突然天使の背後から声がした「私を呼んでくれないのですか?」 - FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 96/01/06 - 05270/05270 GGA02514 KAZE 風邪の予防の話 ( 2) 96/01/06 10:01 05269へのコメント SUKEさん、風邪の話に割コメです。 やはり、大事なのは、自分の身体感覚をしっかりともつということなのでしょうね。 どういう環境だと、身体のバランスがとれて、 どういう環境だとバランスが崩れるか。 そうしたことを自分の身体とちゃんとお話していくことさえできれば、 身体がぎゃーっと叫び声をあげるようになる前になんとか措置が可能になります。 で、そうした身体感覚が持てるようになったら、 今度は、単に「身体さん」の居心地の良さだけを優先するのではなく、 少しずつ鍛えていくようにしたほうが、風邪の予防にはいいみたいです。 ですから、身体のバランスの悪いときには保護しないといけないけど、 調子のいいときには、たとえば寒さに慣らしておくなどすると効果的です。 ぼくも風邪をひかなくなってからできるだけ薄着になってきてまして、 先日、撮影でスキー場に長時間いたときも、スタッフが心配するほどの 平地の恰好でいたのですが、防寒のスタッフが風邪をひいて 心配されていたぼくが平気という状態でした。 それから薬についてですが、もちろん必要なときには対処療法的な意味で 薬の服用は必要になるかと思うんですが、 やはり、ちょっとあぶないなと感じたら、早めに漢方薬などで 予防線をはっておくほうが身体を酷使しないでいいようです。 ショウサイコトウ、サイコケイシトウ、カッコントウなどが風邪にはいいようですが 自分の体質をちゃんと把握しておかないとまったく効かないこともあります。 大まかな分け方だと、胃弱だとショウサイコトウ、サイコケイシトウ、 腸にくるようだとカッコントウって感じですが、 こういうのも図式的に理解するのではなく、幾度か試してみないと なかなかぴったりはこないようです。 それから、 >あ、それから最近は冷蔵庫にリンゴジュースを欠かしません。 ぼくもリンゴは欠かしませんが、 リンゴジュースよりもまるままのリンゴのほうがずっといいようです。 やっぱり、気の働きが違うようなんですよね。 もちろん、水分補給も忘れてはいけないようです。 ぼくは最近、原点に返って、日本茶で補給するようにしてます。 それもあって、最近は夜中に抹茶で茶会を楽しんでいたりしてます(^^)。 やはり、身体感覚をしっかりもつということと、普段から、食膳って感じで、 必要なものをちゃんと採っておくように心がけることで、 予防を心がけるというのが必要のようです。 あとは、メンタルなバランスということで、過度な感情の暴走を控えること 過剰な感覚的快楽に身を委ねないなどなど、けっこう大事なことだと思います。 というのも、風邪っていうの、単なるウィルスのせいじゃないようで、 それを暴走させるのも、「あのね、あんたたち場違いだからあっちいってね」 ってそれを暴走させないようにするのもそうしたメンタル的なところが 大きく作用するようなんです。 イメージとしていうと、感情が暴走したあと、冷や汗をじとっとかくでしょ、 あの感覚って風邪のときのじとってのに少し似てませんか。 そういうのから少し距離をとっておく感じでしょうか。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 05267/05270 GCG01101 アマデウス 地震過剰である。 ( 2) 96/01/05 00:08   年が明けてから、大阪近郊では毎日有感地震がある。  震度的には大したことないが、こう毎日続くとちょっと不気味だ。(-_-;)  とゆーてもまだ4日か。                               アマデウス - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/01/06 - 00506/00508 JCF00616 優位 年賀状の憂鬱 ( 5) 96/01/04 22:29  …年賀状の時節になると、いつも思い悩んでしまうのが、年賀状のデザイン。  いつも、元旦に到着するように早めに作成しようとするのだけど、それができ  ない。「今年こそ他に無いようなモン、つくったる」という思索が、作成作業  に入るのを邪魔してしまうのだ。  そして、結局出来上がるのは、ありあわせの材料で作った年賀状。完全に満足  のゆくものが果たして完成することなどあり得るのか、それは不明だけれど、  とにかく中途半端な出来具合。そしてまた、「来年こそは」と未来に希望を託  すのであった…(^_^;)  思えば、年賀状に限らず、僕の「中途半端さ」は日常生活の至るところで発見  できる。学校で提出するレポートにしてもそうだと思うし、勉強一般にしても、  美術でやっている絵画にしても、中途半端のままなことが多い。  その中途半端さ加減の裏には「イイものを」という意識がいつも働いているに  はいるのだが、それを支える為には欠かせない要素が欠けてしまっているのだ。  それは「まず足を踏み出す」「まず手をつける」ことと、「手を抜かない姿勢  」だと思う。集約して表現すれば「今を生きる」ことに欠けている。  じゃあ次にそれを実現するにはどうするか?という話になってくるが、これは  朝にさぁ始めようといって、夕方にもうできた、というような一朝一夕で出来  る類のものではないと思う。まさに「小さな花を大事に育てる」ような、コツ  コツと、そして丁寧かつ慎重な姿勢が望まれるように思う。  だから本当に、自分のエネルギーを使うことを惜しまず、細やかな注意を払っ  て、自分自身を本当に見つめ、確認してゆかねばならない筈。そうして育て上  げた「花」は、内的自信そのものだし、本当の充足感に繋がるのだろう。  ま、こーして言ったからには実現しなきゃ、ダメなんですが(^_^;)                          優位(JCF00616) 00507/00508 CQE04277 九印 甘えと特権 ( 5) 96/01/05 02:17 コメント数:1  先日、生の喧嘩を初めて見た。ケンカと言うよりは言い争いだったのだが…。  どうやら買い物を済ませて会計をする時に、女性が男性にぶつかって  しまったらしい。その時彼女は何も言わなかったようだ。それに腹を立てた  男性が出口で待ち伏せて、彼女が店から出たところでケンカになった。  女性の方は彼氏と二人連れ、男性の方は奥さんらしき人と1歳に満たない  赤ちゃんを連れていた。女性の長い髪を引っ張り、外へ引きずり出そうと  する男性。女性をかばおうとする彼氏、夫をなだめるどころか一緒になって  口論する妻。(私には男性の方が悪いと思えるので、どうしてもこのような  書き方になってしまう…)  男の人が女の人に手を上げるなんて、考えたこともなかった。  男女間に腕力の差があるのは誰でも知ってるから、そんなこと  あるわけないって思い込んでた。ある部分手加減してもらえるのは、  女の特権だと思ってた。でも、現実は厳しいんだと判った途端(髪を  引っ張られただけなんだけど)、これって甘えかもしれないと、  考え込んでしまった。  P.S.泣いている彼女を慰めている彼氏を見て、「甘えるなー!」と    ついうっかり思ってしまいました。 CQE04277 九印 00508/00508 NBB01420 SUKE ゆとりのない世間 ( 5) 96/01/06 02:15 00507へのコメント #507 九印さん、こんばんは。 そんな光景って滅多に見ませんね(^^;) 本気で喧嘩している人を電車なんかで見ることがありますが、結局一声二声で 終わってしまうのが殆どで、殴り合いつかみ合いは長続きしません。それに酔っ ていたりするし。 でも男性が女性に素面で暴力を振るうと言うのは凄いですね。 余程のぶつかり方をしたんだなぁとも思いますけど(^^;) その場に居合わせれば、ぶつかったことに謝りもしなかった女性が高慢な人間 なのではないかとか、怒った男性がすぐかっとなる自制の足りない人間ではな いのかとか、察しが付くと思うんだけど… 更に言えば、夫婦一緒になって怒っている所なんか、その家庭の在り様を想像 してしまいますね。 そしてその女性の連れの男性なんかは、どのくらい抵抗したのかとか… ぶつかったら軽く詫びるとか、怒っても手を挙げる前にまず注意するとか、そ ういうゆとりが世間では無くなってきているのかなぁ…                        (^^)…☆ッテナモンダ Suke. - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/01/06 - 00483/00496 JCF00616 優位 RE^2:「此処に来れば良い」 ( 6) 96/01/04 22:30 00477へのコメント コメント数:2  #00477 しまうま さん  あけましておめでとうございます(^^)  なんとなくですが、「背後の声」には青暗いイメージが僕の頭の中にはありま  す。そして、この存在の顔は見えない。そして、一方では焚き火にあたってい  る人達は赤い炎に顔を照らされて、ハッキリ見える。  「背後の声」は自分の顔に自信が無いのかもしれません。あるいは、今までに  鏡を観たことがないとか。つまり焚き火にあたれば自分の顔がみんなに見えて  しまう訳ですから、凍えているのにも関わらず、足を踏み出せない…そんな光  景が目に浮かびました。  そして、これから民たちは、柴を焚き火にくべてもっと燃やそうとする。この  後、ボッと炎が輝きを増し、集った民の顔が一斉に照らし出され、「背後の声  」の居る場所まで光が届いてしまう…。集った民も、凍えた人も、みな一斉に  顔を照らしだされてしまう。つまり己の全貌が曝される…。  と、まぁ、「本番の年」という事と絡めて解釈&予想してしまいましたが(^^;)  『光の黙示録』詩編第4章にあった、「エナジィ強化→個人から集団へ」「集  団エナジィ強化→地球の部分的生命強化」ということと繋がってくるのかなぁ  …などと思ってしまいました。  それでは、今年も宜しくお願いしま〜す(^^)/~~                           優位(JCF00616) 00484/00496 JCF00616 優位 げげん(゚-゚;) ( 6) 96/01/04 22:34 00483へのコメント  #00483 優位 さん  96/01/04 「あなた方、今年の為に柴をもっと持ちよりなさい」と天使。  #483をアップしにアクセスしたら、上のようにHMが書き変わっていた…。  う〜む、う〜む、う〜む(^^;)(^^;)(^^;)              柴刈りに出かけなきゃな…(笑) 優位(JCF00616) 00485/00496 GBG02043 維/YUI 凍えている人 ( 6) 96/01/04 23:10 コメント数:1 天使は、暫しの間焚き火の明りと共に民と語らう為、屋外に出た あなたがたと共に火にあたろう」と天使は剣を置いて言った その時、天使の背後から「私は凍えています」と声がした… 「焚き火の前に来れば凍えない」と天使は答え、焚き火を見つめた 天使の背後の声は「焚き火の前に行く勇気が無いのです」と答えた 天使は「私に何かを依頼しているのか?」と尋ね、再び火を見た 背後の声は「私は何も依頼していない」天使は黙している 焚き火を囲む天使と人々は新しい息吹を大地から感じていた 暫くした時、再び天使の背後から声がした「私は凍えています」 天使は焚き火に集う者の顔を見てから言った「此処へ来れば良い」 焚き火に集う民らは、各々が持ちよった柴を焚き火にくべた。 この人、凍えている人は、話をしたいんじゃないかと思った。 天使に「私は何も依頼していない」と言ったのは、依頼している つもりが実際、ないんだろう。。。 もしかすると、勇気を出してたき火にあたればいいんだってことは、 百も承知、けれど今そうできない自分が分からずに、それでも 火にあたらなきゃ・・という気持ちが奥底から湧いて、しつこく とりあえず「私は凍えています」と言っている。 この人が恐れているのは、なんだろう? 凍えていて、もしかすると凍死するかもしれないのに、それよりも 恐れているなんて・・・。 この人はきっと、自分の恐れていることの正体を知らないんだろう。 私の場合は、幻の未来だった。自分の心が生み出す、予想。 たとえば、たき火にあたりにいったら、そこにいる人から 何か言われるんじゃないか、いじめられるんじゃないか・・・とか。 あんまりきれいな顔じゃないから、火にあたって顔が見えたら 嫌だとか・・・。(^^;;) 天使は剣をもっている。 切りつけられたら嫌だとか。 他人のことだったら、んなことあるはずないじゃんと笑えるような ことを、自分の時は、なぜだかおおまじめに悩むんだ。 そうして、できるだけ現状維持でいけることを選ぼうとする。 この人は、どうなんだろう? 誰かに依存していなければ、独りぼっちになってしまうとか そんなイメージを持った人だな・・・と思う。 他の人は火にくべる柴をもっているのに、この人は持っていなくて、 持ってない人は火にあたれないと思っているのかな・・。 そのうち、たき火の前にいける気分になれるかもしれないね。 天使は、ここに来ればいいって、二回も言ってるのだもの。 話しかけることができたんだから、一歩づつでも火の前に 来ることはできるよね。 本来、自分が自分の意志で歩いていける ものなんだってことをこの人が思い出せたらいいのに。 ・・・どっちにしろ、この人が何を望んでるとか、何を困っているのか 示してくれなきゃ、何にもできないよ。 と、書いてふと、思い出した。 友人知人が、よもやま話の際に言う、聞き慣れたフレーズ。 でも、あまり好きではないフレーズ・・・たとえ真理なんだとしても。 「自分のことが、一番わかんないよね。 何を望んでいるとか、 どうしたいとか。一生さがしても、わかんなかったりするもんさ。」 そんなの逃げているよ。 自分もそんな風に思うこと無かったわけじゃ ないからこそ、そう思う。 そういうもんさってするの、やめようよ。 分かりたいんだから、分かろうとしていこうよ。 さがしきらない うちに、みつからないって予想するの、やめようよ。 人には強いることできないけど、そう思う。 維/YUI。 00488/00496 KFR02037 ひょうたん Mr.Kは悪くない ( 6) 96/01/05 00:43 00487へのコメント コメント数:1 うーむ。凍える人(仮にMrK)と天使のやりとりを読み返してるんですが、 予断を除けば、MrKは彼なりに天使の問いかけにに対し、自分を分析して 誠実に答えていると思います。天使もそれに対して、注意深く(木筒の水 を無理矢理に相手の口にあてがうような事がないように)応対しているの だと思います。 MrK「私は凍えています」 --------------------------------------------- 天使「焚き火の前に来れば凍えない」--------A ↓ MrK「焚き火の前に行く勇気が無いのです」--A' --------------------------------------------- 天使「私に何かを依頼しているのか?」------B     ↓ MrK「私は何も依頼していない」------------B' --------------------------------------------- MrK「私は凍えています」 天使「此処へ来れば良い」    弁護人:ひょうたん P.S.どこにコメントをつけたらいいかわかんないので、一番最後につけました。   YAHATAさん、すみません。(^^;) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/01/06 - 06786/06787 HGE02116 MAKOTO 背後の声に贈る言葉 ( 7) 96/01/05 23:28 コメント数:1  HM絡みの話しだから、6番に書こうか、7番に書こうか、ちょっと迷った んだけど、やっぱりこっちに書いた方がいいかなぁ…(^。^) >12/27 その時、天使の背後から「私は凍えています」と声がした… >12/29 天使の背後の声は「焚き火の前に行く勇気が無いのです」と答えた >12/31 背後の声は「私は何も依頼していない」天使は黙している >01/02 暫くした時、再び天使の背後から声がした「私は凍えています」  私には、背後の声を責めることはできない。追い立てる気持ちにもなれない。 もどかしくは思うけど、その姿に痛みのようなものさえ感じてる。で、「勇気 だせよな、大丈夫だよ」と声援したくなる。あれは、私の姿でもあるから(^^;)  誰かに何とかして欲しかったよ。引っ張りだして欲しかった。でも、誰にも 何ともできないって気持ちもあった。自分で何とかするしかないんだって、本 気で思ってた。…なのにやっぱり、頼りたいって気持ちは捨て切れなくて、そ の頼りたいって気持ちを認めたくなくて、出口のない思考の円環の中を、ぐる ぐるまわり続けてた。  私は、FARIONという輪の中に入りたかった。輪の中に馴染んでいる人達の事 が羨ましかった。でも、あっさり馴染んでしまう人達の事を、馬鹿にしてた頃 もあるよ。そういう時には、妬む気持ちがあったような気がする。また、私に は、この輪の中に入るだけの価値もなければ、資格もないんだという気持ちだ った。とてもじゃないけど、準備なんてできてないよと、自分に言い訳してた しね。  でも、そんな風に思う必要なんてないんだよね。そんなの、自分で自分の事 を貶めてるだけなんだよね。加わりたいなら、加わればいい、ただそれだけの 話し。  今もね、正直な話し、輪の中にいるって気持ちは薄い。「参戦」したって気 持ちも、あんまりないんだよなぁ。場から浮いちゃってるよなって気持ちが、 拭えないでいるし、この場でARIONが相手してくれてるって事に、少々浮 かれてたりもするし…(^^;)  ただ、他からの働きかけを、ただ待ってるだけっていう部分からは、少しだ け踏み出せてるかなって気がしてる。もう先回りして諦めたりしない。察した ふりもしない。表面だけの、良いこを演じるのも止める。  自分に何ができて、何ができないかなんて、今だによくわからないけど、取 り敢えず、色んな事を試してる。投げ出したい事もあるよ。不安でたまらない 事もある。人に頼りきってる部分も健在だし、ずるけたい気持ちにも引きずら れる。それでも、自分の力量や、適性や、枠の大きというものがわかる為には、 試してみるしかないんだよなぁ。頭出っかちなだけじゃ、やっぱ、何も身につ かないから(^^;)  う〜ん、これは、こっちで良かったのだろうか… ま、いいか(^。^)                         MAKOTO でした☆ - FARION MES( 8):恋愛錬金術  ★ 愛と性を本音で語る 96/01/06 - 01288/01294 NBB01420 SUKE 性が聖である理由−古代の発想? ( 8) 96/01/05 00:02 01249へのコメント コメント数:1 #1249 しまうまさん、化石レスですが(^^;) 「性は聖なり」の「聖」と言うのは、「貴重な」とか「重要な」と言うような 意味があるような気がしました。 以前、旧約聖書を読んでみて思ったことなんですが、人類が知恵を身につけ始 めた頃には、結構乱交状態であったらしく、あるいは当時の「神々」とも交渉 があったようで、結果として様々な人間が生まれてくるのですね。ところが、 どうも精神的に安定しない人間とか、肉体的に欠陥を持つ人間とかが発生してし まったように読みとれます。 こうした経緯を元に、「汝姦淫するなかれ」と言うような戒律が生まれてきた のではないかと思いました。現代風に言えば性病の蔓延を防ぐとか、遺伝子的 な問題を引き起こさないためとか。 まだ人間としての種が安定していなかった時代においては、個体の性欲も不安 定に増大したのかも知れないし、対して論理的な理解力は未だ不足していたで しょう。 しかし繁殖と言う条件を満たすためには、産みの苦しみをも乗り越えるほどに 性的刺激に対する快感を残しておかなければならない。 その打開策として「結婚」と言う形式や「戒律」と言う制御方法を用いたもの ではないかと言う気がします。 そういう観点からすると、「性」と言うのは「聖」と言わねばならない程によ くよく注意すべき行為である、と言う考え方を人間に定着させる必要があった のではないかと思います。 では、理解力が向上した現代に置いてはどうか? 現代では性の快楽よりもお金と言う「能力」を得る事に目的があるようですね。 性は現象の一つでしかなくて、「汚れ」と言う観点では既に語られていないよ うです。 汚れと言う意味からの「性」の考察は、巫女さんの処女性なんかを想起します が、それはまた別の機会に取っておきましょうか(^^;)                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 01292/01294 KFQ02761 しまうま RE:性が聖である理由−古代の発想? ( 8) 96/01/05 12:27 01288へのコメント コメント数:1 #01288 SUKEさん  コメントどうもありがとうございます(^^)。  ええと、ちょっと僕のトリ頭には収まりきらない部分もあったりしますので、 解釈の間違いなどありましたらどうぞご指摘くださいませm(__)m。 :しかし繁殖と言う条件を満たすためには、産みの苦しみをも乗り越えるほどに :性的刺激に対する快感を残しておかなければならない。 :その打開策として「結婚」と言う形式や「戒律」と言う制御方法を用いたもの :ではないかと言う気がします。  うーん、なるほど。  つまり、性的な快感に流されて、いわゆる“やりまくり”の状態に陥ってし まわないために、“性は聖なり”という言葉がもたらされ、また一夫一婦を基 本とする「結婚」制度や、姦淫をいましめる「戒律」が、神霊たちの助力によ って確立された、ということでしょうか?  ということは、この『性は聖なり、而るに生なり』という言葉には、未熟な 人間たちを制御するためのツール、という一面もあった、ということなのかも しれませんね。ふむふむ。  なんとなーく、僕が感じているのは、たぶんこの『性は聖なり、而るに生な り』という言葉そのものが“真実”ではないのかなあ、ということです。この 言葉を含み、またこの言葉に含まれてもいる、性についての“真実”を、僕た ちが自分の体験や考察に基づいて解釈し、実践していくことで、僕たちなりの “事実”としてこの世に顕現させていく……みたいな(曖昧至極ですが(^^;)。  ですからこの言葉をさまざまな角度から検証していくことには意味があると 思いますし、また、どんなにいろんな角度から追及しても、きっとそのうちの 一面しか見ることができないかも、なんて妙に達観したことも思っていたりし ます(^^;。  この言葉に肉薄していくのって、ホントに先は長いけど、ずいぶん楽しめそ うだな、とも思ってます。 :汚れと言う意味からの「性」の考察は、巫女さんの処女性なんかを想起します :が、それはまた別の機会に取っておきましょうか(^^;)  うう、とってもおもしろそう(^^)。楽しみにしていまーす(^^)/。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 9):日本魔界巡航 ★ 神と人の関りを探る 96/01/06 - 718/720 MHD02672 TAO 新年の挨拶 & 忍者コメント ( 9) 96/01/04 18:20 712へのコメント  もう三が日も過ぎましたが(^^;、新年明けましておめでとうございます。今年も  ご愛顧の程を宜しくお願い致します。  ▲▲▲  #712〜#715 一輝さん  近現代史における忍者のお話、面白かったです。考えてみると、今で言う諜報員  やスパイといったところは、昔なら忍者に該当しますね。かっては一国内で繰り  広げられていた情報戦が、各国間のそれへ拡大移行して行ったのは歴史の必然で  あり、新たな対立の構図を人類の中に導いて行ったと言えます。  外より来たる未知の存在を知るや、相手の正体をより知る為に、或いは相手との  力関係で優位に立つのに必要な情報を得る為に、表裏同時に情報を探ろうとする  のは、個人集団を問わずに人間の自衛本能に基づく行動なのでしょう。相互理解  出来る相手かどうかということのみならず、自分の利害にどう関わる相手かとい  うことも重要なのでしょうから。  >> そしてアジアを象徴する「龍」とヨーロッパを象徴する「フェニックス」の、  >> 凄絶なる戦いの歴史への狼煙となった。  「アジア」と「ヨーロッパ」、それぞれのテリトリーに属する国々がこの二元対  立論的な構図をどこまで意識しているか、各国によって微妙な差があるのでしょ  うが、こういう形でのテリトリー意識が二十世紀の趨勢と深くかかわり合って来  たことは間違いないようです。主に「支配−被支配」「敵対」「対立」という形  で、アジアとヨーロッパの“近代社会としての”関わりが始まったのは不幸なこ  とでしたが。  現代の「忍者達」の主人がいかなる世界を招こうとしているのか、下手すると陳  腐な陰謀史観になりかねないので、想像を逞しくするのも程々にしなければなり  ませんが、冷戦時代に米国とソ連の間で壮絶な諜報戦が交わされていたこと、そ  して現にスパイ稼業出身の英国の作家が、その時の体験を作家活動に活かしてい  るのを見ると、忍者の如く命がけで諜報活動に務めている人間達が存在している  ことは否定出来ませんね。  我々庶民にはおおよそ現実味が無い話ですが、歴史の裏に「草」の暗躍があるこ  とは認識しなければならないでしょうね。  去年からのフランスの核実験についても聞き逃せない話があるのですが、これに  ついては12番か14番にUPしたいと思います。それでは。  TAO 720/720 MHD02672 TAO シーボルトのアイヌ観、義経入蒙説 ( 9) 96/01/05 20:56 712へのコメント  #712で一輝さんが、シーボルト事件の顛末について述べていられましたが、そのシ ーボルトがいかに日本人を見ていたか、彼のアイヌ論及び源義経入蒙説について触れ たいと思います。  シーボルトはアイヌについては琉球人との共通性に注目し、アイヌ・琉球同系論を 唱えていますが、シーボルトは外科医なので、外見的な共通性から医師としての直感 でそういう見解に導かれたのかもしれませんね。また、シーボルトが日本情報を精力 的に猟渉していたことを考えると、蝦夷或いはアイヌに関する極秘情報も入手してい たとも想像出来ます。  源義経が蒙古に渡ったという義経入蒙説を、何で外国人のシーボルトが唱えていた のかというのも不思議なことですが、アイヌ語辞典編者として知られるバチェラー博 士も義経渡道(北海道へ渡った)説を唱えています。シーボルトやバチェラー博士の 説を元にして源義経=ジンギス汗説を打ち出したのが小谷部全一郎で、大正に発表さ れた当時にはかなりの反響を呼んだといいます。  面白いことに、アイヌの聖地として知られる二風谷の近くには「義経神社」という のがあって、実際の歴史上では源義経は奥州平泉で自害し果てたことになっています が、「義経神社」の伝承では義経は蝦夷地(北海道)に逃げ延びてこの地に居住し、 アイヌの神様(判官様)として崇拝されるようになったということです。  義経生存説の真偽については何とも言えませんが、日本情報を漁っていたシーボル トが何の根拠も無く、このような説を唱えるとは思えないので、何やら怪しいものが ありますね。  TAO 719/720 NBB01420 SUKE 【姫神岳】龍伝説の山 ( 9) 96/01/05 00:04 TAO議長、皆様、明けましておめでとうございます。 今年も山シリーズもぼちぼちと続けて行きたいと思いますので、よろしく! さて、暮れに五葉山を紹介しましたが、東北地方の日本ピラミッド山群でもこ れほどの巨石遺構を備えた山はなかなか無いと思います。そして、今回ご紹介 する姫神岳は、五葉山と並んで巨大な遺構が残っている山です。        ==================== 【姫神岳】 (ひめがみだけ) 岩手県岩手郡玉山村 標高1125m 全山花崗岩の山。 多くの龍伝説に彩られた三角錐形の山で、神皇第11代には同県内の七時雨岳 (ななしぐれだけ)と伴に神代秘史に記されている早期のピラミッド山。 地下水脈あり。 山中には白い巨石遺構が多く、舟形、円盤状、三角錐状などの石がみられる。 頂上石:巨大なピラミッド型の岩を真ん中から         N(0゚)        2つに断ち割ったような形状をしている。   300゚  |                                  \ |          北を0度として時計回りに…(右図)        \|          頂上石の正面=90度,120度(各々)     W---------+--------E     頂上石の裏面=300度            (270゚)  |   (90゚)                               |          山守りと伝わる6mもの石剣も300度の方位を示す。    |          矢印状巨石は210度方向で南昌山を貫く         S(180゚)       舟型石は150度方向で岩神山,早池峰岳     六角牛山を抜けて五葉山へ至る方向になる。 方位石:山頂付近にある三角形の岩に十字線が刻まれた岩。 鏡石:西斜面にあり岩手山を望む方向に面を向けている。その鏡面には紋章ら     しい堀跡がみられるそうです。        ==================== 姫神岳については上記の通りあまり多くの資料を揃えられていないので、もっ ていらっしゃる方からコメントが付くのを期待しています(^^;) 頂上の石と言うのは正に断ち割られたような形をしており、その間に小さなほ こらが建てられているのが写真でわかります。やはり山の神様を祭っているの でしょうね。荘厳な巨石には何か神々しい威圧感を感じるのかも知れません。 なお、姫神岳には300度方向のレイラインが問題になっているようです。艮線 を観ると地図上では五葉山と早池峰岳のラインの延長上、盛岡のすぐ上に 姫神岳が来ます。 東北地方の山々はこうしたレイラインで結ばれているものが多いようですね。                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/01/06 - 01929/01931 JBH00712 桂 桂 「夢の系譜」 (11) 96/01/05 21:15  四騎忍が見る悪夢(?)の中で、彼は希代の魔術師・ファウスト博士であり、 そして歴史の名を残す陰陽師・安倍清明であることが語られている。  「恋しくば、訪ねてきてみよ、和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」  古浄瑠璃「葛の葉」からの一節である。  この歌は狐を母としそしてその呪術によって一代陰陽師になる安倍清明の物 語であり、また狐を母とし人と交わる異種通婚の古典としても名高い。  四騎忍の家系は複雑である。  生みのは母は浮気をしている最中に地震にあい死んだとされ、今の母(千枝) は父の再婚後娶ったものである。にも関らず、忍ぶは千枝を母とし受け入れてい る境遇に有る。  余談であるが、この四騎忍の母が死んだという状況説明は、かのリアル犬神明 (塩野)氏の実の母が死んだというエピソードそっくりで、そのまま小説中に取 り込んでしまったのではないのかと思えたりする。  また四騎忍の夢の中で本当の母が狐だとするところは、狼と人間の相の子であ る犬神明を、そしてインセストタブー(近親相姦)の存在については実の姉に母 以上の愛情を持つ東丈を想起させる。  以前は御子神真名が「浦島太郎」の話を持って来た。  今度も夢の中で「葛の葉」の話を枕語りするところにエロチックな想像もする ことが出来るが、この話の共通点は「珠」にあるということがいえる。  民俗学では浦島太郎の玉手箱とは神秘の力を司る「珠」を想起させるものであ るという解釈があって、そして「葛の葉」でも狐である事がばれてしまい山に帰 る母狐は子供の為にと乳代わりに丸い珠を置いて行って幼子である清明に舐めさ せて育ててやってくれと言い残す。  この珠というのは竜が手に持つものであって力をも象徴する。  果たせるかな、その後に「地球樹」では神秘の力を持つ「ヒヒイロカネ」とい う存在がクローズアップされて来る事になる。 桂 桂(JBH00712) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/01/06 - 04139/04150 GGA02514 KAZE 中道論1●中庸とは何か (13) 96/01/04 16:26 最初は、「中庸とは何か」からはじめたいと思います。 「中庸」に関しては、ご存知の通り儒教で使われている言葉ですが、 それは、孔子の言行録でもある「論語」の中に、   中庸の徳たるや、それ至れるか。民鮮(すくな)きこと久し。    というように使われているのが最初のようです。 「中庸の徳というのは最高のものである。 しかし、人々はほとんどそれを顧みなくなって久しい。」 そういう意味なのだと思いますが、これでは何のことかわからないので、 儒教関係の解説を探してみますと、 陽明学のもとになったのが王陽明であるように、朱子学のもとになった朱子は その「中庸の徳」について、次のように解説しているようです。   偏らざる、これを中と謂い、易(かわ)らざる、これを庸と謂う。   中なる者は天下の正道なり。庸なる者は天下の天理なり。    つまり、偏らないでバランスがとれていて、普遍的なあり方を 「中庸の徳」といっているようです。 でもこれだったら、かなり固定的なとらえかたになりかねません。 今度は、孔子の孫の子思または孔子の高弟の曾子によってまとめられたと いわれている「中庸」から見てみることにします。      君子は中庸す。小人は中庸に反す。 ま、これは、先の意味では、確かに立派な人は偏らないで普遍的だし、 そうでない人は偏っていて普遍的なところがないということだから、 半ば同語反復的でよくわからないのですが、 次の「未発の中」、「中節の和」に関しての部分が少し参考になると思います。   喜怒哀楽のいまだ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中(あた)る、   これを和と謂う。中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。    これをぼくなりに説明してみますと、次のようになるでしょうか。 喜怒哀楽という感情が起こる以前の状態が「中」といい、 発せられてもそれが節度をもったものであればそれを「和」という。 中であるのは、天から与えられた本性であって、 和であるのは、天の道に適った達人であるということである。 この内容に少しばかり踏み込んでみましょう。 「中なる者は天下の大本」なのですから、これこそ人間の核心であるといえます。 つまり、自らの存在理由(由)である「自由」こそが「中」であるといえます。 そしてそれは、「喜怒哀楽のいまだ発せざる」ですから、 それが感情、つまり、アストラル体の影響を免れている自我であるともいえます。 そして、その「中」がちゃんと統御された感情を通じて、 人格的に働く場合、それが「和」であるというわけです。 ですから、中庸の徳というのは、 単に偏らないとかバランスをとっているとか普遍的だというだけではなく、 感情に無闇にふりまわされて自らを失ってしまうようなあり方とは対象的に 人間の本性をしっかりと見つめ、自らの「由」そのものを体現することによって 得られるものだといっていいのではないでしょうか。 儒教の核心といえば、「修己治人」ということ。 つまり、修身、己を修めることで立派な徳を身につけ、 それをベースとして人を治め、社会で立派にやっていくという考え方です。 そこでいわれているような「中庸」の考え方は、 政治ということが念頭に置かれますし、 「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」というように どうしても秩序を大事にする考え方ですから、 そこで説かれる「中庸」ということも、そのライン上になってしまいます。 ですから、そこらへんが、儒教的な考え方での「中」を ダイナミックなあり方から遠ざけてしまうことになります。 もちろん、本来はそうではないのですけど。 ということで、次回は、この「中」の本来のダイナミックなあり方を見るために 「易経」に関係した「中」を見てみることにしたいと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04140/04150 GGA02514 KAZE 中道論2●易経における中 (13) 96/01/05 00:08 コメント数:1 前回は、「中庸」という儒教的な考え方をとりあげて、 それが通常は、秩序的なとらえかたをされがちであること、 しかしその本来は、人間の本性に関係していることをお話しました。 それで、今回は、儒教の中でもっともダイナミックな側面をもっている 「易経」の基本的な考え方としての「中」をとりあげてみたいと思います。 易経というのは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」と 「書経」「易経」「礼記」「詩経」「春秋」という いわゆる四書五経の「五経」のなかのひとつで、 四書が朱子学の時代にまとめられるのに対して、 五経というのは漢代から儒教の教典とされていたように古いもので、 「易経」は孔子も論語のなかで「五十易を学べば、もって大過なかるべし」、 つまり、人間、五十歳くらいになって易を学ぶほど勉強に心がければ 人生に過ちをしなくてすむ、といったようなことを書いているほどの 叡智に満ちた書です。 現在では、易というのは、多く、通俗的な占いに堕していることもありますが それは本来、無限の創造進化である宇宙の理法を学びながら、 その法則に基づいてみずからを創造していく「立命」の叡智をまとめたものです。 ですから、近代になって、西洋でも、「タオと易」という感じで、 この「易」を重要視しすることも少なくはなくなってきていますし、 いわゆるニューサイエンス系の方は、易を重視することが多いようです。 それはともかくとして、易は「立命」のための実践的な法則でもありますが、 この「立命」とは、みずから運命、「命」を創造していくとらえ方です。 「命」というのは、いわゆる命(いのち)をふくむ天地創造、進化、造化などの 絶対性を意味する言葉で、そこから「天命」とかいう言葉がでてきたりします。 それに対して「宿命」とは「命」が外から創造されていくのだという 消極的悲観的な人生のとらえ方です。 この考え方は、カルマ論を問題にするときも同じで、 それを過去に規定された消極的なものとしてとらえるか、 未来創造のための積極的な踏み台としてとらえるかで、 そのダイナミックな生かし方がまったく変わってくるということです。 易というのは、その「命」の「数(すう)」という 生命のなかにある神秘的な因果関係を法則化したものなわけです。 仏教的にいえば、「因果の理法」「縁起の法」とでもいえるでしょうか。 「数霊」というのもありますが、これはその法則を解明するための ほんとうに重要な考え方で、以前、FFORTUNEでインナーミラクルさんが 取り組んでいらっしゃいました。 また、日月神示でも「神は数で会話している」という内容が 盛られていたと記憶していますし、 カバラなんかでも、「数」というのは非常に重要ですよね。 ここらへんの話は、ぼくにっても、今後アプローチしていきたい 非常に重要なテーマなので、またあらためてお話してみたいなと 思っています。 さて、こうした「中」に関して非常な深い見識を提示されているのが 陽明学者でもあり、大正から昭和も50年代までに渡って、 実質的に日本の思想の骨格ともなっているといってもいいと思われる 安岡正篤さんです。 安岡さんは中国思想をベースに、東洋政治哲学・人物学を展開された方で、 そのなかに、「易學入門」(明徳出版社)という易の根本思想から 易経の解説までを総合的に展開している著書があり、 そこで「中」に関しても、易の根本は「一」「無極」としての「太極」であり それはいかなるものにも偏向・分裂・固定せず、常に全一・調和を保ち、 生成育化していくことであり、それこそが「中」であるという見解を 提示しています。 この考え方は、儒教でも、王陽明の先駆者ともいえる陸象山以降 力説されているというものでもあるそうです。 さて、こうしたとらえ方を講義録という形で紹介している 安岡正篤「易と人生哲学」(致知出版社)がありますので、 そのなかから、少し長くなりますが、易と中についての箇所を 引用紹介させていただくことにします。   人間を含む造化の世界というものは進歩向上してやまない。現実は万物の相   対(待)する世界であると同時に、総合統一されて限りなく変化していく、   あるいは進歩向上と観察することもできる限りない造化が進行していく、そ   れが「中」であります。   「中する」ということは、現実の矛盾を統一して新しくクリエートしていく   働きをいいます。だから非常に総合的、統一的、進歩的な作用であります。   だから中というものはそういうジンテーゼSyntheseです。矛盾を統一し、   相対(待)的なものを限りなきクリエーションに展開していく、これが「中」   であります。   そこでこの万物の世界というものは、偉大なる中の世界ということができま   す。そのことを説いた書物が「中庸」という書物であります。この「庸」の   字は、「つね」という字で不変の法則をあらわしますからいろいろに用いま   す。また「庸」には「用いる」という意味があって、にんべんをつけますと   「傭う」という意味となって、いろいろと文字が変化しますが、その根本は   やはり中であります。   易は、限りなき造化、つまり生命というものを把握して、その中に含まれて   おる数、複雑微妙な因果関係を明らかにして、どこまでも進歩向上発展にも   っていくということであります。   そこでこの中というのは、相対立するもののまん中をとるというような単純   な意味ではなく、もちろんそれもひとつの中には相違ありませんが、本当の   中は、もっと動的な、いわゆるダイナミックな意味をもっております。「折   中」という語があります。この「折」の字には「折る」という意味と「定め   る」という意味がありまして、折衷の二字は矛盾、対立、闘争する双方を処   理して、総合統一して限りなく進歩向上させるこれが本当の折中の意味であ   ります。論理学でいう正・反・合。正があって反があり、それを合わせ進め   るので合といいます。   テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼというのは、論理学の三段論法といわれ、   みなこれ中論であります。仏教も理論的には中論、儒教は中庸でありますか   ら、東洋の儒教、仏教、老荘、道教は皆中論であり、中道、中庸であるとい   うことができます。   だから、この中というのは、あらゆる思想学問の極めて根本的な思想であり   概念であります。普通は極めて簡単に解釈しておりますが、中というものは   そういう非常に深い思想であり概念であるということを理解しませんと、間   違いを生じます。そこで易は最も典型的な命、数の思想学問であると同時に   中説、中論、中の学問といわれるゆえんであります。(P60-62)    「中」についての基本的な考え方は これでおおよそはご理解いただけると思うのですが、 やはり「中論」といえば、どちらかとえば仏教の専売特許(^^)。 ということで、次回からは、いよいよ本家本元の仏教における「中」について お話させていただきたいと思います。    ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04147/04150 GGA02514 KAZE RE:実るほど頭を垂れる稲穂かな (13) 96/01/06 01:07 04142へのコメント 諏訪みのるさん、どうも。 新年、明けましておめでとうございます。 >マスコミなどで取り上げられる事が多いのは「是」か「非」かの極端が多いですね。 >熱狂の状況に在る訳でもないのに醒めていられないのはどういう事でしょうか。 マスコミは基本的に大衆の意識を反映したものですから、 大衆の意識のレベルを超えることはできないんじゃないかと思います。 つまり、マスコミは、基本的に「個」の責任、自覚によって運営されるのではなく 顔のない集合的な無意識によって運営されているような気がするんです。 そういう集合的な魂は熱狂するのが得意です。 >手に入る情報自体も「極端」によって歪められたモノが多いですから、 >ちゃんと見分けていく作業自体にも苦労が絶えませんよね。(^^;) 報道するほうも受け取るほうも、底では基本的に似通ったスタンスですから、 報道するほうは流してほしそうな情報をバイアスかけて報道しますし、 受け取るほうも受け取りたい情報だけをバイアスかけて受け取ります。 で、流されている情報は当然最初からバイアスがかけられています。 ですから、流したくない、受け取りたくない情報は、 するりとそこからは抜け落ちてしまうことになります。 こういうのは、宗教の正当と異端の関係に近くて、 異端は許されないのが常ですから、かなるシビアです。 >まずは自分で批判し・考えるという癖をつける必要があると思いますし、 >これは自分自身も自戒すべきものとしてずっと持ち続けたい態度でもあります。 でも、少なくとも「自分で批判し・考えるという癖」さえあれば、 情報をある程度得ることは、現代の節操のない情報社会では可能ですし、 過去の時代のように火あぶりになることはありませんし、 思想犯として拷問を受けることも幸いにしてありません。 もちろん、マスコミなどによるばかばかしい拷問はありますが、 これは覚悟を決めることによって乗り切れます。 でも、多くの日本人は集団型迎合型ですから、絶えきれないのでしょうけどね。 今年はますます、「自分で批判し・考えるという癖」をつけることが 必要になってくるように思いますので、お互い切磋琢磨したいものですね。 では、本年もよろしくお願いします。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04144/04150 KFQ02761 しまうま RE:実るほど頭を垂れる稲穂かな (13) 96/01/05 12:48 04137へのコメント コメント数:1 #04137 KAZEさん  またまたお邪魔します(^^)。 :そうですね、瞑想中にARIONが「こんにちは」って出てきても :知らんぷりするってことでもあります^^;。  うーん、これはわかりやすい(^o^;。これまでにも、「ARIONの声を聞い た」とか言っている人をこのフォーラムで見かけたりしましたけど、見事にみ なさんコケてしまいましたもんねー。 :そういう、自分を特別視させてしまうような働きかけというのは、 :すべからく魔境ととらえていいんだと思うんです。  はい、気をつけます(^^)。そーゆー魔境にはまるのはとっても得意なので、 もしはまっているように見えることがありましたらどうぞご指摘くださいませ m(__)m。 :はい、逆にいえば、もっと慢心しなければならないってことでもあります。 :というのは、「今の自分くらいで慢心するほど、自分は小さな人間か」、 :そう思って、「まだまだ」「まだまだ」というのを永遠に繰り返すわけです。  ううううむ、なるほど! どうせ慢心するならどでかく慢心できるところま で成長してから慢心しろ、ということですね。しかもその目標が“究極の自由” ということであれば、その慢心は永遠に追い求めるべき、また肯定的な意味で とらえるべき“慢心”ということになるのでしょうね。  またまたARIONの言葉でシンクロするのがあったなー、と思い出したの ですが、今本が手元にないので引用できません。残念(__;。確か「自信という のは、自分で自分を認めて“これでよし”とすることによって得られるものだ が、中途半端なところで認めてしまうと、かえって自信がなくなる」みたいな 内容だったと思います。 :あの時代を見るときには、やはり、日本が悪かった良かったではなく、 :日本の何が「熱狂的な決断」だったのか「冷静な決断」だったのかを :ちゃんと見分けていく作業が必要なんだと思うんです。 :謝罪一辺倒は単なるアホだし、逆の正当化もまたアホです。 :そうそう、女性をもちあげる方は、女性は被害者だったというバカもいるけど :あの時代、どんなに馬鹿げたことを、いわゆる婦人会がしてきたかということにも :ちゃんと目を塞がずにいなくちゃいけませんよね。  そうですね。僕なんて、ホントについ2、3年前までは「謝罪一辺倒」の外 交こそ正しい、とばかり思っていたのですが、ようやくその認識が改まってき たところです。  “単なるアホ”にならないように、あらゆる方面にきちんと目を開いて、積 極的に見ていきたいと思います。  僕は、「婦人会がしてきたこと」というのは不勉強にして知らないのですが、 一方的な女性擁護というのも別の意味での女性差別なのかもしれませんね。 :肝心なのは、熱狂の状況にあって、どれだけ醒めていられるか。 :醒めていながら、それだけ魂の深いところからの情熱を :ふつふつとたぎらせているか、でしょう。  はい。肝に銘じておきたいと思います(^^)。  ではでは、今後ともどうぞよろしくお願いしますm(__)m。 しまうま(KFQ02761) 04148/04150 GGA02514 KAZE RE:実るほど頭を垂れる稲穂かな (13) 96/01/06 01:07 04144へのコメント しまうまさん、どうも。 >これまでにも、「ARIONの声を聞いた」とか言っている人をこのフォーラム >で見かけたりしましたけど、見事にみなさんコケてしまいましたもんねー。 そうですねぇ、なんだかばかばかしいかぎりですが、 ぼくも「魔境にはまるのはとっても得意なので」、 ARIONとはお話ししないようにしてます^^;。 そういえば、パソ通始めた4年半ほどまえ、 会議室で一度か質問したことがあるだけで、 あとは、そうしたことは自粛すべきことであるのに気づき、 それ以来ほとんど関わり合わないようにしてきています^^;。 ま、人間のことは人間のことだけで十二分ですから、 魔境に近づく類のことは面倒がってしないのがいいのではないでしょうか。 >どうせ慢心するならどでかく慢心できるところまで成長してから慢心しろ、 >ということですね。しかもその目標が“究極の自由”ということであれば、 >その慢心は永遠に追い求めるべき、また肯定的な意味でとらえるべき >“慢心”ということになるのでしょうね。 はい、“究極の自由”が目標です(^^)。 自由であるということは天上天下唯我独尊ということですから、 ある意味では究極の“慢心”なわけですが、それは永遠の探求で、 小賢しい慢心とはまったく無縁なわけです。 > そうですね。僕なんて、ホントについ2、3年前までは「謝罪一辺倒」の外 >交こそ正しい、とばかり思っていたのですが、ようやくその認識が改まってき >たところです。 これから世論は、「謝罪一辺倒」の方向性とその逆の、日本の正当化の方向の 二つの極端な方向性の双方が極論を吐くようになるのではないかと思います。 もちろん、あまりの「謝罪一辺倒」の方向性に対するアンチテーゼは必要で そういう意味合いから、「愛国」的なあり方を強調するのも意味があるのですが それは往々にしてわけのわからない「愛国」になりがちですから、 そこらへんについては常に醒めて観ていかなければならないと思います。 > 僕は、「婦人会がしてきたこと」というのは不勉強にして知らないのですが、 >一方的な女性擁護というのも別の意味での女性差別なのかもしれませんね。 たとえば、あの時代、婦人運動家たちは、 「贅沢は敵だ!」というスローガンを掲げて、強烈な「自粛」運動を展開し、 婦人団体を中心にした「贅沢全廃運動委員会のメンバー」たちが わざわざ街に出て摘発をはじめたりして、 さらに「婦人挺身隊」とかいうものを組織編成して、 贅沢排除のための監視運動をエスカレートさせていきます。 朝日新聞などもそういうのと歩調を合わせて、戦争を煽る方向にいきます。 現代でも、婦人団体がさまざまに行なっていることを思えば、 「さもありなん」という感じがしますよね^^;。 ですから、あの時代も現代も、男女の別なく、熱狂した人たちは、 その時代のまさに「空気」のなかで無自覚で無責任な行動にでてしまうわけですし、 確かに「女性擁護」そのものが逆差別になることもたくさんあると思います。 そこらへんも、ちゃんと見ていけば、ほんとうに変です^^;。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04146/04150 GGA02514 KAZE 中道論3●不苦不楽の中道 (13) 96/01/05 18:31 ここでは、仏教における「中道」の基本的なとらえ方について お話してみようと思います。 釈迦は、釈迦族の王子として生まれ、快楽の生活を送りましたが、 その生活から一転して、悟りを得ようと、苦行生活を6年ほど続けました。 けれど、それでは悟れないことに気づき、その苦行生活も捨てました。 そして、菩提樹の下で座るわけです。 このように、「楽」にも「苦」にもとらわれない道が 「不苦不楽の中道」といわれます。 釈尊の時代には、方や快楽主義がもてはやされ、 方や、悟りのためには苦行に苦行を重ねることが重視され、 苦行の途中で死が訪れたとしてもそれは称讃されていたのです。 苦行は悟りのためにするとはいえ、いつしかそれが自己目的化してしまい、 エスカレートを続け、そのうちにそれがなんのためなのかがわからなくなります。 もちろん、快楽主義は一刹那の感覚、感情の満足のためのものであって、 それが悟りとは無縁のものであることはいうまでもありません。 釈迦は、王子としての快楽的な生き方に疑問を抱き、それを否定して、 苦行生活を続けたのですが、今度もそのあり方に疑問を持ち、それも否定します。 このように、快楽主義も苦行主義も否定したなかから、 本来の道を選ぶあり方を「不苦不楽の中道」として、 仏教の修行方法としてのひとつの基準がここに確立することになります。 現代の日本では、オウム真理教などに類するものや、密教、修験道など以外では 釈迦の時代のような苦行主義はほとんどみられませんが、 そうした非世俗的な世界に限らず、日常的にも快楽主義と苦行主義はみられます。 というよりは、ほとんどがそのどちらかに偏している。 そういってもいいかもしれません。 現代日本で氾濫している快楽主義はあえてご説明するまでもないでしょう。 人々は、眼耳鼻舌身意というすべてにおいて快楽を貪っています。 「快楽」という言葉はもはやなんらの否定的響きをもたず、 それはどこまでも肯定されています。 それを肯定するために、現代文明はありとあらゆるものを用意しています。 あげく、バーチャルリアリティなどというように、 現実のものだけでは満足できないがゆえに用意されつつあるものもあるほどです。 食の世界でも、「飽食の時代」であることはだれも否定できないでしょう。 また、そうした快楽主義へのアンチの声もまたあげられています。 オウム真理教への入信動機といった例を挙げるとわかりやすいでしょうが、 快楽主義がアンチの方向に極端に向かうと、現世否定による苦行を通して 「解脱」しようとする方々というのも少なくはありません。 現代で注目すべきなのは、こういう苦行主義が、そのまま、 実はドラッグなどを使ったバーチャルリアリティのような快楽主義が 巧妙に入り込んでいるということではないでしょうか。 そもそも、真の意味でいわれる「宗教は阿片である」というのは、 宗教というのが依存すべき対象をつくりあげてそれを信仰し それをドラッグとしてしまうということで、 それがイエス・キリストであれ、イェホヴァであれ、なんであれ、 偶像でないものもふくめ、すべての「信仰の対象」というのは 用意にドラッグとなり、その宗教に応じたバーチャルリアリティを 実現させてしまいます。 そういうあり方を否定するために、臨済は 「仏陀に会ったら仏陀を殺せ」などという物騒なことをいうわけです。 そして、それは宗教的なバーチャルリアリティから抜け出させるためには 非常に正しい方法なのです。 このように、快楽主義と苦行主義というのは逆方向にありながら、 どちらもその根っこは同じところにあるということがわかります。 どちらも、この現実を直視しようとしていないところでは同じで、 直視しないためにどちらかに偏しているというだけなのです。 仏教では、こうした極端に偏することを「辺(アンタanta)」といいます。 「一辺倒」というのも、この「辺」から来ている言葉で、 まさに「辺」というのは、「中」とは逆のあり方にほかなりません。 人は、「辺」から「辺」へと渡り歩いていきます。 つまり、極端から極端へと渡っていくわけです。 ですから、「中道」というのは、そうした「辺」をゆく道ではありません。 けれど、またそれは「辺」と「辺」との間をゆけばよいというのでもありません。 釈迦は、最初から中道を歩んでいったわけではないように、 最初から「私は中道をゆく」と悟りすましていることはできません。 もちろん、最初から、釈迦も快楽と苦行をともに経験したのだから、 自分もそうした快楽と苦行をゆくのだというのも愚かなことです。 人はだれでも、「辺」を生きざるをえません。 人は、快楽的でありながら、苦行的であらざるをえないところがあります。 その矛盾のなかに人は生きています。 その矛盾に埋もれてしまうのでも、矛盾しているからといって どちらかの「辺」を選択するのでもなく、その矛盾を生きること、 矛盾を包み込むだけの魂の力をもちながら、 いってみれば、「辺」と「辺」で「面」を形成し、それを生きる、 または「辺」と「辺」での「合力」を生きること。 それがジンテーゼとしての「中」なる道なのだと思うのです。 ちなみに、中道というときにの「道」というのは、 原語では「パティパダー(プラティパダー)」で、 それは「あるものに向かって」(パティ、プラティ)「歩んでいく」(パド) ということを意味していますから、 「中道」というのは、まさに「中」に向かっていくということをいいます。 ですから、単なる理論ではなく、実践であるということを 忘れないようにしなければ、単なる詭弁に堕してしまいます。 釈迦は、頭の中であれこれ考えただけではなく、 まさに実践を通じてその叡智を培ったのですから、 その「中道」を生きるということを我々は模索しなければならないわけです。 今回は、非常に有名な「不苦不楽の中道」についてお話しました。 次回は、これに続いて、「有無の中道」「断常の中道」について、 お話しようと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04150/04150 GGD03030 《 隆 》 知る努力 (13) 96/01/06 11:07 04118へのコメント  KAZEさん、あけましておめでとうございます(^^)/    お正月は、カミさんの妹夫婦(東京にいる)の所で過ごしましたが、どうも僕  は義理義理弟(ユダヤ系米国人です)が苦手で、すっごいストレスを貯めて帰  ってきました(^^;)。    >しかし、反面、「心的フォロー」というのは  >トータルなものであることが必要ですから、そこらへんが難しいところです。  そうですね。「心的フォロー」に限らず、トータルな視点というのは、どんな  場面にも必要だと思います。そういうバックボーンがないと、せっかくの専門  分野もダメになってしまうのかもしれません。現状の医師に、頼りない方が多  いのは、それを如実に現していると言えるのかもしれません。    >「予防医学」ということに関しても、それは半ば「心的フォロー」と  >深く繋がっているのではないでしょうか。  ええ、病気を予防するためには、多分心的なケアーが必要ですし、おっしゃる  ように、人間を機械と同等に思っている唯物論的な医者には、「心的フォロー」  も「予防医学」も眼中にはないようです。「予防医学」が医療の王道を行くよ  うにならないと、「心的フォロー」はひのめを見ないのかもしれませんね。    >実は、ぼくも二十歳過ぎの頃、「人生はこんなもの」という  >半ば諦念に似たものを感じて過ごしていました^^;。  そうですかぁ、僕はどうだったのかなぁ・・・。つらつらと思い出してみると、  やたら元気で騒がしかったような・・・(^^;)。はたから見ると貧乏で、みす  ぼらしかったと思いますが、幸せだったなぁと思います。    例の四柱推命の弁を借りますと、僕は身弱で、かなりひどい命式ですから、元  気に普通の人生は難しいってな事になるのですが、それでもこうして今まで幸  せに生きて来られたのは、やはり神様、ご先祖さまのおかげって気がします。  僕は中学生くらいの頃から、毎晩お祈りする(祈る対象の神様は漠然としてい  て、はっきり認識してませんでしたけど)ような子供だったのですが、潜在的  にそうしなければいられなかったのかもしれんなぁと最近思います。    今はというと、病を得て、それなりに苦しいんだけど、それ故にわかったこと  も多くて、やっぱり神様に感謝せざるを得ないんですよね。早くこの状況から  抜け出したいという焦りがあると思うと、人並みに楽しかった20代があった  から、「もう死ぬまでこのままでもいいかな」なんて思う時もあります。まだ  まだ心がフラフラ揺れているのが情けないですけどね。(^_^)ゞ ポリポリ    20代で何をするのかなんていうのは、人それぞれだとは思うんですけど、最  近の人たちを見ていると、どうも何もしていないように見えます。まあ、大き  なお世話なんですけど、「何かしとったほうがええでぇ」って思うんですよね。    >ですから、「考えすぎ」というのは、TPOを考えないで、アクセルをふかし、  >それで余計に進まなくて、また余計にアクセルをふかしている状態なんでしょ  >うね。  そうです、そうです。KAZEさんは、多分経験がないでしょうが、僕はこの思考  の空回りに陥ることが多くて、エンジンがオーバーヒートする事があるのです。  全くバカげたことなのですが、ふかしてる最中はそれに気づかなくて、後で恥  ずかしい思いにかられます(^^;)。    >知らなくてはいけない、または知っておいたほうがいいことなのに、ある種  >の権威を鵜呑みにして、自分で責任をとれない状態に自分を置くというのは  >そこに少なからず「甘え」があるのは確かだと思うからです。  ある種の権威を鵜呑みにするくらいなら、知らないほうがましかもしれません。  自分に関わる事を知る努力は、絶対にするべきだと僕も思いますが、わからな  いものがあるのは、仕方がないですよね。「自分は知らない」ということを知  っていればよいのであって、知らないのに知ったような気になる(ある種の権  威を鵜呑みにするというのはそういう事だと思います)のは、とっても危険で  す。知る努力を怠ると、そういう危険がどんどん積み重なって行きますから、  心せねばと思います。    >完全に治ってしまう保障はありませんが、少なくとも、以前のような状態に  >戻ることはまずないのではないでしょうか。  確かに人は日々変化しているようです。逆戻りする人がいないこともないでし  ょうが、そうでないほうがずっと多いんだろうなとは思います。僕自身も、一  口にアレルギー体質といっても、子供の頃と今とではかなり違いますし、逆に  そういった変化を観察することで、良い方向に行けるのかもしれませんね(^^)。  バイオフィードバックなんて言葉が、流行ったことがありますが、フィードバ  ックできない人に進歩はないのでしょう。ボクハ、デキテイルノカナァ???    >しかし、その解消のために「鍵」を見つける作業というのは、自分以外のだ  >れもしてくれませんから、それだけに孤独な作業なんですけどね^^;。  はい、それはそうだと思います。まあ、この作業は、何もアレルギーだとか、  病気云々は関係なくて、誰しもがやらなければならないことなのでしょうけど  ね。僕は、怠け者だから、そういう機会をアレルギー体質とか病気とかで作っ  てもらって、お尻を叩かれているのかも・・・(^^;)。    >そしてそれが、アレルギー体質の人たちのところで噴火しているのだと。  ううむ、噴火ですかぁ・・・僕は火山ってわけですね(^^;)。しかし・・・人  類はなかなか「気づき」がないようで、悲しいです。もうすぐあの震災から一  年が経ちますが、世の中は何も変わっていないように見えます。イチローのC  Mじゃないですけど、「かわらなきゃ」いつまでもドカンは続くと思うんです  けどねぇ。    >そういう場ですと、やはり患者にもそれなりの認識と実践を深めることが  >求められるわけですから、結局は「神秘学塾」の趣旨と  >そう変わらないともいえますね(^^)。  暴論かもしれませんけど、それなりの認識や、実践する意欲がない人が、生き  ながらえる意味なんてないかもしれないと思うのです。だから、無明な病人は、  ほんとの意味での治癒はないでしょうし、その必要もないのかもしれません。  みのる♪さんとのやりとりで、神様を認識しない人(要するに神様に感謝でき  ない人)は、さすがの神様も手のさしのべようがないと話しましたが、病院も  同じ事だと思います。病院(多分、違う名前になるでしょうけど)はあるけど、  病人はいない・・・そういう風になれば良いですね(^^)。    >ま、ああいう番組をつくってしまうテレビ局の体質は  >どうにかならないんでしょうかね。  見る人が大勢いるから作るんでしょうが・・・(^^;)。結局は、見ている我々  (って僕は見てませんよ ネンノタメ)がバカなのですけど、それにしてもマスコミ  の責任は大きいですね。僕はもう、一極集中の「マス」のコミュニケーション  の時代は終わったと思っています。これだけ通信が発達すると、放送という概  念がもはや無意味なモノになってしまうような・・・。インターネットを例に  引くまでもなく、これからは個々人が発信する時代です。今のマスコミのてい  たらくは、多分、それにあらがう断末魔のドロドロなのでしょう(^^;)。    >ぼくは、そういうマイペースって、ほんとうにほほえましくなります(^^)。  >別に、職場で仕事の足をひっぱるわけでなし、ただじっと見守っていてあげ  >るだけでいいわけですから、それを必要な部分以外で直そうと思ったりする  >発想は避けたいものですね。しかし、隆ちゃんのところでは、ほんとうに貴  >重な人材かもしれませんね^^;。  まあ、一緒に生活していると、「ほほえましい」と思ってる場合じゃない場面  もありますが、確かに彼女は貴重な人材です。    子供が同じ事をしても、それをほほえましいと思う時と、イライラするときが  あります。もちろん、場面の違いもあるのですが、決定的に違うのは、やはり  自分の感情の在り方なんですよね。でもって、イライラするときというのは、  何見てもイライラするんです。だから、深呼吸でもして感情の回転を下げてや  らねばならないのですが、そういう事も、子供に接していて学ぶことが多くて、  ありがたいことだと思います。    >自分ではそう思ってなかったのですが、「鏡」になってくれる人がいると  >自分のことがよく見えるようになるわけです^^;。  そうそう、そういうのって、確かにありますよね(^^)。    >しかし、ああいう体質が改善されるときが果たしてくるのでしょうか。  難しいのでしょうね。僕は、やっぱり一度たたき潰すというか、全とっかえし  なくちゃだめだと思うのですが・・・それも難しいですね(^^;)。せめて、役  人の罷免権くらいは欲しいですけど、それも無理だろうなぁ。                              by 隆ちゃん - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/01/06 - 03522/03531 KHE00451 るーん スラウェシ島の地震 (14) 96/01/05 00:48  インドネシアのスラウェシ島の水力発電が、明電舎のテレビCMに なっているのをみました。  スラウェシ島といえば、スパスシフィカとの関連で、この会議室で も何度か取り上げられましたが、  年明け早々の1日午前4時5分(日本時間5時5分)に中スラウェシ 州で強い地震(マグニチュード7)があったそうです。木造住宅など数 百棟の損壊したとの情報の他は、詳しいことはわからないのですが。  1月の前半は、恒星スピカの位置に、月の昇交点(月の軌道と黄道 の交点)であるドラゴンヘッドが重なる時ですので、地震のニュース を知って、ドキッとしました。                 KHE00451 るーん 03525/03531 MHD02672 TAO フランスの核実験の背後にあるもの (14) 96/01/05 00:57  #3506「今日のNHK番組」にコメントを下さったSOUNDさん、ひょうたんさん、  はな村長、どうもでした。  ARIONが最悪の場合にと用意した新しい太陽系の件、最初に聞いた時はあま  り現実離れした話のように思えてピンと来なかったのですが、ああして見せられ  るとあまりぞっとしないものを感じますね。勿論、引っ越さないことに越したこ  とは無いのですが、フランスが何度も核実験を強行している現状を見ていると…。  そのフランスですが、あれだけ世界中から非難されてもシラク大統領は何故止め  ないのか不思議に感じていたのですが、この度「骰子」というアンダーグラウン  ド系の雑誌に「危険な話」で知られる広瀬隆氏へのインタビュー記事が載ってい  て、この中でフランスの核実験の背後関係について触れられていました。  「シラクのバックに軍需産業の大資金があるからです」  これがインタビュー記事の見出しですが、これを見た瞬間に腑に落ちるものがあ  りました。フランスは今、10パーセントを越える失業率にあえいでいますが、  フランスの経済を支えていた核兵器産業と原子力産業と軍需産業が、チェルノブ  イリ事故やベルリンの壁の崩壊で一気に苦境に追い込まれたからだ、と広瀬氏は  言います。そしてシラク大統領の父親自身が、フランスの軍需産業メーカーの重  役であり、妻もまた、フランスの核兵器開発を行った人物と親戚関係にある。  失業率を下げる為には軍需産業を民需産業に切り替えなければならないのですが、  それがうまく行っていないのがロシアとフランスだそうです。  この記事で初めて知ったのですが、日本とフランスの間で「日仏原子力協定」と  いうのが結ばれているのですね。そして広瀬氏は、フランスは「日本の原子力産  業を抱き込んで、青森県六ヶ所村を中心にプルトニウム再処理工場の建設と称し  て、日仏原子力協定というのを」結んだと指摘していますが、ここで思い出すの  は、「光よりの光」に載っていたARIONの次のコメントです。    あなたがたの知らないところで、核兵器と原子力発電用燃料とが深く関連し   ているのだ。                                    226頁    六ヶ所村の核燃料再利用システムは、再利用とは名ばかりで実はプルトニウ   ムの抽出が主な目的であることが、人々に知れるだろう。しかし、この際にも、   我と我が身だけを大切にする一部の権力者に一蹴されるだろう。                                    178頁  これはあくまでも推察に過ぎないのですが、もしフランスの核実験に、六ヶ所村  で抽出されたプルトニウムが横流しされて利用されるとしたら、我々の税金が核  実験に使われるというおぞましい構図が見えて来る訳です。  広瀬氏は、人類は核実験反対でとどまってはいけない、軍需産業を壊滅させると  ころまで進まなければ意味が無いと言います。確かにその通りで、人類が兵器を  作り続ける限り、戦争も絶えないのですから。いにしえから、より効率的な殺人  兵器の開発にいそしむのは、人間の性 サガというものなのでしょうけど…。               「骰子」1996年1月号(No.13) 発刊:アップリンク TAO 03526/03531 HQK00566 SOUND RE^2:「炎で書いた物語」第二章 (14) 96/01/05 16:07 03493へのコメント      「炎で書いた物語」    第二章 幸せってなんだっけ (その3)  FARIONのみなさま、今年もよろしくおねがいします。  ♪年のはじめのためしとて♪  今回は新年を壽ぎ、陽春にちなんでまずこの詩句からとりあげよう。     >>一〇、 陽は日と異なり 煉は漣に連なる   (光の黙示禄、詩編、2、神を恐れる者よ )より     陽はなぜ日と異なるのだろう。文字霊の面から調べてみる。  太陽の象形文字はだれもが子どもの頃、描いた 絵のように○のまわりに光を放つ形だった。 そして次第に文字の形をとると○にチョンになった。 それは、紀元前、周王朝期に流行した金文文字として 現代も印判の書体に用いられる。 やがて、ほとんどの漢字の形がまとまり 後漢の許慎が西暦九十九年に脱稿した文字の成立の由来の 説明書「説文解字」にはすでに「日」となって出ている。  すこし丸っこい形だが現代の文字とあまり違いはない。 中心のチョンを横棒にして□の中に通した「日」である。 炎は常に立つ性質を持つので火は縦の棒で示される。 そのように考えれば日は火の性質を持つので□に縦の棒でなければ おかしい。しかしその字は封印されて現在に至っている。  そのかわりに出てきたのが横棒でチョンを示した「日」である。 水は常に水平を保つので、横棒で示されるはずなので この「日」の字は水の性質を持った 太陽を示すことを表している、と考えられる。  ヒの発音に注目すれば、関連性がある文字に  「日、霊、水、冷、火、陽、氷、干」などがあり水も含まれる。  すなわち、「日」とは水素が核融合する 水性物質太陽そのものを意味している。  それゆえ、数霊的には月と同じ三(水)でしかない。  月神と同じ性質の日神。 日」はこれまで本当の意味が隠されてきた陰の文字だった。 陽」はそれに対応する正しく陽の性質を持った文字として機能している。 それが、「陽は日と異なり」という詩句の示唆するところと思われる。       ************  NHKニュースが終わって消し忘れたテレビをふっと見ると 「クイズ日本人の質問」が始まっていた。 すると、正月向けのクイズとしてだれかが、 新年の門口に張るシメ縄に下げる稲光形の 垂(シデ)の元の形が長方形の紙であることを示した。 切れ込みを入れてあの形に折り曲げてあるだけなのだ。  ぼくは全く知らなかったので驚いて辞書に当たった。 >>しめなわ=内外の境界を示し、または不浄なものがはいるのを禁ずるため >>に引き渡すなわ。特に神域神前、また神事の場や新年に門口などに張る。 >>左捻りが定式で、三筋、五筋、七筋と順次にわらの茎を捻りはなしてたれ、 >>その間々に四手をさげることもある。            (三省堂広辞林)より    こうして辞書を開くと垂を四手と書いてある。 ぼくの家には注連縄を張ってないので 垂(シデ)らしきものがある鏡餅セットに注目した。 そのシデは片面が赤く塗られていて裏表が紅白の光のように見える。  ここで関連するハロー・メッセージを探してみる。 >>94/12/21 舵取りは星を読めず、鎖は繋がれたまま‥印は紅白玉、闇の三角 >>94/07/18 金色の三角は、その中に四角い底辺を持つ…手の中の束を見よ…    ぼくたち舵取りたちが星を読まなければ鎖をほどいて出帆できない。  印は紅白玉というのがシデの紅白の光の玉であり鎖のようにも見える。 こうしてこれらのハロー・メッセージと鏡餅を対応して見比べると 上に乗せた黄色い蜜柑が太陽に見える。    ミカン=三神、とすれば三の数霊の神、月神あるいは副神系の日神 その下にシデをぶら下げる。ミカン太陽が鎖で繋がれている。 手の中の束を見よ…という不可解なことばを実行して 四手の中の束をよく見た。ちゃんと元に戻せば長方形の紙になる。 四角い底辺とは四角い紙を切って造った四手であらわされているようだ。 まさか稲光形のシデがそんな意味を含んでいようとは想像できなかった。 鏡餅を眺めると三対四対五のバランスになっている。  三のミカンの下に四手をぶら下げると赤と白の裏表の世界の光をも顕している。 鏡餅とは三四五の世界をそのままに象ったお供え物だったのだ。 鏡餅という不思議な名前の由来もあの世この世の 合わせ鏡をあらわしていることからきているらしい。 以上の考察を確かめようとして 過去ログの山から掘り出した ARION,O∴Oのこのことばを最後に掲げておきたい。    >> 『太古の人間は「水(ミ)」→「火(カ)」の神事を行っていた。何故なら ば「合わせ鏡のご神事」こそが神界を現界に映す方法だからだ。しかし、い つの頃からか人間が神の視点からの神事(「火(カ)」→「水(ミ)」)を行 い、神に取って代ろうとするようになった…。 「合わせ鏡のご神事」は、 「勝手鏡のご神事」となり、人は傲慢になり「霊(ヒ)」を二の次にするよう になった。そして当然のことながら太古から学び伝えてきた「霊(ヒ)」の力 は失われて、人間社会は「人」の潤いくつろぐ空間では無くなってしまった。  太古(イニシエ)の力(血から、地から、魂から)を蘇らせるためには、神に 取って代ろうとする神事ではなく、人間から神へと動く「「水(ミ)」→「火 (カ)」」の神事をするしか無い。                    −−−ARION,O∴O−−−』       (つづく)     ♪♪音(SOUND) ♪♪ - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 96/01/06 - 00441/00442 KHC01313 まるにちょん 短所の裏は長所(日本人の独自性) (15) 96/01/05 23:57 00437へのコメント コメント数:1 前回までは、日本人が、真の国際人になるにはどうすればいいのか、会田氏 の著書を通じて問題提起してきました。  今回は日本人の独自性についてコメントしたいと思います。  なぜなら、自らの民族的特徴を知る事は、他民族との違いをより鮮明にし、 その理解を深める助けになると思いますから。 日本人の特性としては、その単一性(一国家、一言語、一文化など)にある と言っても過言ではないでしょう。(ここではアイヌについては、考慮して居 ません)  単一であるということは、ほぼ全ての国民の行動形式が同一であり、同じ事 件に怒り、同じことで喜ぶということ、これは、価値観の多様化が言われてい る現代に於いても、根っこは変わらないのではないでしょうか。  だって、なになにがトレンディだと言えば、それに飛びつくし、例えばナタ デココがうまいといえば、みんな先を争って食べるし、どこかの誰かが「バぁ カぁモノ〜」と叫んだら、こぞってそれがおもしろいと流行語になったりする のをみると、国民性だなぁと思う訳です(^^;。(マスコミの軽薄なノリに乗せ られている面はあるにしてもね)  単一民族であることの利点は、沢山あって、  特に言語が1つ(方言はあるにしても)であることによって、国中どこにい っても意思疎通ができないということがないのが最大の利点でしょう。  その為、教育の水準も国全体に平準化することが比較的簡単であると言えま す。  また、一般的な習慣(地域の特殊儀礼を除く)や考え方はほぼ同じであり、 これまた、意思疎通が簡単ですね。  ところがこの利点、長所であると同時に、国際的には短所になりうる代物な んですねぇ。  つまり、単一であるから、簡単に他の人間も同じ事を考えている、同じ習慣 であると思い込んでしまっている。しかしながら、「世界には、右手文化圏、 左手文化圏といって、右手か左手のどちらかが神聖で、その反対は汚れている というふうにわかれている地域」があって、「日本人は、そんな習慣の違いが あるなんてことは思ってもみない」ようです。  だから、誤解を受けて、日本の習慣に準じた礼儀を尽くしたとしても、他国 の人たちをおこらせてしまう…。  さて、ここで少し話を変えます。  日本人は、いつのころから「日本人全体がひとりの日本人であるといってい いくらい、同じような感じ方、考え方をする。」ような文化的まとまりを持つ ようになってきたのでしょうか?  会田氏はこう指摘しています。    「大体原型ができたのが戦国時代です。(中略)開墾が進み、人口も増     え、手工業も広く展開した社会の発展期です。阿国歌舞伎でも知られ      るように旅芸人、商人が全国をまわり物資の交流が盛んになりました。     当時の先進地域上方の物品と風習が全国にひろまり、日本を一つのも     のにしたわけです。そのころに、日本人は全部日本人になった。」    「そして、さらに今日のように民族のコア・パーソナリティ(基本的性     格)が形成されて、ゆるぎがたいものになったのは、鎖国ということ     によってそういうふうに訓練されたわけですが、江戸時代の文化・文     政期、十九世紀であります。」  こうして培われてきた日本人としての特性=個性は、時として外国人から見 れば短所であり、進歩的文化人などの一部の日本人も短所だと指摘するものが あります、例えば、「働きすぎ」、「身内意識の強さ(よくいわれる系列)」 などが槍玉にあげられますが、実はそれは長所であるともいえると思います。    なぜなら、短所、長所はある事柄の一面をあらわす性質に過ぎないからです。  例えば、仕事の手が遅い人が居たとします。  能率面では、効率は良くありませんので短所と見えますがが、手の遅いのは 良く考え最善の方法を選択しているのだとしたら、これは物事を慎重に性格に こなすという長所でもあります。  こう言ったように、長所、短所それぞれ両面から日本人の持つ個性を見てい く必要があると思います。  次回は、もう少し長所、短所について考察し、氏の著書からの実例を引用し て日本人の個性について考察したいと思います。  では、また。                   まるにちょん、○ゝ - FARION MES(16):■特設会議室 ■ シルバーバーチを語る 96/01/06 - 223/223 GBB03425 Paper Birch ホームページ作り、楽しいですよ。 (16) 96/01/06 00:42 212へのコメント 隆さん、こんにちは。 | いたMOのとは比べると、ホームページも増えたようですし、サニーランドの | ページも進化しましたね(^^;)。僕も来年にはどこかにホームページを持とう  見ていただいたんですね。ありがとうございます。そのホームページですが、 もっともっと格好良くしようと思案中です。デザイン次第で売上げが変わった りすることもあるらしいですし。夢と期待が膨らみます(^^)。で、取りあえず 昨日、来場者数のカウンターを設置してみました。  パソ通でも、ロムだけより書き込みもしたほうが楽しいのと同じで、HPも 他人のを見るだけより、自分で作るのが断然面白いですよ(^^)。それで、自分 で作りはじめると、他人のHPを見るのも面白くなったりします。参考にもな りますし。  隆さんも作ったら教えてくださいね(^^)。 では、また。 △▼△ Paper Birch △▼△ - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/01/06 - 778/780 QZY01267 猫の手 悪魔 (19) 96/01/05 05:13 768へのコメント  「少女イブ」という  NHKで放映したものを録画したビデオを見る。  「マイライフ」という  レーナ・マリアの本を読む。  イブは生まれてきたときにエイズに感染してしまった少女。  レーナは生まれながらにして両手片足のない少女。  この二人の物語。  ノンフィクションの物語。  彼女たちはとっても特異な例ではあるでしょう。  とても不幸であるにも関わらず  恵まれていた点で、  この世界、  この世の中には  彼女たちと同じような境遇の人たち  たくさん居ること知っている。  この世界、この世の中には  彼女たち以上に健常なのに  彼女たち以上に苦しんでる人たち  たくさん居ること知っている。    ところで、  彼女たちは悪魔だろうか?  いや、  私には彼女たちこそ天使に思える。  ところが、  イブが通いたかった幼稚園で  イブが生まれたその町で  彼女とその家族は石を投げられ、  彼女とその家族は唾を吐きかけられて、  まるで悪魔のごとく扱われてた。  それはどこか遠くの話じゃない。  我が松本の町で日本で最初のエイズ患者が見つかった。  その時の周りの人々どうだった?  フィリピンからのじゃぱゆきさんたちプールに行ったときどうだった?  悲しいけれど、  切ないけれど、  私がエイズにかかったら  同じ思い味わうでしょう。  同じ悲しみ味わうでしょう。    にもかかわらず、  彼女たちは彼女たちを受け入れてくれるところを見つけて  彼女たちは彼女たちを勇気づけてくれる人たちとともに  彼女たちは彼女たちを生きることで多くの人に勇気を与え  たとえ何をもっていようとも  たとえ何をもたなくたって 「彼女たちは間違いなく天使なんだ。」  と私は思う。    先が尖って黒い尻尾をもったのが悪魔?  牙をはやして鋭い目をしたけむくじゃら、  そんなのが悪魔?    ホントだろうか?  ホントだろうか?  本当にそうなのかな?    私には  幼いイブとその家族に石を投げ唾を吐き掛けたその人達が悪魔に見える。  私には  じゃぱゆきさんたち拒むその人達が悪魔に思える。  何気なく、当たり前の顔をして 「そんなことやっちゃダメ!」そう叱る母親の顔が悪魔に見える。  エイズ患者が来たときに近くに寄るだけで  エイズが移されるかのごとく振る舞って、  両手がなくて足でお茶を飲む姿を見ただけで  嫌なものを見たかのように足早に過ぎ去る人々  ふつうの、  ごく当たり前の、  なんでもないようなその人達が  悪魔に変わるときがある。    エイズのその人と友達になるのはいい。  でももし移されてしまったら、  その恐怖が走る。  その恐怖の想いが駆け抜ける。  この今の社会では全く別の生き物として扱われ、  この今の社会では同じことしてはいけない者とされ、  もしそれが移ったら、  もしそれに付き合ってたりしてたなら  自分がその人達分けてたように  自分がその人達見下してたように  自分も分けられて、  自分も見下され、  それがやっぱり怖いから、  近づかないように、  遠巻きに巻いて、  もし向こうから近づいてくることあったなら  関わらないように払いのけ、  その人達を孤独に追いやる。    でももし私がそれに  勇気を持って一歩近づけて  他の誰もが一歩近づけて、  この私がエイズになろうとも  この私が肢体不自由になろうとも  ちょっと病気で苦しむけれど、  ちょっと不便で困るけど、  同じように生きていけると思えたならば  同じようにやっていけると思えたならば  私はそうなること怖くない。  私はそうなろうとも幸せでいられるでしょう。    私が恐怖を抱き誰かを避けるとき  私は悪魔になるでしょう。  私が誰かを見下したとき  私は悪魔に見えるでしょう。  私は嫌なものを避け、  私は嫌なものを見下して、  自分がその嫌なものになること心配して生きてるくらいなら、  嫌なものを受け入れて  その嫌なものと対等に  たとえ自分がその嫌なものになるときがあろうとも  幸せでいられるような  そんな生き方していたい。     ** QZY01267/『猫の手』 <96/01/04 11:08:09> ** 779/780 HQJ06433 たなかきょうこ はじめましてよろしくお願いします (19) 96/01/06 00:25 ☆☆☆☆はじめまして!”きょうこ”と申します。 今日ざっと読みましたが、内容が高度すぎてついて行けないな〜〜と目をぱちくりし ているところです。 このフォーラムに参加してみようと思ったのは、身近にプレアデスがいたことと、9 月に安達育朗さんの講演会を聞きに行ったりして、頭のなかでおぼろげながら理解で きた事で興味が持てそうだったからでした。 失礼な聞き方かもしれないのですが、HALさんやみれさんはどういう方なのですか? 上手な言い回しができなくてすみません。むっとされたら無視してください。   そしてプレアデスはどういう位置にあるのですか? よかったら教えてください。 780/780 QZY01267 猫の手 私はわがままだって知っている。 (19) 96/01/06 07:38  私は私が生み出す矛盾の中に苦しんで  私は私が生み出す矛盾によってあえぐ  総てに優しくありたい。  何もかもをいたわりたい。  それが私の本音。  それが私の想い。  にもかかわらず。  優しくするために厳しさが増し、  いたわるために激しさが増す。    どうでもいいよと言いながら  好きなようにやっていいよと言いながら  それを許せない私がここに居る。  こうあるべきと鉈を振る私がここに居る。  悲しいけれどそれはホント  切ないけれどそれはホント  どうしようもなく辛いこと。  優しくありたい、  何もかもに優しくありたい。  この『猫の手』と云っている『私』ばかりでない  『私』総てが心地よく生きること  それが願い。  それが希望。  にもかかわらず  私は私を責める。  もっと優しくならなければならないと責める。  もっと自由にならなければならないと責める。  優しく在る為に、  自分自身を責めたてる。  誰かを傷つけていると責めつける。  責められてしまった私は縮込まり、  非難された私は苦しみあえぎ、  結局、私は私の自由を奪い。  結局、私は私の平和を乱す。  全体主義者を批判して  自ら全体主義者に化していく。  個人主義者を批判して  自ら個人主義者に成り果てる。    いつも矛盾したことしか言えない私。  いつも矛盾したことしかできない私。  何を云おうと  何をしようと  絶対なんてモノはない。  絶対なんて物差しはない。  いつも何かのバランスとるために  私はその場、その状況で  誰かの反対に立つ。  好むと好まざるにより  反対側に立ちたくなってしまう私。  いや、将にそれが私の好み。  誰かが批判するとき  私は養護したくなって  誰かが養護するとき  私は批判したくなってしまう。  全く私はアマノジャク。    でも私の望みは、  でも私の希望は、  誰もが幸せ感じる世界。  誰もが豊かさ味わう世界。  そして誰かと反対のことをして  自ら己を孤独に陥れ  自分で自分を孤独に追い込み  そして寂しさに打ち震え、  そして孤独に耐え兼ねて、  でも反対側に立たないと  私は私の居心地悪い。  私の内側に不満が沸き上がる。    本当は誰も批判したくはないの  本当は誰も責めたくなんかないの  誰もがそのまま幸せになってくれたなら  それが一番嬉しいの  何もかもがそのまま豊かになれたなら  それが一番幸せなの。  にもかかわらず、  そう思えない現実が苦しいの  にもかかわらず、  そう思えない私が苦しいの。    誰か  この苦しんでいる私を救って欲しい。  何か  この喘いでる私を癒して欲しい。  でも私は知っている。  私は私を生きることでしか  私は私で居ることでしか  それはあり得ないって  世界の誰もが幸せでいて欲しい。  世界のなにものも幸せでいて欲しい。  それは私のエゴイズム。  それは私のわがまま。    誰が不幸であろうとも  誰が苦しんでいようとも  それでその誰かが納得していれば  それでその誰かが幸せならば  何も構いやしないのに  何もそれで十分なのに  それに満たされない想いが残るのは  それは私のエゴイズム  それは私のわがまま。    そんなこと分かっているけど、   この世界、  私が見て幸せそうじゃなきゃ  この世界、  私が幸せと感じない限り  私は幸せになれないの。  私は幸せ感じることできない。  元々私は幸せだって  元々私は十分だって  私は知っている。  元々私は幸せで、  元々私は十分だ。  そう思えば思うほど  そう思おうと思えば思うほど  この世界に不満が残る。  そこの誰かに不満が残る。  それは私のエゴイズム。  それは私のわがまま。  そんなこと分かってる。  そんなこと知っていても  そう思えてしまい、  そうせざるを得ない私がここに居る。    お節介なんか焼かなくたっていいのに  大きなお世話に関わらず、  それが分かっていながら  この世界の誰もが幸せ感じていると思えないから  この世界の何もかもが幸せ感じてるように見えないから  私は不幸なまま。  それは他人のことだから  それはひと事だから  私がそれで悩む必要ないと知っている。  にもかかわらず  私は不幸なままだから。  ないものねだりしたくなる私がここに居て  お節介になってしまう私がここに居る。    この私を救ってくれる誰かいませんか?  この私を癒してくれる何かないですか?  私は私の夢の中  私はいつ幸せ掴めるの?    でもそれは私のエゴイズムだから・・・  でもそれは私のわがままだから・・・  ** QZY01267/『猫の手』 <96/01/06 07:08:34> **