己の心に耳を澄ませば「恥」が分かる、恥が分かれば誇りも分かる - FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 95/12/15 - 05105/05105 PFA03563 YAHATA 祝・システムアドミニストレータ試験合格! ( 2) 95/12/14 23:40  一部では「情報処理3種」と皮肉られているこの試験に見事合格しました。 この試験の対象はパソコンのアプリが一通り使えて仕事に活かせる人というこ とらしいです。合格証書には橋龍さまのサインが。(^_^;)  さ、証書のコピーを総務に送って、また社報に載せてもらおっと。 めでたい! YAHATA - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 95/12/15 - 01038/01040 GGA02514 KAZE 場を響かせること ( 3) 95/12/14 16:52 01037へのコメント ぷんすかさん、どうも。 >「受け入れる」ということばが新鮮に聞こえました。 そうですか、そうれはうれしいですね(*^^*)。 Oさんも、それを実感でき、演奏に生かすことができるまでには かなりな紆余曲折があったそうですし、 いつでもそれがちゃんとできるかどうかもわからないそうです。 しかし、それは姿勢としてどうしても必要なのだそうです。 でないと、音楽がエゴの表現になったり、自己目的化してしまいますから。 そうそう、これと似た話を、古楽で フラウトトラヴェルソを演奏している有田さんもおっしゃってるそうです。 「吹いちゃだめなんだ」と。 有田さんの小演奏会でぼくも体験したことがあるのですが、 フラウトトラヴェルソのほんとうに小さな響きが、 ホールの空間に共鳴していたのです。 つまり、音を吹いて出すのではなく、笛を通じて、 その場に音楽を響かせるということではないかと思います。 Oさんも、声を出す、というよりも、 自分という場のなかで音楽が生成していく、というようなことを おっしゃってましたが、よく似ていますよね。 >「音楽がすき」という、原点の心からだんだん遠ざかっていました。 そうそう、ぼくの知ってる範囲の話ですが、 クラシック演奏などでは、「音楽が好き!」っていう方は、 少ないのではないかという印象があります。 むしろ、ロックをやってる方々のほうがずっと 「音楽が好き!」っていうのが伝わってくるんですよね。 つい先日も、アマチュアミュージシャンを集めて、 コンサートのイベントをしたのですが、 そのときに、ほんとうに、参加された方々が、(見かけは、ヤンキーですが^^;) ほんとうに「音楽が好き!」でやってるんだなあというのを感じました。 ぼくの仕事は、なんだか否応なくやってるって感じですので^^;、 そうすごくはありません。 頑張らなくちゃいけないとは思ってるんですけどね・・。 そうそう、明日もCMのロケで雪山に行くんですが、 遊びと違って、けっこうハードになりそうです。 (ものぐさの性格が腰を重たくしています^^;) では、音楽の話、楽しみにしています(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 01039/01040 QZY10121 ぷんすか KAZEさん、雪山には気をつけて ( 3) 95/12/15 02:13 KAZEさんは文章がうまいですね。すごくわかりやすいです。 クラシック音楽の世界でもそうなんですが、やはりどれだけ相手に伝わっているかを 認識できないといけない部分があるとおもうんです。もちろん、「音楽がすき!」と いう気持ちが一番大事です。でも、音楽は「響き」の芸術だから、伝える相手が必要 です。相手の耳に響くだけではなく、心にも響いてゆく、それがいつできるかわから ないですが、いつかはできるようになりたいな・・と思っています。 現在、というよりも明治の文明開化の頃より、「西洋音楽」というものに日本人はコ ンプレックスをいだいて来たわけですが、それは今もあるわけで、なんだか「クラシ ック」というだけで「すごい」「まじめ」などという人が未だにいっぱいいるのが残 念です。でも、同じにんげんが作ったものなのになぜ? 話しはかわって、最近のわたしのお気に入りのコンパクト・ディスクはグレン・グー ルド演奏の「ゴールドベルク変奏曲」です。晩年の録音バージョンの方です。最初の テーマの部分で、「ああ・・」と、いてまいそうな気持ちになります。ゆっくりなテ ンポで、美しく奏でられるこのアリアは、ほんとうにいいです。 それと、冬の季節にあってるかな・・と個人的に思っている曲は、フォーレの「レク イエム」と、細野はるおみ(変換されなかった・・)の「銀河鉄道の夜」です。今は なき「テッチー」という雑誌に「銀河鉄道の夜」の評論がでていまして、その方(誰 かわすれました)も、「冬によい」とかいてました。 仕事、がんばってください。 それではまた。 - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 95/12/15 - 00422/00424 QZE14371 雲上仙人 RE:もんじゅの事故に寄せて ( 5) 95/12/14 20:10 00420へのコメント TO:RE>もんじゅの事故に寄せて FROM:雲上仙人  どもども 雲上仙人です。 最初にお断りしますが、反論ではありません。誤解無きように。  まず、前半部分についてはまったく同感ですし、反原発の考えを持っています。  ただ残念ですが、反原発の運動を行っている方々とはある種の違和感があります ので、そのような運動を行ってはおりませんが…。  で、後半の大部分についても共感を得られるのですが、「薄ら寒い思い」を私も 感じましたが、べつの意味からでしたので長い文章で申し訳ありませんが、RES RESいたします。  >         マニュアルがあってもそれが役に立たないと言うことは、  > 管理に携わっている者が普段いかに緊張感を欠いているかを示しています。  この部分なんですが、かの「もんじゅ」に携わる管理職員に緊張感が在ったか無 かったかと言うことは解りませんが、譬え在ったとしても出来なかった可能性もあ る、と言うことが考えられます。もちろん、だからと言って彼らが免責されるわけ ではありませんが。  どういうことかと言いますと、管理職員は自分で何かを為すことが行政の規則上 無い場合が多いのです。部下は常に上司の名前で仕事をするのが原則なのです。逆 に言いますと、上位の者は自分の名前で下位の者に仕事をしてもらうことになって いる訳です。ですから公共団体の発する文書は全てその所属長の氏名になっていま す。そして、その所属長の一つ下位の者は自分の職氏名を以ってさらに下位の者に 実務を担わせる…以下延々と下に向かって続く。  で、ある種の事故が起きた場合であっても、この経路が変更あるいは無視しても 良いとは成っておりませんから、原則として自分で作業をするわけにはいかないの です(現実には現場はそんなことは無視するようにして、実作業をしますが…)。 とくに今回のようなマスメディアの注視を得る場合が十分に予想される場合は尚更 原則どおりの対応をせざるを得ません。なぜなら内外から問われるのは如何に手順 どおりの対応をしたかなのですから。  残念なことに、規則や規約を越えてその場の状況にもっとも適したと判断される ことを為して良いとは成っていないのです。また、そうしても良いとされている場 合であっても、後に事細かな対応手順(年月日はもちろんのこと、作業を始めた時 間を分単位で正確に記述することが要求され、しかもそれを証明する者の氏名を明 記しなければならない)を説明しなければならないのです、公文書で。  事故に直面した者が複数単位で作業をすることが要求されていると言うわけです。 一人でしてはならないわけです。作業手順書の文章としては此れで良いように思わ れますが、実際上は無茶です。事故は職員が複数いるところのみ常に起きてはくれ るわけではないからです。一人で発見したら、すぐにすることは別の職員に伝える ことなのです。そして上司に報告することなのです。事後報告が許されるのは軽微 なことのみですから、事故の場合は必ず事前に報告することが義務づけられていま す(どこの世界に事故の対処を事前に上司に報告できる者が居るだろうか…)。そ して、その上司の判断を仰いでから作業をするわけです、部下職員は。 もちろん、 その上司は更に上位職員の判断を仰ぐのは言うまでもありません。これがその団体 の所属長に達するまで続く・・・で、事故の対処が手後れになる。‥‥(__;)ウウッ  行政組織手順の根本を直さない限り事故処理の手遅れは今後もさらに続くだろう と言う薄ら寒い現実があるのです。しかも、どんな事象であっても「事故」は必ず 起きるのです。完全な予防手段は現実にはないのです。                                  雲上仙人 00423/00424 NBB01420 SUKE RE:会員証疑惑 後日談 ( 5) 95/12/14 23:16 00421へのコメント #421 修羅君、流石にしっかりやってますね。 >>   きっと僕は戻ってきた会員証を真っ二つに破いて、あの店には2度と >>  行かないでしょう。 あ、賢明ですね(^^;) そうやって、企業は淘汰されて行くのねー(^^;)                        (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 00424/00424 GBA01052 CHARAN とんでもオヤジ ( 5) 95/12/15 13:14 アラスカの犬ゾリレースに過去6回参加し、今度7回目の挑戦を すると言う某探検家K氏を取材する機会があった。 なんつーか、とんでもないオヤジだった。 どうとんでもないかと言うと、レースは1900キロの大雪原を 2週間以内で走破し順位を競うわけだが、前回の優勝者はレース中の 睡眠時間がトータルで8時間、ちなみにK氏は「13時間も寝ちゃった」 そうである。 レース中に必ず24時間の休憩をいれなくてはならない、 という規則があってこれだから、いったい何がそんなに、と思うのだが、 例えばワンちゃん達の足を保護するために、ブーティーズと呼ばれる ソックスのようなものをはかせるのだが、随時交換が必要となる。 K氏の場合、17匹のワンちゃんがレース中使用するブーティーズが3000足!。 だいたい想像がつくのではと思うが、食事の世話から何からやってると 寝てる暇はないそうだ。 去年のレースではゴール寸前に低気圧に襲われ、2日間の足止めをくった。 アラスカのような平坦な地形では、低気圧がなかなか移動せず、一度でっくわすと、 どうしても2日は動けなくなるないものらしい。 その間は、自分の手も見えないほどの吹雪で、犬ゾリをテントで覆って、 ただじっとしているしかないそうで、オシッコも寝たまま。 「この時はよく寝た」ということは、一体レース中は?と思うが、 「オウム信者の気持ちがよく分かる」というK氏の言葉はなんとも説得力があった。 よく幻覚を見るそうで、雪原に家があり煙突から煙が出ているので、 ついふらふらと寄っていくと、ただの岩に雪が被っているだけ、 そんな経験には事欠かないそうだ。 このレースは完走しただけで、海外では英雄扱いだそうだ。 ちなみにK氏は毎回完走している。 それほど凄い、ハードなレースをしているのだから、 毎日 700グラム体重が落ちていくという話も簡単に頷ける。 レース後日本に帰ると一ケ月は寝ているのも、まああたり前だわな。 レースのために半年は日本にいない。 まったく犬ゾリレースのためにだけ生きてる、と言っていい。 仕事は農業、3人の子持ちというのもいい。 それにしても酔狂というか、何でここまで、と話を聞きながら思わずにいられない。 「一度やればわかります。麻薬のようなもので」と言われても、 その一度さえ想像出来ない。 「今年でレースも最後にします」と締めくくったK氏に、 「また出たくなるんじゃないですか?」と尋ねたら、 「毎回今度で終わりだと言ってるんですが」とガハガハ笑っていた。 K氏52歳、まったくとんでもないオヤジである。 - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 95/12/15 - 00375/00380 GGA02514 KAZE RE:人間関数論から自由の根源へ ( 6) 95/12/14 18:37 00374へのコメント コメント数:1 しまうまさん、どうも。 「逆行瞑想」というのは、けっこうポピュラーな瞑想法です(^^)。 しかし、ポピュラーといいながら、これがなかなか手強い^^;。 順行ではないですから、意識的にならざるをえませんし、 それよりなにより、思い出したくないことも思い出さないといけません。 平穏無事な一日はいいのですが、いやなことがあったときには、つらいもの。 そうしたことに関わらず、坦々と逆行させなければならないわけです。 > つまり、人間って案外「自分の意識的行動である」と信じていても、実際に >は「単なる惰性の産物」ということが多い、ということを悟るための瞑想法ら >しいです はい、グルジェフは、人間はロボットであるっていうことを強調した方です。 『私』が存在して始めて人間であることができるというのです。 そういうタイトルの本も出てますが、正確なタイトルは忘れました^^;。 よくよく自分も他人も観察してみれば、自動化していないことは ほとんどないといってもいいくらいだということがわかります。 身体的な動きしかり、考え方しかり。 「そういうものだ」というのはその典型でしょうか。 その「私」ということが重要なんです。 その「私」が存在しない場合、人間は人間ではないのですから。 ですから、人間は最初から人間なのではなく、 人間になる可能性のある存在であるということもできます。 > 「私が私である」「僕が僕である」ということは、当たり前のように見えま >すが、実際に実現しようと思ったら、よっぽど意志的に意図しないとなかなか >難しいものなのかもしれませんね。 はい、これは並大抵のことではありません。 「自分を観る」っていうのも、そういう意味での「私」を覚醒させるための 実践なのだとぼくは思っています。 もちろん、通常いう「エゴ」を意味する「私」というのとは 根本的に違ってるんですけど。 ニーチェは、「生きる意味が必要だから真理がでっちあげられる」 そういうことを言った方ですが、これは非常に重要なことなんですよね。 つまり、外にそういう真理なり法則なりがあって、 それを理解してそれに従っていればいいというのは、 その「私が私である」という「私」ではないんです。 それはすでにロボットと化した「私」でしかありません。 自由というのは、ロボットの「私」にはないものです。 そしてそれだけに、常に、険しい茨の道でもあるわけです。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00379/00380 KFQ02761 しまうま RE^2:人間関数論から自由の根源へ ( 6) 95/12/15 02:58 00375へのコメント #00375 KAZEさん  こんにちは(^^)。 :「逆行瞑想」というのは、けっこうポピュラーな瞑想法です(^^)。  あ、そうなのですね(^^;。一日一日をおざなりに過ごしてしまいがちな僕に は、ぴったりの瞑想法かも(^^;;;。 :ですから、人間は最初から人間なのではなく、 :人間になる可能性のある存在であるということもできます。  うーん、深いですね〜。  なんとなくイメージとして思ったのは、例えば「僕」という存在のいちばん 芯に「自由な人間」というのがあって、その上に「男」「日本人」「26才」 「FARIONの会員」「怠惰」(^^;「馬が好き」「マンガが好き」などといった属 性の“薄皮”(ものによっては分厚い皮だったりするのでしょう)が覆い被さ っている。で、その“薄皮”を1枚1枚はがして、少しでも芯に近いところに 到達しようとする努力が「自分を観る」であったり「ロボットから脱すること」 であったりするのかなあ、などと思いました。 :つまり、外にそういう真理なり法則なりがあって、 :それを理解してそれに従っていればいいというのは、 :その「私が私である」という「私」ではないんです。 :それはすでにロボットと化した「私」でしかありません。  そうですねー。意識してないと、ふと気がついたときには「(自分が推測す る)他人の意志」を基準に行動していたりすることも多いので、それも結局 「ロボット化した僕」なんだと思いました。要注意だなー。  そう考えてみると、なんにせよ「自覚する」というのは、その対象から自由 になる第一歩なのかもしれませんね。「臆病な自分を自覚する」とか「卑怯な 自分を自覚する」とか、なかなか自覚したくない自分もたくさんありますが、 だからといってそういう自分を頭から否定して見ずにすませていると、ずっと その自分に気付かないうちにハマり続けてしまうんだなあ。  いろいろと気づきのきっかけをありがとうございます(^^)。   しまうま(KFQ02761) 00376/00380 GCG01101 アマデウス RE:鏡 ( 6) 95/12/15 00:25 00356へのコメント #356 & #366 KAZE さん   こんにちは。お久しぶりです。今日は、ちょっと割りコメです。(^^) | 「鏡」を見る私がいます。 | 「鏡」に映る私がいます。 | 「鏡」に映る世界があります。 | | 私は鏡に映った私しか見えません。 | でも、そこに見えているのは私そのものではなく | 鏡に映った逆対応の私です。 | 鏡に映っている世界も世界そのものではありません。 | 鏡に映っているのは、逆対応の世界です。   なるほど!と思いました。僕は常々、自分とはこういうヤツだと思い込ん  でいる自我像は、意外と自分全体の一部分しかカバーしていないのではない  かなぁと思っていたのですが、その鏡の説明の方がよりしっくりきます。   一部分だけしかカバーしていないと言うよりも、自分が持っている鏡が  自分の姿を正しく映しているとは限らない…とした方が、僕が感じている  ものを的確に表現されていると思いました。   カスタネダネタになりますが、ドン・ファンも似たようなことを言って  いました。ドン・ファンはカスタネダに、普通の人は皆一覧表を持っていて、  人生の歩みと共にその表の項目をどんどん増やしていくのだと言いました。  そしてすべての物事をその一覧表につき合わせて、一喜一憂しているのだと。  (記憶をまとめていますので、細かい表現は保証の限りではありません(^^;)  この一覧表がKAZEさんのおっしゃる鏡と同じものだと考えると、辻褄が合う  なぁと思いました。   いろいろや刷り込みや、それから派生した思い込みによって、鏡が正しい  鏡面になっていないのが、普通の人間なのでしょう。そういう歪んだ鏡  に映った、見えている自分の姿は、当然真の自分の姿が変形させられたもの  ということになりますが、その歪みはすなわち、何かに囚われてねじ曲げ  られてしまったということで、これは言い換えれば「不自由な状態」である  わけですね。   とすれば、そうした歪みの影響を受けない、真の自分を見つけることと  いうのは、「自由を得ること」でもありますね。無意識のうちに自分を縛り  付けてしまっている鎖を解き放つというイメージから、真の自分を知ること  と自由が結びつけられたように感じました。   しかし、です。では、どうやったら鏡の歪みをなくすことができるので  しょうか?それ以前に、自分の鏡がどういう歪み方をしているのか、どう  やって判断するのでしょうか?歪み方がわからないものは、直し方もわかり  ませんよね。   …と、ここまでは#356を読んで考えていたことなのですが、続きの#366で、  それに対するKAZEさんなりの方法論が書かれていたので、またまた唸って  しまいました。(^^; | 自分を「関数」であるとして、自分を通じたインプットとアウトプットを観るこ とで | 自分がそこにどういう働きをしているかを観察してみることも | 手段としてはけっこう有効なんじゃないかというわけです。   以前から13番で「人間関数論」の話をされていたのは知っていたのですが、  ようやくその意味が分かりました。(^^; これまたなるほどとしか言いよう  がないです。今後、KAZEさんと隆ちゃんの会話がより理解できるようになり  ますね。(そういう問題じゃないって(^O^;))   意識してこれを実践してみることにします。  どうもありがとうございました。(^^)                               アマデウス 00380/00380 KFQ02761 しまうま 恥が分かれば誇りも分かる ( 6) 95/12/15 02:58 :己の心に耳を澄ませば「恥」が分かる、恥が分かれば誇りも分かる  『己の心に耳を澄ませば「恥」が分かる』というのは、すぐに納得できる。 しかし『恥が分かれば誇りも分かる』と聞くと、「へえ? そういうものなの かな?」と、ちょっとピンとこない感じだ。  「恥」というのは、文字通り「己を恥じる心」のことだろう。  「誇り」をもっている人間だけが「恥」を認識できる、ということだろうか。 :95/09/19 恥を知る者は誇りを知る、恥知らずは誇りでは無く見栄を張る  というのも以前あったなあ。これもまた「恥を知る」→「誇りを知る」とい う順番だ。ということは、「誇りを持っている人間が恥を認識する」という順 序ではなさそうだ。  つーことは、まず「恥じるべき何ものか」が自分の中にあることを知ること が、誇りを持つ第一歩なのかもしれない。  確かに、僕自身「恥」という感覚はよくわかるが、「誇り」という感覚はあ まり明確には感じない。「バカにされた」と感じて腹が立つことはあるけれど、 あれは「誇り」よりも「劣等感の裏返し」であったり、単に「自分が自分を認 めていないだけ」であったりする気がする。  己の恥を自覚し、その「恥ずべき部分」を直視して、しかるべき対応を行う こと。それが、自分に「誇り」をもつために必要な作業なのかもしれない。  「恥ずべき自分」をもたないこと。そして「恥ずべき自分」に気付いたらそ れを放置せず、また覆い隠そうともせず、その「恥部」に立ち向かっていく勇 気をもつこと。それが「誇り」なのかもしれない。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 95/12/15 - 06703/06704 GGA02514 KAZE 「半円と半円」から「円と円」へ ( 7) 95/12/14 16:52 06699へのコメント たいきゅうさん、どうも。 >その段階を経て、ついには >小暴君は小暴君であることをやめる >(あるいは「小暴君としての役割を終える」?) >そして、「虐げられし者」は「虐げられし者」であることから解放され >小暴君の手の届かない、自由な空へと飛翔するのだろう >そして、これこそが「個と個の互いに自立した」状態なのだろう >こうした変化の後にもたらされる両者の関係がどのようなものであるのか、 >今はまだ知る由もない.. たいきゅうさんのおっしゃる「小暴君」と「虐げられし者」の関係は 互いが互いを鏡のように照らしあっている関係なのだと思います。 ですから、それぞれが自分を観るための実践を繰り広げているともいえます。 で、それぞれがそれぞれを照らしているんだなと気づき、 それを実践的にクリアするまではその関係は続くように思います。 そして、その必要がなくなれば、その関係は「友愛」に変わる。 それは、イメージとしていえば、円と円が合わさって、 大きな円を描いていくような、そんなイメージで描けるでしょうか(^^)。 それに対して、先の、「小暴君」と「虐げられし者」の関係では、 半円と半円が合わさって一つの円を形成するようなイメージです。 >ところが、HMといい、小暴君の話といい、 >FARIONという場は、自分がもっと後に回したかったものを >いきなり最初に取り組むよう指示してきたのだ。 はい、この場は、そういう場です(^^)。 ですから、それに耐えきれなくて、言い訳をはじめてしまう人は、 ある時点で、それなりのプッツンをはじめてしまうわけです^^;。 ここ数年、そういうたくさんの例を見てきましたが、 たいきゅうさんは心配なさそうですよね(^^)。 大事なのは、ここには、自分を映し出してくれる さまざまなタイプの「鏡」があって、 それによって「自分を観る」ことを継続的に実践していけば、 それなりの魂の力を養うことができるということだと思います。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 06704/06704 HGE02116 MAKOTO 自分の書いたものに… ( 7) 95/12/14 23:46 06689へのコメント #6689の続き  自分の書いたものに、いちゃもんをつけたくなるというのも変な話しなのだが、 まぁ、そういう事もあるだろうと言うことで(^^;) > 根っこにあるものはそう。望み通りにならないもどかしさがある。否定されてる と >も思ってる。…ただ、どうにもすっきりしないんだよな。取り敢えずの賛同を得て も、>大抵の場合一時しのぎにすぎなくて、満足しきってしまう事はない。わかって 欲しい >という願望と、望みが叶う筈はないのだという思い込みが衝突してる。もし、願い が >叶っても、私はそれに気がつくことさえできないのかも知れない。  これってさ、書いてる時はどうという事も無かったんだけど、何度か読み返して ると、なんか違和感を感じるんだよなぁ。肯定してくれる人を欲しがってるのは確 か。でも、肯定してくれる人がいても、それだけではけして満足しないだろうって 感触もある。ぶつかるのは極力避けたいんだけど、ぶつかる事を求めてもいるし… う〜ん、考えれば考える程に、自分の中の欲求が分裂してるって感触がある。なん じゃいこれは(^^;)  まいったな、私の本当の望みってなんなんだろう…? これ は新たな課題と言うことか(^^;)  「否定」と「決めつけ」という二つの要素についてなんだけど、どうにも書きに くい。実際にどちらも大嫌い。嫌悪感さえ感じてる。でも、私だって無縁じゃいら れない要素であって、それが余計に腹が立つ!!  私が、「否定する」事や「決めつける」事を嫌うのは、自分がされて嫌なことは、 人にするもんじゃないって気持ちがあるから。また、否定したり、決めつける事が できる程、相手の事を知らないって気持ちもあるね。自分の判断力に対する自信の なさってのも、はっきり言う事を極力避けようとする理由になるか。相手に嫌われ たくないって保身の気持ちも働いている。所詮は、善人の仮面。私は「私」という イメージを演じてるだけ。それも、意識さえしないでね… 「する」事に対する抵 抗感はこんな所からきてる。他にも隠れているものがあるのかも知れない。  「否定される」と「決めつけられる」は、分けて考えた方がいいような気がする。  「否定された」時、私は私の存在そのものを否定されたように感じている。生き ている価値さえないものだという烙印を押されたように感じているんだよな。些細 なものでも関係ない。ぱっと壁ができるよ。まるで針ネズミ。自分でも極端な反応 だと思う。  「決めつけられる」には、かなりの怨みつらみがあるね。枷をはめられたくない。 限定されたくない。枠の中に閉じ込められたくない。勝手な解釈を加えられたくな い。切り分けて、合理性やら理論やらで分析してみた所で何になる…? 私はあな たではないのに…と、最初から拒否してる。相手の分析を受け入れる度量はないし、 度胸もない。決めつけと感じた瞬間、切りかえしてる。これも防衛本能か。私の場 合は過剰防衛なのだが…(^^;)  どっちにせよ、少なくとも大人の反応ではない。価値観も定まってはいない。ま わりとの折り合いもつけてない。私自身との折り合いも… そうだな、影響を受け やすいからこそ、身構えてしまうといった面があるか。私の中には確固たる基準な んてものは無いからね。…にも関わらず頑固だ。明らかな自己矛盾があるよ。でも、 合理的な説明はできないんだよな。  …う〜ん、まだまだ納得からは程遠い。中途半端にしか書けないのが歯がゆくて ならない。                           MAKOTO でした☆ - FARION MES( 8):恋愛錬金術  ★ 愛と性を本音で語る 95/12/15 - 01243/01243 KFQ02761 しまうま 『性は聖なり、而るに生なり』(3) ( 8) 95/12/15 05:16 01199へのコメント  さて、話を日本の性風俗に戻しましょう。  性神の館の展示物のうち、僕にもっとも強いインパクトを与えたのは小さな 博多人形でした。ホントに手のひらに載るくらい小さな人形なのですが、この 人形、男女が性交を行っているさまを実に忠実に描写しているのです。  あの博多人形特有のふくよかな顔立ちというのも確かに見て取れるのですが、 なんつってももっとも目を引くのはその接合部分です。男性器が女性器に挿入 されている様が実にリアル。形状はもちろん、毛の1本1本まで筆で描き込ん であり、さらには女性器からは、なんと申しましょうか、あの潤滑さの源とな る神秘の液体が滴っている様子まで、写実的に描かれているのです。  人形そのものが手のひらに収まるくらいの小さなものですから、そんな局部 に至ってはホントに針の先でつついたくらいしかないのですが、それでもここ まで作り込んである。制作者の執念(?)が伝わってくる気がしました。  館長さんによると、博多人形が有名になったのは明治時代からで、江戸時代 の末期にはこういうイロモノ的なものを作って売るものが多かったそうです。  性神の館には、こういうイロモノ博多人形が数体展示されていました。  江戸時代の性風俗を知るうえで欠かせないのが、浮世絵とか枕絵とか呼ばれ る版画作品です。性神の館には、喜多川歌麿の浮世絵がたくさん展示されてい ました。  僕は、浮世絵の実物を間近で見るのは初めてだったのですが、いやー、噂に 違わず確かにモノがデカい! まず自分の手で握りこぶしを作って、その肘か ら先の部分を眺めてみてください。だいたい、それくらいの大きさに描かれて いると思っていただければ、ほぼ間違いないでしょう。何をか言わん、これぞ 男根!という感じです(どんな感じや(^^;)。  対して欧米の絵画や彫像に描かれている男性器は、たいてい皮をかむってい たり、ほとんどアスパラガスの先みたいな申し訳程度のものがついているだけ だったりで、概して控えめです。  そういう欧米の人たちが、江戸末期以降流出した浮世絵を見て、ジェントル メンは「日本人つーのはなんとゆー巨大なイチモツを所持しておるのだ!」と 驚嘆し、レディースは“Oh,Utamaro!!”と賞賛の声をあげたというわけです。  浮世絵に描かれる女性たちは、ほとんど無表情です。“能面のような”とい われるように、実に静かな表情をしています。  では、彼女たちは全然もだえていないのか? サバのようにごろんと横たわ り、なされるがままに喜びを感じることもなく、ただ性交を義務として“こな して”いただけだったのか?  いえいえ、そうではありません。女性の足の曲がり具合、そしてその足先の 指のきゅっと縮めたところ。そういう微妙なところに女性の歓喜が表現されて いるのです。非常に奥ゆかしい表現で、女性の色気や心の動きを魅せているわ けです。  また、浮世絵の女性は絶対といっていいほど“すっぽんぽん”にはなってい ません。たいてい、目にも鮮やかな柄の着物を着ており、その裾が思い切りめ くられていたり、あるいは胸元を深々とはだけていたりします。  これには「着物の柄によって華やかさと彩りを加えるため」と、もう一つ 「着物の奥に女性の柔肌がちらっと見えるところに色っぽさを感じるため」と いう、二つの理由があったと考えられます。  江戸時代の人たちってめちゃめちゃスケベだったんじゃないか、という気が してきました。少なくとも「何に色っぽさを感じるか」「どういう仕草が男心 をくすぐるか」というあたりには、かなりのこだわりをもっていたように思わ れます。そして浮世絵師たちも、その“男心”をいかにそそるか、というとこ ろにかなり情熱を注いでいた様子も、うかがわれます。  ものの本で読んだところによると、歌麿が活躍した時代は幕府の締め付けが 厳しく、「無用に華美な本や、やたらと贅沢な色使いをした本は、人心を乱す のでまかりならぬ」というような禁令が出ていたそうです。  しかし、元々春画はいわば“海賊出版”みたいな形で売られていたものだっ たので、一般の本に華美な装丁ができなくなった代わりに、その反動でエッチ 方面の本がやたらと豪華な作りになっていった、という経緯があるみたいです。 つまり、絵師が本気で豪華な版画を作ろうと思ったら、舞台を“春画”“浮世 絵”に求めるしかなかったのです。  そう考えると、異常なまでにリアルな描写や、鮮やかな着物の柄などにも納 得がいく気がしました。  そのほか、九谷焼の皿も展示品として陳列されていました。皿の裏面に、こ れまた浮世絵のような豪奢な色使いで、ふしだらな格好をした男女の仲睦まじ い様子が描かれています。また、酒器の表面にも、同じような絵があります。  皿の場合は裏面に、酒器の場合は表面にエッチな絵が描かれているのには、 明確な理由があります。「皿は子供も見たり使ったりする可能性が大きいから、 裏面に描いておこう」「酒器ならば、大人同士で飲むときに使うのだから、表 に描いておいてもいいだろう」という、絵師の配慮があったわけです。  男女の体位のバリエーションを描写した浮世絵というのもありました。  俗に「四十八手」などと言いますが、この性神の館にあるだけでも60種類 はあるそうです。「本当は百手まである、という話もあるけど、事実かどうか は未確認」と館長さんはおっしゃっていました。  それぞれの体位には「下がり藤」「肩すかし」「仏壇返し」「ひよどり越え」 「小判責め」「田植え取り」など、なかなか風情のある名前がつけられていま す。昔の人の美意識や諧謔趣味を、肌で感じることのできるネーミングですね。  こうしてみると、昔の日本人の生活には、社会においても家庭内においても、 「性」というものをあまりタブー視していなかった様子が伺えます。幕府の禁 令が出ていたとは言っても、ほとんど公然とお目こぼしがなされていたようで すし、また高名な絵師は、ほとんどすぐに実名の推測がついてしまうような、 類似の筆名を使って浮世絵の製作に精を出していたようです。  明治くらいまでは、道ばたでもろ肌ぬいで行水する女性の姿や、町中の男女 混浴の銭湯、祭りの夜の村中の男女の雑魚寝、といった風俗が厳然と残ってい た、という証言もあります。  しかし、「子供の目には触れさせない」という細やかな配慮があったことは、 九谷焼の皿と酒器の裏表の違いなどを見るにつけ、どうも確かなようです。  ひるがえって現代の日本を見てみると、「性」に関するタブーは昔よりも強 まっているように思われます。道ばたで水浴びする女性なんてどこにもないし、 男女混浴の銭湯どころか、銭湯そのものが絶滅しかけています。また、お祭り の夜だからといって男女が一つ部屋にぎゅう詰めになって雑魚寝する、なんて こともまず考えられません。  その一方で、子供たちに対する「性」の氾濫には目を覆いたくなるものがあ ります。最近だと少年誌なんかにも劣情をそそる写真が乱れ飛んじゃってます。  まあ、何でもかんでも「昔がよかった」というのでは前向きな話になりませ んが、少なくとも性風俗に関して昔に習うべきところがあるのは確かでしょう。  今の日本で「性」に関するいろんなことがおかしくなっちゃってるのは、 「性」を「非日常的なこと」にしてしまって「日常生活」との関わりの中で考 えられなくしてしまっている、というあたりにも一因があるのかもしれません。  「性」の営みを生活の一部としてとらえることができれば、おそらく無闇な タブー視は解消されるでしょう。そして、タブーがなければ案外「性的な倒錯」 というのも減るんじゃないかと思います。「倒錯の快感」というのは、禁忌と される条項に「いけないいけない」と思いつつ触れるところに湧き出るものだ からです。  えーと、どうでしょう。『性は聖なり、而るに生なり』の真意を探るために、 3回ほど調査に基づく考察をしてみましたが、多少はこの言葉のイメージが湧 きましたでしょうか?  実は、僕自身あまりはっきりと把握できていません。でも、なんとなく「こ んな感じかな?」という感触は、無きにしもあらず、といったところです。  次回は、さらにいくつかの傍証を付け加えながら、『性は聖なり、而るに生 なり』の言葉の意味そのものに迫れるだけ迫ってみようと思います。    しまうま(KFQ02761) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 95/12/15 - 04048/04049 GGA02514 KAZE 風の本棚●西研:実存からの冒険 (13) 95/12/15 01:27 ■西研「実存からの冒険」(ちくま学芸文庫) 著者の西研さんは、以前ここでもご紹介したように、 とっても興味深いヘーゲルと共同体の問題を扱った 「ヘーゲル・大人のなりかた」(日本放送出版協会)の著者でもあり、 また、ぼくとほとんど同世代ということもあって、 ぼくには感覚的にとっても受け入れやすいところがたくさんあります。 さて、この著書は西研さんが1989年に出された処女作ということですが 「ヘーゲル・大人のなりかた」で見せた軽やかな話ぶりの原点とでもいうものを 感じさせる好著です。 扱われているのは、ポストモダンと称されるトレンドの原点でもあるニーチェ、 それからハイデッガー、そしてポストモダン批判というあたりですが、 ハイデッガーでのあれこれが少しいまいちかなという以外は、 なかなかに鋭くてしかも限りなく平易で楽しい哲学書として とってもすぐれていると思います。 えっと、この中に盛り込まれているテーマは、 第三章の「現象学=実存論とは何か」の最初に書かれていることかなと ぼくは受け取りました。   ニーチェは「絶対の真理なんてものはないんだ、人間にとって大事なことは   高揚なんだ」といっていた。ハイデッガーも、絶対的で客観的な真理を認め   ずに、人間の実存から出発して、自分の死の了解が生き方のかたちを新しく   することを指摘したのだった。   ニーチェを源泉とするポスト・モダンの思想も、フッサール、ハイデッガー   とつづく現象学=実存論の思想も、「絶対的で客観的な真理があるはず」と   いう考え方をどう批判するか、ということが一つの重要なモチーフになって   いる。これは、若い人たちのあまりピンとこないんじゃないかな、と思う。   「そんなのあたりまえだろ、いちいちそんなことやって何の意味があるの」   というのが正直なところじゃないか。   そう思うのも当然なのだ。マルクス主義という強力な「真理の体系」が、   現在、もうすっかり勢いをなくしてしまったからなのである。ポスト・モダ   ンの思想は、直接にはマルクスに対する反発から起こってきたもので、ぼく   じしんも少し前までは大なり小なりポスト・モダン的だった。けれども、そ   の真理や道徳、共同体、自我などに対する批判は、不徹底なものだった。ポ   スト・モダン的な思想家たちは、あいもかわらず、真理や共同体というコト   バに×をつけ、「共同体から外へ出ること」「他者が大事だ」などというこ   とを繰り返している。   ぼくが現象学=実存論という思考の系譜を取り上げたのは、それが真理や道   徳に対するより徹底した批判であり、しかも、それは、人間が考えたり言葉   を交わしたりすること、つまり「思想」の営みの意味をはっきりさえてくれ   たからだった。つまり、現象学=実存論は、展望を拓いてくれるのである。                               (P196-197)    つまり、「これが真理の体系だ」というあり方の キリスト教やマルクス主義のように、真理や道徳、共同体が外から 絶対的に押しつけられたことに対するアンチテーゼとして、 ニーチェなどを引き合いにだしながらちょっと前にがんばったのが ポストモダンと言われる思想だったのですが、 それは多くがアンチテーゼのバリエーションとして、 浅田彰のように分裂病的なスキゾ・キッヅのように逃げ回ったり、 中沢新一のように近代以前のネタで煙にまきながらお遊戯したりするような そんなどこにも出口が見つからなくなるようなものでしかありませんでした。 けれど、そういうのでいいわけはなかったのです。 それが明らかになったのが、象徴的なオウム事件だったのではないでしょうか。 ポスト・モダンはオウムを批判しきれないのです。 だって、彼らは真理や道徳をただ遊び半分に否定して見せただけなのだから。 シュタイナーは、ニーチェの時代にすでに、ポスト・モダンを越える視点を 哲学として提出していましたし、西田幾多郎も戦前において、 そこらへんの問題にがっぷり四つに取り組んでいたのです。 ただ、それが現代にいたるまで、いや現代でもほとんど理解されてないのです。 外的に押しつけられた真理や道徳は人間の自由を奪うものです。 だから、そこから自由になる必要がありました。 けれど、ただそれらを否定すればいいというわけではなかったのです。 では、どうすればいいのでしょうか。 誤解をおそれずにいうと、人間は真理や道徳を創造しなければならないのです。 人間は、「世界」を対象としてみて、自らをそこから離れた立場にいて、 そこから真理や道徳を引き出してくるのではなく、 「世界」の内から「世界」を見ているのです。 西田幾多郎は、前者の立場を「意識的自己の立場」と呼び、 後者の立場を「行為的自己の立場」と呼んでいます。 つまり、こういうことです。 「私が考える故に私があるのではなく、私が行為するが故に私があるのである。 考える故に私があると考えるならば、考えるということが既に行為の意義を 有する故でなければならない」。 人間は、世界から働きかけられながら、同時に世界に働きかける存在です。 シュタイナーの自由の哲学のテーマも 「善はそうあるべくしてあるのではない、 それを意志することでそれを創造しなければならない」 人間は生まれながらにして自由なのではなく、自由を創造しなければならない。 そういうことでした。 つまり、真理や道徳、共同体、自我といった問題を外的なものとして それにアプローチするのでなく それを自由意志によって創造していくということ。 「そうすべきだ」ではなく「そう意志する」というような 自由で主体的な創造行為としてとらえること。 それが大切なことではないかと思うのです。 ・・・なんだか、書籍の紹介からはなれてしまいましたが(^。^;)、 今回ご紹介した書籍は、そういう考え方への入り口としてみれば、 非常にわかりやすく意義深いものではないかと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆    - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 95/12/15 - 03412/03423 HQK00566 SOUND RE:炎で書いた物語(序章) (14) 95/12/14 17:20 03400へのコメント コメント数:1  序章 闇夜の国から(その2)  闇夜の国を「六、六、六」と解いたことの正否を検証しようとしていると >>12/12 8の中の5と3は拮抗し、5の中の3と2は協力態勢にある…見よ というHMが出された。  闇夜を「8…見よ」として取り込んである。 これは重大なヒントのようだ。  見よ、は数にすれば三四で七だが黄泉(四三)の反対、すなわち御代、この世。  七は四三の順に並べば黄泉を意味し三四の順ならこの世を意味するということを示 唆 している。  こうして見てゆくと七五三は順番に大きな意味があるらしい。 七五三の順なら〆の意になり時代を閉める方向のようだ。 三五七なら開くのだろう。 大本の流れに三五(あなない)教という宗教がある。あなない、とは救いのことだ。  大本系の宗教で六六六(ミロク)を五六七(ミロク)と書き換え、三四五で(メシ ア) と読むのも、順に意味があるようだ。  四三と逆に並べばやはり、〆(シメ)と読めてしまう。  〆という文字はχ(カイ)に似ているのが気になるところだ。  以前のHMに現れた  カイとしてカイである者、ということばは〆としてχ(カイ)であるもののように見 え てくる。  カイ=開とすれば、閉めることは開けることにつながる。 >>11/28くくりは始まり、始まりは終り、終りは誕生…そして蘇生の時 というHMを思い出してしまう。  とすれば七五三はこの時代を一旦閉める儀式なのだろうか。  そして、われら人類が正しく三五七と並び替えるとき、新たな時代が開くのだろう か。                (つづく)               ♪♪音(SOUND) ♪♪ 03418/03423 KFQ02761 しまうま RE^2:炎で書いた物語(序章) (14) 95/12/15 01:01 03412へのコメント #03412 SOUNDさん  こんにちは(^^)。  うーむ、とってもスリリングな推理ですね。 : 見よ、は数にすれば三四で七だが黄泉(四三)の反対、すなわち御代、この世。 :七五三の順なら〆の意になり時代を閉める方向のようだ。 :三五七なら開くのだろう。 : とすれば七五三はこの時代を一旦閉める儀式なのだろうか。 : そして、われら人類が正しく三五七と並び替えるとき、新たな時代が開く :のだろうか。  このあたりのSOUNDさんの閃きには、思わず納得!と思ってしまいました。  七五三が「〆(シメ)」だとしたら、「くくり」とも関連してきそうですね。  続きをとっても楽しみにしております(^^)。   しまうま(KFQ02761) 03413/03423 KFR02037 ひょうたん RE:RE^4:百合の解釈について (14) 95/12/14 21:23 03403へのコメント 藤の花の矢の神話、教えてください>しまうまさん うーむ。なぜ中臣鎌足が「藤原」姓を賜ったんだろう? 藤棚の藤って、綺麗だけど、自然界にはあんな棚があるわけもなく、もともとは 大きな木に巻き付いて、最後にはその木を覆い尽くしてしまう植物なんですよね。 んでもって、日本も藤原さんだらけに覆われちゃったから近江の藤原さんで近藤 さん、遠海の遠藤さん、伊勢の伊藤さん、尾張の尾藤さん、加賀の加藤さん‥‥ 佐藤さん、後藤さん、安藤さん、江藤さん…  ぬぁんかすごぉーい“繁殖力”のある姓のようです。                                ひょうたん 03414/03423 KFR02037 ひょうたん カルルス?チロンヌップ? (14) 95/12/14 22:49 コメント数:2 >カルルスに炎立ち、夢追い人の魂を乗せたチロンヌップは雪を舞う 何語?アイヌ語? カルルスって温泉があったよーな気もしますが? どなたか、教えてくださぁーい。(^^;ゝ                        ひょうたん P.S.夢追い人って何かいいなぁ… 03420/03423 KFQ02761 しまうま RE:カルルス?チロンヌップ? (14) 95/12/15 01:01 03414へのコメント コメント数:1 #03414 ひょうたんさん  こんにちは(^^)。  カルルス温泉、というのが広辞苑には載っていました。以下、引用します。 :(Karlsbader Salz ドイツ) チェコ‐スロヴァキア西部カールスバート(現、カ :ルロヴィ‐ヴァリ)の鉱泉(カルルス水)を結晶させた薬品。また、人工的には、 :硫酸ナトリウムに重曹・食塩・硫酸カリウムを加えて製した白色の粉末。緩 :下剤・消化剤。  チロンヌップは、ちょっとすぐにはわかりかねるのですが、アイヌ語にこの 単語があったのは確かです。機会があったら調べてみますね(^^)。  なんとなく、イメージ的には、また北海道で地殻的な変動があるのかなあ… …と感じてしまいました。   しまうま(KFQ02761) 03421/03423 MHD02672 TAO RE:カルルス?チロンヌップ? (14) 95/12/15 01:09 03414へのコメント #3414 ひょうたんさん  そうです、北海道の登別市には「カルルス温泉」があります。温泉の泉質が  チェコスロバキアの有名な温泉カルルスバードに似ていることから、この名  前が付いたそうです。ラジウム泉だとか。  チロンヌップはよく分かりませんが、どうもアイヌ語地名っぽい雰囲気があ  りますね。FARIONには北海道メンバーが多いので、調査をお任せ致しましょ  う(と勝手に振る ^^;)。  TAO 03415/03423 KHE00451 るーん RE:雪?ともんじゅの事故 (14) 95/12/14 23:37 03409へのコメント  アラミスさん、こんにちは。  ところで、きょう(12/14)のHM  「カルルスに炎立ち、夢追い人の魂を乗せたチロンヌップは雪を舞う」  も原発関連でしょうか。  カルルスは、どうもナトリウムを意味するようです。チロンヌップは? 化学物質か、地名のような雰囲気ですが・・・  朝日新聞のきょうの夕刊(12/14)には、  「もんじゅ 堆積物除去を優先  再発火の危険重視」  という見出しの記事がありました。                        KHE00451 るーん 03419/03423 KFQ02761 しまうま RE^2:雪?ともんじゅの事故 (14) 95/12/15 01:01 03409へのコメント #03409 アラミスさん  こんにちは(^^)。 :目に見えるものだけを信じる人々が、大きな男に連れて行かれる。 :この男は、片目だけしか開けていないのだが、両目が開いているように見える。  アラミスさんがおっしゃっている詩編というのは、これのことですよね?  僕のあてにならない記憶(^^;によると、この一文って、以前誰かが「麻原の ことではないか?」とおっしゃっていたと思いました。  「片目だけしか……」以下の文章で、「目が不自由」という意味と、もう一 つ「物質的なものしか見えていないのだが、精神世界と物質世界の両方に通じ ているように見える」という意味の2通りを、その方は見いだしていらっしゃ ったように記憶しています。 :片目の男は帽子を脱ぎ礼儀を守るかに見えるが、指は嘘をつけない  このHMも、僕はなんとなく麻原氏のことのように思ってしまいました。  「帽子を脱ぎ礼儀を守るかに見える」は、麻原の裁判所での態度を暗示して いるのかもしれません。しかしあくまで「守るかに見える」だけですから、誠 実な証言など一切せず、虚偽の申し開きばかりを言い募る、という事態が予測 されます。  「指」を「末端」ととれば、「末端信者は嘘でない証言をする」ともとれま す。で、その末端信者の証言で、麻原の有罪が確定しちゃうのかもしれません ね。などと思いました。   しまうま(KFQ02761) 03416/03423 KFQ02761 しまうま 素戔嗚尊(スサノオノミコト)=ルシファー? (14) 95/12/15 01:01  るーんさんの書き込みに触発されて、日本書紀を読み返していて、一つ思い ついたことがあるので覚え書き代わりにちょっと書かせていただきます。以前 どなたかが同じようなことを書いてらっしゃったかもしれませんが……。   伊弉諾尊が黄泉の国から帰ってこられて、瀬で汚れを落とすために水浴び をされた。すると左目から天照大神が、右目から月読尊が、鼻から素戔嗚尊 (スサノオノミコト)が生まれた。伊弉諾尊は「天照大神は高天原を治めな さい。月読尊は大海原の潮流を治めなさい。素戔嗚尊は天下を治めなさい」 と言われた。  この話を読んで思ったのは、もしかして「素戔嗚尊」=「ルシファー」なの では?ということです。  確か西洋の悪魔(ルシファー)というのも「この世の王」として君臨するこ とになっていましたよね。   このとき素戔嗚尊は年もたけ、長い髭が伸びていた。けれども天下を治め られなくて、いつも泣き恨んでおられた。そこで伊弉諾尊が訊ねて言われる のに「お前はなぜいつもこんなに泣いているのか」と。答えて言われるのに、 「私は母について根の国に行きたいと思ってただ泣くのです」と。伊弉諾尊 は憎んで言われるのに、「望み通りにしなさい」といって追いやられた。  この「根の国」というのは確か黄泉の国のことですよね? そこに伊弉冉尊 がいる、ということだったと思います。  なんか、このエピソードも「ルシファー」っぽい気がします。  元々神様だった方が地に降りて悪役になってしまう、という筋書きも、ルシ ファーを彷彿とさせます。   しまうま(KFQ02761) 03417/03423 KFQ02761 しまうま RE^4:7+5+3=6 (14) 95/12/15 01:01 03407へのコメント #03407 るーんさん  こんにちは(^^)。  丁寧なご返答、本当にありがとうございますm(__)m。  なるほど〜。アマテラスとスサノヲから生まれた神々が、オリオンの腰の帯 (参(カラスキ))と、プレアデス(昴(スバル))になったわけですね。ふむふむ。  二十八宿で言えば、カラスキもスバルも「西」に分類されています。西、と いうとどうしても「(1日の)終わり」を連想してしまいますね。  あ、二十八宿の「北」には、「婁(タタラ)」というのがあるんですね。これ、例 のタタラアタタラと何か関係あるのかな。 : もう一つ七夕にも関係のある七は、七五三のお祝いでもわかるよう :に女性にかかわる聖数ですが、これは、トヨウケの女神を象徴する北 :斗七星と、アマテラスの衣装を織るタナバタツメ(織女)の神話に由 :来するそうです。 (中略) : そうすると、七夕もクリスマスも酉の市も、太陽の誕生日であり、 :季節の交代を告げる冬至とかかわっているのですね。  うーん。無知なもので、このへんのお話はあまりよくわかりませんでした。 もしよろしかったら、北沢方邦氏の著書をお教えいただけますか? : 三と五、二と三(すいません、ログがなくてうろ覚え)についての :ARIONのHMがつい先日もありましたね。  これは「8の中の5と3は拮抗し、5の中の3と2は協力態勢にある…見よ」 とあったものですね。12月12日のHMでした。 : きょうお昼のテレビをみてましたら、野菜のビタミン・ミネラル等 :の栄養が、10年30年前と比較して極端に減少している原因の一つ :に、水と土壌の質の低下があげられていました。水と土壌が本来の健 :康を取り戻せるかどうかの今が正念場なのでしょうか。  昔の野菜と今の野菜では、味も匂いも違う、なんてことを聞きますね。僕は 基本的に味オンチなので、何も感じないのですが(^^;。  ARIONも今は水脈に関連することに注力しているそうですから、るーん さんの読みにもなんだか信憑性があるように思いました。  また何かありましたら、どうぞよろしくお願いしますね(^^)。   しまうま(KFQ02761) 03422/03423 KFH00666 ten チロンヌップ (14) 95/12/15 10:38 はじめまして。13番に出入りしているTENと申します。 チロンヌップは、アイヌ語で狐のことです。 もともとは、「何処にでも居る動物」と言う意味だとか。 少しはお役にたてましたでしょうか? でわ。 - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 95/12/15 - 00420/00420 KHC01313 まるにちょん RE:平成ぼやき政談1 こんな首相いらな い( (15) 95/12/15 00:00 00413へのコメント  #413 アマデウス さん >>   村山首相が、代理署名を巡って、ついに沖縄の太田知事を相手取って行政 >>  訴訟を起こしてしまいましたね。僕は、あの太田知事の姿勢の中に、「サン >>  クチュアリ」語録(3)(#394)でご紹介した、沖縄の極道・中城の心を >>  見たように思いました。(後略) 沖縄の立場と日本政府の見解は大いに違うのは分かります。 国家の防衛には、今の所アメリカの力を借りないとなんともならないから です。日本の防衛力は、短期決戦型のもので、もし有事のことあらば、国民 を守り切れないのは目に見えてます。  また、極東を含むアジアの潜在的な軍事力のナンバー1は、中国です。 特にアメリカは、冷戦が崩壊した現在、中国を意識した外交を進めてくるで しょう。それには、軍事的にもけん制力として、日本にどうしても基地がな ければならない。とくに、フィリピンの米軍基地が全面撤収した現状では、 沖縄は重要な拠点であると言えます。  そうした現状を踏まえた上で、安保体制が保たれています。    それでもなおかつ、私は沖縄県知事の心意気というものを評価せずにはい られません。彼には、県民の生活と安全を守る勤めがあるのです。  彼は、一地方の知事とはいえ、一国の首相を前にして堂々と意見を表明し、 そのきっぱりとした態度は、一種すがすがしいものを感じています。 >> | [6巻 P199] >> |   中城  力の前に尾を振るのは簡単だ… >> |       振りたくなくても、振ってしまえば生きられる… >> |       だがな、それは「生きて」いるんじゃねェ… >> |       「生かされて」いるんだよ!! >> |       オレは沖縄という国で生まれ、沖縄という国で育った育った… >> |       骨身に染みるんだよ… >> |       力に翻弄され、てめえの意志とてめえの手足で動けなきゃ、 >> |       屈辱と後悔しか残らねえ!! >> >>   太田知事の、あの一見頑固ともとれる姿勢のうちにある心が、この中城の >>  セリフに表されているように思うのです。太田知事の心の中の誰にも侵され >>  ない聖域…それこそ「サンクチュアリ」なのですよね。  まったく同感ですね。  おかしいものはおかしいと主張し、議論していかなければならないでしょ う。だから、村山首相が、アメリカの基地が必要というなら、軍事をタブー 視せずに、きっちりと説得すればいいのです。国民が納得するような意見を 言えばいいです。軍事=悪として、決めつけ騒ぎ立てるマスコミなど、無視 すればいいのですよ。軽佻浮薄な現実を見ないマスコミにこういってやれば いいのです。「あなた方は、この国の安全を損なうのかつもりか」と。 しかし、彼には言えますまい。つい最近まで、安保体制反対と言っていた社 会党の人間なのですから。 >> |  政治家なんてあてにせず、自分の魂を磨いて、この国の礎となりたいね。 >> >>   僕たちにできることは、それしかないですね。小さな事からでも始めま >>  しょう。 ええ、がんばりましょうね。(^_^) - FARION MES(18):武道とは?  ★ 自分に勝つ! 95/12/15 - 02719/02719 VFF00063 KURO 武道とは違うけんどね。一休さんだよ (18) 95/12/15 03:20   ちわ、久々のKUROっす。    いつのまにか副題が変わっててびっくり(笑)  そんで、自分に勝つという副題から武道とは関係ない  けど、          いっきゅうさん!!!  です。  影の自分と延々と戦い続け、生に執着しながら  死んだ坊さん。一休宗純(だったよね?)  何か共通するものがあるのではと思いましたん  で書いてみました。 - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 95/12/15 - 751/752 MHA01114 シュメ−ル 富士登山後日談 DDDDDDDDDDD D (19) 95/12/15 00:32  HALさんとひさしぶいりにここで再開したところですが、ついでに、HALさん もちょいかかわってて、先日話題にした富士山の件、FMISTYの今は無きニューエイジ 会議室に最後に書き込んだものがあるんで、ここにすこし編集して載せときます。閉 鎖会議室なんですが、あるいは向こうで前のUPを読んだ方もいるかもしれないんでち ょい迷いますが、むこうではすでに読めない状況になってるんで、おめこぼしを。  地球の未来を決めているのはたぶん集合的な意識のありようなんでしょうが……。  「孤独の惑星・地球」という表現がここ数千年前後の時代の地球を語るときに使わ れる日がくるかもしれない。全宇宙、全存在を問いながら、神経末端を皮面に開いた ままのちいさな肉体に棲み込んでしまっている我々は孤独を常態として運命づけられ ている。この深淵は覗き込むほどに、闇を深め、落ち尽くすなど出来ない。只、そこ からそそくさと日常へと引き返してくることができるだけである。  孤独を常態としてしまうと、時に訪れる些細な偶然の一致がかけがえもなく大きな 存在からの恩寵と思えることになる。  通常は、孤独の深淵に落ち込んだまま帰らない人はごく少数で、存在との感性的な な一体感や文化の共有感覚において日常を生きることができている。  おそらくは我々の日常は現代のカオス理論が教えるところの物質のカオス的自動運 動やフラクタルな運動に織り込まれているのだろうし、そして時間軸に垂直に関わる ことの出来る神々やら天使やらハイヤーセルフと呼ばれる存在の協調介入によって運 営されているのだろう。それは市場が市場の自由運動とある種の機関の市場維持のた めの操作とによって運営されているのとたいしてかわりはない。市場の自由運動のみ で保たれるシステム構築が宇宙システムにおいても望まれるのだが、その実現はなか なか難しいようだ。というかそういう宇宙は創っても多分おもしろくないんでしょう。 宇宙の自己認識運動はまだ暫く続くことだろう。  10月の末に伊豆方面への出張が入った。いったん決まった日程がその後数日で変 更になった。当初の日程でいろいろ設定し始めていたので、結構ショックがあったが、 これまでの経験から、こういうタイミングでの日程変更には何等かの存在の市場操作 の雰囲気が感じられたので、「はいはい、わかりました。」という感じで、その後は いっさい私からは日程調整をしないことにした。取り分け、伊豆の地震が騒がれてい たので、ま、ある種なんらかの自業自得を覚悟した。  というのも、市場操作サイドの友人と1っカ月ほど前に、富士山にいって、ある種 の市場操作に関与してしまっていたからだ。この操作に参画したことが実は私には結 構精神的な重荷になっていた。この間の伊豆の地殻の変調を含んで、96年から日本の 地殻変動が活発化するらしいのだが、そのいわばスタートボタンが富士山にあったの だという。そこまでは私は考えてなかったので、今後の地殻変動がもたらす人間的な 苦悩の責任の一端が私にもあるような錯覚がその後じわじわと湧いてきていた。そう 思わせられるような情報受信やらシンクロやら「偶然の一致」が重なったりしたのだ が、いわば、個人的な思い込みの世界になってしまうのでその過程の詳述はやめよう。 そしてその最後が伊豆方面への出張だった。家族や同僚のなんでこんな不穏な時期に、 との心配に私は市場に引かれる牛のごとく、観念してしまっていた。不安というより は起こるべきことが淡々と起こるだけだろう、という感じ。でも、せっかくの機会だ から、と個人的なアポイントメントや計画を組んだところに、日程変更。伊豆の地震 は当面沈静化するという情報がはいっていたので、地震の心配もなかったし、もう、 お任せコースの気楽な旅に徹することにした。  23日は伊豆長岡温泉泊まり。夜風呂にいったら、脱衣所で同年輩の方と一緒にな った。かすかにピンと来るものがあったが、まったくに見ず知らず。淡々とやりすご して、即露天風呂へ。と、そこには先客2名。大正うまれの同級生なのだという。酔 いが回った老人二人は後からやってきた私を完全に話の仲間に引き込んでしまった。 そこへさっきの脱衣所の男性がやってきた。結局見ず知らず同志が露天風呂で戦争論 をすることになった。そしてかつての軍人さん二人はさっさと先にあがっていったの で、あとに私達二人が残った。で、世間話をはじめようとしたら、彼、神戸からきた のだという。さきの震災で家が完全崩壊し、親戚がひとりなくなったという。神戸の どちらと尋ねると、長田町とのこと。  神戸はこれからの日本のフラクタル的モデルになったという思いをいだいていた私 には彼との今回の出会いはショッキングだった。なんで地震警戒の冷めぬ伊豆で神戸 長田町の人と出会うことになるわけ?しかも「今回の伊豆地震は先日の富士登山の影 響だよ。」などというキ印情報に揺れる心境だというのに。  驚いたのは、圧倒的な不幸にもかかわらず、なくなったものはもう仕方がないから と、彼が前向きに生きている姿勢。彼と話することができて、富士登山以降胸にわだ かまっていたとまどいとも罪悪感ともつかない重みが一挙に軽くなってしまった。ど んな災害も人間を終わりにすることはない。残ったものが新たな時代を創っていくに ちがいない。そしてこの「偶然の」出会いに感謝した。これは偶然と呼ぼうが、運命 的と呼ぼうが、事態に変わりはない。時の流れに身を任すのみの人間は時が運んでく れる恩寵に只脱帽し感謝するのみ。  翌日の24日、午後箱根で自由時間。迷うこと無く、今年の夏に初めて訪れ、再度 訪問を願っていた箱根神社へ直行。前回、友人に同行した際に箱根神社の霊気が私に も感じられるほどに強かったので、何時かゆっくり来てみたいと思っていたとこだっ た。鳥居の前の由緒書きを読んだら、本宮の例祭が10月24日とのこと。今日だ。 この手の偶然というやつはあんまり度重なると、もうラッキーとかという思いはなく なって、只、感謝の気持ちがわくだけになる。前回感じた霊気の源はどうも箱根神社 の霊木らしかった。『火水伝文』関連に「富士が動くまで、」とか「箱根神社が」と か出てくるので、気なる神社だ。自分の意志でなく二度参拝できたのも何かの縁だろ う。      冒頭「孤独を常態としてしまうと、時に訪れる些細な偶然の一致がかけがえもなく 大きな存在からの恩寵と思えることになる。」と書いた。さて、我々は実際孤独なの か。自己の思いが思いもよらぬ形で世界からの応答を得たとき、それを偶然と呼ぶこ とはむしろあまりに不遜なのではないか。  25日、帰りの新幹線で、途中東京駅で求めた柳田邦男さんの『犠牲(サクリファ イス)』(文藝春秋社)を読み始めた。話題になった本なのですでに多くの方が呼ん でいることだと思う。自殺した息子の脳死と生前の彼の願いであった骨髄提供を実現 させようとする父親・柳田さんのノンフィクションである。息子である洋二郎さんが 骨髄提供を決意する動機として重要なのは、タルコフスキーの映画『サクリファイス (犠牲)』である。彼の手記の引用でこの文章をおえることにしたい。 「天才映画詩人タルコフスキーの遺作映画『サクリファイス』は、感慨深く観た。  −(中略)− 冒頭のタイトルバックに出るレオナルドの『東方の三賢人の礼拝』と 共にバッハの『マタイ受難曲』のアリアが聞こえる。ラストシーンの少年の呟きのと きもアリアが流れた。ぼくは感動してそのアリアに感情移入し、心が高揚したのを覚 えている。−(中略)− いわば天職のように自分は、『I'll be watching事故』を 果たそうとするだけであっても、それは、自分にとって、最も敬虔な行為に思えてな らない。そして、願わくは、『自己犠牲』の機会をまつ。」   (柳田邦男著『犠牲』P121〜 124) 結局、彼の骨髄提供の意志は腎臓提供という形で生かされる。その結末を父である著 者はこう書いている。 「二つの腎臓の摘出がすんで、洋二郎の遺体をわが家に連れて帰ったのは、午後11 すぎだった。  居間に安置して、グラスに水を注いで供えたとき、賢一郎がテレビのスイッチを入 れた。偶然にも、NHKの衛星放送でタルコフスキーの映画『サクリファイス』が放 映されているのに気づいたのだった。映画はいままさに終わろうとするところだった。  なんということだろう、あの『マタイ受難曲』のアリア『憐れみ給え、わが神よ』 のむせび泣くような旋律が部屋いっぱいに流れた。私は立ちすくんだ。洋二郎は神に 祈ったことはなかった。頑ななまでに祈らなかった。私も目に見えない大きなもの、 すべてを超越したものとしての神の存在への畏怖の念を抱きつつも、全身全霊を投げ 出して祈るという行為をしたことがなかった。だが、このとき私は、神が洋二郎に憐 れみをかけ給うてほしいと心底から祈る気持ちになった。どういう神なのかと考える こともせずに。アリアの旋律はいつまでもいつまでも私の胸に響き続けた。」    (前掲書 P188) 752/752 QZY01267 猫の手 私の可能性 (19) 95/12/15 08:07  私にはできないことばかり  私は神様ではないから  私は人間だから  私は女だから  男だから  私にはできにことばかり  私はスーパーマンではないから  私の頭は弱いから  私の体が弱いから  年寄りだから  若いから  私にはできないことばかり    神は私に制限を与え、  神はこの世界に制約を与えて  神はできないことを造ることで  この世界を造ったとさ。  だから私にできないことがあって当たり前。  だから私が不完全で当たり前。  にもかかわらず、  不完全なことを言い訳しなければならない私。  にもかかわらず、  誰かを責めたい私がここに居る。    「できない」  という言葉が私が私を守ってる。  そう信じてきたけれど、  「できない」  という言葉が私を私が卑下し続けてきてしまってた。  「できない」  という言葉でやらずに済むようしてきたけれど、  「できない」  という言葉でできない私を造ってた。    実際、  できなかったことは多いけど、  実際、  できないことも多いけど、  「できない」と思ってしまったら  できないことを造ってく。  「できる可能性」摘んでいく。    本当の私、  本来の私はできていいはずだけど  今の私はできてない  元々の私  実際の私はなんでもできて  素敵なはずだけど  今はちょっとできなくなってしまってるだけ  ただそれだけだった。    私そのものができない訳じゃない。  できるようになるかならないか  いつもいつも選んでる。    こうなったのは誰かのせいと嘆くなら、  まだそうできないでいる  自分を嘆きたい。  それそしてもらえるようにできなかった  自分を嘆きたい。  今の不幸の原因が他人にある限り  私は幸せになれないでしょう。  今の不幸の原因が自分にあると思える限り、  私は私の幸福造っていける。  誰かが幸せ生み出してくれるわけじゃない。  誰かが幸せ運んでくれる分けじゃない。  幸せは、自分で感じて造ってくもの  自分で幸せ感じたときに幸せはやってきて  自分が不幸に感じたときに不幸せはやってくる。  だからで幸せ感じてられるよう  自分で幸せ造っていくの。  それは誰でもない私にしかできないの。    本来の私はなんでもできて、  元々の私は素敵な私。  今はまだ不完全だけれど  ここに居る私はまだ不十分だけど  そこから「不」がとれるときが来る。  きっと来るから  必ず来るから  それを信じていて欲しい。         ** QZY01267/『猫の手』 <95/12/15 08:01:19> **