまでもなく 、道路全体を走りにくくしている本人でもあります。 何故、渋滞するのか考えてみて下さい。私は間合いと言うことに関係している とある時気付きました。 前の車と後ろの車の車間距離が狭いと前の車が止まれば、自分の車も止めなくては ならなくなります。しかし、車間距離が長いと前の車が止まっても、距離があり ますので、距離が詰まるまで徐行することが出来、前の車が動けばそのまま 走り続ける事が出来ます。1台だけでは無理かもしれませんが、みんながそうした 事を心掛ければ少し渋滞は解消されます。斜線変更箇所、例えば2車線が、 1車線になる場所も渋滞しますが、交互にいれてあげれば結構スムーズに道は 流れます。 武道に於いても、術の大半は道の歩き方であることに気付くと大きな進歩が 表れます。即ちこれが間合いなのです。武は礼を重んじるというのは、この 道の歩き方の入門編です。 国、社会、時代によりルールは変わり、個人に於いてもルールーの解釈は 異なります。しかし、時代を超え、あらゆる枠を超えたルールを掴んでいれば 、否、そこまで大きな法に出逢わずとも、出来るだけ大きな視野に立ち 状況を客観的に捉え、全体において今何が最善かを知ることが出来れば、道は 見えるはずだと私は思います。そこには様々な標識があります。 その標識こそが先人の導き、自然大我の導きであり、私のめざす愛機導の導で あります。 宮本武蔵が沢庵和尚に負けた理由はこの道の差なのです。 時速250kmで走れる車を以ていようと、100kmがやっとの軽自動車であろうと 渋滞の道路では同じ価値でであり、寧ろ燃費の差で軽自動車に軍配が上がります。 高速道路では勿論軽自動車は負けるでしょう。問題は道により、道を行く目的 にあり、自らがその道を正しく歩んでいるかであります。これが機です。 人生は道路より遥かに複雑で見えにくい道です。この道の道しるべ即ち導きを 探すための明かりが愛なのです。この愛という明かりを燃やす燃料が空なのです。 一筋の剣の軌道も、人生の歩みも1つであると私は思うのです。 - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 95/12/04 - 729/732 GCG01101 アマデウス RE:幸せ (19) 95/12/02 23:41 726へのコメント #726 猫の手 さん   はじめまして。毎日の猫の手さんの書き込み、読ませていただいており  ます。とっても繊細な感覚をお持ちなんですね。今回の書き込みから、  以前読んだ「パパラギ」を思い出しました。南洋の島の酋長が見た西洋社会  の描写が心を打つ、佳作でした。猫の手さんはお読みになりましたか?  あ、みれさんは宮沢賢治を思い出したんですね。   だから何だと言うわけでもないのです(^^;が、なんだかレスを付けたく  なってしまったのでした。                    失礼しました〜(^^; アマデウス 731/732 QZY01267 猫の手 RE^2:幸せ (19) 95/12/03 07:44 727へのコメント    みれさん、コメントをありがとう。  みれさんのコメントを見ただけで、勇気づけを受けた気になって、じわーっ と涙が瞼に溜まってしまいます。  自分で書いていることながらそれが本当のことかどうかは分かっていないと いうのが真相です。でも、たとえそれが嘘であってもかまわないと思っていま す。  ときどき私も賢治を思い出します。賢治には華やかな明るさはなかったけれ どほのぼのとして暖かさがありました。私のつたないRESから宮沢賢治を思 い浮かべてもらえるなんて光栄です。  私は私の語り方で、私の世界を語ってみたいと思います。  いつも読んでくれていてありがとう。            いつも読んでいてもらえると思えるだけで十分です。         ** QZY01267/『猫の手』 <95/12/02 22:38:11> ** 730/732 QZY01267 猫の手 死後の行先 (19) 95/12/03 07:44 コメント数:1  生きるものは皆、死ぬことになってます。  死んだ後、殆どのものは天国に行きます。  天国に行かない人もいるけれど、  そういう人は、天国へ行くよりも  生きていた世界に想いが強く残りすぎて  体がなくなっているにも関わらず  生きていた世界にふらふらしていたり、  天国に行くことを拒んで、  別の処へ行こうとしたりしています。  死んだからと云って  地獄へ行くものなど何者も居ません。  どんな重大な過失を犯した人でも、  どんなに残虐だった人も  聖職者も、  みんな天国へ行きます。  途中でふらふら寄り道していた人も  いずれは天国へ行きます。  早いか、遅いかの違いだけです。  「死んだら、直ちに地獄へ真っ逆さま」  なんて人はどこにも居ません  誰も居ません。  みんな、  一人残らず天国へ行くことになっています。    良かったね。  誰もが天国に行けるのですから。  さて、天国と云うところはどんなところでしょうか?  綺麗な姉ちゃんが隣にはべってくれて、  毎日毎晩、飲めや歌えやの豪遊をし続けていられる処?  もしかしたらそういうところかもしれません。  でも、そういうところを期待して行った人は  きっと裏切られることになるでしょう。    アッいや、  もしかしたらそういう天国もあるかもしれません。  落胆させて、御免なさい。  人によっては、  全く期待を捨てる必要はありません。  人によっては、  そういう天国が実際に実現するのですから。  強く願っている人は、  実際にその世界が実現するのですから。  とりあえず、  ここでは一般的な話をしておきましょう。    天国というところは、  誰もが、総ての能力を開花させていく場所です。  そう、誰もが生きている間に、  あの能力があったら、  この能力があったら、  ああできたら、  こうできたら、  と想ったことがあると思います。  天国というところは  その能力を自分の好きなだけ開花させて行くところです。  何の制限もありません。  ようするに、  綺麗な姉ちゃんを隣にはべらせ、  毎日毎晩飲めや歌えやの豪遊をするだけの能力なんか  簡単に手にすることができてしまうでしょう。  実際にそれをするかしないかということは  別の問題です。  良かったですね。  死んだらあなたも私も  全知全能のこの世界を生み出した神の姿に戻っていくプロセスを歩み始める のです。  そう、  どんなことも容易に操作できるようになってしまうでしょう。  そう、  総てのものが何を考えているか  みんな見えてきます。  自分が過去にやったこと、  みんな思い出してしまいます。  どういう想いをしてやったのか  みんな思い出してしまいます。  それと同時に、  それに相対した人々のやったこと、  そしてどういう想いで居たのか、  そしてそれによりどういう影響があったのか  全能になってしまったあなたは  みんな見てしまうことになるでしょう。  あなたはこの世界の総ての記憶を取り戻す過程を歩み始めるでしょう。  多くの人の場合、  自分が全能になって最初に興味が湧くのは  過去の自分のこと、  特に最近の過去のこと、  過去に出会った人々のこと  特に最近の過去に出会った人々のことのようです。  そのことを順次思い出していこうとします。  そのことを巡りつつ覗き見て行くことをしていきます。    多くの人は  自分の人生をちらっと覗き見ただけで、  それ以上それに触れたくないと思ってしまいます。  多くの人は  過去に出会った人々が  何を考えて居たのかなんてことに  もう触れるのなんか御免だ  と思ってしまうみたいです。  何故でしょうね?  何故でしょう?  そしてもう早速次の人生を選び始めています。  あれほど憧れていた天国からさっさと去って、  狭い世界に入っていきます。  何故でしょね?    そしてある人は  ある貴族の家を選んで生まれていくことを選びます。  そしてある人は  ある娼婦の子供になることを選びます。  人間でないものを選ぶ人もでてきます。  誰も、こうしなさい。  ああしなさいなんて云わなかったのに。    安心してください。  誰もが天国に行くことになってます。  どんな罪を犯した人も  どんな善行を積み続けた人も  みんな同じように平等に天国へ行くことになっています。  行ってからどうすることを選ぶかも  みんな誰もに任されているんです。    良かったですね。  これで安心して死ねますね。  総て自分の選択に任されてます。    良かったですね。  これで安心してなんでもできますね。           ** QZY01267/『猫の手』 <95/12/02 23:27:10> ** 732/732 QZY01267 猫の手 RE:天国の裁判 (19) 95/12/04 06:38 730へのコメント  沢山悪いことをした人がおりました。  そこら中の銀行からお金を強奪して、  人も沢山殺しました。  誰かをだまくらかすなんて  朝飯前でした。  やりたい限りを尽くして死にました。  人間界の裁判では  判事の全員一致の死刑の宣告でした。  そして、絞首刑の刑罰で死んでいきました。  そんな人も天国への階段を上っていくことができました。  どこの誰もと同じように  一歩一歩上っていくことができました。  その先には、  その人に殺された沢山の人が待っていました。  そして自分の人生が  どんなにその凶悪犯のために踏みにじられたか  閻魔さんに語りました。  その凶悪犯は、  自分がしたことを全部認めました。  何もかも認めました。  閻魔さんは何も言わずにその凶悪犯を赦しました。      多くの人にとても尊敬された人が死にました。  とても沢山の人に尊敬されてました。  盛大な葬儀がされました。  葬送の列が延々と続きました。  その葬儀を後に  その人も誰もと同じように天国の階段を上っていきました。  その人はさんざん苦労して  人の役に立つことをしたのだから  天国に行くのは当然だと  胸を張って天国への階段を上って行きました。  ところが、  乞食をしていたものも、  盗っ人をしていたものも、  同じ階段を上っていくのを見て  不満に思いました。  地獄に堕ちてもおかしくない奴等と  全く自分が同じようにして  自分も天国に上っていくことが不満でした。  その人は天国に着くなり  その不満を閻魔さんにぶちまけました。  「私はさんざん苦労して人のために尽くしてきたのに、   糞の役にも立たなかった奴等が   何故天国に着ちゃうんだ。」  閻魔さんは何も言いませんでした。  ただ来た人をみんな赦すだけでした。    その人は不満でした。  不満で不満でたまりませんでした。  文句を言い続けました。  不満をぶちまけ続けました。  そしてその不満の中で苦しみ続けました。  苦労しても報われない不満で苦しみ続けました。      エッ凶悪犯の方は閻魔さんに赦されてどうなったかって?  「自分は、絞首刑にあって人間界で十分罪は償った。」  と、開き直って幸せにしていたという説と、  赦されたことがその本人にとっては  もっとも重い刑罰だったという説とがあります。  どちらだったかはあなたの想像に任せます。          ** QZY01267/『猫の手』 <95/12/03 00:29:27> ** >◆次頁はありません◆