凍えた人は「招いてください」と答え、焚き火の民は困惑した - FARION MES( 1):相 談 室  ◆ パソコン&通信の話題 96/01/15 - 00199/00201 SGQ02661 龍 98からMACへのデータ移行について ( 1) 96/01/15 00:04 コメント数:1 この会議室では,初めての発言になります。 今日ここで質問したいのはデータ移行の方法と圧縮ファイルの取扱いです。 とても初歩的な質問かもしれませんがどうぞよろしくお願いします。 1 圧縮ファイルの取扱いについての質問 現在,パソコンの機種をPC98NS−TからMAC5300Cにデータ 移行を行なおうとしているんですが,MS−DOS3.3Dで動くLHA で圧縮データを持っています。これをFDでMACにコピーしてMACの LHAで解凍できるのでしょうか? (改行コードの違いは吸収されるのでしょうか?) 2 データ移行の方法についての質問 98の時はログプラウザがELPでテキストファイルを指定していたんです が,茄子Rの場合,通信LOGファイルから会議室の発言などをカットしま す。ELPのテキストファイルはすでに会議室ごとにカットされています。 これを茄子Rに読み込ませるためにはどうしたらよいのでしょうか?            SGQ02661 龍 00201/00201 HGC02325 ガッチャ RE:98からMACへのデータ移行につい て ( 1) 96/01/15 02:43 00199へのコメント  #00199 龍 さん     1の方だけしか解らないので1だけですが…(2の方はMacユーザーさん  にお願いします)。     Macの場合の圧縮/解凍は「MacLHA」(フリーソフト)を使用して、  DOSファイルとの変換は「Apple File Exchange」を使用  すれば出来ます。(これはMacOSのシステム追加ディスクにあり。)     1、FDからMacのHDにファイルをコピーする   2、そのファイルを「MacLHA」で解凍する。   3、解凍したファイルを「Apple File Exchange」で     Macファイルに変換する。     MacではCRコード(0DH)のみで改行するのですが、DOSファイルはこの部  分がCR+LF(0ADH+0AH)でないといけないのです。     AFEは、マシンを購入したときに付いてくるFDもしくはCD−ROMに  入っているはずです。KT7なら絶対に必要なものですから、必ず付いている  と思うのですが。                              HGC02325 ガッチャ - FARION MES( 2):Wellcome All ◆ 四次元喫茶 カルフール 96/01/15 - 05322/05323 GGA02514 KAZE 甘えについてあれこれ ( 2) 96/01/15 13:49 05307へのコメント まるにちょんさん、どうも。 》 でね今考えているのは、「甘え」が動き出したら、どうしたいの?と聞い 》てみることなんです。 》 そうすることによって、「甘え」の原因が見えてきて、対応の仕方も分か 》ってくるんじゃないかと考えています。 おそらく大事なのは、まずそれを「甘え」だとか「依存」だとかを ちゃんと意識化していくことなのだと思います。 で、その時点で、おっしゃるように「どうしたいの?」と聞いてあげる。 そのように、そのときに「甘え」や「依存」を ばっさり切ってしまわないほうがいいという気がします。 なぜ「甘え」や「依存」が起こってくるのかということを あせらずに見ていけば、その根底には、自分を評価してほしい、 認めてほしいんだけど、自分から主体的にする自信がない、責任をとりたくない。 たとえば、そういうことがあるように思います。 HMで、自分から焚き火に行こうとしないで 自分から行くという主体的な行為を避けながら、 自分の前に焚き火を持ってこいだとか、自分を呼べ、とかいうのがありましたが そういうことなんですよね。 でも、そこで大事なのは、そういうのをバッサリと 「それはダメだ」というのではなくて、 そういう行為は情けないことなんだという意識を持てるように、 気長に方向づけることなんだと思うわけです。 もちろん、それに気づいても、「では、焚き火にあたらせてください」と 言えるようにはなかなかならなるものではありません。 あれこれと口実を設けて、自分が責任をとらないですむようにしようとする。 でも、そこらへんで、あるとき、ふと、口実をこねまわしている自分は ほんとうは自分のしたいことを遅らせるだけなのだということに 衝撃的に気づくときがくるのではないでしょうか。 その「気づき」がくれば、あとは血を流しながらでも、 それを行動に移すことができるかどうかという決断如何になります。 もし、バッサリ、外から「そんなの甘えだ!甘えは捨てなさい」って やってしまったら、もうその人の自由はなくなってしまうことになります。 そのときの行動は「言われたからやった」以外のものではなくなってしまいます。 ぼくも、甘えや依存心は人一倍強いほうなのですが^^;、 それを否定するのではなく、そこにある「求める心」というエネルギーを使って それを自由に基づいた行動へとできたときの喜びというのは、 これは言葉にはできないものだという実感があります。 よくよく感じとってみればわかると思うのですが、 甘えや依存心は、ほんとうは「自由」を求めようとしながら、 屈折してそういう表現になってしまったものなんですよね。 ですから、その屈折を鏡に映してそれを包み込みながら、 それを自分で暖め、解凍し、それを意志にしていけば、 甘えや依存心を否定することなく それを栄養にすることができるのではないかと思うのです。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 96/01/15 - 01121/01121 PAG03543 NOISE 『日本古代歌謡の世界』 ( 3) 96/01/15 14:57 月刊『頓智』1月号で、詩人の伊藤比呂美さんが『日本古代歌謡の世界』という 雅楽の歌を収録したCDを、ジョン・ケージなどの現代音楽と共通するものがある、 と絶賛している。 気になりながらも、4枚組みで1万円という値段と、あまり好みではない雅楽物 を、試聴せずに購入することに躊躇していたが、ハズレを覚悟で注文してみた。 さすがにこの分野のCDは在庫も少ないせいか、納品まで3週間ほどかかったが、 内容は予想以上の大当たりだった。 雅楽、とくに古代歌謡は宇宙の運行とともに進行する。太陽の出から始まり、 月の出、星の出、そして次の太陽までを1サイクルとして、御神楽儀も作ら れたようである。太陽の出も入りも重要である。月も星も大切である。春夏 秋冬、雨、雪、風、嵐。みんな人間生活に必要なものである。これらを詩に し歌にして、神との会話の手段として用いたのだ。神への願い、御礼、とき にはうらみもあったかもしれない。このような人間の心を歌にしたのが古代 歌謡の始まりであろう。生きるということがむづかしかった時代に、かくも 芸術性、音楽性の高い歌謡を産みだした古代日本人の心の豊かさが偲ばれる。                 多 忠麿(おおのただまろ) CD解説より 94年11月に発売されたこのCDは、宮中に伝承される「神楽歌」、外来楽舞伝来以 前から我が国各地で行われてきた「国風歌舞・くにぶりのうたまい」、宮中の鎮 魂祭で奏される「大直日歌・おおなおびのうた」、古代歌謡・民謡を平安時代に 雅楽風に編曲した「催馬楽・さいばら」などで構成さている。 特筆すべきは、1000年以上の時を経て宮中に受けつがれてきた、神楽歌が収録さ れていること。この分野の曲は「神聖にして侵すべからず」とタブー視され、秘 楽として、口伝で代々相伝されてきたのだという。 CD1枚目から2枚目まで 150分にも及ぶ神楽歌は、宮中の鎮魂・招魂の儀式「御 神楽儀・みかぐらのぎ」に用いられたもの。 冒頭は勤仕する人々を参集させる意味合いの「縒合・よりあい」という、神楽笛 と篳篥(ひちりき)の妙なる二重奏で始まり、呪術色の濃い「阿知女作法・あじめ のさほう」、前奏曲「問籍音取・もんじゃくのねとり」の後、神迎えで唱われる 曲が続き、神遊び、そして神送りの曲で締めくくられる。 CDの解説では「阿知女作法」に「あじめのさほう」とルビをふっているが、「あ ぢめのさほう」または「あちめのさほう」のほうが正しいと思う。 伊藤比呂美さんは「阿知女作法」の歌詞、「あちめ おーおーおーおー」の「あ ちめ」を文献にあたっても不明、としているが、古伝では「あちめ」の「あ」は 「天・あめ」であり、「ち」は「地・つち」、そして「め」は「開」で「天地が 開く」となっている。「おーおーおーおー」は、いわゆる「警蹕・けいひつ」で、 人から神へ「おーい」と呼びかける「天の懸け橋」であり、また、感動・驚きの 「おーー」でもあろう。 あめつちが開き、警蹕の懸け橋を神霊が昇降する。 演奏に使われる枯れた味わいの和琴(わごん)は、古伝では神依琴(かみよりごと) とも称し、巫女の掻き鳴らす神懸かりのためのアイテムであった。 神楽歌の歌詞をひとつ  や。何(いず)れそも、停(とど)まり  や。彼(か)の崎、越えて  や。深山(みやま)の、子葛(こつつら)  や。繰(く)れ繰れ、子葛    (「や」は囃し言葉) この歌は御神楽儀の第二場、中役(神あそび)のお終いに唱われる曲で、謎かけの ような詞ではあるが、意外に単純なものが多く、神を賛美するようなものはほと んどみられない。この疑問に折口信夫は、次のように解説している。 日本の歌は直接表現している語の意味ばかりではなく、語の裏に潜んでいる 意味、つまり一つの歌をば、或考え方の比喩だといういう風に感じ慣れてい るから、それをもっと拡張して考えるためには歌の節も重要な役をするわけ です。つまりどんな歌を聴いておいても、直接の意味の外、その歌が匂わし ている意味を感ずるのです。日本の神楽には神を賛美する意味の歌詞がない ということなどを聞きますが、これは無いのが当たり前のことです。神様が 出てこられて自らする「あそび」に賛美歌があるとしたら、それはどうかし ている事でしょう。神楽という概念をそれは全く現代的な意識で考えている ことから起る疑問なのです。          『日本芸能史六講』より 神楽は賛美歌とは位相を異にする、神人感合の「神あそび」なのだ。 収録曲のほとんどは「一字多音節」で非常にゆったりとしている。そのため、母 音が鳴り響くだけで歌詞は聞き取れないほどで、これには最初戸惑った。性急な 現代的リズムに慣れすぎた耳には、あまりに間延びした声は、ちょっと辛いもの があるのは、古の人々が現代人とは異質の時間感覚を生きていた故だろうか、し かし古さは感じられない……。などと思いながらも、歌詞を追おうとせずに「響 き」として聞いているうちに、グレゴリオ聖歌を髣髴とさせるような、古代の旋 律の世界にすっかりと魅了されてしまっていた。 荘厳な地声の言霊と、霊妙な楽の音霊(おとたま)には、芸能と呪術が不可分だっ た古代の記憶が、あざやかに刻みこまれている。  『日本古代歌謡の世界』日本コロムビア 【CD番号】COCF-12111/4 ** PAG03543/NOISE ** - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/01/15 - 00533/00533 NBB01420 SUKE RE^2:デュアル・ホームシック ( 5) 96/01/15 03:32 00532へのコメント まゆみさん、九印さん、こんばんは。 私、実家の自分の部屋だったところは親父の書斎に明け渡してしまいましたの で、既に寝る場所もありませんで(^^;) 一人暮らしは寂しいものだと嘯きながらも、風邪引いたり怪我したりしても安 心出来るのはやっぱり自分の部屋ですだよ(^^;)             住めば都、暮らせばお城(^^;)…☆ッテナモンダ Suke. - FARION MES( 8):恋愛錬金術  ★ 愛と性を本音で語る 96/01/15 - 01320/01321 KFQ02761 しまうま 『性は聖なり、而るに生なり』(番外編#2) ( 8) 96/01/14 18:20 01199へのコメント  さて、とりあえず前回までで「性風俗から見た『性は聖なり』」についての 話は一区切り、ということにさせていただきたいと思います。また何かおもし ろそうなネタなどあれば、随時取り上げるつもりではあります。  そもそもこの連載は、栃木県「性神の館」の取材をきっかけに始まったもの です(そのときの様子は、連載の(1)〜(3)をご参照ください)。  この取材には、コーディネーター・みれさん、カメラマン・CHARANさん、テ ープレコーダー回し係・しまうま(^^;という布陣でのぞみました。  夕方5時頃に「性神の館」を訪れた僕たち一行を、館長さんは暖かく迎えて くださり、数多くの展示物について、性にまつわる逸話・伝承や、各地の祭り で披露されるイヤらしいポーズや腰つきの実演(^^;を交えながら、丁寧に説明 してくださいました。  CHARANさんが撮影された展示物については、まもなく順次デジタル画像とし て、データライブラリにアップされる予定だそうです。  結構きわどいモノもたくさんありますが、資料的にも美術的にもすぐれた逸 品ばかりです。皆さんどうぞお楽しみに(^^)。    しまうま(KFQ02761) - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/01/15 - 01937/01941 JBH00712 桂 桂 RE:ガラスの破片 (11) 96/01/14 21:06 01934へのコメント コメント数:1  #01934 ふぁらんどーる さん  どもども、お久しぶりです。  ふぁらんどーるさんは幼い頃には病院に入っていたのですか・・・・  僕は幸いにして体が丈夫な方でしたから、まだ入院という経験はありません。  そう、でもすぐ側にいた人がこの世からいなくなってしまうというのはひどく  寂しい気持ちがしますね。喪失感というのは、木枯らしが吹きさるような  気持ちというのか、切ないものがあります。  病院って本当に独特な匂いがあるとことですよね。  薬品と、清潔な制服と、そして病気の匂い。  病室のベッドには横たわっている気持ちってどんなものでしょうか。  天井を見上げて、そして周囲を見渡す。退院したら、きっとそんなことも  思い出の一つになりますよね。  その時そばにいた少年の事も。    ガラスのような仮面・・・・それはきっと何時の日か、ふぁらんどーるさんが自ら  外す時が来ると思いますよ。そしてそれを外せた時が、おそらく心の底から  何に対してでも、うち解け合う日なんだと思います。 桂 桂(JBH00712) 01939/01941 BYI04676 ふぁらんどーる RE^2:ガラスの… (11) 96/01/15 00:02 01937へのコメント コメント数:1  #1937 桂議長へ  あああああああああああああああああああああああああああああっ!  いやあ、アップした後あまりのおセンチさに恥ずかしくなって、削除しようかどう しようか迷ってたんですけれど、もー出来ませんね(^^;。しょーがない、腹括ってし まいましょ!(でも読む度すんごい恥ずかしーの☆ だから、議長のように真っ直ぐ なコメントを入れられると、恥ずかしさのあまり悶死してしまいそー(^^;。)  ほら、いま輪読会で「地球樹の女神」やってるじゃないですか。で、私が四騎忍が 何故これほどまでに好きなのかを、私の体験と絡めて書いてみたいなーと思って書い たんですけれど…。書いてアップした後死にそーな恥ずかしさが襲ってきて、削除し よーかやめよーかと悶えまくりの状態だったんですよねー。  ああ、コメントを付けて貰ってちょっと気持ちの踏ん切りが付いた。…けれど、や っぱりハズカシーっ☆  ああ…、やっぱりダメ。恥ずかしいったら恥ずかしいっ! 自爆してしまいそー!  しばらく書き込みやめときます。この恥ずかしさから立ち直れるまでは、当分思い 出して気が変になりそー…。                                       1996/01/14(Sun) 23:01 ふぁらんどーる (BYI04676) 01941/01941 JBH00712 桂 桂 RE^3:ガラスの… (11) 96/01/15 02:15 01939へのコメント  #01939 ふぁらんどーる さん  でへへ、そのまっすぐさが売りのぎちゃうでやんす(^o^)  いーじゃないっすか、恥ずかしくたって! オトコは何て言ったってその純情 さが売りですよ。こいつを錆つかせちゃぁ男のオの字がすたるってもんでさぁ。 だってそうでしょ、お互い白泉社本が好きだしぃ(^O^)  四騎忍もさぁ、11でソープで童貞捨てたとかカサノバみたいなこと言ってい るけどさぁ(笑)、現実にゃ、色気の有るねーちゃん目の前にしても手ぇ出さん は、美少女に言い寄られても連れないふりしてでもやるときゃやるぜぇ、なーん て侠気の見せてしまうところが、よ、この色男(^^)/なーんてテープを投げ付けて しまいたいもんですよぉ。  でもね、どんなに歳を取っても、そう、何か夢を見続けてしまうのが男の性、 いや狼の野郎どもってもんですよ。そう違いまっかなぁ〜  純情さ、可憐さ、胸に抱きしめた思い、そんなヤツをいつも小じんまりを抱き しめながら背中はじっと枯れススキってもんですぉ(おっと今は何の話をしてい るのでしったけ(^^ゞ)  そんな純粋さを滲ませて、恥ずかしがってしまうところを見てしまうと、ふぁ らんどーるさんて、男やね〜とかあっしは思ってしまいますぜ(^o^)  んーとでわでわね(^^)/ 桂 桂(JBH00712) 01938/01941 JBH00712 桂 桂 RE:想い出があざやかで (11) 96/01/14 21:06 01935へのコメント  #01935 ふぁらんどーる さん  うーん、それは僕も同感なんですよね。  ゲーテの「ファウスト」にある有名な台詞で、「時よ止まれ、お前は美しい」  って言葉があるじゃないですか。  すごーく気に入っているんですよ、この台詞が。  何か一つの生き物が獲物を待ち構えている瞬間、そう例えば狼が今にも飛び出そ  うとするあの緊張感、その連続が幾つも幾つも続く事が「生きる」ってことなん  でしょうね。  おっと自分はそんなに緊張感のある日々は送っていないけど(^^; 桂 桂(JBH00712) 01940/01941 JBH00712 桂 桂 RE:独鈷杵 (11) 96/01/15 02:15 01936へのコメント  #01936 SUKE さん  どもども、こんばんわです。  そういや美少女修羅(慣用句で「美少女」と名付けてしまう所がまたニクイです ね(^^;)と荒気のマンザイのようなやりとりにはいつも(^O^;ニャハハとしてしまいます よねぇ〜  おっとどこのシーンかは引用しませんが、そう、例えば精神病院に入る前の「ロリ コン談義(と勝手に名付けてしまおう(^^;)」とか、あるいははたまた、前巻にあり ました高級ホテルで四騎忍も交えたオカシナ会話が絶妙です(^^)  おっとそんなことを言ってSUKEさんもしかして美少女修羅ちゃんの私設応援団なん か作っていたりするんじゃないですかぁ〜同人誌なんかも一緒にあったりして(笑) (でも本当にあったら自分も入らせて下さいよ〜(^_-)ナンチャッテ) 桂 桂(JBH00712) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/01/15 - 04187/04190 GGA02514 KAZE 中道論4●断常の中道/有無の中道 (13) 96/01/14 22:10 前回は、最も有名な「不苦不楽の中道」についてお話しましたが、 これに続いて、これも仏教理解には欠かすことのできない 「断常の中道」、「有無の中道」についてお話していきたいと思います。 「不苦不楽の中道」というのはどちらかというと実践的な観点での中道ですが、 今回の「断常の中道」、「有無の中道」は、認識的な観点での中道といえます。 まず、「断常の中道」についてですが、 これは、「私はずっと続いていくのか、そうではないのか」という問いに対し 「ずっと続いていくのでもなく、またなくなってしまうのでもない」 そういう観点を提供するものです。 「断」というのは、早い話「死んだら終わり」というとらえ方で、 いわゆる唯物論の考え方はまさにこれで、 肉体がなくなれば私もいなくなる、ということです。 「無我説」というのがあるのですが、これは後世誤解されて 「私がないのだから死んだら終わりなのだ」というように短絡的に解釈され 「自我」を「実体」としてとらえそれを否定する説が立てられ、 唯物論のようなとらえかたをされる場合もあるのですが、 これは本来、あくまでも「執着・我執・とらわれ」としての自我の否定であって 本来の主体としての「自己」によって自我を否定し解放し超越するという意味で とらえられるべきだと思います。 たとえば、『ダンマパダ』には次のようにあります。   実(げ)に 自己こそが 自己の 主(あるじ) 自己こそが   自己の 依りどころ    ですから、単に「死んだら終わり」という考え方は否定されます。 それに対して、「常」というのは、 「死んでも今のこの私はこのまま存在する」というとらえ方です。 喜怒哀楽のままに生きるこの「私」がそのまま続いていく、そういうことです。 先の表現でいえば、「執着・我執・とらわれ」としての自我を 永続する「実体」として肯定することにほかなりません。 もちろん、仏教では、そうしたものは「無常」としてとらえます。 そういう無常なあり方に執着してはいけない。 「一切は空である」というのです。 「諸行無常」というのは有名ですよね。 「諸行」というのは「行」の複数で、 「行」は「形成する力」とでもいう意味です。 「無常」(アニッチャ)というのは「常住でない」、 常に変化しているということを意味しています。 ですから、「諸行無常」は「形成する力は常に変化している」ということ、 つまり、「生ずるものはすべて滅する」「生者必滅」というわけです。 だから、そういう無常−苦から離れねばならないということになります。 このように、「私」というのは「死んだら終わり」とはいえない。 しかし、また、「このままの私がずっと続いていく」ともいえない。 真実は、その「中道」にあるというわけです。 言葉をかえていえば、永遠なるものと無常なるものを見分けなければならない。 そういうことなのです。 さて、続いて「有無の中道」に関していいますと、 これは「私はあるのかないのか」「物はあるのかないのか」ということについて 「あるのでもない、ないのでもない」という観点を提供するものです。 たとえば、「私はある」というとらえ方があります。 通常は、みんな今ある自分を当然のように「ある」と思っていますし、 確かに、自分をさわってみたらちゃんとさわれるし、 こうして五感も働いているし、喜んだり悲しんだりしている自分はちゃんといる。 しかし、そうした自分はほんとうに実体としてあるのかというと、 たとえば、さわってみたら確かにあるけど、こうして五感で感じている自分は ひょっとしたらバーチャルリアリティの世界にあるのかもしれない。 また、昨日の自分と今日の自分とでは、厳密に同じだといえるだろうか、 細胞だってどんどん変化していて、10年も経たないうちに、 全身の細胞はほとんど入れ替わってしまうのだから、 10年前の自分と今とはまったく別人なのかもしれない、 いや、1分前の自分と今の自分さえ同じではない・・・ というように「私」という存在は時間とともに絶えず変化しているわけです。 厳密に、「これが私だ」とかいうように定義できはしません。 これは、物質的な観点だけではなくて、昨日の自分と今日の自分では 感じ方や考え方などの心の状態でも常に変化していますから、 「こういう心が私だ」ということも実体的にはいえません。 でも、だからといって、「私はないのだ」といってよいかというと、 私は自分のことを私だと感じているし、身心ともに、 それなりのアイデンティティを感じているわけで、 他の人も私のことをひとつの個性ある存在として認知しています。 しかし、私は無常な存在であって、常に変化のなかにあります。 これを、存在は時間とともにある、いや時間は即存在なのだというように とらえるということもできるでしょう。 別の例を挙げてみましょう。 「太平洋というのがあるのかないのか」ということに対しては、 「太平洋はたしかにこうしてある」といえますし、地図にだって記載されています。 しかし、その太平洋を見せてください、といわれて、 太平洋の水を汲んで、「はいこれが太平洋です」とはいえませんし、 太平洋に接している海岸に立って、「ほら、こうして果てしなく広がっている海が これが太平洋なのだ」と言ったとしても、それは太平洋そのものではありません。 また、地図を見せて、「ここからここまでの海を太平洋というのです」と言っても それが太平洋という実体を明確に説明しているとはいえないでしょう。 もし、太平洋をまるごとなにかに包むことができたとして、 「ほら、これが太平洋ですよ」と言ったとしても、 まったく動きのない、海流の動きもないものが太平洋といえるでしょうか。 それはもはや太平洋の抜け殻のようなものにすぎないといえないでしょうか。 また、昨日の太平洋と今日の太平洋とでは確実に変化しています。 ですから、今日の太平洋と昨日の太平洋は同じだとはいえません。 しかし、だからといって、「太平洋はない」ともいえません。 確かにそう名づけられた存在はあって、みんながそう認知していますし、 そこを通る船も人もそこに住んでいる人もたくさんいます。 ですから、太平洋を実体としてとりだしてみせることはできないけれど、 みんながそう呼んで認識している太平洋なるものは変化のなかにありながら それなりに存在しているともいえるわけです。 こうしたことは、わたしたちの身の回りにあるありとあらゆるものについても 同じことがいえます。 すべてのものはあるということもないということもできない。 すべてのものは時間の変化の相のもとにある 「無常」なものだということだできるのです。 このように、すべてのものが変化のなかにあるということを 「一切は空である」というふうにいいます。 「色即是空空即是色」の「空」です。 ここでいう「色」というのはいわゆる物質的世界のことをいいます。 このように、すべてのものはずっと続いていくのでもなく またなくなってしまうのでもない、 すべてのものはあるのでもない、またないのでもない。 このように一切のものは空であるということにおいて 認識上の「中道」ということが非常に重要な観点として提示されるわけです。 では、次回は、仏教的な中道論においてはその核にもなっている 天台大師の「三諦円融」の考え方をみてみることにします。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04190/04190 GGD03030 《 隆 》 欠席届 (13) 96/01/15 11:01 04179へのコメント  え〜と、お尻に火がついてしまって、経済的にノホホンとしてられなくなっち  ゃいました(^^;)。    そんなわけで、しばらく(多分今月いっぱいくらい)書き込み出来なくなると  思います(ROMはしてます)。    別に、だからどうだと言われると・・・どうってことはないのですが、とりあ  えずのご報告です。                              by 隆ちゃん - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/01/15 - 03570/03571 KFQ02761 しまうま RE^2:「炎で書いた物語」第二章 (14) 96/01/14 15:19 03557へのコメント #03557 SOUNDさん  こんにちは〜(^^)。いつも非常に興味深く読ませていただいていますm(__)m。  今回のご発言の中で、僕がいちばん興味を覚えたのは、この部分でした。 :百鬼夜行とは足りなかった数、一(スメラ、カイ)を加えて完全な鬼(カミ)の力をふ るい:夜=八、末広がり八のの世開けの仕事を行うという意味と読める。  うーむ、なるほど! いつもながら、本当に鋭いご考察に脱帽です。  それで、実は1つお尋ねしたいことがあるのですが……。  「一(スメラ、カイ)」という部分についてですが、これは「一はスメラで ありカイである」という意味でしょうか? だとすれば、その根拠はどういっ たあたりにあるのでしょうか。  実は僕も少し考えていることがありまして、もし「一」=「スメラ」=「カ イ」であるとしたら、僕にとってもものすごく重要なお話になるのです。  勝手なお願いですみません。大変お手数ですが、どうぞよろしくご教示くだ さいませm(__)m。  ではでは、お話の続きもとっても楽しみにしております(^^)。   しまうま(KFQ02761) 03571/03571 GBA01052 CHARAN ちょっと気になる話 (14) 96/01/14 23:12 東京新聞の「薬膳ブーム」なる特集の中に、 ある東京の薬膳レストランの話が紹介されていたのだが、 「中国から招いた薬膳専門家が5年間で約8000人の脈をとり、 日本人の特徴的な体調を『腎臓の機能が弱まっている人が多く、 気血(血液の活力)が不足している』と判断、・・・」 ということでした。 なんとなく気になるので、書いときます。ではでは。 - FARION MES(18):武道とは?  ★ 自分に勝つ! 96/01/15 - 02831/02833 HGE01437 鷹 RE:RE^2:リズムと間 (18) 96/01/14 18:36 02804へのコメント  #2804 アマデウスさん   RESが遅くなって、申し訳ありません。   至って簡単に「自分を無にする」などと書いてしまったのですが、確かに難しい  ことですよね。まず、どういう状態が「自分が無」である事なのか分からないと、  想像すらしに難いですから。   かく言う私も、な〜んとなく「こんな感じかな」と捉らえているに過ぎませんの  で、巧く説明できるかどうか分かりませんが・・・。   アマデウスさんは、競泳をなさっていたとのことですが、スタート台(と言うの  だろうか)に立って、スタートの合図を待つまでの間、どの様な心境でしたでしょ  うか。おそらく、「今か、今か」と待っている時より、体中に緊張を漲らせて「一  触即発」の様な状態で、ただ静かに待っている時の方がよいスタートが切れたので  はないかと思うのですが。   その時の状態と言うのは、何を見るでもなく、何を聞くでもなくという感じでは  なかろうかと思います。たぶん、無意識による自然な反射運動を邪魔しないように  しているのではないでしょうか。   その反射運動が最良の状態で行なわれるよう、日頃の練習を重ねる分けですよね。  反射とは言ってもそう単純な物ではなく、例えば、台の濡れ具合に因っては足の滑  り具合が毎回違うだろうし、水面までの高さによっては飛込む角度が違うでしょう  から。とっ、これは「慎重なる瞬発力」の話に繋がりますね。   以前書いた事について、ちょっと注釈を付けたいのですが、   先に揚げた「議論中に相手の間を突く」という例は不適切だったのではないかと  今さら思っております。あれは、ワーワーうるさく文句等を言ってくる相手を取合  えず黙らせる為には有効ですが、お互いに理解し合おうとする議論の場合、ちょっ  と無理があるかと思いまして。   最後に、ドンファンの言う「内的対話を止める」は、正に「自分を無にする」と  通じるところがあると思います。   「内的対話を止める方法」と剣道で言う「八方目」は非常に近いのではないかと  思うんですよ。目に写る全ての物を同時に、しかも等価に見る。全て見ていて、し  かも、どれも見ていない。そういう状態を自分の中に作るんです。   最初は結構意識しないとその状態を保てないのですが、慣れてくると自然にそう  なったりします。これは、やってみると色々発見がありますので、トライしてみる  と良いかと思います。コツは、初めの内は目に写る全てを同時に意識すると言うこ  とです。この「意識」というのは後々変化してきますが。   あっ、それから「禅」の話ですが、私もよく解らないのですが、ちょっと齧った  ところによると、想念を出すが侭にしておいて、相手にしないといいそうです。   私が行った禅寺の坊さんはそう言ってました。私もその方がいいような気がしま  す。                                     鷹