暫くした時、再び天使の背後から声がした「私は凍えています」 - FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 96/01/02 - 05246/05250 JCF02051 めのう RE:「初夢RT」よろしく ( 2) 96/01/01 22:36 05232へのコメント  #5232 スウさん  初夢って今年最初にみた夢でいいのでしょうか?    寝る前にちょっとお酒を飲んだためか、今朝みた夢を全然覚えていません。  「初夢RT」までにそれらしい夢を見て記憶に留めたいと思っています。                  寝る前は飲むまい ◆◆ めのう ◆◆ 05247/05250 JCF02051 めのう いらっしゃいませ>イトトモさん ( 2) 96/01/01 22:36 05235へのコメント  カルフールへようこそ(^o^) ★/ どうぞ〜、ウエルカムドリンクです。 ▽ ( ^^)/ ̄ 「参戦」の95年、最後のお客様だったのですね。       ARIONによると96年は「本番の年」だそうですが、堂々と       胸を張って舞台に立ちたいものだと思います。              今後ともよろしく御贔屓に(^^)                    昼は女給、夜はちぃママ ◆◆ めのう ◆◆ 05248/05250 GBG02043 維/YUI あけおめ〜!! ( 2) 96/01/01 23:53 ☆★☆ 新年、明けましておめでとうございます。 ☆★☆ 本年、ここに集う皆が、本来の在り方として、 健やかで安らかでありますように。 全ての志在るものが、その本分をまっとうするべく 出合う事柄に挑み、その路を開いていけますように 心より祈念いたします。 維/YUI。 おまけ・・ 信念開けまして、お芽出調う御座います (なんという、変換のすごさ・・・) 05249/05250 CQE04277 九印 今年もよろしくお願いします ( 2) 96/01/02 01:51  皆様変わらずに新年を迎えたことと思います。  昨年同様、今年もよろしくお願い致します。  短いですが、これにて迎春の挨拶とさせていただきます。 CQE04277 九印 05250/05250 HQA03154 男爵 場違いかも知れませんが、同人誌の話題。 ( 2) 96/01/02 04:01  12月の29、30日に晴海で行われたコミケットで、すっ飛んだ本を見つけ てしまいました。  その名も「霊感商事デース」。  なんでも、「おたくの霊能者のための霊感本」だそうで、霊がいるのを前提に しているばかりか、一部霊感がないと理解不能の所まであるという、とんでも無 さ。  これが商業誌なら、間違いなく「トンデモ本」になってしまうという本です。  内容は、霊のいる場所の紹介や、霊能開発法、人工霊の作り方やら、第三の目 の開き方など。 興味のある人は、こっそり連絡して下さい。問い合わせ先をお教えします。 なお、ほとんど同じ内容が、FMISTYに上げて有ります。ご了承下さい。 96/01/01(月) 21:50 男爵(HQA03154) - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 96/01/02 - 01095/01095 QZY10121 ぷんすか ハッピー・ニュー・イヤー ( 3) 96/01/02 03:06 KAZEさん、あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。 レスはもうちゃんと打っていたのですが、アップロードが全然できなくて・・・ そうこうしているうちに、年があけてしまい、レスの内容がズレてしまったのでした。 すみません。でもどうしていつも失敗するのかなあ。ああ、なんでやろー。 さて、わたしは最近好んでショパンを弾いています。 といっても、正式に習ったショパンの曲はごくわずかなので、自己流ですが。 ショパンを弾くことを避けていたようです、自分が思うには。 家にあるショパンの楽譜を取り出し、音にすると、「いい曲だな」 と素直に思えるようになっていたのです。 ひねくれていたのかどうか・・わたしはあえてアンチ・ショパン の立場をとっていたのかもしれません。 「エチュード」の「革命」、「大洋」。 「バラード」の第一番。 「幻想即興曲」。 「英雄ポロネーズ」。 どれも今のわたしにとってはお気に入りです。 聴き飽きるくらい、知っているのに・・・ いや、「知ったつもり」だったのかもしれない。 近頃自分がこれだ!と思って弾くことのできる曲がなかったので、 なんだか嬉しいっす。 それでは。 QZY10121 ぶんすか - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/01/02 - 00502/00503 TBE03167 ねずみ ほぅ・・・ ( 5) 96/01/01 21:53 今日は、本当に楽な一日で、頭が痛くなかった。 ほっとしてしまった。 ただ、今まで何もできない状態が続いていたものだから、 頭痛が治っても、まだ、何をどうしていいのかちっとも見当がつかないんだよな。 昔、整備士をやってた頃なら、自分が次に何をすべきか、完全に頭の中にインプット されていて、ムダのない行動が出来たんだけど、今は、なんか、頭の中が真っ白で さ。 ぼやーっとしてます。 さっき、母にその事を話たら、足の裏をマッサージしてやると言われたもんで、 お言葉に甘えてやってもらったら、すげー気持ちいいんだな。 と言うわけで、今日は寝ます。 久しぶりだな。 平和な時間を持てたの。 00503/00503 QWB02723 まゆみ RE:き・つ・いぃ ( 5) 96/01/02 00:23 00499へのコメント  #00499 SUKE さん どもども んー 私もハッキリ言って貰える方がいいって 思う時はあるけど(^_^; ハッキリ と きつい が同じかどうか判らないけど…(^^;) 大晦日に かの友人とファミレスで2時間半ねばって またまた恋愛話で(^^; 彼女は前の前辺りの彼氏とヨリを戻してて その彼氏の話を聞いていたのだけど またまた「な〜んかイヤな男だね」と言ってしまったぁ(^^;;;;; でもでも 彼女 はそーいう感じで話すんだもん 私にそう言って貰うのを期待してるような イイワケ? もちろん今回は会ったことないし 彼女の話だけからの感想だ!! なんて思いつつ 話してたら「あれ 私って…(・_・;)ウワー」と実感出来ちゃったことがあってその時 はすこーしショックだったな。  …立ち直り早かったケド(^^;) ・QWB02723@niftyserve.or.jp まゆみ・ - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/01/02 - 01916/01917 JBH00712 桂 桂 RE^2:「火宵の月」 (11) 96/01/02 07:32 01906へのコメント  #01906 ふぁらんどーる さん  いやぁ、早速「火宵の月」読み終えた所です。  平井摩利さんは一時期、鈴宮和由さんのところでアシスタントをしていたそうで、 なかなか今風の同人誌を読んでいるような感じですね。画風は何となく泉谷嬢の影 響を受けているようにも思えました(^^;  中世の陰陽師の化猫退治の話なんですが、もう独りの登場人物に猫に変化する 「火月」というのが出て来るのがつぼを押さえているなぁ〜なーんて思ったりもし ます。  内容はといいますと陰陽師に惚れた火月に妖怪退治と時の権力者の権謀数術が入 り乱れる時代劇・ヒロイックファンタジーというと解り易いですねん(^^; おお、 何か読んでいるうちにヤオイものを読んでいる気がするようになってしまった(^^; 桂 桂(JBH00712) 01917/01917 JBH00712 桂 桂 民営CIA (11) 96/01/02 07:33  「地球樹の女神・火の騎士」の中に四騎忍が経営するインテリジェントビルとい うのが出て来る。  これと同様のものが南青山、国連大学ビルの横に有る。  住所も小説の書かれている所とほぼ一緒で、連載中にはこのビルをモデルにした のではないのかという噂話もたったくらいであった。  中は一階がエントラントになっていて、観葉植物が噴水の廻りに敷き詰められて おり一般人でも出入りがきく。但し、二階以上はIDカードが無ければ入る事は出 来無い。  この観葉植物が敷き詰められるビルというのは90年代も真近になって建てられ たビル郡に共通のもので、当時流行のエルゴノミクスデザインによって備え付けら れたものであるらしい。  実際にこうした植物にパラノグラフが付けられ入場者の心理状態を観察してしま うという発想は正にSF小説ならではのものだろうが、現実に近代建築のビルの中 に植物が生えているのは人の心を和ませるというよりは、何か異質な発想があって どうにも馴染めない。  隣の植物に自分の心が読まれているとしたら一体どんな気分がするか?  植物自体に罪はないのだが、そこまでして管理しようとする人間の心理の方が余 程無気味という感じだ。  その昔の「狼のエンブレム」ではCIA極東支部に単身侵入する犬神明と虎4が 数々の死の罠を潜り抜けようと必至になるシーンに熱くさせられたのだが、今度ば かりは主人公の四騎忍が、この無気味な建物とシステムの管理者だというところに その異質さを感じる。  一昔前には超能力者が人間の前に立ちはだかるというのがSF小説のベースにも あったのだが、現在ではシステムがそれに匹敵するだけの力を持ってしまった。  クレジットカードには個人情報が満載され、情報の網を潜れば幾らでもそれを入 手出来るようになってしまった。プライバシーは守られるべきであったのだが、今 は違う。  意識しなければそれは守れなくなってしまっている所に、現代の技術最先端社会 の恐さがある。 桂 桂(JBH00712) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/01/02 - 04127/04132 GGA02514 KAZE RE:1995年もそろそろ終わりですね (13) 96/01/01 23:26 04112へのコメント 隆ちゃん、あけましておめでとうございます。 今年のお正月も相棒の実家のほうで過ごしていまして、 蜜柑狩りをしたり、犬や猫と戯れたりの、静かな時間を過ごしています。 年末は、秋から続いていた忙しさのせいか、仕事納め以後、 少しばかり無気力的な鬱状態になっていましたが^^;、 やっと少しバランスを取り戻せたかなという感じです。 >逆に言うと、30歳くらいまでは、生きるのが無節操に楽しかったんでしょうね。 ううむ、それって、すごくうらやましいし、 そういう体験はとっても大事なんじゃないでしょうか。 それがある種、魂の受容性を高めてくれるというか。 ぼくなどは、生まれてこの方、そういう体験ってないし、 ずっと、すべてのものから疎外されたまま苦しく不安に漂っている感じでしたから、 そういうふうに過ごせる時期があればどれほどいいかなとうらやましく思います。 今も、ぼくは、乗り越えてきたって感じではなくて、 かつての苦しさに比べれば、ずっとましになっているというだけですから。 その後それを認識的には乗り越えたとしても、こういう魂の傾向性っていうのは、 どうしてもずっと引きずってしまいがちなので、けっこう苦しいものです^^;。 >     さきほども書きましたが、身体でわかるとか、魂でわかるとかいう、 >とにかく確かな「実感」が伴わないと、それは幻想に終わってしまいそうですか >ら・・・。そうでなくても、どうも最近、自分が存在しているという実感に乏し >いんです(^^;)。 「実感」を出すために効果的なのは、自分の一番嫌いなことをすることです^^;。 楽しい体験よりも苦しい体験のほうが、ずっと体験の重みが違いますし、 そこに流れる思苦しく長い時間が、「実感」をいやがうえでも高めてくれますし、 「自分が存在している」と感じざるをえませんから。 もちろん、マゾになっちゃいけないけど、ある程度、嫌なことを 進んでするような部分というのは、必要なところもあるのかもしれません。 でも、ぼくの場合は、嫌なことだらけで過ごしてきまして、 それだからこそ、逃避的な幻想を持ってしまう傾向はありましたけど^^;。 >少なくとも、一緒でなきゃ不安という種類の感情は、「逃げてる」とか「責任を >放棄している」という自覚があるんじゃないでしょうか。それとも、ないのか >なぁ・・・だとしたら、とても不思議ですけど・・・。 自覚っていうのではなく、ただ「不安だからどうしよ」だけではないのかなぁ。 自覚があれば、そこに依存心のある無責任な自分に気づくはずですし、 気づいていれば、そのままでいいとは思えないのでしょうし・・・。 >後者がクリエイティブであるかもしれないというのは、ちと同意しかねます。ど >ちらかというとデストロイティブ(こんな言葉はないですが・・・(^^;))な気 >がします。押しが強いだけで、ちーとも創造的ではない場合が多いんじゃないで >しょうか。少なくとも僕がクリエイティブだと感じる人たちは、ほとんど例外な >く「暗くて」「ちょっと屈折」していまして(^^;)、少なくとも権威者(こんな >言葉もありませんねタハハ)になりたい人は見あたらないです。 権威をふりかざすのがクリエイティブなこともあるというのは、 それがそのアンチ−クリエイティブと二項対立的な意味でのクリエイティブで 権威に追従するのも権威を好むのもそのライン上にあるというか。 で、真にクリエイティブな場合は、もちろんそういう二項対立ではないんですよね。 クリエイティブな人が、「暗くて」「ちょっと屈折」しているというのは、 ぼくも以前はそういう感覚でとらえてましたけど、 最近は、それもある意味では、二項対立的なんじゃないかなあと感じています。 ぼくも以前はクリエイティブであろうとして、「暗くて」「ちょっと屈折」して そのなかで自分を見つけようとしてたときがあるのですが^^;、 やはりそれはちょっと違うんじゃないかなあと感じるようになったのです。 もちろん、「暗くて」「ちょっと屈折」していることを、ぼくの場合は、 勘違いして評価していたのかもしれませんし、 また、単に脳天気なのよりは一歩進んでるのかもしれないんですけど^^;。 >人間にとって悲しみがいかに大切かしみじみ感じたものです。悲しみを知らない >人間は不幸であるとさえ思います。もちろん、その悲しみを変容させなければ、 >意味がないのですし、それはなかなかに難しいことなのだけど、人間は悲しみを >「愛」に換えるリアクターとしての資質を神様から与えられているのだなぁと、 >あのシーンを見る度に感じるのでした。 「悲しみを愛に換える」こと、そして、その前提にある「悲しみを知る」ことは とっても大切なことなのだと感じます。 ぼくはまだまだ悲しみを愛に換えるまではできていないけど、 「悲しみを知る」ということだけは、わかるような気がしています。 というより、物心ついて以来、あのアンドロイドとは違いますけど、 ずっと心のそこに悲しみの感覚というのが流れて続けているって感じでしょうか。 なんだか言葉にはしにくいんだけど、おそらく、その悲しみを持て余しながら、 自分でそれをどうしたらいいのかをずっと考えてきたようなところがあります。 で、それが種になって、ずっといろんなことを模索し続けているのかもしれません。 ・・・ほんとうは、ぼくはアンドロイドだったりして^^;。 (もちろん、あの映画のようにはかっこよくないんですけどね^^;) >ううむ、この本を読んではいませんし、西田幾多郎さんの著書もほとんどなじみ >がないので、何とも言えませんが、この抜粋を見る限りは、ちょっと視点の次元 >が低いような気がします(^^;)。わかりやすく、あえてそうしたのかもしれませ >んが、無限大の円という例えはどうもうまくないと思いました。自己否定という >言葉も、誤解をうむだけで感心できません(これに関しては、僕自身の「否定」 >という言葉に対するアレルギーが大きく関与していますが・・・(^^;))。 そうですか^^;。 ぼくは「円」ということで、「円相」を思い浮かべたりしたものですから、 そこに無限の豊かさの表現を見、人間は本来その可能性を有していることを なかなかうまく表現していると思ったんですけど。 それに、自己否定は即、自己の絶対肯定ですから、 単なる自己肯定よりははるかに次元が深いとらえかただと思っているのです。 やっぱり、部分だけを引用してしまうと、その背景がわかんなくなるから、 もうちょっとそこらへんを説明しないと、まずかったかもしれませんね^^;。 ここらへんについては、先日から、しまうまさんとお話していることの連関で わかりやすいかなと思っていたのですが、そうでもなかったようです^^;。 念のために少し補足しておきますと、「「自己とそれ以外」という対立概念」は、 今回少しご説明した西田幾多郎の場合ほとんどないんじゃないかと思います。 むしろ、西田幾多郎は、ただそれを否定するだけではなく、 それを包み込みながら乗り越えるというのを基本にしています。 ですから、「一」と「多」の関係性というのは、 まさに多様性を含んだ「即」なわけで、むしろそういう対立概念を批判する側です。 だった、「絶対矛盾的自己同一」だとか「逆対応」なんて言ってるんですから。 ぼくの知る限りでは、西田幾多郎ほどそれを多面的に豊かにとらえた方は、 ほとんどいないんじゃないかなあと思うのです。 もちろん、西田幾多郎は、単なる哲学者ではなく、禅の人でもありましたし。 それとも、隆ちゃんは、もっと深いとらえ方を想定しているのかなぁ。 そうだったら、教えてくださると助かるんですけど。 >じゃあ、現在のエセ共産主義&社会主義国家というのは、ああなってしかるべき >というか、道を誤ったわけじゃないんですね はい、そうだとぼくは思っています。 自分はする気のないことをいくら理論化してもできるわけはないんです。 あの理論は結局「あいつらばかり得しやがって。今度は俺達が・・・」 っていうことをあれこれと言い繕っただけなんですよね、結局は。 そもそも、精神的なものを上部構造だということそのものが?ですし、 なにより、「革命」だとかう理念を、どうやって唯物論で説明するんでしょうか。 唯物論から、どうやって平等だとかいう理念がでてくるんでしょうか。 そういうことって、ほんとうに子供だましの詭弁でしかないのにね。 もちろん、マルクスの理論は、一種の関係論でもあって、 単純な唯物論ではないのは確かなんですけど・・・。   >僕やカミさんは、なかなかのナショナリストで、ひょっとすると国粋主義者に近 >い感覚を持っているのかもしれませんが、どうも「他民族を排斥する」という感 >覚がわかりません。 そうですね、立場はどうあれ、自分のところだけが正当で、 それを邪魔する可能性のあるのは排斥するというのはすごく稚拙ですよね。 ぼくは、ナショナリストから見ると、かなり大馬鹿者のタイプでして^^;、 「故郷喪失者」を自認していますから、それなりに批判されるのかもしれません。 でも、ナショナリストも「故郷喪失者」も、他を排斥するなどということを 稚拙だととらえているわけですから、問題はそこにはないんですよね、たぶん。 これも、権威とアンチ−権威のような二項対立的な発想が根っこにあるから どうしても排斥関係になってしまうんじゃないかという気がします。 >はあ・・・タメイキ、全く無粋な話ですよねぇ。勝った負けたで騒ぐのは、まあ、遊 >びとしては面白いと思いますが、それがマジになるなんて・・・じつにダサイ話 >です。 これも、ファンかファンじゃないかというその二項対立的発想が根っこにあります。 勝った−負けたっていうのも、同じです。 確かに遊びだったら面白いけれど、マジになるようなものではない。 >大国のエゴなんて、そろそろ終わりにしなければ・・・。もちろん、小国のエゴ >もごめんですけどね。 そういう、大国−小国っていう発想もやめなければならないのでしょうね。 そうそう、最近、横断歩道で見たのですが、 「交通弱者用押しボタン」というのがありました^^;。 この「弱者」というのも、「強者」の対立概念なんですよね。 マスコミでばかばかしいほどまかりとおっている 「差別表現」の自主規制も同じなのですが、そういう発想をやめにしなければね。 では、今年もよろしくお願いします(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04128/04132 GGA02514 KAZE RE:シュタイナーハウス主催「教育芸術講座」感想 (13) 96/01/01 23:27 04114へのコメント バスチアンさん、あけましておめでとうございます。 >まず、シュタイナー教育について、それを現代日本という文脈に即してどう解釈 >するか、ということはなおざりにできない問題だと思いました。 はい、そのことは非常に重要な問題だとぼくも考えています。 そもそも、シュタイナー教育はヴァルドルフではじめられたもので 本来は「ヴァルドルフ教育」というふうに呼ばれているもので、 それをそのままで、時代的文化的な差異を無視して、 現代日本にもってくることに対しては、かなり疑問があると思います。 ぼくの知る限りでの日本のシュタイナー教育というのは、 ほとんど教条的なもので、その本来の認識実践を等閑にしている印象があります。 つまり、シュタイナーの提示した人間学的な視点をほとんど軽視して、 その形の側面だけを取り上げてそれでよしとしているのではないかと思います。 シュタイナーの教育上の代表的な講義に、 「教育の基礎としての一般人間学」というのがあります。 そしてその基礎となっているのは、輪廻転生していく人間を 霊学(精神科学)的に総合的にとらえようとする認識実践があります。 そうした側面なくして、シュタイナー教育を語ることも実践することも ほとんど無意味なことではないかと思うのです。 シュタイナーから学ぶのは、その認識実践を通じた教育の考え方であって、 それをヴァルドルフで応用したそのものを形だけ移すことではないはずです。 > 例えば、3日目の昼休みの際に、日程の中でコーラスを担当されていた竹田喜代 >子先生と昼食を共にする機会があって、その中で話していたことなんですが、日程 >の中で行われた西川隆範先生の講義の内容を参加している方達が一生懸命ノートに >記録しているのは、ある意味で危険なのではないかということです。私が西川先生 >の講義を聴いた印象としては、まず「子どもにとって○○が良くて××が悪い」と >いった構文に即しての枝葉末節的な説明が少し目立ちすぎていたような感はありま >したね。もちろん西川先生自身はそういった細部ばかりを並べてみて「あれはダメ、 >これはいい」っていう次元のものばかりでそれがシュタイナー教育、っていう理解 >が危険であることは承知してはいるでしょうが、聴く側にとってはそういった危険 >に陥る可能性が充分にあるのではないかと思いました。 やはり、そうした類の講義がされているのですね、予想した通りです^^;。 「あれはダメ、これはいい」ということだけは避けなければならないのに、 それをやってしまう認識の浅さというのはほんとうに困りものですね。 特に、講義を受ける方々というのは、シュタイナーの提示した 基本的な認識の部分をまるで知らない方々が多いのでしょうから、 なおさらそうしたかたちの話し方だけは避けなければならないんだと思います。 ほんとうに危険なやり方です。 ぼくの知人でシュタイナー幼稚園に子どもを入園させて、 その子どもさんがその後登校拒否になったり、病気がちになったりしたような そんなケースを知っていますが、その方も、まさに枝葉末節の 「あれはダメ、これはいい」を真に受けた方の一人なんですよね。 その方とシュタイナーについて話し合ったことがあるのですが、 その方は、シュタイナーの考え方をまるで知らないというどころか 講義で聴いた枝葉末節を「シュタイナーはこう言っているからこうした」 「しかし、自分の子どもはこうなったのは、シュタイナーの考え方が 間違っていたからだ」というようなとんでもないことを言うのです。 あきれてものがいえないほどの無知なのですが、現実はこうなんですよね^^;。 シュタイナーが生前よく講義で言っていたことのひとつに、 「私はいうことをそのまま鵜呑みにしてはいけない。 自分の認識実践を通じてそれを獲得しなければならない」 こういう内容のことがあるのですが、そういう姿勢がないというのは、 日本でシュタイナーの教育方法を生かすには致命的なのだと思います。 >  そんな中で私が痛烈なインパクトを感じたのは、なんと言ってもオイリュト >ミーですね。他に水彩とか童話の朗読とかいろいろあったのですが、私にとって「 >おお、これはすごい」と思わせたのはオイリュトミーでした。 はい、オイリュトミーは、未来の総合芸術だともいえる実践ですし、 それをフォルメンなどと組み合わせて、教育の重要なファクターとして 使うことも大きな意味があると思います。 しかし、これもやはり、その霊学的な基礎をきちんと学んでいるかそうでないかで その受け取る可能性がまったく違ってくるのではないかと思います。 しかし、総合的に考えて、日本で受容されているシュタイナー教育は、 シュタイナーの人智学を理解している方がほとんどいないままに、 みずからはシュタイナー教育を教えていると思いこんでたりしますから、 かなりひどい現状なのではないでしょうか。 ぼくの考えでは、むしろ、シュタイナーからは、 その霊学(精神科学)の基本的な認識を深く学ぶことで、 それを現代日本にふさわしい人間学として応用していくというほうが ずっと意味深いことではないかと思っているのです。 では、今年もよろしくお願いします。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04129/04132 GGA02514 KAZE RE:内なる制度 (13) 96/01/01 23:28 04115へのコメント バスチアンさん、どうも。 >   私にはどうしても人間の内面的なものを「制度」として括ってしまうことに >抵抗がありますし、そもそも制度とは人と人との間に便宜上できてしまうもの、外 >側に顕現するものといったイメージがあるのですが、それとはまた違うことを示し >ているみたいですね。人間の内部機構のあり方と、その内部機構を持つ自分自身へ >の自覚、ということでしょうか。 「内なる制度」ということにはいくつかのレベルがあるのですが、 おっしゃるような「外側に顕現するもの」に対応するレベルのものもあります。 たとえば、言語ということもそのひとつですし、 その他の環境ということに関してもそういえると思います。 人間は「人の間」と表記されたりすることに典型的にあらわれているように、 人と人との間の「インターコミュニケーション」によって、 その身体も、獲得されるさまざまも形成していくという側面を色濃くもっています。 ですから、「制度」を語る場合は、どうしてもその外的なものだけではなく、 それと呼応している内的なあり方というのも自覚しなければならないわけです。 ドゥルーズやデリダ、それからフーコーなんかもそういうところがありますが 彼らの営為というのも、そういう制度を踏まえながら、 それから自由であることがいかにして可能かということを、 またその制度と戯れながら、それをいかにはぐらかしていくかということに さまざまな角度からアプローチしているのではないかとぼくは捉えています。 >              しかしそこへ至るためには言葉だけでは足りない >でしょうね。それこそ「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」とい >うことになってしまうでしょうし、それを沈黙したまま成長の礎として体得するの >がシュタイナー教育の目的なのかな、という気がします。言葉を語らぬ代わりに音 >を聴き、色彩の世界に浸り、身体を動かすことによって、内なる制度を自覚する、 >といったところなのでしょうか。 いえ、シュタイナーは、「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」 というような姿勢ではないとぼくはとらてえいます。 それは「霊学(精神科学)」のとるべき態度ではないと。 もちろん、ヴィトゲンシュタインはぼくの大好きな哲学者で、 大学時代、むさぼるように読んだことがあるんですけどね(^^)。 たとえば、シュタイナーの「人智学指導原則」(水声社)の最初のあたりには こういうことが述べられています。   人智学は霊的な仕方で獲得される諸認識を仲介する。魂的人間存在が努力して   達しなければならない人生の道の境界を越えることができないとき、日常生活   と、感覚的知覚および悟性の活動の上に打ち立てられた科学とをこの境界に導   くために、人智学は霊的な諸認識を仲介するのである。 日常生活と科学はこ   の境界に立ち止まらねばならないのではなく、この感覚的観照の境界で、人間   の魂そのものをとおして霊的世界のなかへの眺望を開くのである。   感覚的観照の境界がすべての洞察の境界になると信じている人々がいる。いか   にこの境界を認識するようになったかに注意するなら、この意識のなかに、境   界を乗り越える能力をも発見することになるであろう。魚は水の境界を泳ぐ。   水の外で生きるための体的器官が欠けているので、魚は水のなかに戻らねばな   らない。人間は感覚的観照の境界にいたる。この途上で、感覚的観照によって   は包括されない要素のなかに魂的に生きるために、自分のなかに魂的諸力が与   えられていることを人間は認識できる。(P17-18)    シュタイナーは、その哲学的アプローチとしては、「自由の哲学」で、 カント的な「物自体」の認識の限界を乗り越えていますし、 さきほどの「語り得ぬもの」を安易に境界づけてしまうことからも それを乗り越える重要な認識を提示しているだと思います。 もちろん、シュタイナーの営為は哲学的な認識のみではありません。 教育や芸術、医学、農学、社会実践などなどを通じて、 それを総合的に実践しうるものとして提示しています。 それはまさに総合的なものですから、まさに教育も、 人間が生まれ育っていくときに必要なことやプロセスに関しても それを総合的にとらえていかなければならないのは当然のことです。 しかし、シュタイナー教育を実践しているといいながら 霊学(精神科学)的認識が欠けているということが現実的には多いですから、 そこらへんには注意が必要なんだと思います。 この会議室では、シュタイナーの提示している認識をうのみにするのではなく、 その霊学(精神科学)的認識を理解しながら、さらにそれにとらわれず、 現代日本で何が必要なのかを議論できればいいなと考えています。 もちろん、ぼくの能力の限界ゆえに、なかなか進展しがたいのですけど、 気長にやっていきたいと思っています。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04130/04132 GGA02514 KAZE RE:みなさん、よいお年を〜 (13) 96/01/01 23:28 04117へのコメント こむさん、あけましておめでとうございます。 昨年は、こむさんには、こちらこそほんとうにお世話になりました。 こむさんの本来のテーマのひとつである瞑想関係のお話も まだまだ不十分なところがありますので、今年はそこらへんについて もっとお話できればと思っています。 そうそう、こむさんから学んだことでほんとうに印象深かったのが ノロガメさんとの一連のやりとりでした。 ぼくは、この会議室で「何からでも学べる」ということを掲げてるのですが、 ノロガメさんの登場は、非常に難しいケースになりました。 それを、こむさんは、ほんとうに真摯に、まさにそこからこそ学ぼうとされ、 それが他の方々への大きな啓発になったのではないかと思っています。 ぼくにとっても、こむさんのそうした姿勢から多くを学ぶことができました。 では、今年もよろしくお願いします(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04131/04132 GGA02514 KAZE RE:よいお年を。 (13) 96/01/01 23:28 04120へのコメント ノロガメさん、どうも。 >今年は、ひょんなことから、KAZEさん初め皆さんとお目にかかれる事に成りま >して、振り返って観ると、ノロガメにとっては、言いたいことを言わせていただき、 >充実した一年でしたが、皆さんにとってはノロガメは場を乱したやっかいものでは >なかったかと思います。 少しというか、かなり戸惑いは確かにありましたが^^;、 たしかに、こむさんの学ぶ姿勢のおかげもあり、 ノロガメさんの登場もそれなりに意味のあることだったように思います。 ここでは、これまでかなり対話するにあたって、 その対話の姿勢について考えなければならないということはなく、 きわめてスムーズに運んでいたのですが、 正直いってノロガメさんの登場は、その対話の姿勢そのものについて、 あらためて考える必要性を参加者に提示することになったと思っています。 そして、そのことが、またかなり学ぶ材料になったのではないかと。 その点では、ノロガメさんの体当たり的なところが さまざまな学びを提供していただいたことを感謝しています。 >まだまだどうしょうもない部分がいっぱい有りますが、来年も許されることであれ >ば、書き込みを続けさせていただき、皆さんに理解得る内容になるよう頑張りたい >と思っています。 ノロガメさんの不思議なのは、ご自分で「どうしようもない」と謙虚にいいながら その反面で、けっこう不躾で配慮のない部分もあったりすることです^^;。 そこらへんのことについては、できるだけ配慮できるところはしていただきながら、 もちろん、今後もご参加いただければと思っています。 今年もお互い多くを学ぶために、せいいっぱい頑張りましょうね。 では、今後ともよろしくお願いします。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04132/04132 QZA02327 ノロガメ RE:悲しみの無い死も有る。 (13) 96/01/02 00:45 04103へのコメント tenさん、今日は。 1996年の幕開けです。 昨年の暮れに大方できあがっていたのですが、今年最初のRESがtenさんにな りました。 ひとつ、本年もよろしくお願いします。 >何度かお話ししています。 大変しつれいしました。記憶が少し戻って来ましたが、内容も内容ですが、以前は (今でも?)独白指摘アレルギーにかかっていまして、降りかかる火の粉をはねの けようと必死に成っていたような気もしますが。 まだまだ皆さんに理解得る言葉の組み立てには至りませんが、ノロガメにRESを いただくことで、少しづつでも育てられる思いであります。 >今回のコメントも、肝心の人の生命(死)観については、ノロガメさんご自身の >意見は何も有りませんね。 そうです、それは意識的にそうしました、というのは、死生観に付いてじっくりと 取り組んで書き込もうとしていまして、そのことをKAZEさんにアップしたので すが、それを見ていただこうと思っていたのであります。 >これ、「皆さん、僕ってどんな風に見えますか?」と聞いて、出来たら肯定的に >「こうだよ」と言ってもらって、それをもとに何か安心したいってことかしらん >? そのように見えていますか。 ノロガメとしては、そう言うことではなく、一種の宗教心の働きであろうと思う訳 で、ノロガメ流神の概念とでも言いますか、そのようなことを自己表明によって果 たそうとしているのです。 ノロガメとしては、神とは、特別の物ではないと言う事を表明したいと思っていま す。 そしてそのことが神秘学にも通じるものと観ているのです。 >そんな瞬間は、些細なところにも点在していて、大切だけどその瞬間に出会うこ >とは恩籠やきっかけでは有るけれど、特権ではないのです。 >そうした物事に出会うために、またより深く感じるために、瞑想をしたり、神秘 >学を実践することで、感覚を繊細にしようという努力をする方法も有ると思いま >す。 ノロガメは神観について、特別メニューを否定しようとしています。 特別な方法でしか神観(精神世界)を会得出来ないのであれば、宗教と社会との接 点に生まれる問題は改善されないのではないかと思っています。 現実生活において、正しく生きるために、神観が必要であると思います。 信心の目的は、道理を見極められる精神の向上であるとも捉えているのです。 日常生活即信心生活で有るべきと考えているのです。 神秘学もやはりそうした平常心の領域に取り込んでいただくことを願っているので すが。 >「遊戯」と称しているのは、何だか真面目に追求しまうけど、でも僕たちはこん >なに情けないところや、俗っぽい所だってある。と自分自身に羞恥心を忘れない >ように、あるいは夢中になり過ぎないように、でも愛情を持ってゆけるように。 >と言うことで、自分から掛け離れた誰のためにも成らないような感情や、魂から >遠ざかった「実験」や「知的遊戯」とは別物なのではないでしょうか?ちがった >かしらん?KAZEさん。 ノロガメとしてはそうした普遍的な領域から脱皮しようとしているのです。 それは信心生活による、プロセスが導き出して来たノロガメ自身の筋道であります。 普遍的な語らい、資料に、求めるものの答えが見いだせれば、ノロガメの理屈は不必 要であります。 納得が得られない、ではどうすればよいのか、いろいろ発想を展開させて自分を演 じて観る、そうしたプロセスが今日の一齣であります。 そのことを、多用感覚の一つとしてこの場で表明しているのです。 この世にも、あの世にも、神秘なるものは無いと捉えています。 人間的に訳が分からない、そのことが神秘として語られているに過ぎない、そうい うことではないでしょうか。 それが証拠に、物理的な神秘なるものは、科学の力で宇宙の果てから人体の奥深く まで探求され、神秘は神秘でなくなり、みんな当たり前のこととして意識化されて 来ました。 ですから、ノロガメのこの場での態度が、一見この場にそぐわない、別物のように 観られるかも知れませんが、これがノロガメの神秘探求でもあるのです。 >ここにも社会があり、例えば、読書会のような共同作業の場になっています。 >書き込みの言葉に傷つく人だって有ります。これは、現実です。 ノロガメの社会観は、個々の動物が交わるところに生まれるものと捉えています。 ですから、実態の伴わないパソ通のこうした世界は、現実の同じ社会感で観ること に視点のずれを感じるのです。 ですから、問題意識も固定観念を解除する必要が有るのでは。 >それは、他者にどう思われたいとか、こうしたいなどと言うことは通用せず自分 >自身を試されることには成らないでしょうか。 人間には、他者の事はよく見えるものです。 人間には、自分がなかなか見えません。 人の運転する姿は見えても、自分の運転する姿が見えないように、人のなりふりを 観て自分を正して行くことも大事であろうと思います。 それは社会性が要求するものであって、自分と言う個的な問題の場合、内面に真を 完成させることが望ましく、言葉はその真の状態を表すものだと思います。 ノロガメは神観、あるいは宗教を語るとは、真を表明することであると捉えている のです。 実態の伴わないこの場(無形の世界)は、他者(神)からも試され、自身(神)に よっても試す場であろうと思うのですが。 >それらは、一切の社会機能の世話にならない、無人島に行けば問題化しないと思 >います。 >ノロガメさん、これ暴言だと思います。 >「自分と違うから、変だから閉じ込めろ」ってことですよ。 ちょっと反論です。(ノロガメの真意が伝わっていないようですが) ノロガメは人間は神に創造された生き物として捉えての理屈においての反論です。 思想家は思想家なりの理屈の上に立ってしていることであり、そしてその思想家も 神に創造されて生かされている姿と見れば、そのこと事態(思想)は否定するもの ではありません。 しかし社会構造から観ると、地域社会が有って、地域社会とは地域住人によって形 成されている社会であると捉えるのですが、思想、宗教、成るものが物理的に形作 (組織化)られて、突然私たちが住んでいる地域に飛び込んで来たら、tenさん はどう思われますか。 素直に理解し、受け入れることは出来るでしょうか。 民主主義ルールは数が主導権を取りますね。 地域の運営は、数によって左右される結果を招きます。 そうした問題意識は、地域住人に有るのです。 そのことをそれらの集団を先導する思想家はどのように考えているかが問われます。 一人の人間の思想が発展すれば、必ず弊害が生まれると言うことを言いたい訳で。 ヤマギシと言う思想的な集団に内部告発や脱退にまつわるトラブルなどなど書籍が 出回っているようですが、これらのことによらず、思想が形作られ発展してくると、 それらの問題は思想の中身には関係なく、因果関係が成立する訳で、そんなことは 誰にでも分かることであり、そうした簡単な理屈が思想家には見えないのでしょう か。 大体現実の否定から生まれてくるのが、思想なり宗教で有る部分が有ります。 ですから、その思想が現実に交わろうとすれば問題化が始まるものなのです。 >ここである人格や理論をねつ造して、それを楽しんでいるのだったら、それはま >ず、演じ(試み)始める前に言うべきだし、・・・・ ねつ造は一切ありません。 一切が外部資料を必要としない自己表明であると心得ています。 >もし一点に留まり自己正当化の言葉を繰り返すならば、実験者として演者として >怠慢ですね。 怠慢とは、「心がけが悪い」と辞書に有りますが。 この怠慢評価は理解出来ません。 tenさんは人間が生まれて死ぬと言う事の事実をどのように捉えますか。 一つの物が形となって世に現れる訳は、いくつもあると言うことではなく、人間の 体にも物の道理が存在していて、運命が定められています。 生きる訳は一つです、その一つを定められずに人間は苦しんでいるのです。 定まり有る人生、定まり有る社会が望ましいことで、自然界は一切が定まり有るが ために、私たちは明日を信じることが出来るのです。 何をやっても、定まりない人間をtenさんは信じることが出来ますか? 一貫性を貫くことが人生には大事であると思いますが。 >もっと、ここのコンセプト(シュタイナー)や、他者の言葉に耳を傾けたり、言 >葉のキャッチボールをストレートな柔らかい言葉や観点でアプローチしてもいい >んじゃないですか? 当たり障りのない、無難な人生を選ぶのであれば、別に自己主張する必要はないで しょう。 失礼な言い方になりますが、皆さんに口裏を合わせ、無難に事を済ませればよいの でしょうけど、それではノロガメには満足出来ないのです。 何故そこまで自分を押し通すかと言うと、普遍的なアプローチでは、いま一歩が踏 み出せないが為に、ノロガメの演者としての姿が有るのです。 tenさんには理論的に精神世界を語ったり、人生を固定化することに異論が有る ようですが、社会性に即するためには何事をも理論的でなければ、形的に定めるこ とが出来ず、他者には理解しにくい物になります。 私達は、今人間社会で人間として生きています。 交通社会では交通ルールが最優先されるように、人間社会ではその社会のルールが 最優先されるべきであり、最重要視されるべきは、社会人としてどう有ればよいの かが問われているのです。 ですから、社会構造学に即するものが求められるべきであり、人間の理屈が最優先 される事も認めなければなりません。 いくら、真実、心理を唱えたとしても、そのことが社会の仕組みの成立条件に合わ なければ、それは人間の理屈として成り立たないのです。 とくに、精神世界や神秘学なるものを語ろうとするとき、社会性、人間性にマッチ する言葉に変換作業が必要になると思う訳で、その辺のテクニックが思想家にして も宗教家にしてもまずいのではないでしょうか。 >悲しみは悲しみとして、十分に体験し、思い出を繰り返し、荒ぶって、個を成就 >するからこそ、本当に魂は静まり、小さな個の出来事が大きなものに繋がって、 >感情的に、情緒的にではなく、でも魂を持って静かに話せるのだと思います。 精神世界を議論の場に持ち込もうとするのであれば、この捉え方はどうかなうと思 いますが。 悲しみが生まれると言う事は、そこに問題意識化が有る訳で、本来人間的には悲し いことが排除されるべきではないでしょうか。 魂の静まりは、あくまで平常心から生まれるものであると思います。 いかなる状況においても、人間の心が落ち着いている状態が一つのバロメータなの です。 感情論では、精神世界を議論する場合、それは慰め合いにしかならないでしょう。 議論は何のために必要であるかが問われる訳で、そのためには結論を導くための言 葉の組み立てが必要であると思います。 今年はこの場でのノロガメの課題は、tenさんの仰せの通り「言葉のキャッチボ ール」であろうと思います。 >ストレートな柔らかい言葉や観点でアプローチしてもいいんじゃないですか? 1996年の第一球は、ストライクになったでしょうか? tenさんにとって、有意義な1996年になることをお祈りします。 今年も昨年に増してお育てを頂きたいと願う、ノロガメでした。まる - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/01/02 - 03505/03510 GBG02043 維/YUI しまった・・・ (14) 96/01/01 23:53 03504へのコメント コメント数:1 新年早々、先をこされてしまったわぃ・・・。 ひょうたんさんのイラストって、毎回きゃあきゃあ言いながら 見て楽しんでいるんですよぉ!! すっげー、めちゃかわいいもん!! と、いうことで、そんけ〜するひょうたんさんだから、先こされても 許しちゃうもんね。。。 *〜*☆*〜** ゜★*゜*。*〜*☆*〜* 改めまして・・・。 あけましておめでとうございます *本年は、本番の年だそうですね* ***素敵な楽しい事ばかりとは*** *☆**いかないかもしれない**☆* ***★*でも、きっと素敵な*★*** *☆***★*瞬間をそこに*★***☆* ****☆****見つけよう****☆**** **★***☆****★★****☆***★** **************ね************** **★***☆****★★****☆***★** ****☆****預言解読村****☆**** *☆***★*心のからだの*★***☆* ***★*これからの世の中の*★*** *☆**まえを照らす道しるべ**☆* ***そうなっていったらと・・*** *新年の初めにおもっています!* 今年も、どうぞよろしく > ALL 維/YUI。 03509/03510 HQK00566 SOUND RE:しまった・・・ (14) 96/01/02 12:05 03505へのコメント #3505維/YUIさん  あけましておめでとうございます(^^)。  ひょうたんさんに対抗してのイラストイメージにはめこんだ メッセージですね。  みなさん、テキスト形式でもうまいものですね。  茶店のおばばさんとしてのお仕事、今年もお忙しいとは思いますが どうぞよろしくおねがいします。m(__)m。     HAVE A NICE DAY! ** HQK00566/SOUND <01/** SOUNDでした 03508/03510 HQK00566 SOUND RE:謹賀新年 (14) 96/01/02 12:05 03504へのコメント #3504ひょうたんさん あけましておめでとうございます(^^)。  今年もイラスト楽しませてもらってありがとうございますm(__)m。  今年一年を良い年にできたらいいですね。  よろしくお願いします。    サウンドでした。 03506/03510 MHD02672 TAO 今日のNHK番組 (14) 96/01/02 01:25 コメント数:1  ども今年も宜しく〜。  さて今晩のNHK総合で、9時20分から「150億光年銀河紀行」が放映されますが、 この中でオリオン星雲の中の「新しい太陽系」が出て来ます。こちらの太陽系によく  似ているそうで、ARIONが「光よりの光」(南雲堂刊)で触れていた、地球から  の転生先としての「オリオン星系M42に新しい太陽系を用意している」というコメ  ントを思い出しますね。ウウム  TAO 03510/03510 HQK00566 SOUND RE今日のNHKの番組 (14) 96/01/02 12:05 03506へのコメント #3506TAOさん  はじめまして、そしておめでとうございます(^^)。   SOUNDと申します。ご挨拶が遅れましたが いつも、9番会議室でのひろく深い知識に基づいた ご活躍拝読させていただいて感心しています。 今日のNHKの番組の情報をアップしていただいてありがとうございました。 家族と「筋肉バトル」を見るつもりでしたので見逃すところでした。 今、ビデオのセットをしておきました。  今年もますますのご活躍を祈ります。  ぞうぞ以後、よろしくおねがいしますm(__)m。 HAVE A NICE DAY! ** HQK00566/SOUND <01/02 ** 03507/03510 HQK00566 SOUND RE^2:神話に関する参考図書 (14) 96/01/02 12:05 03453へのコメント #3453るーんさん、はじめまして&おめでとうございます(^^)。    今までご挨拶が遅れて失礼していましたが 去年から引き続いてのノロノロ亀レスをつけさせていただきます。 >>キャンベルの『神話の力』は、テレビ放映( 日本では教育テレビで) もされて >>ました。素敵でした、キャンベルおじさま。( ミーハーなわたし) ぼくもあの番組を見てジョーゼフ・キャンベルに心酔しました。  最終回にAUMの発音を少しはにかみながらも 相手のTVジャーナリストに向かって一生懸命教えている姿が印象的でした。 80才を過ぎているのに少年のようで、なんと若々しい感性の持ち主かと尊敬しました。 キャンベルを知っている人がいると思うとうれしくなります。   かれの遺していった数々の著作は人類の宝だと思います。  そうはいってもぼく自身は埼玉県に在住しているので 県内の図書館所蔵の本を借り出して読んだだけで 購入したことはないのですが…。 (ほとんどの本は図書館で借り出して読ませていただくので 家にはあまり本を置いていません)  ジャクリーン・オナシス・ケネディも 亡くなる前にキャンベルの著作の出版に力を尽くした というのはすごいことですね。 それまでの彼女の人生では得られなかったものを キャンベルの著作に見いだしたのでしょう。 それでは今年もよろしくおねがいしますm(__)m。  SOUNDでした。 - FARION MES(18):武道とは?  ★ 自分に勝つ! 96/01/02 - 02760/02765 HGB02122 あもり 新年のご挨拶 (18) 96/01/01 20:17 1996年、新年あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします(^_^) 昨年中もいろいろなことがありました。 情勢を見るに、どんどん武道の精神が必要な時期なんじゃないかな、と 思っています。 ところで、今年、僕の中で考えている会議室の予定を上げておきますね。 ☆宮本武蔵についての考察 ☆テーマRTの定期開催 ☆武道の歴史についての考察 ☆慎重なる瞬発力をさらに掘り下げる ☆武道の精神とは? 上記、これらに沿って議論を展開していきたいと思います。 HGB02122 あもり 02761/02765 HGB02122 あもり RE:RE^2:リズムと間 (18) 96/01/01 20:17 02756へのコメント こういった個所も、兵法三十五箇条にあります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 拍子の間を知るということ 拍子の間を知るは、敵により早きも在り、遅きもあり、敵にしたがう拍子なり。 心遅き敵には、太刀にあいになりと我が身を動かさず、太刀のおこりを知らせず、 はやく空にあたる、これ一拍子なり。敵の気のはやきには我が身と心をうち、 敵の動きのままを打つこと、これ二のこしと言うなり。 また、無念無想と言うは、身を打ち様にして、心と太刀は残し、敵の気の間を 空より強く打つ、これ無念無想なり。 また、遅れ拍子と言うは、敵太刀にてはらんとし、受けんとする時、いかにも 遅く中にてよどむ心にして、まを打つ事遅れ拍子なり。能々工夫あるべし。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー これは兵法という立ち会いのときの言葉でしょうが、立ち会いには、 「敵にしたがう拍子なり」 という大前提が必要なようです。 敵に合わせる....「合気」という概念で、合気道の極意でも語られていますが、 武道でのリズムは自分ではなく、あくまでも敵にあるという事なのでしょうか? それとも、敵の気を押えつつ自分のリズムを乗せていくということなのでしょ うか?? もう一つ。 古文の読解にはまったく自信がないのですが、「拍子の間を知る」ためには、 「空にあたること」が必要であるといったことが書かれているようです。 この「空」に係り受けするところが「無念無想」なような気もするのでしょう が、このあたりどうなんだろう?? HGB02122 あもり 02764/02765 QZG02773 ウルヴィー RE^4:リズムと間 (18) 96/01/01 23:26 02754へのコメント  ども。    えと、ワイクーというのは武術ではありません。  ムエタイの選手が試合前に神に捧げて踊る儀式的な舞踏のことです。  東南アジア特有のあの感じの(説明できないのがちとつらいなぁ(笑))  音楽に合わせて鷲を真似て踊ったり、敵を切り捨てる真似をしたりします。  最近は日本のキックの選手もやりますのでそういうビデオを借りてくると  見られるのではないかと思います。    そのリズムは民族特有の物に思え、日本人の固有のリズムとは明らかに  違うわけです。しかも向こうでは試合中ずっとその音楽が流れてたりする  わけで、昔ムエタイに挑戦した空手家が自分のリズムで戦えなかった  ということがあったらしいです。    日本人、日本の武術の「リズム」はなんとなく日本画や水墨画のように  「破れ」のような気がします。  全体の空間を少ない要素で切ることによって画面を構成するように  流れる時間を瞬間の動作で破ることによって戦おうとする、そんな風に  見えます。心臓が鼓動する限り人間には体内にたしかにリズムがあるわけ  ですが、日本の武術はその自分のリズムを崩さずに戦うことよりも  相手のリズムを破ることで戦うことを目指しているような気がします。  そのため自分の中に余計なリズムをつくらない、「無」の心境だと思うの  ですが…。                  日本人でも前田憲作のワイクーはすばらしい              らしいです見たことないけどウルヴィー 02762/02765 HGB02122 あもり RE:拍子について (18) 96/01/01 20:17 02757へのコメント  ##02757 鷹 さん お仕事中、ご苦労様です。 >>  「ひと拍子」とは、「ひと呼吸」と言えば分かりやすいと思いますが、例えば >> 剣の中段の構えから振り被り、切り降ろすという動作の場合、一般的にはふた呼 >> 吸の動作に成りますが、これをひと呼吸でやってしまう。ただし、単に呼吸だけ >> の問題ではなくて、筋肉の動きとか、意識の連なりに途切れがないと言うような >> ことも含みます。 これが武蔵の書いている「太刀のおこりを知らせず」ということなんですね. 以前何かの武道書で読んだのですけれど、動作のおこりについては、細心の 注意が必要なようです。例えば、肩に力を入れてはいけない、頭をぶらして はいけない、さらに、武道家の甲野善紀氏によりますと、「井桁崩し」とい う術理で、胸に力を入れてはいけない、胸はとにかく動きの無いものだから、 注意しないと途端に尻尾をだす(おこりが見えてしまう)、とあります。 (最近の氏の概念は「四方輪」だそうです) >>  「無拍子」ともなると、もっとややこしくて、例えばその瞬間の意識の始めと >> 終わりを輪っかにして、くっつけちゃうといった感じでしょうか。私自身よく分 >> かって無いので、うまく説明出来ません。 わ、わからない(^_^; このあたりも、武蔵の、「空にあたる」ことと関係があるんでしょうか? HGB02122 あもり 02765/02765 GBG02043 維/YUI 思わず笑ってしまった。。。 (18) 96/01/01 23:53 02757へのコメント あけまして、おめでとうございます。 会議室の趣旨とはまるっきりかんけーのないRESですが・・・ >>元旦から出勤すると正月感がない・・・ブツブツ 鷹 なんとなく、つい笑ってしまいました。  ごくろうさまです。 >> 鷹さん んなこといってる場合ではなく、私は仕事しながら年を越したのだった・・。 未だに仕事中!!!   維/YUI。 02763/02765 QZG02773 ウルヴィー RE:情報求トム! (18) 96/01/01 23:26 02753へのコメント  ひょうたんさん、ども。ウルヴィーっす。    プロレスのこととなれば一枚かんどきゃなきゃとは思ったのですが  寡聞にしてわたしもそのレスラー知らないのですよ(笑)。すみません。    名前の感じからするとメヒコの覆面レスラーのような気がするんですけど。    プロレスのフォーラムにいってみてはいかがですか?  私はいってないけど(笑)。                    まっちゃんの「コマ〜シャル」に                大笑いしたウルヴィーさすがやるなぁ >◆次頁はありません◆